decision process of japanese government in world war ii

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大日本帝国の失敗の本質 (太平洋戦争の意思決定課程) 2013年10月20日

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大日本帝国の失敗の本質(太平洋戦争の意思決定課程)

2013年10月20日

テーマ選定の理由

• 「兵とは国の大事なり」(孫子)からすると、戦争は国家の最も重要な意思決定の一つ。日本は、アメリカとの戦争という意思決定の結果、敗戦し、国土が占領された。なぜ、日本は意思決定に失敗したのか?

• 近代的組織は軍隊を例に作られた。日本軍の意思決定に問題があったとするならば、それは日本人の組織に内在する問題では無いか?

年表

• 1926年12月:昭和天皇即位

• 1928年6月:張作霖爆殺事件

• 1930年4月:ロンドン海軍軍縮会議。統帥権干犯問題発生。

• 1931年9月:満州事変勃発(翌年満州国建国)

• 1936年2月:二・二六事件

• 1937年7月:盧溝橋事件。日中全面戦争突入。

• 1940年9月:日独伊三国同盟締結。

• 1941年12月8日:真珠湾攻撃。太平洋戦争突入。

大日本帝国の政治組織

明治憲法体制における政治システム

天皇

内閣総理大臣

軍令部総長

参謀総長

海軍軍令部

陸軍参謀本部

外務大臣

大蔵大臣

海軍大臣

陸軍大臣

帝国議会 枢密院

企画院 外務省 大蔵省海軍省 陸軍省 国民

輔翼 輔弼 諮問奏請

統帥部 内閣

明治憲法の政治システムの特徴

• 天皇は統治権の総攬者/陸海軍の統帥権者という絶対的な立場であるが、責任を追わないこととされていた(天皇無答責)。

• ピラミッド型の上下関係の組織構造ではなく、各々の組織が天皇に直結して補佐。

• 内閣総理大臣は、任命方法含めて憲法上規定が無い。国務大臣と横並びの関係であるため、閣僚の任免権が無く、統合力に限界があった。

軍に関する政治システム

• 二・二六事件後、軍部大臣を現役の軍人に限定する軍部大臣現役武官制が復活。結果的には、軍部は軍部大臣を辞職させ、後任を出さない事で内閣総辞職に追い込む切り札を得た。

• 陸海軍は各々一つの組織だったが、省(軍政)と統帥部(作戦命令)に別れていた。統帥権の独立が強調されると、統帥部は政治コントロールに服さず、強大化する可能性があった。

「無責任の体系」(丸山真男)

• 明治天皇以降、天皇は立憲君主的に行動し、政治的統合の中心になることを回避していた。

• 憲法の規定の無い実力者に依存したシステム。結果、明治維新を実行した元老(特に山県有朋)がいる間は問題が発生しなかった。

• 富国強兵政策をとるために、戦争や短期的利益を主張する政党の影響力を制限する観点から、無責任の体系が構築されたとする見解もある。

「無責任の体系」の問題の顕在化

• 山県有朋死去(1921年)後は、政党が無責任の体系をコントロールする存在に。

• 金融恐慌(1927年)発生。政権交代に持ち込むため、政党は政権の失敗を追求し合う政争に明け暮れたこと、政党と結びついた財閥支配の経済構造であったことから、対策が遅れる。

• 結果、国民からの信頼を政党は失い、清廉潔白なイメージがあった軍への期待が上昇する。

統帥部の権限の上昇

• 1930年代までは、省による統帥部のコントロールが効いていた。人事も省が主流派。

• ロンドン海軍軍縮条約(1930年)締結時に、政府が天皇の持つ統帥権を不当に抑圧したとする統帥権干犯問題が発生。以降、統帥権の独立が強調され、統帥部の権限強化につながる。

• 関東軍参謀・石原莞爾の独断による満州事変追認により、陸軍では下克上の機運が高まる。

政治の迷走

• 予算の承認権は議会にあったため、議会非承認では戦争が出来ない。ところが、政党は国民の指示を集めるために、軍に積極的に強力した。

• 国民的人気のあった近衛文麿は、国民支持を背景に権力の軸を作ろうと大政翼賛会を構想。政党は積極的に解散し合流(1940年10月)。ところが、幕府や共産主義と批判されたため、近衛はトーンダウンし、途中で投げ出した。

