現代の都市・建築のイメージ創造と...

16
現代の都市・建築のイメージ創造と 環境・現象概念 黒石 いずみ キーワード:都市・建築景観のコモディフィケーション、スペクタクル社会、イメージ、 メディア、現象 Keywords:Commodification of urban and architectural environment,Spectacle society,Image, Media, Phenomenon 1.都市景観のコモディフィケーションとスペクタクル社会 米国の著名な都市・建築理論家マイケル・ソルキンは、2006年の末にバンコクで開催されたIASTE 学会で、現代アジアの諸都市に見られる最も重大な問題として、都市と建築のイメージが 資本主義の論理によって商業化されるコモディフィケーションの現象と、社会の情報化が 進んだ結果起きる景観の道具化、すなわちスペクタクル化と呼ばれる現象が進んでいる事 をあげた。そして、それが日本の大都市においてもっとも尖鋭に現れていると述べた。 ソルキンは、日本における八十年代末までのバブル経済が都市部の不動産投機の短期化と 95

Upload: others

Post on 28-Sep-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 現代の都市・建築のイメージ創造と

    環境・現象概念

    黒石 いずみ

    キーワード:都市・建築景観のコモディフィケーション、スペクタクル社会、イメージ、

    メディア、現象

    Keywords:Commodification of urban and architectural environment,Spectacle society,Image,

