卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 ·...

32
卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 20627088 国際学部国際学科 小平由実子 牧田東一ゼミ 1

Upload: others

Post on 06-Nov-2019

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

卒業論文

日韓交流の中の日本語学習

20627088 国際学部国際学科

小平由実子 牧田東一ゼミ

1

Page 2: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

目次

はじめに ………4

第 1 章 日本による侵略の歴史と日本語 ………5 第 1 節 新羅征伐 ………5 第 2 節 豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱) ………5 2-1 第 1 次朝鮮侵略と第 2 次朝鮮侵略

第 3 節 韓国併合 ………6 3-1 朝鮮総督府

3-2 武断統治 3-3 土地調査事業

3-4 会社令 3-5 皇国臣民化政策

第4節 韓国併合と日本語教育の本格化 ………8 4-1 同化政策としての日本語教育 4-2 教科書について 4-3 朝鮮語の利用 4-4 独立運動

第 5 節 まとめ ………10 第 2 章 日本大衆文化の広がりと日本語学習 ………12

第 1 節 日韓条約の締結と日韓関係 ………12 第 2 節 日韓大衆文化の広がり ………12 第 3 節 日本語教育の広まり ………14 第 4 節 韓国の中の日本語学習者 ………16

4-1 日本語学習者が多い国 4-2 韓国の中の日本語学習者

第 5 節 まとめ ………18 第 3 章 韓国大衆文化の広がりと韓国語学習 ………20

第 1 節 韓国大衆文化の広がり~韓流から見えること~ ………20 第 2 節 世界の韓国語学習者の中の日本 ………22 2-1 ハングル能力検定試験 2-2 韓国語能力検定試験

第 3 節 まとめ ………24

2

Page 3: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

第 4 章 日韓交流の現状(日本語学習から見る) ………25 第 1 節 韓国人が日本語を学ぶ理由 ………25

第 2 節 日本人が韓国語を学ぶ理由 ………26 第2節 韓国における日本語学習 ………27

初等学校 中等学校 高等学校 専門大学(2 年制大学) 4 年制大学 第3節 まとめ ………28

終章 ………30 参考文献 ………31

3

Page 4: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

はじめに

筆者は 2008 年 3 月よりおよそ半年間、韓国に語学留学をしていた。筆者は留学先の大学

で日本語学科に所属していたこともあり、半年間の間に多くの日本語学習者と知り合うこ

とができた。筆者の身近にいた日本語学習者たちの多くが日本に興味、関心を持ち日本語

を学習していた。彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習

者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

い日本語を学んだ人もいればそうではない人もいる。日本語学習を強制された時代もあり、

日本に興味もなければ悪いイメージを持つ人もいるだろう。けれど、日本語を学ぶ人の中

には日本語を学ぶことで日本をもっと知りたくなった、日本に対する理解が深まったと言

っている人もいた。 筆者はこのことから、日本語学習は日韓交流に大きな役割を果たしていると感じた。最

近、韓国人の最も嫌いな国の 1 位が日本であるというデータが公表された。しかしその反

面で、日本語学習者が最も多い国も韓国であるという事実に対して筆者は大変興味を抱い

ている。 韓国は日本と最も近い国であるのに、どうして日韓交流はうまくいかないのか。歴史の

問題はもちろん関係するけれど、もっとお互いに交流していくことが必要であると考える。

どうすれば日韓交流をもっと活発に行うことができるようになるのか。そのようなことを

筆者は自分自身が韓国にいた半年間の間に考えるようになった。そして、筆者が韓国で感

じた日本語学習持つ日韓交流への役割について、もっと詳しく知りたいと思い、このテー

マで論文を書くことにした。 日本語を強制的に学ばされた時代の人々は、もちろん自分の意思で日本語を勉強したの

ではない。しかし現在、多くの若者が自分の意思で日本語を学んでおり、日本語学習熱が

高まったのは事実である。筆者は韓国における日本語学習者に焦点をあて、彼らはどうし

て日本語を学ぶのか、日本語を学ぶことで日本に対するイメージ等がどう変わっていった

のかを考えていきたい。そして日韓交流史の流れをおさえつつ、今どうして日本語学習熱

が高まったのか、そして日本語学習が持つ、日韓交流への役割、これからの可能性も考え

ていこうと思う。

4

Page 5: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

第 1 章 日本による侵略の歴史と日本語

韓国における日本語学習について述べていく上でまず、日本によってどのような侵略行

為がなされたのかをおさえることが大切であると筆者は考える。日本は韓国を 3 度にわた

って侵略した歴史がある。そこで第 1 章では、日本による侵略の歴史の 3 つである豊臣秀

吉による朝鮮侵略、そして明治時代に行われた韓国併合について述べる。それを踏まえて

当時の日本と韓国の関係について、また日本語教育がどのようにして始まり、どのように

して広まっていったのかを述べていく。 第1節 新羅征伐

新羅征伐は神功皇后によって行われたといわれている神話である。神功皇后一行は、新

羅に到ると、新羅の王はなすすべもなく降服した。神功が新羅を属国として、自分の矛を

新羅王の門に立てて人質や多くの宝を船に乗せ戻ってくるとこのうわさを聞いた高句麗と

百済までも降服した[黄 1988:186-187]。 第2節 豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)

第 2 節では豊臣秀吉によって行われた朝鮮侵略について述べる。豊臣秀吉の朝鮮侵略に

は第 1 次朝鮮侵略と第 2 次朝鮮侵略があるため、その 2 つについて述べる。 2-1 第 1 次朝鮮侵略と第 2 次朝鮮侵略

織田信長の死後、跡を継いだのが豊臣秀吉である。豊臣秀吉は尾張(現在の愛知県)で生ま

れ出世して、信長の有力な部将となり後継者としての地位を固めていった。1585 年に関白、

そして翌年の 1586 年に太政大臣に命じられた。秀吉は 1590 年、全国を統一した[歴史教育

研究会・歴史教科書研究会 2007:124-125]。 豊臣秀吉は国内の領主たちの不平や不満を国外にそらすこと、そして大陸支配をするた

めに、朝鮮の国情が乱れ、不安定な時に、明を征伐するという口実で朝鮮に侵攻した[アン

ドリュー 1988:58]。 豊臣秀吉の命令によって、およそ 2 万人の軍隊が突如、釜山に上陸し、その後およそ 15

万ともいわれる日本軍が朝鮮に攻め込んだ。準備の整っていなかった朝鮮ではまたたく間

に各地が占領されていった。日本軍は占領すると検地を始め、朝鮮支配を目指した[三橋

2002:59]。 無力な政府と官軍に代わり、朝鮮全国で義兵が蜂起した。義兵は日本軍の武器、食糧補

給路、通信網を遮断し、日本軍を追い詰めた。また、李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍により、

日本軍は補充兵力と軍需品の輸送が困難になった。一方で、義州へと避難した朝鮮国王は

明に助けを求めた。朝鮮で日本軍を防ぐことが、自国の防衛にあたると考えた明は大規模

5

Page 6: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

な援軍を派遣し、明軍は朝鮮官軍、義兵と合流した。そして、平壌城を奪回し、日本軍を

漢城まで退却させることに成功した。日本軍は不利な状況になり、明に和議を申し出た。

明も自国の利害を優先し、終戦を急いだため、和議交渉が始まった。朝鮮は最も大きな被

害を被ったが交渉からは除外された。日本と明の双方は互いに自国に有利になるように和

議交渉をしようとした。日本は朝鮮半島の南部地方を渡すこと、勘合貿易を復活させるこ

とを要求したが受け入れられず、3 年に亘って行われた和議交渉は決裂し、1597年南海岸

に駐屯していた日本軍は再び侵略を開始し、第 2 次侵略が始まった[歴史教育研究会・歴史教

科書研究会 2008:131-133]。 第 2 次侵略では残虐な行為が見受けられた。朝鮮人の鼻や耳を切り落とし日本に送った

り、多数の朝鮮人を捕虜にして日本に連行したりした。ほかにも数え切れない残虐な行為

がされた。侵略目的だったはずが単なる領土拡張、略奪へと転化したことがわかる[池

2003:87]。 日本軍は軍糧の不足によって苦戦を強いられた。そのような戦争のさなかで豊臣秀吉は

死亡。日本軍はこれを極秘にし、本国へ撤収を始めた。また、李舜臣も戦闘中に死亡。日

本軍はおよそ 5 万人にもなる人員を飢餓、疾病、戦死によって失い、退却したことによっ

て 7 年にもわたる戦争が終わった。日本軍による被害によって朝鮮人の間には日本人を蔑

視、そして敵対視する感情が高まった[歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2008:133-136]。 第3節 韓国併合

