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7
{特集 l パリズム グロー 海賊史観、帝 1 1 認知されざる ART 稲賀繁美 れて、公共や私設の美術館と呼ばれる保管 れ、研究の対象へと格上げされる。それは一 や治安財とは区別され、紫判明に問題がなく、 れを禁むなら、恒久的に保存され、場合によっては作 意志を無視してまで、修復の対象とされる。美術における トマス・クローが上智大学での研究会で北米のポ l トを論じた。質疑応答で、折角日本に滞在されている のだから、嵐広犀のペンキ絵をご研究なさってはいかが でしょうか、とご注進申し上げた。巨大な広告看板の塗装 ゼ箆 ンか クら イ出 ス発 トし のて 事ポ 例竺 がノ 話ァ 題| だト つの た荻} か手 らへ でと あl:Il IW: E ロロ 号! 号門の定義に忠実であるならば、ゑくが無名の看板職人 による、公衆浴場の寓士山が、どうして同じ「民衆芸術」の 純時で談論されてはいけないのだろうか(図 1) cog- EE- 。ロと口にするのはたやすい。だがその一方で、風日 屋のベンキ絵では芸術とはいえない、といった文化検問 がいまだに牢悶として残っている。こうした「当然」の価 値判断の背後になにが隠されているのか。そこに自覚が 行き届かないかぎり、現代 ω 誌の会球化はお題目にとと J9 35 百円といえば、字義通りには塗装職人である。その うち畿術家に山山散でき、個人名が業界で認知された人間 が、晴れて号 E 旦の称号を手に入れる。美術史とは、この ような出世を遂げた特権的な創作者、だけを選別して、そ の枠組みのなかで「研究」をすすめる。「議術家」であれば、 その作品は展覧会に出品され、速が良ければ資い上げお 富士山の世界遺産登録とともに、風呂農のペンキ絵も世界笠録へつ 1 グロ l パリズムとは何か。それは、耳 EZ25 とも呼ば れた近代の無蘭室のような「美術館空防」と 参入を詐された特格的な事物たちに、枇界的な流通 担保する金融・情報潔境が準備されてきた、という事 意味する。 亡の場合、の一。 g gg ロとは、そうした特権的空間への 参入の過程を示す動態把擦を指す言葉となるはずだ。無 名の職人による風呂淫のベンキ絵ゃ、往年の映画館の来日 割り広告が、たんなる博物館の聡史史料ではなく、美術作 品へと認知され、村会的地位が向上し、世界的な、ネットワ ークに後録されること。結構な事態であるが、はたしてこ のプロセスに乗るか、乗り損ねるかの分かれ道には、いか なる分別装置が働いているのか。これは審美的な器準の 陪題ではなく、経済的な資産価値創出の問題であり、社会 学的に言えば、階級闘争 ]Ezbg 己皆目 ω ならぬ分類際 E20 号己 gmoES 同(司∞ O 己円品目己)の現場である。 OEmE2R 門という言葉もあるが、これは ozg 庄司を 51 自己買と峻別して岡山定化させるという分類闘争へと加指 する営みだろう。 52 己号取引が金倣商品取引法で規制の 対象となる一方、 EEE 号と規定され、自主規定する裁は、 正規市場からは爪弾きされているという被差別意識を逆 用して、かえって自己に有利な副次的市場を構築する。 OEEE 司たち自身の多くは、極めて私的な官みとして郎 29 Bi jutsu FOflllll21V0 1 . 32 「グローバル・スタンダードの功罪:海賊史観、帝国史観、輪廻転生史観にむけて」 『美術フォーラム21』第32号 (特集:グローバリズムの方法論と日本美術史研究:一国主義と需要研究を越えて) 2015年11月30日 pp.29-34.

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{特集}グロ

lパリズムの方法論と自本美街史研究ーーー一盟主義と受容研究を越えて

グローバル・スタンダードの功罪

海賊史観、帝国史観、輪廻転生史観にむけて

1 1

認知されざるART

稲賀繁美

れて、公共や私設の美術館と呼ばれる保管場所に安隠さ

れ、研究の対象へと格上げされる。それは一般の流通商品

や治安財とは区別され、紫判明に問題がなく、また作者がそ

れを禁むなら、恒久的に保存され、場合によっては作者の

意志を無視してまで、修復の対象とされる。美術における

トマス・クローが上智大学での研究会で北米のポップ・

アlトを論じた。質疑応答で、折角日本に滞在されている

のだから、嵐広犀のペンキ絵をご研究なさってはいかが

でしょうか、とご注進申し上げた。巨大な広告看板の塗装

ゼ箆ンかクらイ出ス発トしのて事 ポ例 竺がノ話ァ題|だトつのた荻}か手らへでとあl:IlるIW:

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号門の定義に忠実であるならば、ゑくが無名の看板職人

による、公衆浴場の寓士山が、どうして同じ「民衆芸術」の

純時で談論されてはいけないのだろうか(図

1)。cog-

EE-。ロと口にするのはたやすい。だがその一方で、風日

屋のベンキ絵では芸術とはいえない、といった文化検問

がいまだに牢悶として残っている。こうした「当然」の価

値判断の背後になにが隠されているのか。そこに自覚が

行き届かないかぎり、現代

ω誌の会球化はお題目にとと

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ヲ品。35百円といえば、字義通りには塗装職人である。その

うち畿術家に山山散でき、個人名が業界で認知された人間

が、晴れて号E旦の称号を手に入れる。美術史とは、この

ような出世を遂げた特権的な創作者、だけを選別して、そ

の枠組みのなかで「研究」をすすめる。「議術家」であれば、

その作品は展覧会に出品され、速が良ければ資い上げお

富士山の世界遺産登録とともに、風呂農のペンキ絵も世界笠録へつ図 1

グロ

lパリズムとは何か。それは、耳

EZ25とも呼ば

れた近代の無蘭室のような「美術館空防」という殿堂への

参入を詐された特格的な事物たちに、枇界的な流通網を

担保する金融・情報潔境が準備されてきた、という事態を

意味する。

亡の場合、の一。

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ggロとは、そうした特権的空間への

参入の過程を示す動態把擦を指す言葉となるはずだ。無

名の職人による風呂淫のベンキ絵ゃ、往年の映画館の来日

割り広告が、たんなる博物館の聡史史料ではなく、美術作

品へと認知され、村会的地位が向上し、世界的な、ネットワ

ークに後録されること。結構な事態であるが、はたしてこ

のプロセスに乗るか、乗り損ねるかの分かれ道には、いか

なる分別装置が働いているのか。これは審美的な器準の

陪題ではなく、経済的な資産価値創出の問題であり、社会

学的に言えば、階級闘争

]Ezbg己皆目ωならぬ分類際

E20号

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OEmE2R門という言葉もあるが、これは

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51

自己買と峻別して岡山定化させるという分類闘争へと加指

する営みだろう。

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対象となる一方、

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正規市場からは爪弾きされているという被差別意識を逆

用して、かえって自己に有利な副次的市場を構築する。

OEEE司たち自身の多くは、極めて私的な官みとして郎

29 Bijutsu FOflllll 21 V01.32

「グローバル・スタンダードの功罪:海賊史観、帝国史観、輪廻転生史観にむけて」 『美術フォーラム21』第32号 (特集:グローバリズムの方法論と日本美術史研究:一国主義と需要研究を越えて) 2015年11月30日 pp.29-34.