    Media,Phenomenon

    1.都市景観のコモディフィケーションとスペクタクル社会

    米国の著名な都市・建築理論家マイケル・ソルキンは、2006年の末にバンコクで開催されたIASTE

    学会で、現代アジアの諸都市に見られる最も重大な問題として、都市と建築のイメージが

    資本主義の論理によって商業化されるコモディフィケーションの現象と、社会の情報化が

    進んだ結果起きる景観の道具化、すなわちスペクタクル化と呼ばれる現象が進んでいる事

    をあげた 。そして、それが日本の大都市においてもっとも尖鋭に現れていると述べた。

    ソルキンは、日本における八十年代末までのバブル経済が都市部の不動産投機の短期化と

    ― 95―

  • 過剰な流動化を招き、都市・建築のイメージの商業化と断片化、そしてそれが存在する場

    所に本来備わる歴史的・地域的なコンテクストからの乖離を明らかに示すようになったこ

    と、そして社会に備わっていた景観に対する暗黙の調整機能や規範が失われて、施主と建

    築家の自由な選択と組み合わせにまかされた結果、確固たる参照点を失ったばらばらなイ

    メージの組み合わせが氾濫する状況になったことを指摘した。そしてその状況を、彼はそ

    の著名な都市論『Variations of a Theme Park』を参照して、まさに短期的な投資と娯楽

    の場であるテーマパークが都市に出現したようなものだと説いた 。続けて、彼は1990年

    代に日本のある都市のために自らがデザインしたプロジェクトを紹介したが、それは日本

    の人々がいまだに心に抱いている原爆に対する恐怖心を表現する原子爆弾と、世界に普及

    した日本の現代娯楽文化の代表であるゴジラの形態を組み合わせた、奇妙な高層ビルのデ

    ザインだった。

    興味深いのはこのセンセーショナルなデザインよりも、上記のようなコモディフィケー

    ションとスペクタクル化が進んだ日本の大都市環境問題に対する、ソルキンによる今後の

    解決案である。彼はこれらの問題を克服するためには「アジア的文化」の基盤である農村

    社会の伝統と生活環境を再生することがもっとも有効であり、日本もまた農村社会の時代

    に見られた自然共生型の環境を都市に再現することが必要だと言う。そして建築物の表面

    や屋上階を緑化した環境持続型建築のデザインと、それを中心として水田や河川の水辺空

    間を取り込んだ「農村型」都市デザインを提案した。現在、彼は日本のある地方都市とア

    ジアの幾つかの大都市で同種の都市・建築デザインを実践しているそうである。

    ソルキンの日本の大都市の分析は、日本各地の画一化された都市景観や大都市の過剰な

    商業広告に覆われた建築物が示す、伝統的な文化的基盤や調和感を喪失したかに見える状

    況、短期的な都市構造や建築の建設・破壊、そしてそれを説明する専門家や業者のしばし

    ば抽象的で自己中心的な論理に示された都市や建築思潮の状況をよく説明している。ソル

    キンの提案する環境持続型の都市や建築デザインが環境科学の面からは望ましく、農村社

    会にかつて存在したような共同体意識が現在の都市社会に欠けていることも確かである。

    しかし、農村社会の共同体の意識や生活様式は、その生産活動や歴史的な社会構造に裏付

    けられたものであって、そのような活動も社会基盤も持たない都市社会で復活することは

    表面的なことでしかない。また都市の自然環境問題は重要な事項ではあるが、景観のコモ

    ディフィケーションとスペクタクル社会の問題とは必ずしも同じ次元のものではなく、そ

    れが直接的な解決策になるとは思えない。この問題に本質的に取り組むためにはむしろ、

    ギー・ドウボールらによるメディア社会の議論、特にその様な社会における都市と建築の

    景観に関する新たな考え方や枠組みについて考察することが必要だと思われる 。

    2.三つの問題

    そこで、本論考では都市と建築、そしてメディアの関係について具体的に考えるため

    ― 96―

  • に、三つの問題、すなわち建築と都市、文化の独自性そして建築生産におけるメディアの

    様々な次元の働きと、都市・建築の創造活動の関係について考察したい。ソルキンが挙げ

    た現代の大都市の景観問題は日本にとどまるものではなく、世界中に拡大し、特にアジア

    の諸都市では深刻化している。そしてこのような問題は、近代以降の資本主義進展の結

    果、人々の生活様式や価値観が根本的に変化した結果生まれたものであり、法的規制に

    よって強制的に是正できるものではない。したがって、単に解決すべき負の問題として捉

    えて懐古主義的に農村社会の復活を願うのではなく、むしろその社会の変化の過程で試行

    錯誤されてきたいくつかの都市デザインの試みや、現代の新たな建築創造の試みの中に、

    現代社会に於ける都市と建築の創造活動の新たな意味と可能性を見出す姿勢をもたなけれ

    ばならないと思うのである。

    この三つの問題を取り上げる理由は、それが20世紀初頭の欧米におけるモダニズム建築

    運動において、建築と社会の関係を考える重要なテーマであったにもかかわらず、日本で

    は充分理解され展開されることがなかったからでもある。例えば、建築に於けるモダニズ

    ム運動のリーダーの一人であったフランス人建築家ル・コルビュジェは、自らエスプリ・

    ヌーボー誌の編集にたずさわり、その多くの宣言文を効果的に社会に訴えて議論を巻き起