第 3 節では日露戦争後行われた韓国併合と植民地支配について述べる。 日清戦争に勝利した日本は、満州及び韓国の問題でロシアの南下政策と衝突するように

なった。そして 1904 年、日本が満州の旅順に先制攻撃をしたことで日露戦争が始まった[アンドリュー 1988:90]。

1904 年、日露戦争に勝利した日本は韓国を日本の勢力下に置くことをロシアに認めさせ、

韓国に対して多くの条件を要求した。1910 年の 8 月には韓国併合条約1が調印された。そ

して、朝鮮は日本によって植民地にされた[三橋 2002:82]。

韓国併合後、日本は朝鮮に朝鮮総督府を置いた。総督は立法、司法、行政をはじめ軍事

権も握り、韓民族の言論、出版、結社の自由を奪い、また憲兵警察制度2を強化した[アンド

リュー 1988:94]。 また、日本は「内鮮一体」や「皇国臣民化」などというスローガンをかかげ、民族の言葉で

ある韓国語の使用を禁止した。そして韓民族の歴史の教育も禁じた。韓民族の氏名を日本

式の名前に直す「創氏改名」を強制した。これらは西洋列強の植民地政策においても類を見

ない非道な政策であった[アンドリュー 1988:95]。

1 1910 年 8 月に漢陽(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相が調印した。韓国皇帝が韓国の統治

権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡することなどを規定した条約。 2 1910 年に行われたもので憲兵と警察が一体になって民間人に対する行政事務を担当したもの。

6

Page 7: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

3-1 朝鮮総督府 日本は大韓帝国を占領し、その領域を朝鮮と呼んだ。そして、漢陽を京城と改称した。

また、朝鮮総督府を設置して本格的な植民地支配を始めた。朝鮮総督は行政、立法、司法、

軍事の全ての権限を行使することができた。朝鮮総督府は末端の官僚機構にまで日本人を

派遣した。そして、全国を支配したのだ。また、日本人を移住させてあらゆる産業の主導

権を握ろうとしたり、鉄道と道路などを四方に延長して日本の勢力拡大に努めたりした[李・

鄭・徐 2004:92]。 3-2 武断統治 日本は韓国を武力で支配する目的で憲兵警察制度を実施した。この制度は 1910 年に行わ

れたものであり、植民地支配の基礎を固めるために行われた。憲兵と警察が一体になって

民間人に対する行政事務を担当しようとしたものである。武断統治が行われたことで、韓

国人の政治、社会団体は全て解散させられた。そして集会、言論などの活動も禁止され、

学校でも日本人教師は制服を着て剣をつけて授業をした[李・鄭・徐 2004:92-93]。 3-3 土地調査事業 日本は朝鮮で土地の面積と所有者を徹底的に調べた。そしてまた、土地調査令を出して

地価に基づいて税金を納付させるという制度をつくり、その過程で多くの土地が朝鮮総督

府と日本人のものとなったのである。朝鮮総督府は山林令も出した。これは全国の山林を

調べて大部分を国有地にするというものであった。そうして国有地となった土地は日本人

の農民や会社などに安く売られた。こうして土地の売買が簡単になり、米の値段が上がり

続けると金持ちは土地を大量に購入した。そして、小作人に耕作させた。農村に残ってい

た韓国人の大部分が小作人として 50 パーセント以上の小作料に苦しめられたのである

[李・鄭・徐 2004:93-94]。 3-4 会社令 日本は 1910 年代に朝鮮において商工業の発展を抑圧した。朝鮮総督府は朝鮮人であれ日

本人であれ、会社を設立する時には総督の許可を取らせたのである(会社令)。朝鮮人は日本

人よりも資本が少なく、許可を受けることのできた朝鮮人は日本人よりもはるかに少ない

という結果になった。したがって、朝鮮人の経済力はしばらくの間沈んだままで、上がる

ことができなかった[李・鄭・徐 2004:94]。 3-5 皇国臣民化政策 日本は植民地支配を始めたころから、朝鮮人を日本人に育てる同化政策を進めていった。

日本は朝鮮人の民族精神を奪うために、学校では朝鮮の言葉、文字、また歴史を教えない

7

Page 8: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

ようにした。その代わりに日本の言葉、文字、日本の歴史を教えた。家庭や社会でも日本

語の使用を強制した。また神社を建てて随時参拝させ、毎朝天皇が住んでいるところに向

かい最敬礼をさせたり、大人にも子どもにも朝鮮人には天皇に忠誠を誓う皇国臣民の誓詞

を朗読させたりした[李・鄭・徐 2004:102]。 第4節 韓国併合と日本語教育の本格化

第 4 節では日韓併合がされ、日本による植民地支配政策として行われた日本語教育に焦

点を当てて述べる。36 年間の間、日本が朝鮮に対してどのような日本語教育を行ったか、

そして、日本語教育を行った目的や結果、また当時の日韓関係についても述べる。 4-1 同化政策としての日本語教育 朝鮮半島における日本語教育は 1910 年から 1945 年までの 36 年間行われた。かなりの

成果をあげることができたのだが、これは朝鮮語を抑圧することによって行われた侵略言

語としての日本語の普及である[川村 2004:140]。 日本は保護国時代の朝鮮でも日本語教育に力を入れていた。しかし、財源の問題などに

よって日本語普及施設である学校建設を進めることができなかった。その普及率は 1 パー

セントにも満たなかった[久保田 2005:272]。 1910 年 8 月に日韓併合がなされると、内地では朝鮮人教育について議論が行われるよう

になった。初代朝鮮総督である寺内正毅は総督府の教育関係者と植民地教育の方針や学校

制度などについて検討を行った。それとともに、およそ 1 年後の 1911 年 8 月に朝鮮教育令

を公布した。これは朝鮮教育方針を規定したものである。朝鮮教育令では国語は日本語と

して位置づけられている[久保田 2005:213]。 保護国時代に形式上は独立国家にあった韓国に対して、日本語を国語として扱うことは

できなかった。しかし、日韓併合によって国語として位置づけることができるようになっ

た。 朝鮮総督府は、天皇陛下の一視同仁3という名目のもとで天皇の臣民として日本に同化す

ることが朝鮮人の幸せであるとし、教育を重視した。1911 年に公布された朝鮮教育令は日

本の教育勅語に基づいており、皇室を尊び国家への忠誠を求めた。そして、国語の普及に

力をいれた。国語とは日本語のことである。朝鮮人が学ぶ 4 年制の普通学校が建設され、

韓国併合の 3 年後には当初 100 校であったのが 366 校にまで増え、就学児童は 5 万人にま

で及んだ [歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2007:216‐217]。 このように、同化の主な手段とされたのが国語教育である。国語について規定されてい

る「普通学校規則」第 7 条 3 には、国語は「知識技能ヲ得」るための手段として学ぶだけでな

く、「国民精神ノ宿ル所」とされていた。これは日本人の精神は日本語にあらわれていると

いうことであり、「言語・思想一体感」というものであった。これによって制度上、同化の

3 朝鮮人にも天皇の仁愛を施すということ

8

Page 9: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

手段としての日本語という位置づけがわかる。また朝鮮語、漢文はそれまでの国語であっ

たけれどその地位を奪われてしまった。教員養成用に総督府が編纂した「教育学教科書」

の第 4 章の朝鮮語及漢文教授法において「朝鮮語は現代朝鮮人の間に一般に使用さらるゝ

思想交換の方便」とされておりコミュニケーションの手段として認められているだけであ

った。そして更に、普通学校規則において第 10 条で「朝鮮語及漢文ヲ授クルニハ常ニ国語

ト連絡ヲ保チ時トシテ国語ニテ解釈セシムコト」と規定されており、「朝鮮語及漢文」であ

っても日本語に訳して教えるということであった。普通学校における授業時間数は、1 週間

当り国語が 10 時間なのに対して朝鮮語、漢文は 2 学年 6 時間、3・4 学年 5 時間にすぎず、

国語のおよそ半分であり、朝鮮語、漢文は軽視されていた[久保田 2005:252-253]。 また、高等普通学校、女子高等普通学校、実業学校でも国語は必修とされた。1915 年に

