の流亡を戒め、浮浪者...の流亡を戒め、浮浪者 3-1 西暦 和暦 誘因...
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3-1
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
714.7
.15
和銅
七年
五月
二十
五日
遠江
地震
和銅
八年
五月
二十
五日
、遠
江地
震で
山が
崩れ
、麁
玉川
を塞
ぐ、
水そ
のた
め流
れず
、数
十日
を経
て欠
潰し
、敷
智、
長下
、石
田の
三都
、民
家170余
区を
没し
、あ
わせ
て苗
を損
ず(続
日本
紀)
714遠
江地
震-715
旧南
信濃
村西
島地
区~
木沢
地区
にか
けて
の遠
山川
約1キ
ロ間
で確
認で
きる
埋没
林の
年代
測定
結果
より
、水
没し
たの
は714
年と
判明
、過
去の
記録
とさ
まざ
まな
自然
科学
デー
タに
よっ
て、
遠江
地震
によ
り池
口川
左岸
で池
原くず
れが
発生
し、
池口
川を
せき
止め
一つ
目の
天然
ダム
をつ
くり
、さ
らに
下流
へ下
った
岩石
が右
岸側
の尾
根を
乗り
越え
て遠
山川
に流
れ込
み、
川を
せき
とめ
て二
つ目
の天
然ダ
ムが
でき
、そ
の天
然ダ
ムに
沈ん
でい
った
森が
しだ
いに
土砂
に埋
まり
、埋
没林
にな
った
と考
えら
れい
る
和銅
七年
一月
/初
めて
食封
の田
租を
封主
に全
給す
る
和銅
七年
九月
/撰
銭を
禁止
715
霊亀
元年
五月
二日
霊亀
元年
五月
二日
数知
、石
田、
長下
の三
都民
間百
七十
余、
鹿王
河(天
竜川
の旧
名)洪
水(天
竜川
洪水
史)
霊亀
元年
五月
/百
姓の
流亡
を戒
め、
浮浪
者は
浮浪
地で
課す
(土
断法
)
726
神亀
三年
神亀
三年
十二
月丁
卯遠
江五
郎水
害を
被る
(天竜
川洪
水史
)
神亀
三年
九月
/豊
作に
より
今年
の田
祖を
免じ
る
761
天平
宝字
五年
七月
天平
宝字
五年
七月
辛丑
荒王
河決
潰三
百余
丈(天
竜川
洪水
史)
天平
宝字
五年
十一
月/
東海
・南
海・西
海の
3道
の節
度使
を任
命し
て、
船舶
・兵
士を
動員
し、
訓練
1225.7
.15
元仁
二年
六月
二日
○大
蛇が
天竜
川を
流れ
てい
った
話「元
仁二
年六
月二
日、
雨が
ひど
く天
竜川
の水
は濁
流が
うず
まき
、得
たい
のし
れな
いも
のが
沢山
流れ
、二
丈(5、
6メ
ート
ル)も
ある
大蛇
も流
れて
いっ
たと
いう
。」
1225
洪水
-D
586
○鎌
倉時
代の
洪水
記 ○濁
流と
とも
に流
れる
大蛇
元仁
二年
十二
月/
幕府
、評
定衆
を設
置、
鎌倉
大番
の制
度を
定め
る
※「社
会の
動き
」への
記入
方法
:災害
・伝承
の発
生し
た年
の近
年に
おこ
った
社会
の動
きに
関し
ては
、
斜字
で
記入
天
竜川
上流
域の
災害
年表
―
被害
の実
態と
教訓
伝承
一覧
表―
参考
-4
3-2
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1394以
前応
永以
前
○熱
田神
社(長
谷溝
口)
「名
古屋
の熱
田神
宮か
ら勧
請し
ても
らい
室町
時代
以前
に建
てら
れて
いた
とさ
れて
いる
。日
本武
尊が
、赤
河原
の地
で大
蛇を
切り
殺し
た後
、大
蛇の
頭を
携え
て溝
口の
里に
来、
桑の
大樹
の下
に行
宮を
造り
、そ
の傍
らに
大蛇
の頭
を埋
めて
里の
患い
を取
り除
いた
とい
う。
」
D541
○天
災を
もた
らす
主を
退治
した
英雄
元中
九年
十月
/南
北朝
統一
1472.6
文明
四年
五月
宮川
と上
川が
氾濫
どの
部落
も濁
流に
のま
れ、
あび
きょ
うか
んの
修羅
場だ
った
応仁
元年
五月
/応
仁・
文明
の乱
おこ
る
1482.6
.11
文明
十四
年五
月二
十五
日五
月二
五日
より
大雨
、大
町・十
日市
場・安
国寺
押し
流さ
れる
、大
町水
海(諏
訪地
方)
1482洪
水-782
1482.8
.9文
明十
四年
七月
二十
五日
七月
二五
日よ
り大
雨、
五日
市場
・十
日市
場・大
町大
海(諏
訪地
方)
1482洪
水-783
1500頃
室町
時代
明応
の頃
○一
本松
の伝
説「小
野村
の南
方新
田と
いう
所に
一本
の独
立し
てい
る松
があ
った
。田
甫中
の三
州街
道脇
にあ
った
が、
現在
では
枯れ
て伐
られ
てし
まっ
た。
今を
500年
ばか
り遡
った
当時
、小
野川
は今
の流
れと
場所
を変
えて
いる
が、
小雨
でさ
え川
は氾
濫し
、田
畑を
流す
こと
が度
々で
あり
農民
は困
って
いた
。時
の庄
屋が
何か
の祟
りだ
とい
い、
これ
を鎮
める
ため
に一
本の
松を
植え
た。
それ
から
は川
も氾
濫す
るこ
とな
く、
豊年
が続
いた
とい
う。
昭和
十年
に伐
った
時、
木の
中に
五斗
も水
が入
って
いて
、そ
の後
大水
がで
たの
で村
人は
後を
絶え
ない
よう
松を
植え
ると
いう
話が
ある
が、
今だ
に植
えて
いな
いと
いう
。(小
野一
夫、
第五
三号
、S37.7
.2)」
D638
○村
を護
った
松○
平成
18年
豪雨
災害
の時
、近
くの
飲み
川・小
野中
村で
土石
流が
発生
して
いる
1533.6
.21
天文
二年
五月
二十
九日
五月
二十
九日
天竜
川大
洪水
、六
月五
日洪
水、
八月
十七
日天
竜川
に水
が出
る、
九月
十四
日大
洪水
、五
月の
洪水
のご
とし
(東
春近
村)
1533洪
水-783
天文
三年
/府
中小
笠原
長棟
の攻
撃に
より
伊那
地域
の小
笠原
氏滅
亡、
府中
小笠
原家
が信
濃国
の小
笠原
一族
を統
一
文明
十一
年/
小笠
原家
総領
職と
伊賀
良荘
の支
配権
を巡
って
信濃
国守
護の
小笠
原政
秀と
、同
族で
ある
小笠
原家
長と
の間
で争
いが
始る
、そ
の後
小笠
原政
秀が
忙殺
され
たこ
とで
松尾
小笠
原家
が伊
那地
域を
統一
3-3
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1540.1
.22-23
天文
八年
十二
月十
四日
~十
五日
大雨
が降
り、
大水
とな
って
橋が
流さ
れ西
東の
通路
も止
まっ
てし
まっ
た(諏
訪市
)1540洪
水-784
1540.9
.11
天文
九年
八月
十一
日近
年に
ない
大風
で諏
訪上
社前
宮で
古木
や大
木が
吹き
折れ
る、
風が
鎮ま
って
から
大水
が来
て大
町で
は家
が十
ばか
りも
流れ
た(諏
訪市
)
1540洪
水-785
天文
九年
五月
/武
田信
虎、
信濃
国佐
久郡
を攻
略
1542.8
.14
天文
十一
年七
月四
日
○桑
原城
の攻
防「酉
の刻
に大
洪水
ふり
、翌
日諏
訪頼
重、
武田
信玄
に振
る。
(守
矢頼
真書
留)前
日に
発生
した
大洪
水が
、諏
訪方
総大
将諏
訪頼
重の
桑原
城攻
防の
命運
をわ
けた
とい
う。
戦線
から
先ず
譜代
の家
臣が
離脱
する
よう
な異
常事
態を
招き
、戦
意を
喪失
して
あえ
ない
結末
であ
った
こと
が暗
示さ
れて
いる
。」
1542
洪水
-D
500
○歴
史に
影響
を与
えた
天災
の史
実
天文
十一
年九
月/
武田
晴信
(信
玄)の
諏訪
進行
し諏
訪惣
領家
が滅
亡 武田
軍は
天竜
川沿
いに
攻め
下り
、福
与城
(箕
輪町
)の
藤沢
頼親
を攻
め、
降伏
させ
た
1544
天文
十三
年
○四
百年
前の
南原
橋「四
百数
十年
前、
現在
の飯
田市
下久
堅南
原に
ある
黒瀬
が淵
の上
に天
竜川
唯一
の橋
がか
かっ
てい
た。
(南
原橋
)天
文十
三年
(1544)に
おこ
った
洪水
で、
その
橋が
落ち
てし
まっ
た。
その
後ず
っと
橋は
なく、
明治
二年
にな
って
赤須
の山
から
持っ
てき
た松
の大
木を
使っ
て橋
がつ
くら
れた
。」
1544
洪水
-D
587
○天
文十
三年
の洪
、南
原橋
流出
の史
実
1544.7
.28
天文
十三
年七
月九
日
○横
山七
か寺
・御
堂島
薬師
の流
失「天
文十
三年
七月
九日
(1544 年
7 月
28
日)の
大洪
水で
横山
七か
寺(青
木川
を地
蔵峠
に向
かう
途中
)、
御堂
島薬
師(下
青木
地区
)が
流出
した
。(大
鹿村
誌)こ
の大
洪水
は、
全国
的に
おこ
った
よう
で、
京都
でも
大洪
水で
四條
五條
橋な
どが
流失
して
いる
。」
1544
洪水
-D
588
○天
文十
三年
の洪
水、
横山
七か
寺・御
堂島
薬師
流出
の史
実
1558~
1570
永禄
年間
○永
禄年
間に
おけ
る川
除普
請、
宇田
屋付
近の
竹木
の伐
採禁
止( 喬
木村
伊久
間)
D508
○防
災対
策永
禄三
年五
月/
桶狭
間の
戦い
で織
田信
長が
今川
義元
を討
つ
天文
十三
年七
月/
足利
義晴
、細
川晴
元と
和睦
3-4
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1569.7
永禄
十二
年六
月小
川川
氾濫
(永
禄十
二年
六月
小川
郷の
水損
川除
普請
の資
料)
1569洪
水-732
永禄
十二
年三
月/
織田
信長
、撰
銭令
をだ
す
中世
末期
○伊
久間
水除
土手
(掘
割)
「長
さ1,7
00m
、高
さ1m
余り
の掘
割で
、伊
久間
の人
たち
が集
団で
中世
末期
頃か
らつ
くり
はじ
めた
とい
う。
人家
の多
いあ
たり
には
水除
土手
は二
重に
造ら
れて
いる
。し
かし
災害
が遠
のくと
その
効得
を忘
れが
ちに
なり
、掘
割を
埋め
たり
物を
置い
たり
、い
ざら
いを
怠っ
た。
その
結果
、大
きな
雹が
降っ
た昭
和2年
6月
には
、麦
がら
など
が堀
割の
中に
入っ
てい
たの
でた
ちま
ちに
水が
溢れ
出し
、伊
久間
は災
害に
見舞
われ
た。
」
D508
○災
害に
対す
る人
の知
恵
1573
天正
元年
天正
元年
癸酉
八月
洪水
大風
吹く(川
路資
料)
1573洪
水-730
天正
元年
四月
/京
都へ
上洛
しよ
うと
三河
国ま
で攻
め上
った
武田
信玄
が死
亡
1573-1593
天正
年間
○蛇
塚「む
かし
西箕
輪の
大萱
の耕
地に
住ん
で作
物を
荒ら
し、
人々
を恐
がら
せて
いた
大蛇
が、
大泉
あた
りに
も主
没し
たた
め、
時の
領主
保科
弾正
が家
臣に
命じ
て退
治さ
せ死
骸を
埋め
たと
いう
。昭
和の
初期
の頃
まで
は高
く石
が積
まれ
、蛇
がた
くさ
んい
たと
いわ
れる
が、
西天
竜耕
地整
理の
ため
に取
り除
かれ
、水
田と
なっ
てし
まっ
たが
、蛇
塚と
いう
地名
が残
され
てい
る。
」
天正
-D
535
○耕
地を
荒ら
す大
蛇退
治
天正
三年
五月
/武
田勝
頼が
長篠
の戦
いで
織田
信長
に惨
敗、
下伊
那地
域へ
の入
口に
あた
る重
要な
岩村
城を
守衛
して
いた
秋山
信友
が織
田軍
の攻
撃に
より
降伏
1578.6
.17
天正
六年
五月
十二
日 天
正六
年戌
寅五
月十
二日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
1580
天正
八年
天正
八年
庚辰
箒星
現る
(川
路資
料)
1573洪
水-730
3-5
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1582.3
天正
十年
二月
○大
蛇が
城「大
蛇が
城(大
島城
)の
崖下
にあ
る天
竜川
の深
い淵
には
大蛇
が棲
むと
いう
。雲
ひと
つな
い晴
れた
日の
朝、
淵の
上よ
り立
ち昇
る水
気が
霧の
雨と
なっ
て城
に降
りそ
そぐ
のを
見る
人た
ちは
、大
蛇の
仕業
だと
いっ
て不
吉の
前兆
でも
ある
よう
に恐
れて
いた
。天
正十
年二
月、
織田
信忠
の大
軍が
火矢
で城
を攻
めた
時、
火の
手が
あが
ると
不思
議に
も淵
の水
が雨
とな
って
消さ
れて
しま
った
。こ
れは
大蛇
の仕
業だ
と淵
に無
数の
矢を
射込
むと
、淵
の面
に大
波が
狂い
起き
、天
地晦
冥の
大雷
雨が
起こ
り、
天竜
川の
水を
真っ
赤に
染め
て大
蛇が
淵の
底深
くに
沈ん
でい
った
。そ
して
城は
焼か
れ、
落城
した
。今
でも
城跡
の畑
を掘
りお
こす
と真
っ黒
い焼
米が
出て
くる
とい
う。
また
一説
に城
兵が
、城
に向
かっ
て大
蛇が
吐く水
煙を
不吉
に思
い、
射殺
した
。守
護を
失っ
た城
は間
もな
く敵
に攻
め落
とさ
れた
とも
いう
。」
1582-
D520
○淵
の主
=大
蛇○
大蛇
の怒
り
天正
十三
年/
織田
信忠
の大
軍が
大島
城(大
蛇が
城)を
攻め
落と
す
1585.6
天正
十三
年六
月天
正十
三年
乙酉
六月
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
桑畑
沢源
流部
(清
内路
村)の
斜面
崩壊
堆積
物中
の埋
れ木
は年
代測
定か
ら、
天正
地震
と一
致し
てい
る、
天然
ダム
形成
1585天
正地
震-718
○御
射山
社の
破壊
「南
箕輪
村の
春日
街道
沿い
の西
側に
、大
きな
落葉
松が
2本
寄り
添う
よう
に生
えて
いる
下に
「御
射山
社」と
刻ま
れた
石碑
が建
てら
れて
いる
。こ
の場
所に
は、
大同
四年
(809)に
坂上
田村
丸が
天皇
の勅
命に
より
建立
した
御射
山社
本社
があ
った
。451年
後に
再建
され
たが
、天
正地
震(1586年
1月
18日
)の
時に
破壊
され
、そ
の後
243年
間造
営す
るこ
とが
でき
ずに
いた
。そ
こで
文政
十年
(1827)七
月に
由来
を記
した
碑が
建て
られ
た。
」
1586
地震
-D
534
○天
正地
震に
よる
御射
山社
の破
壊の
史実
1594.9
.24
文禄
三年
八月
十日
文禄
三年
壬辰
八月
十日
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
文禄
三年
三月
/秀
吉、
伏見
築城
を開
始
天正
十三
年七
月/
秀吉
が関
白と
なり
藤原
姓を
受け
る
1586.1
.18
天正
十三
年十
一月
二十
九日
天正
地震
3-6
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1596.7
.14・18
慶長
元年
六月
十九
日・二
十三
日六
月十
九日
・二
十三
日、
信濃
等に
大洪
水、
百年
以来
の大
水と
いう
1596.7
慶長
元年
七月
地震
慶長
元年
丙申
七月
地震
(川
路資
料)
1586地
震-734
1608
慶長
十三
年慶
長十
三年
夏大
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
慶長
八年
二月
/徳
川家
康が
征夷
大将
軍と
なり
、江
戸幕
府を
開く
1612.5
慶長
十七
年五
月五
月天
竜川
大洪
水。
田中
城三
日町
流失
、竜
東へ
移る
。(現
箕輪
町)
1612洪
水-785
慶長
十七
年三
月/
幕府
、キ
リシ
タン
を禁
じ京
都の
教会
堂の
破却
を命
ずる
(禁
教令
)
1614.9
慶長
十九
年八
月慶
長十
九年
申寅
八月
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
慶長
十九
年十
月/
徳川
家康
、大
阪征
討の
命令
を発
する
(大阪
冬の
陣)
1615頃
元和
元年
頃
○石
神の
松「元
和(1615~
)の
頃、
天竜
川の
氾濫
に相
次い
で悩
んで
いた
農民
が、
常泉
寺に
寄寓
し法
力持
って
いた
山伏
に頼
って
水難
除の
祈祷
をし
ても
らっ
た。
山伏
は21日
間祈
願を
続け
、満
願の
日に
精魂
尽き
て倒
れた
。そ
して
死に
先立
ちこ
の水
神に
手植
の松
を手
向け
たと
いう
。山
伏の
遺骸
は、
約5、
60m
離れ
た北
東の
段丘
上に
葬り
、祠
を立
てて
行者
さま
とあ
がめ
た。
(山
伏塚
)」
1615
洪水
-D
506
○釜
ヶ淵
の鯉
(九
頭竜
・大
蛇の
化身
)○
山伏
によ
る水
難除
の祈
祷○
山伏
の弔
い(年
々4月
に仲
林部
落の
人々
が山
伏塚
にま
つわ
るお
祭り
を行
う)
1615
元和
元年
○ 小
鍛冶
の矢
文「元
和元
年(1615)酒
井新
左衛
門二
男左
太夫
と、
家来
の庄
右衛
門が
大阪
夏の
陣に
出陣
し左
太夫
は戦
死し
た。
庄右
衛門
は帰
郷の
際に
天竜
川が
増水
して
おり
やむ
なく対
岸の
小鍛
冶よ
り矢
文に
て次
男左
太夫
の戦
死を
主家
に報
じた
。明
治17年
、18年
頃ま
では
洪水
のお
りに
は実
際に
矢文
で通
信を
行っ
てい
たと
いう
。」
1615
洪水
-D
647
○洪
水時
の情
報伝
達手
段
元和
元年
/幕
府が
平岡
満島
(天
龍村
)に
「白
木改
番所
」設
置
元和
元年
四月
/大
阪夏
の陣
で豊
臣氏
滅亡
元和
二年
/遠
山6ケ
村を
領有
して
いた
遠山
景直
が病
死、
遠山
騒動
と呼
ばれ
る跡
継ぎ
問題
が発
生
慶長
五年
九月
/関
が原
の戦
い
3-7
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1618.6
元和
四年
五月
元和
四年
戊午
五月
大水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1618.9
.26-
1619.3
元和
四年
八月
八日
から
元和
五年
二月
まで
元和
四年
戊午
八月
八日
箒翌
年二
月ま
で(川
路資
料)
1573洪
水-730
1620.8
元和
六年
八月
元和
六年
庚申
八月
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
元和
六年
/知
久氏
が浪
合、
小野
川、
帯川
、心
川の
4関
を幕
府か
ら預
かる
よう
にな
る
1622.9
.16
元和
八年
八月
十一
日元
和八
年壬
戌八
月十
一日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
元和
八年
八月
/キ
リシ
タン
55名
を長
崎で
処刑
(元
和大
殉教
)
1624も
しくは
1627
寛永
元年
もし
くは
寛永
四年
○堤
防工
事と
百姓
一揆
「寛
永の
大水
(寛
永元
年と
寛永
四年
、笹
本氏
の見
解か
ら寛
永元
年の
洪水
に関
する
可能
性が
高い
)で
数十
町歩
の田
地流
出、
河原
にあ
った
家二
軒も
流さ
れた
。度
々こ
のよ
うな
水害
に見
舞わ
れた
ので
、時
の飯
田城
主脇
坂様
の家
来で
ある
塩山
次右
衛門
が和
久平
の彦
右衛
門に
いい
つけ
て川
除水
刎普
請を
させ
た。
とこ
ろが
、堤
防工
事の
進め
る際
、小
百姓
にば
かり
に不
公平
なこ
とを
させ
たの
で、
大騒
動が
起き
た。
」
1624
洪水
-D
589
○堤
防工
事に
まつ
わる
百姓
一揆
1624.5
寛永
元年
四月
寛永
元年
甲子
四月
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
1624.5
寛永
元年
四月
四月
天竜
川満
水に
て田
島大
水害
あり
、一
部の
人高
遠原
へ上
る。
大田
切・与
田切
の被
害大
(宮
田村
)
1624洪
水-786
1626.4
-9
寛永
三年
四月
~八
月渇
水寛
永三
年丙
寅四
月~
八月
大旱
魃草
木枯
る(川
路資
料)
1626渇
水-735
寛永
三年
/こ
の頃
から
各藩
で塩
の専
売制
を開
始
1627.9
寛永
四年
八月
寛永
四年
丁卯
八月
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
寛永
四年
七月
/幕
府、
京都
諸寺
出世
法度
を定
める
、紫
衣勅
許を
無効
とす
る(紫
衣事
件)
元和
四年
/領
地没
収と
なり
遠山
郷が
天領
とな
る 寛永
元年
八月
/徳
川忠
長に
駿河
・遠
江・両
国を
加増
(甲
斐国
と合
わせ
50万
石)、
駿府
城主
とな
る
3-8
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1630
寛永
七年
寛永
七年
庚午
凶作
五穀
実ら
ず(川
路資
料)
1573洪
水-730
寛永
七年
七月
/幕
府、
ポル
トガ
ル貿
易を
2年
ぶり
に再
開寛
永八
年三
月/
浅間
山噴
火
1632
寛永
九年
地震
寛永
九年
辛末
地震
(川
路資
料)
1586地
震-734
寛永
九年
九月
/幕
府、
旗本
諸法
度を
定め
る
1639.4
寛永
十六
年三
月
○小
川川
をめ
ぐる
水利
権争
い「伊
久間
村内
伊久
間原
の余
り水
を小
川川
へ落
とし
たこ
と(伊
久間
水除
土手
)か
ら小
川村
との
争い
が起
こっ
た。
」
D508
○災
害が
もた
らす
利権
争い
寛永
十六
七月
/鎖
国の
完成
1641・1
642
寛永
十八
・十
九年
渇水
寛永
十八
、十
九年
大凶
作、
夏大
旱魃
、秋
大風
、数
度に
及び
五穀
実ら
ず、
野山
に飢
死者
数返
れず
、犬
猫も
又餓
死、
人々
食糧
とし
て草
木根
と掘
り喰
い松
の木
皮を
剥ぎ
香き
粉と
な し
餅に
つく(川
路資
料)
1626渇
水-735
寛永
十九
年/
寛永
の大
飢饉
1644頃
正保
の頃
○深
見の
池伝
説「か
つて
、川
路の
貝鞍
の池
を埋
め立
てて
新し
い田
を作
るこ
とに
なっ
た頃
、こ
のあ
たり
では
見な
れな
い美
しい
娘が
ひと
り、
天竜
川の
川沿
いの
道を
深見
の里
へと
やっ
てき
た。
娘は
とあ
る農
家を
訪れ
、手
伝い
を申
し出
た。
とこ
ろが
3日
目の
朝、
娘は
井戸
に水
を汲
みに
行っ
たま
ま昼
にな
って
も帰
っこ
なか
った
。井
戸端
には
娘の
下駄
が脱
ぎ捨
てて
あり
、村
人が
井戸
をさ
らっ
てさ
がし
てみ
たが
何も
見つ
から
なか
った
。そ
れか
らし
ばら
くし
たあ
る日
、晴
れて
いた
空が
にわ
かに
かき
曇り
、黒
雲が
広が
ると
稲妻
が走
り、
大雷
雨と
なっ
て深
見の
里一
帯を
真っ
暗闇
に包
みこ
んだ
。雷
鳴が
止ん
だ後
、村
人た
ちが
ほっ
とし
て辺
りを
眺め
ると
、今
まで
青々
とし
てい
た麦
畑が
見渡
す限
りの
大池
とな
って
、波
が逆
立っ
てい
た。
村人
たち
は口
々に
「竜
神さ
まの
お怒
りだ
」「お
祭り
をし
て、
水の
霊を
慰め
なくて
は」と
言い
あい
、た
だち
に池
の端
に諏
訪神
社を
祀り
、毎
年7月
にな
ると
イカ
ダを
組ん
で池
に浮
かべ
、神
楽を
奉納
して
池の
主を
慰め
るこ
とに
した
とい
う。
また
、池
の底
は深
く龍
宮に
通じ
てい
ると
もい
う。
」
1644
雷雨
-D
524
○複
数あ
る深
見の
池の
主伝
説(天
龍村
平岡
宇連
の大
蛇)
(天
龍村
神原
のと
うぢ
やげ
の池
の大
蛇)
(飯
田市
川路
の貝
鞍が
池の
大蛇
)(阿
智村
浪合
蛇峠
の蛇
が池
の主
)
正保
元年
十二
月/
諸国
郷村
高帳
・国郡
諸城
の図
(正保
図)を
作製
成さ
せる
3-9
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1645.6
.17
正保
二年
五月
二十
三日
○諏
訪市
四賀
桑原
の鮎
沢さ
んの
「鮎
沢系
図」
「鮎
澤肥
前守
六代
之孫
鮎澤
源吾
・孫
右衛
門・姉
共ニ
鮎澤
村ニ
而誕
生、
姉者
橋原
村へ
嫁ス
、此
時正
保二
丙戌
五月
廿三
日、
蛇崩
レニ
而家
屋鋪
不残
押流
され
、右
両人
漸く命
をた
すか
り闇
夜橋
原村
姉之
方江
引越
、正
保三
丙戌
八月
横川
村江
引移
る、
正保
二兄
十才
、弟
八才
」
「鮎
沢肥
前守
の六
代の
孫に
当た
る鮎
澤源
吾、
孫右
衛門
は姉
と共
に鮎
澤村
(岡谷
市川
岸)に
おい
て誕
生し
た。
姉は
橋原
村(同
)へ嫁
いだ
。こ
の時
、正
保二
年五
月二
十三
日(ユ
リウ
ス暦
=西
暦1645年
6月
7日
、グ
レゴ
リオ
暦=
西暦
1645年
6月
17日
)、蛇
崩れ
によ
って
家屋
敷が
残ら
ず押
し流
され
た。
源吾
と孫
右衛
門の
両人
はよ
うや
く命
が助
かり
、橋
原村
の姉
の所
へ引
っ越
した
。そ
の後
正保
三年
八月
に横
川村
へ引
き移
った
。蛇
崩れ
にあ
った
正保
二年
に兄
は十
才、
弟は
八才
であ
った
。」
D723
正保
元年
十二
月/
諸国
郷村
高帳
・国郡
諸城
の図
(正保
図)を
作製
成さ
せる
1647.6
-7
正保
四年
五月
○般
若島
「寛
永元
年(1624)に
大峯
山行
者の
慶芳
院不
源と
いう
者が
、こ
の地
に堂
宇を
構え
た。
正保
四年
(1647)五
月の
洪水
のお
り堂
宇が
流さ
れそ
うに
なっ
た時
、般
若経
をと
びと
びに
読ん
で流
失を
免れ
たと
いう
。こ
こか
ら般
若島
と名
づけ
られ
た。
」
1647
洪水
-D
509
○般
若島
の由
来○
読経
によ
るご
利益
正保
四年
八月
/幕
府、
ポル
トガ
ル船
に通
商拒
絶を
伝え
、帰
帆さ
せる
1648.4
慶安
元年
三月
慶安
元年
戊子
三月
出水
、夏
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
慶安
元年
二月
/江
戸市
中諸
法度
を定
める
1649.7
慶安
二年
六月
地震
慶安
二年
巳丑
六月
大地
震(川
路資
料)
1586地
震-734
慶安
二年
二月
/農
民法
度(慶
安御
触書
)・検
地条
目を
公布
慶安
二年
八月
/大
名・
旗本
のう
ち、
地震
等の
非常
時に
登城
する
者を
定め
る
慶安
三年
庚寅
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
地震
慶安
三年
庚寅
地震
(川
路資
料)
1586地
震-734
お蔭
参り
が流
行1650
慶安
三年
3-10
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1652は
じめ
承応
のは
じめ
○今
に生
きて
いる
長左
衛門
「白
河院
の承
保元
年に
奥山
平太
夫と
いう
人が
開い
た(北
方南
方両
郷旧
記)と
いわ
れる
荒井
川(用
水)は
度々
山抜
けが
起こ
って
おり
、百
年も
荒れ
っぱ
なし
にな
って
いた
。こ
れを
知っ
た飯
田町
生ま
れの
山本
長左
衛門
は、
北方
村に
住む
よう
にな
って
から
村民
を救
うた
めに
飯田
城主
の脇
坂さ
まに
河川
工事
を願
いい
れ、
仕事
にと
りか
かっ
た。
しか
し、
水を
通そ
うと
した
とこ
ろ基
礎工
事が
悪か
った
ため
、欠
潰し
あた
りの
田畑
を流
して
しま
った
。村
民か
ら恨
みを
かい
、牢
屋に
入れ
られ
てし
まっ
た長
左衛
門は
、獄
中で
設計
書を
つくり
再び
河川
工事
を開
始し
て、
とう
とう
と水
が流
れる
よう
にな
った
。こ
の功
績に
より
殿様
から
はお
ほめ
にあ
ずか
り、
村人
から
感謝
され
るよ
うに
なっ
たた
め、
長左
衛門
は死
んで
から
も人
々の
中で
生き
てい
ると
いう
。」
○山
本長
左衛
門頌
徳碑
「新
井川
の工
事を
完成
させ
た偉
業を
讃え
て建
てら
れた
。」
○荒
井川
「笠
松山
麓近
くの
荒井
川は
度々
の山
抜け
から
“荒
れる
井”と
いっ
た。
」
1652
はじ
め-D
522
○災
害に
挑む
人の
姿と
功績
を後
代に
伝え
る
1652.7
承応
元年
六月
承応
元年
壬辰
六月
出水
被害
甚大
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1654
承応
三年
承応
三年
甲午
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
承応
三年
六月
/玉
川上
水完
成
1657
明暦
三年
明暦
三年
丁酉
大出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
明暦
三年
一月
/江
戸で
大火
(明
暦の
大火
)
1660.5
万治
三年
四月
万治
三年
庚子
四月
十九
日大
洪水
八日
間に
亘り
被害
夥し
(川
路資
料)
1573洪
水-730
万治
三年
六月
/大
阪城
火薬
庫に
落雷
、民
家1500軒
破壊
万治
三年
九月
/諸
国大
風雨
・洪
水
承応
元年
一月
/幕
府、
代官
の服
務規
程を
定め
る
3-11
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1662.3
.25-4.8
寛文
二年
二月
六日
より
二十
日迄
寛文
二年
壬寅
二月
六日
より
二十
日迄
日々
赤く見
ゆ(川
路資
料)
