刑事手続における因果関係の証明 - m-repo.lib ... · 法律論叢 第六十九巻...
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法律論叢 第六十九巻 第三・四・五合併号(一九九七・二)
刑事手続における因果関係の証明
連邦通常裁判所の木材防腐剤事件判決をめぐって
増
田
豊
プロローグ
一 連邦通常裁判所の木材防腐剤事件判決の概要
(1)事件の概要とフランクフルト・ラント裁判所(原審)
(2)被告人の上告
(3)検察官の上告
二 因果関係の証明
(1)争われている一般的因果性(因果法則)の認定
(2)消去手続(反証手続)の当否
(3)情況証拠による因果関係の証明
エピローグ
の判決
83
84
プロローグ
叢論律法
製造物責任に関する問題については、我が国ではこれまでもっぱら民事法的観点から精力的な考察が加えられては
きたけれども、刑事法の観点からの探究は些か不十分なものであったのではないかと思われる。しかしながら、刑事
法の領域においても、著しく当罰性の高い事案については、刑事制裁を科すべきか否かが真摯に問われなければなら
ないであろう。そうした事案につき責任の所在を明確にし、刑罰によって対処することは、むしろ現代の刑事法に課
された重大な使命なのではないかとさえ考えられるのである。
もっとも、これまでにも製造物に関する刑事責任が問われたケースが全くなかったというわけではない。そうした
ケースとして、例えば、「ジフテリア予防液事件」(大阪高判昭和三二ニニ・三〇高刑一〇巻四号三三三頁)、「森永ド
ライミルク事件」(最判昭和四四・二・二七判時五四七号九二頁、徳島地判昭和四入・=・二八刑裁月報五巻一}号
一四七三頁)、「さつまあげ中毒事件」(仙台高判昭和五二・二・一〇判例時報八四六号四三頁)、それに「カネミ油症
事件」(福岡高判昭和五七・一・二五刑裁月報一四巻一・二号二六頁)などを挙げることができるであろう。さらに、
最近になってようやく刑事責任追及に向けて新たな局面に入った、非加熱血液製剤によるHIV感染問題などは、単
なる民事法的な解決では済まされてはならず、まさに刑事法によっても対処すべき典型的事案を提供しているように
思われるのである。こうした刑事法における製造物責任の問題について検討を加え、その解決への方向を定めるため
には、これについてすでにかなりの議論が尽くされている、ドイツにおける刑事判例と学説とを参照しておくことが
疑いなく有益であろう。
一一Y事手続における因果関係の証明85
さて、ドイツにおける製造物責任に関する刑事事件としては、何よりも「サリドマイド(コンターガン)事件」
(Oo暮興αqρ㌣司塑ε、「皮革スプレー事件」(ピ①匹曾。。嘆超倒9ε、それに「木材防腐剤事件」(口。駐筈暮N巨暮Φ7守εの一二
大製造物責任事件を挙げなければならないであろう。サリドマイド事件、皮革スプレー事件についてはすでに決着済
みであったが、木材防腐剤事件についても、近時、原審(フランクフルト・ラント裁判所)判決を破棄する連邦通常
裁判所(BGH)の判決(一九九五年入月二日判決)が下され、それに言及した論説も幾つか著されている。この木
材防腐剤事件判決においては、何よりも因果関係の証明問題が最大の争点となったのである。
ところで、刑事手続における因果関係の証明問題を究明するためには、そもそも因果関係とは何か、因果法則の認
定につき裁判官には自由心証が認められるのか、刑事法における因果関係はいかなる程度正確に認定されなければな
らないか、といったような問題が徹底的に検討されなければならない。その限りで、そこでは実体法並びに訴訟法の
観点から、綜合的にアプローチすることが必要とされるであろう。こうした問題について、わたくしはすでに基本的
(1)
な考察を加えているが、そこにおいて展開された主張の妥当性を補強するためにも、連邦通常裁判所の木材防腐剤事
件判決は論及に値するものであると考えられる。
そこで、本稿においてわたくしは、この判決の内容、およびそれに関する学説の反応について批判的な検討を加え
ることを通じて、刑事手続における因果関係の証明問題につき更なる探究を試みたいと思う。
(1)
因果関係の証明に関する基本的問題については、増田「刑事手続における一般的因果性の証明とディアロギッシュな原理と
しての自由心証主義ー必要条件公式と合法則的条件公式の相補性のテーゼに関連してI」法律論叢六八巻三・四・五Aロ併号
(一
繼纔Z年)一二九頁以下、同「刑事手続における一般的因果性の証明とディアロギッシュな原理としての自由心証主義11
1必要条件公式と合法則的条件公式の相補性のテーゼに関連してI」法律論叢六八巻六号(一九九六年)一頁以下を参照。
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連邦通常裁判所の木材防腐剤事件判決の概要
叢
本稿は、連邦通常裁判所の木材防腐剤事件判決に論及しつつ、因果関係の証明問題について検討するということを
課題とするものである。そうした課題を誠実に履行するためには、この事件の概要、およびこれに対する原判決の内
容を正確に理解し、被告人並びに検察官による上告、およびこれに対する連邦通常裁判所の判決の内容を詳細に明ら
かにしておくことが必要不可欠であろう。そこで、以下ではこれらの諸点について、まずは客観的に記述することに
(1)
努めたいと思う。
論律
(1)事件の概要とフランクフルト・ラント裁判所(原審)の判決
法
フランクフルト・アムマインのラント裁判所は、被告人二名につき、その罪責を過失傷害罪と毒物の過失漏出罪と
の観念的競合とし、それぞれに自由刑一年を宣告し、これに保護観察のための刑の執行延期を付した。この(一九九
(2)
三年五月二五日)判決に対し、被告人二名および検察官による上告が申し立てられた。
被告人Sは、一九七二年一〇月一二日から一九八七年四月一日までの期間、会社Dの技術担当の役員であった。また
被告人Hは、一九七七年四月一日以降、この会社の営業担当の役員であった。この会社は、主として木材防腐剤(塗
料)の製造と販売とを業務としていた。そして、この木材防腐剤には、生態環境を破壊する物質である、ペンタクロー
ルフェノール(勺①暮㊤。巨o弓げ①昌色、通称PCPとリンダン(ピ冒らき)とが含まれていたのであった。
一一Y事手続における因果関係の証明87
ラント裁判所が確信したところに従えば、被告人二名によって、一九七八年一月一日以降流通に置かれた木材防腐
剤(作用物質であるリンダンを含んだキシラデコールニ○○)、あるいはそれ以前に流通に置かれていた木材防腐剤
(作用物質であるPCPおよびリンダンを含んだキシラデコール)により、二九名の者の身体に傷害が生じた。
ラント裁判所は複数の鑑定人から意見を聴取した上で、当該木材防腐剤に含まれている生態環境破壊物質と健康障
害との因果関係を認定し、次のように説明した。
当該木材防腐剤は、これに備わっている蒸気圧によって数年間にわたりガスを放出し、有害物質を拡散したのであっ
た。家屋の居住者は、室内でこれに接触することにより、低い毒性領域にある有害物質の危険に持続的に晒されていた
のである。有害物質は、部屋の空気と埃の粒子を通じて吸入されたり、繊維を通じて皮膚から、あるいは食料の二次
的な汚染により口から摂取されたりしたのである。こうして有害物質の相当量が身体に蓄積されることになった。つ
まり、リンダンとPCPは、脂肪と融合する性質を有しており、身体器官に直接危害を及ぼすことなく、有機体の脂
肪分布領域のほとんどに堆積されたのである。それは、固有の脂肪組織のみならず、脳や中枢神経、末梢神経のよう
な脂肪類似組織にも堆積された。それはまた、細胞膜にまで達し、物質の変化を促す酵素の抑制や細胞活動の低下を
