天安門事件30周年――真相究明はどこまで進んだのかyabuki/2019/2019.6.26.天安門事件.pdf2019/06/26...
TRANSCRIPT
-
矢吹晋 1
『アジア記者クラブ通信』320 号 2019 年 9 月号
■6月定例会リポート(2019 年 6 月 26 日)
天安門事件30周年――真相究明はどこまで進んだのか
矢吹晋(横浜市立大学名誉教授)
民主化を叫ぶ学生らが中国当局に武力弾圧され、死者も出た天安門事件の発生から 6 月 4
日で 30 年の節目を迎えた。この事件は日中国交樹立(1972 年)以来続いていた日中友好
ムードに冷や水をかけ、対中好感度を急降下させた。元学生リーダーや犠牲者の遺族らも
真相解明と責任追及を求める声を上げ続ける中、学生運動を「反革命暴乱」と規定した李
鵬元首相が 7 月に死去し、事件の記憶はさらに薄れかねない。謎の一つとされてきたのが、
政権側の認定と一部の推論で差がみられる犠牲者数と人民解放軍兵士の死傷者数の多さ。6
月 9 日のNHKスペシャル『天安門事件 運命を決めた 50 日』では、これまでの犠牲者数
への拘泥や鄧小平発言の真贋に関わる検証が曖昧なまま放映されるなど問題点が少なくな
かった。あの日、広場とその周辺で何があったのか。発生当初から丹念に情報を集め、『天
安門事件の真相』(蒼蒼社・上下巻)などの著作も多数ある横浜市立大名誉教授の矢吹晋さ
んに、NHKスペシャルの問題点も踏まえて実相を語っていただいた。(編集部)
■事件直後から始めた原始資料収集と分析作業
天安門事件に関わる最後のスピーチになると思いますので、私の遺言だと思って聞いて
ください。私は仲間たち(横浜国大村田忠禧さん、農林省のお役人だった白石和良さんで、
北京大使館に農務官として駐在。天安門事件当時はもう帰国していたのですけれど、この 3
人、それに蒼蒼社社主・中村公省さんとの合作で数冊の本を作りました。具体的には『チ
ャイナ・クライシス 重要文献』(蒼蒼社)は、胡耀邦の追悼デモが始まってから、それか
ら運動の展開をフォローした第二巻に続いて、武力鎮圧の第三巻と計 3 冊です。これらは
ビラや声明を集めた資料集ですが、その後、事件を分析した『天安門事件の真相』(上下 2
巻)を作り、村田忠禧さんは『天安門事件日誌(クロノロジー)』をつくりました。さらに、
アムネスティおよびアジア・ウォッチ編集の『中国における人権侵害』も訳しました。
-
矢吹晋 2
学生のビラは特に丹念に集めた。当時、私の自宅にファクスを据えつけまして、いろい
ろな友人(記者とか大使館員、留学生その他)いろいろな人が北京にいましたから、彼らに頼
んで北京の街頭で入手してもらったわけです。もっぱら私のところにファクスで送るため
に毎日ビラを集めて下さるような熱心な人もいたおかげで、相当集まった。同時に、学生
のビラだけじゃダメですから、政府の声明や対応もなるべく細かく採録しました。そうい
う形で資料集 3 冊を作りました。これだけ整った資料集は類例なし、と自負しています。
もちろん、後からいろいろな資料を整理することは可能です。これは同時進行的に、
contemporary に資料を集めたものです。
繰り返しますが、『クライシス』3 冊は基本的に日時順に並べたクロノロジーで、ビラが
出たらすぐ、そのビラは誰が書いたもので、どういうことが書いてあるかを分析したもの
です。資料篇だけだとやはり全体像がつかめないというので、『天安門事件の真相』という
ことで、全体像を分析した上・下巻を書いた。最初は 1 冊の本にまとめようと思っていた
のですけれど、私が天安門事件の政治過程と軍事鎮圧過程、その両方を書いているうちに
1冊になってしまったので、これは私が一人で書きました。そうすると、一緒に仕事をし
ていた村田さんと白石さんはやはり書きたいですから、この 2 人が中心になり、下巻を書
きました。
もう一つ、翻訳もやりました。それはロビン・マンローという、人権団体『アジア・ウ
ォッチ』の活動家が最後まで広場に残って観察・監視していた。勇気ある彼が非常にいい
記録を残してくれたので、私が訳して『真相・下』に収めました。
それでだいたい終わりなのですが、村田さんはパソコンを使うのが得意なので、アクセ
スというソフトをうまく使って、『チャイナ・クライシス「動乱』日誌』(蒼蒼社)という
ことで、非常に細かいクロノロジーを作りました。何時いつ、誰がどういうものを出した
かということが日付順に書いてあります。その時、私はあまりそう思わなかったのですが、
数年後、私が北京で聞いた話ですが、北京の元活動家たちが一番よく読んでくれたのが、
この日誌でした。
というのは、彼らはデモを中心として、さまざまな分野で動いていたけれど、最前線の
活動家たちも、時に事件の前後関係がよくわからなくなる。たとえば、誰かがあるビラを
書いて、それを読んでこうしたのだとか。劉曉波たちのハンストの行動を知ったのはいつ
-
矢吹晋 3
だったのかとか、メモをとっている人はわかるでしょうけれど、全員がそうではない。私
自身、「自分たちの当時の行動が矢吹さんたちの本でよくわかった。自分たちの頭を整理す
るのに非常に役立った」という風に言われて、いろいろな読まれ方があるのだなと驚いた
ことがあります。彼が言及したのは特に「村田クロノロジー」です。
さらにアムネスティが当時、当時のわかる範囲ですけれど、犠牲者や逮捕された人たち
のリストを作ったので、それも翻訳しました。これは私と明治大学を今年定年になった福
本勝清さんが共訳しました。その 1 年後なのですが、天安門事件の後、江沢民・李鵬政権
に対して改革派の方から反発があって権力闘争になった。そういう中で私自身がそれに巻
き込まれる事件があり、その経過をまとめたものが『保守派 VS 改革派』(1991.11)です。
-
矢吹晋 4
捏造対談事件のもとになったのは、1990 年 8 月、夏休み中の雑談(聊天)です。
■捏造対談事件の真相
90 年 8 月、私は夏休みを利用して、北京に 1 ヶ月滞在し、1 年前の事件経過を検証した。
当時大使館にいた笠原直樹武官(陸上防衛駐在官)と一緒に、どこで衝突が起こったかを
丸々一日、彼のマイカーで衝突地点を検分した。その実地検分に先立ち彼といろいろな議