1573洪
水-730
1662
寛文
二年
寛文
地震
○大
蛇が
池「大
蛇が
棲む
池が
あっ
たが
地震
で崩
れた
。大
蛇は
和知
野川
を下
って
天竜
川に
出、
千木
沢川
をさ
かの
ぼっ
て深
見ノ
池を
つくり
移り
棲ん
だと
いう
。」
1662
地震
-D
531
○寛
文地
震に
よる
深見
ノ池
の崩
壊史
実 ○大
蛇、
鬼ヶ
城(崩
れに
関係
した
地名
。)
1663.1
2寛
文三
年十
二月
地震
寛文
三年
癸卯
十二
月大
地震
(川
路資
料)
1586地
震-734
寛文
三年
五月
/幕
府、
殉死
を禁
ずる
1670.2
寛文
十年
寛文
十年
庚戌
大洪
水、
米値
段上
る(川
路資
料)
16731延
宝l年
美丑
大出
水1573洪
水-730
寛文
十年
/箱
根用
水完
成
1674.8
延宝
二年
七月
延宝
二年
甲寅
七月
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
延宝
二年
/諸
国風
水害
、凶
作と
なる
1675
延宝
三年
延宝
三年
乙卯
凶作
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1676.8
延宝
四年
七月
延宝
四年
丙辰
七月
洪水
、秋
凶作
(川
路資
料)
1573洪
水-730
延宝
四年
三月
/幕
府、
諸国
の堤
防決
潰地
巡察
を命
じる
延宝
四年
/尾
張、
大風
雨
1678.9
延宝
六年
八月
延宝
六年
戊午
八月
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
延宝
六年
一月
/江
戸に
大名
火消
を定
める
延宝
六年
八月
/江
戸大
地震
1680.7
延宝
八年
七月
渇水
延宝
八年
庚申
七月
洪水
、秋
より
冬へ
かけ
大旱
魃(川
路資
料)
1573洪
水-730
延宝
八年
/諸
国に
水害
おき
る、
この
冬大
旱と
なる
1681
天和
元年
天和
元年
壬戌
夏出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
寛文
二年
三月
/方
広寺
の金
銅の
大仏
、地
震で
倒壊
のた
め、
木造
に替
え、
寛文
八年
より
この
銅で
文字
銭鋳
造寛
文二
年五
月/
京畿
大地
震
3-12
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1684
貞享
元年
青木
川の
洪水
で山
崩れ
地欠
けが
あり
、土
砂を
押し
流し
て耕
地埋
没1684洪
水-707
1684.4
.6貞
享元
年二
月二
十二
日貞
享元
年甲
子二
月二
十二
日大
流量
空に
声あ
り雷
の如
し(川
路資
料)
1573洪
水-730
1691.5
元禄
四年
五月
前線
元禄
四年
辛未
五月
霖雨
滋し
、八
月大
洪水
にて
堤防
切込
大事
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1691.6
元禄
四年
六月
前線
○大
田切
川の
川除
林「元
禄四
年(1691)の
五月
の霖
雨、
六月
には
天竜
川に
洪水
があ
り、
伊那
谷に
大き
な被
害が
でた
。こ
の年
、大
田切
川と
天竜
川と
の合
流点
に二
十数
歩に
わた
って
植林
がな
され
た。
長さ
七百
間・幅
百間
は戦
後ま
で残
存し
たが
、現
在は
伐木
開墾
され
て水
田地
帯に
変わ
り、
県立
西駒
郷ほ
かの
施設
中に
わず
かに
松林
の面
影を
留め
てい
る。
」
1691
洪水
-D
590
○大
田切
川の
川除
林の
史実
1693-1936
元禄
六年
~昭
和11年
○殿
島橋
の変
遷「三
峰川
奥地
の森
林濫
伐に
より
、洪
水を
招来
し氾
濫原
が拡
大し
たこ
とに
より
、元
禄六
年か
ら昭
和十
一年
まで
の240年
間に
殿島
橋の
長さ
が5倍
にな
った
。」
1693
洪水
-D
504
○天
災が
もた
らす
町の
変遷
1693.8
元禄
六年
八月
元禄
六年
癸酉
八月
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1699
元禄
十二
年台
風元
禄十
二年
乙卯
大風
雨(川
路資
料)
1573洪
水-730
元禄
十二
年九
月/
諸国
暴風
雨に
よる
凶作
のた
め、
酒造
額を
前年
の5
分の
1と
する
1701.9
元禄
十四
年八
月元
禄十
四年
辛巳
八月
洪水
、凶
作に
て餓
死す
るも
のあ
り (
川路
資料
)1573洪
水-730
元禄
十五
年十
二月
/赤
穂浪
士仇
打ち
1705.8
.16-17
8.3
1宝
永二
年六
月二
十七
から
二十
八日
、七
月十
三日
前線
宝永
二年
乙酉
六月
二十
七・二
十八
日洪
水、
七月
十三
日再
出水
、田
畑流
失夥
し(川
路資
料)(天
竜川
洪水
史) (二
俣)
1573洪
水-730
貞享
元年
三月
/山
城・
大和
・摂
津・河
内・近
江に
治水
条例
をだ
す
元禄
六年
十一
月/
旗本
らに
、警
火等
につ
いて
の法
度を
出す
3-13
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1707.6
宝永
四年
六月
宝永
四年
丁亥
六月
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1707.1
0.2
8宝
永四
年十
月四
日宝
永地
震
高森
町下
市田
の上
原彦
右門
の「歳
中行
事」に
よれ
ば、
「十
月四
日晴
天
朝庄
右衛
門二
被預
代か
きに
行
次右
ヱ門
之門
二而
伝兵
衛彦
五郎
二逢
孫右
ヱ門
行
午下
刻(午
後一
時)申
酉(西
南西
)方
より
大地
震お
びた
だし
き事
近年
希成
事共
也我
家の
下道
動り
破長
さ七
間程
其
外東
山々
のな
ぎ一
同ニ
方々
崩
土煙
四方
に立
ち見
ゆる
」と
記録
が残
って
いる
1707宝
永地
震-704
M8.4
、国
内大
級の
地震
、全
国で
死者
2万
人、
潰家
6万
戸、
流失
民家
2万
戸
飯田
城大
破、
追町
の石
垣崩
、御
門の
戸不
立、
追町
鐘付
堂の
石垣
崩れ
、時
の鐘
27日
より
太鼓
に変
わる
。城
内の
石垣
残ら
ず崩
、権
四郎
門の
石垣
崩れ
、居
所潰
れ。
山本
村、
松下
日向
守様
御領
、近
藤宮
内様
御領
、家
数223軒
、全
潰れ
159軒
、半
潰れ
55軒
、死
人5人
。飯
田領
分2万
石之
内
町・在
、全
潰れ
315軒
、半
潰れ
57軒
うち
町方
全
潰れ
40
軒、
半潰
れ80軒
(役
用古
記録
妙帳
)
1707宝
永地
震-710
御番
所潰
れ、
3軒
潰れ
、け
が人
5名
(遠
山影
政氏
文書
)(天
龍村
)1707宝
永地
震-725
所々
ゆり
われ
竜岳
寺庫
裏潰
れる
、下
條村
付近
では
、1~
2メ
ート
ル程
の地
割れ
がで
き水
が流
れで
た(下
条村
)
1707宝
永地
震-721
高遠
城郭
破損
の場
所多
し(高
遠町
)1707宝
永地
震-757
1707.1
2.1
6宝
永四
年十
一月
二十
三日
降灰
富士
山爆
発に
より
灰が
高遠
まで
降り
農作
物埋
没(高
遠町
)1707降
灰-758
1708.8
.20
宝永
五年
七月
五日
台風
宝永
五年
戊子
七月
五日
大風
吹く(川
路資
料)
1573洪
水-730
1708.1
0.1
4宝
永五
年九
月宝
永五
年戊
子九
月洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
宝永
四年
/善
光寺
再建 宝
永四
年十
一月
/富
士山
噴火
、宝
永山
でき
る、
江戸
にも
火山
灰が
降っ
た
M8.4
、国
内大
級の
地震
、全
国で
死者
2万
人、
潰家
6万
戸、
流失
民家
2万
戸
宝永
四年
/善
光寺
再建 宝
永四
年十
一月
/富
士山
噴火
、宝
永山
でき
る、
江戸
にも
火山
灰が
降っ
た
宝永
五年
一月
/幕
府、
富士
山噴
火に
よる
降灰
地救
恤費
用を
全国
に賦
課す
る
1707.1
0.2
8宝
永四
年十
月四
日宝
永地
震
3-14
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1711
正徳
元年
九月
正徳
元年
辛卯
九月
満水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
正徳
元年
七月
/九
州・
東海
地方
大風
雨
1712.9
.19
正徳
二年
八月
十九
日
八月
十二
日よ
り雨
降、
高五
千二
百余
石が
水押
水湛
当荒
、高
百石
余が
永荒
、所
々川
除提
切口
が三
千四
百九
十間
余、
潰家
が四
十軒
、半
潰が
七十
七軒
、入
水家
が百
九十
九軒
、所
々落
が五
十二
ヶ所
(諏
訪郡
)
正徳
二年
四月
/長
雨、
美濃
洪水
正徳
二年
七~
九月
/諸
国長
雨に
よる
洪水
1715.7
.17
正徳
五年
六月
十七
日高
遠風
雨強
く川
々満
水、
領内
にて
橋三
十六
ヶ所
、二
十三
戸流
失1715未
満水
-756
正徳
五年
乙末
六月
十七
日か
ら二
十日
何百
年来
の満
水と
も例
え様
なし
、古
今稀
有の
大満
水(川
路資
料)
二十
三日
竹佐
御役
所よ
り平
沢唯
右衛
門外
二名
、御
役人
与一
外 一
名検
分(川
路資
料)
1573洪
水-730
大河
原・鹿
塩両
山木
場に
あっ
た材
木が
、山
崩れ
、出
水で
埋没
また
は流
散1715未
満水
-708
上穂
町の
安楽
寺が
流失
(駒
ヶ根
市)
1715未
満水
-754
六月
十七
日よ
り二
十四
日迄
伊那
谷未
曾有
の大
雨降
り(未
満水
)中
央ア
ルプ
スの
崩落
によ
り土
石流
が押
し出
し出
砂原
を形
成
1715未
満水
-787
野底
川が
氾濫
○前
亡後
死三
界万
霊の
碑「正
徳五
年(1715)の
未満
水の
時に
流死
した
人の
供養
のた
め、
市田
村の
古刹
安養
寺二
世了
渓(市
田村
羽生
勝朗
氏)が
主唱
とな
って
建立
した
。安
養寺
の過
去帳
には
、正
徳五
年六
月十
八日
洪水
、田
島前
沢よ
り下
は松
川の
間の
田畑
大損
害人
馬流
死す
るも
の多
し、
と記
され
てい
る。
」
1715
未満
水-
D592
○被
害者
の供
養費
六月
十八
日の
午後
二時
から
二十
四日
まで
豪雨
が続
き、
風越
山、
安平
寺な
どの
諸山
が崩
れ大
洪水
をひ
きお
こし
た。
1715.7
.18-7.2
4正
徳五
年六
月十
八日
~二
四日
正徳
五年
一月
/海
舶互
市新
例(正
徳新
令)
3-15
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○徳
本さ
まの
碑「正
徳五
年(1715)の
ひつ
じ満
水の
後、
徳本
和尚
が洪
水で
亡くな
った
人の
菩提
を弔
った
とい
う。
」
1715
未満
水-
D595
○犠
牲者
の追
悼
○出
砂原
(高
森町
)「正
徳五
年(1715)の
未満
水の
時、
大島
山か
ら天
竜川
に注
いで
いる
大島
川が
満水
とな
って
土石
流が
発生
し、
大量
の土
砂が
押し
出さ
れて
でき
た。
」
1715
未満
水-
D593
○災
害に
よっ
てつ
けら
れた
地名
○夜
泣き
石「正
徳五
年未
満水
の時
(1715)、
大島
川か
ら運
ばれ
たと
伝え
られ
てい
る。
」
1715
未満
水-
D552
○災
害が
もた
らし
た地
物
○正
徳五
年当
時の
歌「千
早振
る神
代も
聞か
ず野
底山
天王
原に
水上
がる
とは
。」
1715
洪水
-D
555
○当
時歌
われ
た歌
○北
原の
土石
流「正
徳五
年(1715)の
大洪
水で
、下
久堅
北原
の裏
の洞
が一
晩で
ぬけ
てで
きた
。そ
の際
、天
竜川
の流
木が
多か
った
ので
、川
端に
それ
を拾
いに
行っ
た人
たち
も多
く、
虎岩
の五
右衛
門と
和久
平の
助次
郎が
流さ
れて
行方
不明
とな
った
。」
1715
未満
水-
D591
○二
次災
害の
教訓
○正
徳五
年未
満水
の時
、大
宮の
丘陵
に逃
げ集
まり
、大
宮諏
訪神
社加
護を
祈願
した
とこ
ろ、
水勢
一変
し、
北は
野底
川に
南は
松川
に二
分さ
れて
飯田
城市
の災
害を
免れ
たい
う。
○式
年祭
(お
ねり
まつ
り)
「正
徳五
年未
満水
の時
、大
宮諏
訪神
社高
台に
逃げ
た人
々が
、一
心に
祈願
をこ
めた
とこ
ろ、
水勢
が一
変し
て飯
田台
地が
大難
を免
れた
故、
飯田
全町
の喜
びは
限り
なく報
徳が
敬神
とな
り、
全町
あげ
ての
大祝
祭を
行う
のが
慣例
とな
った
。七
年目
干支
の申
年と
寅年
の四
月一
日か
ら二
夜三
日間
行わ
れる
。」
1715
未満
水-
D512
○諏
訪神
社(風
水害
鎮護
の神
)の
報徳
1716.9
.2正
徳六
年七
月十
七日
諏訪
湖大
満水
、角
間川
百年
にも
なき
大満
水1716洪
水-773
正徳
六年
五月
/享
保改
革
六月
十八
日の
午後
二時
から
二十
四日
まで
豪雨
が続
き、
風越
山、
安平
寺な
どの
諸山
が崩
れ大
洪水
をひ
きお
こし
た。
正徳
五年
六月
十八
日~
二四
日1715.7
.18-7.2
正徳
五年
一月
/海
舶互
市新
例(正
徳新
令)
3-16
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
M6.4
、高
島城
で石
垣2
ヶ所
崩1718遠
山地
震-700
高遠
城の
内外
や侍
屋敷
など
破損
1718遠
山地
震-701
龍淵
寺が
大破
(和
田村
龍淵
寺過
去帳
)1718遠
山地
震-713
和田
盛平
山の
一角
(北
西斜
面)が
崩れ
落ち
遠山
川を
堰き
止め
、同
時に
主峰
から
分離
した
出山
が出
現、
遠山
川は
湖水
とな
り天
然ダム
を形
成し
、そ
の後
西方
へ決
壊し
広い
河原
をつ
くっ
た、
遠山
川は
何町
も西
に移
動し
て現
在の
流路
をと
るこ
とに
なっ
た、
また
片町
家の
5人
が石
に打
たれ
て死
亡(遠
山峡
谷に
出山
を造
りた
る享
保地
震史
料)
1718遠
山地
震-714
駒場
で64軒
中32軒
全壊
、32軒
破損
、上
中関
駒場
社が
半壊
し石
の鳥
居が
破損
(阿
智村
)1718遠
山地
震-720
然所
去七
月二
十六
日大
地震
に而
御番
屋石
垣共
建家
共悉
震潰
し山
崩二
而押
埋申
候(天
龍村
遠山
家文
書)
鶯巣
村の
枝郷
を合
わせ
て山
や田
畑石
垣残
らず
崩れ
、家
屋敷
破壊
して
二〇
人余
りの
怪我
人が
出て
内七
人が
死亡
(鶯
巣宏
重氏
文書
)地
震発
生と
同時
に山
から
跳ね
てき
た石
に当
たっ
て死
んだ
人は
坂部
と隣
村の
愛知
県富
山間
で五
十人
余(熊
谷家
伝記
)
1718遠
山地
震-726
四方
の山
大分
崩れ
る、
潰家
は新
井村
で3軒
、吉
岡で
2軒
、合
原上
ノ原
で5・6
軒あ
り、
大山
田神
社拝
殿が
潰れ
る。
龍岳
寺庫
裏潰
れる
(下
条村
)
1718遠
山地
震-722
村内
20
ヶ所
でな
ぎが
発生
し、
上田
三畝
、中
田二
畝廿
歩、
下田
七畝
余、
上畑
二畝
廿歩
、原
畑二
反五
畝余
りが
つぶ
れて
しま
い、
男二
人・馬
一疋
が埋
めら
れて
死ん
だ(古
城村
震災
書上
帳)(下
条村
)
1718遠
山地
震-723
M7.0
、飯
田市
南信
濃和
田に
ある
盛平
山が
崩れ
遠山
川を
堰き
止め
その
後決
壊し
広い
河原
がで
きた
り、
主峰
から
分離
した
出山
が出
現す
るな
ど、
遠山
川の
流路
を変
える
ほど
の地
変を
もた
らし
た
享保
三年
七月
/鷹
匠の
廻村
中の
不法
を禁
ずる
、無
断の
鉄砲
打を
禁じ
訴人
の褒
賞規
定を
定め
、公
布す
る、
鳥類
減少
のた
め、
鶴・白
鳥・
雁・鴨
の私
の贈
答・食
料と
する
こと
を以
後3年
間禁
じ、
江戸
市中
の鳥
問屋
を10人
に制
限す
る
遠山
地震
享保
三年
七月
二十
六日
1718.8
.22
3-17
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
新木
田村
きび
島と
申所
、山
落、
天龍
水を
打留
め、
八時
より
暮れ
六時
まで
水少
しも
通ら
ず大
島村
へ水
つか
へ・・・(大
地震
之記
)
1718遠
山地
震-724
飯田
領中
潰
家350軒
余、
半潰
580軒
余
、死
人12人
、死
馬6疋
(役
用古
記録
帳)
城内
六分
破損
、町
・在
の清
水、
ほり
井の
水と
まる
、家
蔵過
半潰
れ(永
代万
覚日
記)
御城
内惣
廻り
塀、
矢倉
、石
垣等
大破
。御
町、
在々
潰家
、死
人、
けが
人あ
り、
家中
屋敷
数多
大破
(郡
方覚
書よ
り)
30戸
の野
池の
うち
5戸
全潰
れ、
25戸
は破
損。
井堰
、溜
井、
掛樋
6箇
所と
も破
損(野
池の
書上
帳)
1718遠
山地
震-711
1718.8
.22
享保
三年
七月
二十
六日
遠山
地震
M7.0
、飯
田市
南信
濃和
田に
ある
盛平
山が
崩れ
遠山
川を
堰き
止め
その
後決
壊し
広い
河原
がで
きた
り、
主峰
から
分離
した
出山
が出
現す
るな
ど、
遠山
川の
流路
を変
える
ほど
の地
変を
もた
らし
た
○夜
川瀬
「盛平
山(森
山)の
西方
斜面
が崩
壊し
、圧
死者
5人
を出
した
。崩
壊土
砂が
北側
の押
出し
沢か
ら流
出し
た土
砂と
とも
に、
遠山
川を
堰止
め、
「出
山」(和
田小
学校
北方
の小
峰)と
よば
れる
小山
をつ
くり
、天
然ダ
ムを
形成
した
。天
然ダ
ムは
、お
よそ
1週
間後
に決
壊し
、一
夜で
広い
河原
をつ
くっ
た(現
夜川
瀬部
落)」
1718
遠山
地震
-D
615
○地
変に
よる
地名
の由
来
享保
三年
七月
/鷹
匠の
廻村
中の
不法
を禁
ずる
、無
断の
鉄砲
打を
禁じ
訴人
の褒
賞規
定を
定め
、公
布す
る、
鳥類
減少
のた
め、
鶴・白
鳥・
雁・鴨
の私
の贈
答・食
料と
する
こと
を以
後3年
間禁
じ、
江戸
市中
の鳥
問屋
を10人
に制
限す
る
1719.9
.28
享保
四年
八月
十五
日八
月十
五日
大洪
水(亥
の満
水)被
害頗
る多
し。
(泰
阜村
)七
月・八
月、
諏訪
湖折
々満
水1719洪
水-788
享保
四年
十一
月/
相対
済し
令
1722
享保
七年
享保
七年
壬寅
凶作
、世
上騒
然
享保
六年
八月
/評
定所
門前
に目
安箱
を設
置享
保七
年七
月/
上げ
米の
制、
新田
開発
奨励
享保
三年
七月
/鷹
匠の
廻村
中の
不法
を禁
ずる
、無
断の
鉄砲
打を
禁じ
訴人
の褒
賞規
定を
定め
、公
布す
る、
鳥類
減少
のた
め、
鶴・白
鳥・
雁・鴨
の私
の贈
答・食
料と
する
こと
を以
後3年
間禁
じ、
江戸
市中
の鳥
問屋
を10人
に制
限す
る
M7.0
、飯
田市
南信
濃和
田に
ある
盛平
山が
崩れ
遠山
川を
堰き
止め
その
後決
壊し
広い
河原
がで
きた
り、
主峰
から
分離
した
出山
が出
現す
るな
ど、
遠山
川の
流路
を変
える
ほど
の地
変を
もた
らし
た
1718.8
.22
遠山
地震
享保
三年
七月
二十
六日
3-18
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1723
享保
八年
享保
八年
癸卯
八月
出水
享保
八年
六月
/足
高の
制を
定め
る
1724.9
.22
享保
九年
八月
六日
台風
享保
九年
申辰
八月
六日
大風
雨被
害大
、米
値段
十両
に付
き四
十五
俵(川
路資
料)
1573洪
水-730
享保
九年
八月
/代
官の
川除
普請
の見
積も
り過
大を
戒告
する
M6.1
の地
震で
高遠
城に
崩壊
あり
(享
保10年
の地
震で
高遠
城崩
壊箇
所を
幕府
に報
告し
た城
図よ
り)
1725高
遠地
震-755
大地
震で
高島
城が
大破
、本
丸22ヵ
所・二
之丸
4ヵ
所・三
之丸
6ヶ
所・大
手門
ほか
9ヵ
所石
垣崩
。大
祝家
御屋
敷大
分に
損し
在郷
方大
分家
潰れ
る
1725高
遠地
震-786
1726.5
-6
享保
十一
年五
月大
洪水
、家
屋七
戸流
出、
蛇抜
け十
五谷
(清
内路
村)
1726洪
水-719
五月
十八
日よ
り諏
訪湖
大満
水1726洪
水-789
大洪
水で
鍛冶
ヶ島
の十
四戸
が流
出し
表木
村へ
集団
移住
1726洪
水-790
○鍛
冶ヶ
島流
出と
集団
移住
「む
かし
、現
在の
伊那
市下
牧の
護災
堤防
から
国道
153号
線と
の間
に鍛
冶ヶ
島と
よば
れる
島が
あっ
た。
鍛冶
職人
が多
く住
んで
いた
が、
享保
十一
年(1726)の
大洪
水で
高一
四四
二石
の田
と14戸
の家
全部
が流
出し
、住
人は
表木
村(現
伊那
市西
春近
)へ
移住
した
。鍛
冶ヶ
島新
田家
居迄
のこ
らず
流れ
つく
し、
立つ
所も
これ
なき
体、
本村
へ上
り所
どこ
ろの
野つ
れ、
また
は諏
訪形
原の
街道
筋へ
小屋
がけ
いた
し、
田地
これ
無き
者ど
も少
々の
売り
家等
を致
し一
日を
送り
候仕
合い
に候
て、
本村
とも
の困
窮。
(殿
島の
大西
家文
書)」
1726
洪水
-D
596
○洪
水に
よる
集団
移住
清内
路村
で蛇
抜け
十五
谷1726土
砂-791
1726.7
.23
享保
十一
年六
月二
十四
日上
清内
路大
川入
りひ
え畑
沢じ
ゃぬ
け、
三四
郎・竹
右衛
門い
えこ
われ
、長
三郎
・伊
三朗
所々
いた
み申
し候
1726土
砂-744
地震
(高
遠地
震)
享保
十年
十月
/新
大判
(享
保大
判)を
鋳造
して
十二
月よ
り通
用
1726.6
.17
享保
十一
年五
月十
八日
1725. 8. 14
享保
十年
七月
七日
3-19
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1727.7
.8享
保十
二年
五月
二十
日鴨
の沢
のほ
り沢
より
抜け
出申
し候
(清
内路
村)
1727土
砂-745
享保
十三
年戊
申八
月十
三日
洪水
、田
畑流
失多
し秋
凶作
(川
路資
料)
1573洪
水-730
方々
山々
大水
・大
ぬけ
仕り
候、
大橋
迄水
つき
橋も
たせ
候。
(清
内路
村)
1728土
砂-746
1733
享保
十八
年享
保十
八年
癸丑
洪水
、大
凶作
餓死
する
もの
多し
(川
路資
料)
1573洪
水-730
享保
十七
年九
月/
享保
の大
飢饉
元文
三年
戊午
大満
水、
家屋
流失
多し
(掛
塚町
誌)
○う
しろ
向と
なっ
た弁
天様
「洪
水に
よる
地形
の変
化に
より
、島
田村
(飯
田市
松尾
)と
虎岩
村・知
久平
村(飯
田市
下久
堅)と
の間
で境
界論
争が
おこ
って
いた
。1738年
(元
文三
年)の
洪水
の後
、大
岡越
前守
の裁
きに
より
、弁
天様
が島
田村
のも
のと
なっ
た。
とこ
ろが
、弁
天様
は天
竜川
の東
側が
お好
きと
あっ
て虎
岩村
・知
久平
村の
方ば
かり
向い
てい
た。
怒っ
た島
田村
の衆
が、
弁天
様を
島田
村の
方に
向け
たと
ころ
、村
内で
悪い
病気
が流
行っ
たの
で東
向き
に戻
した
。悪
い病
気が
すぐ
に治
まっ
たの
で島
田村
では
、社
殿の
うし
ろか
ら拝
むよ
うに
なっ
た。
また
弁天
様は
どん
な洪
水の
時で
も流
失し
たこ
とが
なか
った
が、
36災
害の
時に
流さ
れて
しま
った
。今
では
もと
のと
ころ
に祀
られ
てい
る。
」
1738
洪水
-D
526
○弁
天様
の流
出
近世
○藤
川除
「釜
無川
の洪
水か
ら護
るた
め、
蔦木
宿の
宿中
近く、
甲州
街道
に沿
って
造ら
れた
。」
D546
○水
防技
術の
継承
○武
田氏
支配
の歴
史と
甲州
流治
水工
法の
取入
れ
近世
○信
玄提
(風
切・風
除)
「蔦
木宿
を二
重に
護る
ため
大樹
を植
栽し
た築
堤。
」D
501
○水
防技
術の
継承
○武
田氏
支配
の歴
史と
甲州
流治
水工
法の
取入
れ
享保
十三
年九
月/
関東
水害
、江
戸の
両国
橋流
失1728.9
.16
享保
十三
年八
月十
三日
元文
三年
1738
3-20
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1742.8
寛保
二年
八月
寛保
二年
壬戊
八月
天竜
満水
、川
除堅
枠囲
を普
請す
(岩
村田
誌)
寛保
二年
二月
/幕
府、
河川
沿岸
の伐
木・開
墾を
禁ず
る寛
保二
年八
月/
江戸
及び
関東
地方
大水
害、
松代
・小
諸な
どの
諸城
大破
1744
延享
元年
○境
界紛
争と
見通
し桜
「天竜
川と
三峰
川の
合流
する
付近
一帯
は、
洪水
の度
に川
筋を
変え
、川
筋を
挟ん
だ地
区の
境界
紛争
が絶
えな
かっ
た。
江戸
時代
の270年
間で
90回
も洪
水や
満水
を引
き起
こし
、狐
島村
と対
岸の
荒井
村・西
町村
では
、延
享元
年(1744)の
出水
時に
決め
た約
定書
と絵
図面
があ
る。
その
絵図
面に
は、
境界
を復
元す
るた
めの
八箇
所の
測量
基準
の一
つに
“長
右衛
門社
木桜
”が記
録さ
れて
おり
、現
存す
る唯
一の
基点
とな
って
いる
。」
1744
洪水
-D
597
○洪
水に
よる
村の
境界
紛争
と基
準点
の現
存
延享
元年
/田
畑永
代売
買の
禁令
を緩
和
1750
寛延
三年
○理
兵衛
堤防
「田
島村
の名
主松
村理
兵衛
忠欣
が、
度重
なる
天竜
川の
水害
から
田島
を護
るた
めに
私財
をな
げう
ち、
尾張
から
石工
を呼
んで
堤防
工事
を始
めた
。工
事中
に何
度も
水害
に見
舞わ
れ、
至難
を極
めた
が、
理兵
衛の
孫の
三代
に渡
り5
8年
間と
3万
両も
の莫
大な
費用
をか
けて
堤防
が完
成し
た。
平成
18
年7
月豪
雨の
際、
洪水
の跡
に理
兵衛
堤防
の石
積が
発見
され
てい
る。
」
○天
流功
業義
公明
神碑
「理
兵衛
の功
績を
讃え
、文
化12年
に建
立さ
れ水
神様
とし
て祀
られ
てい
る。
」
1750-
D626
○水
害に
挑ん
だ人
の姿
と功
績
寛延
三年
一月
/幕
府、
農民
の強
訴・徒
党・逃
散を
厳禁
する
3-21
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1752
宝暦
二年
宝暦
二年
壬申
堤防
大破
、死
亡者
夥し
(岩
村田
誌)
1752.1
2宝
暦二
年十
一月
○惣
兵衛
堤防
(大
川除
堤防
)「安
政六
年(1859年
)、
旧堤
に続
いて
下流
へ延
長六
〇間
の大
川除
接続
堤防
竣工
。文
久三
年(1863年
)、
大川
除接
続堤
防修
復工
事を
実施
。元
治元
年五
月(1864年
)、
大川
除堤
・同接
続堤
防に
おけ
る天
竜川
洪水
によ
る欠
潰修
復工
事(捨
石の
あら
し込
み)の
開始
。昭
和9年
3月
(1934年
)、
延長
100m
の惣
兵衛
堤防
木工
沈床
入れ
替え
工事
を竣
工。
昭和
36年
6月
29日
(1961年
)、
午後
五時
半に
惣兵
衛堤
防700m
が決
壊 し
、 市
田水
田の
およ
そ8割
が没
した
。」
○惣
兵衛
の人
柱○
麦わ
ら堤
防(惣
兵衛
の末
孫中
村初
太郎
翁談
片)
1752-
D541
○水
害に
挑ん
だ人
の姿
と功
績
1753
宝暦
三年
○上
横川
神社
の神
楽の
由来
「宝
暦三
年(1753)、
川島
の谷
では
田植
えが
無事
に終
わっ
た。
とこ
ろが
、春
から
一滴
の雨
も降
らな
かっ
た。
夏に
なっ
ても
雨は
降ら
ず、
横川
川も
一筋
の細
い糸
のよ
うな
流れ
にな
った
。水
がす
っか
りな
くな
り、
田は
ひび
割れ
、食
べ物
も底
をつ
き始
めた
。そ
のう
ちに
はや
り病
が村
人に
襲い
かか
った
。こ
の凶
事を
神様
の祟
りと
思っ
た村
人は
、お
伊勢
様に
お願
いし
よう
と二
人の
若者
を伊
勢へ
の旅
にだ
した
。伊
勢神
宮に
たど
り着
いた
二人
は一
心に
祈り
、神
官に
村の
事情
を伝
えた
。神
官の
紹介
して
くれ
た又
右エ
門と
七之
丞と
いう
神楽
師と
もど
も村
に戻
り、
、一
軒一
軒お
払い
をし
ても
らっ
た。
村人
達は
神楽
師の
後を
ぞろ
ぞろ
とつ
いて
歩き
、一
緒に
なっ
て天
にお
願い
をし
たり
、自
分の
こと
のよ
うに
喜ん
だり
した
とこ
ろ、
願い
が通
じた
のか
、そ
の日
の夕
方か
ら大
粒の
雨が
降り
出し
た。
平和
で静
かな
村が
よみ
がえ
り、
村に
とど
まる
よう
神楽
師達
にお
願い
した
。し
かし
その
願い
は聞
き入
れて
もら
えな
かっ
たが
、神
楽師
達は
川島
にし
獅子
頭を
残し
、獅
子舞
のや
り方
を伝
えて
いっ
た。
こう
して
獅子
舞は
二百
年以
上も
毎年
毎年
行わ
れ、
代々
伝え
られ
てき