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作を続けており、それらが公共に民示されて金銭的な対

側を得ることも間期待してはいない。その限りで、かれらに

はえてして、自分が美術市場の外部者

EEPEえ江戸。

同門

E問wZだとの自覚さえもない。だが、彼らの創作品

には金融的価値を賦与しうる・すべきだと認識する流通

業者、さらにはそれらの生産物には公共的空間で保存・展

示される価値ありと認知する行政担当者が現れる。

2

職人と懇術家

無名な職人に対して慈術家は「有名」である。この分断

線は柳家刷出の「民議」においては「無名性」

E5ロ可EEの賞

揚として逆転されたoニューヨーク現代美術館で一九八

九年に開催された吋未閥、弘義と二十枇紀の現代美術』展は

忠わぬ批判を蒙った。アフリカの産物は無名作者による

儀礼の道具だが、それが欧米の美術市場で流用されると、

倒人名を獲得した「美術作品」へと被領される。この詐欺

行為は槌民地主義の残浮にほかならず、それ自体犯罪的

行為だ、というわけである。さて民誌は二十一枇紀初頭に

パリで大規模な展覧の機会をもったが、会場は「美の絞

蛍」ル

lヴルでも「現代美術の宝庫」ポンピドl-センター

でもなく、プランリl河岸美術館となった(図2)。この事

災が判明すると、所蔵者筋からは、企凶を疑問視する声も

あがったとの風評が伝わる。事実か一台かはここでは問、っ

まいが、そこには、ある倣値観が露間治する。アフリカ・オセ

アニアや、旧人類学防物館の所蔵口川を母体とする博物総

に展示されるのでは、民裂の泊券に関わる、という危恨で

ある。審美的な階問問秩序にあって、一冗来は美術という制俊

から附問縦され差別されていた民衆的生活感情に市民擦を

与えるのが、災義の主旨であったはずなのだが。

パリ、2日間年)「部族j、それともず口一バルワ(r民芸の精神jプランリ 河岸美術館展示風景 CG画像回2

世界では、なぜか「世界美術」ではなく「世界美術史」

君。ュι〉江見出

Eミと呼びならわされるo文学の場合、ノ

ーベル文学賞を受賞するためには、現在の世界での主姿

一言語へと翻訳されることが必須の前提条併となる。さも

なければ審査資絡すら手に入れることはできないからだ。

これに対して美術の世界では、美術という削制度に編入さ

れれば、作品をとりわけ使用言語に沿って翻訳する手間

はかからない、と忠われがち

Yhpとふいえ実際には、先℃

「大地の魔術師附』で観祭したとおり、非欧米の造形物は、

「隙術鮒」といった、それ自体問欧諸において美術とは異

なる純隙を指す名辞によって統御されていた。

漢字あるいは漢詩文化闘での書道は、はたして西欧の

「美術」の範隙に属するのか笥か。明治時代の日本では本

件を巡っての「分類闘争」が淡じられたし、今なお中日出美

術を閲欧社会で認知する場合には、書道の扱いは而倒を

惹き起こす。書は河畔吋に文字でもあり、設認の翻訳を回避

できない。だが翻訳が必要な領域は、祝党議術の純粋性に

対する段損を構成することとなるからだ。徐誌は現代中

国美術の同一。

g出Nscotを象徴する一作家だろうが、かれ

がもっぱら「読めない漢字」の発案で世界制覇を遂げたの

も、偶然ではない。「読めない淡字」だからこそ、中間漢字

文明閣の閉域をまんまと越境突破できたのだから。

逆にみれば、文学史の股界はいまだに使用誘訟の選択

と官接に連動する。多々の制約と無縁でない「鰯訳」とい

う転轍作業を経ないことには、「世界文学」への後録は巣

たせない。その限りで悶洋文学史と中国文学史、アラブ文

学史をひとつに括るのは厄介だ。言認の別によって弁別

される史的な系諮を異にする作品群を並列するには、一院

史的な経緯を盤、椛する「山間界文学」という名作選の抽象悦

が不可欠となる。それに対して美術史の場合には、起源や

系統樹を征視しでも、文化問闘を視覚的に並列することに

抵抗は少ない。他ならぬプランリ!河時炎術館はじめ、視

覚的展示施設はそのことを立祇し、実践している。とはい

え、それなら実際に文化国を横断した世界美術史を記述

することは、世界文学史よりも容易なのだろうか。

4

近代的被界像の形成とそれ以前、それ以降

大東亜戦争矧には「南洋の民議』といった著作も世に問

われている。それがいつしか民惑はル

lヴルやポンピド

1・センターに段示されるのが当然という地位を獲得し

たならば、その立身出般の道絞こそ包冬山口

NEEロの盟程

襟と一一百ってよい。ボルト・ドレにあった旧植民地美術館や

トロカデロの人類学博物館の改組によって引っ越しし

ジャン・ヌ

iヴエルの斬新だが使い勝手の惑い「二十位紀

最後の美術館」(モ

lリスゴドリエの痛烈な郷総)に収ま

った「民族学資料」モトイ「始朕の美術」作品たちとても、

問様の位。g-EEEロの産物だったはずだ。ならば、両者

はどこで仲違いし兼ねぬ分裂の仕儀に至ったのか。

一九八九年のパリではまた『大地の魔術師」と題される

展覧会が開催された。ここにはチベットの砂長茶緩を制

作する僧伯や、ガ

Iナの結納装飾織人を含め、それまで

30 同Ut5UForum 21、叫"