は「改正私立学校規則」が公布され、この改正私立学校規則によって総督府は私立学校で

も同化政策の一環として日本語教育を強化した。日本精神である日本語を教育することで

朝鮮人を同化することになったのである[久保田 2005:262]。 朝鮮統治の時間の経過にともなって、日本語は徐々に普及していった。しかしその一方

では、朝鮮人の日本統治に対する抵抗が止まることはなかった[久保田 2005:347]。 4-2 教科書について 併合によって、それまでの日本と朝鮮の国家的地位が変わった。それに対応するために

新しい教科書の編纂をしなければならなかった。「朝鮮教育令」とは朝鮮人教育の方針を規

定したものであるが、これが公布されたのは日韓併合が行われた 1 年後のことであった。

したがって、教科書編纂までの間の対処として行われたのが保護国時代の教科書において

の前記変化の不適切な部分を削除、訂正しての使用であった。これは 1911 年から使用され

た。 保護国時代の教科書の削除、訂正の後、総督府は、「朝鮮教育令」に基づいて本格的な教

科書編纂を始めた。併合後の教科書編纂において国語仮名遣が最も重要な問題とされた。

国語仮名遣は国語普及の効果を左右するとされたからである。国語仮名遣について参考と

したのが、台湾公学校(朝鮮の普通学校に相当)用の教科書と内地の小学校用の教科書であっ

た。総督府はこれらを検討したが、どちらも採用しなかった。台湾公学校の教科書は極端

な表音主義であり、内地の小学校用の教科書は歴史的仮名遣であったからである。なぜこ

れらの理由から採用をやめたのかというと、仮名遣の難易は国語の普及に大きく影響する

こと、そして、朝鮮の普通学校の教員は校長以外の大部分が朝鮮人であったということが

あげられる。結局、「朝鮮総督府に於ては学理上最も自然にして朝鮮人に入り易く、且つ、

歴史的仮名遣を学習する場合に出来得る限り困難を少き仮名遣法を採用し、之に依りて普

通学校教科書を編纂し、以て国語普及上著しき効果あらしむことを期せり。之れ即ち本府

制定普通学校用仮名遣法同送仮名法にして、実際に於て往年文部省国語調査会にて調査せ

9

Page 10: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

る仮名遣法と大差なきもの」4を採用した。「学校」を「がっこう」と表記する方法のことで

ある[久保田 2005:272‐274]。 4-3 朝鮮語の利用 朝鮮語の利用は国語が普及するまでの間、私立学校ように修身書や農業書などの特殊な

ものに限り、朝鮮語の訳文を作ることとされた。総督府はまた、ハングル表記の統一を行

い国語教育の効果をあげようとした。まだ国語教育が普及していない状況での国語のみに

よる教育は空論に過ぎないとし、そのため、内地教育世論の国家統一の障害になるので朝

鮮語は廃止すべきという意見は反映されなかった。また、漢文教育については内地教育世

論で廃止が主張された。しかし、廃止しなくても国語普及はできるという考えから総督府

は漢文教育を廃止しなかった[久保田 2005:302]。 4-4 独立運動

朝鮮人による民族運動は朝鮮総督府による武断統治の下、日本の監視や弾圧によって弱

まったが、朝鮮人たちは独立運動の新しい方法を探した。当時、公然と組織を結成し活動

することができなかったので、1910 年代の国内における民族運動は秘密結社によって行わ

れたものが大部分であった。朝鮮人たちは秘密結社の活動が難しくなっても多様な方法を

探し、民族運動を行っていった。土地調査法事業を妨害し、納税をしない農民も現れた[歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2008:222-223]。

1919 年 3 月 1 日に京城と平壌で独立宣言書が朗読された。それにより 3・1 独立運動が開

始された。3・1 独立運動は 3 ヶ月ほど続いた。そして最終的には日本に武力で弾圧され、朝

鮮の国権は回復できなかった。しかし、朝鮮人はこの独立運動を通して国権回復に対して

希望を持つようになった[歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2008:225-227]。 1945 年 8 月 15 日、日本はポツダム宣言5を受諾した。日本の敗戦によって朝鮮半島は日

本から解放されたのである[歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2008:2008]。 第 5 節 まとめ 韓国は日本によって 3 度にわたり侵略をされたという歴史を持つ。そして、1910 年の日

韓併合以降は、朝鮮人は日本によって強制的に日本語教育を受けさせられた。1910 年の日

韓併合によって朝鮮人は日本人に同化するために日本語を学ばされたのである。朝鮮人は

自分たちの国を侵略されただけではなく、自分たちの民族文化までも支配された。初期の

日本語教育の普及の背景には日本による侵略の歴史があり、大部分の人々が自発的に日本

語を学んだのではないということがわかる。日本と韓国は支配する側とされる側という関

4 「朝鮮総督府編纂教科書概要」3 項 5 1945 年 7 月にドイツのベルリン郊外のポツダムでアメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、ソ連首相

のスターリンが決定した。アメリカ、イギリス、中国の名で日本に無条件降伏を要求した。

10

Page 11: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

係にあった。しかし、韓国の独立後から現在において日本語教育が広まり、自発的に日本

語を学ぶ人が増えていった。そして、日本と韓国との関係も昔と大分変わっていった。第 2章では韓国独立後からの日本語教育の広まりと日韓関係について述べていく。

11

Page 12: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

第2章 日本大衆文化の広がりと日本語学習

第 2 章では、日本による植民地支配が終わってからの日韓関係について述べる。主に、

韓国における日本の大衆文化の解禁について述べる。その中で、日本語がどのようにして

広まっていったのかを述べるとともに、世界の日本語学習者の中で韓国人がどのくらいの

割合を占めているのかも述べていく。 第 1 節 日韓条約の締結と日韓関係

日韓会談は、1965 年に日韓条約が締結されるまでに 15 年もかかった。1~3 次にわたる

初期の日韓会談は過去の植民地支配に対する認識の違いが最も強く現れた時代であり、韓

国は日本の植民地支配に対して謝罪と賠償を要求した。一方、日本は敗戦によって朝鮮半

島に残した日本人の私有財産の請求権を問題とした。第 3 次会談においては、日本の主席

代表であった久保田貫一郎が日本による殖民統治が韓国にとって有益であったという発言

をし、韓国を刺激したりし、両国の関係は悪化の一途をたどることとなった。 日韓会談が急進展した背景にいたのはアメリカである。アメリカのケネディ政権は、日

韓両国に対し、東アジア安保論を提起した。そして、会談に対しては、積極的な姿勢で取

り組むように促した。アメリカは、日韓間の経済協力を強化し、韓国経済を発展させるこ

とは日本の安全と経済開発のためにも重要であるとし、日韓会談は経済協力を通じた国交

樹立として進められていった。そして、1965 年 6 月に東京で日韓条約が締結させた[歴史教

育研究会・歴史教科書研究会 2007:305]