た。
今で
は上
横川
神社
神楽
保存
会の
人々
が、
後代
に伝
える
よう
努力
して
いる
。」
1753‐
D641
○旱
魃の
史実
と今
に伝
える
神楽
の雨
乞い
宝暦
三年
十二
月/
木曽
川治
水工
事を
薩摩
藩に
命ず
る
3-22
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1756.1
0.2
6宝
暦六
年十
月三
日宝
暦六
年丙
子十
月三
日満
水、
米値
段上
る(川
路資
料)
1573洪
水-730
宝暦
六年
九月
/近
畿・
東海
地方
大洪
水
1757.6
宝暦
七年
五月
1569洪
水-732
小川
湯沢
前か
ら小
川川
大氾
濫と
なり
、鳥
居前
藤や
ぶ下
一帯
被害
こと
に多
し
1757.6
.20
宝暦
七年
五月
四日
宝暦
七年
丁丑
五月
四日
天竜
川の
大水
宿方
堤切
込、
五日
夜小
立野
村堤
防家
屋水
押通
日数
二十
一日
(二
俣五
月二
日か
ら六
日、
五日
間家
屋浸
水、
二俣
誌)(井
通村
誌)
1758
宝暦
八年
○祇
園祭
(7月
14日
)「洪
水と
悪疫
の流
行を
水神
の祟
りと
恐れ
た村
人が
、領
主松
平摂
津守
に願
い出
て尾
張津
島社
をこ
の地
に迎
え入
れた
。」
D512
○水
神の
祟り
、尾
張津
島社
の受
入れ
、祇
園祭
宝暦
八年
六月
/関
東・
東海
道・美
濃・伊
勢・甲
斐の
河川
工事
を完
了す
る 宝暦
八年
七月
/宝
暦事
件
1765.6
明和
二年
五月
明和
二年
乙酉
五月
大満
水、
八月
四日
大水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
諏訪
湖大
出水
1768洪
水-774
宮田
村水
三尺
程1768洪
水-792
1773
安永
二年
九月
安永
二年
癸巳
九月
朔月
大出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
安永
元年
/木
綿が
普及
する
1778.6
安永
七年
五月
中旬
五月
中旬
より
諏訪
湖度
々満
水、
八月
大満
水、
下地
通り
収穫
皆無
1778洪
水-775
安永
七年
二月
/江
戸大
火安
永七
年三
月/
幕府
、俵
物生
産を
奨励
1779.1
0.4
安永
八年
八月
二十
五日
五月
諏訪
湖満
水、
その
後度
々、
別し
て八
月二
十五
日大
満水
、小
和田
通り
岸六
十軒
水潰
れ1779洪
水-776
安永
八年
十月
/鹿
児島
桜島
噴火
、伊
豆大
島三
原山
噴火
宝暦
七年
十二
月/
洪水
等に
よる
出費
増大
によ
り、
幕府
が諸
部局
の倹
約を
命ず
る
明和
四年
八月
/明
和事
件
明和
五年
四月
/明
和四
文銭
鋳造
1768.5
明和
五年
四月
3-23
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1782
天明
二年
天明
二年
壬寅
天竜
川氾
濫、
磐田
郡光
明村
宣屋
過半
数流
失 (
光明
村誌
)
1782.8
.16
天明
二年
七月
八日
諏訪
湖大
満水
、見
出大
不作
1782洪
水-777
1784.1
天明
四年
正月
天明
四年
甲辰
正月
飯米
沸底
、草
木根
を喰
う(川
路資
料)
1573洪
水-730
天明
四年
一月
/浅
間山
噴火
罹災
地方
の河
川諸
普請
の助
役を
熊本
藩に
命ず
る
1787
天明
七年
天明
七年
大凶
作餓
死す
る者
あり
、他
国に
乞食
とな
って
出ず
る者
あり
行倒
、無
縁仏
塚出
来る
有名
なる
天明
の大
飢鍾
、時
俣、
下川
路、
立会
川、
普請
、駒
沢、
切所
に大
猪之
子七
組を
くむ
(川
路資
料)
1573洪
水-730
天明
七年
七月
/寛
政改
革始
まる
1789
寛政
元年
小川
川満
水に
て湯
屋付
近の
田地
流出
1569洪
水-732
1789.6
寛政
元年
六月
五月
中諏
訪湖
満水
1789.7
.9-10
寛政
元年
六月
十七
日~
十八
日六
月十
七日
~十
八日
天竜
川満
水(酉
満水
)
1789
寛政
元年
○阪
本天
山の
墾田
の碑
「寛
政元
年(1789)天
竜川
の大
氾濫
によ
り、
大久
保の
辺り
一帯
は荒
地と
化し
た。
中村
新六
は阪
本天
山に
つき
実学
を修
め、
天明
の飢
饉に
発奮
し、
隋道
を穿
ち堤
防を
築き
、数
町歩
の美
田を
開くと
いう
大業
を成
し遂
げた
。そ
の功
績を
たた
え建
立さ
れた
碑に
は、
大窪
邨中
邨氏
墾田
碣記
天山
真逸
源俊
豈撰
、と
碑文
が彫
られ
てい
る。
碑は
花崗
岩で
現在
風化
が進
み文
字の
判読
はで
きな
い。
」
1789
洪水
-D
598
○治
水事
業の
功績
を讃
える
碑
寛政
元年
九月
/旗
本・
御家
人救
済の
ため
に棄
損令
をだ
す
天明
三年
七月
/浅
間山
大噴
火、
飢饉
つづ
く
3-24
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
寛政
元年
巳酉
六月
十八
日天
竜出
水、
本村
大半
水中
に没
す、
酉満
水と
いう
十一
月御
用材
下る
(川
路資
料)
1573洪
水-730
六月
十八
日の
満水
で田
畑が
押流
れ、
川欠
け、
山崩
れと
なっ
た、
家八
軒が
埋ま
り難
儀し
てい
る、
復旧
が困
難で
ある
から
急ぎ
見分
して
ほし
い(長
沼松
島村
の届
出)
1789酉
満水
-727
十三
日か
ら二
十三
日ま
で雨
降り
で山
が崩
れ、
小川
が大
川と
なり
田畑
の被
害が
ひど
い、
子高
入新
田(安
永九
年の
新田
)一
町一
反十
二歩
の内
、三
反が
砂入
りで
稲作
不能
、五
反が
川流
れで
皆無
、二
反一
畝十
二歩
だけ
残っ
た(向
方村
の注
進)
1789酉
満水
-728
1804.1
0.8
文化
元年
八月
二十
九日
文化
元年
甲子
八月
二十
九日
大満
水、
本村
浸水
夥し
、子
満水
と称
す(川
路資
料)
1573洪
水-730
1804
文化
元年
古荒
地及
び文
化元
年の
荒地
(紅
葉川
上流
7ヶ
所、
樋ヶ
沢上
流2ヶ
所、
こ庵
沢1ヶ
所、
塩田
川上
流1ヶ
所)※
龍東
水害
の地
図よ
り(龍
江村
)
1803洪
水-747
1807
文化
四年
文化
四年
丁卯
満水
あり
、箒
星出
現(川
路資
料)
1573洪
水-730
1807.7
.6文
化四
年六
月一
日五
月晦
日よ
り六
月一
日、
諏訪
湖大
満水
、岡
田一
面に
水が
かぶ
る1807洪
水-778
1807.1
0文
化四
年九
月三
峰川
川除
決壊
人家
浸水
32軒
、棟
数96棟
文化
元年
九月
/ロ
シア
使節
レザ
ノフ
、通
商を
要求
する
寛政
元年
九月
/旗
本・
御家
人救
済の
ため
に棄
損令
をだ
す
文化
四年
四月
/樺
太お
よび
エト
ロフ
島に
ロシ
ア船
来航
、上
陸乱
妨
1789.7
.10
寛政
元年
六月
十八
日
3-25
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1808.9
.15
文化
五年
七月
二十
五日
○竜
の腹
の皮
を拾
った
話「雷
が激
しく鳴
り出
し、
山や
林が
ゆれ
動き
、天
は傾
き地
がさ
けん
ばか
りの
風雨
の翌
日、
木と
いう
木は
みん
な折
れて
目も
当て
られ
ない
ほど
であ
った
。吉
田村
(高
森町
吉田
)の
与市
は竜
の皮
を拾
い、
隣の
山吹
村の
もの
が山
で同
じよ
うな
もの
が落
ちて
いた
とい
った
。大
きさ
は五
尺六
寸四
方ば
かり
、青
白く
光沢
があ
りあ
わび
みた
いの
もの
で、
天に
いた
竜が
たた
かっ
たと
きの
腹の
皮だ
とい
う。
」
1808
風雨
-D
521
○闘
竜に
たと
えた
自然
現象
文化
五年
八月
/フ
ェー
トン
事件
1810.4
文化
七年
三月
三峰
川、
天竜
川合
流点
に8尺
増水
1810洪
水-793
1816
文化
十三
年文
化十
三年
丙子
一色
村富
岡、
国吉
、八
幡、
高薗
の各
所破
堤、
田園
過半
荒蕪
に属
す。
(川
路資
料)
(天
竜川
水防
史)
1573洪
水-730
文化
十三
年八
月/
畿内
・東
海道
風雨
洪水
1821
文政
四年
○水
上様
「文
政四
年(1821)に
樫渕
に祀
られ
た。
樫渕
は天
竜川
にあ
る満
島の
船着
場で
あっ
たが
、現
在は
平岡
ダム
の完
成に
より
水の
枯れ
た河
原と
なっ
てい
る。
」
D578
○ダ
ム建
設に
より
消え
た水
上様
文政
四年
八月
/近
畿・
山陰
・東
海大
風雨
に見
舞わ
れる
1825
文政
八年
文政
八年
乙酉
夏長
降り
にて
凶作
、米
値上
る(川
路資
料)
1573洪
水-730
文政
八年
二月
/幕
府、
異国
船打
ち払
い令
を出
す
1827
文政
十年
四月
八日
文政
十年
丁亥
四月
八日
出水
、六
月二
十三
日大
出水
、七
月一
日出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
文政
十年
二月
/文
政改
革
1828
文政
十一
年五
月文
政十
一年
戊子
五月
出水
、七
月一
日大
満水
、古
寺下
の叶
屋方
の井
声ま
で浸
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
文政
十一
年十
二月
/シ
ーボ
ルト
事件
1832
天保
三年
土用
前、
諏訪
湖満
水、
その
後大
ひで
り1832洪
水-779
天保
四年
十二
月/
天保
の飢
饉、
天保
十年
まで
続く
3-26
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1835.3
天保
六年
二月
末天
保六
年二
月末
天竜
川提
肪破
壊、
全村
浸水
流失
家屋
が多
かっ
た(池
田村
誌)
1841.5
.12
天保
十二
年三
月二
白地
震天
保十
二年
辛丑
三月
二白
地震
あり
、十
七日
大水
(川
路資
料)
1586地
震-734
天保
十二
年十
二月
/株
仲間
解散
令
1842
天保
十三
年
○栗
沢川
の河
川工
事「む
かし
栗沢
川は
市野
瀬部
落の
中を
通っ
て流
れて
いた
。こ
の川
は洪
水に
なる
とし
ばし
ば氾
濫し
、部
落は
被害
を蒙
って
いた
。天
保十
三年
(1842)に
城山
の南
の尾
根を
掘り
ぬい
て切
り通
しを
造り
、栗
沢川
は市
野瀬
瀧と
なっ
て三
峰川
に流
れ落
ちる
よう
にな
った
。こ
れに
より
、部
落は
災害
から
免れ
るよ
うに
なり
、田
んぼ
の数
も相
当に
増え
たと
いう
。」
1842-
D528
○洪
水に
よる
荒地
跡
弘化
四年
丁末
三月
七日
・八
日大
出水
、三
月地
震(善
光寺
地震
と称
す)(川
路資
料)
1573洪
水-730
M7.4
、雨
戸障
子は
ずれ
、下
金子
に被
害、
薬師
堂大
いに
いた
み(諏
訪市
)1847地
震-781
1848
弘化
五年
十日
~十
三日
の大
雨で
所々
なぎ
落ち
、松
島こ
せ上
の畑
が崩
れ、
馬屋
と部
屋つ
ぶれ
る、
栃島
の家
一軒
はな
ぎが
抜け
て半
分つ
ぶれ
る
1848大
雨-729
弘化
五年
一月
/松
代藩
、佐
久間
象山
に洋
式野
砲3門
を鋳
造さ
せる
1850
嘉永
三年
四月
嘉永
三年
庚戌
四月
竹に
実な
る、
七月
二十
一日
洪水
、八
月九
日大
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
嘉永
三年
十月
/高
野長
英、
幕吏
に囲
まれ
自殺
する
1852.9
.29
嘉永
五年
八月
十六
日大
洪水
、上
殿島
村へ
三峰
川切
込む
(伊
那市
)1852洪
水-760
嘉永
五年
十一
月/
大阪
大火
1847.4
.21-22
弘化
四年
三月
七日
~八
日地
震(善
光寺
地震
)
3-27
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
M8.4
、下
金子
19軒
大破
潰れ
家(諏
訪市
)1854地
震-782
赤沼
25軒
大破
潰れ
家(諏
訪市
)1854地
震-788
1854-1860頃
安政
~万
延の
頃
○特
産品
の寒
天「相
次ぐ
災害
によ
り農
業・土
地離
れが
おこ
った
が、
村を
出る
こと
ので
きな
い長
男や
女た
ちは
知恵
を絞
り、
災害
の少
ない
冬の
時期
にで
きる
仕事
とし
て寒
天作
りを
はじ
めた
。」
安政
・万
延洪
水-
D502
○災
害が
もた
らし
た副
業の
恩恵
(宮
川の
寒天
)
1854.7
.31
安政
元年
七月
七日
安政
元年
甲寅
七月
七日
洪水
被害
大(川
路資
料)
1573洪
水-730
薬師
堂(高
森大
島)の
五重
塔、
石灯
籠、
石塔
が残
らず
倒れ
る。
(村
方先
規例
式書
留帳
)
1854安
政東
海地
震-705
所々
山崩
れ岩
落、
古家
など
はつ
ぶる
もあ
り(浅
野村
佐々
木求
馬地
震記
)(阿
南町
)
1854安
政東
海地
震-722
1854.1
2.2
3安
政元
年十
一月
四日
安政
東海
地震
飯田
町、
大変
の地
震に
て、
潰家
3軒
即死
3人
、家
蔵の
損じ
方糊
殊の
ほか
大変
、凡
そ土
蔵の
いが
み或
いは
壁落
ち、
その
ほか
大い
たみ
のと
ころ
数知
れず
(南
信地
方考
)午
中刻
に揺
れ始
め、
連続
的に
やっ
てき
たの
で、
家に
起臥
する
こと
がで
きな
いの
で、
竹や
ぶあ
るも
のは
、そ
の中
には
いり
、十
日余
りも
こう
した
状態
が続
いた
、被
害は
飯田
だけ
でも
破壊
家屋
が589
軒も
あり
、飯
田城
主は
救済
のた
め飯
田町
に金
三百
両を
下附
され
た(飯
田世
代記
)1
1月
4存
じ外
の大
地震
仕り
、稲
荷社
は微
塵に
破損
成さ
れ、
大地
震に
付稲
荷社
地決
壊本
社乃
大破
、其
の上
所手
狭に
相成
り、
再建
相成
りが
たく
(松
下惣
四郎
翁日
記)
1854安
政東
海地
震-712
安政
元年
三月
/ペ
リー
と日
米和
親条
約を
締結
調印
、下
田・箱
根の
2港
を開
く
安政
元年
三月
/ペ
リー
と日
米和
親条
約を
締結
調印
、下
田・箱
根の
2港
を開
く
安政
地震
嘉永
七年
十一
月四
日・五
日・七
日1854.1
2.2
3・
24・26
1854.1
2.2
3安
政東
海地
震安
政元
年十
一月
四日
3-28
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1857.5
.20
安政
四年
四月
二十
七日
安政
四年
丁巳
四月
二十
七日
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1857.6
.6安
政四
年五
月十
五日
五月
十五
日よ
り諏
訪湖
大満
水、
福島
・文
出・小
川な
どの
者船
で飯
をた
き、
島崎
お屋
敷水
潰、
湖水
定水
より
七尺
二寸
高の
満水
、史
上未
曾有
の洪
水
1857洪
水-780
1857.6
.8安
政四
年五
月十
七日
三峰
川大
洪水
1857.6
.9安
政四
年五
月十
八日
安政
四年
丁巳
五月
十八
日大
満水
、村
人子
午(文
政十
一年
)以
来の
大水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1857.9
.17
安政
四年
七月
二十
九日
三峰
川大
洪水
1857.9
安政
四年
八月
安政
四年
丁巳
八月
朔月
又大
出水
、本
年米
値段
騰貴
す(川
路資
料)
1573洪
水-730
1857.9
.18
安政
四年
八月
一日
三峰
川大
洪水
1860.6
安政
七年
五月
四月
諏訪
湖大
満水
、五
月末
諏訪
湖大
満水
、水
の高
さ田
辺三
尺・文
出四
尺・小
川五
尺、
三十
日の
長雨
1860洪
水-781
1860.6
.29
万延
元年
五月
十一
日万
延元
年庚
申五
月十
一日
大満
水、
十五
日大
水、
三月
から
七月
雨天
多く凶
作、
六月
二十
八日
天竜
川下
流出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
1860.7
-8
万延
元年
六月
下平
本田
・下
河原
・河
原落
・清
水田
計
五反
三畝
二歩
、古
新田
・田
五畝
歩・子
新田
計
三反
三畝
七歩
、総
反別
八
反六
畝九
歩分
、米
ノ合
計
八石
九斗
六升
五合
(万
延元
年六
月川
欠荒
所書
上帳
)
1569洪
水-732
川欠
1861.3
.23
文久
元年
二月
十三
日地
震文
久元
年辛
酉二
月十
三日
地震
、凶
作(川
路資
料)
1573洪
水-730
万延
元年
三月
/桜
田門
外の
変
安政
五年
六月
/日
米修
好通
商条
約調
印
3-29
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1865.6
.10-11
慶応
元年
五月
十七
~十
八日
慶応
元年
乙丑
五月
十七
・十
八日
近年
稀な
る大
満水
、正
徳の
未満
水よ
り150年
目(川
路資
料)
1573洪
水-730
1865.7
.9慶
応元
年五
月十
七日
豪雨
田沢
川上
流部
で山
崩れ
発生
、一
時天
然ダ
ム形
成。
決壊
後、
追分
で家
屋流
失・埋
没等
の被
害1865豪
雨-706
1865.8
.8-9
慶応
元年
六月
十七
日~
十八
日
六月
十七
日~
十八
日天
竜川
大洪
水(乙
丑満
水)、
正徳
五年
未満
水以
来、
百五
十年
目の
大満
水
江戸
時代
末期
頃
○蛇
ぬけ
の穴
「赤坂
沢の
入悪
沢に
ある
淵に
三百
年も
生え
とる
杉の
木の
よう
に太
くて
長い
一匹
の大
蛇が
棲ん
でい
た。
大蛇
は穏
やか
なた
ちで
人の
前に
はめ
った
に姿
を現
さな
かっ
た。
村人
は横
川川
の上
の沢
に棲
んで
いる
から
、川
を守
って
くれ
てい
ると
信じ
、淵
には
めっ
たに
立ち
入ら
なか
った
。あ
る年
長雨
があ
り、
二十
日間
も振
り続
いた
。川
の水
が何
十倍
にも
ふくれ
あが
り、
大蛇
の棲
む淵
も地
面が
ドド
ッと
崩れ
た。
その
時さ
すが
の大
蛇も
川の
中に
投げ
出さ
れ、
のた
うち
まわ
った
が、
踊り
くる
った
横川
川へ
飲み
込ま
れ、
真っ
黒い
水や
大岩
と一
緒に
すご
い勢
いで
押し
流さ
れて
いっ
た。
次の
日大
雨が
うそ
のよ
うに
ピタ
リと
止み
、空
はカ
ラリ
と晴
れあ
がっ
た。
村の
衆が
入悪
沢の
淵ま
で来
た時
、地
面の
滑っ
た後
にポ
ッカ
リと
あい
た大
蛇の
巣穴
を見
つけ
た。
村の
田畑
はひ
どい
めに
あっ
たが
、村
人は
誰も
流さ
れな
かっ
たの
で、
大蛇
が身
代わ
りに
なっ
てくれ
た思
った
。そ
れか
らこ
の辺
りで
は大
雨が
降る
と、
蛇ぬ
けす
るほ
どの
大雨
にな
らん
とい
いが
な、
と言
うよ
うに
なっ
たと
いう
。」
江戸
末土
砂-
D639
○身
代わ
りに
なっ
た入
悪沢
の淵
の大
蛇
慶応
三年
十月
十四
日/
大政
奉還
慶応
三年
十二
月九
日/
王政
復古
の大
号令
慶応
元年
五月
/第
2次
長州
征伐
3-30
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1868.6
.20
慶応
四年
五月
一日
中田
切川
氾濫
、田
切上
島・古
田ま
で流
失(飯
島町
)1868洪
水-749
1868.6
.22
9.1
6慶
応四
年戊
辰五
月三
日八
月一
日慶
応四
年戊
辰五
月三
日出
水、
八月
一日
大満
水辰
満水
と称
す(川
路資
料)
1573洪
水-730
1868.6
.26
慶応
四年
五月
七日
○移
住し
た田
原村
新田
の人
々「慶
応四
年(1868)五
月七
日か
ら大
沢川
の押
し出
す大
水と
天竜
川の
増水
が重
なり
、田
原村
新田
の全
戸に
満水
して
家屋
21戸
・水
田20町
歩余
が流
失し
た。
この
とき
、避
難し
た人
々の
うち
110戸
が今
でも
薬師
庵の
裏山
に住
み、
山組
部落
と称
して
石垣
づくり
の住
宅を
構え
てい
る。
」
1868
辰満
水-
D599
○洪
水に
よる
集団
移住
1868.7
.6慶
応四
年五
月十
七日
○西
向庵
の十
一面
観音
「慶
応四
年五
月十
七日
(辰
満水
)の
時、
西向
庵の
お堂
が激
流に
呑ま
れる
寸前
、村
人2、
3人
が身
体の
腰縄
を大
きな
柏の
木に
しば
りつ
け決
死の
覚悟
でぐ
らつ
いて
いる
堂内
に飛
び込
み、
本尊
の十
一面
観音
と釣
鐘を
運び
だし
た。
」
1868
辰満
水-
D600
○決
心覚
悟で
運び
出し
た本
尊と
釣鐘
1868.8
.19
慶応
四年
七月
二日
天竜
川大
洪水
(辰
満水
)
1868
明治
元年
(慶
応四
年)
前線
○夢
枕に
立つ
くら
がり
沢の
大蛇
「澄
心寺
の黙
仙和
尚の
夢枕
に妙
齢の
人に
化身
した
くら
がり
沢の
大蛇
が立
ち、
天に
昇る
ため
に山
から
天竜
川へ
移動
し千
年住
まな
けれ
ばな
らな
いと
言っ
た。
大蛇
は、
澄心
寺や
下の
田畑
村人
には
決し
て被
害を
与え
ない
と誓
い、
沢を
くだ
って
通さ
せて
くれ
と一
生の
お願
いを
して
帰っ
た。
夢か
らさ
めた
和尚
は、
くら
がり
沢の
入り
口に
石を
伏せ
読経
を唱
えて
大蛇
を封
じ込
めた
。そ
の1週
間後
、大
蛇は
荒れ
狂っ
て南
沢へ
抜け
出し
たの
で、
澄心
寺は
壁を
ぶち
抜か
れ、
三百
六十
畳の
畳の
上に
五尺
から
九尺
の甘
酒の
よう
な泥
がな
だれ
込み
、下
に続
く田
畑も
大き
な被
害を
受け
た。
1868
長雨
・洪
水-
D503
○沢
の主
(大
蛇)の
戒め
によ
る土
石流
明治
元年
一月
三日
/戊
辰戦
争
明治
元年
三月
十四
日/
5ヵ
条の
誓文
発布
明治
元年
九月
八日
/一
世一
元の
制
明治
元年
一月
三日
/戊
辰戦
争
明治
元年
三月
十四
日/
5ヵ
条の
誓文
発布
明治
元年
九月
八日
/一
世一
元の
制
3-31
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1868
明治
元年
○喧
嘩岩
「明
治元
年の
山崩
れ後
、大
岩の
せい
で上
村川
の流
路が
西へ
と移
った
。西
側の
地主
が大
岩を
割っ
て流
れを
東側
に戻
そう
と主
張し
たの
に対
し、
東側
の地
主が
絶対
に割
らな
いと
気勢
を上
げた
ため
、長
いこ
と論
争に
なっ
た。
」「上
村小
学校
の下
を南
信濃
村の
赤沢
まで
まっ
すぐ
に流
れて
いた
上村
川の
流路
を、
明治
元年
の山
崩れ
以後
に上
村小
学校
前で
大き
く西
側に
曲が
るよ
うに
変え
た原
因の
ひと
つと
され
てい
る。
」
1868-
D517
○山
崩れ
によ
る流
路の
変化
がも
たら
した
人々
の争
い
1868.6
明治
元年
五月
三峰
川氾
濫、
上殿
島川
除、
村人
足560人
頂戴
人足
240人
1868洪
水-761
1868.7
.7明
治元
年五
月十
八日
五月
十八
日大
満水
。七
月二
日天
竜川
大洪
水(辰
の満
水)
1869.8
.20
明治
二年
七月
十三
日七
月十
三日
大風
雨あ
り、
連年
の洪
水で
天保
以来
の大
凶作
1869.1
2.1
明治
二年
十二
月一
日
○入
野谷
騒動
「慶
応二
年(1866)か
ら凶
作が
続き
、明
治元
年(1868)の
五月
と八
月に
おこ
った
洪水
(辰
満水
)に
より
、天
明・天
保に
次ぐ
大凶
作と
なっ
た。
また
、明
治新
政に
より
急激
に経
済の
情勢
が変
動し
、物
価が
高騰
した
ため
生活
は困
窮を
極め
た。
木師
郷の
五カ
村(市
野瀬
・中
尾・浦
・杉
島・黒
河内
)に
おい
ては
、藩
に対
して
用木
の上
納と
年貢
の上
納を
ゆる
めて
ほし
いと
嘆願
した
とこ
ろ、
聞き
入れ
ても
らえ
なか
った
。と
うと
う明
治二
年(1869)十
二月
一日
の夜
、不
満が
一度
に爆
発し
一揆
が勃
発し
た。
その
結果
、藩
は入
野谷
全体
に対
して
上納
の延
期を
認め
、騒
動は
三日
の夕
方に
治ま
った
。」
1869
洪水
-D
529
○明
治元
年辰
の満
水が
もた
らし
た大
凶作
によ
る一
揆勃
発
明治
二年
五月
十三
日/
出版
条例
制定
明治
二年
六月
十七
日/
版籍
奉還
明治
元年
一月
三日
/戊
辰戦
争
明治
元年
三月
十四
日/
5ヵ
条の
誓文
発布
明治
元年
九月
八日
/一
世一
元の
制
3-32
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1870.1
0.2
明治
三年
九月
八日
明治
三年
九月
八日
大洪
水あ
り(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
四年
七月
十四
日/
廃
藩置
県
1875.7
明治
8年
7月
三峰
川大
洪水
、青
島よ
り切
込む
狐島
両新
田を
洗う
1875洪
水-762
1875.8
.10
明治
8年
8月
10日
明治
8年
8月
10日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
8年
4月
14日
/元
老院
・大
審院
・地
方官
議会
の設
置
1880.1
明治
13年
10月
台風
明治
13年
10月
暴風
雨、
大満
水天
竜川
氾灘
、堤
防工
費巨
額に
付租
税減
額歎
願(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
13年
/諏
訪地
域に
おい
て、
製糸
工場
43工
場と
飛躍
的に
増え
、水
車と
湛え
の問
題が
深刻
化す
る
1882.9
.29
明治
15年
9月
29日
豪雨
明治
15年
9月
29日
夜よ
り降
雨、
豪雨
にて
10月
1日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
15年
1月
4日
/軍
人勅
諭発
布明
治15年
7月
23日
/壬
午事
変
1884.2
.21
明治
17年
2月
21日
○開
墾堤
防「松
尾千
振が
伴野
を洪
水か
ら護
り良
田に
開墾
する
ため
、開
墾組
を結
成し
、明
治17年
2月
21日
に堤
防工
事を
開始
した
。工
事は
天竜
川の
洪水
に阻
まれ
て至
難を
極め
たが
、明
治19年
5月
に一
の刎
起点
から
三百
余間
の築
堤完
成し
た。
しか
しそ
の年
は長
雨の
影響
で天
竜川
が氾
濫し
、堤
防が
決壊
して
しま
った
。そ
の後
諦め
るこ
とな
く、
小西
虎之
助の
考案
した
木工
沈床
とい
う工
法を
取入
れて
工事
を再
開し
た。
明治
33年
、一
の刎
起点
から
阿島
境に
至る
石提
九百
間が
完成
し、
美田
三十
七町
歩を
開い
た。
○開
墾堤
防の
碑「明
治35年
5月
、16年
に及
ぶ堤
防工
事の
苦難
と松
尾千
振の
功績
を讃
え、
一の
刎起
点の
堤防
上に
建立
され
た。
」
1884-
D625
○水
害に
挑ん
だ人
の姿
と功
績
明治
17年
7月
7日
/華
族令
制定
明治
17年
10月
31日
/秩
父事
件明
治17年
12月
4日
/甲
申事
変
明治
18年
6月
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
前線
南向
村で
洪水
、渡
場の
田地
流失
(中
川村
)1885洪
水-
734
前線
片桐
村で
1週
間の
降雨
で大
洪水
、小
和田
堤防
決壊
〈中
川村
)1885洪
水-
735
明治
18年
12月
22日
/内
閣制
度設
置1885.6
明治
18年
6月
3-33
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1885.6
.19
明治
18年
6月
19日
下平
耕地
天竜
川西
側の
堤防
に対
し水
流が
直角
に激
突す
る形
で堤
防を
崩し
始め
、そ
の後
に続
く降
雨に
より
堤防
決壊
、死
者1名
(駒
ヶ根
市)
1885洪
水-753
明治
18年
12月
22日
/内
閣制
度設
置
1889.7
.26
明治
22年
7月
26日
台風
明治
22年
7月
26日
暴風
雨に
て洪
水、
9月
11日
(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
22年
2月
21日
/大
日本
帝国
憲法
公布
1890
明治
23年
三峰
川下
新田
へ切
込む
1890洪
水-763
明治
23年
/オ
ラン
ダ人
技師
デレ
ーケ
を招
き、
天竜
川を
含む
五大
河川
の調
査を
依頼
○信
能堤
防「毎
年霖
雨期
に濁
流が
氾濫
し利
用さ
れて
いな
かっ
た座
光寺
河原
を良
田に
変え
るた
め、
北原
米太
郎が
私財
を投
じ二
十年
間の
辛苦
を重
ね、
子弟
とと
もに
明治
40年
に完
成さ
せた
石塁
提」(飯
田市
座光
寺ヶ
原:「郷
土の
たか
ら」pp
.70-72.)