ここ五百年の人類史は、欧州による世界制純と姿約さ

れる。いわゆる「火航海時代」以来、まずは南欧、ついてオ

ランダやイギリスが世界の制海権の新を競った。世界交

易山叫ん世界物流史は、西欧による世界認織の現象学として

描くのが、容易だろう。被征服民の側からみた歴史記述も

提唱されているが、それは前者の陰雨、一不ガ、倒立像たるを

免れない。たしかに近年、アフリカの防虫大陸とアメリカ

新大阪、さらに欧州の二一角貿易によって世界を瑚解する

図式は、世界システム論によって塗り替えられてきた。背

後に隠れていた中悶の役割や、天然資淑の宝山悼としての

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だが、欧州による世界制紛の過程を描くには、欧州中心

史観の世界史記述で構うまい。むしろそれがもっとも現

実的な解答となる。それを広い「近代」と呼ほう。しかし

「近代以前」、地球表而がまだ欧州による制紛によって塗

り治される以前の時代を描くには、そこには共通の同開

軌もなければ、欧州を中心とする地域的な脱出劣もまだ存

在しないoジョン・オナイアンズが編んだ「批界紘一ん術史ア

トラスいも、欧州中心主義から脱しようとするその意図と

は袋絞に、編年的アトラス作成が苧む無理をかえって露

「設術家」とは認知されていなかった作り手や職人が多数

刑制かれた。結果的にそこから沼際的な裟術家へと四一。t

zrsoHWを成し遂げた「作家」は比較的少数にとどまっ

た。とはいえ、ここには先進悶における社会的な認知こそ、

抗出術における間宮町巳EEの切札、いわば打ち出の小鎚で

あったことが、間違うことなく、そして街いなく一ぶされて

いた。

3

位界文学と世界美術史

文学の世界では、世界文学君。ユ己

CZEEEという表

現が、この二十年ほど流行である。通俗的にみても、ノー

ベル文学伎の受賞作品となれば、日本では「世界文学」に

認知されたもの、といった評価が、新聞や遠隔映像受信機

による配信を通じて下される。なぜかそこでは「世界文学

史」という呼び方は一般的ではない。それに対して焚術の

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呈している。さらに悦近代となればどうか。電子通信網

によって少なくとも世界の表面が夜われた現今、情報の

流通にとっては、もはや距離や文化問の溌は決定的な嬰

闘ではない。一言うところの四

zz-SEとは、こうした世界

の平準化を前提とした側依観の表切だったはずだ。

5

英語による平準化とそれへの抵抗

電子媒体による情報伝迷の平激化は、現同点では英語

の汎刑制はの著しい拡大として理解されている。日本語以

外の学術業総に比較的無関心だった図文学の惚界でも、

近年、英認闘を中心とした業総を、これ以上無視すること

は、陛界標準からの脱務に繋がるとする危機窓識が昂進

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している。だがそこには、英語での業総でなければ無意

31 Bijutsu Forum 2 J収)].32

味だとする英語閣の倣慢さと、自国のガラパゴス状態に

延世相する日本側の島国根性とが癒着しているだろう。英

詩文献の日本語訳には侃意味に難解な体裁が与えられる

一方で、日本認業績はそのまま英訳しても、英諮鴎での論

文作法に馴染まず、拒絶される。敗戦後半世紀を越す学院

的鎖毘のツケが、ここに露呈している。だが他方、兆一誌で

通用した業績は、原諸から比較すれば、きわめて平板化し、

陳脱化する場合が少なくない。英語闘で市民間を獲得す

る学術英訟とは、明快さを求められるあまり、しばしばス

カスカの言葉泣いに堕してしまう。その液成な諸問殺の背

後には、さまざまな文化協に由来する淡密な言語空間が、

不可筏のまま抑「ほされている。一見透明にみえる茶話は、

そこにさまざまな矛盾を滋駁させている。一方では、単一

の装いの下で、実際には英語は四分五裂し、様々に分岐し

ていて、もはや特定の分野や使用集閲にしか攻解できな

い。他方で、これと一議践の事態だが、透明なはずの英認は、

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世界では、なぜか「世界美術」ではなく「世界美術史」

老母広〉ユ回目

Eミと呼ぴならわされる。文学の場合、ノ

ーベル文学技を受賞するためには、現在の出界での主要

言語へと級訳されることが必須の前提条件となる。さも

なければ務査資絡すら手に入れることはできないからだ。

これに対して美術の世界では、美術という制度に編入さ

れれば、作品をとりわけ使用語訟に沿って紛訳する手間

はかからない、と思われがちだ。とはいえ実際には、先に

一大地の魔術的』で観察したとおり、非欧米の造形物は、

「腿術仰」といった、それ自体西欧認において美術とは異

なる範隙を指す名前によって統御されていた。

漢字あるいは淡語文化闘での書道は、はたして西欧の

「美術」の範際に属するのか否か。明治時代の日本では本

件を巡っての「分類倒争」が淡じられたし、今なお中国美

術を西欧村会で認知する場合には、書道の扱いは面倒を

泣き起こす。訟は問符に文字でもあり、言語の翻訳を図避

できない。だが翻訳が必要な領域は、視覚薮術の純粋倣に

対する鮫損を構成することとなるからだ。徐沫は現代中

国美術の

mzg口ECEを象徴する一作家だろうが、かれ

がもっぱら「読めない漢字」の発案で限界納税を遂げたの

も、偶然ではない。「読めない漢字」だからこそ、中図…換字

文明閲の削域をまんまと越境突破できたのだから。

逆にみれば、文学史の世界はいまだに使用言語の選択

と官接に、連動する。多々の制約と無縁でない「矧訳」とい

う紙撤作業を経ないことには、「世界文学」への周恩師陣は果

たせない。その限りで西洋文学史と中凶文学史、アラブ文

学史をひとつに指るのは厄介だ。言郊の別によって弁別

される史的な系譜を異にする作品群を並列するには、股

史的な絞緯を無視する「世界文学」という名作選の抽象性

が不可欠となる。それに対して美術史の場合には、起源や

系統樹を無視しても、文化問闘を椛党的に並列することに

抵抗は少ない。他ならぬプランリ

i河川作美術館はじめ、視

覚的展示施設はそのことを立前し、実践している。とはい

え、それなら実際に文化闘を横断した枇界美術史を記述

することは、世界文学史よりも容易なのだろうか。

4

近代的世界像の形成とそれ以前、それ以降

ここ五百年の人類史は、欧州による世界制鋭と要約さ

れる。いわゆる「大航海時代」以来、まずは南欧、ついてオ

ランダやイギリスが世界の制海権の紛を競った。世界交

易史・倣界物流史は、凶欧による限界認識の現象学として

描くのが、世廿易だろ、っ。被征服民の側からみた歴史記述も

提唱されているが、それは前者の陰繭、ネガ、倒立像たるを

免れない。たしかに近年、アフリカの脱帽黒大陸とアメリカ

新大陸、さらに欧州の三角貿易によって世界を瑛解する

淘式は、世界システム論によって詮り答えられてきた。背

後に隠れていた中日出の役部や、天然資源の支障としての

東南アジアの寓も、急速に兇位されるに至っている。金融

決済の手段たる銀の隠際的流通も、ようやく祝野に入っ

てきた。

だが、欧州による枇界制覇の過殺を描くには、欧州中心

史観の世界史記述で構、つまい。むしろそれがもっとも現

実的な解谷となる。それを広い「近代」と呼ぼう。しかし

「近代以前」、地球表闘がまだ欧州による制紛によって塗

り決される以前の時代を描くには、そこには共通の時間

軌もなければ、欧州を中心とする地域的な優劣もまだ存

在しない。ジョン・オナイアンズが編んだ吋聞界美術史7

トラス』も、欧州中心主義から脱しようとするその意図と

は裏腹に、編年的アトラス作成が学む無理をかえって露

皇している。さらに脱近代となればどうか。電子通信網

によって少なくとも世界の表面が覆われた現今、情報の

流通にとっては、もはや距離や文化闘の差は決定的な姿

図ではない二百うところの同一。

ZFEとは、こうした枇界

の平準化を前提とした価値観の表切だったはずだ。

5

英語による平準化とそれへの抵抗

電子媒体による情報伝達の平準化は、現時点では英語

の汎用性の著しい拡大として思解されている。日本諮以

外の学術業仲間に比較的無関心だった国文学の世界でも、

近年、英語闘を中心とした業績を、これ以上無視すること

は、世界様準からの脱落に繋がるとする危機意識が昂進

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している。だがそこには、英語での業績でなければ無意

味だとする英語圏の倣脱出さと、自図のガラパコス状態に

後慮する日本側の島国根性とが癒若しているだろう。英

語文献の日本部川訳には無意味に難解な体裁が与えられる

一方で、日本託業絞はそのまま英訳しても、英語闘での論

文作法に馴染まず、拒絶される。敗戦後半世紀を越す学問

的鎖国のツケが、ここに露廷している。だが他方、英語で

通用した業績は、隠語から比較すれば、きわめて平板化し、

陳腐化する場合が少なくない。英語隠で市民国を獲得す

る学術英語とは、明快さを求められるあまり、しばしばス

カスカの言葉遣いに堕してしまう。その空虚な諸説の背

後には、さまざまな文化闘に由来する機管な一吉垣間空間が、

不可視のまま抑圧されている。一見透明にみえる英認は、

そこにさまさまな矛腐を畿税させている。一方では、単一

の装いの下で、実際には英司聞は四分五裂し、様々に分岐し

ていて、もはや特定の分野や使用集団にしか理解できな

い。他方で、これと楽腹の事態だが、透明なはずの英詩は、

31

m川町IIForum 21、叫32

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なる事態が、世界のあちこちに堆積し、いわばその残土処