論をして、我々クライシスグループの資料ではこうだと言うと、彼は全然知らなかったり
する。あるいは我々が知らない情報を笠原武官はアメリカ・イギリス大使館あたりから聞
いて知っていた。そういう意見交換もやり、それらを踏まえて、『真相』に書いたことを点
検するとともに、『保守派と改革派----中国の権力闘争』をまとめた次第です。
-
矢吹晋 5
私自身が巻き込まれた事件というのは、その夏に何新という保守派の「筆杆子」(権力の
御用もの書き)による対談捏造事件です。李鵬首相の下にイデオロギー担当の憎まれ役・
袁木という幹部がいて、袁木の代理人みたいな調子で彼は書きまくっていた。私は共同通
信記者の紹介で、彼と雑談(あるいは、意見交換)しただけです。彼は録音機も持っていなか
ったし、メモをとることもなかった。ところが、半年後の 12 月21日、彼は『人民日報』
第 1 面の 4 分の 1、第 2~3面の全ページ掲載という、「何新・矢吹対談録」を発表した。
その対談録は『人民日報』では私の実名でなく「S教授」となったのは、私の抗議の結果
-
矢吹晋 6
です。
この捏造対談録は最初、『北京週報』(90 年 11 月 20 日号、11 月 27 日号、12 月 4 日号)
に 3 週連載された。それは「矢吹晋との対談録」として、私の実名で出ている。そこで私
は抗議をした。そんな発言を私はしていないし、そんな内容を私の意見だと言われるのは
困るのだということで、東京の中国大使館と『北京週報』社と『人民日報』社にそれぞれ
抗議をした。そのへんのことは『保守派 vs 改革派』に全部書いてあります。
いずれにしても、私が保守派の言説を支持するという風な形でモノを言ったという風に
宣伝されているけれど、「私の立場は全然違う」と見解を明らかにした。しかしながら、日
本のメディアは私が抗議した事実を一切無視し、一言も報道しなかった。ところが「捨て
る神あれば、拾う神あり」。香港のメディア人は非常にたくさん書いてくれました。香港の
ほとんどすべての新聞、雑誌が「この対談は偽物である。矢吹は抗議している」と書いて
くれました。どの雑誌にどう書かれたかは、この本に掲載紙誌とタイトルがリストアップ
してあります。
日中国交正常化以後、『人民日報』で一番大きくコラム・スペースで紹介されたのは田中
角栄首相です。それよりも私の対談録の紙幅が大きい。『人民日報』の第 1 面の 4 分の 1(海
外版は 3 分の 1)、第 2 面と第 3 面の全ページですから、とんでもないスペースです。悪童
たちが私をからかって、「矢吹は抗議せずに、実名がそのまま出ていたら大変な有名人にな
ったはず」とも言われましたけれど、冗談じゃない。そんなことになったら私の研究者生
命は終わりです。江沢民・李鵬政権を擁護する御用文化人扱いとは、人をなめるにもいい
-
矢吹晋 7
かげんにしてくれという気分でした。
■反中国世論操作の契機になった天安門事件の流血イメージ
私としては天安門事件の原始資料は全部集めた。分析も済んだから。これでおしまいだ
という風に考えていたのですけれど、私、たち、、
の本はほとんど読まれなかった、、、、、、、、、、、、、、
ということが
後日わかりました。その直接的結果というわけではないのですが、資料集を出した蒼蒼社
-
矢吹晋 8
という本屋は今年いよいよ店じまいです。つぶれたわけです。私たちと一緒に売れない本
ばかり作っていたから、つぶれる。そういう形で、日本でまともな中国論は消えようとし
ているということです。逆に、そうじゃない本、中国崩壊論や脅威論は続々と出版され、
店頭に溢れている。中国嫌い病、韓国嫌い病が蔓延して、隣国の実状を直視できなくなっ
ているのが日本の病状です。
天安門事件をきっかけに、中国のネガティブなイメージを拡大再生産する虚像作りを 30
年やってきた間に、日中関係に何が起こったか。日本は「中国の姿を正しく認識すること」
ができなくなり、逆に「日本沈没への非常に大きなステップになった」と私は分析してい
ます。たとえば総理府の世論調査を見ればわかるのですが、田中正常化からずっと、7~8
割は中国に好意・親近感を持つ人がいた。ところが、天安門事件をきっかけに親近感を持
つ人がガクッと減り、反感派・親近感を持たない人が増えた。その後ずっときて、江沢民
訪日あたりで「中国はひどい国だ」というキャンペーンがかなり成功して、中国のイメー
ジはいよいよ悪くなる。そして今日のように、1~2 割しか親近感を持たなくなった。
これは私に言わせると「作られた世論」ですけれど、その世論操作の契機になったのが
天安門事件の流血イメージだということです。この 30 年間、ワンパターンの報道が繰り返
され、日本人の脳に刷り込まれた。この 30 年の日中関係を回顧して一番思うのはそのこと
です。日本世論は洗脳され、中国を直視できなくなった。その結果、日本経済の沈没が加
速した。「5G」の問題では、もう「周回り遅れの日本」と私は言っているのですけれど、5
-
矢吹晋 9
Gの普及では完ぺきにワンサイクル遅れています。遅れた事実さえ日本人は気づいていな
い(国際善隣協会における矢吹講演録「周回り遅れの日本 5G 報道」をご参照ください
http://www.kokusaizenrin.com/2019/yabuki.pdf)。
「日本沈没」という悲観的展望について、今月の明治大学の六四シンポジウムではもっ
とはっきり言ったのですが、「あと 10 年もたったら、日本の一流企業はほとんどが買収さ
れて、中国企業の子会社になるのではないか」。そう事態さえ私は予想しています。
■権力を党中央に集中して経済的勃興を実現
では天安門事件後、中国はどうなったか。あの事件を「負の教訓」として中南海の指導
者たちは、非常によく考えた。問題の核心は何かというと、権力の中枢が割れたこと。あ
の時には「趙紫陽総書記を中心とする改革派」と「李鵬を中心とする保守派=改革にブレ
ーキをかけるグループ」の衝突という形で、政治の混乱があそこまでいった。「分裂と対立
を防ぐ」ために党の指導部は一本化しなければいけないという形で、強引に党指導部を一
本化させた。具体的には、それまでは「党」と「政(行政)」の分離(党政分離)を政治改革の
目標として動いていたけれど、「党が一元的に指導する」、権力を党中央に集中して安定優