もたらしたのである。さらにPCPは、細胞のエネルギ:供給を阻害したのである。
しかも、以上のような結果は、身体固有の解毒作用を通じて増大することになる。つまり、有毒物質を排除するた
めに、有機体は、毒を水溶性の物質に変える特殊の異物変化を自在に行う。この解毒作用は、二つの段階を経過して
実現されることになる。すなわち、第一段階では、異物の反応力が高められ、同時にその毒性がしばしば強まること
になるのである。そして第二段階において初めて、固有の意味における解毒に至るのである。
さて、口内から胃・十二支腸といった消化器官を経て摂取される物質が、すでに肝臓において排出されるべき物質
88叢論律
に変化し、即刻排出されるのに対し、吸入された、あるいは皮膚から吸収された、毒性を有する作用物質は、肺や心
室を経て肝臓を事前に通過するのではなく、いきなり脳に移動するのである。このことは次のような結果をもたらす。
すなわち、その物質は有機体の全体に拡散され、長期間当初の形態で存在し続け、侵害作用をもたらすのである。毒
による汚染は、免疫システムの機能不全を惹き起こした。それは、免疫防御の中心的装置であるT細胞の損傷をもた
らしたのである。こうした毒の免疫抑制作用によって、再発を繰り返す、場合によっては重大な感染症の罹患が説明
されることになる。
さらに、認定された症候群、とりわけ全身の苦痛、内分泌並びに神経の障害は、次のように説明された。要するに、
それは、毒物が先に示されたような仕方で細胞侵害作用を展開する結果なのである。なお、毒の露出が排除されたに
もかかわらず新たな障害が生じたのは、侵害された神経細胞が修復されなかったからである。
ラント裁判所の刑事部は、こうした、木材防腐剤の露出と健康障害との因果関係の存在を、次のような間接事実に
基づいて認定した。
法
③②①室内の相当範囲にわたって、当該木材防腐剤が塗られた家屋の居住者に、健康障害が生じた。
木材防腐剤の使用前、あるいは使用された家屋への入居前までは、被害者は健康であった。
最初の被害は、木材防腐剤を塗った時点、あるいは入居後すぐに生じた。最初の段階での症状は、結膜炎、耳
鼻咽喉器官の障害、創傷治癒の遅延、皮膚の変質、下痢、永続的な体調不調、頭痛などであった。さらに当該
木材防腐剤の露出が持続され、数年を経過すると、全身にわたる障害が生じた。つまり、免疫システム、内分
泌並びに自律神経機能が侵害されたのである。危害を受けた人達は、繰り返し細菌性およびヴィールス性の病
一一Y事手続における因果関係の証明
④
気に罹り、全般的な気力・体力の低下を体験した。さらに、記憶障害、発話言語の探索能力の障害として発現
した神経障害が随伴したのである。とりわけ、生後まもなく当該木材防腐剤の作用を受けた、二歳から入歳ま
での小児に、健康障害が著しく生じた。
当該木材防腐剤が使用された居住空間から転居した後、あるいは当該木材防腐剤を除去した後には、被害者の
全般的な体調の明確な改善がすぐに生じた。続いて健康状態は全般的に改善された。もっとも、通常、神経障害
は依然として残った。当該木材防腐剤が単に部分的に、あるいは不十分に除去されたにすぎない場合には、体
調・健康の改善は同様には生じなかった。居住空間が改善されたことにより、改善前には当該木材防腐剤のガ
スの被害を被っていた家畜や植物にも、よい結果が目に見える形で生じた。
(2)被告人の上告
被告人の上告理由は、手続的な争点と実体的な争点とに関わっている。すなわち、被告人は、原審であるフランク
フルト・ラント裁判所において、鑑定人であるHu教授につき予断を有するものとして忌避を申し立てたが、被告人
の申し立ては却下された。しかし、こうした却下は不当なものである、というのが手続的理由に関わる第一点である。
(3)
第二点は、当該木材防腐剤の健康障害に対する因果関係の存否という実体的なものに関わっている。
89
(a)手続的上告理由
被告人が鑑定人Hu教授の忌避を申し立てた理由は、
一九九〇年七月二日の、被告人に対する手続の不開始決定(こ
90叢論律法
れは原審判決に先立つ、フランクフルト・ラント裁判所の決定であり、これに対しては検察官により即時抗告がなさ
れ、フランクフルト上級裁判所により開始決定が下された結果、原審が開始された、という経緯がある)に関して、H
u教授から検察当局に差し出された手紙の内容が、予断と偏見を表明するものだ、とする点に基づいている。Hu教
授は、この手紙で、被告人に対する捜査・手続による追及の手を弛めないようにと検察を激励すると共に、医学的見
地から裁判所の不開始決定につき批判を展開し、さらに検察が望むならば、専門的なことに関して援助を提供したい
旨を明らかにしたのであった。
原審であるラント裁判所は、被告人による鑑定人Hu教授忌避の申し立てを却下し、次のように論述した。すなわ
ち、問題の手紙の内容は、裁判所の判断に対する尊敬の念を欠くものとなっており、被告人の・王観的な主張も、全く
理解できないということもない。だが、Hu教授はその手紙で、手続的追及の手を弛めてはならないと検察に対して
忠告をしただけであって、それだけでは忌避の理由とはならない、と論述したのである。
連邦通常裁判所は、こうしたラント裁判所による、忌避申し立ての却下につき、法的な誤りを犯すものであるとし、
次のように論ずる。すなわち、ドイツ刑訴法七四条一項一号によれば、鑑定人は裁判官が忌避されるのと同様の理由
によって忌避され得るものである。鑑定人の鑑定結果は、訴訟にとって決定的な意味を持ち得るため、その公平性に
は高度の要件が設定される。つまり、専門的知識に基づいて判断すべき事案においては、鑑定人の意見を真実探求の
拠り所としなければならず、したがって鑑定人には、裁判官と同様の公平性が要求されるのである。この点につき不
信を抱かせるに足る理由があれば、鑑定人は忌避されるべきものである。
そうした忌避に値する理由(「予断の憂慮」という理由)は、鑑定人が研究活動・職務遂行の枠内で、例えば著作に
おいて、あるいは学会や研究会において自己の専門領域につき一般的な言明をなす場合や、鑑定を遂行する枠内にお
弓刑事手続における因果関係の証明91
いては通常認められない。鑑定人が、当該手続において被告人に不利益となる鑑定意見を主張することも、当然許容
される。ところが、鑑定人が以上のような枠の外で被告人にとって有利となる裁判を批判し、その変更を促す方向で
イニシアティヴをとる場合は別である。
Hu教授は、ラント裁判所による当初の手続不開始決定を批判しただけではなく、被告人に対する捜査・手続を続
行するように明確に検察を激励し、その援助を申し出たのである。これは、理性的な被告人であれば、不公平感を抱
き得るものである。原審であるラント裁判所は、忌避申し立てを却下したその決定において、被告人の主観的主張は
理解し得るものであると指摘しているにもかかわらず、忌避の理由は客観的には明白ではないという結論を導き出し
た。だが、こうした理由づけは矛盾しており、ドイツ刑訴法七四条並びに二四条の要件に関する誤った理解に依拠す
るものである。
原審判決は、以上のとおり、鑑定人忌避の申し立てに対する手続的に誤った却下に依拠するものであり、誤って忌
避されなかったHu教授の、因果関係を肯定する鑑定意見に基づく誤りを犯すものである。
(b)実体的上告理由
被告人二名は、ラント裁判所による因果関係の認定は確実な自然科学的経験則と矛盾しているとして、次のように
主張する。
すなわち、少なくとも居住空間に露出されている物質の毒性レヴェルが低い場合には、生態環境を破壊する当該内
容物質と、木材防腐剤シンドロームと呼ばれている健康障害との間に、具体的な因果関係が存在するということは、
