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Page 1: 浄土真宗本願寺派慈雲山龍溪寺奏庵 6 Newsletter No...御文章拝読 「恩徳讃」 ~*~ おとき 今年も早や上半期が過ぎよ うとしていますが、どこかし

浄土真宗本願寺派慈雲山龍溪寺奏庵2013.6.20.    Newsletter   No.245

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 そのことによって初めてこの世のことわり(法)にうなずけた、そのような体験をした、その縁になったものがその人にとっての善知識だと味われるのです。    また、広い意味では人に限りません。ものである場合も、あるいは事柄、出来事である場合もあります。たとえば、ひどい病気にかかって死ぬほどの思いをした、しかし、その病気が縁になって、今までの自分を見つめ直し、心が仏さまの方に自然に向かうようになった、病気という出来事が、その人にとって善知識となっているのです。善知識とは、法の上の導き手を意味していますが、非常に広い意味をもっていて、その意味するところは広大です。          *  *  *     しかし、親鸞聖人は、「善知識にあうことも おしうることもまたかたし」と、自分の体験したことを人に教えてあげることも大変難しいと述べられています。     これは、人から体験を聞かされて、頭で知的に理解は出来ても、本当に同感できるところまでいかないことが多いからです。それでは不可能かといえば、一挙に可能になる場合があります。それが縁(仏縁)なのです。      お釈迦様の在世中、同じ時代、同じ地域にいても、その存在を知ることもなく終わっていった人が多くいたように、いくら立派な人

がそばにいても、善知識になることも、あうことも難しいのです。  また、「よくきくこともかたければ」と、私たちは教えをそのまま受けとることも難しいと詠まれています。 私たちはたいてい自分の思いを心に持ったままで聞いています。先入観をもたないで、心をからっぽにして聞くことはなかなか出来ません。これは宗教だけでなく、学問でも、忠告でも、よく聞き取るということは大変な難事であることは誰もが知ることでしょう。       そして、「信ずることもなおかたし」です。普通、信心とは、清らかな心、私たちが努力して、一生懸命に信ずることを信心とよんでいますが、親鸞聖人は疑いのない心、疑いという煩悩を混じえない心を信心と解されたがゆえに、私たちの心の中から雑念をすっかり退けることは難しいと解し、詠われた、よく知られた和讃です。 社会生活には規範は必要です。  その道徳的な行い(自力)からお念仏(他力)に変わる、その縁は善知識によることが多いのです。  親鸞聖人は、他の宗教を批判するのを嫌いました。ただ、罪業深重の凡夫、その代表が自分自身であると心から思っておられた親鸞聖人にとって、その自分にはお念仏しかないと強く思い、つねにそこに立ち返っておられたのです。                       合掌

                     善知識にあう                        善知識にあうことも        おしうることもまたかたし      よくきくこともかたければ      信ずることもなおかたし               他力のお念仏のみ教えの大きなはたらき「善知識」を詠まれた、親鸞聖人の和讃です。   この「知識」は、今日私たちが理解している知識とは違います。仏法の教えの上の導き手のことです。ですから、親鸞聖人は、特に「善」の字をつけ、「善知識」と読んでおられます。             *  *  *      善知識は人によって違います。私の善知識が、必ずしも皆の善知識であるとは限りません。人はそれぞれ自分にふさわしい善知識をもつものです。これこそがご縁(仏縁)です。            また善知識は、高僧であったり、目上の知識や知恵のある人とは限りません。親にとっては、生まれて間もなく亡くなってしまった我が子であることも、時には、罪を犯し罪人になって死刑になってしまった我が子でさえあることもあるのです。 

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���昨今の事件にストーカー殺人の多発がある。このような理由で本人以外にも殺意をもつことなど、かってあっただろうか。こういう執着心、粘着質の人間を多く生む社会は、問題があるというより、病理に蝕まれているといってよいかもしれない。気色の悪い事件だ。■人間は複雑になれば賢くなるかといえば、そうではないことを社会が証明している。生きるということは、もっと単純で大らかに、なりゆきに身を任せるということの真髄のようなものだったはず。言わば本能に近い方が生活力は強いものなのだ。そこに所詮は身勝手な人間の浅知恵をはびこらせると、こういういびつさを生むことになるのではないだろうか。■人生には苦悩がつきもので、思うようにならないことの方が圧倒的に多いものだ。その上に、ああでなければならない、こうでなければ恥ずかしい、まして、諦めなければ必ず叶うはずなどと思い込めば、その人生を狭く、生きにくくし、はたに迷惑を及ぼすものである。今世界で活躍する人たちが思いを遂げたのは、誰の目を気にしたわけでもなく、錦の御旗で送り出されたのでもない。回り道やリスクも乗り越えてきたからだ。■社会が今ほど複雑でなかった時代の方が、外面の見てくれや肩書きなどの世間体より、もっと深いもので人を判断することが尊まれ、見る目が養われていたものだ。今は複雑だが薄っぺら、昔の方が単純だが深かった。■ストーカー事件に見られるのは、被害者の方も、一時は加害者をいいと思っていた時期があったと言うことである。人を見きわめることは難しいことで、一緒にならないとわからないこともあるだろうが、被害者と加害者の多くは、そのうわべの言葉や見た目が良くて関係をもつようになっていることから見ると、やはり今の時代が生む事件であることは間違いない。■かっての日本人は、決して豊とはいえない平凡な日暮らしにあっても、よいものを見きわめる目はあり、それがお互いを認めさせて、ギスギスしてはいなかった。今はゆとりや絆という言葉さえ人を縛る。決して優しくはない。 ����� NORIMARU

編 集 後 記ご 案 内       奏庵法座

日 時

6月26日(水)午前11時より

「真宗宗歌」正信偈住職法話御文章拝読「恩徳讃」~*~おとき                     

 今年も早や上半期が過ぎようとしていますが、どこかしら足元のフワフワした不安感が取り除けず、落ち着きません。これも人類の歴史から見ると、案外、ほんの短い私たちの経験の中だけで杞憂しているのかも知れません。それほどに私たちは身勝手なものです。時にはみんなで頭を冷やしてみましょう。  どうぞお参り下さい。       

                  浄土真宗のお盆

 間もなくお盆がやってまいります。お盆は、同じ仏教でも、宗派や地方によって、また、独自の宗教観、人類観で育まれ、今や季節の風物詩のようになってしまっています。        阿弥陀さまのひとりはたらきによって皆が等しく仏とならせていただく他力のみ教えの浄土真宗では、亡くなられた方は、決して迷い、苦しみ、穢れた存在ではなく、必ず仏さまになられてあると受けとめます。ですから、お盆もご命日と同じようにお仏壇やお墓をきれいにし、お飾りをして、お勤めをし仏法にふれること、それがお盆だけではなく浄土真宗の仏事の肝要です。 亡き方はお墓におられるのでもお仏壇におられるのでもありません。「私」という小さな価値観で縛られて苦しむことのない、あるがままに輝くお浄土という世界に生まれ仏と成って、いつでも私たちに寄り添いはたらきかけてくださっているのです。真っ暗な中におられるのではありません。ですから、迎え火も送り火も、盆提灯、野菜の牛馬も必要ないのです。 亡き人(仏さま)の願っておられることは、仏法にあって、あるがままのいのちの尊さに目覚め感謝し、くじけずに明るく力強く、安心していのちを全うしてほしいということなのです。お盆もそのための仏縁です。  ここ首都圏は、全国からの集まりであり、宗教習慣も混っていますので、当庵では、7月からお盆参りをしています。 お参りのご依頼、特に新盆で日時の指定をご希望の際はお早めのご連絡をお願い致します。


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