先が第一、政治安定下での大胆な市場経済化を断行した。その結果、今日のような経済的
勃興に成功したわけです。それが天安門事件以後の中国の姿です。
ただ、中国がそのような形で経済的に復興したことを客観的に伝える報道は非常に少な
く、「自由民主主義という価値観を共有しない中国」は、「経済的に成功するはずがない」
という思い込みを繰り返し、中国の経済的成功を認めなかった。「バブル崩壊は近い」と言
い続けてきた。最近でも、いま中国は 6%成長と言っているのですけれど、「その統計はウ
ソで、実はマイナス成長だ」と公然と言う論者が、依然として健在です。どういう人かと
いうと、「日経ビジネス」の元編集長をやった人です。ですから、こういう社内世論が跋扈
する『日本経済新聞』がどれぐらいひどいかということを、後で具体的にお話します。
中国はそういう風圧、国際的封じ込めに耐えてきた。それが鄧小平の「韜光養晦」とい
う 4 文字です。ソ連がつぶれたこともあり、我が中国が世界中の風圧を受けては、改革開
放は成功しない。低姿勢でソ連崩壊の嵐をやり過ごそうというのが鄧小平柔軟戦略でした。
■政治改革に先走ったロシアの窮状を知った中国人
では、ソ連崩壊後、世界はどうなったか。中国から見て非常に大きかったのは、ペレス
トロイカ以後のロシアの経済的低迷、マフィア経済の横行です。
天安門事件の直接的原因は、天安門広場に人々が集まったことです。なぜかというと、
ゴルバチョフが 30 年ぶりに北京を訪れ、鄧小平との間で中ソ和解の交渉をやる。それを目
指して世界中のテレビカメラが集まっていた。テレビカメラは準備がありますから、予定
されていた会談日の 1 ヶ月前に来て準備を始めた。そうしたら、学生は「胡耀邦追悼」と
いう形でデモを始めた。そのデモを世界各国のテレビチームが放映した。それはもちろん
外国に伝わりますし、また中国国内にも伝わる。そういう形で「広場のデモ」が膨れ上が
った。最初は「胡耀邦追悼」という小さなデモだったのが、メディアを通じてどんどん膨
http://www.kokusaizenrin.com/2019/yabuki.pdf
-
矢吹晋 10
れ上がり、最終的には「100 万人デモ」になった。
広場の主題は、中ソ和解でした。中国の学生たちは「ゴルバチョフさん、こんにちは。
ペレストロイカ歓迎」という横断幕を掲げてゴルバチョフを歓迎した。鄧小平はペレスト
ロイカのような思い切った政治改革をやらない。市場経済化はやろうとしているけれど、
ペレストロイカ、政治改革をやらない鄧小平は困る。そういうのが学生の意見でした。
ところが、「ペレストロイカ以後のロシア」がどうなったか。ご承知の通り、ソ連は解体
した。政治的には、共産党の支配体制が吹っ飛び自由になったけれど、経済的にはかえっ
て貧しくなった。ルーブルの価値が安くなった。中国人がどこで「ルーブルの弱さ」を知
ったかというと、非常に多くのロシア人のホステスたちが出稼ぎ目的で、中国のナイトク
ラブやカラオケバーに流れてくる。広東省のカラオケバーにまで流れてくるに及んで、ソ
連崩壊の現実を中国人は実感した。広東地方にまでホステスが流れてくるに及んで、ロシ
アの経済困難、庶民生活の窮状がよくわかった。その後、ロシアはマフィア経済が君臨し
ている。エネルギー価格が高い時期には、それで食いつなぐけれども、ウクライナ問題で
ヨーロッパがガス禁輸を行い、ロシアは依然復興へのメドが立たない。
そういったロシアの現実を中国の人は身近に知っている。ゴルバチョフ以後、国境の緊
張はなくなり、中国からは市場経済化で作った、たくさんの衣類、雑貨、そして IT 製品に
至るまで、担ぎ屋が持って行く。そういう国境貿易は旺盛です。それを通じて中国の人た
ちは、「民主化・ペレストロイカも建前はいいけれど、あんな貧乏になるのは嫌だ」。「やは
り中国の現実主義の方がいい」と判断した。要するに「反面教師としてのゴルバチョフ」、
この要素が非常に大きいと思います。
■生活の安定を優先させた「政経分離」路線が成功
もう一つ、天安門事件当時は、「アメリカン・ドリーム」と言いますか、「アメリカには
自由と民主主義があり、個人が自分の能力を発揮していい仕事ができる」、「才能を発揮す
れば金持ちになれるというアメリカン・ドリーム」が広く伝えられていた。CCTV(中
央電視台)もそういう物語(「河殤」というタイトルのシリーズ物)を連続放映した。西側は、
それまで中国当局が宣伝してきたような「悪い帝国主義」ではなく、むしろ「自由と民主
主義を謳歌するまともな資本主義経済なのだ」。そういう認識のもとに、CCTVは「米国
の夢キャンペーン」をやった。アメリカだけでなく日本やヨーロッパの資本主義も素晴ら
しい、そういうイメージが改革開放初期のものでした。
ところが、2008 年リーマン・ショックが起こってみると、失業者が吐き出され、その人
たちがウォールストリートに座り込んで 1 ヶ月以上もデモをやるとか、他方で所得格差が
拡大して「世界中の富の半分を三十何人の富豪が独占している」等々、これはフランスの
経済学者ピケティの分析が有名ですが、そういう資本主義観が入ってくると、西側に対す
る期待はほとんど消えていく。逆に中国の方は、たしかに政治的抑圧という不自由な面は
あるけれど、生活は着実によくなっている。「職探しならば、やはり中国だ」という時代に
なりました。
-
矢吹晋 11
中国国内の変化が大きいのです。天安門事件当時は、共産党独裁のような政治体制の下
で市場経済はうまくいかないだろうという見方が圧倒的だった。しかし、政治的には秩序
維持、安定優先だけれど、市場経済は何でも許される、という「政経分離」路線がうまく
いったということです。
■天安門広場の真実
ここから天安門広場の話です。「広場の真実」、これは私たちの分析あるいはその他にも
いろいろあり、これで十分だと思ったけれど、そうでなかった。たとえば、有名なのはウ
ルケシ(中国語発音はウアルカイシ)というウイグル族幹部の二代目の言行です。彼は「広場
で流血があった」と繰り返し語ったけれど、彼は「広場の最後を見ていない」のです。彼
は演説していたところ、突然発作が起きて病院に担ぎ込まれたので、広場の最後を見てい
ない。柴玲(チャイ・リン)という女子学生ターダーも鎮圧当時は「広場にいなかった」。