第2節 日韓大衆文化の広がり 1948 年の韓国政府樹立から 1965 年の日韓国交正常化までの間、日韓両国間で正式な国

交はなかった。したがって、公式な文化交流事業はほとんど進められなかった。李承晩政

権時代の韓国社会では、植民地時代に日本によって持ち込まれた日本的な文化は「倭色文

化」と呼ばれ、全面的に排除された。特に、植民地時代に文化的同化政策の象徴とされた文

化に対しては、厳しい排除が行われた。朝鮮半島の各所に残されていた神社の多くは植民

地支配が終わると共に焼き払われたり、解体されたりした。創氏改名政策によって日本式

に変えられた姓名もすぐに破棄されたり、日本式に「~町」や「~丁目」と呼ばれた地名も「~

洞」や「~街」と改称されたりしていった。言語の面を見てみると、民族固有の言語による教

育が各地で復活しただけでなく「国語醇化(浄化)運動」が大々的に行われた[林 2005:229‐230]。

1965 年の日韓国交正常化以後は、政府レベルでの青少年交流や図書交流などの文化事業

が行われていった。しかし、この時期韓国では日本文化、特に大衆文化に対して、「異質文

化」や「退廃文化」であるとし、その流入に対して批判の声が多く聞かれた。日本との大衆文

12

Page 13: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

化交流を事実上規制する根拠となる整備も進められ、「交流促進」と「交流規制」という 2 つ

の側面を持ち合わせるようになった[林 2005:231]。 中曽根康弘首相が韓国を訪問した 1983 年以降、能や歌舞伎といった日本の伝統舞踊芸術

の韓国公演が特例扱いで許可された。この年は、両国の文化交流の拡大について原則的に

合意し、日韓文化交流実務者間協議の開催に至った。しかし、日本側が 1984 年に金斗煥大

統領訪問を契機に、政府レベルでの日韓文化交流委員会の常設、大衆文化を含む文化交流

の拡大を求めたところ、韓国側はこれを拒否した。しかし、当時の韓国社会で日本の大衆

文化に触れる機会がほとんどなかったわけではない。非公式な流入ではあるものの、1960年代当初以降の韓国には各種の日本大衆文化が広まっていった[林 2005:232]。 日本の雑誌や書籍などの出版物は、一部の専門書を除いては輸入販売をするのに原則と

して政府の許可が必要であった。しかし、1960 年代のうちから正規ルートを経ずに韓国に

持ち込まれた雑誌などが大量に流通し始めた。その中には日本の作家や出版社の許可を得

ずに韓国語に翻訳、出版された小説などもあった。当時の朴正煕政権は、大衆文化を媒体

に国内に共産思想や反政府思想が広まることを危惧していた。したがって、外来大衆文化

に対して、規制主義的な政策を取っていた。1961 年には「反共法」、それに続いて「公演法」

が制定され、政府への申請がなければ商業的な公演を行うことができなかった。また、1961年に「出版社および印刷所の登録に関する法律」、1962 年には「映画法」、1963 年には「放送

法」、1967 年には「音盤(レコード)に関する法律」など文化関連法とよばれる法律が制定され

ていった[林 2005:233]。 1987 年に成立した盧泰愚政権は「6・29 民主化宣言」で謳われた基本的人権や言論の自由

の保障を実現させるために、従来の言論規制策や文化関連法を次々と緩和、排除した。日

本との文化交流事業においては、首脳レベルの合意を受け、「日韓 21 世紀委員会」が 1988年に設置された。1992 年には「日本文化通信使」という韓国文化を紹介するイベントが日本

で開催された。日本文化に対する韓国国内での規制は原則、従来通り維持されていた。し

かし、条件付き特例として、許可されるケースも徐々に見られるようになっていった。1980年代末以降の韓国政府内部には、日本大衆文化に対する規制緩和を容認する意見もあった。

しかし、「韓国国民は日本大衆文化に強い拒否感を持っている」などの反発が、政府内部だ

けでなく、世論からも寄せられていた[林 2005:234‐235]。 しかし、1994 年になると、外務部は「段階的、漸進的な開放を基本的方針とすべき」とし、

金泳三政権は「3段階開放」案を発表した。1996 年に竹島(獨島)6の領有権の問題が再燃した

ことなどを理由に、金泳三政権はその後、正面から日本大衆文化問題を取り上げなかった。 1998 年に成立した金大中政権は、4 月 17 日に日本大衆文化の段階的な開放方針を表明し

た。そして、「韓日文化交流政策諮問委員会」を構成し、具体策を検討した。同年 10 月には

金大中大統領が訪日し、それにあわせ、第 1 次開放の詳細が発表された。第 1 次開放から

始まり、2004 年には第 4 次開放が発表された。第 1 次開放の内容は、映画、ビデオソフト

6 竹島のことを韓国では、獨島という。

13

Page 14: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

分野については「4 大国際映画祭7での受賞作」という条件付で、輸入、公開および販売が公

式に許可された。日本語版のマンガ本や漫画雑誌は全て許可された。また、日韓共同制作

映画の上映や日本人俳優が韓国映画に出演することが許可され、1998 年には、日本映画と

してはじめて北野武監督の映画『HANA-BI』や、黒沢明監督の映画『影武者』が韓国各地

の映画館で一般公開された。第 2 次開放では、映画、ビデオソフトの開放の基準となる映

画祭の数が増えた。その数は 70 種類まで広がった。また、はじめて日本人歌手によるコン

サートなどが認められた。これは 2000 席以下の規模の室内会場という条件付であった。第

3 次開放では、成人向け映画を除いた劇映画が全面開放された。各種国際映画祭での受賞作

ならば、劇場用アニメ映画も公開可能となった。このように、日本大衆文化が開放されて

いった結果、1998 年には、2 本、1999 年には、4 本だった韓国で公開された映画の数が、

2000 年には 24 本にまで増えた。しかし、2001 年、日本の歴史教科書検定について、韓国

政府が出していた是正要求を日本が拒否すると、韓国の文化韓国部は日本大衆文化の追加

開放を中断すると発表した[林 2005:236‐239]。 2002 年は、日韓共催サッカーワールドカップが開催されたが、日本文化開放措置は、制

度的に進展しなかったものの、共催ワールドカップを記念する行事として、特例扱いで許

可されたものもあった。その結果、文化事業がかつてない勢いで行われた 1 年となった。

日韓合作ドラマである『フレンズ』(深田恭子、ウォン・ビン共演)などの、日韓の俳優が共

演する作品が制作されるようになった。2003 年 6 月の日韓首脳会談においては、「日韓文

化交流の活性化のため、韓国は日本大衆文化開放を拡大する」と合意がされた。そして、2004年 1 月 1 日に弟 4 次開放が実施された。第 4 次開放では、日本映画の上映について全ての

条件が取り払われた。また、音楽 CD、ゲームの各分野でも完全に開放された。テレビ放送

においては、劇場公開済みの日本映画の放送、日本人歌手の番組出演、コンサート映像の

放送が許可された[林 2005:239‐240]。 一方、日本では、韓国の映画、音楽、文学を好む人が増えた。「シュリ」という映画が日

本で人気になったり、「冬のソナタ」や「美しき日々」といった韓国のテレビドラマが人気に

なったりして、韓国の大衆文化が日本に広まるようになった[李・鄭・徐 2005:155]。 補償の問題や歴史認識の問題など、様々な問題を抱えつつも、日本と韓国の交流は広がっ

ていった。韓国では 1989 年に海外渡航が自由になった。それと共に日本への旅行者が急増

した。日本での奨学金やビザ発行の制度が改善され、留学生の数も増えた [歴史教育研究会・

歴史教科書研究会 2007:355]。 第 3 節 日本語教育の広まり 1945 年に解放されてからの 3 年間、韓国は、米軍政権下に置かれた。米軍政を引き継い

7 国際映画製作者連盟(FIAPE)公認の映画のうち、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、トロント国際映画祭

のことを世界 3 大映画祭という。ただし、日本においては、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国

際映画祭、ロカルノ国際映画祭を世界 4 大映画祭と言うことがある。

14

Page 15: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

だ政権である、李承晩政権下では、反日が最大の国是とされた。そして、日本語を排除し、

ハングルを回復しようとする、「国語浄化運動」が行われた。1945 年から、16 年間日本語教

育が公共の場で行われることはなかった8。韓国において、日本語教育が本格化したのは、

1970 年代に日韓両国の経済交流活発化による。1972 年、韓国政府は、日本語を高校での第

2 外国語として追加した。これは、文化的対日門戸開放政策の一環として、行われたもので

ある。1976 年には大学入試予備校査9の外国語科目に日本語が追加されたが、1977 年度前

期の大学入試での日本語選択者の数は、全体の 1,1 パーセントであり、日本語の追加をやめ

た10[磐村 2007:21‐23]。 1986 年にアジア競技大会、1988 年にソウルオリンピックが開催されると、韓国人の海外

旅行が自由化された。そして、民主化が進んでいった。慮泰愚大統領の民主化宣言におい

て、「国際化、世界化」が掲げられると、日本との経済や文化交流が促進された。観光産業

が活発になると、日本人観光客の数が増え、それにより日本語の観光ガイドの養成にも力

を入れるようになった。また、日本統治時代、国語として日本語教育を受けた世代が第 1線を退くと、次世代が社会の中心となり、日本語教育の必要性が増した11。そして、1983年、第 2 次中曽根内閣による「留学生受け入れ 10 万人計画」により、日本語教育に弾みをつ