    こした。そして都市環境と建築の関係、そして建築表現における地域性や文化的独自性の

    問題について様々な論考と作品を残したことで知られている。しかし、日本においては機

    能主義・合理主義といった実践方法に直接結びつくテーマに比して、これらの問題は副次

    的にしか認識されていなかった。

    メディアとして主要な建築雑誌は、第二次世界大戦の前から建築創造に大きな影響力を

    持っていたが、建築家や建築研究者に対する欧米の建築思潮や最新デザインの動向の紹介

    が主たる内容で、長い間建築界の外の人々の関心や価値観から離れていた。また都市計画

    は日本では建築学の部門と分離されて土木行政の一部として行われていたために、僅かな

    事例を除いて建築家が都市空間の公共性を積極的に論じてそのデザインに貢献することは

    なかった。都市や建築造形における文化的独自性に関しては、明治の西洋化政策に従った

    欧米の歴史的な様式導入期から、その後の大戦期や戦後の復興期にかけて、社会的状況に

    応じた様々な視点が存在した。そうして国民主義・地域主義、歴史主義などに則ったユ

    ニークな建築造形が生まれ、伝統的な建築造形の再評価とその現代への応用も、その時代

    ごとに追及された。メタボリズム運動のように、60年代以降は西洋的な建築論理や造形と

    日本のそれらを融合し、後者の文化的独自性を新たな普遍的論理で確立することを目指し

    て、自然の生態論理を建築造形論理として直接造形化することさえなされた。しかし、こ

    れらの事例においては、概して日本建築の文化的独自性は典型的な日本文化の自然との親

    和性を強調する視点から理解されることが多かったと言えよう。都市・建築の領域で、文

    化的独自性の概念そのものがはらむ政治性や社会的基盤について疑問視されることはあま

    りなかったのである。

    バブル期に都市と建築創造の考え方において大きく変化したのは、まさにこの三つの問

    ― 97―

  • 題においてであった。ソルキンが説くように都市の生活環境は統一的イメージ形成が困難

    になり、自然との乖離が深刻化した。一方で、建築家の専門的知識や技術よりも大衆的で

    わかりやすい主題やデザインが重視されるようになり、建築の社会的役割や都市環境への

    影響、市場性の問題が明確化した。また情報社会の進展で生活様式や価値観の多様化が進

    むと共に、新しい価値観と伝統的価値観の相克に個々人が主体的に向き合わなければなら

    なくなった。特に、建築造形の指標として影響力をもっていたモダニズムや日本建築文化

    の独自性といった概念が普遍的なものではなく恣意的なものであること、そしてその現代

    における意味の問題が明らかになったのである。これらは単なる関心の変化や建築形態の

    問題ではなく、都市と建築の考え方の新たな次元への転換と言えよう。このように欧米に

    於けるモダニズム初期とは異なった状況ではあるが、日本において上記のように三つの問

    題は都市や建築デザイン思想の重要な要素して意識されるようになったのであり、そこか

    ら今や新たな建築創造や都市への視点の手がかりが生まれつつあると思うのである。

    ここで具体的なデザインや調査の実践が、現在上記の三つの問題とどのように関連して

    行われているかを考えたい。建築家や都市計画者はそれらの問題に関連してしばしば「現

    象」と言う概念を用いていることに注目し、其々がそれをどのように用いて、実践に適応

    しているかを考察することが有効であると思われる。つまり建築家や都市計画家が都市環

    境における様々な現象をどう捉え、何を見出し、それをどう新たに計画・表現していく

    か、その観察から概念化、具象化へとたどるプロセスを検証し、そのイメージのよりどこ

    ろを考察する。上記の三つの問題がその新たな創造の枠組を再考することにいかに有効で

    あるかを論証しようと思う。

    3.現代日本の建築創造活動における「現象としての建築」という考え方

    3-1.隈研吾

    現代の日本の建築界でもっとも

    活発にデザイン活動を行い、なお

    かつ思想的にも影響力のある若手

    の建築家として、隈研吾と西澤立

    衛が挙げられる。この節では二人

    の建築家がその造形思想としてし

    ばしば言及する「環境、あるいは

    現象としての建築」と言う概

    念について作品を通して論考する。

    隈研吾ほどに多様なスタイルの

    建築造形を生み出している建築家

    は珍しい。しかし彼がその造形を隈研吾設計 M2、東京都

    ― 98―

  • 変化させるたびに、その背後にある思想を意図的に言語化し、著作として公表しているこ

    とから、彼が単なる手先の器用な建築家ではなく、自分の思考と作品の関係を常に客観化

    し批判的な立場で創作活動を行っていることがわかる。その文章からは、彼が自分のおか

    れた社会の状況に対する問題意識を直接建築作品に表現しようとしていること、また言語

    による創造理念の表現や言語による形態的なイメージを、創造の手がかりとして重視して

    いることがわかる。

    最近の論説の中で、隈は自らのデザインの究極の目的が「建築を消すこと」であるこ

    と、そしてそれが作品を都市や自然の環境と出来るだけ一体化するためであることを述べ

    ている 。そしてその思想の軌跡を説明するために、まず出世作であるM2(1989-1991)