これに対して、「劉暁波ら、いわゆる四君子」が戒厳部隊と無血撤退の交渉を行ったので
す。侯徳健というシンガー・ソングライターと周舵、この 2 人が戒厳部隊指揮官と交渉し
た。この時、彼らは学生代表も連れて行きたかった。柴玲は当時、広場の総指揮という任
にあったので彼女を連れて行き、交渉することを考えたけれど、彼女は交渉参加を拒否し
た。最後まで戦うと言って、交渉を拒否したのですが、無血撤退の交渉が成立して交渉団
が戻ったら、彼女はすでに広場を去っていた。ですから彼女は「無血撤退の事実」を知ら
ない。しかし、事後に香港に出て「広場の血の海」を語ったのは彼女です。『朝日新聞』は、
その柴玲の演説を 6 月 5 日の朝刊に掲げた。実は朝日のカメラマンと記者都合 2 名は広場
に残り、撤退の現場を見届けたにもかかわらず、その記者の発言は、『朝日本紙』には載せ
ていない。しかしながら、それは『朝日人』(一九八九年八月号、朝日社報、別冊三四六号)
に載せている。
核心的証言は、劉暁波発言です。劉暁波はこう言っています。「私は戒厳部隊が群集に向
けて発砲するのは見ていない。彼らが発砲したのは空に向けてか、人民英雄記念碑に設置
された拡声器スピーカーに向けてだけであった。私は一人の死者も見なかったし、広場で
流血が川をなした(柴玲発言)などということは見ていない」。劉暁波はこの証言を行った 89
年 9 月 19 日当時、彼は逮捕されていた。彼は広場から逃げなかった。劉暁波はこのように
断言したのを聞いて、我々クライシス編者グループは「劉暁波がそう言っているから、こ
れは一番確かである」と判断した次第です。
劉暁波は実は、広場デモが起こる前からコロンビア大学にいた。「衝突が起こりそうだ、
流血は避けたい」というので、急きょ帰国した。広場の人民記念碑のところで、衝突回避
を呼びかけて、ハンストを始めた。戒厳部隊に広場を包囲されて、衝突か、衝突回避か、
ぎりぎりになった時点で、学生たちに呼びかけて武器を回収して「破棄」させたのです。
学生側が 1 発でも撃ったら、戒厳部隊が撃つことは目に見えている。劉暁波は必死に「武
装解除」を説き、その上で仲間の二人を指名して戒厳部隊との交渉に行かせた。劉暁波の
「非暴力思想」は徹底していて、彼は「言行一致」をまさにここで実行して見せた英雄で
-
矢吹晋 12
した。
当時、我々は広場を注視していたので、事態の動きがわかったのです。しかし、流血の
犠牲となった遺族の母親たちからすると、劉暁波の(政府に味方したかに見える)態度はまる
で納得できない。自分たちの家族が広場とは別の場所で殺されている時に、劉暁波が「広
場では解放軍は鉄砲を撃っていない」と言うのは、敵(政府)に味方するものだということで、
劉暁波と『天安門の母たち』との間では相当、感情のしこりがあった。しかし、劉暁波は
一貫していますから、何回かしゃべっているうちに犠牲者の母たちは、劉暁波の立場を納
得した。
この和解プロセスは、当時『読売新聞』北京支局長で、その後に北大や桜美林大教授を
歴任した高井潔司記者が、『メディア展望』(新聞通信調査会)に細かく書いています。劉
暁波と天安門の母たちとの間でどういうやり取りがあったのかは、高井検証に明らかです。
その検証が書かれたのは 4 年前ですが、これもほとんど読まれていない。少なくとも、今
年「天安門事件 30 周年」ということでいろいろなメディアが論評したのですが、その関係
者は誰一人読んでいない。虐殺幻想に矛盾するものは一切読みたくない、無視する。これ
が現実の姿です。
もう一人、ロビン・マンローというアメリカ人の話をします。彼は『Asia Watch アジア・
ウォッチ』という人権擁護団体の活動家です。天安門で犠牲者が出るのは困るということ
で、人権監視の立場から広場に最後まで残っていた。最後に「天安門広場の最後の光景」
という分析・証言を書きました。彼は事件の 1 週間後に国外追放に遭い、アメリカに帰国
しました。私は 1990 年の秋に東京で彼と会い、広場の最後はどういう状況だったかを直接
ヒアリングしました。この論文の他に、もうちょっと長い論文も書いています。それは私
が『天安門事件の真相』に訳したものの 1 つです。それから季新国と顧本喜というのは、
38 軍戒厳部隊側の将校で、劉暁波側の交渉団と直接交渉した指揮官です。
こういう交渉の経過は非常に重要だと思うのですけれど、結局、日本のメディアは一切、
訂正していない。アメリカのABCテレビは「ABCの取材チームの過去のビデオ」を分
析して「広場での虐殺はなかった」と 1989 年の 6 月時点、1ヶ月内に検証をやっています。
もし日本のテレビが誠実ならば、中国側が何度か繰り返し「三百何人しか死んでいない」
と発言していますから、そういう時に検証できたはずです。劉暁波や侯徳健の証言が発表
された時期。あるいは我々の分析が出版された時期。最後に天安門事件 1 周年の 90 年 6 月。
こういう機会に、誤報訂正の機会はいくつもありましたが、日本のメディアは一切やって
いない。NHKは 1993 年 6 月 15 日、『クローズアップ現代』でスペインテレビの録画を基
に検証をやっています。スペインテレビ取材チームは広場に最後まで残っていた。「その録
画によると、死者はいなかった」という検証をやっています。
■1993 年のクロ現の検証を無視した NHK スペシャル
ところで、そのNHKが今年の天安門事件特集で、事件から 32 年後に、その検証を試み
たにも関わらず、93 年時点での検証を無視した番組を作っています。2019 年の N スペ報
-
矢吹晋 13
道では、「93 年の検証」から後退しています。私は、NHKが 93 年 6 月に、89 年誤報を訂
正した時、『国際貿易』という業界紙に、「これはNHKの検証通りだ」、「NHKがこうい
う検証をやったのはいいけれど、ただし、事件から 4 年では遅すぎる。こういう大事な検
証をなぜ 1 年以内にできなかったのか」。とクレームをつけたことを記憶しています。繰り
返します。事件 4 年後にはここまで検証したのに、2019 年 N スペはそれを無視している。
スペインテレビチームは、撤退過程を最後まで全部撮っていた。ところが、そのテレビ