け、日本語ブームが起きることになった。日本語クラスを持つ外国語学院が次々と開講さ

れたり、テレビやラジオの教育放送などで日本語講座が設けられたり、日本語教育は英語

教育に次ぐものとなった。大学、大学院において、第 2 外国語として日本語を取り入れる

学校が増え、日本語の専門学科も開設されるようになった。1981 年には、教育改革の一環

として、大学別の本考査が廃止された。そして、政府が共通に実施する「大学入学学力考査」

に 1 本化された。それにより、大学別の試験がなくなり、「脱英語」現象が起こった12。1982年には、実業系の高校を中心に、日本語を選択する学生が増え、1986 年には日本語学習者

の数は、第 2 外国語科目学習者の中で 1 位となった13[磐村 2007:24]。 1980 年代になると、韓国は経済発展を遂げたが、1990 年代に入ると、経済が低迷、混乱

するようになった。ウォン高、賃金高、物価高によって経済的な打撃を受け、韓国政府は

輸出拡大政策から、内需主導型へと政策を変えたものの、対日貿易赤字が深刻なものとな

っていった。1991 年には、韓国遺族会、旧日本軍人軍属「慰安婦」が戦後保障を提訴し、従

軍慰安婦の問題が取りざたされた。また、竹島問題のこともあり、韓国国内では日本政府

に対する反発が収まらなかった。1993 年に金泳三大統領が就任すると、「世界化、情報化」

をスローガンとした。戦前の日本の支配に対しては、「物質的保障は求めない」と明言し、「未

来志向」重視の世論を促した。しかし、それが日本語教育の拡大にはつながらなかった。ま

8 [(稲葉 1986 李徳奉 1994) 纓坂 p21 に引用] 9 日本のセンター試験に当たるもの。「予備考査」と各大学が個別に実施する「本考査」の 2 つ。 10 [(稲葉 1986) 纓坂 p23 に引用] 11 [(林煕泰 1994) 纓坂 p24 に引用] 12 [(稲葉 1986) 纓坂 p24に引用] 13 [(林且煥 1999) 纓坂 p24 に引用]

15

Page 16: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

た、1994 年度「大学入学学力考査14」が「大学修学能力試験15」に改正され、日本語の学習者

が減ることになった。高校 3 年間の内申成績および大学入学学力考査で合否を決定してい

た従来のやり方に対し、修学能力試験においては、第二外国語が排除され外国語領域の試

験は英語のみとなった16。入試制度が変わったことで、日本語学習熱が急降下していった [磐村 2007:25‐26]。

1997 年 11 月、アジアを襲った経済危機が韓国にも及んだ。その結果、韓国は IMF(国際

通貨基金)の管理体制化に置かれた。1997 年から英語が小学校 3 年生以上の正規科目として

導入されると、英語教育が盛んになった。経済危機の韓国では、英語のみならず、日本語

が就職のための必要条件と認識されるようになり、日本語学習者が増えていくこととなっ

た。2000 年 6 月には、ソウル大学に日本学講座が開設されることに対して、合意がなされ

た。11 月には大学の修能試験に第 2 外国語が復活した。その選択科目として日本語も導入

された[磐村 2007:26‐27]。 第 4 節 韓国の中の日本語学習者 第 4 節では、韓国においてどれくらいの日本語学習者がいるのか、そして世界ではどの

くらいの日本語学習者がいるのかを述べる。

4-1 日本語学習者数が多い国 現在、日本語学習者が多い国は、中国、韓国、オーストラリアである。その数を見てみ

る。 図 1 日本語学習者の多い国・地域

(単位:人 出典:国際交流基金 2003 年海外日本語教育機関調査結果概要)

日本語学習者数(国・地域別)

順位 国・地域 学習者数

14 予備考査を改めたもの。 15 修能試験ともいう。 16 [(金淑子 1995、森山 2001) 纓坂 p25-26 に引用]

16

Page 17: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

1 韓国 89 万 4,131

2 中国 38 万 7,924

3 オーストラリア 38 万 1,954

4 アメリカ 14 万 0,200

5 台湾 12 万 8,641

6 インドネシア 8 万 5,221

7 タイ 5 万 4,884

8 ニュージーランド 2 万 8,317

9 カナダ 2 万 0,457

17

Page 18: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

(外務省 HP より)

10 ブラジル 1 万 9,744

この表を見ると韓国には多くの日本語学習者がいることがわかる。その次に中国、オー

ストラリアと続くが、1 位の韓国が圧倒的に多くの日本語学習者がいる。 4-2 韓国の中の日本語学習者数 国際交流基金(1998)の報告によると、韓国における日本語学習者は 100 万人近くに達し、

世界第 1 位となった。2000 年の教育改革が日本語学習者の増加と関係している。2000 年

の教育改革では、高校生の第 2 外国語履修と大学受験能力試験で第 2 外国語の選択が可能

となった17[纓坂 2007:116]。 実際の韓国の中の日本語学習者は以下の通りである。 図 2 2006 海外日本語教育機関調査結果

(国際交流基金 HP より) 学習者数はおよそ 91 万人であり、その年齢層は小学生から一般成人までと幅広い学習者

がいる。近年、全学習者の中心は中学生および高校生であり、全体のおよそ 84 パーセント

を占める[国際交流基金 HP 2009,12.25]。 第 5 節 まとめ 日本による植民地支配が終わると、韓国では反日感情により日本のものが次々と排除さ

れ、日本語が使われることもなくなった。しかし、大学入試の制度が変わったり、経済危

機が訪れたりする中で、日本語教育が拡大していき、時代と共に日本大衆文化も解禁され

17 [(朝日新聞 2001) 纓坂 p116 に引用]

18

Page 19: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

ていき、現在に至る。 韓国において、未だ反日感情を持つ人がいる中でも、日本語、そして日本大衆文化は確

実に普及していった。数を見ても今や世界でもっとも多くの日本語学習者がいるのが、韓

国である。動機はそれぞれ違うものの、日本語学習が日韓交流に大きな影響を与えること

ができるのではないかと思う。

19

Page 20: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

第 3 章 韓国大衆文化の広がりと韓国語学習

近年、韓流ブームといわれるように韓国大衆文化が日本に浸透している。そして韓国語

を学ぶ日本人の数も増えている。第 3 章では、韓国大衆文化がどのようにして広まってい

ったのかを述べるとともに、世界の韓国語学習者の中で日本人がどのくらいの割合を占め

ているのかを述べていく。 第1節 韓国大衆文化の広がり~韓流から見えること~ 韓国では 1998 年から「スラムダンク」といった漫画が流行したり、日本人歌手による日

本語の歌が公式発売されたり、段階的に日本文化が解禁されていった。また、日本でも映

画「シュリ」やテレビドラマ「冬のソナタ」が人気を集めるなど韓国への関心の高まりが

見られるようになっていった。韓国人歌手、タレント、スポーツ選手の活躍も目立つよう

になった。また、韓国語や韓国の歴史、文化を学ぶ人が増えていった。こういった現象は

「韓流」と呼ばれる[歴史教育研究会・歴史教科書研究会 2007:355]。 日本においては韓国との文化交流に対する規定が定められたことはないので、韓国のよ

うに明瞭な文化交流政策上の変化は見られない。しかし、多くの日本人が韓国に興味を持

ち、韓国との交流が進んだ時期がある。例えば 1965 年の日韓国交正常化を前後する時期な

どがそうである。そして、1988 年のソウルオリンピックには多くの日本人が韓国を訪れた。

この時期を前後して韓国語に関心を持つ日本人が増えた。その結果、テレビでの韓国語講

座や語学教育施設において、韓国語講座が開設されていくこととなった[林 2005:252]。 また、観光地として韓国が注目されるようになった。1990 年代半ばからの相対的なウォ