理問題が顕在化している。早い話が、淡誇の慣用匂や仏教

用語などは、英訳しても、閉じられた学者の世界を一歩出

れば、ほとんと通用性がない。かつては英語に翻訳さえす

れば、それで相互の意思疎、通ができる、という楽観的な通

念があった。だが笑際には、英語という「悶際一詰」で意思疎

通をする営みとは、英日時間使用の「聞出傑人」という架空の人

格を獲得することによって、空疎な規約に則った交渉を

こなすだけのことでしかない。抽出の言語を知らない「ディ

iプ」な英語使用者と友人付き合いをすることは、「図際

人」となることとは別種の営みであるはずだ。良し悪しの

問題ではないが、区別は必要だろ、

σ。

こうしてカタカナ誌の「グロ

iパリズム」に間服された実

休日幻影が少しずつ見えてくる。出身地域の国民教育を

通して体得した単一母諾(例えば日本誌)を、英語を主と

する言語媒体に翻訳したからといって、それだけでは何

も実現されたことにはなるまい。それどころかむしろ、ご

うした体験を通じて、仰が英語には翻訳不可能なのかを、

各々の非英語実践者たちが体験してゆくことにこそ、

位。

z-555の非効率的なればこその窓義を認めねばな

らないはずだ。そしてその鰍訳不可能性を、それら様々な

複数異言語使用者たちが互いに共有するためには、逆説

的だが、英諮という不自由な作業一言諮が不可欠となるoそ

してその共有性の限界の彼方には、再び側々の言語が翁

す地域的特性の復権が日程に上がる。考えてもみよう、

「足として保護されるに悩する。近代の油彩阪や彫刻は、西欧

での美的総務や制度の再生産の突をあげるために導入さ

れたが、一八九

O年の東京美術学校創立から一二五年を

絞てみれば、それがまことに臼本の風土に根付いたと言

えるか否かは、評仙の尺度、待問軸の取り方次第だろう。

一九三

O年に小出檎重は、油彩聞は十六世紀にその最

盛期を迎え、以降衰退に向かったとの聡史認識を示して

いた。二十一世紀を迎えて、油彩町はぢはや悶際ビエンナ

A,

d

M

lレに代表される舞台では、昔日の栄光の痕跡すら残し

てはいないoその一方、もっぱら惨と岩絵の具を使用する

日本画と称するジャンルが、日本列島の外ではほとんと

商品側値を得なかったことも有名だ。ところが青銅鋳造

や大理石の塑像の傍らで、日本の鍔や根付には、たんなる

応別禁術の賞玩ロ聞という枠を超えて、欧米愛好者が絶え

ない。地域と世界との二重焦点の力関係の均衡占'に、

四互}弘山三は一所不在の術円軌道を措く。

今にして振り返れば、十九世紀後半の所謂「日本趣味」

吉宮

EE出。とは、単なる珍奇な爽図柏地味ではなく、日本列

島における逃形的営みのうち、なにが当時の欧米で評価

の対象となりえたのかを袋地検託する、絡円軌道測定の

機会だった。日本趣味は、西欧の審築制附がもはや人類普通

の競総ではなくなる動揺の発端に位置してもいた。だが

なにもそれは、

B本的な審美観が荷欧に席巻したものと

して、日出粋的な自尊心を満たすための機会なとではなか

ったはずだ。評価の枠とそこに選別される品物との相互

作別が、たまたま何時期に「日本趣味」という姿で発現し

たに過ぎまい。そこに臼本の美的優位を誇るのも、反対に

日本の粋に対する西欧側の浅薄な誤解を桜うのも、とも

に筋違いというものだ。

韓国美術印刷先には、現地誌の紡鮮語のほかに、品肌(枕柿公用語

としての山中間語、併合下の学術一百諮たる日本組問、さらに

祭できる。神話を含む口承伝承は、その発話の状況によっ

て柔軟に変貌する。それは神話が生きている証拠でもあ

る。ところが西洋世界で発出出した、刑法書学に基礎を置く文

献学は、そうした生きた現実から、もはや不動で同出走され

た決定版包

EEを州出しようとする。そこには、米知の

動植物を捕えてその剥製様本をつくることをもって学術

の逮成と看倣すのと問様の、博物学志向が顕著に認めら

れる。神

話から歴史への変貌は、類比するなら、汎用性のない

地域誌を、図際的に通用する英語へと鋳直す作業にも怒

えられる。…般に、正史への欲笠には、それと裏腹に、生き

た判明笑の抑庄という反作瑚が伴わずにはいない。それも

また、道徳的な正邪とは別次元の街命というべきだろう。

世界流通言語において「業績」を認定されることには、そ

の代伽としての犠牲が付き線、っ。それはユネスコの世界

32 Biiulsu Forum 21、勺].32

遺産への後録においても発生する。世界無形文化遺産へ

の笠録と一長波に、地域の祭礼や習俗が不可避的な変質を

来した尖例には事欠かない。「スポーツ」の股界で、普通の

日本人にもよく知られた事件を挙げるなら、染道がオリ

ンピック種目として、国際的な認知を符るのと入れ脊わ

りに、その「武道」としての礼節が不可逆的な変焚・堕落を

蒙った事実を思い出してもよいだろう。

ここまでくれば、地域市場と世界市場との弁証法ある

いは精円的潤廻構造が意識される。白。

g-E22には得

失の両面がある。地域市場に閉塞していた商品が国際的

な通用性を獲得するのは、絶好の出問機だろ、っ。だが株式に

しても一部上場することが必ずしも地場産業にとって最

適の判断とは一吉えない場合もある。日本語文学のすべて

が村上春樹となる必姿はなく、日本語でしか発揮できな

い落語の話惑は、(外国討論による

EE向。の傍らで)それ

づみ

3

は始向指帝の泰にせよ、ロ

lマ帝閲にせよ、度設衡の統一に

よる物流の規格化を手段とする。の一。

g一550ロもその現

代版である。こうした規格の完遂は、地域社会や従来の間

氏悶家の枠組みを乗り越える。近代の東アジアであれば、

それは偽「満洲日出」の成立から中楽人民共和国の発展にい

たる軌跡を辿る。玉虫厨子や百済綴音像といった古代の

仏教遺産が日本美術史に属するか、韓国の記念切手に凶

宝として図氷されるべきかの議論は、帝国交の過去が現

在に残した帰属意識、純張り意識の残津として傾聴すべ

きものだろう二悶史からの脱却を瓶、つのは容易だが、共

通の学術作染」百認にも欠く束アジアにあって、その達成

領有権意識は世界の併となるか? 行路標識となった座礁飴の想像力

(ホセ・テンス・ルイス 「浅瀬J56問ヴェネチア・ビエンナーレ フィリピン館2015年)

33 Bijutsu Forum 21 Y01.32

「図際的学術詩」としての西欧諸認を習得することが、不

可避の前提条件となるのだから。

6

「日本」という枠組みの怒意性

関3

関文学の世界の英語に対する危機感を先に述べた。だ

が一見これとは対照的な事態が、英議院の中間出研究で発

生している。試しにハ

lヴァ

1ドの楽京研究所で発刊さ

れている、最近の英文中国研究設絡を見るとよい。そこに

は英文の地のうえに、中間語の術語やピンイン表記が頻

繁に踊っていて、それらの術誌に通じて居ない一般の英

語読者には、もはやほとんど読解不肖能な字聞が形成さ

れている。なぜか河様の傾向は日本研究書籍では、ほとん

と確認できない。これは英詩闘中歯学の叛乱とでも名付

けてよい事態であろう。学問の世界の動向がそのまま現

実の政治や図際関係へと波及するわけではあるまいが、

いわば学術における英語帝国主義は、その牙城の内部か

ら、決壌を予兆させる事態を叩叩いている。はたしてそれは

現今の中間の世界的覇権と迷勤しているのか否か。

だがこの事態はひとり英一諮問のみの問題ではない。日

本の学術が当然の前提としてきた「日本」という枠組みや、

その使用一言誌も、問機の事態と無縁ではない。歴史的に振

り返るなら、金田二尽効がアイヌ認の無文字伝承を文字

に転記した事例を思い出してもよい。そこには知虫幸恵、

知里真志保といった人材の関与が知られているが、近代

アイヌ学が目指したのは、口渉伝承を正確な文学配列へ

(ωv

と確定・編集することだった。ここには酒アフリカや中

出火アフリカでの神話採取で発生したのと同様な事態が観

7

将来の「日本美術史研究」への擬一言

以上を踏まえ、最後に提言めいた需表を、三点に限定し

て書き留めておきたい。

まず、「交渉史における海賊史的視点」。束アジアに視点

を限定しても、一一回ごとの閉じた歴史は、構想としても事

実認識としても、最初から破綻している。歴史は交渉のな

かで営まれており、交渉とは無縁な文化的問有性・純粋性

ばかりを追求するのは、倒錯でしかないからだ。そして、

その点を認識するために尚一与巳一的自といった昨今舶来の

枠組みは、もとより必姿不可欠ですらあるまい。悶民間同家

という枠級みは、あくまで十九世紀以降の認識枠にすき

ず、それをそうした制度が不在だった時代へと遡及させ

ることには、時代錯誤の嫌いが免れまい。とはいえ、歴史

とは必然的に現夜から遡った過公認識たらざるを得ない。

「美術」にせよ、「慈術家」にせよ、それらは現在の制度的な

枠組みに過さず、それを無条件に過去に当て献めること

は、恋窓的な選別作業に総みする「犯山部」である。

そうした前提条件を脊んだうえで、筆者は近年「海賊史

観」を提隅している。一方で過去から

2-22Tな要素を

摘出する作業は、極史認識と表裳一体の原罪である。それ

を過去の海賊的な纂奪と言い換えてもよい。あえて「海賊

的」というのは、この袋奪に公認のおmmw付きを与えたもの

が「正史」の正体であり、複数の「正史」伺士の札際が、国民

国家体制制の織立と軌を…にするからである。むしろ(後世

の)権力が認めない「海賊行為」にこそ、歴史の実絡があっ

たのではないか。あたかも磁口聞の物流の実態が、官許の統

計記録に残らない「抜け荷」や違法行為、海賊的略奪や筏

造品交易によって形成されていたのと同様に。

ふたつ自に「帝国史による一国史からの脱却」。帝国と

Page 5: E 例竺 グローバル・スタンダードの功罪aurora/pdf/151130bijutsuforum21_32.pdfBi jutsu FOflllll 21 V01. 32 0 0°0í0ü0Ð0ë0û0¹0¿0ó0À0ü0É0nR jÿ mw ÊSò ³0^