画像をわざと分断し、前後関係をわからないようにして帰国する旅行者に託した。税関で
万一押収されたらまずい。断片的なものだったら、途中で一部を抜かれても全部取られる
ことはないだろうと考えて、わざと一連の録画を分断して本国に届けた。その結果、スペ
インテレビ本社は、分割ビデオを見ても前後関係がわからなくなった。
■ジューホー(救火車)を「銃砲」と騒いだ今枝弘一
一番悪いのはBBCのジョン・シンプソン記者です。彼は『天安門広場の虐殺』という
自称スクープを「北京飯店から実況中継した」。北京飯店から広場の姿は、絶対に見えない。
「見えない場所からの実況中継」が全世界を駆け巡り、虐殺情報の定番になってしまった。
シンプソン記者は天安門事件を北京から報道し、その後は「ベルリンの壁崩壊」をベル
リンから報じ、ルーマニアの「チャウシェスク処刑」も現場中継をやった。「世界が変わっ
た 89 年の 3 大事件」をすべて現場報道したということで、著名ですけれど、少なくとも天
安門広場に関しては虚偽報道です。この虚偽報道の定番に合わせて、スペインテレビの画
像は用いられ、虚偽を裏付ける画像として用いられたと関係者は後日証言しています。
日本では今枝弘一というフリー写真家がいるのですけれど、彼の責任も非常に大きい。
彼は中国語が全然できない。現場に最後まで残った勇気は買うのですが、わけがわからな
い。「ジューホー、ジューホー、救火(車)、救火(車)」と叫んでいるのを「銃砲、銃砲」と騒
いでいたとテレビで語る始末です。これはほとんど漫画です。「救急車、救急車」と中国語
が飛び交うのを日本語の「銃砲」と聞き違えている。何ですか。こういうバカみたいな誤
解がテレビで平然と、繰り返し報道されていた。「銃砲」という日本語と中国語の「救火車」
を取り違えるような人が、どういう取材をできるのかということを私は何度も書きました。
広場に残ったのは、ほかにフリージャーナリストのリチャード・ネイションズ記者はC
BSで、非常にいいレポートを書きました。人権擁護活動家ロビン・マンローとペアです。
ケネス・バーグというのは香港のフリーランサー。広場に最後まで残った証言者の固有名
詞は、ロビン・マンローが自分で確かめ、自分はこう思ったけれど、当時広場に最後まで
残った人たちはどう思ったかを全部調べ上げてルポを書いた。ところが、彼は相当批判を
浴びた由です。
「あなたは中国人の人権を擁護する活動のために現場にいたのに、結局は政府に有利な
証言ではないか」と散々、批判されたと私と中村に嘆きました。私は彼を慰めて、「批判さ
れようが、されまいが、事実は事実としてきちんと確認すべきだ」と答えました。「ヤブキ
もやっぱりそう思うか。オレもそう思って証言している」と。ネイションズとロビン・マ
-
矢吹晋 14
ンロー2 人組とで麻布で、そばを食べながら半日しゃべって、収穫大でした。
その後、広場に最後までいたことがわかった日本人が 4 人います。『朝日新聞』の朝日カ
メラマン、持永記者。小川強さん(留学生でその後に亜東書店に勤めた)。ということですか
ら、こういう人たちの証言が一番確かなわけです。広場に最後までいたのですから。
■「真相隠蔽」作戦
ところが、実際にはこういう真の目撃者の証言は無視され、逆に、広場にいなかったウ
ルケシや柴玲の「虚偽報告」が世界中を駆け巡った。そこで作られたイメージが今も活き
続けて広場の真相を隠蔽している。
これらは広場「清場」過程の話です。10 数人の現場証言があるわけで、広場での死者が
なかったということは明らかなのです。ところが、繰り返しますけれどNHKは事件 4 年
後に検証しながら、2019 年特集では逃げている。これは多分ディレクターレベルの問題で
はない。私の知る限り、ディレクターたちはちゃんと真面目にやろうとした。ただし、ど
ういう経緯かは知らないけれど、一番肝心なところが消えている。無血撤退に一番貢献し
た劉暁波の画像を映しながら、劉暁波の「この局面での発言」がない。で、別の文脈では
ノーベル賞を大騒ぎ、彼の獄死は繰り返し報道する。これは意図的な虚偽報道、劉暁波イ
メージの偽造と言うほかない事態ですね。「真相隠蔽」作戦の一環と私は考えています。
次の問題。実際の衝突あるいは流血はどこでどう起こったか。基本的には西長安街の木
樨地交差点、それから西単交差点です。西単は北京に行った人なら誰でも知っている盛り
場ですね。それから東長安街の「南池子」という胡同。これはあまり有名な地名ではない。
天安門広場に向かって右側、王府井近くの細い路地です。画面のように、合わせると 90 人
(木樨地=40 人、西単=39 人、南池子=11 人)の学生、市民がここで亡くなった。今回
のNHKテレビで評価していいのは、この犠牲者数を市街図画面に映したことです。遺族
側にとって追悼するために固有名詞がなかったら追悼しようがない。遺族からみて、犠牲
者名を隠す理由はまったくない。ですから、その後何年かかけて「天安門の母たち」(丁子
霖夫人やその夫など)、そういう人たちがずっと調べて犠牲者名を固有名詞で発表してきた。
それは『天安門の母』という本を基に、ちゃんと画面に映してくれた。
たとえば、固有名詞のわかっている人と、わかっていない人がいます。結局、どれぐら
い亡くなっているかというと、木樨地周辺で大きな衝突があったから(36 人+4 人)計 40 人。
これが最初の衝突です。その後に西単で、(9 人+6 人+5 人+10 人)都合 30 人です。広場に入
る直前にもここで 9 人が死んでいます。それから、広場の右側、これが南池子という所で
す。どういうことかというと、鎮圧の主力部隊は 38 軍で西から来ている。
という次第で衝突の中心は、西長安街です。ここには軍事博物館があったり、略称 301
という解放軍総医院があったり、北京部隊が駐屯する宿舎とか、京西賓館を含めて、いろ
いろな軍関係施設がある。そこに集結して、そこから広場に向かった。で、広場に到着し
て、広場周辺から、軍から言えば暴徒を排除し、軍で取り囲む。その時にこの辺で、追わ
れた群衆が南池子あたりに集まってきて、そこから火炎瓶、あるいは投石とか、戒厳部隊
-
矢吹晋 15
に反撃して、また衝突が起こった。そこの死者が割合大きい。