○北
原米
太郎
の碑
(信
能堤
防の
築設
者の
功績
を讃
える
)「霖
雨水
張り
竜
躍り
蛇奔
る
堤を
築き
芥を
刈り
墾
て良
田と
為す
大
島の
川
其涯
源有
り
民其
業に
安ん
ず
南風
是水
温に
功
を石
にろ
くす
百
世永
く存
し
黄稲
に英
晴す
穣々
霊あ
るが
如し
遠
江
金原
明善
題額
従六
位勲
六等
平
野信
次郎
書」
1891
洪水
-D
515
○災
害に
挑む
人の
姿と
功績
を後
代に
伝え
る
○賽
の河
原で
の石
済み
に等
しい
「北原
米太
郎が
子弟
とと
もに
農耕
の暇
をさ
いて
石塁
提を
築く様
子を
みて
、人
々が
口に
して
いた
悲観
的な
こと
ば。
」
1891
洪水
-D
553
1891.1
0.2
8明
治24年
10月
28日
濃尾
地震
明治
震災
輯録
によ
ると
、西
筑摩
郡駒
ヶ根
村に
て大
巖落
ちて
男一
人壓
死と
記録
が残
って
いる
(明
治震
災輯
録)石
碑転
倒、
石垣
崩壊
1891濃
尾地
震-702
M8.0
、内
陸型
地震
で大
級の
地震
、死
者2,2
73人
、建
物全
半壊
22万
戸余
、根
尾谷
断層
が動
き一
瞬に
して
6m
もの
崖を
つくり
だし
た
明治
24年
5月
11日
/大
津事
件明
治24年
12月
18日
/足
尾鉱
毒問
題
1891-1907
前線
明治
24年
~明
治40年
3-34
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1895
明治
28年
八日
市場
の対
岸が
くず
れ(庄
右衛
門ナ
ギ)、
八幡
社が
風圧
で破
壊さ
れた
こと
が棟
札に
記録
あり
、こ
のと
き土
砂くず
れダ
ムが
でき
た、
と記
録が
ある
が、
詳細
な日
付等
不明
1895-716
1895.1
.18
明治
28年
1月
18日
地震
明治
28年
正月
18日
大地
震(川
路資
料)
1586地
震-734
1895.6
.27
明治
28年
6月
27日
明治
28年
6月
27日
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
1895.4
.27
明治
28年
4月
27日
阿島
新町
大火
、40戸
焼く
1895火
事-789
1896.7
.26
明治
29年
7月
26日
明治
29年
7月
26日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
明治
29年
6月
15日
/三
陸地
方に
大津
波
明治
30年
9月
29日
出水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
片桐
村で
9月
26か
ら29日
にか
けて
豪雨
、大
洪水
とな
り中
川原
大堤
防百
間決
壊。
天竜
川の
本流
が小
和田
の中
央を
流れ
る(中
川村
)
1897洪
水-
736
1898.6
明治
31年
6月
六月
上旬
、下
旬に
大洪
水、
六斗
川堤
防切
れる
(諏
訪地
方)
1898洪
水-784
1898.9
明治
31年
9月
九月
上旬
強雨
、古
来こ
れな
き大
猛水
とな
り八
ヶ岳
山峡
崩壊
、木
石土
砂一
時に
押し
出し
諸川
膨張
(諏
訪地
方)
1898洪
水-790
1898.9
.6-7
明治
31年
旧7月
21~
22日
豪雨
21日
夜半
、上
沢で
山崩
れ・崩
壊・押
出し
発生
、小
渋湯
湯治
宿)流
失・埋
没、
死者
10名
1898豪
雨-709
明治
28年
4月
17日
/日
清講
和条
約調
印明
治28年
4月
23日
/三
国干
渉
明治
30年
12月
9日
/こ
の日
まで
の全
国に
おけ
る赤
痢病
患者
8万
9427
人、
死亡
者2万
2310人
に達
する
1897.9
.29
明治
30年
9月
29日
豪雨
明治
31年
6月
30日
/隈
板内
閣成
立
3-35
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1898.9
.6-7
明治
31年
9月
6日
~7日
片桐
村で
大洪
水あ
り、
5月
完成
の中
川原
堤防
全壊
。小
和田
荒井
修の
家の
庭ま
で水
がつ
いた
(中
川村
)
1898洪
水-
737
三峰
川大
洪水
、境
区よ
り切
込み
、上
下新
田を
一な
めす
る、
浸水
45戸
、1898洪
水-764
三峰
川大
洪水
、榛
原下
より
上殿
島へ
切込
む、
浸水
68戸
、堤
防360間
決壊
1898洪
水-765
1899-
明治
32年
~
○青
島堤
防「天
明年
間(1781~
1788年
)に
藩に
よっ
て築
かれ
た御
見通
し川
除が
青島
耕地
を守
って
いた
が、
明治
元年
(1868年
)、
明治
15年
(1882年
)、
明治
18年
(1885年
)の
大洪
水に
より
、青
島耕
地区
は大
打撃
を受
けた
ため
、関
係地
元民
が集
まり
築堤
計画
や施
工計
画を
立案
した
。さ
らに
その
費用
も調
達し
て県
より
許可
を受
け、
地元
の責
任に
より
施工
する
方法
をと
った
。橋
爪定
太郎
を中
心と
し、
明治
32年
(1899年
)に
堤防
が完
成し
た。
」「大
正12年
(1923年
)、
橋爪
与四
郎、
北原
繁雄
両氏
が率
先し
、青
島堤
防保
存会
を結
成し
保存
に努
めた
。美
篤村
でも
昭和
26年
(1951
年)に
美篶
村堤
防保
存会
を組
織し
、水
防資
材保
存庫
を整
備し
たり
、常
時堤
防を
見回
り危
険箇
所の
改善
に努
めた
。」
○北
原式
伸縮
式鉄
線じ
ゃか
ごの
発明
「北
原繁
雄氏
が、
三峰
川の
洪水
復旧
作業
の仕
事の
中で
、伸
縮式
鉄線
じゃ
かご
を発
明し
た。
」○
青島
住民
の水
防技
術の
継承
「36災
害の
時、
聖牛
(う
し)入
れに
関し
て、
青島
住民
が自
衛隊
を指
導し
た。
」○
耕土
の深
さ「堤
防の
切れ
目(霞
堤)か
ら大
水の
時は
水が
ゆっ
くり
と逆
流し
てくる
。そ
のと
き土
が堆
積し
て耕
土が
深くな
った
。」
1899-
D518
○青
島堤
防の
史実
○水
防技
術の
継承
者
明治
32年
7月
17日
/日
英通
商航
海条
約発
効明
治32年
12月
20日
/門
戸開
放提
議
1901.6
.23
明治
34年
6月
23日
豪雨
小川
上平
あだ
か、
大沢
、竹
下が
け崩
れ、
家屋
倒壊
2戸
、死
者2名
(喬
木村
)1901土
砂-748
明治
34年
11月
18日
/八
幡製
鉄所
開業
式
1898.9
.25
明治
31年
9月
25日
明治
31年
6月
30日
/隈
板内
閣成
立
3-36
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1903.9
明治
36年
9月
前線
片桐
村で
連続
雨天
のた
め大
洪水
、31年
の被
害と
同じ
(中
川村
)1903洪
水-
738
明治
36年
/川
路大
石提
竣工
(飯
田市
川路
)
1905.4
.29
5.5
明治
38年
4月
29日
5月
5日
明治
38年
乙己
4月
29日
、5月
5日
大降
霜あ
り(川
路資
料)
1573洪
水-730
1905.6
明治
38年
6月
天竜
川大
洪水
1905.7
.14
8.1
0明
治38年
7月
14日
8月
10日
台風
明治
38年
乙己
7月
14日
暴風
雨、
8月
10日
洪水
(川
路資
料)
1573洪
水-730
三峰
川氾
濫、
榛原
下堤
防200間
切込
む,水
田浸
水29町
歩(伊
那市
)1907洪
水-766
三峰
川氾
濫、
上新
田へ
切込
む、
家屋
流失
13戸
、浸
水51戸
、水
田流
失(伊
那市
)1907洪
水-791
1909.9
.20
明治
42年
9月
20日
三峰
川洪
水、
榛原
下堤
防200間
破壊
、応
急工
事聖
牛30組
1909洪
水-767
明治
42年
10月
26日
/伊
藤博
文、
ハル
ピン
駅前
で暗
殺さ
れる
1910頃
明治
43年
頃市
瀬仙
吉氏
の家
に土
砂が
流入
飼馬
が生
き埋
めで
死亡
1910土
砂-734
小川
の湯
の前
のナ
ギ洞
が崩
壊
1910.8
.13
明治
43年
8月
13日
明治
43年
庚戌
8月
13日
洪水
(此
頃は
天竜
川筋
が東
寄り
であ
りた
るた
め河
普請
少し
)(川
路資
料)
1573洪
水-730
1911
明治
44年
大暴
風雨
で前
沢川
が氾
濫、
水防
中に
5人
が溺
死(飯
島町
)1911洪
水-750
1911.4
.11
明治
44年
4月
11日
三峰
川大
洪水
、榛
原下
堤防
80間
決壊
、裏
切120
間1911洪
水-770
明治
38年
8月
10日
/ポ
ーツ
マス
講和
会議
明治
38年
8月
12日
/第
2回
日英
同盟
協約
調印
明治
38年
9月
5日
/日
露講
和条
約調
印明
治38年
9月
5日
/日
々谷
焼打
ち事
件
明治
40年
7月
24日
/第
3次
日韓
協約
明治
40年
7月
30日
/第
1回
日露
協約
明治
43年
8月
22日
/韓
国併
合に
関す
る日
韓条
約調
印
1907.8
.24
明治
40年
8月
24日
明治
44年
/王
子製
紙の
遠山
郷木
材伐
り出
しが
盛ん
に行
われ
る
3-37
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1911.6
.19
明治
44年
6月
19日
大田
切川
大洪
水、
大田
切橋
上の
南側
堤防
決壊
、田
畑数
十町
歩が
土砂
に埋
まる
、浸
水家
屋100余
戸、
北下
平が
ほぼ
全滅
に近
い惨
状で
あっ
た。
(駒
ヶ根
市下
平)
1911洪
水-752
明治
44年
辛亥
6月
20日
大出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
片桐
村で
6月
19日
大暴
風雨
大洪
水、
小和
田で
16ha浸
水。
田島
郵便
局裏
で水
防活
動中
の5名
が濁
流に
押し
流さ
れ死
亡(中
川村
)
1911洪
水-
739
1911.8
明治
44年
8月
明治
44年
辛亥
8月
又出
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
1911.8
明治
44年
8月
8月
に諏
訪湖
が大
洪水
、中
筋方
面浸
水被
害1911洪
水-788
大正
3年
8月
29日
大洪
水(川
路資
料)
1573洪
水-730
杉島
学校
の校
地が
欠崩
、8月
より
阿弥
陀堂
へ約
1年
間移
転し
た(長
谷村
)1914洪
水-759
1923.6
.7.
大正
12年
6月
7日
洪水
のた
め、
四徳
・桑
原・北
島に
大被
害。
葛島
県営
堤防
破壊
、3戸
流出
、田
畑30ha流
失(中
川村
)1923洪
水-
740
6月
9日
、暴
風(川
路資
料)
1573洪
水-730
6月
9日
天竜
川大
増水
、飯
田測
候所
開設
以来
の高
雨量
を記
録。
飯田
町浸
水、
松川
沿岸
流失
家屋
あり
1923洪
水-785
七久
保字
日向
で山
津波
の惨
状に
あう
1923土
砂-786
大正
3年
8月
23日
/ド
イツ
に宣
戦布
告、
第1次
世界
大戦
に参
戦
1911.6
.20
大正
3年
8月
29日
1914.8
.29
1923.6
.9大
正12年
6月
9日
台風
明治
44年
辛亥
6月
20日
明治
44年
/王
子製
紙の
遠山
郷木
材伐
り出
しが
盛ん
に行
われ
る
大正
12年
9月
4日
/亀
戸事
件大
正12年
9月
16日
/甘
粕事
件
3-38
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
台風
6月
22日
、暴
風雨
(川
路資
料)
1573洪
水-730
台風
前沢
川で
土石
流、
支流
の日
向沢
川が
切れ
込み
上前
沢集
会所
と住
宅4戸
流出
、7戸
を大
破、
中通
では
4戸
に土
砂が
流入
し女
性1名
・馬
1頭
が死
亡、
滝戸
では
2戸
の住
宅と
倉庫
1棟
を流
出、
前沢
川橋
流失
、片
桐村
役場
に土
砂流
入、
新井
では
1戸
流失
、2戸
が土
砂に
埋ま
り天
竜川
筋一
帯は
川原
と化
した
(中
川村
)
1923洪
水-741
小和
田の
郷士
沢・坊
ヶ沢
・洞
ヶ沢
が大
洪水
、家
屋に
土砂
侵入
、女
・子
ども
は玉
宝寺
に避
難(中
川村
)
1923洪
水-
742
南田
島の
保谷
沢川
が大
満水
、所
々堤
防決
壊で
田畑
30haを
流出
、正
徳・明
和に
次ぐ
被害
1923洪
水-743
七久
保村
・片
桐村
大水
害(飯
島町
)1923洪
水-751
三峰
川天
女橋
水標
6尺
8寸
(約
2.1
m)
1923洪
水-771
1923.7
.15
大正
12年
7月
15日
豪雨
15日
昼頃
、山
崩れ
によ
る河
道埋
塞で
山の
神沢
で天
然ダ
ム形
成。
その
後決
壊。
(飯
島町
)1923豪
雨-703
1923.9
.1大
正12年
9月
1日
関東
地震
白岩
が白
い煙
を上
げて
くず
れ落
ちた
(南
信濃
村)
1923関
東地
震‐717
M7.9
、伊
豆大
島、
相模
湾を
震源
とし
て発
生し
た直
下型
の大
地震
、死
者・行
方不
明者
10万
5千
余人
、住
家全
壊10万
9千
余、
住家
半壊
10万
2千
余、
住家
焼失
21万
2千
余
1927.6
.13
昭和
2年
6月
13日
農耕
地約
五十
町歩
が一
面の
海、
空積
堰堤
が欠
壊。
(喬
木村
)1927洪
水-792
直径
2cm
の降
雹に
より
小川
川沿
岸の
農耕
地約
五十
町歩
が一
面の
海と
なる
、田
本平
(小
川)の
人々
が造
った
空積
堰堤
が欠
壊し
、約
300m
下流
の小
川川
合流
地点
が流
下し
た土
砂に
より
一時
せき
止め
られ
、余
勢を
かっ
て下
流に
災い
した
。
○伊
久間
水除
土手
(掘
割)
「伊
久間
の人
たち
が集
団で
中世
末期
頃か
らつ
くり
はじ
めた
とい
う。
しか
し災
害が
遠の
くと
その
効得
を忘
れが
ちに
なり
、掘
割を
埋め
たり
物を
置い
たり
、い
ざら
いを
怠っ
た。
その
結果
、大
きな
雹が
降っ
た昭
和2年
6月
には
、麦
がら
など
が堀
割の
中に
入っ
てい
たの
でた
ちま
ちに
水が
溢れ
出し
、伊
久間
は災
害に
見舞
われ
た。
」
D508
○災
害の
教訓
昭和
2年
3月
14日
/金
融恐
慌
1923.6
.22
大正
12年
7月
18日
豪雨
大正
12年
6月
22日
1923.7
.18
大正
12年
9月
4日
/亀
戸事
件大
正12年
9月
16日
/甘
粕事
件
3-39
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1928.9
昭和
3年
9月
○九
十九
谷治
山事
業・塩
沢砂
防組
合「昭
和3年
9月
(1928)、
九十
九谷
の復
旧を
帰し
て塩
沢砂
防組
合が
発足
され
た。
山腹
工事
が広
い面
積に
わた
って
完工
され
てい
くの
に伴
い付
随し
てお
こる
雨水
等へ
の被
害対
処に
苦心
した
。」
○九
十九
谷生
育の
木材
によ
る大
聖牛
「九
十九
谷の
砂防
事業
によ
り緑
化し
た資
源が
、昭
和25年
の洪
水時
に九
十九
谷か
ら流
下す
る土
砂の
せき
止め
や道
路保
護の
ため
に作
った
大聖
牛の
材料
とな
り効
を奏
した
。」
D507
○官
民一
体の
治山
事業
昭和
3年
3月
9日
/九
十九
谷の
復旧
を帰
して
塩沢
砂防
組合
が発
足、
官民
一体
の治
山事
業が
始ま
る昭
和3年
3月
15日
/3.1
5事
件勃
発昭
和3年
5月
3日
/斉
南事
件
1931
昭和
6年
台風
によ
り諏
訪湖
満水
。ロ
ーリ
ング
ダム
問題
大紛
争に
発展
する
。1931洪
水-787
昭和
6年
3月
3日
/3月
事件
昭和
6年
9月
18日
/満
州事
変昭
和6年
10月
8日
/10
月事
件
1934.9
.22
昭和
9年
9月
22日
台風
(室
戸台
風)
昭和
9年
9月
22日
大暴
風雨
被害
甚大
(川
路資
料)
1573洪
水-730
大瞬
間風
速60m
/sと
いう
強風
によ
り、
4m
を超
える
高潮
が発
生、
死者
2,7
02
人、不
明334人
、負
傷者
14,9
94人
1938.4
.27
昭和
13年
4月
27日
○山
抜け
で埋
まっ
た湯
場「昭
和13年
の雲
ひと
つな
い晴
れた
4月
27日
午前
11時
頃の
こと
、も
のす
ごい
大音
響で
烏帽
子の
北側
の山
裾が
山抜
けを
した
。そ
して
午後
1時
頃、
今度
は南
側の
山麓
が山
抜け
をし
た。
この
山抜
けで
地獄
谷の
、あ
なだ
つ(岩
にあ
いた
穴)を
少し
下っ
たと
ころ
にあ
る湯
場が
埋ま
って
しま
った
。こ
の湯
場は
、岩
の間
から
硫黄
の湯
の花
が噴
き出
てい
て腫
物に
よく効
くと
いわ
れて
おり
、ず
っと
昔は
獣た
ちの
治療
場で
もあ
った
。」
1938
土砂
-D
542
○山
抜け
で埋
まっ
た湯
場
北島
堤防
40m
・177m
決壊
(中
川村
)S13.7
災-
1
中沢
で死
者2名
、家
屋被
害48戸
、新
宮川
沿岸
の堤
防破
損8,5
00m
(駒
ヶ根
市)
S13.7
災-
2
昭和
13年
7月
3日
~4日
1938.7
.3-4
昭和
13年
1月
1日
新潟
県十
日町
の映
画館
で、
積雪
のた
め屋
根が
落下
、69人
圧死
昭和
13年
4月
1日
/国
民総
動員
法公
布昭
和13年
9月
1日
/関
東地
方、
風速
31メ
ート
ルの
台風
。死
者99人
昭和
14年
9月3日
/第
2次
世界
大戦
始ま
る
3-40
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
下平
で諸
井頭
石堤
300m
決壊
、道
路延
長4,0
00m
・用
水路
100m
が使
用不
能、
流失
家屋
10戸
、浸
水家
屋30戸
、土
砂侵
入15戸
、下
平丸
塚の
水田
2町
歩を
流失
(駒
ヶ根
市)
S13.7
災-
3
雨量
146m
m/日
、西
春近
村大
川除
流失
、殿
島橋
橋脚
東よ
り5番
目1.5
m陥
没、
中殿
島堤
防392m
破壊
、家
屋2戸
破壊
S13.7
災-
4
上郷
で堤
防決
壊30m
S13災
-1
市田
で蛇
籠80m
流失
S13災
-2
神稲
で堤
防240m
決壊
S13災
-3
河野
村中
芝地
先で
堤防
250m
決壊
S13災
-4
生田
村で
堤防
600m
決壊
S13災
-5
川路
村が
3~
4尺
の泥
で埋
まる
S13災
-6
竜江
村が
3~
4尺
の泥
で埋
まる
S13災
-7
新宮
川氾
濫(駒
ヶ根
市中
沢・下
平)
S13災
-8
1940.6
.7昭
和15年
6月
7日
竜江
で堤
防130m
決壊
S15災
1940頃
1982年
11月
昭和
15年
頃昭
和57年
11月
○坂
室の
赤石
とお
こり
石「む
かし
、現
在の
坂室
公園
の下
あた
りの
宮川
は急
な崖
にな
って
いて
、馬
や人
が川
に落
ちた
こと
から
、赤
石の
難所
と呼
び恐
れら
れて
いた
。そ
のす
ぐ近
くの
左岸
の土
手に
は高
熱が
出た
時に
触る
と熱
がさ
がっ
たと
いう
、お
こり
石が
あっ
た。
赤石
は、
昭和
15年
ごろ
の大
水の
後、
引き
上げ
られ
て坂
室神
社の
境内
に運
ばれ
た。
おこ
り石
は、
昭和
57年
の台
風10号
の大
水で
流さ
れそ
うに
なっ
たの
で、
その
年の
11月
に同
じく坂
室神
社の
境内
に運
ばれ
、今
に至
って
いる
。
1940
洪水
-D
607
○洪
水に
よっ
て移
設さ
れた
地物
1942
昭和
17年
松尾
で堤
防決
壊80m
、耕
地冠
水16ha
S17災
昭和
17年
6月
4日
/ ミ
ッド
ウェ
ー海
戦
昭和
15年
9月
27日
/日
独伊
3国
同盟
締結
1938.7
.5
県全
体で
死者
・行
方不
明者
6名
、家
屋全
半壊
6戸
、田
畑冠
水・流
失1272ha、
道路
損壊
595箇
所。
河川
、堤
防、
橋梁
に大
きな
被害
があ
った
。
前線
1938.7
.3-4
昭和
13年
7月
3日
~4日
昭和
13年
7月
5日
昭和
13年
1月
1日
新潟
県十
日町
の映
画館
で、
積雪
のた
め屋
根が
落下
、69人
圧死
昭和
13年
4月
1日
/国
民総
動員
法公
布昭
和13年
9月
1日
/関
東地
方、
風速
31メ
ート
ルの
台風
。死
者99人
昭和
14年
9月3日
/第
2次
世界
大戦
始ま
る
3-41
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1945.9
昭和
20年
9月
天竜
川大
洪水
、弁
天堤
防決
壊S20.9
災
上久
堅で
水田
流出
100ha、
流失
家屋
20戸
、死
者1
名S20災
-1
泰阜
村門
島地
区で
山崩
れ、
石山
の鷹
ノ巣
神社
に避
難中
の児
童3人
その
家族
7人
が死
亡、
負傷
者4
名S20災
-2
時又
で家
屋浸
水49戸
S20災
-2
松尾
で堤
防決
壊流
失200m
、耕
地冠
水流
失80ha
S20災
-3
飯田
市弁
天橋
付近
で法
崩れ
が発
生S20災
-4
1947
昭和
22年
松尾
で堤
防決
壊流
失90m
、耕
地冠
水5ha
S22災
1947.4
.20
昭和
22年
4月
20日
飯田
市大
火、
焼損
棟数
3、
742棟
、焼
損面
積481、
985平
方メ
ート
ル、
焼損
面積
では
戦後
大の
市街
地大
火S22.4
災
1947.9
昭和
22年
9月
小川
川大
洪水
(喬
木村
)S22.9
災
昭和
20年
1月
13日
/三
河地
震昭
和20年
8月
15日
/日
本無
条件
降伏
(敗
戦)、
降伏
文書
調印
昭和
20年
8月
28日
/進
駐軍
によ
る占
領
昭和
22年
5月
3日
日本
国憲
法施
行
1945.1
0.5
10月
1日
サイ
パン
島南
東洋
上に
発生
した
台風
9号
は毎
時40km
内外
で北
上し
、5日
2時
室戸
岬200km
付近
に達
し、
6時
頃よ
り北
東に
転じ
、速
度を
増し
て遠
州沖
合、
房総
南方
を経
て東
方洋
上に
去っ
た。
中心
示度
は740hpa
程度
で南
方沖
にそ
れた
ので
風は
一般
に弱
く、
太平
洋岸
でや
や強
かっ
た。
雨量
は前
日来
の前
線と
相ま
って
中部
地方
を中
心に
関東
南西
部、
東北
南部
に多
かっ
た。
豪雨
が全
流域
に渡
って
続き
、記
録的
な出
水を
生じ
た飯
田測
候所
にお
ける
10月
4日
の大
雨量
が、
239m
m総
雨量
500m
m(飯
田市
上久
堅の
被害
)死
亡7名
、全
壊家
屋2戸
、耕
地被
害20町
歩
昭和
20年
10月
5日
台風
(台風
9号
)
3-42
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
竜江
で無
堤地
100m
流失
S23災
-1
時又
で家
屋浸
水10戸
S23災
-2
市田
で無
堤地
53m
流失
S23災
-3
美和
ダム
地点
(ダム
は昭
和34年
11月
に完
成)、
大洪
水流
量671m
3/se
c、
洪水
流量
1311万
m3/se
cS23災
-4
大鹿
村上
蔵-
釜沢
間の
道路
2500m
決壊
流失
、橋
梁流
失、
通行
不能
S23災
-5
大鹿
村下
青木
で堤
防2ヶ
所延
長約
800m
流失
、耕
地数
町歩
埋没
S23災
-6
伊那
市東
春近
で護
岸決
壊、
浸水
被害
S24災
-1
伊那
市伊
那部
、三
峰川
合流
点で
浸水
被害
S24災
-2
飯田
市川
路で
浸水
被害
S24災
-3
飯田
市竜
江で
浸水
被害
S24災
-4
川路
村護
岸工
450m
決壊
S25災
-1
竜丘
で家
屋浸
水46戸
、耕
地冠
水被
害S25災
-2
竜江
で護
岸工
1200m
、無
堤地
300m
決壊
、耕
地冠
水80ha
S25災
-3
下久
堅で
無堤
地200m
決壊
S25災
-4
6月
大水
害あ
り、
小和
田水
田20ha冠
水(中
川村
)S25災
-5
中沢
で新
宮川
8m
の水
位観
測、
死亡
者1名
、建
物流
失1戸
、建
物破
損10戸
、床
上・床
下浸
水33戸
、堤
防決
壊11ヶ
所、
堰堤
等工
作物
被害
2,2
60m
(駒
ヶ根
市)
S25災
-6
昭和
25年
9月
1日
/日
本初
の民
間ラ
ジオ
放送
が開
始さ
れる
昭和
25年
9月
3日
/ジ
ェー
ン台
風昭
和25年
9月
8日
/対
日講
和条
約、
日米
安保
条約
調印
1950.6
.9-14
1948.6
.20
1949.6
.22
昭和
24年
7月
5日
/下
山事
件昭
和24年
8月
31日
/キ
ティ
ー台
風
昭和
23年
1月
26日
/帝
銀事
件昭
和23年
6月
28日
/福
井地
震昭
和23年
9月
15日
/ア
イオ
ン台
風
死者
1名
、床
上床
下浸
水6
戸、
田畑
冠水
78ha、
堤防
決壊
、道
路損
壊等
10ヶ
所等
の被
害が
あっ
た。
水稲
305ha、
麦類
87haに
被害
。堤
防、
橋梁
、道
路の
決壊
が多
く、
家屋
の被
害も
大き
かっ
た。
デラ
台風
昭和
25年
6月
9~
14日
前線
昭和
24年
6月
22日
昭和
23年
6月
20日
前線
3-43
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
山吹
村堤
防500m
決壊
、耕
地流
失10ha
S25災
-5
生田
村福
興堤
防430m
決壊
、耕
地流
失8ha
S25災
-6
生田
村で
根石
10m
流失
S25災
-7
上郷
村飯
沼で
堤防
決壊
75m
、家
屋浸
水4戸
、耕
地浸
水40ha
S25災
-8
神稲
村で
堤防
250m
流失
、根
固工
50m
決壊
、家
屋浸
水15戸
、田
畑浸
水40ha
S25災
-9
松尾
村清
水で
築堤
工170m
決壊
、家
屋浸
水2戸
、田
畑浸
水25ha
S25災
-10
河野
村八
王子
沖で
根固
20m
流失
S25災
-11
鼎村
水手
で床
止工
40m
決壊
、田
畑浸
水25ha
S25災
-12
喬木
村阿
島堤
防破
堤、
堤防
流失
400m
、耕
地流
失30ha、
浸水
40ha
S25災
-13
喬木
村川
向で
護岸
工20m
決壊
、田
畑浸
水10ha
S25災
-14
喬木
村堂
前で
護岸
工10m
決壊
、田
畑浸
水10ha
S25災
-15
○九
十九
谷治
山事
業・塩
沢砂
防組
合「昭
和3年
9月
(1928)、
九十
九谷
の復
旧を
帰し
て塩
沢砂
防組
合が
発足
され
た。
山腹
工事
が広
い面
積に
わた
って
完工
され
てい
くの
に伴
い付
随し
てお
こる
雨水
等へ
の被
害対
処に
苦心
した
。」
○九
十九
谷生
育の
木材
によ
る大
聖牛
「九
十九
谷の
砂防
事業
によ
り緑
化し
た資
源が
、昭
和25年
の洪
水時
に九
十九
谷か
ら流
下す
る土
砂の
せき
止め
や道
路保
護の
ため
に作
った
大聖
牛の
材料
とな
り効
を奏
した
」
1928
洪水
-D
556
○官
民一
体の
治山
事業
外沢
原護
岸堤
防50m
決壊
、上
垣外
橋流
失(中
川村
)S26.7
災
時又
で床
下浸
水5戸
S26災
-1
河野
村一
ノ刎
で堤
防20m
決壊
S26災
-2
昭和
25年
9月
1日
/日
本初
の民
間ラ
ジオ
放送
が開
始さ
れる
昭和
25年
9月
3日
/ジ
ェー
ン台
風昭
和25年
9月
8日
/対
日講
和条
約、
日米
安保
条約
調印
昭和
26年
9月
8日
/サ
ンフ
ラン
シス
コ条
約調
印昭
和26年
10月
13日
/ル
ース
台風
6日
6時
南シ
ナ海
に発
生し
た低
気圧
は、
発達
して
熱帯
低気
圧と
なり
、衰
えな
がら
東進
し、
9日
に日
本海
中部
で消
滅し
た。
しか
しこ
の熱
帯低
気圧
の付
随し
た不
連続
線は
、9日
10時
朝流
域南
部ま
で南
下し
たが
、同
日夕
刻に
は再
び北
上し
、そ
の後
やや
南下
し流
域上
空に
横た
わり
、12
時に
は更
に南
下し
本流
域上
空に
横た
わり
14日
には
更に
南下
し本
流域
を遠
ざか
った
。流
域南
部の
山岳
地帯
に集
中的
な豪
雨が
あっ
た。
1951.7
.3台
風(ケ
イト
台風
)昭
和26年
7月
3日
前線
昭和
25年
6月
9~
14日
1950.6
.9-14
3-44
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
飯田
長姫
町で
山崩
れ発
生、
死者
1名
S28災
-1
山吹
集落
で堤
防100m
流失
、床
下浸
水72戸
S28災
-2
座光
寺集
落で
床下
浸水
72戸
S28災
-3
上郷
集落
で床
下浸
水3戸
S28災
-4
鼎集
落で
床下
浸水
32戸
S28災
-5
松尾
集落
で根
固流
失40m
、床
下浸
水3戸
S28災
-6
竜丘
集落
で床
上浸
水1戸
・床
下浸
水11戸
、耕
地冠
水7ha
S28災
-7
竜江
集落
で無
堤地
50m
決壊
、家
屋半
壊1戸
、床
下浸
水2戸
、耕
地冠
水S28災
-8
川路
集落
で床
上浸
水12戸
・床
下浸
水39戸
S28災
-9
市田
集落
で蛇
籠60m
流失
S28災
-10
河野
村大
宮沖
で堤
防248m
決壊
S28災
-11
生田
村宮
沢川
合流
地点
で堤
防50m
決壊
S28災
-12
生田
村間
沢川
合流
地点
で蛇
籠護
岸150m
流失
S28災
-13
大島
集落
で護
岸400m
流失
S28災
-14
伊賀
良集
落で
床下
浸水
28戸
S28災
-15
清内
路集
落で
家屋
半壊
1戸
、床
下浸
水8戸
S28災
-16
会地
集落
で床
下浸
水2戸
S28災
-17
智里
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊3戸
、床
下浸
水5
戸S28災
-18
浪合
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊2戸
、床
上浸
水6
戸S28災
-19
根羽
集落
で家
屋全
壊2戸
、半
壊5戸
、床
上浸
水1
戸・床
下浸
水156戸
、高
橋地
区で
山崩
れ発
生S28災
-20
下條
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊11戸
、床
上浸
水16戸
・床
下浸
水83戸
S28災
-21
昭和
28年
3月
14日
/吉
田内
閣不
信任
案可
決全
国的
凶作
オホ
ーツ
ク海
高気
圧が
優勢
とな
った
ため
梅雨
も中
休み
状態
にあ
った
が、
16
日に
著し
い気
圧の
谷の
東進
に伴
い低
気圧
が大
陸か
ら東
進し
日本
海に
入り
梅雨
前線
は西
日本
から
活発
とな
った
。前
線は
本州
中部
ある
いは
以南
にあ
って
西日
本を
横断
し揚
子江
方面
に東
西に
伸び
て停
滞し
、か
つ南
北に
振動
した
ため
本流
域何
部に
は連
日大
雨が
降り
続き
、21
日夜
半に
至っ
てよ
うや
く小
雨と
なっ
た。
今回
の降
雨は
いわ
ゆる
梅雨
末期
の豪
雨で
本邦
東方
洋上
に長
らく停
滞し
た高
気圧
に基
づく異
常に
湿潤
な南
方温
暖気
流と
日本
海か
ら現
れて
南下
する
冷気
流と
の間
に前
線が
形成
され
、こ
れが
両気
流の
消長
及び
地形
が関
連し
て南
北に
振動
し、
年降
水量
の20%
に匹
敵す
る豪
雨と
なっ
た。
1953.7
.17
前線
昭和
28年
7月
17日
3-45
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
富草
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊2戸
、床
下浸
水15
戸S28災
-22
大下
條集
落で
家屋
全壊
3戸
、半
壊11戸
、床
下浸
水1戸
、中
谷地
区で
山崩
れ発
生S28災
-23
神原
集落
で家
屋半
壊1戸
、床
下浸
水1戸
S28災
-24
平岡
集落
で床
上浸
水5戸
・床
下浸
水1戸
S28災
-25
千代
集落
で家
屋半
壊62戸
S28災
-26
下久
堅集
落で
家屋
半壊
1戸
、床
上浸
水1戸
・床
下浸
水1戸
S28災
-27
上久
堅集
落で
床下
浸水
34戸
S28災
-28
神稲
集落
で家
屋全
壊2戸
、半
壊2戸
S28災
-29
上村
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊9戸
、床
上浸
水54
戸S28災
-30
木沢
集落
で家
屋全
壊9戸
、半
壊1戸
、床
上浸
水4
戸・床
下浸
水21戸
S28災
-31
和田
集落
で家
屋全
壊1戸
、半
壊2戸
、床