科学的に解明されていないし、ましてや証明されてはいない。ラント裁判所が、W教授とHu教授の鑑定意見に基づ
92叢論律法
いて、低い毒性レヴェルにある内容物質によって、細胞機能にいかなる影響が及ぼされることになるかということに
ついて認定したことは、毒物学並びに免疫学の分野ではいかなる科学者によっても受容されておらず、それどころか
科学の確実な認識に甚だしく反するものである。このように自然科学的法則性が解明されていないときは、事実審裁
ノン リケット
判官の個人的な確信は退かなければならないのであり、自然科学における「真偽不明」は刑事事件に関わる裁判官に
とっても妥当しなければならない。
連邦通常裁判所は、こうした被告人の主張を結論においては正当なものと看倣した。もっとも、因果関係が自然科
インドゥビオプロレ
オ
学において依然解明されておらず、争われている場合には、〈疑わしきは被告人の利益に〉の原則に従わなければなら
ない、とする弁護側の見解を採用することはできないとし、以下のように論じている。
すなわち、むろん自然科学の研究方法により新たな認識、とりわけ自然科学的な経験則を獲得したり、これを反駁
したりすることは、事実審裁判官の使A叩ではない。事実審裁判官は、訴訟法が予定している証拠方法(例えば目撃者
の証言など)によって事実を調べ、判断しなければならない。重要な事実の認定は(したがって因果関係の証明も)、
何人によっても疑われない絶対的な確実性を要求するものではない。それは、刑事手続の手段によって獲得されるも
のであり、「生活経験によれば理性的な疑いを差し挟ませない程度の確実性」で満足するのである。
連邦通常裁判所によれば、以上の原則は、自然科学の対象となるような事実についても当てはまる。つまり、法的な
理由から、鑑定人の意見を聴取した上で、科学的には論争の対象となっているような研究結果に依拠することも、事
実審裁判官には許されているのである。事実審裁判官は、自然科学上の認識並びに情況証拠・間接事実を全体的に評
価しなければならない。したがって、裁判官は、自然科学の専門学者が科学的な方法だけを用いては証明することが
できないような結論にも、到達し得るのである。なお、鑑定人が一義的な結論を導き出すことができず、要証事実の
一一Y事手続における因果関係の証明93
存在を多かれ少なかれ蓋然的なものとする場合であっても、そうした鑑定結果は、真実発見にとって有用なものとな
り得るのである。
また、連邦通常裁判所は、因果関係の「消去手続」による証明につき、次のような見解を明らかにしている。すな
わち、木材防腐剤の露出と健康障害との因果関係は、木材防腐剤の内容物質が人間の有機体にいかに作用するかが自
然科学において解明されることによって、あるいは想定し得る他の原因のすべてが枚挙され、消去されることを通じ
てだけ証明可能なのではない。むしろ、他の原因の消去による証明は、完全ではなくとも、自然科学的な認識と他の
間接事実との全体的評価に基づき、少なくとも木材防腐剤の共同原因性が疑いなく認定されるということによっても
実現されるのである。こうした判断を下しても、裁判官は承認された科学的認識に反することにはならないし、職業
的な専門家集団に代わって普遍的な自然法則の存在を肯定することになるのではない。そもそも、そのようなことは
彼の権限に属するものではない。
ところで、連邦通常裁判所によれば、以上のような、全体的な評価に基づく具体的事案における因果関係の認定は、
当該物質の〈一般的な〉作用性(σq窪①門亀①芝マ訂僧日胃蝕け)に関する言明を含んでいる、ということになる。しかし裁
判官のそうした認定は、自然法則の存在に関して科学的に争われている問題につき決断しているのではなく、単に裁
判官自身の使命を果たしているにすぎないのである。事実審裁判官の使命というものは、科学的に確実な経験則に依
拠することができない場合でも、重要な情況証拠・間接事実のすべてを評価し、現代の認識状況に依拠して具体的事
案を判断するということである。もっとも、科学において一般的に承認されていない方法や認識に依拠する場合には、
裁判官は、論争点の状況を叙述することを通じて、その方法および認識に賛成ないし反対する諸観点の考量が、法的
に誤りなく行われたか否かを、上告審が審査できる状態にしなければならない。原審の判決は、まさにこの要件を充
94叢論律法
足していない、と連邦通常裁判所は断定するのである。
つまり、ラント裁判所刑事部は、木材防腐剤の内容物質は免疫抑制作用をもたらすものだという見解を、Hu教授
の鑑定意見に依拠して採用している。だが、この鑑定意見は、原審自身も指摘しているように、しばしば科学的な批
判に晒されている。したがって、ラント裁判所は、批判者の実質的論拠を再現し、検討すべきであったであろう。
ところが、公判において鑑定人として尋問されたP教授が、Hu教授の鑑定意見につき科学的に基礎づけられてい
ないと指摘したにもかかわらず、ラント裁判所は、P教授によるこうした主張の内容を十分には叙述していないので
ある。T細胞の損傷という作用に関する、P教授とHu教授の見解の相違につき、ラント裁判所は、P教授の見解は
医学的知見に照応しておらず、Hu教授の見解は新たな医学的研究の認識を示すものだ、と主張した。しかしながら、
肝臓学の研究者であるHu教授が、免疫学の研究者であるP教授よりも、免疫学の専門分野についてより新たな認識
を有しているということは自明ではない。
このように、原判決においては、科学的な論争状況についての叙述が適切ではなく、またHu教授の鑑定意見に対
して提出された疑問についての検討が不十分であることから、連邦通常裁判所は、この鑑定意見の証拠価値が過大評
価されてしまったのではないか、という懸念をどうしても払拭することができない、と判示するのである。
(3)検察官の上告
検察官が争ったのは、
合とした点である。
ラント裁判所が故意犯の成立を否定し、被告人を過失傷害罪と過失毒物漏出罪との観念的競
一一Y事手続における因果関係の証明
ところで、被告人二名の罪責が問われたのは、一九七八年以後も、室内で使用される木材防腐剤を製造し、販売し
たという点と、すでに引き渡されていた製造物の回収をせず、これを使用していた消費者に警告しなかったという点
である。ラント裁判所は、過失の罪責を次のように基礎づけている。すなわち、低い毒性レヴェルにある物質であっ
ても、長期間にわたり露出されれば危険ではないかとの不安感を抱かねばならなかったし、危険性を認識し得るよう
社内の研究体制を整備すべきであった。しかし、被告人は木材防腐剤の安全性につき疑いを抱いておらず、故意は証
明されない。
被告人は、当該木材防腐剤からは健康障害が生じないことを確信していたのである。それ故、被告人の罪責が問わ
れるとしても、知的要素の面からも、また意思的要素の面からも、未必の故意ではなく認識なき過失の限度において
である。その限りで検察官の上告は理由なきものとして退けられたのである。
(1)
(2)
(3)
連邦通常裁判所の木材防腐剤事件一九九五年八月二日判決については、2臼≦お㊤9QQb⑩ωO節ZQQけNH㊤㊤μQ。U㊤O卑引≦一゜。霞㊤
μり⑩∬QQ°ωOω中一匂NHり㊤9QQ°。。H㏄中を参照。なお、差戻し後に、ラント裁判所が上告審(BGH)の法律見解に基づきいかに
判断するかという問題が、依然として残されている。
フランクフルト・ラント裁判所の判決とそれに至る経過については、増田「刑事手続における一般的因果性の証明とディ
アロギッシュな原理としての自由心証主義H」二五頁以下脚注(4)を参照。
ドイツ刑訴法によれば、上告理由は「法令違反」のみであるが、運用上、事実誤認の救済の途も拓かれている。しかし、こ
うした運用を正当化するための解釈論については、一種のカオス状況が生じており、立法論的な解決が望まれている。これ