結局、大きな衝突は 3 回(木樨地、西単、南池子)起こっています。この数字が非常に重要
です。具体的に固有名詞で数えてみたら、これだけだった。これを踏まえてNHKは、た
しか判明した犠牲者数として 200 人に至らない数字に言及していた。この数字は固有名詞
で出ている点で信頼に値する。ところが、何万とか何千と言うのは固有名詞がない。これ
はどうとでも言葉のアヤで変えられる。死者数を概数で議論をしてはいけない。
結局犠牲者数、死者を数えてみると、中国政府は 319 人と言っているのですけれど、案
外それが正確に近いかもしれないということが出てきます。
中国政府発表は 319 人です。仮にそれを上回るとしても、1000 名を超えることは、まず
ないとわれわれは見てきたのですが、30 年後の今日、遺族側が数えた犠牲者の側から見る
と、政府側数字とあまり変わらないということです。
さて、軍隊の死者はどうか。それは、当時から公表されています。というのは、戒厳軍
としては、彼らは命令されて正当な任務についたわけで、それで犠牲になったら、ちゃん
と弔慰金を出し、「共和国衛士」という勲章を与えて年金を出す。ですから、基本的には正
確に固有名詞で出している。そういう人たちを数えてみると衝突の輪郭がわかるのです、
どこで衝突が起こったか。木樨地の衝突の中で兵士 6 人が死んだ。彼らは通信兵なのです。
小さい自動車に乗って部隊から離れて進軍し、群集の中に巻き込まれ、リンチされて殺さ
れた。その事件後に、軍は発砲したと言われています。
■発砲の戦端は軍だったのか民衆側だったのか
メディアが全部無視していることは何かというと、軍が先に発砲したのか、民衆側の投
石とか火炎瓶が先だったのかという問題です。それについて一切、言わない。この 30 年間、
見たことがない。ただ一人、グレゴリー・クラークという上智大学教授がいます。天安門
事件当時、彼はオーストラリア本国の外交官として、北京から届く電報を整理していた。
外務省で中国語ができる担当デスクでした。「Five Eyes ファイブアイズ」と言いますが、
-
矢吹晋 16
英、豪、ニュージーランド、カナダ、アメリカの 5 ヶ国の諜報機関が当時北京で、互いに
連絡しながら、それぞれが中国情勢を調べていたのです。
なぜかというと、中ソ和解が国際情勢に与える影響、これは西側にとってものすごく大
きいので、中ソ和解に関する情報は全部取らなければいけない。ということで、ファイブ
アイズを総動員して中国情勢を分析していた。各国には駐在武官も諜報関係者もいるし、
助っ人も相当集まってやっていた。その記録がイギリスに送られ、その結果として、最初
は「1 万人」なんて言っていたが、「数千人」となり、最後は「千人程度」となった。それ
は大使館の報告がそう変わってくる。最初はわからないから「1 万人くらいか」、「数千人か」、
最後は「せいぜい千人」と。ところがメディア、特に日本のメディアは「1 万人」という数
字を繰り返し書いています。最後は千人ということに落ち着いたのに、それを書かない。
私は、今日ここに来る途中、ウィキペディアを見てがく然とした。そういうゴミみたい
な情報がごまんとある。ぜひ、みなさんウィキペディアを見てください。広場で死者がい
ないことも劉暁波が言っている、その出典は私の本です。2 ヶ所で私の名前が出てくるけれ
ど、「これは疑わしい。要注意」みたいなことが書いてある。ウィキペディアは勝手に書い
ていいですからね。私は数冊の資料集を編集して、これで十分と思っていたら、ウィキペ
ディアでは「矢吹がこういうことを言っているけれど、それはむしろ疑わしい情報だ」と
いう形で封じ込められている事実を最近知って愕然としました。
皆さん、ウィキペディアの天安門事件情報を見てください。あのうち 9 割ぐらいまでは
ゴミです。ダメです。そういう噂があったと、学生は死者を誇張するわけです、政府を憎
む人は。しかし、それは真実とは限らない。ただ、ウィキペディアは完ぺきにそういう輩
が乗取られています。客観的な記述が少ない。私はきちんと書いたつもりなのですが、ゴ
ミ情報で封じ込められています。
死者数は遺族が必死になって調べたように、「固有名詞で数えなければダメだ」というこ
とです。死者数を多く語ればヒューマニズムであるかの如き、とんでもない錯覚が日本の
メディアをこの 30 年間支配していると私は憂慮しています。
広場に向かう戒厳部隊がてこずったのは、中国の市内にはトロリーバスがある。あれは
バスが 2 台蛇腹で結ばれる構造です。中国の道路幅は相当広いけれど、普通のバス 1~2 台
だったら軍の装甲車で体当たりすると、横へ押し飛ばして軍は進軍の道を開けられる。と
ころが、トロリーバスだけは真ん中に蛇腹があって、どうしようもなかったと司令官が述
懐しています。最終的に 2 台の装甲車で体当たりし、実力で押し返して、ようやく軍が市
民側のバリケードを破壞し、天安門へ行く道を開いた由です。そこで部隊の進軍の停止時
に、陸橋上から投石、火炎瓶、部分的には発砲もあり、戒厳部隊は進撃を阻まれ、兵士が
殺戮される局面も生まれて、対抗上、軍の発砲が行われた。当時はまだ文革が終わってか
らそれほど経っていない。毛沢東時代は民兵制度の全民皆兵でしたから、市内街道事務所
のあちこちに民兵用の武器倉庫があった。武器は基本的に武警が管理していたけれど、民
兵の地元責任者と武警はツーカーですから、退役軍人が武器庫を開けた例もあったと言わ
-
矢吹晋 17
れています。ただし、せいぜい歩兵銃程度ですけれど、市民側にも武器がありました。
問題はどちらの発砲が先かという話です。クラーク教授は、民衆の側が先に撃ったとは
っきりと言っています。だから軍は撃たざるを得なくなったのだと。ところが、そういう
基本的事実の認識を書いたものを見たことがないと彼は証言している。これは彼が『ジャ
パン・タイムズ』に書いたコラムにおける指摘です。
■ソ連に代わる「仮想敵国」イメージ創出に利用
天安門事件は 1989 年です。ソ連の崩壊が 91 年の 12 月です。ソ連がないとすれば、日米
安保はもともとソ連を仮想敵国として結んだものだから、それがないのなら日米安保をや
めるというのが筋です。ところが、そういう動きは野党を含めてほとんど出てこなかった。