として保護されるに値する。近代の楠彩測や彫刻は、商欧

での美的総隙や制度の再生産の実をあげるために導入さ

れたが、一八九

O年の東京美術学校創立から一二五年を

経てみれば、それがまことに日本の風土に根付いたと言

えるか静かは、評価の尺度、時間駄の取り方次第だろう。

一九三

O年に小出橋重は、油彩岡山は十六世紀にその最

盛期を迎え、以降衰退に向かったとの一校史認識を示して

いた。二十一世紀を迎えて、油彩閣はもはや間際ビエンナ

ーレに代表される舞台では、昔日の栄光の痕跡すら残し

てはいない。その一方、もっぱら惨と岩絵の具を使用する

日本爾と称するジャンルが、日本列島の外ではほとんど

商品側値を得なかったことも有名だ。ところが青銅鋳造

や大理石の製像の傍らで、日本の鍔や根付には、たんなる

応用慈術の賞玩品という枠を超えて、欧米愛好者が絶え

ない。地域と世界との一一重焦点の力関係の均衡点に、

zgζ又は一所不在の楕円軌道沿描く。

今にして振り返れば、十九枇紀後半の所謂「日本趣味」

官官。巳ω自めとは、単なる珍奇な異悶趣味ではなく、日本列

島における造形的営みのうち、なにが当時の欧米で評価

の対象となりえたのかを実地検証する、楕円軌道測定の

機会だった。日本趣味は、西欧の審美観がもはや人類普通

の規範ではなくなる動揺の発端に位援しでもいた。だが

なにもそれは、日本的な審美観が鴎欧に席巻したものと

して、悶粋的な自尊心を満たすための機会などではなか

ったはずだ。評価の枠とそこに選別される品物との秘互

作用が、たまたま同特郊に「日本趣味」という姿で発現し

たに過ぎまい。そこに日本の美的俊位を誇るのも、反対に

日本の粋に対する西欧側の浅薄な誤解を獄、つのも、とも

に筋違いというものだ。

7

将来の「日本美術史研究」への捻一言

以上を跨まえ、最後に捻

4

潟めいた-一百表を、ヌ点に限定し

て沓き留めておきたい。

まず、「交渉史における海賊史的視点」。東アジアに視点

を限定しても、一国ごとの閉じた歴史は、機惣としても事

実認識としても、最初から破綻している。歴史は交渉のな

かで営まれており、交渉とは無縁な文化的問存性・純粋性

ばかりを追求するのは、倒錯でしかないからだ。そして、

その点を認識するために位。

g一55といった昨今舶来の

枠組みは、もとより必要不可欠ですらあるまい。隠民国家

という枠組みは、あくまで十九世紀以降の認識枠にすぎ

ず、それをそうした制度が不在だった時代へと遡及させ

ることには、持代錯誤の嫌いが免れまい。とはいえ、股史

とは必然的に現在から遡った過去認識たらざるを符ない。

「美術」にせよ、「議術家」にせよ、それらは現在の制度的な

枠組みに過ぎず、それを無条件に過去に当て恨めること

は、怒意的な選別作業に組みする「犯弊」である。

そうした前提条件を呑んだうえで、策者は近年「海賊出ん

綴」を提哨している。一方で過去から日-mgEな要紫を

抽出する作業は、歴史認識と表裏一体の原罪である。それ

を過去の海賊的な纂奪と…言い換えてもよい。あ加えて「海滅

的」というのは、この築奪に公認のお照明付きを与えたもの

が「正史」の疋体であり、複数の「正史」同土の札削除が、国民

国家体制の硲立と軌を一にするからである。むしろ(後世

の)権力が認めない「海賊行為」にこそ、際史の尖相があっ

たのではないか。あたかも商品の物流の実態が、官許の統

計記録に残らない「抜け荷」や違法行為、海賊的略奪や模

造品交易によって形成されていたのと肉様に。

ふたつ自に「帝閑史による一図史からの脱却、帝国と

は始皇惜の楽にせよ、ロ!?帝闘にせよ、度量衡の統一に

よる物流の規格化を手段とする。の

ZEm--ggロもその現

代版である。こうした規格の完遂は、地域社会や従来の国

民間出家の枠組みを乗り越える。近代の東アジアであれば、

それは偽「満洲問」の成立から中禁人民共和国の発展にい

たる軌跡を辿る。玉虫厨子や百済綴音像といった古代の

仏教逃産が臼本美術史に属するか、韓国の記念切手に国

宝として図一討中されるべきかの議論は、帝聞出史の過去が現

在に残した帰属意識、縄張り窓織の時間浮として傾聴すべ

きものだろう二日出史からの脱却を誕うのは容易だが、共

通の学術作業言語にも欠く東アジアにあって、その達成

領有権意識は世界の紳となるかワ 行路標識となった座礁飴の想像力

(ホセ・テンス・ルイス 「浅瀬J56回ヴヱネチアーピ工ンナーレ フィリピン館2015忽)

33 sijut制 Forum21 V{泊32

図 3

Page 6: E 例竺 グローバル・スタンダードの功罪aurora/pdf/151130bijutsuforum21_32.pdfBi jutsu FOflllll 21 V01. 32 0 0°0í0ü0Ð0ë0û0¹0¿0ó0À0ü0É0nR jÿ mw ÊSò ³0^

は至難である。滋湖諸島、南沙群島、尖問問諸向、竹島、北方

領土lii。これらが政治問題とされ、関係する国民の怖絡

を若しく敵対的な感情で支配しがちなのは、何故なのか。

二O一五年のヴェ、ネチア・ビエンナーレに五」l一年振り

に復帰したフィリピン館の展示には、この謎をとく鍵が

ある(図3)。難破船の比除と想像力il。その委綿を尽

くすことは紙面が討さないけれど、ここには批判的帝凶

史観の萌芽がある。それが祭者の尖感である。

第三に、「アナクロニズムから輪廻転生史観へ」。ジヨル

プマ

I複製Jから「うっし」へ 輪廻転生史観の提唱にむけて

(Receotac!e duρ'assagefうつわとうっしjパリ日本文化会館、2015年)