らの問題点につき、光藤景鮫「紹介・ペーター・リース〈裁判官の自由心証に対する審査可能性についてV」摂南法学一六号
別冊(一九九六年)一九七頁以下が明快である。
95
96
二 因果関係の証明
叢論律法
木材防腐剤事件に関する、連邦通常裁判所の一九九五年入月二日判決は、結論においては被告人二名の者の主張を
受け入れて、当該木材防腐剤と被害者の健康障害との因果関係を否定し、さらに検察の主張を退けるものであった。し
かしながら、それは、因果関係の証明問題一般に関しては、従来からの裁判所の基本戦略、すなわちサリドマイド事
件におけるアーヘン・ラント裁判所の基本戦略、並びに皮革スプレー事件における連邦通常裁判所の基本戦略を変更
するのではなく、むしろこれを踏襲し、発展させるものであった。その基本戦略は、あらまし次のようなものである。
事実審裁判官は、確実な科学的認識、確立された自然法則に拘束されるものであり、その範囲においては自由を有
しない。しかし、自然科学が法則性にまで高めているような、確実な経験則を見出していない場合には、裁判官は、
〈矯わビボ解撫浄ル耽利識益ビVの原則に従って因果関係の存在を否定しなければならないわけではない。むしろ、自然
科学が法則性につき確信を抱いていない場合には、裁判官には自由心証により因果関係の存在を肯定する余地が残さ
れているのである。
しかし、こうした基本戦略が正当なものであるか否かは、因果関係の証明問題をめぐる決定的な論争点であり、連
邦通常裁判所の木材防腐剤判決との関わりで徹底的な検討が必要とされている。この判決については、すでにフォル
(1∀
ク、プッペ、シュミット・ザルツァー、ホイヤーらも論評ないしは論及している。そこで、われわれもこの議論に積
極的に参加することを通じて論争点に迫ってみたいと思う。
(1)争われている一般的因果性(因果法則)の認定
一一Y事手続における因果関係の証明97
連邦通常裁判所の見解によれば、=疋の因果関係の存否が自然科学において争われている場合、確かに裁判官は、自
然科学の固有の方法を用いて因果法則を発見(あるいは反駁)することはできないが、当該科学の現況と情況証拠・
間接事実とを全体的に評価して、因果関係の存在を肯定(ないし否定)し得るものである。しかもこうした認定は、
裁判官の使命であり、自然科学者に代わって普遍的な因果法則を確定するものではない、ということになる。しかし、
個別事案において下された因果関係が存在するとの判定は、当該物質の〈一般的〉作用性、すなわち〈一般的〉因果
性に関する言明を含んでいる、とも指摘されている。こうした叙述は、裁判官は当該自然科学に妥当するような△
般的V因果性を確立することはできないが、少なくとも当該事案に妥当するような〈一般的〉因果性を、訴訟法に予
定された証拠方法を用いて認定し得るものである、ということを主張するものであろう。
(2)
ところで、エンギッシュの研究以来、個別事案における〈具体的・単称的な〉因果関係の存否を判断するためには、
〈一般的〉因果性(因果法則)の存在が必要不可欠な前提となる、とする見解がドイツでは支配的なものとなってい
る。それでは、木材防腐剤事件においては、〈一般的〉因果性の存否が問題視されているのであろうか、それとも〈具
体的・個別的・単称的〉因果性の存否のみが問われているのであろうか。まずは、この問題について考えてみること
が必要であろう。
(3)
この点についてクーレンは、]方において、木材防腐剤事件では個別事案における因果性が問題なのではなく、そも
そも一定の木材防腐剤との接触が=疋の健康障害を惹き起こしたのではないか、という〈一般的〉問題が未解決であ
98叢論律法
る、と指摘している。しかし他方では、一般的因果性あるいは具体的因果性のいずれが問題であるかは、一般的法則
言明をいかに定式化するかに依存することになるのであって、例えば、木材防腐剤に含まれている有害物質を原因と
看倣す場合には、一般的因果性は確立されており、個別的因果性の問題だけが残ることになる、とも述べているので
(4)
ある。またヴォーラースは、木材防腐剤事件においては、当該木材防腐剤に含まれているPCPとリンダンとが、健
康障害をもたらし得る強い毒性を有しているという点については争いがないのだから、そこでは一般的因果性の存在
については疑いはなく、ただ具体的因果性の存否のみが問題にされているのではないか、と主張している。
もっとも、確かに、当該木材防腐剤の内容物質である、PCPとリンダンとが強い毒性を有していることについて
は争われていないため、サリドマイド事件や皮革スプレー事件の場合とは異なり、そこでは一般的因果性の妥当性に
ついては全く問題がないかのようにも思われる。しかし、危険物あるいは毒物であっても、それがいかに使用される
かによって、生ずる結果は異なるものである。
例えば、都市ガスに火をつけて湯を沸かす場合には、何ら危険ではなく、通常、不幸な結果は生じないであろうが、
これに火をつけずに室内に放出した場合には、不幸な結果が生じ得るものである。あるいは、拳銃を空に向けて発砲
するのは危険ではないが、人に向けて発砲するのは危険である。それ故、危険物、毒物の一般的因果性も、その「使
用の態様」と無関係に論ずることはできないであろう。したがってまた、PCPとリンダンの一般的な強い毒性が周
知のことであるとしても、〈低い毒性レヴェルにある当該物質が長期間にわたり室内で露出された場合に、居住者に当
該健康障害が生ずるものであるか否か〉は、やはり一般的因果性の問題といえるのではなかろうか。まさにこの意味
における一般的因果性について、自然科学者の間に見解の一致が認められていないという状況が、木材防腐剤事件に
おいては存在したのであったと考えられる。
十刑事手続における因果関係の証明99
それでは、以上のような意味における一般的因果性につき、自然科学者の間ではその存否が争われているにもかか
わらず、裁判官はその存否の判断を下す権能を有するものであるか、あるいはそうした判断は、裁判官の自由心証に
服するものであるかが問題とされなければならない。この点につき学説においては、自然科学において争われている
一般的因果性の存否を判断する権能は裁判官には帰属しないとする見解(アルミン・カウフマン、マイヴァルト)、そ
の存否の判断は裁判官の自由心証の対象であるとする見解(クーレン)、自由心証の対象ではないが、鑑定人の意見を
(5)
参考にして一定の法則仮説を受容し得るとする見解(プッペ)などが主張されている。
前述したように、この点について連邦通常裁判所は、事実審裁判官には、自然科学者に代わって自然科学の方法を用
いて、普遍的な自然法則を確定する権能は存在しないけれども、訴訟法が予定している証拠方法を用いて、具体的事
案における因果関係を認定する権能は認められるのであって、こうした具体的因果性についての認定には、〈一般的〉
作用性に関する言明(一般的因果性)が含まれている、と主張するのである。
(6)
こうした連邦通常裁判所の見解に対して、プッペは次のような批判を展開している。すなわち、連邦通常裁判所が、
裁判官は因果法則の妥当性を暗に肯定せずに、個別事案における因果性(個別的因果性)を証拠・事実の全体的評価
に基づき認定することができる、と考えているとすれば、それは幻想に惑わされているものである。また、個別事案
における因果性の認定には、自然法則の妥当性についての決定が含まれているとすれば、因果性という概念は、自然
法則の存在に依存せずに規定し得るのでなければならない。そうであるとすると、自然法則は、個別事案における因
果関係が存在したか否かについての「徴愚」の機能を、せいぜい有するにすぎないことになる。
しかし、このように、因果法則に具体的因果性を認定するための「徴愚機能」だけを与える、連邦通常裁判所の見