いつの間にか、「北朝鮮の拉致やミサイル実験」、あるいは「中国は天安門事件を起こした
国だから安全保障が必要だ」という論理にすり替えられた。天安門事件は中国を「仮想敵
国」として、悪いイメージを作り上げていく契機として徹底的に利用された----ここに問題
がある、と思います。30 年経つと、その刷り込みは、ほとんど修正不可能です。たとえば
今回、死者についてここまではっきりしていながら、結局、遺族側があのように固有名詞
を出したことから分かるように、犠牲者はそんなに多くはない。この事実が無視され、「夥
しい流血イメージ」だけが強調され、日米安保体制堅持論に利用されている。
■30 年前の独自分析を英外務省報告にすり替えた NHK
またNスペ特集の話になりますが、イギリスの北京大使館から本省宛の報告で軍の動き
を解説しました。これは話がアベコベじゃないか。部隊の配置や広場への進軍過程の説明
は、私や村田、白石の『チャイナ・クライシス』の分析とまったく同じです。何ひとつ新
しいことはない。そうであれば、30 年前に我々が書いているのだから「矢吹たちがこう分
析したことがイギリスの大使館でも確認された」と書くのが筋でしょう。何で 30 年前の著
書を無視するのですか。これはほとんど著作権侵害です。
我々は学生側のビラと軍側の情報。軍もかなり情報を出した。出す必要に迫られていた。
なぜかというと、どの部隊がどれぐらい鎮圧に貢献したのかということをはっきりさせな
いと、ご褒美をあげられない。死んだ人は間違いないけれど、重傷を負った人やその他を
含めて、そういう人たちに「よくやってくれた」という形で論功をはっきりさせなければ、
軍の秩序・統制は保てない。信賞必罰だから、軍は非常に正確な記録を出している。これ
は非常に珍しい。市街戦だからこういう資料が残された。それが僕らはわかった。
当時の記録では「××軍」とか「××師団」とか、「××」になっている。しかし学生側
は、どことぶつかった、どこへ説得に行ったとか、そういうことをみんな書いている。そ
れを学生・市民側の資料と突き合わせたらわかるのです。地名・時間・衝突の形について
両方の資料を付き合わせると「××というのは何々軍の話だ」ということがわかる。
イギリス側資料に「何々軍」という、我々の資料にない軍名が書かれていた。集団軍と
いう組織に再編成したのが 1986 年、天安門事件の 3 年前です。しかし、それは上の方の全
体の話で、実際に現場に出ていた部隊は古い部隊名を自称している。で、イギリス側の諜
-
矢吹晋 18
報員たちは現場で部隊名を押さえている。そのトラックは何軍のもの、その装甲車は何軍
のものだったという具合です。あるいは「尋ねたら、こう答えた」とそのまま書いている。
その部隊名のうち、一つが我々の本にはなかった。実は、その部隊は公式にはなくなって
いる。我々は軍の「公式記録」を見ているから再編後の部隊名を特定した。イギリス報告
の担当者は現場で部隊名を取材したから食い違いが生じたという話です。
NHK は我々の本をシナリオとして使いながら番組の終りで「取材協力」と書いた。私た
ちはどんな「取材協力」をしたのか。N スペの骨子は我々の本に書いた通りだから、➊『ク
ライシス』シリーズに基づく。➋近年情報公開された英外務省報告で、その内容が裏付け
られた、と説明するのが、多分正当な扱い方ですね(笑)。我々は 30 年いろいろと努力し
たけれど、本は売れないで、結局本屋がつぶれたという話です。これが日本における言論
の自由、報道の自由の一例です。
■米中衝突と華為
最後に、今の米中衝突の話を少しだけします。みんな、今の 5Gの問題で華為がトランプ
に封じ込められたと思い込んでいる。日本のメディアはそういうことばかり報道している。
これは間違いです。5Gはある意味で、とっくに決着がついている。これはもう中国主導が
決まっている。問題なのは次の 6G、あるいは量子暗号と量子通信の覇権争いです。量子暗
号は、特許権だけの話ですが、特許権がこれだけ多いということは、こういうものから、
これから国際機関で量子暗号の枠組み協定が決まるのです。すでに中国主導でいくことは
今年 2 月に決まっている。日本の特許は結構多いけれど、全部過去の栄光です。これまで
はいろいろあった。今は影が薄い。ほとんどゼロに近いのではないですか。中国はここま
で躍進している。中国の追い上げでアメリカがどうして困るかというと、ステルス戦闘機
は丸裸にされるからです。この 5G 通信が本格的に稼働すると、ステルス性を失う。アメリ
カは、この戦闘機で威嚇できなくなる。逆に、中国が行う量子暗号通信をアメリカは解読
できない。アメリカが一番あわてているのはここなのです。ところが、この問題の報道が
日本ではほとんど行われていない。EUの報告書はちゃんとこういうものを出している。
「パテント・アナリシス・オブ・クオンタム・テクノロジーズ Patent analysis of selected
quantum technologies」によると、➊量子暗号の特許数(累積)と➋冷却原子干渉の特許数(累積)
で、中国は米国を凌駕しています。
-
矢吹晋 19
図 1 量子暗号の特許数(累積)
図 2 冷却原子干渉の特許数(累積)
量子暗号における中国主導の標準化が 2019 年 2 月に決まり、この秋には「標準化計画」
ができることを『日経産業新聞』(6 月 12 日付)が報じている。ところが、こういう重大な
報道を『日経本紙』は載せない。日経本紙を読んでいる人は、あったく何のことか。わけ
がわからない。そういうのが日本です。『日本経済新聞』は権力べったりの本当に悪い新聞
だと思います。こういう大事なことを報道しない新聞なのだということがよくわかる。も
う一つ、これはNHKの話になります。NHKブックスの 1 冊として『米中ハイテク覇権
のゆくえ』という本を今月 6 月に出したばかりです。これの基になっているのは、2019 年
1 月に「米中対決」と番組で、5Gとか何かを報道したもので、その後にBSでもやってい
ます。5Gのことは一応説明していますが、これらは時代遅れの 5G解説です。ところが、
私が先ほど言った量子覇権の問題は言及なしです、いや、3 ヶ所だけちょっと出てくるので
すけれど。それを研究している「ノーベル賞に一番近い」と言われていた学者が自殺した