    では東京のカオス的な状況に溶け込むように、建築を断片化する事を意図してデザインし

    たと述べる。そして、彼のデザイン観の次の転換点を示す亀老山頂上の展望台(1994)設

    計では、建築を「作品」として表現する代わりに「空虚」として造形し、地中に埋め込ん

    だと言う。それは彼にとって「建築を現象として経験することの可能性」を発見するきっ

    かけになった。さらに、その後の重要なデザインの転換点は、熱海の「水・ガラス」と題

    された住宅(1995)と那須の石の美術館(2000)において発見した「建築を消す」デザイ

    ンであったと説明する。それは、建築の水平要素を強調することで空間の連続性をデザイ

    ンすること、また、石を細分化する新しい工法で自然の素材による形態や空間を「より軽

    く、親しみやすい」ものにする事で可能になったと述べている。このように隈は、建築形

    態や空間の具体的なデザイン手法によって彼の「建築を消すこと」、あるいは「環境とし

    ての建築」を作る意図を説明している。このような彼の問題意識を理解するために、隈の

    東京大学大学院での師である原広司からの影響と、相違点を検討しよう。

    原は世界中の国々を調査し、特に未発展地域に於ける集落・農村や都市部の空間構造と

    住居、建築物の形態を分析した。そして、モダニズム建築運動においては原則視されてい

    た建築空間の合理性や機能性の概念に代わり、「様相としての建築」という理論を提案し

    た 。原は、モダニズム建築運動

    で提案された諸理念は、その経済

    合理性に基づく価値基準や倫理観

    に従った形態表現の側面からのみ

    解釈されるべきではなく、むし

    ろ、その前提となっている全体と

    部分の関係に対する体系的な視点

    や、建築と周囲の環境との関係に

    関する視点が重要だと説く。そし

    て、各地の都市の空間構造や建築

    物の形態に示されている多様性や

    環境との関係のあり方は、合理性 隈研吾設計「水・ガラス」静岡県

    ― 99 ―

  • や機能性の議論によって否定できるものではなく、現代の都市や建築にも持続するべきも

    のだと主張した。そして1970年代から、各地において複層化したファサードや空間を持つ

    作品や、多様な象徴的形態を組み合わせた作品を設計した。モダニズム建築運動で示され

    た彫刻的な建築造形に対抗する、原の部分から全体を捉えようとする視点や人々の経験や

    感受性の多様性を活かそうとする視点、そして周辺の都市環境を積極的にデザインに活か

    す視点は、新たなデザイン思想として影響力を持った。原のこのような問題意識や、「様

    相」という言葉に表現された人間と都市・建築の相互的な関係を重視する姿勢は、明らか

    に隈研吾の「現象としての建築」というデザイン思想に継承されている。

    しかし隈は原とは異なったデザイン概念を積極的に用いている。それは日本建築の文化

    的イメージによって、建築と環境の融合を説明する方法である。例えば、彼は「水・ガラ

    ス」の解説文で、隣接しているドイツ人建築家ブルーノ・タウトによる日向邸を取り上げ

    て説明している 。そしてタウトの著名な桂離宮論を引用し、日本の建築家達が一般に理

    解しているのとは異なり、タウトは桂離宮の造形に見られる幾何学性よりもその様々な部

    分を巡り歩く中で感じ取られる空間的な経験や、建築の内部空間と庭園との融合的な関係

    を、日本建築の美点として評価したのだと述べる。そしてタウトにとっては、西洋の建築

    が一般的に垂直線を重視するのに対して、桂離宮では水平線が重視されていることが重要

    であり、桂離宮の月見縁台が室内と池の水面との連続感を作り出しているところにそれを

    見出したと説明する。隈は、彼のそのようなタウトの日本建築の理解を参考にして、「水・

    ガラス」のデザインでは太平洋と室内空間の連続性を表現するために屋外に水を張ったテ

    ラスを設け、また室内の床と天井の素材を強調し床から天井までを完全なガラスの開口部

    にすることで水平性を表現するという方法で、環境と融合的な日本建築の文化性を再現し

    たと述べている。

    日向邸と隈の作品は太平洋に面した急な崖の敷地に立っている。したがって、両者共に

    太平洋の景観をどう建築空間に取り入れるかがデザイン上重要なテーマであったと思われ

    る。しかしながら日向邸の見学で

    疑問を抱いたことは、タウトはそ

    の太平洋の景観を主たるテーマと

    してデザインしていないのではな

    いかということだった。彼は非常

    に多様な自然の素材を様々な場所

    で用い、踊りやお茶といった日本

    の伝統的な活動のための小さな空

    間をいくつも連続的に配置して、

    それぞれ特徴的なインテリアにな

    るようにデザインした。そして人

    々がそこを通り過ぎる時に、多様ブルーノ・タウト設計「日向邸」静岡県

    ―100―

  • で触覚的な感覚を感じ取るように、伝統的な工法や装飾的な細部の表現に重点を置いてい