下浸
水31
戸S28災
-32
平谷
集落
で家
屋半
壊9戸
、床
上浸
水40戸
・床
下浸
水51戸
S28災
-33
7月
19日
、泰
阜村
ヤニ
マツ
地籍
で山
崩れ
、家
屋の
倒壊
で1家
3人
の児
童が
死亡
S28災
-34
1953.8
昭和
28年
8月
山吹
で堤
防決
壊90m
、耕
地流
失5ha
S28.8
災
1953.9
昭和
28年
9月
時又
集落
で高
さ護
岸2.5
m、
長さ
8m
決壊
S28.9
災
1955.1
.20
昭和
30年
1月
20日
飯田
線門
島~
田本
駅間
の明
島大
表沢
地籍
の線
路上
に落
石、
終電
車の
車両
が傾
斜地
と天
竜川
川原
に転
落し
乗客
5人
が死
亡、
重傷
者6人
S30災
昭和
30年
8月
6日
/原
水爆
禁止
第1回
世界
大会昭
和28年
3月
14日
/吉
田内
閣不
信任
案可
決全
国的
凶作
オホ
ーツ
ク海
高気
圧が
優勢
とな
った
ため
梅雨
も中
休み
状態
にあ
った
が、
16
日に
著し
い気
圧の
谷の
東進
に伴
い低
気圧
が大
陸か
ら東
進し
日本
海に
入り
梅雨
前線
は西
日本
から
活発
とな
った
。前
線は
本州
中部
ある
いは
以南
にあ
って
西日
本を
横断
し揚
子江
方面
に東
西に
伸び
て停
滞し
、か
つ南
北に
振動
した
ため
本流
域何
部に
は連
日大
雨が
降り
続き
、21
日夜
半に
至っ
てよ
うや
く小
雨と
なっ
た。
今回
の降
雨は
いわ
ゆる
梅雨
末期
の豪
雨で
本邦
東方
洋上
に長
らく停
滞し
た高
気圧
に基
づく異
常に
湿潤
な南
方温
暖気
流と
日本
海か
ら現
れて
南下
する
冷気
流と
の間
に前
線が
形成
され
、こ
れが
両気
流の
消長
及び
地形
が関
連し
て南
北に
振動
し、
年降
水量
の20%
に匹
敵す
る豪
雨と
なっ
た。
前線
昭和
28年
7月
17日
1953.7
.17
3-46
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
四徳
に洪
水被
害(中
川村
)S32災
-1
滝沢
に洪
水被
害(中
川村
)S32災
-2
村内
の降
雨量
250m
m・山
間部
300m
m、
村内
全域
で浸
水、
上清
公民
館裏
の堤
防決
壊に
より
数戸
の建
物が
全壊
・半
壊・流
失、
孫六
沢川
が氾
濫し
上清
川添
いの
人家
2戸
流失
、下
清小
黒川
・梨
野沢
・ど
うほ
沢を
始め
村内
各沢
に山
崩れ
が発
生し
蛇抜
けと
なっ
て道
路や
耕地
に甚
大な
被害
(清
内路
村)
S32.6
災-
1
浪合
村青
木地
籍で
家屋
2戸
流失
、宮
本地
籍で
家屋
倒壊
・県
道決
壊S32.6
災-
2
(浪
合村
の被
害)
行方
不明
者1名
、家
屋流
失4戸
、全
壊4戸
、半
壊16
戸
○馬
島先
生頌
徳碑
「昭
和32年
6月
27日
、豪
雨災
害の
救援
奔走
中に
山腹
の墜
落に
遭遇
し殉
死。
村葬
を挙
げて
頌徳
碑を
建て
偉霊
を祀
る。
」
1957
土砂
D-651
○災
害救
助中
の殉
職
6月
26日
大水
害、
小川
川・加
ヶ須
川氾
濫、
流失
家屋
4戸
、堤
防決
壊1,8
00m
(喬
木村
)S32.6
災-
3
1958.8
.26
昭和
33年
8月
26日
台風
(台
風17号
)阿
南町
鈴ヶ
沢で
製炭
中に
山崩
れ、
売木
村出
身の
2家
族6人
が被
災、
3名
死亡
S33.8
災
1958.9
.18
昭和
33年
9月
18日
台風
美和
ダム
地点
(ダム
は昭
和34年
11月
に完
成)、
大洪
水流
量570m
3/se
c、
洪水
流量
1515万
m3/se
cS33災
県内
で死
者17名
、家
屋全
半壊
159戸
、床
上床
下浸
水5353戸
、河
川1128ヶ
所、
道路
等公
共土
木、
治山
、農
業関
係に
大き
な被
害が
あっ
た。
1958.9
昭和
33年
9月
台風
(台
風21号
)中
川村
で中
川橋
流失
S33.9
災
昭和
33年
3月
9日
/関
門ト
ンネ
ル開
通昭
和33年
9月
26日
/狩
野川
台風
昭和
32年
1957.6
.26-29
昭和
32年
6月
26日
~29日
豪雨
(台
風5号
)
1957
昭和
32年
6月
21日
/日
米共
同声
明で
日米
新時
代を
強調
3-47
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
美和
ダム
地点
(ダム
は昭
和34年
11月
に完
成)、
大洪
水流
量1182m
3/se
c、
洪水
流量
3521万
m3/se
cS34.8
災
中沢
の百
々目
木川
両岸
の各
所に
は延
6km
にわ
たり
各所
に決
壊ヵ
所を
生じ
る、
耕地
の流
失7反
5畝
(駒
ヶ根
市)
S34.8
災-
2
富士
見立
沢の
セン
ガ沢
で土
石流
発生
、死
亡19
名、
重症
2名
、家
屋流
失8戸
S34.8
災-
3
昭和
34年
4月
10日
/皇
太子
(=現
天皇
)結婚
1959.8
.14
台風
(台風
7 )
昭和
34年
8月
14日
県内
で死
者・行
方不
明者
71名
、家
屋全
半壊
4482
戸、
床上
床下
浸水
15,1
97
戸、
河川
1746ヶ
所等
公共
土木
、農
業関
係に
甚大
な被
害が
あっ
た。
(長
谷村
の被
害)
長谷
村で
全壊
1戸
、流
失39戸
、半
壊1戸
、床
上・床
下浸
水30戸
、堤
防決
壊1,1
80m
、被
害総
額2億
円(伊
那里
の被
害)
伊那
里杉
島、
柏木
集落
孤立
、美
和小
学校
戸大
分校
半壊
半流
失、
被害
総額
2億
円(茅
野市
の被
害)
茅野
市で
死者
2名
、流
失家
屋22戸
、半
壊家
屋36
戸、
床上
浸水
家屋
93戸
、流
失・埋
没耕
地149.5
3ha、
堤防
決壊
50ヵ
所で
総延
長5,8
40m
、流
失橋
梁35ヵ
所で
上川
水系
の橋
ほと
んど
流失
、被
害総
額10億
7千
万円
3-48
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
昭和
34年
4月
10日
/皇
太子
(=現
天皇
)結婚
台風
(伊
勢湾
台風
)1959.9
.26
昭和
34年
9月
26日
長野
県下
で死
者不
明12
名、
家屋
浸水
2000戸
、被
害総
額60億
円(阿
南町
の被
害)
死者
4名
、全
壊134戸
、流
失1戸
、半
壊390戸
(浪
合村
の被
害)
全壊
12戸
、半
壊53戸
、床
上・床
下浸
水22戸
(泰
阜村
の被
害)
全壊
102戸
、半
壊208戸
、罹
災者
数1531名
(喬
木村
の被
害)
全壊
家屋
10戸
、半
壊家
屋52戸
、被
害額
496万
円(駒
ヶ根
市の
被害
)建
物被
害21戸
、中
沢下
井水
路決
壊10m
、山
崩れ
2ヶ
所 (長
谷村
の被
害)
全壊
5戸
、半
壊18戸
、水
田畑
流埋
没1.8
町歩
、被
害総
額2,0
00万
円(茅
野市
の被
害)
東・豊
平・泉
野・北
山な
どの
山浦
地域
で大
きな
被害
、死
者1名
、家
屋全
壊44戸
、半
壊1,3
17戸
、水
稲倒
伏138ha、
被害
総額
3億
5千
万円
に及
んだ
(飯
田市
の被
害)
上久
堅で
全壊
家屋
51戸
、半
壊家
屋174戸
(清
内路
村の
被害
)上
清部
落で
全壊
13戸
、半
壊54戸
、一
部破
壊100戸
以上
、甚
大な
植林
地の
倒木
被害
3-49
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
諏訪
湖釜
口水
門か
ら氾
濫、
市街
地2/3以
上が
29
日か
ら4日
湛水
、国
道・国
鉄一
時不
通S36災
-1
三十
六災
高水
位標
(石碑
)D
722
三六
災高
水位
標(飯
田市
川路
駅前
の標
柱)
「白
くに
ごっ
た水
が屋
根ま
でつ
き、
助け
てと
書い
た旗
を立
てボ
ート
の救
助を
待ち
まし
た。
人々
は首
まで
水に
漬か
りな
がら
命か
らが
ら逃
げま
した
。川
路駅
前の
交差
点に
は、
三六
災の
とき
地上
から
3~
4m
の所
まで
水が
来た
こと
を示
す標
柱が
立て
られ
てい
る。
」
D653
飯田
市竜
江で
破堤
95m
、家
屋全
壊11戸
、床
上浸
水21戸
、田
畑35ha等
の被
害S36災
-3
飯田
市下
久堅
知久
平で
家屋
半壊
1戸
、床
上浸
水4戸
、床
下浸
水2戸
、田
畑6ha、
宅地
1ha等
の被
害S36災
-4
飯田
市松
尾で
堤防
破堤
480m
、家
屋全
壊2戸
、半
壊4戸
、床
上浸
水6戸
、床
下浸
水2戸
、田
畑7ha、
宅地
2ha等
の被
害S36災
-5
飯田
市松
尾水
神で
堤防
破堤
50m
、欠
損570m
、家
屋半
壊2戸
、床
上浸
水7戸
、床
下浸
水2戸
、田
畑26ha、
宅地
1.6
ha等
の被
害S36災
-6
飯田
市松
尾清
水で
堤防
欠損
315m
、家
屋全
壊14
戸、
半壊
28戸
、床
上浸
水46戸
、床
下浸
水74戸
、田
畑64ha、
宅地
24ha等
の被
害S36災
-7
飯田
市座
光寺
で堤
防欠
損計
900m
、座
光寺
及び
高森
町下
市田
・市
田で
家屋
全壊
11戸
、半
壊5戸
、床
上20戸
、床
下浸
水505戸
、田
畑134ha、
宅地
81ha等
の被
害
S36災
-8
飯田
市上
郷南
条で
田畑
5ha等
の被
害S36災
-9
喬木
村伊
久間
で堤
防欠
損計
510m
、田
畑18haの
被害
S36災
-10
喬木
村喬
木で
堤防
欠損
230m
、喬
木村
喬木
及び
下豊
丘村
伴野
で家
屋全
壊22戸
、半
壊3戸
、床
上浸
水7戸
、床
下浸
水10戸
、田
畑66ha、
宅地
6.3
ha
等の
被害
S36災
-11
喬木
村馬
場平
で田
畑6ha等
の被
害S36災
-12
梅雨
前線
が熱
帯低
気圧
の影
響を
受け
活発
とな
り、
伊那
谷全
域に
記録
的な
雨量
をも
たら
した
。特に
小渋
川流
域及
び飯
田付
近が
多か
った
。集
中豪
雨に
より
天竜
川水
系各
所で
決壊
、飯
田・下
伊那
にお
ける
被害
総額
150億
円本
支流
あわ
せて
死者
行方
不明
220名
、床
上浸
水1591戸
、床
下浸
水1158戸
等の
被害
であ
った
。(高
森町
の被
害)
死者
9名
、行
方不
明者
2名
、流
失家
屋42戸
、全
壊半
壊家
屋66戸
、床
下上
浸水
557戸
。(飯
田市
上久
堅の
被害
)全
壊家
屋3戸
、半
壊家
屋8
戸、
床上
浸水
3戸
、床
下浸
水32戸
(中
川村
の被
害)
死者
・行
方不
明者
18名
、被
害総
額12億
6251万
3000円
(清
内路
村の
被害
)被
害総
額1億
8千
6百
30万
1千
円、
全半
壊33戸
、床
上浸
水142戸
(泰
阜村
の被
害)
家屋
全壊
1戸
、流
失5戸
、半
壊9戸
、浸
水15戸
(喬
木村
の被
害)
全壊
家屋
14戸
、半
壊家
屋17戸
、床
上・床
下浸
水367
戸 (駒
ヶ根
市の
被害
)死
亡者
5名
、総
額21億
円、
全壊
家屋
34戸
、流
失家
屋31戸
、半
壊家
屋35
戸、
浸水
家屋
19個
、山
地崩
壊419ヵ
所167ha
(茅
野市
の被
害)
護岸
決壊
5,3
17m
、耕
地の
流失
9.7
ha、
被害
総額
3億
2千
300万
円
飯田
市川
路で
堤防
欠損
750m
、家
屋全
壊83戸
、半
壊45戸
、床
上浸
水49戸
、床
下浸
水48戸
、田
畑56ha、
宅地
7ha等
の被
害S36災
-2
昭和
36年
8月
8日
/松
川事
件無
罪判
決昭
和36年
9月
16日
/第
2室
戸台
風
前線
昭和
36年
6月
26~
29日
1961.6
.26-29
3-50
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
豊丘
村伴
野で
堤防
破堤
570m
S36災
-13
市田
河原
の惣
兵衛
堤防
決壊
S36災
-14
高森
町下
市田
で堤
防破
堤685m
S36災
-15
高森
町吉
田で
堤防
破堤
計300m
、欠
損146m
、田
畑5ha等
の被
害S36災
-16
1961.6
.26-29
の影
響を
受け
活発
とな
り、
伊那
谷全
域に
記録
的な
雨量
をも
たら
した
。特に
小渋
川流
域及
び飯
田付
近が
多か
った
。集
中豪
雨に
より
天竜
川水
系各
所で
決壊
、飯
田・下
伊那
にお
ける
被害
総額
150億
円本
支流
あわ
せて
死者
行方
不明
220名
、床
上浸
水1591戸
、床
下浸
水1158戸
等の
被害
であ
った
。(高
森町
の被
害)
死者
9名
、行
方不
明者
2名
、流
失家
屋42戸
、全
壊半
壊家
屋66戸
、床
下上
浸水
557戸
。(飯
田市
上久
堅の
被害
)全
壊家
屋3戸
、半
壊家
屋8
戸、
床上
浸水
3戸
、床
下浸
水32戸
(中
川村
の被
害)
死者
・行
方不
明者
18名
、被
害総
額12億
6251万
3000円
(清
内路
村の
被害
)被
害総
額1億
8千
6百
30万
1千
円、
全半
壊33戸
、床
上浸
水142戸
(泰
阜村
の被
害)
家屋
全壊
1戸
、流
失5戸
、半
壊9戸
、浸
水15戸
(喬
木村
の被
害)
全壊
家屋
14戸
、半
壊家
屋17戸
、床
上・床
下浸
水367
戸 (駒
ヶ根
市の
被害
)死
亡者
5名
、総
額21億
円、
全壊
家屋
34戸
、流
失家
屋31戸
、半
壊家
屋35
戸、
浸水
家屋
19個
、山
地崩
壊419ヵ
所167ha
(茅
野市
の被
害)
護岸
決壊
5,3
17m
、耕
地の
流失
9.7
ha、
被害
総額
3億
2千
300万
円
昭和
36年
8月
8日
/松
川事
件無
罪判
決昭
和36年
9月
16日
/第
2室
戸台
風
前線
昭和
36年
6月
26~
29日
3-51
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
田沢
川で
約60m
高さ
の鉄
砲水
、追
分に
山津
波襲
来し
家屋
流出
・行
方不
明者
多数
・追
分橋
流出
S36災
-44
○恐
怖の
思い
出、
死と
たた
かっ
た一
夜(竹
内貴
代子
)「高
森町
未曾
有の
災害
とな
った
田沢
川追
分の
土石
流で
濁流
にの
まれ
なが
らも
九死
に一
生を
得た
時の
様子
が語
られ
てい
る。
」
S36土
砂-
D652
○土
砂災
害の
恐怖
高森
町山
吹で
堤防
破堤
430m
、欠
損350m
、田
畑35ha等
の被
害S36災
-17
松川
町大
島で
堤防
欠損
計1020m
、家
屋全
壊3
戸、
田畑
8ha、
宅地
0.4
ha等
の被
害S36災
-18
中川
村葛
島堤
防欠
損50m
、床
上浸
水14戸
、田
畑29ha、
宅地
2ha等
の被
害S36災
-19
中川
村南
田島
で堤
防破
堤560m
、欠
損150m
、田
畑4ha等
の被
害S36災
-20
中川
村中
村で
堤防
破堤
315m
、欠
損80m
、田
畑7ha等
の被
害S36災
-21
中川
村小
和田
で堤
防破
堤300m
、欠
損400m
、田
畑29ha等
の被
害S36災
-22
飯島
町鳥
居原
で床
下浸
水2戸
、田
畑11ha、
宅地
0.3
ha等
の被
害S36災
-23
飯島
町日
曽利
で田
畑15ha等
の被
害S36災
-24
大鹿
村大
河原
の大
西山
崩落
、死
者39名
S36災
-25
小渋
川砂
防出
張所
が破
壊・職
員6名
が殉
職S36災
-26
駒ヶ
根市
中沢
で堤
防破
堤160m
、欠
損170m
、田
畑4ha等
の被
害S36災
-27
駒ヶ
根市
小鍛
冶で
田畑
12ha等
の被
害S36災
-28
宮田
村中
越で
堤防
欠損
60m
、田
畑4ha等
の被
害S36災
-29
宮田
村大
久保
で田
畑7ha等
の被
害S36災
-30
伊那
市美
篶上
大島
地籍
の三
峰川
で堤
防が
大き
く決
壊S36災
-31
伊那
市東
春近
田原
で田
畑8ha等
の被
害S36災
-32
1961.6
.26-29
梅雨
前線
が熱
帯低
気圧
の影
響を
受け
活発
とな
り、
伊那
谷全
域に
記録
的な
雨量
をも
たら
した
。特に
小渋
川流
域及
び飯
田付
近が
多か
った
。集
中豪
雨に
より
天竜
川水
系各
所で
決壊
、飯
田・下
伊那
にお
ける
被害
総額
150億
円本
支流
あわ
せて
死者
行方
不明
220名
、床
上浸
水1591戸
、床
下浸
水1158戸
等の
被害
であ
った
。(高
森町
の被
害)
死者
9名
、行
方不
明者
2名
、流
失家
屋42戸
、全
壊半
壊家
屋66戸
、床
下上
浸水
557戸
。(飯
田市
上久
堅の
被害
)全
壊家
屋3戸
、半
壊家
屋8
戸、
床上
浸水
3戸
、床
下浸
水32戸
(中
川村
の被
害)
死者
・行
方不
明者
18名
、被
害総
額12億
6251万
3000円
(清
内路
村の
被害
)被
害総
額1億
8千
6百
30万
1千
円、
全半
壊33戸
、床
上浸
水142戸
(泰
阜村
の被
害)
家屋
全壊
1戸
、流
失5戸
、半
壊9戸
、浸
水15戸
(喬
木村
の被
害)
全壊
家屋
14戸
、半
壊家
屋17戸
、床
上・床
下浸
水367
戸 (駒
ヶ根
市の
被害
)死
亡者
5名
、総
額21億
円、
全壊
家屋
34戸
、流
失家
屋31戸
、半
壊家
屋35
戸、
浸水
家屋
19個
、山
地崩
壊419ヵ
所167ha
(茅
野市
の被
害)
護岸
決壊
5,3
17m
、耕
地の
流失
9.7
ha、
被害
総額
3億
2千
300万
円
昭和
36年
8月
8日
/松
川事
件無
罪判
決昭
和36年
9月
16日
/第
2室
戸台
風
前線
昭和
36年
6月
26~
29日
3-52
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
伊那
市西
春近
表木
で田
畑6ha等
の被
害S36災
-33
伊那
市西
春近
沢渡
で田
畑3ha等
の被
害S36災
-34
伊那
市上
新田
で床
上浸
水3戸
、田
畑5ha等
の被
害S36災
-35
佐久
間町
大輪
右岸
で地
すべ
り発
生S36災
-36
飯田
市伊
賀良
地区
で土
石流
発生
、死
亡者
5名
、45戸
流失
S36災
-37
飯田
城東
・西
鼎地
区で
野底
川が
氾濫
、上
流で
土石
流発
生、
死亡
者7名
S36災
-38
中川
村四
徳で
土石
流発
生、
死亡
者7名
、被
災戸
数61戸
、廃
村S36災
-39
松川
町生
田で
土石
流発
生S36災
-40
27日
水晶
山に
山崩
れ発
生、
ヨキ
トギ
沢・マ
セノ
沢・
孫六
沢を
始め
次々
と各
所に
崩落
・山
津波
続発
<中
平部
落)黒
川橋
流失
(清
内路
村)
S36災
-41
泰阜
村で
明治
初年
に金
原明
善に
よっ
て築
堤さ
れた
とい
う明
島の
島地
籍天
竜川
堤防
300m
が決
壊流
失。
S36災
-42
長谷
村杉
島岩
入地
籍へ
通ず
る仮
橋流
失、
浦線
もい
たる
とこ
ろで
崩壊
S36災
-43
長谷
村奥
浦地
籍で
地す
べり
発生
S36災
-44
1961.6
.26-29
前線
梅雨
前線
が熱
帯低
気圧
の影
響を
受け
活発
とな
り、
伊那
谷全
域に
記録
的な
雨量
をも
たら
した
。特に
小渋
川流
域及
び飯
田付
近が
多か
った
。集
中豪
雨に
より
天竜
川水
系各
所で
決壊
、飯
田・下
伊那
にお
ける
被害
総額
150億
円本
支流
あわ
せて
死者
行方
不明
220名
、床
上浸
水1591戸
、床
下浸
水1158戸
等の
被害
であ
った
。(高
森町
の被
害)
死者
9名
、行
方不
明者
2名
、流
失家
屋42戸
、全
壊半
壊家
屋66戸
、床
下上
浸水
557戸
。(飯
田市
上久
堅の
被害
)全
壊家
屋3戸
、半
壊家
屋8
戸、
床上
浸水
3戸
、床
下浸
水32戸
(中
川村
の被
害)
死者
・行
方不
明者
18名
、被
害総
額12億
6251万
3000円
(清
内路
村の
被害
)被
害総
額1億
8千
6百
30万
1千
円、
全半
壊33戸
、床
上浸
水142戸
(泰
阜村
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害)
家屋
全壊
1戸
、流
失5戸
、半
壊9戸
、浸
水15戸
(喬
木村
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害)
全壊
家屋
14戸
、半
壊家
屋17戸
、床
上・床
下浸
水367
戸 (駒
ヶ根
市の
被害
)死
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5名
、総
額21億
円、
全壊
家屋
34戸
、流
失家
屋31戸
、半
壊家
屋35
戸、
浸水
家屋
19個
、山
地崩
壊419ヵ
所167ha
(茅
野市
の被
害)
護岸
決壊
5,3
17m
、耕
地の
流失
9.7
ha、
被害
総額
3億
2千
300万
円
昭和
36年
6月
26~
29日
昭和
36年
8月
8日
/松
川事
件無
罪判
決昭
和36年
9月
16日
/第
2室
戸台
風
3-53
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○松
尾幸
久氏
の36災
害体
験談
「27日
、鹿
塩地
区で
4軒
流出
。小
さい
村道
の橋
に木
の根
や土
石流
が詰
まり
、水
が方
々に
流れ
出て
しま
うの
に対
処す
るた
めに
外に
いた
3名
が死
亡。
鹿塩
川の
水が
橋を
越す
。午
後に
電話
・電
気が
使え
なくな
る。
語り
部は
山手
の実
家に
避難
し何
もで
きな
かっ
た。
」「28日
、朝
から
手当
たり
次第
に生
活必
需品
を買
い集
める
。午
後か
ら降
り出
した
雨に
より
川が
決壊
、地
響き
とと
もに
流木
や1~
2m
もの
大石
が川
の上
を舞
うよ
うに
流れ
てい
た。
村の
決死
隊が
救助
を求
めて
山越
えを
開始
、5~
6日
後に
自衛
隊の
ヘリコプタ
ーが
来た
。」
「29日
、雨
が止
み曇
り空
の中
、大
西山
がド
ーンと
落ち
田圃
が全
部つ
ぶれ
人も
家畜
も息
たえ
だえ
に流
され
た」
(教
訓)
○災
害時
の広
域的
な協
力体
制○
災害
を起
こさ
ない
、災
害か
ら逃
れる
工夫
と努
力を
怠ら
ない
○自
然の
法則
と生
活の
知恵
を大
切に
し自
然を
無視
した
開発
をし
ない
S36災
-D
510
(教
訓)
○災
害時
の広
域的
な協
力体
制○
災害
を起
こさ
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、災
害か
ら逃
れる
工夫
と努
力を
怠ら
ない ○
自然
の法
則と
生活
の知
恵を
大切
にし
自然
を無
視し
た開
発を
しな
い
○丑
満水
記念
碑「36災
害後
、宮
の上
提の
土手
に建
てら
れた
」
S36災
-D
513
○灌
漑用
水に
まつ
わる
利権
争い
(東
野と
上郷
村)
○子
泣き
石(夜
泣き
石)
「正
徳五
年の
未満
水の
時に
、野
底川
から
運ば
れた
もの
だと
伝え
られ
てい
る。
」○
千早
振る
神代
も聞
かず
野底
山天
王原
に水
上が
ると
は(昭
和36年
当時
歌わ
れて
いた
)
S36災
-D
514
○伝
説
前線
梅雨
前線
が熱
帯低
気圧
の影
響を
受け
活発
とな
り、
伊那
谷全
域に
記録
的な
雨量
をも
たら
した
。特に
小渋
川流
域及
び飯
田付
近が
多か
った
。集
中豪
雨に
より
天竜
川水
系各
所で
決壊
、飯
田・下
伊那
にお
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被害
総額
150億
円本
支流
あわ
せて
死者
行方
不明
220名
、床
上浸
水1591戸
、床
下浸
水1158戸
等の
被害
であ
った
。(高
森町
の被
害)
死者
9名
、行
方不
明者
2名
、流
失家
屋42戸
、全
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壊家
屋66戸
、床
下上
浸水
557戸
。(飯
田市
上久
堅の
被害
)全
壊家
屋3戸
、半
壊家
屋8
戸、
床上
浸水
3戸
、床
下浸
水32戸
(中
川村
の被
害)
死者
・行
方不
明者
18名
、被
害総
額12億
6251万
3000円
(清
内路
村の
被害
)被
害総
額1億
8千
6百
30万
1千
円、
全半
壊33戸
、床
上浸
水142戸
(泰
阜村
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害)
家屋
全壊
1戸
、流
失5戸
、半
壊9戸
、浸
水15戸
(喬
木村
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害)
全壊
家屋
14戸
、半
壊家
屋17戸
、床
上・床
下浸
水367
戸 (駒
ヶ根
市の
被害
)死
亡者
5名
、総
額21億
円、
全壊
家屋
34戸
、流
失家
屋31戸
、半
壊家
屋35
戸、
浸水
家屋
19個
、山
地崩
壊419ヵ
所167ha
(茅
野市
の被
害)
護岸
決壊
5,3
17m
、耕
地の
流失
9.7
ha、
被害
総額
3億
2千
300万
円
1961.6
.26-29
昭和
36年
8月
8日
/松
川事
件無
罪判
決昭
和36年
9月
16日
/第
2室
戸台
風
昭和
36年
6月
26~
29日
3-54
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1964.9
.25
昭和
39年
9月
25日
台風
20号
大田
切川
の堤
防決
壊、
赤穂
上水
道北
原浄
水場
機能
停止
(駒
ヶ根
市)
S39災
昭和
39年
10月
10日
/東
京オ
リン
ピッ
ク開
催
1965.9
.15-18
昭和
40年
9月
15~
18日
台風
(台風
24号
)佐
久間
町浦
川で
氾濫
、浸
水家
屋多
数S40災
台風
24号
は渥
美半
島に
上陸
し、中
部山
岳部
で二
つに
分裂
し勢
力を
増し
、群馬
県を
通り
日本
海沿
いに
北上
した
。天竜
川流
域は
台風
24号
が南
アル
プス
を通
過す
るこ
とに
より
各流
域に
強い
雨が
降っ
た。
昭和
40年
6月
22日
/日
韓基
本条
約成
立昭
和40年
8月
3日
/松
代群
発地
震
1967.6
.13
昭和
42年
6月
13日
渇水
天竜
川宮
ヶ瀬
で低
流量
22.8
1m3/se
cを
観測
S42.6
災
泰阜
ダム
上流
天竜
峡で
洪水
被害
発生
、床
上浸
水385戸
・床
下浸
水583戸
S42.7
災
日本
本土
を縦
断し
てい
る梅
雨前
線は
台風
崩れ
の熱
帯低
気圧
と台
風8号
の影
響で
活発
とな
り雷
を伴
い雨
を降
らせ
た。天
竜川
流域
は御
岳と
ハヶ
岳を
結ぶ
線に
前線
が停
滞下
ため
前線
の前
後は
多か
った
。床
上浸
水385戸
、床
下浸
水583戸
であ
った
。
諏訪
市内
の民
家2戸
が土
砂崩
れの
ため
倒壊
、2
世帯
7人
家の
下敷
とな
り3人
死亡
、4人
が重
軽、
諏訪
湖が
あふ
れ諏
訪市
内を
中心
に床
上・床
下浸
水1000戸
をだ
す
S42.7
災-
2
泰阜
ダム
上流
で洪
水被
害発
生S43災
-1
水窪
町門
桁で
土砂
崩れ
発生
、死
者1名
S43災
-2
天龍
村川
島集
落で
家屋
全壊
・半
壊、
山崩
れに
よる
埋没
被害
発生
S43災
-3
1967.7
.10
県内
で死
者・行
方不
明者
7名
、家
屋全
半壊
・一
部破
損102戸
、床
上床
下浸
水1590戸
。農
業・林
業・公
共土
木施
設に
被害
甚大
であ
った
。(阿
南町
の被
害)
新野
地区
260m
m・大
下条
地区
200.5
mm
の日
降雨
量観
測、
全壊
134戸
、半
壊390戸
台風
(台風
10号
)
昭和
42年
4月
15日
/美
濃部
東京
都知
事当
選昭
和42年
8月
28日
/新
潟・山
形に
集中
豪雨
昭和
42年
10月
8日
/羽
田学
生デ
モ
昭和
42年
7月
10日
低気
圧前
線
昭和
43年
8月
25~
30日
昭和
43年
8月
8日
/日
本初
の心
臓移
植昭
和43年
12月
10日
/三
億円
事件
川端
康成
にノ
ーベ
ル賞
1968.8
.25-30
3-55
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
佐久
間町
大輪
のつ
り橋
大輪
橋流
失S43災
-4
佐久
間町
浦川
で国
鉄飯
田線
大千
瀬鉄
橋流
失S43災
-5
泰阜
村南
部地
区で
時間
雨量
80m
m以
上を
観測
、小
河川
の氾
濫や
山崩
れが
生じ
被害
総額
2億
3百
31万
5千
円。
田本
福寿
院下
に地
すべ
り発
生S43災
-6
伊那
市富
県桜
井で
堤防
破堤
250m
S45災
-1
宮田
村大
久保
で堤
防欠
壊56m
、床
上浸
水1戸
、床
下浸
水23戸
、田
畑17ha等
の被
害S45災
-2
飯島
町中
平で
堤防
欠壊
200m
、床
上浸
水1戸
、床
下浸
水22戸
、田
13ha等
の被
害S45災
-3
駒ヶ
根市
大久
保で
堤防
欠壊
241m
、床
下浸
水14
戸、
田16ha等
の被
害S45災
-4
中川
村南
向飯
沼で
床下
浸水
1戸
S45災
-5
中川
村大
草付
近で
法崩
れS45災
-6
豊丘
村柿
開土
で堤
防破
堤150m
S45災
-7
川路
集落
2000t堤
防越
流、
床上
浸水
2戸
、床
下浸
水1戸
、川
路桑
園(約
60ha)
が水
没S45災
-8
1972.2
.24
昭和
47年
2月
24日
阿島
町大
火S47.2
災
1972.7
昭和
47年
7月
低気
圧前
線飯
島町
与田
切橋
流出
S47災
1972.7
.10
昭和
47年
7月
10日
前線
諏訪
市普
門寺
では
赤津
川が
氾濫
、鉄
砲水
とな
り4
名死
亡、
4名
重軽
傷S47.7
災
昭和
47年
2月
3日
/札
幌冬
季オ
リン
ピッ
ク昭
和47年
2月
19日
/連
合赤
軍浅
間山
荘事
件昭
和47年
5月
15日
/沖
縄返
還昭
和47年
9月
25日
/日
中国
交正
常化
昭和
43年
8月
8日
/日
本初
の心
臓移
植昭
和43年
12月
10日
/三
億円
事件
川端
康成
にノ
ーベ
ル賞
県内
で死
者・行
方不
明者
7名
、家
屋全
半壊
・一
部破
損102戸
、床
上床
下浸
水1590戸
。農
業・林
業・公
共土
木施
設に
被害
甚大
であ
った
。(阿
南町
の被
害)
新野
地区
260m
m・大
下条
地区
200.5
mm
の日
降雨
量観
測、
全壊
134戸
、半
壊390戸
台風
(台風
10号
)
前線
・低
気圧
1970.6
.14-15
14日
午後
九州
北方
にあ
る熱
帯性
低気
圧の
崩れ
の低
気圧
から
のび
る梅
雨前
線が
15、
16日
日本
列島
沿い
に停
滞し
て大
雨を
降ら
せた
。16日
午後
低気
圧は
去り
前線
は南
下し
雨は
峠を
越え
た。
昭和
45年
6月
14~
15日
昭和
45年
3月
14日
/日
本万
国博
覧会
開催
昭和
45年
3月
31日
/日
航「よ
ど号
」事
昭和
45年
11月
25日
/三
島事
件
昭和
43年
8月
25~
30日
1968.8
.25-30
3-56
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1974.7
.4昭
和49年
7月
4日
豪雨
(台
風5号
)米
沢地
籍に
造成
中の
吉田
ゴル
フ場
の土
砂が
大量
に流
失S49災
(茅
野市
の被
害)
堤防
決壊
440m
、被
害総
額4億
8千
万円
昭和
49年
11月
26日
/田
中首
相、
金融
問題
で辞
任
岡谷
市堀
の内
で床
上浸
水4
戸S55災
-1
諏訪
市末
広町
・四
賀な
どで
床下
浸水
123戸
S55災
-2
茅野
市宮
川の
住宅
裏側
で石
が崩
れ、
住宅
が埋
まる
S55災
-3
県道
諏訪
ー茅
野線
が諏
訪市
普門
寺入
口で
土砂
崩れ
S55災
-4
天竜
川増
水に
より
小和
田の
水田
10haを
はじ
め渡
場下
川原
1ha・
飯沼
0.3
haの
水田
が冠
水(中
川村
)S57災
-1
小黒
川及
び黒
川が
氾濫
、村
営保
養セ
ンタ
ー仙
流荘
半壊
、付
近一
帯が
河原
と化
した
(伊
那市
長谷
)S5
7災
-2
1983.5
.15-17
昭和
58年
5月
15日
~17日
三林
で土
砂崩
落(中
川村
七久
保)
S58.5
災
昭和
58年
5月
26日
/日
本海
中部
地震
昭和
58年
10月
3日
/三
宅島
大噴
火昭
和58年
10月
12日
/田
中元
首相
に実
刑判
決
昭和
57年
8月
1日
~2日
台風
(10号
台風
)
昭和
55年
7月
8日
1982.8
.1-2
昭和
55年
8月
8日
/「金
大中
氏を
殺さ
せる
な!