無責任の体系の回避

• 第一次近衛内閣時(1937年)には、政治と軍事の統合・調整を目的とした大本営政府連絡会議を設置。ところが、近衛が参謀本部主導の蒋介石との和平工作を潰したことから、政府の影響力を回避するために、開催に反対。

• 1940年末から、大本営政府連絡懇談会という形で再開(1941年7月~は大本営政府連絡会議に改称)し、政治・軍事の調整が図られる。

大本営政府連絡会議

• 1940年11月末に第1回目が開催。以後、日本の対外政策は、実質的にこの連絡会議で決定。

• 出席者:首相/陸軍大臣/海軍大臣/外務大臣/軍政部総長/参謀総長。途中から統帥部の次長も出席。必要に応じて国務大臣が出席。

• 重要案件は天皇出席の下で開催(御前会議)。天皇は発言しないことが慣例であり、天皇の意思は、枢密院議長が代読した。

御前会議に関する昭和天皇の発言

御前会議といふものは、おかしなものである。枢密院議長を除く他の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席しているので・・(反対であっても)多勢に無勢、如何ともなし難い。

(御前会議は)全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。

天皇の意思表示

• 天皇は超越的存在であるため、直接的意思表示は回避された。意思表示は天皇の態度・質問/裁可の保留/代弁者による発言等で行われた。

• 裁可の保留も、意見の不一致を指摘するという形が取られた。結果、形式的に意見を一致させ、裁可を仰ぐケースが増える結果となった。

• 特に昭和天皇はイギリスの立憲主義を理想としたため、「私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可」(昭和天皇)した。

太平洋戦争の背景

太平洋戦争に到るまでの前史

• 1926年12月:昭和天皇即位• 1928年6月:張作霖爆殺事件• 1931年9月:満州事変勃発(翌年満州国建国)• 1936年2月:二・二六事件• 1936年6月:近衛内閣発足• 1937年7月:盧溝橋事件。日中全面戦争突入。

盧溝橋事件

• 蒋介石(国民党)は満州事変対応よりも共産党掃討を優先させ、1930年代は国共内戦状態。西安事件(1936年)により国共合作。

• 1937年7月7日、盧溝橋事件(日本軍と中国国民革命軍第二十九軍の衝突事件)が発生。 当初は近衛内閣・統帥部とも不拡大方針を決定。特に石原莞爾作戦部長が戦線拡大を強く反対。

• 1937年7月11日には停戦協定が成立。

日中戦争突入

• 停戦協定後、近衛文麿は、報道陣・政党関係者等を招き北支派兵を表明。陸軍が要求していないにも関わらず、巨額の予算を計上する。蒋介石との会談も直前にキャンセル。

• 近衛文麿は、国民的人気が高く、世論に迎合する傾向があったと言われる。

• 蒋介石側も強硬路線に転換。通州事件、第二次上海事変等により全面戦争に突入。

日中戦争

• 日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると想定。1937年12月には首都・南京陥落。

• しかしながら、国民政府は首都を重慶に移して徹底抗戦開始。泥沼化回避のために、統帥部主導でドイツに仲介を依頼する和平工作の方針を決定するが、近衛内閣は「国民政府を対手とせず」との声明を出し、講和の機会を閉ざす。

太平洋戦争に向けて

• 1938年11月:蒋介石と対立していたと汪兆銘と講和を結ぶ。当初は、満州国承認/日本軍の2年以内の撤兵等をの内容(日華協議記録)だったが、近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)で合意。当然の如く、蒋介石は無視。

• アメリカ・フランス・ソビエト連邦は蒋介石政府を軍事援助。輸送路(援蒋ルート)を設定。日本は援蒋ルート遮断を狙う。

日中戦争時の周辺国の状況

満州国

仏領インドシナ(仏印)

タイ

英領ビルマ

米領フィリピン

オランダ領東インド(蘭印)