解においては、一般的因果性は、因果関係の存在根拠ではなく、単なる認識根拠にすぎず、したがってそれは、主要
100叢論律法
事実ではなく、間接事実にすぎないことになってしまう。プッペは、〈一般的な因果法則なくしては、個別事案におけ
る条件関係を認定することはできない〉とするエンギッシュの洞察を退けることができない限りで、因果法則は因果
関係の構成要素であり、訴訟においては主要事実になる、と・王張するのである。
ところが、プッペによれば、因果法則の妥当性の問題は自由心証の対象ではないけれども、当該因果法則仮説が争
インドゥビオプロレオ
われている場合に、裁判官は、〈疑わしきは被告人の利益に〉の原則に従って因果法則の存在を否定しなければならな
いわけではなく、むしろ職権により事実問題を決定する権能を有することになるのである。もっとも、連邦通常裁判
所が考えたように、裁判官は個別事案の諸事情の全体的評価を通じて因果法則の妥当性を判断することができるのだ、
ということまでプッペは主張するのではない。裁判官はただ単に、鑑定人によって提出された根拠が、因果法則の受
容にとって十分であるか否かだけを決定しなければならない、ということがそこにおいて主張されているのである。
こうしたプッペの主張には、矛盾が生じているように思われる。いかなる法則仮説を受容するかにつき、一方では
科学的方法を用いることはできず、他方では訴訟法に予定された証拠方法も存しないとすると、一体裁判官は、いか
にして争われている法則仮説のうちから、=疋のものを正統なものとして受容するのであろうか。プッペは、裁判官
は当該科学において主張されている代表的な学説に従わなければならない、と主張しているが、それでは代表的な学
説が複数存在する場合には(例えば、プッペ自身も指摘しているように、心理学や精神医学では伝統的に種々の学派
が認められるため、責任能力の有無に関する鑑定などにつき学説の対立が生じ得る)、裁判官はそれらのうちのいかな
る学説に従うべきなのであろうか。結局、プッペの提案は袋小路に迷い込んでしまうことになるであろう。
そこで、事実問題としての一般的因果性の認定問題は、やはり裁判官による自由心証の対象と考えなければならな
いであろう。確かに裁判官は、連邦通常裁判所も指摘したように、自然科学者に代わって科学の固有の方法を用いて
一一Y事手続における因果関係の証明101
因果法則を発見し、確立し得るものではない。けれども、若干の科学的知識を有し、理性的な判断力を備えている者
であれば、たとえ専門科学者でなくとも、例えば、=疋の鑑定人の意見が加害企業の利益を図るために導き出された
ものであるとか、逆に鑑定人が被告人に対して強い偏見を抱いているとか、あるいは鑑定人の実験方法が通常の科学
的方法から不当に逸脱しているとかといった理由で、当該鑑定意見は明らかに信頼できないという判断を下すことも
可能なのではないだろうか。さらには、一般的因果性の存在を推認させる多数の情況証拠のネットワークにより、そ
の存在を確信することができるような場合も考えられるであろう。
このように裁判官が〈メタレヴェルから〉一定の鑑定意見を退け、〈相互主観的〉合理性を有する一定の法則仮説を
受容することは、まさに自由心証によって実現されるものと考えられる。むろん、いずれの仮説が妥当なものである
(7) インドゥビオブ。レオ
かにつき、〈相互主観的な〉確信を抱くことができないときは、〈疑わしきは被告人の利益に〉の原則に従って、一般
的因果性の存在を否定しなければならないのである。
(2)消去手続(反証手続)の当否
前述したように、連邦通常裁判所によると、当該木材防腐剤と被害者の健康障害との因果関係の証明は、その内容
物質が人間の有機体にいかに作用するかが自然科学上解明されることによって、あるいは想定し得る他の原因のすべ
てが枚挙され、完全に消去されることによってだけ実現されるのではない。むしろ、その証明は、他の原因の消去が
完全ではなくとも、自然科学的な認識と情況証拠・間接事実との全体的評価に基づき、少なくとも当該木材防腐剤の
共同原因性が、疑いないものと判断されることによっても実現されることになるのである。
102叢論律法
(8)
こうした連邦通常裁判所の見解に関連して、プッペは、合法則的条件理論と(因果関係認定のための)代替原因の消
去手続とは両立し得ないものであることを示唆しつつ、次のように主張している。すなわち、因果関係を一般的に合法
則的条件関係として理解している論者が、同時に作用因(ぐく一円】hd「円の㊤Oげ①)ないしは作用関係の概念を、代替原因の消去
の問題の中に見出しているのは、混乱を招くものである。代替原因も、結果発生に対する合法則的な条件であり、ただ
代替原因は結果を現実に惹起しなかったという点において原因、いわゆる作用因から区別されるべきものである、と。
しかしながら、だとすると、現実の原因と代替原因とをいかなる基準ないしは手続によって区別すべきなのであろ
うか。想定し得る原因仮説の中から、=疋のものを真正の原因として認定するためには、補助的な経験則やスキーマ・
背景的知識のネットワークに基づき、不合理な仮説を〈帰謬法的に〉消去することが必要となるであろう。プッペの
主張は、その限りにおいてあやふやで中途半端なものに終わっているように思われる。
(9)
また、クラウス・フォルクは、一定の要因が結果に対して因果的であったか否かという問題を、〈考慮に値する〉他
の原因を消去することによってだけ解決しようとする消去手続(反証手続)に対して、それは、因果関係のく概念中
立的なV「証明方法」の変更にとどまらず、むしろ因果性の「概念」そのものの修正をもたらすことになってしまうと
して、手厳しい批判を展開している。
つまり、連邦通常裁判所の見解においては、ある条件が合法則的に結果と結びつけられている、という「検証」がう
まくいかない場合には、尤もらしい競合仮説、すなわち〈考慮に値する〉他の原因仮説の「反証」で十分であるという
ことになる。そこでは想定し得る原因仮説のすべてが検討され、反駁される必要はないため、証明される因果関係も
所詮〈考慮に値する〉もの、したがってく可能的なVものにとどまってしまうことになる。こうして消去手続により、
(10)
実体的な(実体法的な)因果性概念の内実は合法則性から(統計的な)蓋然性ないしは納得性に変質してしまい、さ
一一一一一o刑事手続における因果関係の証明103
らには結果犯は抽象的危険犯と化してしまうという帰結がもたらされることになる、とフォルクは指摘するのである。
さらに、複数の原因あるいは共同原因が問題になるとき、消去手続は使用困難なものとなる、ということも指摘さ
れる。例えば、アマルガムを(歯などに)充愼している人にも、当該健康障害と同様の症状が生ずるという仮説を想
定し得るものであるとすると、仮にアマルガムを充填している人達が木材防腐剤の露出に晒されているという場合に
は、二つの危険が重畳的に作用し、相互に強化し合うのか、それとも代替原因であるアマルガムも消去されず、相互
に排除し合うものであるかが判明しないことになる、というのである。
こうして、競合仮説の反証を課題とする消去手続は、主要事実である因果関係を証明できず、したがって自然科学
的な証明の代用品にされてはならないし、これにはせいぜい「補助機能」が帰属するにすぎない、とフォルクは断定
するのである。
さて、以上のような消去手続に対する批判は果たして妥当なものであろうか。慎重な検討が必要とされているよう
に思われる。まず、フォルクは、科学的手続としての合法則的条件理論と消去手続とを対置し、その固有の方法とし
て前者には「検証」、後者には「反証」が用いられるものとし、あたかも消去手続・反証手続・批判的方法は、非科