」国
民大
会開
催
昭和
57年
8月
25日
/閣
議で
行財
政改
革大
綱を
決定
1980.7
.8
3-57
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
茅野
市米
沢の
檜沢
川で
氾濫
、床
上浸
水3戸
、床
下浸
水44戸
S58災
-1
茅野
市西
茅野
の浦
沢川
で護
岸決
壊、
床上
浸水
2戸
、床
下浸
水24戸
S58災
-2
茅野
市城
山で
山崩
れ発
生、
家屋
全壊
1戸
、床
上1
戸S58災
-3
下諏
訪町
で諏
訪湖
の水
位上
昇に
よる
床上
浸水
15戸
、床
下浸
水57戸
S58災
-4
諏訪
市で
諏訪
湖の
水位
上昇
によ
る床
上浸
水948
戸、
床下
浸水
901戸
、農
地浸
水223ha
S58災
-5
諏訪
市双
葉ヶ
丘の
唐沢
川で
土石
流、
家屋
全壊
2戸
、半
壊4戸
、床
上浸
水9戸
、床
下浸
水22戸
S58災
-6
諏訪
市元
町の
福沢
川で
山崩
れ、
死者
あり
、家
屋全
壊2戸
、床
上1戸
S58災
-7
諏訪
市四
賀神
戸、
中門
川で
諏訪
湖の
水位
上昇
によ
る床
上浸
水154戸
、床
下浸
水152戸
、農
地浸
水31ha
S58災
-8
諏訪
市島
崎川
で諏
訪湖
の水
位上
昇に
よる
床上
浸水
108戸
、床
下浸
水197戸
、農
地浸
水86.5
ha
S58災
-9
諏訪
市宮
川で
諏訪
湖の
水位
上昇
によ
る床
上浸
水46戸
、床
下浸
水302戸
、農
地浸
水215.4
ha
S58災
-10
岡谷
市で
諏訪
湖の
水位
上昇
によ
る床
上浸
水13
戸、
床下
浸水
208戸
S58災
-11
岡谷
市橋
原、
天竜
川で
諏訪
湖の
水位
上昇
によ
る床
上浸
水6戸
、床
下浸
水131戸
S58災
-12
辰野
町下
辰野
元町
地区
、側
溝が
川に
遮ら
れ溢
水、
床下
浸水
9戸
S58災
-13
昭和
58年
5月
26日
/日
本海
中部
地震
昭和
58年
10月
3日
/三
宅島
大噴
火昭
和58年
10月
12日
/田
中元
首相
に実
刑判
決
1983.9
.26-30
昭和
58年
9月
26~
30日
前線
・台
風(台
風10号
)
台風
の東
進に
伴っ
て前
線活
動は
更に
活発
にな
り、
長野
圏内
でも
27日
朝か
ら雨
とな
った
。この
雨は
1時
間5m
m程
度の
並雨
で続
いた
が、台
風が
九州
に接
近す
るに
つれ
て雨
足が
次第
に強
まり
、夜半
過ぎ
南部
では
所に
より
1時
間に
10m
mを
越す
よう
にな
った
。台風
は九
州上
陸後
更に
弱ま
りな
がら
速度
を速
めて
進み
、九州
中部
を横
断し
て28日
15時
高知
県宿
毛市
付近
で熱
帯低
気圧
とな
った
。この
頃か
ら県
内の
雨は
中・南
部を
中心
に一
段と
強ま
って
、1時
間に
10m
m以
上の
強い
雨と
なり
、総雨
量は
県南
部や
西部
で200m
m以
上、
多い
所は
400m
mに
達し
た。
床上
浸水
2700戸
、床
下浸
水3900戸
等の
被害
があ
った
。(中
川村
の被
害)
罹災
世帯
59戸
(阿
南町
の被
害)
全壊
1戸
、半
壊2戸
、一
部損
壊2戸
、床
下・床
上浸
水52戸
、道
路被
害208箇
所、
河川
被害
158箇
所
3-58
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
伊那
市下
殿島
で護
岸破
堤、
床下
浸水
11戸
S58災
-14
伊那
市北
林で
河川
氾濫
、床
下浸
水9戸
S58災
-15
高遠
町下
町で
藤沢
川堤
防決
壊、
家屋
全壊
2戸
、床
上浸
水13戸
、床
下浸
水26戸
S58災
-16
長谷
村山
吹沢
で山
崩れ
発生
、床
上浸
水1戸
、床
下浸
水1戸
S58災
-17
駒ヶ
根市
北割
1区
の大
田切
川、
床上
浸水
1戸
、床
下浸
水8戸
S58災
-18
駒ヶ
根市
福岡
地区
で床
下浸
水14戸
S58災
-19
駒ヶ
根市
市場
割地
区で
床下
浸水
9戸
S58災
-20
駒ヶ
根市
吉瀬
地区
で護
岸決
壊、
家屋
半壊
1戸
、床
上浸
水2戸
、床
下浸
水6戸
S58災
-21
駒ヶ
根市
大曽
倉地
区で
溢水
、家
屋全
壊1戸
、半
壊2戸
、床
上浸
水3戸
S58災
-22
飯島
町飯
島梅
戸神
社の
唐沢
川増
水、
床上
浸水
1戸
、床
下浸
水34戸
S58災
-23
飯島
町本
郷の
十王
堂沢
川で
護岸
破堤
、床
上浸
水6戸
、床
下浸
水11戸
S58災
-24
飯島
町七
久保
高遠
原の
宮の
沢川
で山
崩れ
によ
る土
砂流
入、
床上
5戸
、床
下16戸
S58災
-25
飯島
町七
久保
新田
の大
井川
で床
下浸
水57戸
S58災
-26
中川
村片
桐で
3.8
ha、
1戸
の浸
水被
害が
発生
S58災
-27
中川
村片
桐の
牧ヶ
原橋
付近
で、
18.5
ha、
4戸
の浸
水被
害が
発生
S58災
-28
中川
村大
草で
14戸
の浸
水被
害が
発生
S58災
-29
中川
村飯
沼で
堤防
が600m
にわ
たっ
て決
壊、
水田
8ha流
失、
小和
田で
6h
a・渡
場で
1h
a流
失S59災
-48
前線
・台
風(台
風10号
)昭
和58年
9月
26~
30日
台風
の東
進に
伴っ
て前
線活
動は
更に
活発
にな
り、
長野
圏内
でも
27日
朝か
ら雨
とな
った
。この
雨は
1時
間5m
m程
度の
並雨
で続
いた
が、台
風が
九州
に接
近す
るに
つれ
て雨
足が
次第
に強
まり
、夜半
過ぎ
南部
では
所に
より
1時
間に
10m
mを
越す
よう
にな
った
。台風
は九
州上
陸後
更に
弱ま
りな
がら
速度
を速
めて
進み
、九州
中部
を横
断し
て28日
15時
高知
県宿
毛市
付近
で熱
帯低
気圧
とな
った
。この
頃か
ら県
内の
雨は
中・南
部を
中心
に一
段と
強ま
って
、1時
間に
10m
m以
上の
強い
雨と
なり
、総雨
量は
県南
部や
西部
で200m
m以
上、
多い
所は
400m
mに
達し
た。
床上
浸水
2700戸
、床
下浸
水3900戸
等の
被害
があ
った
。(中
川村
の被
害)
罹災
世帯
59戸
(阿
南町
の被
害)
全壊
1戸
、半
壊2戸
、一
部損
壊2戸
、床
下・床
上浸
水52戸
、道
路被
害208箇
所、
河川
被害
158箇
所
1983.9
.26-30
昭和
58年
5月
26日
/日
本海
中部
地震
昭和
58年
10月
3日
/三
宅島
大噴
火昭
和58年
10月
12日
/田
中元
首相
に実
刑判
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3-59
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
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エピ
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ド・意
義社
会の
動き
中川
村前
沢川
上流
で土
石流
、増
水し
て決
壊S59災
-49
天竜
川と
小渋
川の
合流
点で
20戸
の浸
水被
害が
発生
S58災
-30
松川
町城
北の
城北
川で
河川
氾濫
、床
上浸
水1
戸、
床下
浸水
5戸
S58災
-31
松川
町大
島桑
園地
区で
山崩
れ発
生、
家屋
全壊
1戸
、床
上1戸
、床
下1戸
S58災
-32
高森
町吉
田河
原の
胡麻
目川
で土
石流
流入
、床
下浸
水18戸
、農
地3.3
ha埋
没S58災
-33
喬木
村伊
久間
で7戸
の浸
水被
害が
発生
S58災
-34
飯田
市上
郷沼
丹保
の新
戸川
で溢
水、
床下
浸水
7戸
S58災
-35
飯田
市上
郷黒
田棚
田の
野底
川で
溢水
、床
下浸
水6戸
S58災
-36
飯田
市松
尾で
床上
浸水
29戸
S58災
-37
飯田
市上
久堅
で家
屋半
壊5戸
、床
上浸
水3戸
、床
下浸
水25戸
、死
者1名
S58災
-38
飯田
市千
代で
家屋
全壊
3戸
、半
壊5戸
、床
上浸
水5戸
、床
下浸
水17戸
S58災
-39
飯田
市竜
江で
家屋
半壊
5戸
S58災
-40
飯田
市竜
丘で
床上
浸水
18戸
、床
下浸
水4戸
S58災
-41
飯田
市川
路で
床上
浸水
7戸
、床
下浸
水10戸
S58災
-42
飯田
市鼎
地区
上山
の野
畔川
で床
下浸
水24戸
S58災
-43
飯田
市毛
賀の
、天
竜川
と毛
賀沢
川と
の合
流点
で108戸
が浸
水被
害S58災
-44
下條
村粒
良脇
の加
竜川
で護
岸決
壊、
山崩
れ等
発生
、家
屋全
壊1戸
、半
壊2戸
、床
上浸
水9戸
、床
下浸
水53戸
S58災
-45
阿南
町泰
阜ダ
ム付
近富
草大
島で
堤防
決壊
、家
屋半
壊1戸
、床
上浸
水2戸
S58災
-46
泰阜
村三
耕地
で山
崩れ
、土
石流
、家
屋全
壊1戸
、半
壊1戸
、床
上浸
水1戸
、床
下浸
水5戸
S58災
-47
飯島
橋決
壊、
伊那
里地
区孤
立
昭和
58年
5月
26日
/日
本海
中部
地震
昭和
58年
10月
3日
/三
宅島
大噴
火昭
和58年
10月
12日
/田
中元
首相
に実
刑判
決
台風
の東
進に
伴っ
て前
線活
動は
更に
活発
にな
り、
長野
圏内
でも
27日
朝か
ら雨
とな
った
。この
雨は
1時
間5m
m程
度の
並雨
で続
いた
が、台
風が
九州
に接
近す
るに
つれ
て雨
足が
次第
に強
まり
、夜半
過ぎ
南部
では
所に
より
1時
間に
10m
mを
越す
よう
にな
った
。台風
は九
州上
陸後
更に
弱ま
りな
がら
速度
を速
めて
進み
、九州
中部
を横
断し
て28日
15時
高知
県宿
毛市
付近
で熱
帯低
気圧
とな
った
。この
頃か
ら県
内の
雨は
中・南
部を
中心
に一
段と
強ま
って
、1時
間に
10m
m以
上の
強い
雨と
なり
、総雨
量は
県南
部や
西部
で200m
m以
上、
多い
所は
400m
mに
達し
た。
床上
浸水
2700戸
、床
下浸
水3900戸
等の
被害
があ
った
。(中
川村
の被
害)
罹災
世帯
59戸
(阿
南町
の被
害)
全壊
1戸
、半
壊2戸
、一
部損
壊2戸
、床
下・床
上浸
水52戸
、道
路被
害208箇
所、
河川
被害
158箇
所
前線
・台
風(台
風10号
)昭
和58年
9月
26~
30日
1983.9
.26-30
3-60
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
1985.7
.1昭
和60年
7月
1日
前線
与田
切発
電所
建設
現場
で鉄
砲水
、3名
死亡
S60災
台風
6号に
より
停滞
して
いた
梅雨
前線
の活
動が
活発
とな
った
。台風
・梅
雨前
線の
北上
に伴
い、
県内
は28日
にも
雨が
降っ
たが
、29日
夕方
県の
南部
から
雨と
なり
、次第
に全
県に
広が
り1時
間に
10m
mを
越え
る雨
が降
った
。
昭和
60年
8月
12日
/日
航ジ
ャン
ボ機
が墜
落豊
田商
事事
件
蓑輪
町松
島北
島の
天竜
川右
岸の
堤防
が決
壊H
18災
-1
蓑輪
町の
たき
の沢
で土
石流
が発
生し
、大
字中
箕輪
で非
住家
1戸
床上
浸水
H18災
-2
蓑輪
町中
箕輪
の曲
がり
尾で
土石
流発
生、
3世
帯が
自主
避難
H18災
-3
蓑輪
町上
古田
で地
すべ
りが
発生
H18災
-4
蓑輪
町中
村の
中の
沢で
土石
流が
発生
し住
宅33
戸、
公民
館2施
設に
被害
H18災
-5
辰野
町大
字小
野で
土石
流が
発生
、4世
帯が
自主
避難
H18災
-6
辰野
町下
雨沢
で土
石流
が発
生し
家屋
に土
砂が
流入
H18災
-7
辰野
町小
野中
村で
崩壊
が発
生し
死者
1人
、全
壊2
戸H
18災
-8
辰野
町赤
羽で
崩壊
が発
生し
全壊
3戸
、半
壊4戸
H18災
-9
伊那
市諸
町で
がけ
地が
崩壊
H18災
-10
伊那
市松
倉で
土石
流が
発生
H18災
-11
伊那
市西
春近
で崩
壊が
発生
し、
中央
道通
行止
め、
家屋
浸水
被害
6戸
H18災
-12
岡谷
市湊
3丁
目の
小田
井沢
川で
土石
流が
発生
H18災
-13
岡谷
市橋
原の
志平
川で
、土
石流
が住
宅地
を襲
った
H18災
-14
岡谷
市川
岸駒
沢の
的場
川で
土石
流が
発生
し住
宅に
被害
が出
たH
18災
-15
岡谷
市鮎
沢の
本沢
川で
濁流
が溢
れる
H18災
-16
2006.7
.15-19
平成
18年
7月
15~
19日
前線
・台
風(台
風18号
)
台風
18号
は9月
15日
21時
に沖
の鳥
島の
南東
海上
で発
生し
た。西
北西
に進
んだ
後、1
7日
午後
沖縄
の南
方海
上で
向き
を北
東に
転じ
、18日
朝沖
縄の
南東
海上
を通
過し
た。県
内は
、台
風の
北上
に伴
い南
海上
に停
滞し
た秋
雨前
線の
活動
が活
発化
した
ため
、18日
早朝
南部
から
雨に
なり
、急
速に
北部
まで
広が
って
19日
午後
まで
降り
続い
た。
特に
、台
風が
伊豆
諸島
海域
を北
上し
た19
日は
、前
線が
本州
南岸
まで
北上
して
一段
と活
動を
強め
たた
め、
未明
から
昼ご
ろに
かけ
南部
を中
心に
1時
間15~
57㎜
に達
する
強雨
とな
り、
阿南
と南
信濃
村で
は任
意3時
間の
降水
量が
100㎜
を越
えた
。総
雨量
が400m
mを
超え
る記
録的
な大
雨。
平成
18年
1月
23日
/日
本郵
政株
式会
社が
発足
ライ
ブド
ア事
件平
成18年
7月
15日
/ 平
成18年
7月
豪雨
3-61
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
岡谷
市新
倉の
大洞
川で
濁流
が住
宅街
に溢
れる
H18災
-17
岡谷
市上
野原
の横
河川
で土
石流
が発
生H
18災
-18
岡谷
市湊
小坂
の栃
久保
川で
土石
流が
発生
H18災
-19
諏訪
市北
真志
野の
中ノ
沢川
で、
土石
流が
発生
H18災
-20
諏訪
市湯
の脇
でが
け崩
れ。
片羽
保育
園の
給食
室が
つぶ
れる
H18災
-21
○H
18災
記念
シン
ポジ
ウム
記録
「平成
18年
7月豪
雨に
よる
上伊
那地
域で
発生
した
土砂
災害
によ
る被
災者
や防
災関
係者
の体
験談
や災
害の
実態
につ
いて
まと
めら
れて
いる
。」
○未
来へ
の提
言・教
訓
2006.7
.15-19
平成
18年
7月
15~
19日
前線
・台
風(台
風18号
)
台風
18号
は9月
15日
21時
に沖
の鳥
島の
南東
海上
で発
生し
た。西
北西
に進
んだ
後、1
7日
午後
沖縄
の南
方海
上で
向き
を北
東に
転じ
、18日
朝沖
縄の
南東
海上
を通
過し
た。県
内は
、台
風の
北上
に伴
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海上
に停
滞し
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雨前
線の
活動
が活
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した
ため
、18日
早朝
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雨に
なり
、急
速に
北部
まで
広が
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午後
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降り
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た。
特に
、台
風が
伊豆
諸島
海域
を北
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日は
、前
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本州
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まで
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一段
と活
動を
強め
たた
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心に
1時
間15~
57㎜
に達
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強雨
とな
り、
阿南
と南
信濃
村で
は任
意3時
間の
降水
量が
100㎜
を越
えた
。総
雨量
が400m
mを
超え
る記
録的
な大
雨。
平成
18年
1月
23日
/日
本郵
政株
式会
社が
発足
ライ
ブド
ア事
件平
成18年
7月
15日
/ 平
成18年
7月
豪雨
3-62
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○常
官寺
のは
なし
「昔
、横
内村
に常
官寺
とい
う寺
があ
った
。あ
る時
、高
野山
の御
師が
寺に
泊ま
った
。常
官寺
の住
職は
おか
ねを
隠し
て御
師に
一文
も与
えな
かっ
た。
御師
は深
く恨
み、
高野
山に
帰っ
て参
籠し
祈願
する
と、
常官
寺一
帯に
一夜
大雨
が降
り、
大口
(宮
川茅
野)で
堤防
が決
壊し
て寺
も住
職も
流さ
れた
とい
う。
それ
以来
、上
川は
今の
よう
に流
れ、
銭場
(宮
川中
河原
)付近
で井
戸浚
いを
する
と古
銭が
出る
そう
であ
る。
この
時流
され
た横
内村
の一
部を
開拓
して
中河
原が
でき
たと
いう
。」
D637
○御
師の
祈願
(恨
み)に
よっ
ても
たら
され
た洪
水
○福
次荒
れ「む
かし
、福
次と
いう
人が
車山
で炭
焼き
をし
てい
ると
、煙
たい
から
炭焼
きを
やめ
ろ、
とテ
ンゴ
ン様
(天
狗)の
声が
した
。福
次が
やめ
ない
で炭
焼き
を続
けて
いる
と、
大き
い雷
が鳴
り、
大雨
にな
った
。車
沢も
音無
川も
大水
が出
て通
れな
くな
り、
大門
回り
でや
っと
家に
帰っ
たと
いう
。今
でも
この
辺り
で急
に山
が荒
れだ
すと
、こ
りゃ
あ福
次荒
れだ
なあ
、と
言わ
れる
そう
であ
る。
」
D608
○人
の行
いに
対す
る天
狗の
いま
しめ
(大
水)
○聞
かず
の神
様「む
かし
、有
賀に
へそ
曲が
りの
神様
がい
た。
雨乞
いを
すれ
ばよ
けい
にか
んか
ん照
りに
する
し、
洪水
を止
めて
くれ
と頼
めば
よけ
いに
雨を
降ら
せる
。少
しも
願い
事を
聞い
てくれ
ない
ので
村人
は、
聞か
ずの
神様
、と
呼ん
でい
た。
」
D609
○へ
そ曲
がり
の神
様
○じ
じ穴
とば
ば穴
「下
諏訪
町の
上水
道水
池付
近に
じじ
穴と
ばば
穴と
呼ば
れる
古墳
があ
る。
むか
し、
火の
雨が
降っ
たと
き、
この
二つ
の穴
に逃
げ込
んだ
人だ
けが
助か
った
とい
う。
今の
下諏
訪の
人は
、こ
の二
つの
穴に
逃げ
込ん
だ人
たち
の子
孫だ
とい
われ
てい
る。
」
D610
○火
の雨
から
護っ
てくれ
たじ
じ穴
、ば
ば穴
○毒
沢の
由来
「む
かし
豪雨
に毒
沢一
帯が
流さ
れた
時、
押し
流さ
れた
とき
、鉱
泉が
田畑
に冠
水し
、養
殖の
鯉な
どが
死ん
でし
まっ
たこ
とや
、毒
沢一
帯の
河川
には
水生
生物
が生
息し
ない
とい
われ
るこ
とか
ら名
がつ
けら
れた
とい
う。
」
D611
○洪
水に
よる
鉱泉
の冠
水
3-63
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○四
王の
由来
「茅
野の
宮川
にあ
る安
国寺
の門
にた
って
いた
仁王
たち
が、
ある
夏、
四・五
日も
大変
な大
雨が
降り
、ど
ろ水
に押
し流
され
てと
うと
う諏
訪湖
の岸
まで
流さ
れて
きた
。そ
れを
見つ
けた
漁師
が代
官所
へ届
けよ
うと
和尚
に拾
った
場所
の地
名を
尋ね
た時
、仁
王が
二つ
流れ
着い
たこ
とか
ら四
王だ
、と
和尚
が名
づけ
たと
いう
。」
D612
○洪
水に
よっ
て流
され
た仁
王
○諏
訪大
社下
社の
七不
思議
(浮
島)
「春
宮裏
にあ
る砥
川の
島。
砥川
は昔
から
暴れ
川と
いわ
れて
いる
が、
この
島は
どん
な大
水が
出て
も沈
まな
いと
いう
。浮
島に
は浮
島社
が祭
られ
てい
る。
」
D622
○洪
水で
沈ま
ない
島
○し
っぽ
のな
い赤
いヘ
ビ「岡
谷の
西堀
に住
んで
いた
ケチ
でふ
くよ
かな
オフ
クと
いう
おば
あさ
んが
、二
羽の
つば
めが
軒下
につ
くっ
た巣
を疎
まし
く思
い落
とし
てし
まっ
たの
で、
二羽
のつ
ばめ
は悲
しい
声を
残し
て諏
訪湖
のほ
うへ
消え
てい
った
。数
日後
、二
羽の
つば
めが
オフ
クば
あさ
んの
家に
運ん
でき
た夕
顔の
たね
を植
える
と見
事な
夕顔
が実
った
。輪
切り
にし
た夕
顔の
中か
ら数
え切
れな
い程
の真
っ赤
な小
さい
ヘビ
が這
い出
して
きた
。あ
きれ
たオ
フク
ばあ
さん
は、
夕顔
とヘ
ビを
小井
川の
一里
塚の
やぶ
の中
に投
げ捨
てた
。や
ぶの
中で
大き
くな
った
ヘビ
たち
は、
オフ
クば
あさ
んが
夕顔
を輪
切り
にし
た時
にし
っぽ
まで
切ら
れて
しま
って
いた
。し
っぽ
のな
い赤
いヘ
ビの
大群
がま
るで
真っ
赤に
燃え
た火
のお
びの
よう
に大
行進
をし
て、
地響
きと
とも
にオ
フク
ばあ
さん
と家
をひ
とお
しに
し、
塩尻
峠へ
と消
えて
いっ
た。
」
D519
○伝
説の
地(西
堀・
小井
川地
籍)は
、岡
谷市
横河
川の
下流
域に
位置
し、
平成
18
年7
月豪
雨災
害の
時に
は土
石流
が発
生し
てい
る。
○ヘ
ビを
呼ん
だつ
ばめ
が諏
訪湖
方面
から
やっ
てき
たこ
と(諏
訪湖
には
水神
がい
る)、
地響
きと
とも
に家
を押
し流
した
こと
から
、土
石流
災害
のこ
とと
判断
しま
した
。
3-64
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○流
され
た四
王「茅
野の
宮川
にあ
る安
国寺
の門
にた
って
いた
仁王
たち
は、
たい
くつ
であ
くび
ばか
りし
てい
たの
で、
いか
めし
かっ
た顔
がだ
らし
なく
なっ
てい
た。
ある
夏、
四・五
日も
大変
な大
雨が
降り
、ど
ろ水
に押
し流
され
てと
うと
う諏
訪湖
の岸
まで
流さ
れて
きた
。そ
の地
を四
王と
名づ
けた
和尚
に、
だら
しな
い顔
の仁
王は
寺に
おけ
ない
と言
われ
た。
仁王
たち
はや
がて
諏訪
湖の
出口
に流
れ着
き、
照光
寺に
祀ら
れる
こと
にな
った
が、
二度
と捨
てら
れぬ
よう
顔を
引き
締め
て立
って
いる
とい
う。
」
D613
○安
国寺
は宮
川沿
いの
山の
中に
ある
ため
、文
章中
の泥
水に
流さ
れた
とい
うの
は土
石流
の可
能性
が高
いと
思わ
れる
。
(辰
野町
に伝
わる
こと
わざ
)○
とび
が空
に輸
かくと
雨が
降る
○烏
が10羽
揃っ
て鳴
くと
大風
が出
る○
蛇を
川へ
流せ
ば雨
が降
る○
川魚
がよ
く釣
れる
と雨
○煙
突の
煙が
立て
ば雨
、北
へな
びい
ても
雨 ○守
屋山
の方
へす
っと
した
雲が
出る
と雨
にな
る○
釜へ
水が
廻れ
ば雨
がふ
る○
荒神
山が
近く見
える
と雨
が降
る○
天竜
川の
瀬音
が高
くな
れば
雨が
ふる
○夕
方山
鳴り
がす
ると
大嵐
にな
る○
みみ
ずが
いい
声で
鳴け
ば雨
が降
る○
草履
と下
駄を
ちん
ばに
はけ
ば雨
が降
る
D585
3-65
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○辰
野縁
起「信
濃の
山の
重な
りの
間に
信濃
神二
湖(し
なの
かむ
いの
にこ
)と
呼ば
れる
青く澄
んだ
二つ
の湖
が一
筋に
入り
江に
結ば
れて
並ん
でい
た。
上の
湖を
諏訪
の湖
、下
の湖
は伊
奈の
湖と
もい
った
。古
くか
ら湖
の底
には
魔の
神が
住み
、時
には
魔人
の怒
りが
嵐を
呼び
、洪
水を
きた
した
。そ
こで
村人
は、
魔の
季節
に入
る六
月六
日に
なる
と湖
の南
にあ
る小
高い
荒神
の岡
に集
まり
、音
木を
打ち
祝詞
をあ
げ、
二歳
にな
る雌
鹿を
湖底
に沈
めて
生贄
をす
る習
慣を
持つ
よう
にな
った
。あ
る年
にこ
の祭
りが
終わ
った
直後
、一
天俄
にか
き曇
り七
日七
晩嵐
が続
き、
いっ
こう
に衰
える
様子
がな
かっ
た。
東の
村に
住む
おさ
の娘
・梨
恵は
自ら
生贄
に代
わっ
て湖
に飛
びこ
もう
とし
た時
嵐の
中か
ら、
待て
しば
し七
月七
日竜
天へ
昇る
、と
いう
声が
聞こ
えて
きた
。七
月七
日の
雲ひ
とつ
なく日
が天
頂に
さし
かか
った
時、
たち
まち
に凄
まじ
い暴
風雨
とな
り、
大轟
音と
とも
に青
白い
鱗を
閃め
かせ
た大
竜が
荘厳
な舞
を見
せて
北の
山頂
へと
消え
てい
った
。そ
して
湖の
水は
荒神
の岡
の東
と西
両端
を破
って
一気
に南
へ流
れて
いっ
た。
七月
七日
竜は
天に
去り
、今
まで
湖の
底だ
った
とこ
のに
野は
ひら
け、
村に
は平
和と
喜び
の日
が続
いた
。こ
の時
から
だれ
言う
とも
なくこ
の土
地を
竜の
住ん
だ野
、竜
野と
いい
、流
れる
川を
天竜
とい
うよ
うに
なっ
たと
いう
。」
D644
○竜
の昇
天伝
説と
竜野
・天
竜川
の由
来
○沓
掛石
「楡
沢街
道沿
いに
ある
、日
本武
尊が
東征
の帰
途に
休ま
れた
てわ
らじ
の紐
をし
めな
おし
たと
いわ
れる
一坪
大の
石。
窪み
には
常に
水が
溜ま
り、
水が
絶え
ると
雨が
降る
とい
う。
(郷
土資
料)」
D614
○雨
をも
たら
す石
3-66
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○百
々渕
の沈
鐘「上
辰野
と宮
所の
間の
横川
河の
百々
橋下
に大
きな
渕が
あり
、そ
こを
昔か
ら百
々渕
とい
って
きた
。昔
この
渕の
上に
はお
堂が
あり
、長
い年
月の
間に
荒れ
て、
つい
にお
堂は
渕に
崩れ
込ん
でし
まっ
た。
この
ため
、お
堂の
釣鐘
が一
緒に
渕に
沈ん
でし
まっ
た。
沈ん
だ鐘
は大
蛇に
なり
、渕
の主
にな
って
人が
そば
に来
ると
巻き
込ん
でし
まう
とい
う。
」
D643
○主
の大
蛇と
なっ
た釣
鐘
○蛇
石「昔
千渕
には
、五
十間
を越
える
ほど
のた
いへ
ん気
のや
さし
い主
の大
蛇が
子供
と一
緒に
棲ん
でい
た。
その
頃、
大滝
沢に
棲ん
でい
た二
匹の
兄弟
竜が
、と
きど
き暴
れて
は大
嵐を
呼び
おこ
して
大水
を出
し、
村人
を苦
しめ
てい
た。
兄弟
竜は
獲物
のイ
ノシ
シを
めぐ
って
大ゲ
ンカ
をは
じめ
たの
で、
大嵐
とな
った
。木
が倒
れ、
山が
崩れ
、大
水が
出て
土や
石や
倒れ
た木
々が
ゴロ
ゴロ
と横
川川
を流
れて
いっ
た。
千渕
に棲
む大
蛇は
川下
の人
間た
ちを
思い
、子
供の
竜に
渕の
底に
いる
よう
声を
かけ
てか
ら上
流へ
と向
かっ
た。
ひと
きわ
川幅
の狭
まっ
た辺
りま
で来
ると
、倒
れた
木々
に堰
き止
めら
れて
小さ
いダ
ムが
出来
てい
た。
大蛇
は頭
をも
たげ
て出
来た
ばか
りの
木や
石の
土手
を崩
しは
じめ
たが
、次
々に
木や
石が
流れ
てくる
ので
苦し
い水
との
闘い
とな
った
。大
蛇の
子は
帰っ
て来
ない
母を
心配
し、
傷を
おい
なが
ら頭
をも
たげ
続け
てい
る母
蛇を
見つ
けた
。大
蛇と
その
子供
は長
い間
水と
闘っ
てい
たが
、嵐
が静
まる
頃、
とう
とう
力つ
きて
川底
に半
分埋
まり
、寄
り添
うよ
うに
息を
ひき
とっ
てし
まっ
た。
熊野
権現
様は