    る。このようなタウトの素材や空間的な経験に基づく日本建築文化の理解と、隈の「水・

    ガラス」に表現されたその視覚的に単純化・抽象化された概念的な理解とは根本的に異

    なっているのではないだろうか。隈は最近の代表作である高柳コミュニティセンター

    (2000)、One表参道(2003)、そしてちょっ蔵(2006)で、繰り返し木造建築の格子窓や

    数寄屋造りの空間構成といった典型的要素、そして自然素材の正直な使用方法で日本建築

    文化のイメージを参照している。しかし実際の彼の建築は、日本の伝統的な建造物が気候

    や地域的な条件に耐えるために通常備えていた細部や構法を用いていないのである。

    つまり隈の日本建築文化観は、彼自身の概念的な理解に基づき、それを日本建築文化に

    対する一般の人々によるノスタルジックなイメージや国際的に普及した禅哲学や文学に基

    づくそのイメージを援用して、現代の感性に合わせて実体化したものと言えよう。彼が施

    主や社会の望むどんなイメージの空間も自分は建築化できると言明しているように、隈は

    これらのイメージを具体的にそして戦略的に実現する方法を心得ている。隈は単に日本の

    建築文化を新しい技術によって現代的に表現しているのではなく、むしろ建築の形態やイ

    メージの基盤となる社会的な価値観や象徴的意味、機能、そして技術的常識に対して、そ

    の現代における有効性や必要性を問い直しているのではないだろうか。言い換えれば、彼

    は建築のイメージや形態のコモディフィケーションを逆手にとって、建築の諸原理とされ

    る価値やその造形の存在意味、更には日本建築文化という価値観を別の角度から再解釈

    し、人々や市場にもっとも受け入れられる形で現在の建築創造に活かそうとしていると言

    えよう。

    3-2.西沢立衛

    日本の現代建築デザイン界で、現代の都市環境問題に対して意識的に活動している代表

    的なもう一人の建築家は西沢立衛である。彼は妹島和世と共同で1997年からSANAAとし

    て設計活動を行い、国内・海外で

    数多くの作品を実現し、高い評価

    を受けている。ここでは、彼の最

    新の話題作である森山邸を取り上

    げる。森山邸では大きさとプロ

    ポーションがそれぞれ異なった十

    棟の白い箱が、敷地内に独立して

    建っている。一つには施主の住

    居、もう一つには彼の友人の住

    居、そして六つの貸し部屋と、二

    つの浴室が入っている。一つの部

    屋には一つの機能だけが入ってお 西沢立衛設計「森山邸」東京都

    ―101―

  • り、例えば施主の住居は三層になっているが、階ごとに食事空間、寝室、居間などと分か

    れている。各箱の間にはそれぞれの外部空間が設けられていて、その広さや幅の大小に

    よって庭的に、あるいは通路的に用いられている。森山邸周辺には東京の下町の密集住宅

    地域が広がっており、十棟の箱の配置方法や外部空間の挟まれ方は、その都市構造を転写

    したものだと言われる。つまり、下町に見られる公共空間と私的空間の混在が、森山邸の

    デザインでは意図されていた 。

    各箱の造形は特徴的である。真っ白に塗られた鉄板パネルの箱は凹凸のない幾何学的な

    立体で、通常の建築に備わった庇や開口部周りの水切り、屋根の上の防水壁、そして地面

    と室内の床の高さを隔てる段差も設けられていない。つまり、これらの箱には建築がどう

    作られ、どう風土や地理的条件に適応しているかを示す細部が作られておらず、可能な限

    り透明で、むき出しの単純な造形が追及されている。このような細部の排除というデザイ

    ン手法は、SANAAの他の作品に見られ、建築が前提としてきた重力や気候に対抗する働

    き、物質的な存在感そのものを出来るだけ消し去る事が意図されている。SANAAのプロ

    ジェクトでは、そのような意図が図面表現にも反映されており、通常の建築図面に要求さ

    れる壁や仕上げの構造や寸法等の物体的表現が極度に単純化されて抽象絵画のようになっ

    ている。

    西沢は森山邸における箱の配置は四つの設計条件によるものだと説明している。それは

    (1)異なった大きさの立体がばらばらに建つ。(2)透明で開放的な立体である。(3)外部

    と内部の空間は混ざり合う。そして(4)これらの箱の「ばらばらな規則性」と窓の配置

    は周囲の環境に応じて決定される、というものである。そしてまた、彼は人々の生活の仕

    方や空間の使い方は、その建築を経験する中で自然に定まってくるようなものでなければ

    ならず、この作品では建築と周囲の環境の同化を意図していると言う。西沢は建築のデザ

    インを「構造やプログラムの要求からではなく、機能と建築とが互いに新たに作り合う様

    な仕方で」行うべきだと述べるが、それはSANAAの「構造、仕上げ、空間の分離体に区

    別を設けず、平面、細部、そして素材にヒエラルキーを設けない」というデザイン理念の