ン安の影響による。さらに、2002 年のサッカーW 杯日韓共催の影響もある。こういったこ

とにより、旅行情報誌や旅行番組で韓国が取り上げられ海外旅行先として注目されるよう

になった。1990 年代までの日本における韓国ブームの特徴としては、韓国滞在において必

要な語学や食事、または買い物といった観光情報がメインとなっていることがわかる。そ

れと 2000 年以降の日本での韓国ブームの特徴は少し違ってくる。2000 年以降の特徴とし

ては、韓国の映画やテレビドラマといった、日本国内にいながらも楽しむことのできる韓

国大衆文化が人気を集めているということである。そして、韓国大衆文化が人気を集める

ことによって韓国を訪れる日本人が急増したなど、波及効果や経済効果に大きな影響を与

えたことが特徴といえる[林: 2005:252-253]。 韓国映画については、日本において 1990 年代までは紹介される本数が少なかった。東京

などで、単館上映または韓国映画を特集する映画祭の一環として扱われるといったレベル

に過ぎなかった。しかし、2000 年以降は「シュリ18」や「JSA19」といった作品が相次い

18 1999 年の韓国映画である。韓国国内においては 621 万人の観客動員数であった。日本では 2000 年に公開さ

れ興行収入は 18 億円に及ぶ。 19 韓国で 2000 年に公開された韓国映画である。日本では 2001 年に公開された。

20

Page 21: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

で日本で公開され、観客動員数も大規模なものとなった。その結果、日本全国で劇場公開

される韓国映画の数が急増し、韓国映画の日本向け輸出額は急速に増え、その割合は 2001年度には輸入映画の過半数となった。

テレビドラマについては、1990 年代までの日本では広く放映や紹介がされることはなか

った。韓国で録画されたビデオが販売、レンタルされることはあった。しかし、2002 年か

らは日韓共同制作ドラマ20が放送されたり、「イブのすべて」「冬のソナタ」といった韓国語

ドラマが立て続けに放映されたりした。中でも「冬のソナタ」の人気は絶大なものであり、

NHKによる「冬のソナタ」関連のDVDやビデオ、書籍などの商品の売り上げが 2003 年だ

けで 35 臆円にも及ぶ21。 「韓流」現象は日本から韓国へのヒトの流れにも影響を与えた。韓国映画やドラマのロ

ケ地巡りのツアーなど韓国旅行の人気が高まった。その結果、2004 年度の韓国を訪れた日

本人の数が大きく増えた。韓流による経済効果は、増大した観光収入分も入れて 3000 億円

を越えるとも推測されている22[林 2005:253]。 どうしてこのような現象が起こったのだろうか。それには 3 つの推測がある。第 1 は、「似

て非なる」文化のおもしろさである。韓国映画やドラマに出てくる登場人物のほとんどが

黒髪に瞳の色も黒など人種的な特徴が日本人と同じであることが多い。また、登場人物を

取り巻く現代韓国の情景を見ても日本と似通ったところがある。そして作品の中で描かれ

る韓国社会の道徳的な価値規範や家族との関係などには、日本人の感覚からある程度推測

することができる場合が多い。ほかの外国作品に比べると相対的な違和感は小さいと言え

る。このようなことから、作品や登場人物に親近感を覚え感情移入をすることができる。

感情移入のしやすさに加え、日本の作品には見ることができない設定やストーリー展開、

感情表現といった、海外作品特有の違いが合わさることで日本人は韓国の大衆文化産品に

興味深さを感じるのである。 第 2 に、韓国大衆文化産品の国際競争力向上である。 韓国において国産映画が再評価

されるきっかけとなったのが、「シュリ」「JSA」などの作品である。これらは 1990 年代末

から公開された。作品がヒットしていったことで、韓国では次々と国産映画が観客動員数

を伸ばした。これは韓国国内の映画市場において韓国映画が、短い期間で競争力を向上さ

せたことを表す。こうした競争力の向上が韓国だけでなく、日本を始めとした周辺地域に

おける韓国映画の人気向上につながったと言う事ができる。しかし、韓国製のテレビドラ

マについて見てみると、当初から政府の文化産業支援の直接の対象ではなかった。海外で

韓国製のテレビドラマの人気が高まったことにより、後追いで支援が検討されはじめたの

である。このことは韓国大衆文化産品の競争力伸張に必ずしも政府による支援が必要では

ないことを示している。それでは、韓国テレビドラマがどうして競争力を獲得できたのか

20 TBSテレビと韓国文化放送が共同で製作した深田恭子、ウォンビン出演の「フレンズ」である。 21 [(NHK の連結決算報告)小此木・張 p253 に引用] 22 [(韓国の現代経済研究院による推計結果)小此木・張 p253 に引用]

21

Page 22: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

というと、新しい世代の監督や俳優たちが現れたこと、若手作家が積極的に登用されてい

ったことなどの数多くの理由がある。特に韓国には幅広い年齢層の国産ドラマファンが存

在している。彼らをターゲットにした数多くのドラマが作られ、激しい競争を繰り返して

いったことでさらに国産ドラマの人気が高まったといっても過言ではない。 第 3 には、交流による利益拡大を目指す企業レベル・政府レベルの進展である。先に述べ

た 2 つはどちらも韓国大衆文化の魅力に焦点を当てたものである。第 3 は「韓流」現象がも

たらす政治経済的な利益に注目する。日韓間で直接的に文化産品の輸出入および販売に関

わる企業の増加と行動の変化に注目するとわかりやすい。1998 年以前にビジネスとして成

立したのは、韓国大衆文化産品を日本向けに販売する部分だけであった。韓国における日

本大衆文化開放が進んだことにより、日本の大衆文化産品を韓国向けに販売することが可

能になってきた。すると韓国国内における日本大衆文化需要を見込んだ多くの企業が参入

してくる結果となった。そして、日本においても韓国映画を始めとする韓国大衆文化産品

の人気が高まった。この結果として、少しでも人気のある相手国の作品を獲得するために

企業間の激しい競争が起こっていったのである。この激しい競争は文化産品の輸入価格を

つり上げることとなった。そしてまた、輸入に成功した作品の収益を上げるために自国内

において激しいプロモーション競争が行われたり、広告宣伝費のコストの上昇をもたらし

たりした。そして、両国において自国の消費者がそれまでは気づかずにいた相手国の大衆

文化の魅力を相手国の企業ではなく、自国企業が売り込むということになった。これらの

企業は相手国文化の価値が自国内で高く評価される点において利害を共有している。だか

らこそ、彼らが「韓流」ブームを維持するだけでなく更にもり立てていこうとすることとな

った。 そして、日本における「韓流」現象は、旅行商品や語学教材の売り上げにも大きな波及効

果を与えた。しかし、韓国は 2002 年のサッカーW 杯をきっかけに海外からの旅行客受け入

れ態勢を整えたにも関わらず訪韓者数は伸び悩んでいた。理由は SARS の影響である。こ

のことから、日韓の旅行業界にとって絶好の機会となったのが 2003 年以降の「韓流」現象な

のである[林 2005:254-258]。

第2節 世界の韓国語学習者の中の日本 「韓流」ブームをきっかけに、日本において韓国語学習者が増えていった。韓国語学習

者がどのくらい増えていったのかを検定試験から見ていこうと思う。 2-1 ハングル能力検定試験 ハングル能力検定試験は、日本で始めて実施された韓国・朝鮮語検定である。年 2 回(6 月

と 11 月)実施される。1993 年 6 月に第 1 回目の試験が実施された。今日までに 32 回実施

されてきたハングル能力検定試験の出願者数は述べ 19 万人を越え、年間出願者数は 3 万人

ほどである。

22

Page 23: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

1993 年第 1 回目の試験の受験人数は 2,010 名であった。これは東京、大阪、福岡で実施

された。2002 年に開催された日韓共催ワールドカップをきっかけにして受験者数は急増す

ることとなった。そして、2004 年から起こった「韓流」ブームにより学習者は更に増え、

第 23 回検定試験では受験者数が 1 万人に到達した。2009 年春に実施された第 32 回検定試

験の出願者は 11,568 人であり、韓国語学習者が急増したことがわかる。受験者層を見てみ

ると、年齢は 6 歳から 87 歳であり、学生、社会人、主婦、自営業、公務員と幅広い層の人

たちが受験している[特定非営利活動法人 ハングル能力検定協会 HP 2009,12.25]。 2-2 韓国語能力検定試験

韓国語能力検定試験は、韓国語を母国語としない学習者を対象に実施される試験である。

日本を始め、世界 24 カ国で毎年ほぼ同時期に実施されている。クラス別の合否判定は韓国

政府(教育科学技術部)による公式認定である。年に 2 回実施される(日本においては 4 月と 9月)[財団法人韓国教育財団 HP]。 図 1 韓国語能力検定試験受験者数推移