兄弟
竜の
いた
ずら
を大
変怒
り、
竜た
ちを
大滝
沢に
ある
大滝
に閉
じ込
めて
しま
った
。村
人た
ちは
命を
すて
てま
で助
けて
くれ
た大
蛇た
ちを
大層
あわ
れが
り、
いつ
まで
もそ
の美
しい
心が
残る
よう
にと
、石
の姿
に変
えた
とい
う。
こう
して
、大
小二
筋の
蛇石
が横
川川
の川
底に
でき
、い
つま
でも
村人
を守
って
くれ
るこ
とに
なっ
たと
いう
。」
D640
○土
石流
から
村人
を救
った
大蛇
の親
子
3-67
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○洞
ヶ入
鐘楼
堂「上
平出
部落
の南
端、
地名
大門
を東
の山
の谷
間に
入る
こと
約二
町、
山の
中腹
に鐘
楼堂
があ
った
。昔
、そ
こか
ら山
抜け
をし
て鐘
楼堂
は泥
砂と
共に
押し
流さ
れ、
鐘楼
は天
竜川
の百
々の
淵に
ころ
びこ
んで
大蛇
とな
り、
淵の
主に
なっ
たと
いう
。(長
野県
上伊
那誌
民
俗編
上よ
り)」
D605
○洪
水で
流さ
れた
鐘楼
が大
蛇と
なる
○鐘
は雨
乞い
に使
われ
る事
例は
全国
にみ
られ
る
○八
王子
神社
の伝
説「昔
々、
八王
子神
社は
素盞
鳴尊
とい
う神
様が
便り
にし
てい
た八
人の
御子
がお
なくな
りに
なら
れ、
神と
して
祀ら
れた
とい
う。
大古
に平
出・下
辰野
地区
はす
べて
湖水
にな
って
いて
、大
蛇が
棲み
辰の
湖と
いっ
た。
東側
の樋
口地
区は
水門
の役
割を
果た
して
いた
が、
大水
のた
めに
破さ
れて
湖も
次第
に涸
れ果
て平
野に
なっ
た。
その
後、
この
地方
には
毎年
伝染
病で
はげ
しい
熱病
が流
行し
、人
々は
大蛇
の祟
りと
恐れ
、八
人の
御子
の霊
を祀
って
無病
をお
祈り
した
とこ
ろ、
病気
は忽
ち治
った
とい
う。
」
D645
○洪
水が
もた
らし
た地
変に
よる
地名
の由
来
○腰
掛石
「有
賀峠
へ登
る道
の平
出の
はず
れの
傍に
、む
かし
明神
様を
勧請
する
とき
に御
輿を
ここ
まで
かつ
いで
きて
動か
なくな
り、
石の
上に
置い
て休
んだ
とい
う石
があ
る。
曽て
その
傍を
流れ
る上
野川
が氾
濫し
た時
、こ
の石
に堰
がれ
て水
の方
向が
変わ
った
ため
、平
出の
村は
ほと
んど
害を
被ら
なか
った
とい
う。
(郷
土
石号
)」
D616
○洪
水か
ら護
って
くれ
た石
○辰
野の
いわ
れ「む
かし
の荒
神山
は今
より
大き
く、
東と
西の
山脈
まで
つな
がっ
てい
て、
天竜
川を
せき
とめ
、そ
こに
湖が
でき
てい
た。
その
湖に
は竜
神が
住ん
でい
て、
天に
昇っ
たり
降り
たり
して
いた
。あ
る時
の大
雨で
湖の
水が
氾濫
し、
荒神
山の
東と
西を
切り
崩し
て水
が流
れ出
し、
干上
がっ
てし
まっ
た。
水が
なくな
った
ので
竜は
天に
昇っ
てし
まい
、今
は野
にな
って
しま
った
。こ
こを
竜神
がい
たと
いう
こと
から
龍野
(辰
野)と
いう
よう
にな
った
。」
D533
3-68
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○沢
底の
蛇の
池「沢
底の
山寺
に堂
平と
いう
所に
蛇の
池と
よぶ
小さ
い底
なし
の池
があ
り、
昔に
大蛇
がす
んで
いた
が大
雷雨
で山
抜け
した
時、
一緒
に流
れて
行方
が分
から
なくな
った
。池
から
七、
八間
はな
れた
とこ
ろに
蛇抜
けと
いっ
て蛇
の抜
け出
した
あと
があ
ると
いう
。こ
の池
を掻
き回
すと
雨が
降る
とい
って
、誰
も昔
から
手を
出し
たも
のが
いな
いと
いう
。」
D604
○土
石流
災害
の伝
承(蛇
抜け
)○
平成
18年
豪雨
災害
の時
、沢
底川
の岸
辺に
ある
赤羽
(山
寺よ
り下
流)と
いう
とこ
ろで
土石
流が
発生
した
。
(箕
輪町
に伝
わる
こと
わざ
○辰
野の
汽車
の気
笛が
聞え
ると
雨○
天竜
川を
虹が
また
ぐと
雨○
雨っ
ぷり
〈ほ
たる
ぶくろ
〉を
とる
と雨
○か
ぼち
ゃの
つる
が太
いと
風が
吹く
○山
かが
しが
出る
と晴
、育
だい
しょ
うが
出る
と雨
○蚊
がも
ちを
つくと
雨○
ひじ
ろの
煙が
家の
中に
こも
ると
雨○
腰が
いた
むと
、あ
かぎ
れが
いた
いと
、し
もや
けが
かい
いと
、神
経痛
がお
こる
と、
どれ
も雨 ○
子ど
もが
お茶
をの
むと
風が
ふく
○め
だか
が群
にな
って
泳げ
ば雨
D594
○帯
無川
「弘
法大
師が
帯を
流し
て水
を封
じた
ので
、水
が下
の方
へ流
れな
くな
った
とい
う。
この
西の
山を
雲が
常に
帯を
巻い
たよ
うに
かか
って
いる
とこ
ろか
ら帯
巻山
と呼
んだ
。そ
の山
から
流れ
出る
川と
いう
ので
帯巻
川と
言っ
たの
が、
いつ
の間
にか
誤っ
て帯
無川
とい
うよ
うに
なっ
た。
(笠
原政
市氏
)」
D617
○H
18年
7月
豪雨
災害
時(19日
)6:4
0 帯
無川
線路
付近
決壊
の恐
れ9:1
5 帯
無川
国道
西教
員住
宅付
近決
壊の
恐れ
(箕
輪町
ホー
ムペ
ージ
)
○お
さん
やり
(災
遣り
)の
伝説
「昔
から
毎年
お盆
にお
こな
われ
る行
事。
村の
南を
通る
田無
川か
ら上
げて
灌漑
用水
にし
てい
る大
堰が
村の
中を
南か
ら北
へと
流れ
、北
から
南へ
流れ
る天
竜川
の流
れと
反対
の所
謂逆
さ川
であ
るた
め、
そこ
から
おこ
る災
厄か
ら逃
れる
ため
に始
まっ
たと
伝え
られ
てい
る。
昔凶
年に
三年
ばか
り止
めて
いた
ら疫
病が
大流
行し
たの
で、
怖れ
られ
てま
た復
活し
たと
いう
。」
D627
○災
難よ
けの
行事
3-69
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○経
塚「六
軒屋
の崖
ぎわ
に、
小さ
な塚
が点
在し
てい
て経
塚と
言っ
てい
た。
昔、
洪水
を防
ぐた
めに
読経
して
水難
除け
を祈
願し
、経
を埋
めた
とこ
ろと
いう
。以
前四
十八
ヶ所
あっ
たと
いう
が、
今は
開墾
の際
崩さ
れて
その
数が
少な
い。
」
D618
○北
風が
吹くと
大水
がで
るD
551
○草
餅地
蔵「伊
那市
にい
つの
頃か
らか
三峰
川の
大満
水の
時、
奥の
方の
村か
ら石
地蔵
が流
れて
きた
。水
がひ
けて
から
村人
が見
つけ
、こ
の地
に祀
った
とい
う。
願い
事が
叶う
と年
の数
だけ
団子
をあ
げる
。四
月二
十四
日の
縁日
では
、村
の人
たち
は草
餅を
あげ
る。
」
D602
○水
害と
とも
にや
って
きた
御利
益の
多い
地蔵
○お
や子
石「ず
うっ
とむ
かし
のこ
と、
大地
震で
地山
が崩
れて
土砂
がど
どっ
と押
し出
した
。地
山に
住ん
でい
たお
や子
の山
犬が
おっ
たま
げて
逃げ
出し
た。
御堂
垣外
まで
きた
時、
父犬
は藤
澤の
蛇抜
けに
押し
流さ
れて
石に
なっ
た。
母犬
と子
犬は
中条
まで
きて
ぴっ
たり
と座
り込
んだ
まま
二つ
の石
にな
った
とい
う。
それ
らの
石は
今は
ない
。」
○犬
石「昔
、地
山が
押し
出し
たと
き、
大石
・犬
石・小
犬石
の三
個の
犬石
が鳴
いて
逃げ
た。
大石
(親
石)は
強い
ので
地山
のす
ぐ下
に止
まり
、女
親石
は500メ
ート
ルほ
ど離
れた
とこ
ろに
止ま
り、
子供
石は
8キロ
メー
トル
離れ
た長
藤村
の中
条と
いう
所に
止ま
った
とい
う。
」
D606
○地
震に
よる
土石
流 ○土
石流
によ
って
流さ
れて
きた
石の
由来
○「地
山お
しだ
す
犬石
ほえ
る。
ない
てに
げる
は、
子つ
れ石
。」
○守
屋山
(モ
リヤ
マサ
マ)
「伊
那と
諏訪
の境
にそ
びえ
る守
屋山
には
、守
屋大
神の
石の
祠が
祀ら
れて
いる
。山
中で
乱暴
すれ
ば山
が荒
れる
とい
われ
、守
屋山
の頭
に雲
のあ
る時
は必
ず麓
の村
々に
雨が
降る
とい
われ
てい
る。
」
D540
○モ
リヤ
マサ
マ信
仰
3-70
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○守
屋貞
治の
大聖
不動
明王
「高
遠を
流れ
る三
峰川
は、
たび
たび
洪水
をお
こし
た。
その
氾濫
を鎮
める
ため
に、
水切
り不
動と
して
造立
した
のか
、高
遠町
勝間
の常
盤橋
西袂
に全
長1.5
mの
大聖
不動
明王
があ
る。
作者
は高
遠石
工の
守屋
貞治
で、
高傑
作の
一つ
とい
われ
てい
る。
」
D601
○米
高岩
「天
女橋
の下
にあ
る。
三峰
川の
水が
その
岩に
当た
って
流れ
る年
は、
お米
の値
段が
高い
とい
う。
」
D619
○水
位の
変化
によ
る洪
水予
知
(長谷
に伝
わる
こと
わざ
)○
夕方
地震
があ
ると
日干
が続
く○
蜂の
巣が
低い
場所
にあ
る年
は大
風が
吹く ○
水こ
い鳥
が鳴
くと
雨が
降る
○西
駒へ
雲が
出る
と近
いう
ちに
雨○
中尾
四沢
がな
ると
雨が
降る
○煙
草の
香り
が良
いと
きは
雨が
降る
○蟻
が巣
を持
ち上
げる
と雨
が降
る○
女沢
雨は
こわ
くな
い○
北の
入り
に霧
が入
ると
雨○
雨蛙
がな
くと
雨が
降る
○猫
が耳
を越
して
顔を
洗う
と雨
○戸
倉へ
霧が
かか
れば
雨○
和泉
原の
平へ
霜が
降り
ると
雨○
釜無
(釜
無山
)へ
霧が
はい
ると
雨が
降る
○大
風の
吹くと
き、
竿の
先へ
鎌を
しば
りつ
けて
、屋
根棟
へ立
てれ
ば風
除け
とな
る○
水柱
、氷
内梁
、雪
の桁
、雨
の垂
木に
露の
茸き
草と
唱え
る○
火の
夢は
水出
、水
の夢
は火
事が
ある
D544
○風
穴「浦
村に
風穴
とい
ひ伝
ふる
所あ
り。
前浦
奥浦
の間
山の
尾先
に松
柏茂
りた
る森
の内
に、
屈曲
の岩
重な
りた
る中
に常
に風
を生
ず。
此岩
を動
かし
或い
は穴
を見
んと
すれ
ば、
必ず
大風
吹き
て荒
れる
。よ
って
里民
制し
て辺
りへ
寄る
こと
禁ず
。此
岩の
上に
風穴
大明
神と
いう
祠あ
り。
この
穴の
口へ
鼻紙
を置
けば
今も
空へ
吹き
上が
るぞ
。(木
の下
蔭巻
之下
)」
D620
3-71
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○栗
沢川
の河
川工
事「む
かし
栗沢
川は
市野
瀬部
落の
中を
通っ
て流
れて
いた
。こ
の川
は洪
水に
なる
とし
ばし
ば氾
濫し
、部
落は
被害
を蒙
って
いた
。天
保十
三年
(1842)に
城山
の南
の尾
根を
掘り
ぬい
て切
り通
しを
造り
、栗
沢川
は市
野瀬
瀧と
なっ
て三
峰川
に流
れ落
ちる
よう
にな
った
。こ
れに
より
、部
落は
災害
から
免れ
るよ
うに
なり
、田
んぼ
の数
も相
当に
増え
たと
いう
。」
1842-
D528
○栗
沢川
の河
川工
事に
よる
減災
効果
○戸
倉沢
垣外
の市
野瀬
城跡
「む
かし
戸倉
沢垣
外(市
野瀬
の西
南の
はず
れ、
栗沢
川と
熊堂
川の
合流
地点
)に
は、
市野
瀬城
があ
った
と伝
えら
れて
いる
。今
は栗
沢川
や熊
堂川
の洪
水の
ため
に、
一帯
が荒
れ果
てて
しま
い、
草に
覆わ
れた
小高
い丘
とな
って
いる
。そ
の丘
の一
角に
は、
一基
の宝
筐印
塔が
埋も
れて
いる
。」
D545
○洪
水に
よる
荒地
跡
○赤
河原
「お
おむ
かし
、戸
台川
(伊
那市
長谷
黒河
内)
の上
流に
一匹
の大
蛇が
棲ん
でい
た。
時々
里に
出て
きて
は危
害を
加え
てい
たの
で、
里の
人た
ちは
毎日
恐れ
おの
のい
てい
た。
その
ころ
、日
本武
尊が
、景
行天
皇の
ご命
令に
よっ
て東
国の
悪者
征伐
にで
た帰
りの
途中
に入
野谷
に立
ち寄
り、
悪い
大蛇
の話
を聞
いた
。尊
は戸
台川
上流
の河
原で
大蛇
を見
つけ
、ご
自慢
のお
太刀
をふ
るっ
て大
乱闘
の末
にこ
の大
蛇を
見事
切り
殺し
た。
この
とき
、大
蛇の
切り
口か
ら物
凄い
勢い
で血
潮が
ふき
だし
、そ
のあ
たり
一帯
の河
原を
真っ
赤に
染め
た。
それ
以来
、河
原の
石は
どれ
もみ
な真
っ赤
にな
って
いて
、そ
の河
原を
赤河
原と
呼ぶ
よう
にな
った
とい
う。
」○
三峰
川の
七石
「戸
台川
上流
の大
蛇が
日本
武尊
に切
りつ
けら
れた
時、
断末
魔の
苦し
みか
ら広
い河
原中
をの
たう
ちま
わっ
た。
あた
りの
大地
はと
どろ
きゆ
るぎ
、大
蛇の
大き
な七
色の
鱗が
火花
のよ
うに
空高
く散
らば
って
大き
な虹
をつ
くっ
た。
きれ
いに
大空
を彩
った
七色
の鱗
の虹
は、
やが
て流
れ星
のよ
うに
尾を
ひい
て三
峰川
の源
とな
って
いる
南ア
ルプ
スの
谷々
に吸
い込
まれ
るよ
う落
ちて
いっ
た。
現在
三峰
川に
ある
七色
の石
は、
この
とき
飛び
散っ
た大
蛇の
七色
の鱗
であ
ると
言わ
れ、
人々
は三
峰川
の七
石と
呼ん
でい
る。
」
D527
○戸
台川
の大
蛇の
悪行
○日
本武
尊の
大蛇
退治
○赤
河原
の地
名の
由来
3-72
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○黒
河内
長者
屋敷
「大揚
寺へ
登る
門気
坂の
上に
住ん
でい
た長
者の
美し
い一
人娘
のと
ころ
に、
毎晩
訪れ
る美
青年
がい
た。
その
美青
年は
戸倉
山の
池に
住ん
でい
る大
蛇の
化身
だと
いう
うわ
さが
たっ
た。
娘は
確か
めよ
うと
、男
の着
物の
裾に
針を
刺し
て帰
らせ
た。
次の
夜、
男は
現れ
ず、
天地
もと
どろ
くほ
どの
雷鳴
と大
暴風
雨に
変わ
り、
忽ち
のう
ちに
三峰
川が
大洪
水と
なっ
た。
翌朝
、大
蛇の
屍が
激流
に流
され
てい
く姿
が見
られ
た。
」
D505
○曹
洞宗
大
揚寺
(〒
396-0403
上伊
那郡
長谷
村大
字黒
河内
358 /
TEL:0
265-98-2144)
○戸
倉山
(伊
那富
士)の
池の
主○
大蛇
の化
身(美
青年
)
○無
縁仏
「大
田切
川の
岸辺
に、
俗に
無縁
仏と
呼ば
れる
石仏
群が
ある
。昔
から
この
川の
洪水
によ
って
死ん
でし
まっ
た旅
人の
霊を
供養
した
石仏
と伝
えら
れて
いる
。」
D603
○高
鳥谷
山(た
かず
やや
ま)の
伝説
「往
昔、
貝沼
村北
林に
いた
井上
掃部
とい
う地
侍が
、一
日山
野に
入り
猟を
して
いた
。す
ると
、黒
雲が
立ち
こめ
雷が
天地
を震
い、
大雨
が激
しく降
り出
した
ので
侍は
帰路
を見
失っ
てし
まっ
た。
二昼
夜野
宿し
、精
神が
朦朧
とす
るに
いた
り、
無事
に帰
れた
時は
高鳥
谷山
の絶
頂に
一社
創建
する
と猿
田彦
命に
信願
した
とこ
ろ、
雨が
やみ
目の
前に
山鳥
が現
れた
。こ
れを
捕ま
えよ
うと
跡を
追っ
てい
くと
いつ
しか
我が
家に
たど
り着
くこ
とが
でき
た。
侍は
神願
の霊
感を
感じ
、山
頂に
高鳥
谷天
狗(猿
田彦
命)を
祀り
神殿
を営
むよ
うに
なっ
たと
いう
。」
D537
○濃
ヶ池
「駒
ケ岳
の主
が棲
んで
いて
、荒
らせ
ばた
ちま
ち雨
が降
ると
いう
。昔
、駒
ヶ岳
の麓
の内
の萱
とい
う部
落に
母親
と二
人き
りで
暮ら
して
いた
娘が
、大
蛇の
化身
であ
った
若者
の後
を追
って
この
池に
身を
投じ
、若
者は
竜に
、娘
は鬼
と化
して
池に
棲む
よう
にな
った
とい
う。
農ヶ
池と
も称
し、
干天
にこ
の池
に登
り雨
乞い
をす
れば
効験
が有
ると
いう
。」
D628
○駒
ケ岳
の主
であ
る竜
と鬼
の由
来
3-73
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○浮
島の
伝説
「天
竜川
の赤
穂小
鍛冶
と中
沢穴
山の
境に
浮島
と呼
ぶ塚
があ
った
。中
央に
水神
様が
祀ら
れ、
周囲
には
赤松
5、
6本
が立
ち、
川の
水が
どん
なに
増水
して
も沈
むこ
とが
なか
った
とい
う。
むか
し、
東の
山か
ら鹿
が出
て穴
山や
付近
の人
々が
捕ら
えて
皮を
剥い
だと
ころ
、子
を腹
に宿
して
いた
。哀
れに
思っ
た里
人が
、そ
の袋
子を
浮島
へ埋
めた
。母
鹿は
小鹿
を溺
れさ
せま
いと
して
、満
水の
時に
は島
を浮
き上
がら
せた
とい
う。
昭和
初期
に吉
瀬ダ
ムの
構築
によ
って
年々
河床
が上
昇し
、現
在は
河床
に埋
没し
てし
まっ
た。
」
D536
○浮
島伝
説○
ダム
の河
床上
昇に
よる
埋没
○落
石「昔
、天
から
落ち
た石
が林
の中
にあ
って
そこ
に落
石神
社を
祀っ
た。
母乳
が出
ない
とき
、こ
の石
にお
参り
し、
石に
生え
てい
る苔
を煎
じて
飲め
ば、
乳の
代わ
りに
なる
とい
う。
(中
沢伝
説集
)」
D623
○仏
石「昔
、山
から
流れ
てき
た位
牌が
乗っ
てい
た岩
だと
いう
。大
きな
岩で
、現
在稲
荷神
社が
祀っ
てあ
る。
」
D621
○流
され
てき
た仏
様
○隅
の木
「隅
の木
と称
す栗
の木
があ
った
。正
徳五
年未
満水
の時
、与
田切
川が
氾濫
し、
沿岸
の田
家が
概ね
流出
して
しま
った
。人
々は
わず
かに
身を
以て
免れ
、隅
の木
の陰
に集
いて
危難
を脱
する
こと
がで
きた
とい
う。
この
隅の
木の
老朽
化が
進み
伐採
する
こと
にな
った
時、
その
恩を
記す
ため
に隅
の木
碑が
建立
され
た。
」
D629
○洪
水か
ら護
って
くれ
た栗
の木
○鬼
の島
・鬼
の的
山「与
田切
川の
吐き
出し
に、
鬼が
もっ
こで
土を
担ぎ
空け
出し
たら
出来
た島
と、
もっ
こを
どん
と払
った
ら横
に小
さな
島が
でき
たと
いう
。ま
た、
駒ケ
岳に
住ん
でい
る鬼
神が
、こ
こに
標的
を置
いて
山頂
より
弓を
引い
て習
った
と言
い伝
えら
れて
いる
。」
D630
○鬼
がも
たら
した
地変
○東
夕立
(東山
から
の雷
雨)は
来そ
うで
こな
いが
来れ
ばで
っか
い○
霧山
に霧
が立
って
いる
内は
雨が
止ま
ない
D568
3-74
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○座
頭な
ぎ「昔
、座
頭が
数人
で京
へ上
る途
中、
なぎ
崩れ
にあ
って
悲惨
な死
をと
げた
。山
の木
を切
るこ
とが
なぎ
崩れ
の原
因で
ある
とし
、再
びこ
のよ
うな
惨事
が起
こら
ない
こと
を願
って
、座
頭な
ぎの
松伐
るべ
から
ず、
との
申し
合わ
せが
遺言
とし
て残
され
てい
る。
」
D636
○土
石流
被害
の教
訓
○黒
牛の
風穴
「中
川村
大草
美里
(黒
牛)地
籍の
風穴
とい
う所
に、
風三
郎と
呼ぶ
風の
神が
祀ら
れて
いる
。風
の神
が嫌
って
いる
神楽
の獅
子や
越後
獅子
が宮
の入
坂よ
り奥
へ登
った
なら
ば、
たち
まち
に暴
風を
巻き
起こ
すと
伝え
られ
てい
る。
駒ヶ
根市
大御
食神
社の
神代
文字
によ
って
書か
れた
社伝
記に
は、
五昼
夜に
わた
り吹
き荒
れた
暴風
雨を
黒牛
の風
の神
の祟
りで
ある
とし
て祭
り鎮
めた
こと
が記
され
てい
る。
」
D539
○天
女鱒
霊神
(あ
めま
すれ
いじ
ん)
「む
かし
、飯
沼の
家の
田植
えに
毎年
素性
の知
れな
い美
しい
夫婦
が手
伝い
に来
た。
田植
えじ
まい
の時
、赤
飯を
ご馳
走に
なる
と、
いず
こと
もな
く立
ち去
った
。あ
る日
この
家の
男衆
がわ
み沢
の淵
で魚
釣り
をし
たと
ころ
、大
きな
あめ
のう
おが
釣れ
た。
腹を
割い
てみ
たと
ころ
中か
らた
くさ
んの
赤飯
が出
てき
た。
翌年
の田
植え
に美
しい
姿の
夫婦
が現
れな
かっ
たこ
とか
ら、
夫婦
がわ
み沢
に住
むあ
めの
うお
の化
身で
あっ
たこ
とを
知っ
た。
そこ
でわ
み沢
の淵
を見
下ろ
す林
の中
に祠
を造
り、
天女
鱒霊
神と
して
祀っ
たと
ころ
、夜
にな
ると
淵か
ら「あ
めま
すさ
らば
」と
呼ぶ
声が
聞こ
えて
きた
。そ
れか
ら来
る年
ごと
に飯
沼の
家の
田植
えに
は、
よく雨
が降
った
とい
う。
36災
害の
時、
その
淵の
面影
はす
っか
りな
くな
って
しま
った
。」
D538
○雨
をも
たら
すあ
めの
うお
の化
身○
36災
害に
よる
伝承
地形
の変
化
○惣
兵衛
の人
柱○
麦わ
ら堤
防(惣
兵衛
の末
孫中
村初
太郎
翁談
片)
○地
蔵沢
「あ
る年
、小
園を
流れ
る小
川が
氾濫
し一
面を
荒ら
しま
わっ
た。
水が
ひい
たあ
る朝
、水
番の
爺さ
んが
半身
を泥
の中
に埋
めた
お地
蔵様
を河
原で
見つ
けた
。も
った
いな
いと
大勢
で担
ぎ上
げ、
小さ
いお
堂を
建て
て祀
った
。(地
蔵堂
)こ
の以
来そ
の地
を地
蔵沢
とい
うよ
うに
なっ
たと
いう
。」
D631
○洪
水に
よっ
ても
たら
され
た地
蔵様
と地
名の
由来
3-75
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○明
神様
の瀬
分け
鎌「大
昔、
天竜
川に
大水
が出
て瀬
が代
わる
と田
村の
新田
は押
し流
され
てし
まう
とい
うこ
とで
、大
水が
でる
と村
中の
人々
が明
神様
をお
祭り
して
、神
様か
ら瀬
分け
鎌を
いた
だき
、大
勢の
若連
中が
この
鎌を
持っ
て裸
にな
り、
天竜
川へ
入っ
て瀬
分け
鎌を
引くと
たち
まち
に瀬
が代
わっ
て村
が助
かっ
たと
いう
。こ
の明
神様
と池
野氏
の八
幡様
と合
わせ
祀る
こと
にな
って
現在
の諏
訪神
社に
移っ
た。
」
D632
○洪
水の
瀬を
分け
て村
を救
う瀬
分け
鎌の
信仰
(喬
木村
に伝
わる
こと
わざ
)○
描が
頭越
しに
耳を
かくと
雨○
池の
鯉が
はね
ると
近い
うち
に雨
○権
現山
の頭
が見
える
うち
は雨
は降
って
来な
い○
蛇が
木に
登る
と雨
○夕
方子
供が
さわ
ぐと
雨○
赤と
んぼ
がた
くさ
ん飛
ぶの
は雨
が近
い○
山が
近く見
える
時は
雨○
黄色
い朝
焼は
天気
、赤
い朝
焼は
雨
D564
○九
十九
谷の
伝説
「九
十九
谷が
まだ
百谷
あっ
た頃
、そ
の谷
底に
鬼が
住ん
でい
た。
ある
年の
大荒
れで
一谷
が埋
まり
九十
九谷
とな
った
時、
鬼は
逃げ
出し
て三
里西
山の
市田
村の
大島
へと
びこ
した
。そ
の拍
子に
石の
上に
手を
つい
た。
その
時の
手の
跡が
深く石
に残
り、
その
窪み
の中
にた
えず
溜ま
って
いる
雨水
をい
ぼに
つけ
ると
奇妙
にも
治る
とい
う。
九十
九谷
を百
と数
えた
ら後
、鬼
が出
るか
蛇が
出る
か、
村中
はふ
み荒
され
てし
まう
と云
うの
で、
二本
の指
を一
本折
って
いつ
でも
九十
九と
数え
ねば
なら
ない
。(喬
木村
史談
会
喬木
村の
伝説
)」
○小
川川
の濁
り水
「少
しで
も雨
が降
ると
濁っ
た水
が流
れて
いた
。雨
が降
ると
九十
九谷
が崩
壊し
て、
谷川
の水
を堰
ぎと
めそ
こに
水が
たま
ると
堰が
崩れ
て出
水と
なっ
たり
、濁
った
水が
流れ
るよ
うに
なり
、下
流で
鯉を
飼っ
てい
る農
家で
その
水を
使う
と鯉
が死
に、
生産
が激
減し
て困
った
と云
う。
(古
老の
語り
)」
D507
○谷
に棲
む鬼
に対
する
畏怖
の念
3-76
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○九
十九
谷「村
人が
命を
かけ
し谷
々に
萌え
づる
春の
光さ
した
り
断層
を削
る作
業に
取り
組み
し人
らの
偉業
永久
に亡
びざ
らむ
冬
の月
は暮
るる
に早
し谷
々は
雪に
埋み
て夕
昏ら
みた
り(村
沢武
夫)」
○後
代に
伝え
たい
○悪
い滝
の主
を退
治し
た勇
士「瀬
戸の
滝に
は大
蛇が
棲ん
でい
た。
大蛇
は毎
年八
月に
なる
と大
水を
だし
、阿
島の
水田
を流
して
しま
った
。村
人は
大蛇
を退
治し
たい
と考
えて
、勇
士が
でか
けて
いくの
だが
一人
も帰
って
こな
かっ
た。
ある
年、
通り
かか
った
旅の
武士
に大
蛇退
治を
お願
いし
たと
ころ
、武
士は
引き
受け
て大
蛇を
倒し
て帰
って
きた
。そ
れか
ら水
もで
なくな
り、
阿島
の水
田は
秋に
なる
と稲
穂が
波打
つよ
うに
なっ
た。
後に
大蛇
を退
治し
た武
士は
、上
郷の
野底
山の
姫宮
でヒ
ヒ退
治で
有名
な岩
見重
太郎
であ
るこ
とが
わか
った
とい
う。
」
D633
○滝
の主
であ
る洪
水を
もた
らす
大蛇
退治
○観
音な
ぎと
駒石
「遠
いむ
かし
、青
木川
のさ
きの
高い
とこ
ろに
ある
あか
なぎ
に住
んで
いた
観音
様が
、引
の田
に住
みた
くな
って
馬に
乗っ
て引
越し
をし
た。
その
とき
の馬
の蹴
り上
げで
山が
崩れ
、で
っか
いな
ぎに
なっ
てし
まっ
たの
で観
音な
ぎと
いう
よう
にな
った
。引
の田
ので
っか
い石
にひ
とっ
とび
に飛
んだ
拍子
で石
がひ
っくり
かえ
って
しま
い、
馬の
足跡
がつ
いた
方が
下っ
かわ
にな
った
。村
の衆
はそ
の下
で雨
宿り
がで
きた
。そ
こは
石の
上で
雪が
降っ
ても
下側
は雨
にな
ると
いう
こと
で、
その
駒石
を村
中で
大事
にし
てい
る。
」
D624
○観
音さ
まの
引越
しと
土石
流
○烏
帽石
(え
ぼし
岩)
「仙
人が
烏帽
子を
忘れ
て去
った
あと
にで
きた
岩と
され
てい
る。
相次
ぐ洪
水の
際の
出水
の指
標と
され
てき
た。
」
D511
○出
水の
指標
○水
害に
よる
家屋
移転
の歴
史
○川
路と
龍江
の境
界争
い「両
村で
、水
害に
よる
争い
があ
った
。」
D566
○災
害が
もた
らす
境界
紛争
3-77
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○ 尾
科文
吾の
はな
し(お
しな
ぶん
ご)
「力
持ち
の文
吾は
飯田
のお
城の
石垣
を積
んだ
り、
天竜
川の
舟を
運ん
だり
とバ
カ力
の持
ち主
であ
った
。ま
た心
もや
さし
かっ
た。
ある
とき
母さ
んが
、生
きて
るう
ちに
善光
寺に
参り
たい
、と
いっ
たの
で母
さん
を背
負い
走っ
て善
光寺
にい
った
。善
光寺
に着
き母
さん
を背
中か
ら下
ろす
と背
中で
ゆり
殺さ
れて
しま
った
よう
であ
る。
文吾
は大
そう
悲し
み涙
をこ
ぼし
いくつ
もの
池を
つくっ
た。
」
「山
の神
の番
人で
あっ
た文
吾は
開墾
をし
たい
悪い
庄屋
にだ
まさ
れて
しま
いま
した
。毒
の水
を飲
んで
しま
った
文吾
はよ
ろめ
き、
文吾
を諌
めた
八重
をふ
みつ
ぶし
てし
まい
まし
た。
文吾
の涙
があ
とか
らあ
とか
ら流
れ出
し、
山の
谷々
は文
吾の
涙の
洪水
で埋
まり
、村
々を
襲い
田畑
も何
もか
も天
竜に
流し
てし
まっ
た。
(宮
沢和
夫:大
蛇の
城:昭
和48年
)」
D648
○心
やさ
しい
尾科
文吾
の涙
がも
たら
した
地変
(千代
に伝
わる
こと
わざ
)○
猫が
耳を
こす
ると
雨が
降る
○鯉
がは
ねる
と雨
が降
る○
蜘妹
の巣
が沢
山か
かる
と晴
れる
○三
日月
の欠
けた
方が
下を
向い
てい
ると
雨
D547
○禿
淵「む
かし
黄昏
時に
野池
方面
から
米川
の河
原町
流れ
来た
年令
7、
8歳
ぐら
いの
どこ
か気
高い
美し
さを
もっ
た娘
乞食
があ
った
。隣
部落
の金
持ち
夫婦
がひ
きと
り、
名を
お香
代と
名づ
けて
わが
子の
よう
にか
わい
がっ
た。
お香
代が
物心
づい
たあ
る日
、遊
び友