日本の勢力範囲

重慶

ソ連

英領ビルマ

援蒋ルート

援蒋ルート

北部仏印進駐

• 日本は、鉄道による大量物資の輸送を行っていた仏印ルートの遮断を重視する。

• 1940年6月:ナチス・ドイツによるフランス征服。ドイツの傀儡政権(ヴィシー政府)成立。

• 1940年8月:日本の仏印ルート遮断要請と仏印に対する日本軍の進駐が認められる。結果、日本は北部仏印の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蒋ルートや中華民国を攻撃した。

バスに乗り遅れるな

• 政党に対する信頼失墜と同時に、1920年代に中心だった価値観を否定する動きが出る。

• 近衛文麿は閉塞感を打破しようと、新体制運動を展開。当時、ソ連・ドイツ・イタリアは不況を脱出しつつあったため、全体主義が世界の潮流と考えた。

• 新体制運動は、大政翼賛会に代表される新たな権力軸を作る運動と英米協調路線から、ドイツ・イタリアに接近する革新外交につながる。

日独伊三国軍事同盟

• 松岡洋右外務大臣の構想:世界は米/露/西欧/東亜の4ブロックに統合され、やがて世界国家に到る。大東亜共栄圏を統合するのは日本であり、他のブロックと連携する必要がある。

• 第二次世界大戦当初(1939年9月~)ドイツは欧州を席巻。ドイツが西欧統合のリーダーとなると思われたことから、松岡外務大臣は、日独伊三国軍事同盟締結(1940年9月)をリード。翌年には日ソ中立条約締結(1940年3月)。

アメリカ&オランダの対応

• 日独伊三国軍事同盟締結の結果、アメリカの警戒心を惹起。1940年10月に対抗措置として屑鉄の対日禁輸を決定(翌年制限品目を拡大。)

• 日本は資源の供給先を求め、オランダ領東インド政府に圧力をかける。ところが強硬路線にオランダ領東インド政府が反発し英米に接近。オランダ領東インドは、資源が日本を通じてオランダを占領していたドイツに行くことを懸念。

南部仏印進駐

• 日本は、蘭印資源地帯の入リ口となり、オランダ領やイギリス領に圧力を欠けることができる南部仏印進駐を決定(1941年7月)。軍部は、北部仏印進駐の反発が少なかったことから、南部仏印に対する反発も少ないと考えた。

• アメリカ政府は、南部仏印進駐を蘭印進出に向けたステップと考えた。結果、アメリカ政府は、7月26日にアメリカ国内の日本資産凍結、8月1日にガソリン・潤滑油等の輸出規制を発表した。

帝国国策遂行要領の策定

開戦意思決定前の陸海軍の立場

• 陸軍:仮想敵国はソビエト連邦。泥沼化する中国の撤退は「支那事変の成果を壊滅する」「英霊に対して申し訳ない」から困難との認識。

• 海軍:仮想敵国はアメリカ。但し、陸軍に引きずられた対米戦を回避するために、英米不可分論(対英戦は対米戦に発展する)と、対米戦争は自存自衛のために限ると主張。

帝国国策要綱決定

• 7月2日の御前会議で「帝国国策要綱」決定。内容は「帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決」と両論併記。

• 7月28日~の南部仏印進駐につながる。• 陸軍は対ソ連戦に向けて関東軍特種演習実施(7月7日)と対策案作成。海軍は資源問題の解決にならない対ソ連開戦に反対。

南部仏印進駐後の強硬論

• 資源の対日禁輸を前に、陸海軍中間層を中心に対米開戦論と蘭印油田地帯攻略が起こる。

• 7月30日、永野軍令部総長は、天皇に対して、日米早期開戦を奏上。同時に開戦しても勝利の見通しが経たないと説明。天皇を驚かせる。結果、及川海軍大臣が「永野個人の考え」として火消しに躍起となった。

近衛首相の打開策

• 8月4日、近衛首相はルーズベルト大統領との日米巨頭会談構想を提示。対米譲歩案をまとめても陸軍の反対が予想されたため、「妥協案調印→天皇の裁可」により、反対を押さえる算段。