回4

ジュバタイユはラスコiの部翁絵聞に、最新の造形的問

題を見て取った。もっとも新しい考古学的発見が、我々を

歴史の最古田川へと誘う。この時代錯誤こそが、股史認識の

提要となる。ジヨルジュ・ディデイ川ユベルマンはこの訟

(2)州稿「アウト品サイダーアートとアlルプリュッ!とのあいだ」「あい

だ一二一1一二間号、ニO一間今大月および七月号、品ペニ一一一1二八

日、ニ五13二九百υ

(3)戸455ヨ河口UEZR由)』ベ旬、NS522-ミミ一足。ぇミミムミヒ句、bhhEb

号、号、弓yZE〉這∞cf日出器司ほか訳吋}…0世紀長前におけるプリミ

ティヴイズムい淡交割、一九九五年。

(4)〈ミ勾22Mhp守「ミミ円。EE口市。円相川omT。三宮内HOFE∞。

(5)ωUMぬ2MM白目白川副肉mM2円切シヱ出】三。ミ口…。ダニおおZ01E]旬自作山間-EMMmb

(の丘、JLミミフ言。ミ主主〉完ct同一三ぬわやNCC吋百円》NLZlN召で「全球

的先前史」記述の問題点として民間した論点は、本航では繰り返さない。

(6)三浦粧i「地球大の出荷から日中間揺を見つめ依す」シリーズ円以アジ

ア出城に問主出すい(小品位位陣、東京大学出版会二体日新聞いこ(ご五

H1八日書評。

(7)ジョンオナイアンズ(組二世界主術史アトラス||創造と伝描紀元

品川4万

qい臨陪雅堂、川野先也子(以)、東洋州山林、二OO八年、

(8)門リポ1f笠間三0山∞「特史研究会の「今」」J

…o…江守託月山容叩乞

(9)卯耐強(制)吋パイリンガルなけ本認仰い一一一元目、二O一一…年害問。

{凶)附成陛「パイリンカルな内川長事」内パイリンガルな事と妊怨〕人文書院、

4

一心一問先io

(日)拙稿一交い勿の山出版史聞にもけて||主術品交品を中心にして」、休館ハ喧

(町出)叫近代京アジアのアポリアい凶立台湾大学出版中心、……。…問司、一

コ…1

一五二口。

(は)いコ町民誌、句、長ミミミ足、bnコゴミ三コ凶作2MEE》ERwpw〈E2戸印。}W251

EE5n5ZMjDt-。Epvb一〆コの一知出尽己ロロ庁長〈EMのNEL65「此砕を

糸で川町小」はチンギスれのω主としてマヌエルコンテの映削で用いら

れた。糸と痛からできた暗暗部が杭路の指MMと去り、部出制抑制の油いに

抗れる海出の浅川削に限礁して位配されている。

(口)拙稿「世界制判的夢と離散状況と〈日本およびアジア地域におけるグ

ロlパルアートとディアスボラア!ト〉より民あいだ…一一一1

一一

↑阿拘拍子足、二O一

μ年十月也、十一HZn

(H)弘、つつしとうつわい旬、完治~雲守弘之、E三hp。旬、E2qご尽きmmOM旬、町内、E

」』あ舌σ吉、と=、記話、辺宅句ミ合2切ミ句宅、切:Rミミ同も壬、モ、ミ弓E~と吉、迫~号号E玩脱覧会および問出出際令シンンボ一ジンウム、パリ担本

文化人会T公ム館、円(忌L込一。Z255E【zE。2E『コEMロE戸zE2己さ同=E一5。EコE2と}』F吋吃内主E陀言R与奇h守E、

へ令叫ご吉、とs、と向弓、2,f、いN山出ωNム品凶」Zω【ロM〈』再伶「N。目おω

34 Biiutsu Forum 21叫 .32

訟を前提として、アナクロニズム史観を提附している。だ

が仏教』又化凶では、これをさらに発展して、造形における

輪廻転生を作業仮説とはできまいか。過去に'伯ったかた

ちは、もはやそれを意識しない後継者のうちにでつつり」、

不意に出現する。「うつる」とは「松山与」「移動」さらには「滋

依」ですらある。そこには無意識2仰の継承があり、逆に伝

統とは、それを意織した瞬間に別物へと変質してしまう

ll。これは筆者が二

O一五年正月、パリの日本文化会館

ジ -cウの

ム展「 間 一

H十去の王ミつつつつわし

型長り」

うおっよしぴ」、

でそも!:e i'L I悶に

し 絞たく試 i君み僚でシあンる日ボ

(図4)。

〈問脱出典〉

Mlw川卜h山、風川vuumのベシキ絵熱小山沿{東京都新信託神楽坂3!6)

川臥ハ一-23ヨ一。zrzghkH旨

mwR-M36mNM君主CU向日=一

M2F号、ミ~ミミ穂町、ζ5hd心Z2∞EPぞ

N05め

山川肱ハ町内戸【〉、¥4FFJ44F4}己ぬ釘『《HYM{作一円文句ωη02-℃】只占。戸ロピコ民会

3」。E↓E2

NENMPGミト民}]印4dqEM】一号}一ピコぬセE町一5ロω。一Mm℃C

話目。号E2EFXUMZ一作巳2HAの〈EZ-brN05山胤ハ民覧会同日時お氏

より、

閃4

ω一戸MnewtE2官(邑)勾弘之、吉守号、ベラshnつつつわとうつし」パ

リ日本文化会如、一一O一一九司、民覧会ポスター(ヲザイン大前官忠)

出典若者提供

{特集}グロ

lパリズムの方法論と臼本美術史研究||一間主義と受容研究を越えて

中日における六人の著作家と中国画論の西洋への伝播*

謝赫の六法を例にして

2

f

中国市代の凶論がはじめて欧米の一一一日誌に翻訳され、西

洋に紹介されたのが一九

Oコ一年である。当尚、日本炎術史

の開犯者である岡倉市人心(党一二)(一八六二i一九二二

ogZE阿美EO)は、コ町内足2rA¥Hpn同EH(『東洋の

理想」)をロンドンで出版した。漢字文化問の学者がはじ

めて英文で東洋芸術を西洋に紹介したことになる。この

本の発行者であるジョン・マレl氏は、本の震にこの本が

本るI1:1 3定 J 本調f土人史、学の本者紹のに介内よ.....,. に告つあに ててつ1;~るい文と てでと 1、成もえさに lぞれぷト 与市有」

三プペと中をの Wo'十 1jl:ZEしをて13 い

FF(U。ロ『cnEロー

55iZ2505(UEEZ(儒教北方中国)と第四壁HB

55gb1門吉呂田印ocpoE(UE52(老荘忠利むと道教l南

ガ中悶)において、中国芸術を中心に論じている。第三章

では、中凶の漢と六初の芸術が、段初に原始日本の芸術全

般に影響を及ぼしたと説くとともに、孔子時代における

音楽、詩歌、絵画によってなされた芸術体系が政治や社会

のためであったことを主張している。第四章は、中間最

初の回凶詩人陶淵明(コ一五二/…二六五i間二七)を紹介し

たあと、「絵を仕上げるべき名工を求めたある大貴族の

話」を語り、老荘派に属する司oEUSEZヱ詩人繭家)級位

之三一…凶八i問。九)を登場させた。そこで、間開催之が「詩

“1 (l)い』むにとトSミ~υミ〉町、N町bhHbnEヌcu。巴コ2gig-て∞。1MECE〈2d戸

号一百三nyNCNCZ出k拍子、林道郎他の企酬。

において第一、絵において第一、践において第一」(才絶、

断絶、痴絶)と呼んだ一…一つの徳(三絶)と飢餓之自身が語っ

た「尚抽出闘の秘訣は、当の人物の閉山に啓示されるあれにあ

る」という名一百を引いた。河合は、孔子がもたらした成果

と比べると、老羽精神は思組上の影響のほか、もう一つの

成果を上げたと述べている。それは、この持代に中図で段

初の組織立った絵師批評と最初の両人伝が始まったこと

であり、ひいては、それ以降の中悶と日本における詰ω

50tg(奨学という設業は当時の日本で相当流行してい

3}

た)の模拡前と発展のために基礎を与えたことである。そ

して、陶淵切と顧惚之のあと、例合が「東洋の理相とで一百及

した三人目の中国の文化人は、最初に装術批一評の体系を

提示した謝赫(約五

001五三五年に活践)である。

附倉天心は、五般的犯の謝赫は、ω廿ハ2550h門出22EE門

(商法の六法)を定めているが、昭洋の芸術観と迷って、自

然を写し描くことが第一二位にくる。そして、他の二つの主

姿な原則にしたがうべきだという。そのこつの主要な原

郎の第一は4EF5!日。〈25EOご宮山吉255c同町

件『伶回一qpEC問、吋EMM同∞ョ(気級生動)で、第二は構図と線

捕とに関するもので、=叶EC君。門出。ロmm自己切EωFI

君。兵3(

骨法問筆)であるといっている。この二つの中国

聞論における最も重要な審北大概念について、同合同が初め

て「気」と「蹴」をそれぞれぷ-vEぺとな悶『三FEZと訳した。

在日

宏/訳H

蒜己

それ以降、この二つの概念が欧米の一言語に翻訳される際、

岡倉の見解が基本的に参考となった。ところが、問A討が残

るしこたと 1血lこ 0)な凶つ it,て r の

し英ま訳つ 4土た、。 しミ

つ0)