0

1000

2000

3000

4000

5000

6000

7000

8000

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第9回 第10回 第14回

受験者

([財団法人韓国教育財団 HP]より筆者作成) 次に第 16 回試験の出願者数を国別に見てみる。

図 2 国別出願者数

23

Page 24: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

0

10000

20000

30000

40000

50000

60000

70000

80000

中国 日本 台湾 タイ

出願者

([YAHOO!JAPAN ニュース]より筆者作成)

中国がトップで 6 万 7112 人である。次いで日本が 2 位であり、5932 人である。台湾が

1535 人、タイが 911 人、ベトナムが 707 人、ウズベキスタンが 663 人、オーストラリアが

537 人となっている[YAHOO!JAPAN HP 2009,12.25]。 第3節 まとめ ハングル能力検定試験を見てみると、2006 年に実施された第 10 回目の試験の受験者数

が 7,172 名で 1 番多くなっている。この時期は「韓流」ブームで韓国語学習者も急増した

ことがわかる。 韓国語能力試験を見てみると、日本人出願者数が中国に次いで 2 位となっており、韓国

語学習に興味を持っている日本人の数が多いことがわかる。

24

Page 25: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

第4章 日韓交流の現状(日本語学習から見る)

第 4 章では第 2 章で述べた「日本大衆文化の広がりと日本語学習」と第 3 章で述べた「韓

国大衆文化の広がりと韓国語学習」を比較し筆者が感じたこと、わかったこと等を述べて

いく。筆者なりの考えで日本語学習が持つ日韓交流への役割やこれからの課題を述べてい

く。 第1節 韓国人が日本語を学ぶ理由 世界において、日本語学習者が最も多い国は韓国である。韓国人はどうして日本語を学

ぶのだろうか。 図 1 韓国人の日本語学習目的

(2006 年海外日本語教育機関調査結果)

1.日本の文化に関する知識を得るため 9.日本との親善・交流を図るため(短期訪日や日本人受入)

2.日本の政治・経済・社会に関する知識を得るため 10.日本語によるコミュニケーションが出来るようにするため

3.日本の科学技術に関する知識を得るため 11.母語、または親の母語(継承語)である日本語を忘れないため

4.大学や資格試験の受験準備のため 12.日本語という言語そのものへの興味

5.日本に留学するため 13.国際理解・異文化交流の一環として

6.今の仕事で日本語を必要とするため 14.父母の期待に応えるため

7.将来の就職のため 15.その他

8.日本に観光旅行するため (1.~15.から 5 つ選択)

(国際交流基金 HP より)

これらを見てわかることをまとめたい。

初等・中等教育においては、「日本語という言語そのものへの興味」「日本語によるコミュ

ニケーションが出来るようにするため」「大学や資格試験の受験準備のため」といった理由

25

Page 26: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

から学習する人が多い。 高等教育においては、「日本語によるコミュニケーションが出来るようにするため」「大学

や資格試験の受験準備のため」「日本の文化に関する知識を得るため」といった理由から学

習する人が多い。 学校教育以外では、「日本語という言語そのものへの興味」「日本語によるコミュニケーシ

ョンが出来るようにするため」「日本に観光旅行するため」といった理由から学習する人が

多い。 学校教育で日本語を学ぶ人たちは、大学や資格試験の受験準備といった将来のことを考

えて学習する人が多い印象を受ける。学校教育以外で日本語を学ぶ人たちは日本という国

に興味があり、今後観光などをするために学習する人が多い印象を受ける。

第2節 日本人が韓国語を学ぶ理由 筆者は、2009 年 12 月に大学のゼミのメンバーに韓国語を学ぶ理由、また学びたい理由

を聞いてみたところ、以下のようなものが挙がった。 1. 韓国に旅行に行ってみたいから 2. 韓国の文化(歌手やドラマ、映画)が好きだから 3. 日本語と文法が似ているので学びやすいから 4. 就職活動に役に立つから 5. 近い国の言語だから これらの理由が挙がった。 逆に学ばない理由、学びたくない理由を聞いてみると以下のようなものが挙がった。 1. 韓国人が日本人をライバル視しているから 2. 韓国語、韓国に興味がない 3. 学ぶ利点がない 以上のような意見を聞くことができた。

韓国語を学ぶ理由、学びたい理由としては、日本語と文法が似ているため学びやすいか

らと言っている友人が多かった。また、韓国の文化や歌手に興味がある、韓国という国が

好きで観光に行きたいからという理由も多く聞けた。 韓国語を学ばない理由、学びたくない理由としては、韓国語、または韓国にそもそも興

味がないため学ばないという理由が多かった。そのほかには韓国が日本をライバル視して

いるから韓国語は学びたくないという意見も聞くことができた。最近は韓流ブームなどに

よって韓国の文化などが多く日本に入ってきて、韓国が好きになった人が多い一方でこの

26

Page 27: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

ような意見を持つ人もいることが事実である。筆者は韓国の文化も好きで、言語を学び旅

行にも行きたいと思っている。しかし全ての人が韓国に対して良い印象を持っているわけ

ではなく、全く興味がない人もいる。このような人たちが今後、どうすれば韓国に興味を

持ち、友好的になれるかが大切なのではないだろうか。 第3節 韓国における日本語教育 韓国には多くの日本語学習者がいる。特に学校教育で日本語に触れる人が多いのではな

いかと思う。この節では韓国の学校において日本語教育がどのように行われているのか、

またどのくらいの数の学校が日本語学習を取り入れているのかを見ていく。 初等学校 初等教育においては、政府による日本語教育の指針などはない[磐村 2007: 33]。

中学校 2001 年に中学校に第 7 次教育課程23が適用された。それによって、中学校では、学校裁

量(選択)科目として、漢文、コンピューター、環境、生活外国語の 4 科目が導入された。生

活外国語には、ドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語、日本語、ロシア語、アラビ

ア語の 7 言語があり、日本語を選択できるようになった[磐村 2007:34]。 2002 年度教育人的資源部調べによる「中等学校選択教科編成現状」を見てみると、漢文、

コンピューターが圧倒的に多くなっている。しかし、生活言語を見てみると日本語を選択

した学校がほかの言語を選択した学校と比べて最も多くなっている[磐村 2007:33-34]。 高等学校

2002 年に高校に第 7 次教育課程が導入された。第 2 外国語はドイツ語、フランス語、ス

ペイン語、ロシア語、中国語、日本語、アラビア語である。第 2 外国語の選択科目(一般選

択・深化選択)として、2 年次からの履修が規定された。生徒の希望が尊重され、開講され

ることになった。一般系高校において、2000 年はドイツ語が 1 位であり、日本語はそれに

次ぐ 2 位であった。2001 年になるとその数はドイツ語を抜き、1 位となった。2006 年には、

一般系高校で第 2 外国語として日本語を選択した生徒数は 381,045 名であり、全体の 6 割

以上を占める。日本語は、最も人気のある第 2 外国語となった。また、最近は日本のアニ

メやテレビドラマ、ゲームなどをきっかけに日本語に興味を持つ学生が多い 24 [磐村

2007:35-36]。

専門大学(2 年制大学)

23 韓国の「教育課程」日本の学習指導要領に相当するものである。 24 [(月刊日本語、2006 年 2 月号)纓坂 p36 に引用]

27

Page 28: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

韓国の専門大学は、1964 年、第 1 次経済開発 5 ヵ年計画により「実業高等学校専門学校」

として始まった。これは、技術者養成を目的としている。そして、1970 年には「専門学校」

となった。 1972 年、啓明大学併設専門学校に観光科が建設されたことをきっかけに、観光を中心と

した日本語関連専攻学科が設置され始めた。1979 年になると従来の初級大学と専門学校の

機能が統合され、「専門大学」に名称が変わった。1980 年には釜山女子専門大学に観光通訳

科が設立され、仁川専門大学、長安専門大学などに、日本語科が新設された。1988 年には

教育部の高等教育法施行令により「専門大学」から名称が「大学」へと変わった 25[磐村 2007:37]。 教育年報(2006)によると、人文系学科 330 のうち、「言語・文学」の学科は 300 である。