• 海軍は日米巨頭会談に賛成。特に及川海軍大臣は問題が解決すると艦隊の縮小を示唆。陸軍は、表面的には反対しなかったものの、日中戦争の成果を無駄にしたくない立場。

海軍「帝国国策遂行方針」の策定

• 海軍中間層は対米開戦準備と対ソ連戦抑止を目的に「帝国国策遂行方針」決定(8月3日)。上層部は強硬路線に反対したため「戦争を決意することなく戦争準備を進め」外交交渉が実らない場合は「実力を発動」との内容に。

• 曖昧な内容。艦隊準備等の戦備充実が目的であり、そのための国策遂行方針だったとされる。どの場合に実力発動するかも不明確。

帝国国策遂行方針の提示

• 陸軍に帝国国策遂行方針を提示(8月16日)すると、対米開戦を決意していた陸軍は、帝国国策遂行方針を日米開戦に結びつけようとする。

• 陸軍の強硬路線と対日禁輸に慌てた及川海軍大臣は人口石油実用化を命じる(8月18日)。

• 陸軍・海軍は内容を折衝。海軍は、対米戦争準備の言葉を削除し、援蒋ルートの遮断に作戦を変更するものの、陸軍は無視(8月26日)。

帝国国策遂行要領策定

• 海軍の譲歩により、帝国国策遂行要領を作成(8月30日)、大本営で決定(9月3日)。

• 海軍の譲歩は、ルーズベルトは日米巨頭会談実現に乗気との駐米大使からの情報(8月29日)から、日米交渉成立の楽観論を持ったため。

• 作成後、日米巨頭会談の開催が困難との情報が入ったため、海軍は開戦決意を「交渉不成立」から「交渉成立の目処が無い」場合に変更。

帝国国策遂行要領の内容

• 帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す

• 帝国は右に平行して米英に対し、外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む

• 前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも、尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す

帝国国策遂行要領の問題点

• 開戦に到る外交条件が不明確。別紙には「米英の日中戦争介入阻止/米英の極東における軍備増強の停止/日本への資源獲得への協力」が記載されていたが、日米交渉における従来の方針(譲歩)を継続するとされていた。

• 戦争の場合における戦略は検討されていない。長期戦の見通しは不明で押し通した。

帝国国策遂行要領に対する昭和天皇の不快感

• 御前会議前日、統帥部長は天皇に要領を説明。• 杉山参謀総長は南方攻略線は5ヶ月で終了すると説明。天皇は「蒋介石は直ぐに屈服すると言ったが、未だに終わらない」と質問し、杉山は「中国は奥地が開けていて広い」と解答。天皇は「太平洋はなお広い」と叱責。さらに天皇の「絶対に勝てるか?」の質問に対して、杉山は「必ず勝つとは申し上げかねます」と解答。永野軍令部総長の「成功の見込みがある間に手術が必要」に、天皇は一応納得。

帝国国策遂行要領に対する昭和天皇の対応

• 御前会議(9月6日)中、昭和天皇は慣例を破り発言。明治天皇の和歌「四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ」を詠み、外交交渉継続を示唆。

• 御前会議の場が凍り付いたとされる。特に東条英機が衝撃を受けた。ところが、政府・統帥部が一致して外交努力を尽くす事を表明したため、天皇はそれ以上の干渉をしなかった。

東条内閣誕生

日米和平解決基礎条件

• 9月6日:陸軍は日米和平解決基礎条件を当局者会議で提示。その内容は、日支共同防衛のために内蒙古・満州への日本軍駐留を行うこと、公正な基礎に基づく第三者の経済活動を認める事、等を含む、アメリカの情報は困難な内容。

• 外務省は対米交渉を続ける一方で、陸軍の圧力で作成した強硬路線の内容の文書をアメリカに送付していた。

アメリカ国務長官の質問と外務省の抵抗

• ハル国務長官は、日米交渉の条件について、日本側に疑問点を質問(9月10日)。その背景には、日本政府の正式な見解が錯綜していた点と、撤兵が疑わしいと考えた点がある。