達か
ら昔
は乞
食だ
った
とい
う話
を聞
かさ
れ、
悲し
い涙
で送
る日
が多
くな
った
。あ
る夜
、お
香代
の姿
が忽
然と
消え
た。
夫婦
はくま
なく探
した
が見
つか
らな
かっ
たの
で、
あき
らめ
て葬
儀を
おこ
なっ
た夜
、お
香代
が暗
闇の
中で
ずぶ
濡れ
で立
って
いた
。お
香代
は夫
婦に
お世
話に
なっ
たお
礼を
述べ
、禿
淵の
主と
なっ
たこ
とを
告げ
た。
そし
て、
日照
りで
困っ
た時
に雨
乞い
をす
れば
必ず
雨を
呼ん
でくる
こと
を約
束し
、永
遠の
別れ
を告
げて
闇の
中へ
と吸
い取
られ
てい
った
。翌
日夫
婦は
村人
にこ
の物
語を
話し
てお
香代
を祀
り、
不動
様と
呼ん
だ。
今で
も村
人は
米川
の禿
淵で
雨乞
いを
する
こと
が習
慣と
なっ
てい
る。
」
D548
3-78
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○地
蔵岩
「闇
沢の
奥深
くま
で薪
を取
りに
行っ
た人
がい
た。
夕方
にな
って
狼が
でた
ので
、驚
いて
逃げ
だし
た。
闇沢
の山
の神
辺り
まで
来た
時、
山か
ら岩
が落
ちて
きて
、狼
に当
たっ
て殺
して
しま
った
ので
助か
った
。そ
の岩
は地
蔵岩
とい
って
今も
道端
にあ
り、
雨が
降り
だす
前な
どに
は岩
の表
面に
地蔵
様の
姿が
現れ
ると
いう
。」
D634
○岩
を落
とし
て村
人を
助け
た山
の神
○池
が洞
の主
「城
山の
池が
洞に
ある
池に
、永
年大
蛇と
も山
椒か
じか
とも
いう
主が
棲ん
でい
た。
池の
堤が
だん
だん
欠け
てき
て、
いよ
いよ
棲む
事が
でき
なくな
った
のを
知り
這い
出だ
して
きた
。須
志角
の河
原を
通っ
て下
條の
深見
の池
へ移
った
。山
の奥
宮辺
には
、そ
の通
過し
た道
筋が
掘れ
て小
川くら
いの
跡が
残っ
てい
る。
」
D635
○大
蛇の
下条
村深
見の
池へ
の引
越し
(上
久堅
に伝
わる
こと
わざ
)○
南山
に雲
がか
かる
と雨
が降
る○
恵那
山に
雨が
降る
とす
ぐこ
っち
にや
って
くる ○
鍋の
底に
火が
つくと
雨が
降る
○東
夕立
は降
りが
強く長
い○
雨蛙
が鳴
くと
雨が
降る
○雲
が北
へ向
うと
必ず
雨、
東に
向う
と小
雨○
蜂が
巣を
高い
所に
つくる
と強
風が
なく、
低い
所に
つくる
と台
風が
く る
D
○池
城の
明神
様(宇
佐八
幡・不
動明
王)を
祀っ
たお
宮「池
城に
住ん
でい
た明
神様
(雨
乞い
の神
様)は
、人
々が
盛ん
に行
った
焼き
畑の
せい
で毎
日煙
たい
思い
をし
てい
た。
そし
て池
の周
りも
焼き
払わ
れ明
るくな
って
しま
った
ので
、池
の水
を持
って
今の
お池
に移
られ
た。
水の
なくな
った
池に
残る
石に
は、
明神
様が
映り
化粧
をし
てい
たこ
とか
ら鏡
石と
呼ば
れて
いる
。」
D515
○自
然の
調和
をみ
だす
行い
○中
郷の
流れ
宮「中
郷の
分校
だっ
たと
ころ
に大
きな
岩が
あっ
て諏
訪明
神が
祭っ
てあ
った
。い
つか
の大
洪水
で流
され
、今
の諏
訪宮
まで
流さ
れた
ので
、そ
れ以
後も
との
場所
を流
れ宮
とい
うよ
うに
なっ
た。
」
D569
○洪
水に
よっ
て流
され
たも
の
3-79
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○池
大明
神「須
沢の
利検
沢の
ケブ
ッタ
が池
に住
んで
いた
池大
明神
が、
人々
が盛
んに
行っ
た焼
き畑
の煙
に追
われ
今の
お池
に移
った
。」
D516
○石
のコ
ケテ
来な
い(落
ちて
こな
い)と
ころ
、水
の近
いと
ころ
、風
の当
たら
ない
とこ
ろ、
に家
を建
てる
D571
○か
け踊
り(お
盆)
「雨
乞い
の踊
りを
年中
行事
化し
たも
のと
いわ
れて
いる
。お
池が
、雨
乞い
の池
とし
て信
仰を
集め
てい
た。
」
D572
○霜
月祭
(12月
13日
~14日
、下
栗の
拾五
社大
明神
)と
龍頭
(タ
ツガ
シラ
)「龍
頭(タ
ツガ
シラ
)と
呼ば
れる
面は
池大
明神
の化
身を
表し
、荒
れ狂
う龍
頭を
猿の
面を
かぶ
った
子ど
もが
二本
の棒
でた
たき
、傷
つい
た龍
頭が
のた
うち
まわ
る所
作が
演じ
られ
る。
かつ
ては
面の
口を
開け
ると
大水
がで
ると
いわ
れた
こと
から
、口
を閉
じて
演じ
られ
た。
」
D573
○諏
訪宮
のな
ぎが
ま「諏
訪宮
(大
洪水
で流
れ宮
にあ
った
諏訪
明神
が流
れ着
いた
とこ
ろ)に
はな
ぎが
まが
二本
祭っ
てあ
り、
上町
付近
では
御射
山の
祭り
をす
るよ
うに
なっ
た。
水害
にあ
った
とき
には
、祢
宜様
がな
ぎが
まを
持っ
て川
に行
き、
川す
じを
ひくと
その
通り
にな
った
。古
瀬良
男氏
と古
瀬右
京氏
が若
い頃
に一
度や
った
時、
ちい
っと
は川
すじ
が変
わっ
た。
」○
なぎ
鎌・瀬
分け
鎌(呪
具)
「本
来諏
訪信
仰の
中で
風切
りの
薙い
鎌と
して
用い
られ
たも
のが
、天
竜川
流域
では
洪水
の瀬
を切
る道
具と
して
用い
られ
た。
(笹
本正
治)」
D570
○自
然を
コン
トロ
ール
しよ
うと
する
人々
の意
思が
語ら
れて
いる
伝説
○御
射山
の祭
り「な
ぎが
まが
二本
お祀
りし
てあ
る諏
訪宮
のお
祭り
。(8月
25~
26日
)」
D575
○自
然を
コン
トロ
ール
しよ
うと
する
人々
の意
思が
語ら
れて
いる
伝説
3-80
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○山
の神
・水
神碑
とオ
タカ
ラ「山
の神
・水
神碑
とオ
タカ
ラ(山
の神
を表
す赤
い半
紙と
水神
を表
す白
い半
紙を
二つ
に折
り、
竹串
には
さむ
幣束
)に
よる
信仰
。」
○水
神・山
の神
「遠
山谷
では
、台
風や
集中
豪雨
の時
に水
荒れ
(洪
水)と
山荒
れ(山
抜け
)と
が同
時に
人々
に襲
いか
かっ
てくる
こと
から
、山
と水
が関
連す
る場
所(山
峡の
橋の
たも
とや
川を
見下
ろす
山裾
など
)に
水神
・山
の神
の碑
をた
て荒
ぶる
神を
静め
た。
また
、山
の神
と水
の神
が結
び合
って
水の
供給
源と
なる
こと
から
、水
神・山
の神
碑は
水源
とな
る山
にも
祀ら
れて
いる
。」
(清
内路
村に
伝わ
るこ
とわ
ざ)○
大雨
が降
った
時、
沢水
が急
に止
まる
と、
鉄砲
水が
くる
○ト
ウモ
ロコ
シの
根が
上が
って
張る
と、
雨風
が多
い○
恵那
夕立
は長
降り
がつ
づく
○上
げの
大風
は、
災害
をつ
れて
くる
○朝
てっ
かり
、(日
射)後
に雨
○水
瓶が
、汗
をか
くと
雨が
降る
○鯉
がは
ねる
と、
雨が
降る
○大
栂(地
名)に
霧が
立て
ば、
雨降
り○
大川
の洪
水が
早くひ
くと
まだ
雨が
降る
○膝
や、
頭痛
がす
ると
、雨
が降
る(フ
リケ
ヲヤ
ム)
○カ
ミカ
ンド
(上川
渡)の
瀬音
が、
近く聞
こえ
ると
、雨
が降
る○
ヨキ
トギ
山に
雲が
はい
ると
雨○
御獄
様の
手洗
水を
まぜ
ると
雨が
降る
○グ
マン
蜂の
巣の
ひくい
年は
台風
がくる
○熊
笹の
実が
なる
と災
害が
くる
D563
3-81
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○ 明
神山
の大
蛇「大
蛇(胴
回り
三尺
、丈
は三
十尺
)、
目は
北極
星の
よう
に光
り体
は青
白い
鎧の
よう
であ
った
。そ
の大
蛇を
近くで
見た
もの
は発
熱し
病気
にな
った
。不
老な
大蛇
は猛
威を
ふる
い黒
川、
大平
、松
川入
り方
まで
一夜
にし
て獲
物を
探し
回っ
た。
何年
か過
ぎ大
蛇が
衰え
始め
たと
き、
千年
の大
木が
見る
間に
燃え
、折
柄の
風に
煽ら
れ全
山が
火の
海に
なっ
た。
村人
が山
を見
ると
大蛇
が口
から
炎を
吐い
て悠
然と
火の
海に
浸っ
てい
た。
その
姿は
神々
しい
まで
に荘
厳で
あっ
た。
その
とき
大雷
雨と
なり
大蛇
のあ
たり
から
黒雲
が湧
き上
がり
、七
月七
日夜
、燃
えた
大蛇
のあ
ぶら
で谷
川の
水が
濁り
八日
つい
に大
蛇は
燃え
つき
石を
まい
てい
た体
がバ
ラバ
ラに
なっ
た途
端、
千貫
の大
石は
生き
ある
もの
のよ
うに
転が
りだ
して
十町
余り
下っ
た村
里の
家の
裏で
ピタ
リと
止ま
った
。今
でも
その
石は
どっ
かり
とよ
きど
きの
蛇抜
けを
防ぐ
かの
よう
に横
たわ
り、
村の
ひと
びと
にめ
ずら
しが
られ
てい
る。
」
D646
○蛇
抜け
から
民家
を守
る石
にな
った
大蛇
の後
○蛇
出し
が池
「む
かし
浪合
村恩
田の
お百
姓が
、家
のう
らて
にあ
る沼
のあ
たり
の草
を刈
って
きて
馬に
食べ
させ
たと
ころ
、馬
は苦
しが
り血
を吐
いて
死ん
でし
まっ
た。
近所
の人
たち
は、
その
沼に
は池
の主
が住
んで
いる
とい
うの
にそ
この
草を
食べ
させ
たか
らだ
と言
って
いた
。翌
朝、
草を
刈っ
たと
ころ
が大
きな
池と
なり
水が
堪え
てい
たの
で、
お百
姓は
びっ
くり
して
池の
端に
祠を
祀っ
た。
何年
かた
った
ある
夜の
こと
、お
百姓
の夢
枕に
主が
立ち
、蛇
出し
が池
に住
んで
いた
が体
が池
いっ
ぱい
にな
って
住み
にくい
ので
蛇峠
の上
に池
をつ
くっ
て明
日ゆ
く、
と言
った
。翌
日、
西の
方か
ら真
っ黒
い雲
がで
てき
て池
の面
が騒
がし
くな
り、
池の
主が
雲に
のっ
て蛇
峠の
方へ
消え
てい
った
とい
う。
」
D560
○大
蛇の
引越
し
3-82
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○蛇
峠の
池(蛇
が池
)「む
かし
蛇峠
に大
きな
池が
あり
、主
の大
蛇が
棲む
とい
われ
蛇が
池と
呼ば
れて
いた
。あ
る日
、峠
の方
から
見馴
れぬ
小娘
が下
りて
きて
、村
の庄
屋に
今日
から
深見
へま
いる
と馴
れ馴
れし
く暇
乞い
をし
た。
不思
議に
思っ
た庄
屋が
後を
つけ
てい
くと
、波
合川
の橋
の途
中で
姿が
消え
、大
水が
流れ
落ち
てい
くよ
うに
見え
た。
それ
で初
めて
小娘
は蛇
が池
の主
であ
った
と知
った
。そ
の日
、大
下条
村深
見の
里に
大き
な池
がで
きた
。今
では
、こ
の池
を雨
乞ひ
淵と
呼び
、旱
の時
にこ
の池
の水
を汲
んで
きて
神に
供え
て雨
乞い
する
と、
必ず
雨が
降る
とい
う。
村の
人た
ちは
、水
出を
恐れ
て平
常は
一切
この
池の
水を
汲ま
ない
よう
にし
てい
ると
いう
。」
D530
○雨
乞い
の恩
恵(蛇
が池
)
(泰
阜村
に伝
わる
こと
わざ
)○
梅雨
時に
鳴神
山に
山崩
れが
ある
と梅
雨が
明け
る○
天竜
川に
沿っ
て雲
がの
ぼる
と雨
が降
る○
遠山
祭り
が始
まる
と山
が荒
れる
○打
沢霧
はあ
と晴
れる
○旱
魃に
鳴神
山で
お祭
りす
ると
三日
以内
に雨
が降
る○
八森
峠の
霧が
天竜
霧を
押す
と雨
にな
る○
蜂の
巣が
低い
と大
風が
吹く
○帆
掛け
船の
帆が
利くと
翌日
は雨
とな
る○
三カ
月の
上弦
の時
は雨
が多
く下
弦の
時は
雨が
少な
い○
向か
いの
山(大
下条
〉を
霧が
北に
這う
うち
は雨
は上
がら
ない
○川
の瀬
音が
高い
と雨
が近
い○
タル
ノ沢
の霧
が怒
田に
下る
と雨
にな
る
D567
3-83
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○成
瀬が
淵の
女「む
かし
田本
のあ
る家
に気
立て
がよ
く美
しい
女中
がい
て主
人か
ら愛
され
るよ
うに
なり
、胤
を宿
した
。い
つも
女は
井戸
をの
ぞい
ては
、自
分の
姿を
見て
いた
とい
うが
、あ
る日
西空
に入
道雲
が出
、た
ちま
ちに
雷雨
とな
り女
の姿
が消
えた
。あ
る夜
、主
人の
夢枕
に女
が立
ち、
不憫
に思
うな
ら遠
江国
の成
瀬が
淵に
きて
、女
の名
を記
した
紙を
淵に
沈め
、大
きな
声で
名を
呼ん
でほ
しい
、と
言っ
た。
主人
は何
日も
かか
って
その
淵を
見つ
け再
会を
喜ん
だ。
やが
て別
れの
時、
女は
寂し
げな
表情
で水
の中
に帰
って
いく姿
を見
ない
でほ
しい
と頼
んだ
が、
主人
がも
う一
目姿
をみ
たい
と振
り向
くと
大蛇
が金
色の
うろ
こを
ひら
めか
し、
十二
本の
角で
波を
掻き
分け
なが
ら淵
の底
へと
沈ん
でい
った
。そ
れか
ら田
本の
里に
は凶
事が
続い
たの
で、
里人
たち
は成
瀬が
淵の
たた
りで
あろ
うと
言い
、蛇
の姿
を石
に刻
んで
神に
祭り
、毎
年盛
んな
お祭
りを
して
大蛇
のた
たり
を鎮
める
よう
にな
った
とい
う。
」
D525
○成
瀬が
淵(遠
江)
の大
蛇の
たた
り
○と
うぢ
やげ
の池
の主
「む
かし
神原
村唐
沢に
あっ
たと
うぢ
やげ
の池
の主
が、
ある
年の
大雨
で池
の水
が欠
潰し
なくな
って
しま
った
ので
、深
見の
池に
逃げ
てき
た。
それ
から
近くの
寺で
は、
鐘を
つくと
大蛇
が暴
れ出
すか
らと
言っ
て、
鐘を
つく事
を止
めた
とい
う。
」
D576
○大
蛇の
引越
し
○大
蛇に
なっ
た母
「天
正十
五年
(1587)吉
田城
の下
条氏
が没
落し
た。
その
知ら
せを
聞い
た下
條康
氏の
母は
城を
抜け
出し
、深
見の
百姓
家に
隠れ
てい
た。
間も
なく訴
人が
あっ
て身
が危
なくな
った
ので
、母
は井
戸へ
身を
投げ
た。
する
と井
戸が
一夜
に崩
れて
大き
な池
にな
った
。大
蛇の
姿に
なっ
た池
の主
は世
を呪
って
村中
の田
畑を
荒し
まわ
った
ので
、百
姓た
ちは
祠を
建て
て死
者の
霊を
慰め
た。
この
池が
でき
てか
ら近
くの
寺で
は、
鐘を
つくと
大蛇
が暴
れ出
すか
らと
言っ
て、
鐘を
漬く事
を止
めた
とい
う。
」
D579
○人
への
恨み
が大
蛇と
化身
した
3-84
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○深
見の
祇園
祭「竜
神様
のお
怒り
を静
める
ため
に行
われ
るよ
うに
なっ
た。
祭り
の準
備7月
第4土
曜日
に行
われ
、地
元で
は“に
わくさ
”と
呼ん
でる
。氏
子総
代と
4人
の氏
子が
みん
なで
ひと
り1
束ず
つの
ワラ
を持
って
神社
に集
まり
、神
殿か
ら池
の水
の出
入口
まで
ワラ
でし
め縄
を張
る。
池に
浮か
べる
イカ
ダや
高さ
66m
にの
びる
三国
の櫓
、御
旗、
提灯
、花
火な
どの
準備
をし
、夕
方に
なっ
て津
島様
を神
輿に
移し
、神
前の
庭に
運び
出し
て行
列が
進め
られ
る。
神輿
を担
ぐ人
の衣
装は
、白
衣に
青袴
と決
まっ
てい
る。
行列
は三
国の
櫓の
周囲
を3周
し、
獅子
頭を
先頭
に池
に向
かっ
て降
りて
いく。
イカ
ダに
乗り
移る
と12の
提灯
に灯
が点
り、
イカ
ダが
岸を
離れ
ると
花火
が打
ち上
げら
れ、
湖上
で祭
典が
始ま
る。
フィ
ナー
レは
、神
輿が
神社
に戻
って
から
で、
三国
の櫓
に仕
込ん
であ
る花
火に
火が
点け
られ
、人
々は
火の
粉を
浴び
なが
ら踊
り回
る。
また
、イ
カダ
に汚
れた
者が
乗っ
た時
には
、龍
神の
怒り
でイ
カダ
が沈
むと
いう
。」
○津
島社
「諏
訪神
社(深
見地
区の
鎮守
様〉境
内に
ある
。竜
神さ
まの
お怒
りを
静め
るた
めに
祀ら
れた
。」
D577
○主
(大
蛇)の
怒り
を鎮
める
お祭
り
○雷
岩と
呼ば
り岩
「 夏
の日
照り
が続
いた
ので
、働
き者
のて
いご
ろう
が家
に息
子の
やす
べい
を置
いて
、毎
日水
汲み
をし
てい
る時
、雨
よど
うか
降っ
てく
れ、
とぶ
つぶ
つつ
ぶや
きな
がら
ゆっ
くり
歩い
てい
たが
、そ
の足
が止
まり
へた
へた
とし
ゃが
みこ
んだ
。背
中の
水が
てい
ごろ
うに
かか
り、
その
時一
番星
から
光り
始め
た天
から
雨が
降り
出し
た。
雨は
しだ
いに
激し
くな
りた
ちま
ち乾
いた
地面
を染
めて
いく。
洪水
にな
って
田畑
が流
され
てし
まう
ので
はな
いか
と心
配に
なっ
てき
た四
日目
の夜
に季
節外
れの
稲妻
が光
り、
雨は
それ
なり
にあ
がっ
た。
しか
し、
てい
ごろ
うは
帰っ
てこ
なか
った
。翌
朝、
村人
が栗
谷沢
の傍
らで
、今
まで
誰も
みた
こと
もな
い岩
が雷
に打
たれ
たた
めか
、湯
気を
立ち
上ら
せて
いる
のを
見た
。や
すべ
いは
、そ
の年
の大
晦日
のよ
るに
母と
妹で
いろ
りを
囲ん
でい
ると
、横
前の
原っ
ぱの
見た
こと
もな
い岩
が呼
びか
けて
くる
気が
した
。そ
の岩
は栗
谷沢
の岩
に呼
びか
けて
いて
、こ
の岩
に父
の姿
がは
っき
りと
見え
てき
た。
」
D649
○雨
乞い
3-85
西暦
和暦
誘因
被害
の実
態被
害地
点N
o.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○と
うぢ
やげ
の池
「む
かし
神原
村唐
澤(天
龍村
神原
)の
奥の
入り
の谷
とい
うト
ウヂ
ヤゲ
と呼
ぶと
ころ
に大
池が
あっ
た。
ある
年大
雨の
時、
池の
堤が
崩れ
て河
水が
氾濫
し、
池の
水が
なくな
った
ため
大蛇
は居
所を
失い
、深
見の
池へ
逃げ
てい
った
とい
う。
また
、と
うぢ
やげ
池の
主で
ある
大蛇
は、
時々
出で
て水
の出
口を
塞い
だた
め、
河の
水の
干上
がる
こと
が度
々あ
った
ので
、そ
の河
のあ
ると
ころ
をか
ら澤
と呼
ぶよ
うに
なっ
た。
」
洪水
-D
532
○大
蛇の
引越
し
○天
竜川
の由
来「む
かし
の諏
訪湖
は上
伊那
、下
伊那
の三
郡に
わた
り周
囲六
十里
もの
細長
い水
海で
、竜
の海
と呼
ばれ
てい
た。
また
、こ
の地
方出
身の
竜宮
船頭
安曇
磯丸
とい
う強
くて
かし
こい
神さ
まが
、天
皇と
同じ
資格
をそ
なえ
てい
たの
で天
竜大
神と
呼ば
れて
いた
。当
時の
人た
ちは
天竜
大神
の天
をと
って
、諏
訪湖
のこ
とを
天の
竜海
と呼
ぶよ
うに
なっ
た。
その
後、
天変
地異
によ
り下
伊那
の南
の山
々が
大崩
壊を
起こ
し、
堰き
止め
られ
てい
た天
の竜
海の
水は
一度
に太
平洋
へと
流れ
込ん
だ。
この
異変
によ
り、
天の
竜海
は奥
に洲
羽湖
(す
わこ
)を
残し
、あ
とは
細長
く深
い谷
間に
変わ
った
とい
う。
」
D584
○天
竜川
の由
来○
天変
地異
によ
る諏
訪湖
の決
壊
3-86
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○あ
ばれ
天竜
「大
昔、
蛇の
胴を
し、
鹿の
角を
付け
、鬼
の目
と牛
の耳
、鷲
の足
をも
った
それ
はそ
れは
大き
な竜
が南
の海
に住
んで
いた
。こ
の竜
はは
じめ
はお
とな
しく仏
様に
おっ
返し
てい
たが
、大
きくな
るに
連れ
気性
が荒
くな
り、
力も
強く
なり
そば
にい
るも
のに
喧嘩
ばか
り仕
掛け
てい
た。
仏様
は我
慢で
きな
くな
り、
この
竜を
天の
果へ
追い
払っ
てし
まっ
た。
とこ
ろが
竜は
天へ
追わ
れて
から
も暴
れ放
題で
、自
分が
一番
えら
いと
思う
よう
にな
った
。誰
も恐
がっ
て竜
によ
りつ
く者
はい
なか
った
が、
信濃
の国
の山
々は
毅然
とし
て竜
に怯
える
こと
なく
そび
え立
ち、
中で
も諏
訪湖
の向
こう
側に
そび
え立
つ八
ヶ岳
はい
つも
強そ
うに
立っ
てい
た。
これ
に腹
をた
てた
竜は
喧嘩
をし
かけ
八ヶ
岳に
体当
たり
し、
山肌
を長
い胴
で幾
重に
も巻
き力
いっ
ぱい
締め
つけ
た。
八ヶ
岳も
おな
かに
力を
入れ
てじ
っと
我慢
した
が、
さす
がに
こら
えき
れな
くな
り、
地面
が割
れて
嶺の
方か
らど
っと
ばか
り火
を吹
き、
一気
に爆
発し
てし
まっ
た。
竜は
、そ
のも
のす
ごい
爆風
のた
めに
天高
く打
ち上
げら
れて
から
伊那
の山
々の
間へ
どさ
っと
落ち
た。
その
後こ
の天
の竜
はど
こへ
行っ
たか
は誰
も知
らな
いが
、落
ちた
とこ
ろに
大き
な跡
がつ
き、
その
跡が
川に
なっ
てな
がれ
たの
で、
この
川を
天竜
川と
呼ぶ
よう
にな
った
とい
う。
」
D642
○八
ヶ岳
の噴
火と
天竜
川の
由来
○甲
賀三
郎伝
説「三
人兄
弟の
末子
であ
る三
郎が
、兄
たち
の計
略に
よっ
て信
濃の
蓼科
山の
洞穴
に閉
じ込
めら
れ、
地底
をさ
迷い
故郷
の近
江に
戻っ
たが
、い
つし
か身
は蛇
体に
変わ
り、
人々
から
恐れ
嫌わ
れた
。身
の危
険を
感じ
た時
、釈
迦堂
の老
僧の
教え
によ
って
菖蒲
ヶ池
に身
を沈
め呪
文を
唱え
ると
元の
体に
戻っ
た。
妻と
再会
した
三郎
は後
に信
濃の
諏訪
神社
上社
の神
とな
り、
妻の
春日
姫は
下社
の神
にな
った
とい
う(ヨ
リタ
カ系
縁起
)」
「三
郎は
山中
で兄
にだ
まさ
れて
谷底
へ突
き落
とさ
れた
。九
死に
一生
を得
るが
、身
は大
蛇に
変わ
り、
地底
の穴
を廻
って
信濃
のナ
ギ゙の
松原
に抜
けた
とい
う。
故里
が恋
しく三
十三
年に
して
甲賀
に帰
るが
、蛇
体の
三郎
を皆
が恐
れた
。観
音堂
に入
り一
心不
乱に
祈念
して
いる
と大
蛇の
形が
抜け
て元
に戻
った
。や
がて
三郎
は甲
賀の
長と
なり
家も
栄え
たが
、後
に信
濃の
国へ
行っ
てし
まっ
た。
人々
の夢
の中
にで
てき
た三
郎は
、諏
訪明
神の
化身
であ
った
と告
げた
とい
う。
(カ
ネイ
エ系
縁起
)」
D582
○諏
訪明
神の
由来
3-87
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○於
自理
皮礼
守
矢蔽
雲乎
巻上
而
百舌
鳥義
智奈
可婆
鎌
遠登
具倍
斯(諏
訪旧
跡志
・修
補諏
訪氏
系図
)「諏
訪地
方の
人々
の間
に古
くか
ら唱
え継
がれ
てき
た里
謡。
諏訪
湖か
ら天
竜川
が流
れ落
ちて
いく湖
尻の
方向
が晴
れ上
がり
、し
かも
天竜
川の
源流
地の
ひと
つに
数え
られ
る神
体山
の守
矢の
上へ
、竜
蛇の
よう
に雲
が巻
き昇
って
里の
方で
モズ
の鳥
がギ
チギ
チ鳴
いた
なら
ば、
利器
であ
る鎌
を研
いで
草刈
にい
って
も雨
は降
らな
い、
もう
大丈
夫、
とい
う意
味。
」
D583
○人
柱「昔
、南
信濃
の天
竜川
に長
い橋
が架
かっ
てい
た。
毎年
毎年
大水
で流
され
てし
まう
ので
、村
中の
人が
集ま
って
対策
を話
し合
って
いた
。ひ
とり
の男
が人
柱の
話を
した
とこ
ろ、
その
男は
初に
言い
出し
たと
いう
理由
で人
柱に
され
てし
まっ
た。
男の
息子
は悲
しが
り、
父は
矢作
の人
柱
キジも
鳴か
ずば
撃た
れま
い、
と詠
んだ
紙を
父が
埋め
られ
てい
る柱
に貼
り付
けた
。村
の人
たち
のた
めに
はな
った
が、
父が
余計
なこ
とを
喋っ
たた
めに
こん
なめ
に遭
わね
ばな
らな
かっ
たと
悔や
んで
いる
息子
の姿
をみ
て村
人は
、橋
を渡
る際
に息
子の
歌を
思い
出し
、死
んだ
男の
おか
げで
安心
して
渡れ
るこ
とを
あり
がた
がっ
たと
いう
。」
○葛
島の
水神
碑「旧
堤の
天端
に建
立さ
れた
自然
石を
用い
た立
派な
水神
碑。
築堤
記念
か郷
名が
刻ま
れて
いる
。」
D700
○戸
隠山
「竜
が刻
まれ
、戸
隠山
と刻
られ
てい
る。
中川
村田
島天
の中
川橋
下流
右岸
、理
兵衛
の功
徳碑
「天
流功
業義
公明
」と
なら
んで
いる
。」
D702
○中
平の
水神
碑「今
でも
年々
ささ
やか
な祭
礼が
行わ
れ大
事に
され
てい
る水
神様
。」
D701
○福
島の
九頭
竜碑
「堤
防裏
肩に
設置
され
てい
る九
頭龍
神。
」D
703
3-88
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○伊
那天
財天
宮「天
竜川
の船
の交
通の
盛ん
なり
し頃
の船
着場
、川
の流
れの
平穏
と舟
交通
の安
全を
祈願
して
祀ら
れた
もの
か。
」D
704
○高
遠弁
財天
「河中
の天
然石
の上
に祀
られ
てい
る弁
天様
。過
去の
幾多
の洪
水に
も流
され
たこ
とが
ない
とい
う。
岩は
自然
の量
水漂
の役
目も
して
きた
。」
D705
○天
龍川
改修
記念
碑「昭
和22年
6月
天竜
川が
直轄
編入
され
、初
に着
手さ
れた
とこ
ろに
建て
られ
た記
念碑
であ
る。
」
D708
○修
堤碑
D709
○松
尾弁
天厳
宮神
社「松
尾の
引き
堤と
とも
に現
在地
に稜
設さ
れた
。」
D706
○川
原弁
天「弁
天橋
下流
左岸
側の
河原
の自
然石
の上
に祀
られ
てい
る弁
天、
高遠
の弁
天と
同様
に出
水規
模の
目安
にさ
れて
きた
。」
D707
○復
興記
念碑
D710
○36.
6洪
水復
興記
念碑
「新
宮川
の氾
濫に
より
新宮
川及
び中
沢の
堤防
は破
堤し
、こ
の修
復記
念で
ある
。」
D711
○下
河原
復興
之碑
D712
○元
大島
の記
念碑
D713
○山
吹下
平の
記念
碑D
714
○柿
開土
の記
念碑
D715
○阿
島の
復旧
記念
碑D
717
○伴
野堤
防記
念碑
「伴
野地
区は
古くよ
り治
水事
業の
盛ん
な所
で、
151K地
点に
数々
の記
念碑
が建
立さ
れて
いる
。」
D716
3-89
西
暦和
暦誘
因被
害の
実態
被害
地点
No.
災害
の概
要ま
つわ
る教
訓伝
承伝
承地
点N
o.
エピ
ソー
ド・意
義社
会の
動き
○弁
天引
堤記
念碑
「飯
田松
川の
右岸
から
弁天
橋を
経て
清水
にか
ける
松尾
堤防
を記
念し
て建
立さ
れた
碑で
ある
。」
D718
○川
路村
から
の移
籍記
念碑
「「時
又」の
川路
村か
らの
移籍
記念
碑で
、裏
面に
川路
から
時又
に移
籍し
た人
々の
氏名
が記
され
てい
る。
」
D719
○三
六災
復旧
記念
碑D
720
○川
路郷
家屋
移転
記念
碑「36.6
災に
より
川路
地区
の低
平地
の家
屋は
壊滅
的な
打撃
を受
け、
災害
後こ
の地
区の
人々
は移
転し
た。
」
D721
○復
興記
念碑
「36災
害か
ら4年
後に
大鹿
村で
は災
害復
興記
念事
業と
して
、役
場の
庭に
「復
興記
念碑
」を
、大
西山
崩落
地籍
に「殉
難の
碑」を
建立
し、
復興
記念
式典
を行
った
。」
「昭
和36年
梅雨
前線
集中
豪雨
によ
り前
古未
曽有
の大
災害
を受
け55名
の尊
き人
命と
40数
億円
の被
害を
蒙り
之が
復旧
につ
いて
国県
の援
助と
村民
の一
致協
力に
より
復興
した
ので
時の
建設
大臣
中村
梅吉
氏の
揮毫
によ
り之
を建
つ、
昭和
40年
10月
建之
、大
鹿村
。」
D723
○殉
難の
碑「昭
和36年
梅雨
前線
集中
豪雨
災害
によ
り尊
き犠
牲と
なら
れた
霊を
祀る
。昭
和40年
10
月建
之
大鹿
村。
」
○大
西公
園の
大西
観音
「大
西山
崩壊
地の
麓に
ある
大西
公園
には
、災
害で
犠牲
にな
った
人を
弔う
ため
の大
西観
音が
ある
。」
D724
○斜
面を
転が
って
きた
巨石
「36災
害の
時に
マサ
が洗
われ
て花
崗岩
の巨
石が
斜面
を転
がっ
てき
た。
」D
725
○三
六災
害高
水位
標「天
竜川
総合
学習
館
かわ
らん
べの
前の
河原
にあ
る。
」D
722