その中で 1 番多いのが英語であり 100、次に多いのが中国語で 75、その次が日本語で 70である。 日本語関連学科としては、日語科のほかに日語通訳科、観光日語通訳科、社会系の観光

科、観光経営科などがある。2 年制大学は観光リゾート地に隣接する地方都市に多くある

26[磐村 2007:37‐38]。 4 年制大学 1961 年、韓国外国語大学日本語科が開設された。そして 1962 年には国際大学(現在の西

京大学)日語日文学科が開設された。そして 2006 年には日本語専攻コースが設けられてい

る 4 年制大学の数は 100 校を越すとされた27。 教育統計年報(2006)によると、大学の人文系の「言語・文学」の学科数は 981 である。そ

のうち、244 が「英米語・文学」である。174 が「国語・国文学」である。131 が「中国語・文

学」であった。そして、95 が「日本語・文学」であった。 日本語は英語に次ぐポジションにいたものの、在籍学生数を見てみると、4 番目であり、

2002 年以降は中国語に押され続けているのが事実である[磐村 2007:38]。 第 4 節 まとめ 韓国にはどうして日本語学習者が多く、その数が世界 1 にまでなったのかというと、学

校教育の中で日本語に触れる機会が多いことにあると思う。私たちは日本の学校で、特に

義務教育の期間に韓国語を学校教育の中で触れた人は多くないと思う。筆者自身も大学に

入学し、初めて韓国語の講義を受けた。初等教育、中等教育の期間に日本語に触れること

で、日本に関心を持つようになる人は多いのではないかと思う。学習動機はそれぞれ違い、

それが日本語、または日本そのものに興味がある人もいる。また、第 2 外国語として、学

25 [(金淑子 2002)纓坂 p37 に引用] 26 [(金淑子 2002)纓坂 p38 に引用] 27 [(李徳奉 2006)纓坂 p38 に引用]

28

Page 29: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

びやすさ(文法が似ているなど)といった理由から学習を始めた人もいるだろう。しかし、学

校教育の中で日本語に触れる機会が多いということが学習者を現在のように増やしたきっ

かけの 1 つと言える。

29

Page 30: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

終章

日本と韓国には多くの歴史がある。過去に日本が韓国を侵略した歴史から、韓国には反

日感情を持つ人たちが数多くいる。その反対に、韓国のことを嫌う日本人も多くいる。距

離的に最も近い国であるにも関わらず、互いの国に興味すら持たない人たちが多くいるの

ではないかと思う。筆者はその距離を埋めるきっかけとなるのが「日本語」であるのではな

いだろうかと考える。 まず始めに、「日本語」がどのようにして日韓交流に役立っているのか考えたい。本稿で

は、韓国には学習動機は異なるが数多くの日本語学習者がいることを述べてきた。特徴と

しては、中等学校や高等学校など、早いうちに日本語に触れる学生が多いことだと思う。

日本語学習者の多くが、中学生、高校生といった若者である。学校教育の中で第 2 外国語

として、日本語を学ぶ機会があることが特徴であると思う。日本語に早くから触れること

で、日本に留学したいと思う人や日本についてもっと知りたいと思う人が増えるだろう。

こうしたことで日韓交流は少しずつ進展していくのではないかと思う。たとえ日本語を勉

強する目的が受験のため、資格取得のため、就職のためといった日本そのものへの興味で

はないとしても、日本語を学ぶ人が増えるということは日韓交流に大いに役立つと考える。

日本語を学ぶことから日本を知るきっかけになるのではないだろうか。本稿で述べてきた

ように、世界の中で最も日本語学習者が多いのが韓国である。それだけ、日韓交流を広げ

る可能性が広がると考える。 次にこれからの課題を述べたい。日本語を学習していても日本には興味、関心がない人

たちも多くいる。大学や資格試験の準備のために、または日本語という言語そのものに興

味があり、日本語学習をしている人も多くいることは前章でも述べた通りである。筆者は

このような学習者たちがどうすれば日本語だけでなく、日本の文化や日韓交流にまで興味

を持つようになるかがこれからの課題ではないかと思う。例えば、日本語を学習しながら、

日本の文化などを積極的に教えるといったことをしていくことが日韓交流につながるので

はないかと筆者は考える。また、学習しながら日本人と交流する機会ができたら、もっと

日本に興味を持つ人たちが増えるのではないかと考える。過去の歴史を見ると、日本語が

韓国人、そして韓国を支配する道具でもあった。しかし、これからは交流を深める可能性

を秘めたものとなるだろう。 筆者は今回論文を書き、もう 1 つ日韓交流を進展させるために大切だと思ったものがあ

る。それは「韓国語」である。筆者は今まで、日本語が持つ力が大きく、これからの日韓交

流には日本語が大いに役に立つと考えていた。韓国においてもっと多くの人たちが日本語

に触れ、そこから日本に興味を持つようになることが大切であると考えていた。しかし、

それと同じように日本において韓国語がもっと広まれば日韓交流に大いに役立つのではな

いかと思う。韓国における日本語学習者に比べ、日本における韓国語学習者は少ない。日

本では初等学校、中等学校、高等学校において韓国語に触れる人たちは本当に少ないと思

30

Page 31: 卒業論文 日韓交流の中の日本語学習 · 彼らは皆、日本語も日本も好きだと話してくれた。しかし、日本語学習 者の全てが日本に興味を持ち日本に対して友好的なわけではない。日本語を学びたいと思

う。ここがこれからの課題ではないかと筆者は考える。韓国のように第 2 外国語を学習す

る機会ができる、または増えることにより、学校教育で韓国語を学習する若者が増えれば、

よりお互いの国を理解するきっかけになるのではないだろうか。英語だけでなく、韓国語

を学ぶ機会を作っていくことも大切なのではないかと思う。 筆者は日本と韓国の歴史を乗り越え、今後もっと活発な日韓交流が行われるために、日

本語や韓国語が大きな可能性を秘めていると感じている。互いの国の言語を学ぶというこ

とは、コミュニケーション能力だけでなく、互いの国を知るきっかけとなる。今後、どう

すれば日韓交流にもっと日本語学習、または韓国語学習を生かすことができるのか追求し

ていきたい。 [参考文献] 林夏生(2005)『第 7 章 大衆文化交流から見る現代日韓関係-韓国の「日本大衆文化開放政

策」と日本での「韓流」現象を手がかりに』小此木政夫・張達重編『戦後日韓関係の展開』慶

應義塾大学出版会 227-264 黄江(1988)「Ⅴ 神話と言語にみる韓国と日本 日本神話の二重構造」斎藤忠・江坂輝彌編

『先史・古代の韓国と日本』築地書館 186-187 池享(2003)『天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館 磐村文乃(2007)「第 1 章 韓国における戦後の日本語教育の変遷」「第 2 章 日本語教育の深

化と多様化」纓坂英子編『韓国における日本語教育』三元社 11-49 川村湊(2004)『海を渡った日本語 植民地の「国語」の時間』青土者 久保田優子(2005)『植民地朝鮮の日本語教育 日本語による「同化」教育の成立過程』九州大

学出版社 纓坂英子(2007)『韓国における日本語教育』三元社 三橋広夫(2002)『これならわかる 韓国 朝鮮の歴史 Q&A』大月書店 ナム、アンドリュー・C(1988)『韓国の歴史:目でみる 5000 年』翰林出版社 李元淳, 鄭在貞, 徐毅植(2004)『若者に伝えたい韓国の歴史:共同の歴史認識に向けて』明石

書店 歴史教育研究会、歴史教科書研究会(2007)『日韓交流の歴史 先史から現代まで』明石書店 [参考ホームページ] 外務省HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ranking/nihongo.html 国際交流基HP http://www.jpf.go.jp/j/japanese/survey/country/2009/korea.html 財団法人韓国教育財団HP http://www.kref.or.jp/contents_shu_nouryok.html 特 定 非 営 利 活 動 法 人 ハ ン グ ル 能 力 検 定 協 会 「 ハ ン グ ル 」 能 力 検 定 試 験 HP http://www.hangul.or.jp/index.php YAHOO! JAPANニュースhttp: ahoo.co.jp/hl?a=20090910-00000039-yonh-kr//headlines.y

31