• 外務省は返電案を大本営で協議。その際、日支間の新たな取極により日本軍の駐留が決定されると等、アメリカと合意し易い内容で回答案が決定。ところが参謀本部が反発。

対米条件の一本化

• 日本側の見解が錯綜していたため、新たな対米交渉方針「日米了解案」採択を目指す。

• 参謀本部抜きで新たな日米了解案採択する方針が決定するものの、翌日は参謀本部の巻き返しにより採択できなかった(9月18日)。

• 結局、参謀本部の意向が通り、日中和平解決基礎条件内容で交渉することとなった(9月20日)。外務省はサボタージュで最後の抵抗。

アメリカの反応と戦争回避の動き

• 10月2日、アメリカは日米巨頭会談の開催に否定的な回答を提示。御前会議決定に従えば、交渉の目処無しとなり、開戦に進む筈だった。

• ところが近衛首相・豊田外相・及川海将は交渉推進派は、御前会議決定を空文化し、アメリカに譲歩することで戦争回避を決断。

• 10月4日の大本営では、東条陸相・両統帥部長は期限遵守を要求。外務省の妥協案は不審議。

近衛・東条会談と海軍の迷走

• 近衛・東条会談(10月6日)。交渉継続は天皇の意向とした近衛に対して、東条は御前会議決定を骨抜きしてはならぬと反論。

• 10月6日の部長級会議で、海軍は資源確保なら対英戦争で目的達成可能とし、英米不可分論・自存自衛論を翻す。また、従来戦時の船舶損害率が過小であり、戦争に自信がないと主張。陸軍は「国家を亡ぼすものは海軍」と激怒。

近衛内閣崩壊

• 対応に困った海軍首脳部は、近衛首相に相談。10月12日に近衛邸で豊田外相・東条陸相・及川海相で協議するものの、東条は譲歩を拒絶。今後は首相と会わないと宣言。

• 10月14日、近衛首相は唐突に総辞職。近衛は、御前会議を再度開催し審議する手段があったものの、それは失策を認めることにつながるため、責任放棄し、政治生命の温存を図った。

10月14日の東条・近衛の発言

東条:(中国からの)撤兵問題は心臓である。米国の主張に其侭服したら、支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国を危うくする。更に朝鮮統治も危うくなる。撤兵を看板とせば軍は士気を失う。士気を失った軍は、無いにも等しいのです。

近衛:戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい。

東条首相選出

• 近衛首相の後任に、皇族の東久邇宮稔彦が候補に上がるものの、天皇・木戸内大臣は戦争突入の場合に「皇室が開戦の責任を採る」ことを懸念して反対。

• 木戸内大臣は東条を提案。木戸は、撤兵に強行に反対した陸軍のトップを首相にすれば、撤兵が可能と考えた。天皇も「陸軍内部の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件をさえ付けて置けば、陸軍を押さえて順調に事を運んで行くだろうと思った」としている。

東条内閣成立

• 東条は衝撃を受けるが受諾。木戸は陸軍を押さえるために陸軍大臣を兼任させる。

• 昭和天皇は、陸海軍が連携すること、9月6日の御前会議決定内容を再検討すべきこと、を命じる。

• 外務大臣は対米交渉推進を条件に東郷茂徳が受諾。海軍大臣は当初の候補者を東条が拒絶したため、省経験ゼロの嶋田繁太郎が就任。二人とも、対米交渉推進派であるが、前任者から引き継ぎを受けない、内部に知人が少ないの共通点があった。

国策再検討

• 東条は、天皇の指示どおり国策再検討に着手。• 天皇が国策再検討を指示した相手は、東条と及川海相。参謀本部は指示を受けなかった。参謀本部は天皇に再検討反対の上奏を準備するが、東条は拒絶。

• 10月23日~30日に再検討に着手。東条は天皇の要請に応えるべく、議論をまとめようとする。しかしながら、参謀本部の強硬路線と甘い見通し、開戦がマシと考えたこと、海相の開戦決意から開戦決意。