    ように、既存の建築デザインで前提とされていた論理や、必要条件や関係から自由になろ

    うとする意図による 。

    このような西沢のデザイン理念は、言い換えると、これまでの建築デザインが前提とし

    てきた人間関係のあり方や価値観、社会的な規範に関する典型的な理解を捨象して、建築

    の物理的条件、人間がそれに対して抱く感覚と行動様式、建築と周囲の環境との関係を、

    すべて新に考え直すことを目指している。それは、人々の生活様式や価値観の急激な変動

    と多様化を考慮したからであり、建築創造の既存の枠組みでは現代社会のそのような状況

    に適応しきれないと判断したからであろう。西沢は施主の人格や生活様式に重点をおいて

    デザインをすることはなく、その日常生活に伴う論理化しきれない現実や人間的な問題に

    拘泥することはない。その結果、彼の「作品としてではなく環境として建築を作る」とい

    うデザイン思想は、建築空間の意味の創造に建築家は関与せず、住人の身体的・感覚的な

    ―102―

  • 適応能力による住みこなし方や周囲の環境そのものに任されていると理解できる。

    西沢のパートナーである妹島和世がデザインを学んだ伊東豊雄は、現代の住宅デザイン

    の歴史的な展開を分析して、それが土地、家族の繋がり、そして施主の身体的な条件から

    自由になることの追求だったと述べた。そして西澤の設計した森山邸を、自らが追い求め

    てきた「新しいリアル」の実現であると評価した 。伊東の言う「新しいリアル」の意味

    と、その西澤や妹島への影響を理解するために、日本の近・現代建築史における住宅設計

    の意味を考えてみよう。

    第二次世界大戦後、日本の建築家達は大量の小規模住宅を最小限のコストで建設し、社

    会と人々の生活様式の近代化に貢献した。つまり、住宅デザインは人々の生活様式や社会

    的な価値観・倫理観を、身近で直接的な次元で西洋化し民主化させる有効な道具として機

    能したのだった。それは明治からの生活近代化運動の中で既に進められてきたものだった

    が、第二次大戦後はGHQや新政府により、さらに政策的に展開された。その結果、新し

    く導入された生活様式や生活環境の価値観、例えば公共的な空間と私的な空間の区分や、

    生活上の機能性、経済合理性、そして健康的で民主的な生活様式等と、日本の既存の生活

    様式や考え方との差異、そしてそれに伴う建築空間イメージの差異が、日本の建築家たち

    にとって長い間の課題となった。

    戦後の復興期に於ける社会の急激な変貌は、建築家たちに目に見える生活環境と人々の

    心理的状況、その意味の間にある複雑な関係や歴史的・社会的な要因を意識することを促

    した。一方で、建築家達はそのような批判的な視点を、新たな生活像や住宅像創造の手が

    かりにしてきた。妹島や西沢は、そのような批判的な視点、既存の共有されるモデル像や

    規範の背後にある政治的・社会的な要因への警戒心、そして自らの感受性や価値観と生活

    様式に沿った新しい建築理念を作るために、建築の透明性や仮象性を表現する伊東のデザ

    イン思想を継承し、その「新しいリアル」を構想しているのであろう。

    西沢は森山邸のそれぞれの白い箱に大きな開口部を設けることで外部空間と内部空間の

    相互関係を作り出し、その住人達の間の「気配」のデザインを行った。しかしながら、箱

    の間の外部空間の実情は周囲の都市構造に見られる住宅間の外部空間とは異質である。東

    京下町の密集住宅地に存在する路地空間は、繊細な細部と空間メカニズムによって複雑な

    住民同志の人間関係を調整し、外部の人間との間に多様な距離を作り出すと共に、それを

    受け入れる仕組みを作り出している。しかし森山邸の箱の間の空間はそのような細部を持

    たず、むきだしで、森山邸の住民だけに限定された場所になっている。森山邸の白い箱

    は、複雑な意味の集積を示す多様な細部で形成された住宅群の中に、突然現れた異質な存

    在である。西沢が意図した人間と建築との「現象的な」関係は、実際のコミュニケーショ

    ンの手がかりを人々に与えず、周囲の人々や都市環境と森山邸の住人の関係は宙に投げ出

    されたままになっている。

    別の見方をすれば、西沢は森山邸の住人の個人的な生活空間を外に露出しスペクタクル

    化することで、積極的に住人と建築、周囲の都市的環境の新しい関係を作り出し、新しい

    ―103―

  • 「他者とコミュニケートするための原則」を作っているともいえよう。しかし、その透明

    で実体性や日常性を捨象したコミュニケーションの方法、そしてむき出しにされた個人的

    生活の景観は、一体誰のためのものなのだろうか。人々の生活状況や都市的状況から「新

    しいリアル」を見出して建築に表現しようとする彼の手法には、実質的に相互的であるべ

    きコミュニケーション、さらには住宅であっても当然備えているべき建築の公共性に対す

    る視点が欠落しているのではないだろうか。しかし、森山邸で追及された「現象としての