学的な方法を用いる証明法であるかのような捉え方をしている。しかしながら、「反証手続」(批判的方法、消去法と
しての試行錯誤法)に科学論における市民権を与えた、ポパーの「反証主義」(批判的合理主義)を持ち出すまでもな
く、検証は科学的であるが、反証は非科学的であるとするテーゼなど、今日の科学論において主張されているわけで
はないし、その限りでフォルクの主張の前提は確かなものではないのである。
その上、フォルクは、合法則的条件公式と消去手続とは相反するものであると理解しているようではあるが、そう
した理解を前提とすることも、例えばクーレンやイェシェックーーヴァイゲントらも指摘しているように、不当なもの
104叢論律法
(11)
であると考えられる。確かに消去手続は、必要条件公式(コンディチオ公式)と結びつけられており、通常、合法則
的条件公式と必要条件公式とは対置されている。だが、合法則的条件公式の適用においても、消去手続は必要不可欠
(12)
であり、さらにわたくしが提案しているように、二つの公式は、「前向き推論」と「後ろ向き推論」とを併用する「双
方向推論」を実現するものとして統合されるべきものである。その点においても、フォルクの主張を受け入れること
はできない。以上のことは、また次のような用例によって具体的に示すことができる。
例えば、〈AとBとがそれぞれ独自に、ほぼ同時に至近距離からCの心臓めがけて拳銃を発砲し、その直後にCが死
亡した〉という用例について考えてみよう。
この場合、AもBも、少なくとも抽象的なレヴェルにおいて考察する限り、人間の死の結果をもたらし得る合法則
的な条件を設定したものであるといえる。何故ならば、至近距離から人の心臓に向けて拳銃を発砲する行為は、さら
に一定の付帯条件(背景的条件)が完全に充足される限り(したがって、十分条件・初期条件が充足される限り)、人
の死の結果を合法則的にもたらすことになるからである。
もっとも、Aの行為もBの行為も、共にCの死の結果に対して常に原因になるわけではない。例えば、死亡したC
の心臓から発見された弾丸の形状が、Aの所持していた拳銃に残された弾丸の形状とは一致せず、Bの所持していた
拳銃に残された弾丸の形状と一致する場合には、通常(A、B以外にCに対して発砲した者がいない限り)、Bの行為
はCの死の結果に対する原因ではあるが、Aの行為はその原因ではないということになるであろう(Aの行為につい
ては、結局付帯的条件が完全には充足されなかったことになる)。
このように、たとえ〈一般的〉因果性が確定されていても、蝶の羽ばたき一つで天候が変わってしまうという、例
(13)
の「バタフライ効果」(9詳①円身①瀬g)の話を持ち出すまでもなく、実験室における理想的な事例は別として、すべ
一一Y事手続における因果関係の証明105
ての背景的な初期条件を完全に記述し尽くすことは困難であるから、純論理的な操作のみによって、〈一般的〉因果性
に〈個別的〉因果性が言葉の厳密な意味において「包摂」されるというようなことはないであろう。その限りで、「純
粋な包摂モデル」は採用し得ないものであると思われる。先の用例においては、Bの行為が真正の原因であり、Aの
行為は〈考慮に値する〉原因の候補であるが消去されるということは、まさに〈帰謬法的・背理法的な〉反証手続を
通じて初めて明らかにされることになるのである。
また、前述したように、フォルクは、双方の条件が強化し合うのか、それとも排除し合うのかが判明しない場合が
あるということを理由に、消去手続に対して異論を提出している。だが、そのような場合があるということは、消去
手続自体に帰せられるべき問題性ではない。いずれが原因であるかが特定されない場合があるということは、人間の
ノン リケット イ ン ド ゥ ビ オ ブ ロ レ オ
認識能力の限界に関わる問題であり、いずれにせよ「真偽不明」であれば、〈疑わしきは被告人の利益にVの原則が適
用されなければならないであろう。
そもそも、一定の結果が生じるためには、単一の条件では十分ではなく、常に複数の条件(背景的条件)が共同的・
重畳的に作用するのであって、その意味において、因果関係というものは常に〈共同的・重畳的・複合的な〉もので
(14)
あり、〈複雑な〉ものである。
例えば、全く同じ食品を食べても、食中毒症状を起こす者とそうでない者とがいる場合、食中毒という結果に対す
る条件は、「当該食品を食べたこと」のほかに、「体調が万全ではなかったこと」(抵抗力がなかったこと、体質)など
もその〈背景的〉条件となるであろう。しかしだからといって、この場合に「当該食品を食べたこと」が食中毒の条
件であり、原因であるということは否定されない。
その限りにおいて、共同原因が問題になる場合に、消去手続の使用が困難になるという理由は必ずしも説得的なも
106叢論律法
のではないであろう。ただ刑法においては、人間が設定した、しかも構成要件に該当する(実行行為性を有する)行
為だけが、(単なる背景的条件とは区別された)「原因」として問題になり得るのである(例えば、放火行為により家
屋が焼損した場A口、「放火行為」は焼損の「原因」であるが、放火当時に「酸素が存在したこと」は必要条件ではあっ
ても、単なる「付帯的な背景的条件」である)。
さらに、前述したように、〈考慮に値する(尤もらしい)〉原因仮説のみの消去で満足することは、証明手続自体が
不完全なものとなってしまうとして、そうした消去手続に対してフォルクは攻撃を加えている。しかしながら、数学
的な「帰謬法・背理法」とは異なり、レトリックと結びつく法律学における「帰謬法・背理法」においては、純論理的
に思考可能なすべての競合仮説の反証・消去が問われるのではなく、「具体的な手掛かり」が存在する、〈考慮に値す
る(尤もらしい)〉競合仮説の反証だけを問題とすれば十分であろう。エンギッシュも〈帰謬法的な〉証明方法との関
(15)
連で指摘したように、奇跡のような純粋に抽象的な可能性、極端な偶然は法律学的な証明にとっては問題とならない
から、競合仮説もそうした観点から当然に一定のものに制限されることになるのである。わたくしには、フォルクの
主張は非常に硬直的なものに感じられてならない。
ともあれ、〈具体的な手掛かりの存在する、考慮に値する(尤もらしい)v競合仮説のすべてが、十分に反証され、消
去されれば、そうした〈帰謬法的な〉消去手続は、絶対的な真実の探求を使命とするのではなく、〈相互主観的な〉訴
訟的真実で満足する法律学(刑事手続)の言語ゲーム(スキーマゲーム)11物語においては、完全な(十分な)もの
と考えて差し支えないであろう。
(3)情況証拠による因果関係の証明
一一Y事手続における因果関係の証明107
フランクフルト・ラント裁判所は、当該木材防腐剤と木材防腐剤シンドロームとの因果関係の存在を、一定の鑑定
人の意見と=疋の情況証拠・間接事実とに基づき認定したのであった。また、連邦通常裁判所も、Hu教授の鑑定結
果を過大評価したという点で原判決を破棄したものの、事実審裁判官は鑑定人の意見と情況証拠・間接事実とを全体
的に評価して、因果関係を認定し得るものである、ということについては是認したのである。そこで、情況証拠によ
る因果関係の認定をめぐる問題についても、検討しておくことが必要であろう。
さて、情況証拠による証明は、いかなる因果性を証明することになるのであろうか。すなわち、それによって〈具
体的・個別的・単称的〉因果性だけが証明されるのか、それともく一般的V因果性も証明されるのであろうか。この
(16)
点につきシュミット・ザルツァーによれば、ラント裁判所は〈一般的〉因果性を鑑定人Hu教授の意見に基づいて肯
定したが、個々の被害者の発病が木材防腐剤の使用の結果であった、という〈個別的〉因果性については、情況証拠.