かiJ1:i 1羊の

f壬せ

いずれにせよ、当時の日本ではほとんど重視されてい

{-DV

なかったこの著作が、西洋では大いに反響を呼び、間も

なく英語限の学者の関心を惹くことになる。その中に、中

35 Bijutsu Forllm 21 V(北32

国で二十年以上生活をしたイギリスの学者ハiパiト

ジャイルズ(出2U02〉一一go口2-一八凹五l…九一二五)

がいる。ジヤイルズは、一華英辞典一二八九…

cを編纂し、

トIマス・ウェiド(叶FOBS31EnE君主。)が発明し

たラテン語文字による中国語のウェlド式表記(巧ロ号i

。-一g回。E吉田山COロ)を完成させた人物である。一九

O五

年、すなわち一一束洋の理想」の第二紋がニューヨークで出

版された項、ジャイルズは「欧州諸による最初の中岡絵画

史」と称したλ

』、ムと目ピ柚ミ句』同U守「司ε袖誌N~守、。民§N災h立急N52号Nこ『吉。「忌b内足=ミ円吉。ミ品ミ¥〔ηリN』雪町ご向愉ど~52内

同、》N弓内吉苫ぬミ~人みιミ「山中?閲絵画"芸…云百術申史~序品論山締刷一7み

この本の中でジヤイルズは同盟。与『同。又(謝赫)の日本一諸乱詩附の

読み方は「印gzw戸乙であると言及し、六法を附倉による

訳を踏まえながらも少し変更し、①与三『百円〈E一回守(気

韻生動)と②凶SEER凶一EEnE2(骨法用祭)と英訳し

た。続いて、残りの四法の訳を③

3邑02三可ヨ吾BEMd

(応物象形)・④ωEgtE与えB-cEEm(附叫類斌彩)ヨ⑤

Page 7: E 例竺 グローバル・スタンダードの功罪aurora/pdf/151130bijutsuforum21_32.pdfBi jutsu FOflllll 21 V01. 32 0 0°0í0ü0Ð0ë0û0¹0¿0ó0À0ü0É0nR jÿ mw ÊSò ³0^

they display

The Japanese Tattoo in a Global Con-

text

むKikuroMIYASHITA

2 Examining the modern image of glo-

balism

Parisette (1930) was produced by

Tetsuz凸SHI円AI, the 8tage director 01 Ta-

karazuka sh凸凹 kagekidan(now, Takaraz-

uka kagekidan, or Takarazuka Revue),

immediately after his return from France

Itヒ8camea hit under the slogan“Paris

just as it 18". This article aims to under

stand what constituted the essence 01 the

“Paris" or the Paris revue which was pro

jected by Shirai in his production

The Globalization of Modern Japanese

Photography: the Globall the Locall

and Hybrids in Photography 01 the

1930s 。ChiakiTAKAHASHI

Thetattoo陪 atradit旧naltorm 01 bodv art

in Japan that until rec8ntly has bee円 mar

ginalized in art historical research. Japa-

n8SB tattoos baseゴonthe ukiyo-e designs

01 Kuniyoshi UTAGAWA were po口ularin

the 8akumatsu era. This unique and

ephemeral art. which disappears along

with the body, is closely re陥tedto the Jap-

anese view 01 the body. In considering the

tattoo within Japanese art as a whole, it is

also necessary to place it in a glo七alcon-

text

Tetsuzo SHIRAI, Pari8, and the Takaraz-

uka Girls Revue Per10rmance of Par,ト

sette 。円ikaMITANI

Japanese photography in the 19308 ab-

80rbed the contemporaneou8 Western

concept of "New Vision", showing aspects

01 what we call now“glob副ization'".In this

essay, ! examine how Japanese critics

tried to negotiate their identity as both

global四tizensand as Japanese, in terms of "internat旧nalization"“同calcolo('. and

'hybrids.'

18amu Noguchi (1904-1988) made his 1ir8t

abstract sculptures in Paris in 1928. He

remarkeゴthatthe works appeared to be

influenced by the Russian Constructivists

but no artist8 1rom this movement were

part 01 the group around him at the time

Consequently, no one has thought s町 i

The Internationalism of Isamu Noguchi 1927-1931, Paris-Moscow向 Peking-

Kyoto

むToshiyaECHIZEN

Concept of Negotiation Theory in

在astAsian Art -a Methodology in line

with Globalism and Japanese Art Histo-

ry

むNobuoNAKATANI

What is needed in this age 01 globalization

is not a history 01 Japanese art that treats

the nation in isolat旧n:rather. we must

conceive a framework for an inclu~討ve

8tudy: an Ea8t A8ian art hi8tory. Sought

I hereぬηotthe traditional examination 01

I the influences 01 one country on another,

or recept叫nstudy, but a negotiat旧ntheo

ry lor art h陥torythat dea恰川ththe com

plex relationships arising 1rom the repeat-

ed contact, transmission, co!lis旧n,fusion,

and transtormation between the center

and the margin8, We 8hould be ccれcerned

perhaps not only山 ththe connect旧市

created by direct influences, but with the

study of artworks born syれchronically

This essay takes up the work 01 such art

i8ts as Michinobu KANO, Shunkin URA-

GAMI. Kyodo HAMAOA, Ippo MO円1.and

EigakuドANOanゴdiscussesthem within a

ifranewMofE制 A8刷 arthist川 It陥

!ikely that in the curre門ttrend towards

globalizat旧n.the study 01 Japanese art i門

isolation wil! gradually crumble

The Art Market in Modern Korea and

the Gyeong-8eong (Keii凸)Art Club

むSan呂yeopKIM

Modern art history in the fulHledged

8en8e 01 that term began in Korea in the

20th century山 ththe Korean advance of

the Japanese antiques bU8i円ess.The col-

jlection and引 rculation01 art objects in modern Korea can be unゴerstocゴ,n泊rge

part through the acti日ties01 anゴtheaしc-

tion oatalog8 put out by the Gyeong-

seong Art Club, an organization, unique to

Korea at the time, which held auctions of

artwork. This approach to the develop

ment 01 the Korean art market centered

in Gyeong-seong makes possible an un-

derstanding 01 Japanese aesthetic taste

and an appreciation 01 10reign artwork at

the time, indicatlng a way 01 looking at the

issue that goes beyond a u問国teralper

spec口ve

How Has Kamigata Ukiyo-e Been Evalu-ated Abroadつ

むSihoNAKANO

This article looks at how Kam侶ata-e,pro-

duced in the Kyoto'-Osaka area in the lat十

I ter part 01 the ear切modernper旧d,have

been discussed and appreciated in coun-

tries outside JapaηThe analysis indi

cates, 1inally, that assessment 01 the

prints is bas6ゴC勺 anevaluation 01 th引r

resemb国nceto the traditional art of yam-ato-e: their realism, wh旧hhad an inllu-

ence on the Edo ukiyo-e artist Sharaku and the modern, counter-culture quality

A number 01シearshave passed since the

cal1 10r internat旧nalizat旧n,n副1lields 01

study, beginning with the humanities. The In the lilth month 01 19日7,Kazumasa NA- i tre吋 tQwards“boundary-cro白川g",with

KAGAWAd町 overedthe perf町 tspot 10r I scholarship moving beyond the 8ingle-an uninterrupt剖 viewof Mt. Komagatake I cour:rtr.'1' paradigm, is evolving inexo印刷y

1rom Yamabushi Pass at Lake Ashi, and I as society chang田 notonly int町 nally,but

he began work on a田"田 01問 intings01 also extern副旬。 interms of politics, 出O

the mωntain. Lo山崎 atthe number 01 I叩 mics,culture, etc. The study of Ja問ゃ

works on this theme published in The I nese art history in Ja問れ, which has Jong

Comρlete Colleotion 01 the Oil Paintir胆 01 ! 問 問8t出 Inan 180latlon同 oa印 roach,is

Nakagawa Kazumasa (8ijutsu由 uppan- i now turning to issues that span national

i 8ha, 2007), it appear8 that Nakagawa pro- I borders: the establ侶hment01 a 80-oalleゴ

duceゴatotal 01 around sixty. 01 these, the I global methodology, At the very least, the