甘い見通し

• ドイツ不敗体制構築=長期戦が前提。アメリカのドイツ参戦は真剣に検討されなかった。

• 長期的な戦局は「有形無形の各種要素を含む国家戦略」と「世界情勢の推移」によると結論付ける。

• 対米開戦によるソ連の宣戦布告は検討しなかった。• 資源運搬の基礎となる船舶損耗量・輸送力は、第一次世界大戦時の不完全な実績を使用し、担当外の担当者が算出した値が一人歩き。物資の需給予想も企画院が水増しする。

開戦はマシな選択

• 臥薪嘗胆(禁輸を我慢する)の場合、現在のストックを考えると1年半程度しか持たない。そうなればアメリカ侵攻が予想されると陸軍は考えた。

• 対米交渉は、日本が譲歩しない限り不可能という判断で一致。アメリカの提案を受諾すれば、日本は三流国になると東郷外相以外は考えた。

• このように考えると、南方攻略による資源獲得は、まだマシに思えた。

海相の開戦決意

• 当初は嶋田海相は開戦に反対。ところが海軍唯一の元帥で嶋田海相の恩人だった伏見宮博恭王が「陛下は開戦を決意」との創作の言葉を伝えた結果、開戦を決意する。

• 関係者が嶋田海相の説得を行うが拒絶。特に沢木海軍次官は「日本が臥薪嘗胆を続けても、現在の国情からアメリカの先制攻撃の可能性は低い」と説得するものの拒否。沢木は辞任を申し出るが、連合艦隊司令長官の地位を示唆して反対を封じ込める。

開戦へ

東郷外相の最後の抵抗

• 東郷は10月30日に、中国からの撤兵条件を具体化したアメリカへの譲歩案をまとめて合意を取り付ける。

• 東郷が譲歩案作成に成功した理由は、前内閣を徹底的に批判し、陸軍以上の強硬論を主張した後、譲歩案を提示して同意を得た。

• このような状況なので、参謀本部には譲歩したという認識が無く、譲歩案を独自解釈した。

最後の決断

• 11月1日に大本営開催。議論のポイントは「戦争or臥薪嘗胆」と「外交交渉の条件」。

• 臥薪嘗胆後にアメリカ侵略があり得るかが議論された。永野軍令部総長は「不明だ。五分五分」と回答。結論は出ず。

• 参謀本部が即時開戦を要求。妥協の結果、12月1日を期限とし、この期限を過ぎた場合には開戦を決意するとの結論に達した。

最後の対米交渉に向けて

• 11月1日の御前会議で、東郷外相は、事前協議なく突如としてさらなる対米譲歩案(乙案)を提示。参謀本部は強行に反発するものの、東郷は辞職を示唆。辞職されると東条内閣崩壊につながる可能性があったため、乙案承認。

• 11月4日に乙案打診。ところが事前に野村駐米大使はさらなる譲歩をした私案をアメリカに提示していたため、交渉のインパクトが薄れる。

ハル・ノートの提示

• 乙案提示に対して、ハル国務長官は1946年11月26日に交渉文書(ハルノート)を提示。原理原則論を主張したアメリカの最後通牒だった。

• ハル・ノートも職務放棄と言われる。アメリカ政府は、当初は暫定妥協案をまとめていた。閣内で孤立し、関係各国の協力も得られなかった結果、希望無き任務の遂行を放棄した。ハルはこれで戦争に突入することを予期していた。

開戦決定

• 外務省は重臣会議により開戦阻止を画策。• 11月29日、重臣会議開催。反対意見が出るものの、東条は形式論により反論。重臣は誰も積極的に反論しようとしなかった。天皇はそれを見て納得したとされる。

• 12月1日、御前会議開催。日米開戦最終決定。天皇の意思「早期解決」を枢密院議長が代読。天皇は満足していたと言われる。

昭和天皇の意思

• 昭和天皇独白録では「開戦を拒絶するとクーデーターが起こる」としている。実際には、皇族・重臣を含めて意見を聴取した上で、最終承認を行った。天皇が強く反対していたら対米開戦は無かった。

• 昭和天皇の意思は、東条英機に対する信頼があったとされる。輔弼・輔翼の不一致・陸軍の下克上に対して、苦々しく思っていた。ところが東条英機の下陸軍が一枚岩となり、輔弼・補翼で開戦で意思統一=合法的意思決定が出来た点に満足していた。