間接事実の全体的な評価に基づき認定したのである、と指摘されている。
もっとも、連邦通常裁判所は、前述したとおり、事実審裁判官は現代の科学の認識状況に依拠し、重要な情況証拠・
間接事実のすべてを評価して旦ハ体的事案を判断しなければならず、こうした全体的な評価により具体的事案につき下
された判定は、当該物質のく一般的なV作用性(すなわち一般的因果性)に関する言明を含んでいる、と述べている
のである。こうした論述からすると、情況証拠による証明は、単に〈個別的〉因果性の認定にとどまらず、〈一般的〉
因果性の認定のためにも役立てられている、というように理解する余地もあるのではないかと考えられる。
108叢論律法
現に、ラント裁判所が認定した間接事実は、個々の事例そのものに固有な特性にのみ関わるものではなく、多数の事
例に共通する類型的な性格に関わっている。例えば、〈木材防腐剤が塗られた室内に居住した多数の者に、木材防腐剤
シンドロームと呼ばれる症状が同じように生じた〉といった事実が、問題とされているのである。これは、同じ状況
にある者であれば、同じような症状が生ずるであろう、ということを推認させる事実でもあるといえよう。したがっ
て、そこでは、まさに木材防腐剤の=疋の使用が=疋の健康障害をもたらすものである、という}般的因果性の認定
(17)
に関わる情況証拠による証明が問題にされている、と考えられるであろう。
およそ経験則なるものは、本来多数の個別事案から帰納的ないしは発見的に獲得されるものである以上、多数の事
案につき同様の経過がみられる事実が認定されるとき、そのこと自体が、=疋の経験則、したがって因果法則の妥当性
を推認させる情況証拠となり得るのではなかろうか。とりわけ、当該木材防腐剤に含まれている、PCPとリンダン
とが強い毒性を有する物質であるということが周知のことであるならば、たとえ低い毒性レヴェルの状態にあるとは
いえ、当該木材防腐剤が塗られた室内で、長期間にわたり居住していた多数の者に、同様の健康障害が生じたという
こと、並びにそこから転居した多数の老に症状の改善がみられたということは、〈そのような仕方で当該木材防腐剤が
使用されたときは、健康障害が生ずる〉という一般的因果性にとって、有力な情況証拠となり得るものであろう。そ
こでは、一般的因果性の妥当性を評価するために、J・S・ミルの「一致法」や「差異法」等に対応するような方法が
(18)
用いられているのである。
ミルの「一致法」といわれるものは、=疋の結果が生じた複数の事例につき共通する事情が認められるとき、その
事情の存在を原因と考える推論法である。例えば、A、B、Cが三人で一緒に食事をし、Aは食品a、b、cを、Bは
a、d、eを、Cはa、f、9を食べたとする。その結果、A、B、Cに食中毒の症状があらわれた場合、A、B、C
一一Y事手続における因果関係の証明109
が共に口にした食品aがその原因であると推論することができるであろう。このような場合に、「一致法」が問題とな
るのである。
また、「差異法」といわれるものは、一定の結果が生じた事例の場合に存在した事情が、当該結果が生じなかった事
例の場合には存在しなかったとき、その事情の存在が原因であるとするような推論法である。例えば、A、B、Cが
食事をし、AとBはx、yの食品を食べ、Cはx、yのほかに食品zをも食べたとする。その結果、Cは食中毒になっ
たが、AとBは無事であったという場合、zを食べなかったAとBは食中毒にならず、これを食べたCは食中毒になっ
たことから、食中毒の原因は「zを食べたこと」であると推認し得るであろう。これが「差異法」である。
そこで、当該木材防腐剤の塗られた室内に居住した多数の者に、=疋の健康障害(木材防腐剤シンドローム)が生
じたことから、当該木材防腐剤の使用が健康障害の原因であると推論するのは、まさに「一致法」を用いることを意
味している。また、生活様式が同様であるにもかかわらず、当該木材防腐剤が塗られていない住居に居住する者には、
健康障害(木材防腐剤シンドローム)が生じないのに、これが塗られている住居に居住する者には健康障害が生じ、あ
るいはそうした住居に入居する前には健康であった居住者が、入居後に木材防腐剤シンドロームに罹患したというこ
と、およびそうした住居から転居したり、室内から当該木材防腐剤を除去したような場合には、健康状態の改善がみ
られたということから、当該木材防腐剤の存在が、健康障害(木材防腐剤シンドローム)の原因であると推論するの
は、一種の「差異法」に基づくものであろう。
こうして、ラント裁判所は、鑑定人Hu教授(およびW教授)の鑑定意見にのみ基づいて 般的因果性を肯定したの
ではなく、多数の個別事案の観察から帰納・推理された認識をも踏まえてこれを肯定したのである、と考えるべきであ
ろう。このように、一定の一般的因果性の妥当性が当該専門科学において争われているとき、裁判官が処理し得る情況
110叢論律法
証拠は、その妥当性の判断につき有力な論拠となり得るものである。しかしながら、その証明力についての過度の信頼
は判断の誤りを招来することにもなりかねないので、情況証拠については、慎重な取り扱いが必要とされるであろう。
ところで、情況証拠の証明力を判断するに当たっては、単なる時間的な(規則的)連続性を過大評価してはならな
い、という点につき注意すべきである。このことを明確にするために、ここでは次のような用例を挙げておこう。
例えば、ある者が、外出する際に右足から玄関を踏み出すときはいつも良からぬことが起こるので、「良からぬこ
と」の原因を「右足から踏み出すこと」と考えたとしたならば、それは明らかに〈これの後に、だからこそ、これの故
に〉(》8けプoo曾σqo窟o喜Φ同げoo)の虚偽を犯すことになるであろう。そこでは、単なる「偶然の一致」が問題になっ
ているにすぎないのである(ジンクスの類は、大体「偶然の一致」から生ずるものである)。
あるいは、自動車の運転手が右折する際には必ず右ウインカーを出す場合にも、「右ウインカーを出すこと」が、「車
が右折すること」(車体が右に移動すること)の原因になるわけではない。現に、右ウインカーを出しただけで車体が
右に移動するようなことはない。もっとも、運転手が右ウインカーを出す場合には、その後に右折するという「高度
の蓋然性」が認められる。しかしこれは、運転手がただ交通規則を遵守しているということを意味しているにすぎな
いのである(むろん、交通規則は因果法則ではない)。
さらに、古典的な用例を挙げておこう。古代中国では、月食は龍が月を飲み込むことによって起こるものだと信じ
られていたそうである。そこで、人々は、爆竹をならして龍を驚かせ、月を吐き出させようとしたのである。人々の
そうした企ては、常に(確率的には百パーセント確実に)成功した。つまり、月は、人々が爆竹をならした後には必
ず再び現れたのである。その結果、人々は、「爆竹をならすこと」と「月が現れること」との間には因果関係が存在す
る、と帰結したのである。しかしこうした帰結は、まさに「〈これの後に〉(℃o珍『o。)と〈これの故に〉(鷲o喜頸げo。)
一刑事手続における因果関係の証明111
とを混同する虚偽Lを犯すものである(迷信の類は、大体この虚偽を犯した結果生まれるものであろう)。
これらの用例が物語っているとおり、時間的な前後関係を示す規則性から単純に原因を特定することはできないと
いうことが明らかである。しかし、次のような用例についても考えておくことが必要であろう。
例えば、質の悪い風邪を引いた者が、ある風邪薬を服用したところ忽ち治癒したという場合には、ひとは服用した
薬が効いたのではないかと考えるであろう。しかし、実際には、自然的に(その者の免疫力によって)治癒した可能
性も十分想定し得るものである。もっとも、先の用例とは異なり、風邪薬が効いた可能性(治癒の原因である可能性)
も否定されず、それを服用した後に風邪が治癒したということは、その薬が効いたということに対する決定的な証拠
ではないが、有力な情況証拠の一つとなるであろう。一般に風邪薬が風邪に効くことがあるということは、科学的経
験則以前にわれわれの日常的な経験則からは明らかなことである。したがって、時間的連続性を有する先行事実が結
果に対する原因であるか否かの証明にとっても、「背景的知識」が重要な意味を有することになるのである。
そこで、PCPとリンダンに強い毒性があるということが「背景的知識」として周知のことであり、たとえ低い毒
性レヴェルにあるとはいえ、それらを含んだ木材防腐剤に長期間にわたって接触する環境にいた多数の者に、一定の
健康障害が生じたという事実、並びに木材防腐剤を除去すると健康状態の改善がみられたという事実が、当該木材防
腐剤の、そうした使用に関する一般的因果性の妥当性を肯定する有力な情況証拠となる、ということは否定されない
であろう。
ともあれ、裁判官が情況証拠のネットワークの証明力をも踏まえて、合理的な疑いをいれない、〈相互主観的なV確
信に至れば、一般的因果性は証明されたことになるといえよう。