    建築」「環境との融合」は、確かに現代の我々の生活が直面している都市的な状況に直接

    向きあおうとする試みであり、重要な問題提起を行っているのである。

    4.都市の計画・デザインと「都市の現象」概念

    本論文の前半で取り上げた、二人の建築家による都市・建築景観のコモディフィケー

    ションとスペクタクル社会の問題に対する取り組みは、現実の東京の都市空間における状

    況から生まれ、翻って、東京のみならず世界の都市・建築造形の潮流に影響を与えてい

    る。隈研吾は表参道の交差点に立つOne表参道のデザインを、西沢はSANAAとして表

    参道のもっとも印象的なファッションブランドビルのデザインを行い、表参道の現代的景

    観の形成に与っている。このような建築デザインの側からの都市における「環境あるいは

    現象としての建築」という視点に対して、都市デザインの側からの視点はどうかをこの節

    では考察したい。

    渋谷・表参道は、東京の中でももっとも現代的な都市景観が出現していることで知られ

    ている。渋谷駅前の大きな宣伝用スクリーンがいくつも並んだ状景は、まさにギー・ドウ

    ボールの言うメディア社会の具体的事例として、また景観のコモディフィケーションとス

    ペクタクル化の事例として世界的に注目され、社会学や都市計画学で取り上げられてい

    る 。青山学院においても経済学

    部の井口教授を中心にして、渋谷・

    表参道の景観を考え直し改善する

    ための地域や行政を巻き込んだ調

    査や具体的プロジェクトが実施さ

    れている。そのプロジェクトで現

    在行われている事柄や調査された

    資料等は、今後更に深く継続的に

    検討されるべきであって本論考で

    は扱うことは出来ない。その代わ

    りに本論考では、渋谷を中心に

    1970年代から80年代のバブル期に

    行われたある都市事業を取り上げ渋谷駅前のスクリーンによる都市景観形成

    ―104―

  • て、そこで行われた都市の「現象調査」がどのように地域の都市デザインに応用されたか

    を考察しよう。

    表参道が、明治天皇の墓稜である明治神宮建設に伴い既存の仏教寺院や武家屋敷を移動

    し、新たな神社を建設することで形成された新しい参道であることは、現代あまり意味を

    持っていない。しかし、それは政治的要因による既存の歴史的コンテクストの改造が渋谷

    と表参道地域で頻繁に行われたことを表わしている。渋谷は元来いく筋かの谷沿いに伸び

    た商業地と住宅地、大山に続く旧街道沿いの武家屋敷、そしてその間農業地が埋める郊外

    地域だった 。それが大きく変貌した最初の機会はこの表参道建設であり、その後建設さ

    れた鉄道路線の、現在の渋谷駅と原宿駅の建設、そしてそれに伴う商業地域分布の変化で

    あった。戦後はGHQによって明治神宮の傍らに大規模な占領軍用住宅地ワシントンハイ

    ツが建設され、明治神宮の神聖性は目に見える形で無化されると共に、西洋風の新しい生

    活様式が日本の人々に目に見える形で示される場所になった。そして、占領期の終焉に

    伴ってワシントンハイツの撤収が行われ、60年代の日本の戦後復興を象徴するオリンピッ

    ク会場である代々木の体育館群、そして近代的文化国家のメディア活動の中心としての

    NHKが建設された。渋谷と表参道は日本の近代化の過程に起きた様々な政治的・社会的

    な体制の変化を、具体的な都市構造の変換、歴史的・文化的コンテクストの分断として景

    観化してきた場所なのである。

    このような、都市計画において歴史的・文化的コンテクストの分断をためらわない姿勢

    は、渋谷だけではなく日本の近代都市の多くに見られるものだった。都市計画史家石田頼

    房の研究によれば、日本では明治維新後の1888年から1968年まで一貫して都市計画は国家

    的政策であり、強権的な官主導の計画が主体であった。そしてそれは、世界的にも稀有な

    事例だった 。石田はその結果二つの大きな特徴が生じたと説く。一つの特徴は、都市景

    観の西欧化が政治的に重視されたことである。1872年の銀座煉瓦街建設、1886年の日比谷

    官庁集中計画、お雇い外国人技術者による欧米風の都市の表面的実現に見るように、近代

    国家としての体裁と条約改正という欧化政策の方策として、都市景観は利用された。1888

    年東京市区改正案ではパリの都市計画が参照され、1920年代以降も欧米の都市思想が積極

    的に導入されたのだった。

    二つ目の特徴は、都市における住民政策の欠如・住民要求の無視・地区環境整備の不足

    だったと石田は指摘する。明治期以降の富国強兵政策により、都市部ではスラムクリアラ

    ンスが先行して、居住・営業者に対する対策はなかった。関東大震災期には都市計画制度

    が確立し、1924年にオランダのアムステルダムにおける国際都市計画会議で提案されたグ

    リーンベルト導入が進められたが、それは戦時対策の防空地帯としてだった。戦後も産業

    基盤整備が先行し、1948年米国占領軍によって提案されたシャウプ勧告(都市計画を市町