W町 kfocused on here is high附expre国内e I Iramework has 8hifted from the art 01 Ja-

of Nakagawa's energy and spi巾 ipan alone to that 01 E田 tAsia as a whole

In constructing this new framework, it is

also important to break away 1rom an in-

terηational art history centered on Europe

and Amer旧a,which has七eendコminantfrom the 191h century on

For this special issue, titled マheMethod

ology 01 Globalism anゴtheStudy 01 Japa-

nese Art History -8eyond Uni柏tera出m

and円eoept旧n8tudies". we have gathered

together e8says that reference this円ewly

emerging global approaoh to the 8tudy 01

art h陪tory.The aim here陪 a00門sider

ation 01 the globalization 01 a Japanese art

history that has been too narrowly de

fined. There are 10urteen essays口aceo

in one of three sections depending on

the↓r content“Quest旧ningthe advantag

es and disadvantages of globalism" “Exャ

amining the modern image of globalism"

i a門d.'Constructing a globally orientedξast Asian art history"

τhis special issue seeks to move away

from a 10cus on reciprocal in11uences be

twee寸 Japanand other countries and to

put forward a plan 10r examining method

ological practices that aJlow the develoJ:勾

ment 01 a broad, global vision not based

on the perspective of any particu恒rne tion. There is a major 8hitt going on today

in the 8tate of Japanese art history and

th,e direction in which it i8 moving. These

change8 are introduced here山 ththe

purp08e of moving beyond a narrowly

confined and isolated scholar8hip and

presenting a d氾coursethat emphasIzes going beyond a unilateral paradigm. Not

to repeat mシ8elf,but what is 01 concern i8

not convent旧nalcomparative studies that

拍:)kat the re旧t旧nShipヒetweenthe art ot two countries. Japan and France, say, in

volving Japonisme, nor 1he colonial atmo-

sphere engendereゴbyrecept旧 lstudies

in the treatment 01 Van Gogh, Cezanne

and other common subjects in modern

Japanese painting円ather,the aim is to

construct a global method凶ogytor the art

1 Questioning the advantages and dis~

advantages of globalism

The Merits and Demerits 01 Globalism

-Towards a Pirate's View, an Imperial

Standard, and the Metempsychosis 01

Art history 。ShigemiINAGA

history ot East Asia,ヒ8SBゴon

and boundary-crossing iれ Japaneseart

history

The intention was to break through the

Eurocentr旧 colonialistapproach that had

held Japanese scholars in its spell during

tl1e hundred years of modernizat旧n.In

other words, it was to focus on the adapや

tation of Western scholarship and it8

methoゴology,and on the limits 01 recep

tion stしdie8with all its complexes. The aim

is to construct a new, autonomous Ja口8-nese art h陪tory,which utilizIng a perspec

t九eoutsideしapan,日:;based on a method-

ology that goes beyo門da門ationaI

framework. A study of Japanese art h陪to“

印 刷thoutthe "Japan", as it were

Along山 than examinat旧nand crit氾al

assessme門tof what has been accom-

plished thus far in Japanese art history

and which topics deserve furtherιre

search, this issue takes up仁ainting.、s己ulp-可

t凶ur陪e,cra1t. architecture, as we叫11as theory

t回01削i羽luminat也e01肘dand new t相hemesi巾円 t廿出he

globalれi2at旧円 01art history studies and the

shape of Japanese art history research

Th同e山 S由h日陪:;to c∞O印on悶1S剖id由erけth同es剖tu凶dy01 Japa

nese art history in terms ot a new method-

ology that may not yet be 0胎arlydelined,

but is unquestionably beginning to take

shape. In talくingadvantage of the different

themes introduced and methodologies

employed by the individual contributors,

we are coれfidentthat the challenge raised

in the title for this special issue wi日be suc

cessfully met

SPECIAL ISSUE

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Edo period and find aηew direct旧nfor Ni

honga. To that end, he also str凹 eto pro-duce paintings aimed at the general put訓c

which functioned to convey information

mしchlike news reports日81senIS a maJor

打gurein the modernizat旧門 01Nihonga

Kazumasa NAKAGAWA, Mt, Kom-agatake, Hakone: 1978; oil on canvas 。HidebumiHASHI

AN INTRODUCTlON TO THE制ASTERPIECES

OF THE JOTENKAKU制SEUMOF SHOKOKUJI

TEMPLE

Landscaρein S.ρring by xie Shi-chen l¥lJMichilusa KONO

As Xie Shi-chen.s biography was dis

cussed in my artIcle in volume 28 examin-

Ing a work by the artist formerly In the

Manno museum, this essay 10cuses on the

per旧d01 prodυction for the undated

Landscaρe in Sρrtng, compar川 gthat

painting to the style 01 dated works, The

form of the main mountain and character-

istics 01 the brushwコrksuggest a date

during Xie's mature period, from his m対一

50s to his 70s, when he was at the height 01 his powers

Globalism in art may be compared山 th

world literature. Yet. wh拘 tl1elatter re-

quires translation of the or副nalinto the

dominant languages of the day. the for-

mer IS na山elybelieved to be free from

such linguistic constraint. Here, however,

"translat田n"must be rede1ined. Just as

oral pertormance must be transc'ribed to

become r副evantas !iterature, so does a

craft object produced by an artisaれ re-

quest to be transformed into a work cre

ated by an“artist". To explain the para-

digm shift Irom“looal" to“global," the

author proposes three working hypoth仔

ses: (1) the日rates'view 01 world art his-

tory: (2) the empire system as an alterna

tive to nation-states: and (3) the

metaphor 01“metem仁sychosis"in凶aceot “anachronisme" proposed by Georges

Qidi-Huberman

INTRODUCTION河CONTEMPORARYARTISTS

F

This essay examines the unique sense 01

space that is evident from early on in the

i work 01 Natsuko SAKAMOTO, an art陪t

who first attracted attent旧nwhen 8ti)) a

student at Aichi University 01 the Arts

While following Western conventions,

Sakamoto's painting creates a novel world

through original techniques 01 de四ot出n

and a new representat旧n01 8pace. 8ince

completing graduate school. the artist has

oon訂nuedher quest to express different dimensions in space

The Painting 01 Natsuko SAKAMOTO むYasuyukiNAKAI

The special issue for volume 32 was com

日ledwith the aim 01 interpreting art trom

a 副obalperspective. 1 suspect that for

many scholars nowadays, such an ap守

proach was not son月ethingconsidered inト

tially

いhileit may be easy to speak of“副obal

perspective", actually carrying it out in

O門e'swriting and research is extremely difficult

It was in this cコntextthat the fourteen es

says comprising this special issue IA氾re

assembled. For clarity, they have been

placed in three separate sections: (1) ad

vantages and disadvantages of globalism

(2) specific examples from the mcゴern

era: and (3) construction of an East Asian art history

Perhaps it wiJl be necessary to continue

this approach in subsequent issues

As usual. other articles are also included

among them, two columns introducing

materials for study and famous a wodく

housed at the Sh凸kokuji'sJ凸tenkakumu

seum: a discυssion 01 a contemporary

artist: an 酔 hibitionreview, and a report

on the symposium held by our cor仁orat旧η

A welcome addit旧 1is the essay "Jakuchu

Revisited" 1rom our esteemed guest con~ tributor, Yosh旧kiSHIMIZU. Jakl旧huhas

generally been discussed in terms of such

副ementsas the tantastic or realist旧 門a-

ture 01 his p剖ntings,but Shimizu bri門gsa

new perspective to the painter -a門dlor !

this, the editors are very glad HE引sakuHARADA

Translator: Carol MORLAND

INTRODUCTION TO MATERIALS FOR STωY

The Meiji Period Painter Beisen KUBO-TA

②Mitsuhiko MORI

This essay introduces the paintings a門d

writings 01日eisenKUBOTA (1852-1906),

actωe in Kyoto and Tokyo in the second

and third decades of the Meiji per旧d.Em

phasizing the connection between Nihon-

ga and modern society. he sought to

break away from the tradit旧円alsystem ot painting schools established before the

140 Biju!su hlfUIll 2l vo1.32

141 Bijutsu FOfl1m 21 ¥'01.32