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112叢論律法
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ミoミ零漁Ω①昌①お=①閑9βω巴ま警巴。。℃『〇三①日ユoげけ①島oげ霞dげ㊦福①=鵬q昌鵯げ目αロ昌αq”臼虞ωド89QQ臼O悼Oh
学説の状況については、、増田「刑事手続における一般的因果性の証明とディアロギッシュな原理としての自由心証主義」、
同「刑事手続における一般的因果性の証明とディアロギッシュな原理としての自由心証主義11」を参照。
℃選驚冒9°即○.〕Q。.。。日。。中もっとも、プッペによれば、作用因ないし原因としての動力という概念は、哲学ではとうの昔に克
服されてしまったものであり、またこの概念は、刑法における帰属という課題にとっても有用なものではない、ということ
が指摘されている。つまり、この概念は、とりわけ不作為犯や救助に向けた因果経過の阻止の事案においては、有用ではな
いが、さらに作為による結果惹起に関する多くの事案においても有用ではない、ということになる。例えば、燃えさかって
いる家屋のドアなどを外側から閉鎖する者は、火と煙によって家屋の中にいる人の死を疑いなく惹起するといえるが、この
場A口にその者の行為は、化学的・物理的な動力を設定するものではないからである。<σqピ卸も驚闇費pOこQQ°ω同㊤゜
〈相互主観的〉確信の概念については、増田「刑事手続における裁判官の確信と証明度-相互主観説への助走I」法律論
叢六四巻五・六合併号(一九九二年)五六頁以下を参照。
、虞旭博①”p°pOこQQ°ω日Qo悌
ぎ黄費穿○二GQ油Oco中
確率論的な因果性概念の導入の可否については、調。駕『“穿PρuQ。μα。。中を参照。
クーレンやイェシェックーーヴァイゲントは、因果関係の認定につき合法則的条件公式を採用しながら、消虫手続の妥当性を
認めている。<αqピ映虞ミ①爵PPO.一QD袖N一㍉霧o諏①鼻\ミ.蝕鷺謡鼻り①7『σ目oげ匹霧QQ貯四マ①oげ訂≧一σq①ヨ①ぎ曾頴賞9>駕自」H㊤りP
QQb盾盾fo。
増田「刑事手続における一般的因果性の証明とディアロギッシュな原理としての自由心証主義」一四六頁以下参照。
「バタフライ効果」については、戸田盛和『カオスー混沌のなかの法則』(一九九一年)三四頁、米沢冨美子『複雑さを科
学する』(一九九五年)五〇頁、井上政義『カオスと複雑系の科学』(一九九六年)四九頁、キャスティ(佐々木光俊訳)『複
一一Y事手続における因果関係の証明
(14)
(15)
1716) )
(18)
雑性とパラドックス』(一九九六年) 一二一頁以下などを参照。
例えばムーアマンは、結果に対するすべての条件は相互に重畳的因果性の関係に立つのであって、その限りにおいて重
畳的因果性は決して特殊なものではないと指摘している。<αqrミ齪専§§箒”UδZ①げ㊦暮似け①冨6げ僅津一きQQ霞鑑話o夏“H㊤㊤ω“
oQ°区県 さらに、複合的因果性の概念について、b§鼻①」囚騨⊆$ま鋒ロロユΩ①鶏白算p∬昌㊤㊤ρGQ6悼第を参照。
馬§魯魯詩いoσqδ魯①ωε匹一①昌N母Ω①゜。①訂①゜。9昌≦①巳ρ昌σq”。。°〉口PHΦ①。。響Q。.誤。また、増田「帰謬法としての情況証拠による
証明と実践的三段論法」法律論叢六三巻四・五合併号(}九九一年)一入三頁、同「真実発見のアブダクション的・帰謬法的
構造と故意の目的論的立証」法律論叢六三巻六号(一九九一年)三五頁を参照。
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クーレンも、 一般的因果性を受容するに当たり、情況証拠による証明が重要であることを指摘している。くσqr映醒ミ§》
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ミルの方法については、サモン(山下正男訳)『論理学』一九六七年=一七頁以下、矢島杜夫『ミル「論理学体系」の形成』
(一
繼緕O年)=二〇頁以下、内井惣七『科学哲学入門』(一九九五年)などを参照。本文で挙げた方法のほかに、さらに「一
致差異併用法」、「共変法」、「剰余法」がある。「一致差異併用法」は、その名のとおり一致法と差異法とを結びつけるもので
ある。「共変法」というものは、一方の条件が変化すると、それに伴い他方の条件も変化するとき、その間に因果関係を認め
るような推論法である。例えば、自動車のアクセルを強く踏むと、スピードが増し、踏み方を弱くすると減速する場合、「ア
クセルを強く踏むこと」が「スピードの増加」の原因であるということがわかる。「剰余法」は、ある現象から、これまでの
帰納により一定の前件からの結果であることがすでに判明している部分を取り除いたとき、その現象の残りの部分は、残っ
た前件からの結果である、と推論するものであり、「差異法」の】つの形態とも考えられる。そこで、本文に挙げた差異法の
用例は、剰余法とも結びつくように思われる。すなわち、すでにx、yが食中毒の原因でないということが帰納的に判明し
ているとき、食中毒という結果の原因は、食中毒になったCが口にした食品のうち、xとyとを取り除いて残ったzである
と推論することができるであろう。
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エピローグ
叢論律法
連邦通常裁判所は、木材防腐剤事件につき原判決を破棄したにもかかわらず、当該自然科学において争われている
一般的因果性を自由心証により受容することは、事実審裁判官にとって許容されている、とする従来からの立場を改
めて確認した。同時に、一般的因果性の存否に関する判断に際して、事実審裁判官は自然科学者に代わって普遍的な科
学的法則を確定するのではなく、あくまでも訴訟法が予定している証拠方法により、当該事案に妥当する一般的因果
性を確定し得るものである、ということも明らかにした。また、因果関係の証明にとって、情況証拠の果たす肯定的
(1)
な役割についても是認するに至った。但し、争われている}般的因果性を受容するためには、この一般的因果性の存
在を擁護する鑑定人が予断・偏見を抱いてはいないか、といった点を慎重に吟味するとともに、これに反対する(鑑
定)意見を十分に検討することが必要であるということも明確にした。しかし、まさにこの最後の点が不十分であっ
たために、換言すれば〈相互主観的な〉追証可能性が不十分であったために、原判決は破棄されたのである。
わたくしには、原判決を破棄した連邦通常裁判所の判決の当否について、適切な判断を下すことは可能ではない。し
かし、少なくとも連邦通常裁判所の基本的な立場については、原則的に賛同すべきではないかと思われるのである。そ
の理由は、以下のとおり、裁判官と刑事法(研究者)に課された使命をいかに理解するかという問題に関わっている。
まず、因果性、とりわけ一般的因果性の証明問題は、自然科学の言語ゲームー1物語と刑事手続(法律学)の言語ゲ;
ムー物語とが重なり合い、交差する領域において提出されているが、そこでは自然科学における洞察は、刑事手続に
とっても所与のものとして前提されることになるであろう。しかしながら、そうした前提に反しない限り、裁判官が、
一一ン刊事手続における因果関係の証明
刑事手続の言語ゲームー物語における固有の方法を用いて自由心証により、争われている諸仮説の中から、 一つのも
のを正統なものとして選び出すことは、まさにこの言語ゲームに参加し、この物語に巻き込まれている裁判官の使命
にほかならないのである。もっとも、裁判官がプレーするグラウンド、あるいは演ずる舞台は、刑事手続の言語ゲー
ムー物語の中にしかなく、彼には自然科学の言語ゲームー1物語に参加する資格はない。したがって、そこで確定され
た一般的因果性は、刑事手続の言語ゲームー物語においてのみ通用するものであり、自然科学の言語ゲームー1物語に
おいては普遍妥当性を有するものではないであろう。
次に、われわれを取り巻く環境の急激な変化に伴って生ずる危険な事態に対して、刑事法(研究者)は、沈黙を守
り続けるのではなく、むしろこれに積極的に対処することを、自らに課された使命として重く受け止めることが必要
である、と思われる。むろん、そうした使命を果たすに当たって、伝統的な法治国家的原理が骨抜きにされてはなら
ないが、刑事法に課されたそうした使命と法治国家的原理とをいかに両立させるかという問題、すなわち「法治国家
刑法のパラドックス」ともいうべき問題の解決こそ、刑事法研究者に突きつけられた、困難な現代的課題にほかなら
ないのである。こうした困難な課題に取り組み、その解決のために叡智を傾け、勇気を奮い起こすことがまさに刑事
法研究者に要請されているといえよう。
(1)
因果関係の証明にとって情況証拠の果たす肯定的な役割を是認した点は、
証明Lが認められていることに通じるものであろう。
我が国の刑事判例において因果関係の「疫学的
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