話とか、あと 2 ヶ所ぐらい出てきますが、分析は一切ない。
-
矢吹晋 20
しかしながら、一番アメリカがカリカリして、ここでつぶさなければいけないと思って
いるのは、この量子覇権競争です。端的に言ってしまえばステルス戦闘機が、まったく意
味がなくなる。安倍さんは今度 100 機買うと言っていますけれど、その前に 1 機が青森で
なくなって、まだわからないじゃないですか。こんなバカな話がありますか。ああいう戦
闘機はレーダーで 24 時間追跡している。それがどこで落ちたかわからない、1 ヶ月、2 ヶ
月たってもわからない。たぶんアメリカは拾い上げて、さっさと本国に持ち帰ったのだと
思います。それをロシアや中国に取られたら、今度は現物で丸裸ですから。ここまでデタ
ラメ、怪しげなのが日本の安全保障政策なのです。バカバカしいったらありゃしない。
もし北朝鮮のミサイルが問題なら、北と平和条約を結ぶしかない。中国との関係を良く
したいなら、ちゃんとした安全保障分野の交渉をやればいいのです。日米安保では、日本
の安全は守り切れない。中国は核兵器をあれだけ持った大国です。日中は戦争をやったか
ら、もう日中不再戦、戦争だけはやめましょうということで戦後ずっときた。それをガラ
ッと変えるきっかけになったのが天安門の流血事件です。それ以来、「中国は悪い国だ」と
いうイメージづくりが成功し、ついに今日に至るということです。
結論に入ります。私は『中国の夢、電脳社会主義』という本を書きました(花伝社、2018
年)。中国でコソ泥がいなくなったそうです。どうしてかというと、中国の人たちは財布を
持たないから、コソ泥をやろうとしても、やりようがない。乞食だってスマホでお布施を
もらっている。それからニセ札も消えた。赤い百元札を電灯に透かして確かめていたけれ
ど、その光景も消えた。キャッシュは使わないから。
これら二つの出来事は小さなことに見えるかもしれないけれど、今まで何百年、何千年
「盗むなかれ」とか「ニセ札を作るな」とお説教してできなかったことが、スマホ決済の
おかげで一掃できた。中国について「監視社会、監視社会」と言うけれど、実は日本だっ
てちゃんと監視されているということを国谷裕子さんは言っている(国谷裕子『スノーデン
監視大国日本を語る』集英社新書、2018 年)。普通の庶民は何もないだろうけれど、何かち
ょっと安倍を批判した途端、相当な圧力を受け、監視され、番組から下ろされる。安倍か
らお小遣いをもらって飯を食わせてもらっている奴らが「自由な国だ」なんて言うのはま
ったく噴飯ものです。ところが日本の主流メディアはそういう輩によって占拠されていま
す。
日本はナチズムを逆転した、「逆立ち全体主義」だと論じたのは関西学院大の哲学者・浜
野研三教授です。「矢吹がこういうことを言っているのに、全然その見解を無視して政府は
-
矢吹晋 21
逆の政策をやっているのではないか」という例として尖閣報道を例に挙げて、私の主張を
紹介してくれました(浜野『ただ人間であることがもつ道徳的価値』春風社、2019 年)。政
府高官某氏は「尖閣問題に関する矢吹の本は国益にそぐわないから燃やせ」と言ったそう
です。それほど恐れられたら光栄だと私自身は思うのですが、そのおかげか、メディアが
黙殺し、本が売れない。そこで本屋がつぶれる。現に、蒼蒼社はつぶれたわけです。これ
が日本における「出版の自由」の一面です。なるほど検閲制度はないが、中小出版社は容
易に封じ込めを受ける。
浜野教授は私のことを引き合いに出し、「逆立ちした全体主義」を論じています。このキ
ーワードは、プリンストン大名誉教授のシェルダン・ウォーリンという大御所です。「ナチ
スの全体主義」を逆立ちさせると、「アメリカ流全体主義」になるという分析です。
これは 9・11 以後の米国政治の問題点を厳しく批判した本で、(父ブッシュでない)子ブッ
シュの下でアメリカがやったことは完ぺきに「逆立ち全体主義である」と彼は分析しまし
た。独ワイマール体制は、政府はワイマール憲法を守るいい政府だった。ところが、街角
にいた失業者たちが、ナチスの別働隊となり、暴れまわった。アメリカは今、ナチスと逆
の構造になっている。「街角にはまともな民主主義がある」けれど、米政府は完全にビッグ
ビジネスに壟断されている。昔、日本でも「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と労働
運動をやっていた人たちが言うけれど、まさにそういうことです。ナチには生存圏(レー
ベンスラウム)というイデオロギー的根拠があった。現在のアメリカ流イデオロギーは科
学技術力=STEM(科学・技術・工学・数学)がキーワードだ。
私が北京で学生たちに、STEMの話をすると、若い人たちはこのキーワードを「知っ
-
矢吹晋 22
ています」と答えた。米国政治の動向について、中国はかなり敏感に反応します。
■ナショナリズム・イデオロギーに利用する日本
では安倍流の「逆立ち全体主義」はどこで成り立つかというと、拉致・ミサイル脅威、
天安門事件の流血、そして尖閣諸島の領有権争いです。ナチスは、ワイマール体制下で合
法的に権力を掌握した。安倍もむろん、選挙で合法的に多数派を得た。その選挙について
いえば、問題はむしろ野党側ですね。尖閣問題では日本に野党はないのです。尖閣につい
ては共産党も含めて右から左まで既成政党の主張は自民党と同じです。日本ナショナリズ
ム・イデオロギーにからめとられています。
私は、「尖閣は中国のものだ」などと言ったことはない。そうでなくて、「中国にも言い
分があるから、これは話し合いで解決しかない」ということを言っているだけです。そう
いう言論さえ封じ込めるのが日本流の逆立ち全体主義です。私の主張を支持する政党はど
こにもなく、尖閣問題に関する限り、日本は全体が大政翼賛会であり、野党・反対党はな
い。これが日本の誇る「自由民主主義」であり、自由も民主主義もそこにはない。
つまり、ナチスが生存権イデオロギーを利用したように、安倍は生命線とかいって、拉
致・ミサイル・天安門事件・尖閣領有権を用いてナショナリズムを煽る。尖閣問題で一歩
譲れば、次には「沖縄を奪われる」というデマゴギーが横行しており、いわゆるインテリ
層にもこれが浸透しているようです。(了)