    村の権限に委譲すること)の流産に見るように、都市生活環境の民主化は遅れ、高度経済

    成長期には居住環境の悪化が進んだのだった。石田の指摘するこれらの二つの特徴から、

    日本の都市においては、独自の歴史的・文化的コンテクストの保存意識の遅れと生活環境

    ―105―

  • としての都市基盤整備の遅れのために、都市のイメージは市民生活から遊離し、主に政治

    と資本の論理によって形成された。

    1970年代以降は、都市政策への住民参加が導入され、様々なレベルで都市の整備が進ん

    だが、それは同時に生活圏と商業圏の関係が新たな次元に入ったことも意味している。つ

    まり、単純な行政方針や用途区分、経済合理性にしたがった地区整備では解決できない、

    多様な両者の共存が行なわれ、その調整に住民あるいは土地の権利者が意識的に関与する

    ようになったのである。そのような都市の生活環境としての変換期に、渋谷においてある

    都市開発が行われた。そこでは企業の研究部門によって、都市の人々の生活様式に関する

    「現象学的」調査が盛んに行われた。それは所謂マーケティング手法、市場調査の一種で

    あったが、地域性や人間心理に重点を置いて都市の生活環境を具体的に把握しようとする

    画期的なものだった。

    その開発事業と調査は、西武の子会社アクロスによって行われ、後に流行研究としてま

    とめられた 。従来の鉄道の駅を中心とした先行する東急グループによる都市開発に対し

    て、西武は駅から離れている立地の不利を克服して新しい市場を形成なければならなかっ

    た。そのために、彼らはまず人々

    の町との関わり方の変化を重視す

    ることで消費の場としての新しい

    都市のあり方を考察しようとし

    た。具体的には、渋谷から代々木

    への買い物客の動向調査、経済生

    態学・マーケットリサーチの理論

    を用いた買い物客の心理学的分析

    調査を行い、生物学や社会学で用

    いられているフィールドワークの

    手法も応用して、定点調査や視覚

    的な情報の収集、インタビューな

    どを行った。そしてその調査の結

    果から、買い物客を満足させるた

    めの街づくりを提案したのであ

    る。

    彼らはまず駅周辺の地理学的な

    状況と商店の特徴を分析し、駅か

    ら600mまでの間を三層構造に分

    類して、それぞれの地域にどのよ

    うな商店を配置すれば若者をひき

    つけることが出来るか、位置の分様々な個性的名称を坂につける手法

    『タウン・ウオッチング』193ページ

    ―106―

  • かりにくさにはプラス効果もあることなどを研究して街の拡散化を提案した。次に、大通

    りや路地裏にはそれぞれに多様な魅力を持った店舗が存在し、坂・袋小路・暗渠といった

    複雑な地形ほど迷路としての魅力や個性を持つこと、客の滞留時間を延ばすことなどを研

    究して、路地などの複雑で個性的な道の創設を提案した。それから、町の魅力は人々がそ

    こに一種の懐かしさ、見知った場所との類似性を感じることから生まれるのであり、その

    結果、その土地らしさに適合した特定の客層が定着する「分衆化」が起こることを指摘し

    た。そして、都市生活者のこだわりに応えた店を集めて生活の楽しみを表現する場をつく

    ることを提案した。彼らは、このような都市環境の個性的な演出によって、3F3P (feel-

    ing,fiction,feminine,place,price,person)の相互関係を作り出し、生活文化産業を渋谷

    に創生することを目指したのだった。

    渋谷駅から公園通りのパルコに至るまでの間に、西武はスペイン坂、オルガン坂などと

    いった個性的な名称をつけた坂道や路地空間を設け、実際のその場所に備わった地理的個

    性や歴史的コンテクストとはまったく別の、遊び心に満ちた建造物や都市形態のデザイン

    を行った。それは人々の都市における生活様式や行動様式を、「現象」調査と環境心理学

    によって分析・応用して、消費欲望をもっとも効果的に刺激する都市空間を作り上げる試

    みだった。したがって、究極的には資本による都市景観の商業化、「スペイン坂」という

    ような文化的に異質なイメージを挿入することによる景観の断片化、経済的な目的のため

    にスペクタクル社会の状況を作り出す初期的な事例だったと言うことが出来る。しかしこ

    こで注目したいのは、その「都市の現象」把握の方法そのものである。それはこの地域で

    の消費活動を生活行為と一体的に捉えようとするものだった。そしてこの特定の場所の経

    済効果だけではなく、そこに新しいイメージによる生活文化を作り出すことを考えていた

    ことである。そのため彼らが「都市の現象」を、都市や建築の物理的形態からではなく、

    人々の日常的な生活行動、その心理的な側面や身体的な経験や記憶の作用から捉えようと

    したことは重要である。

    もう一つの興味ある事柄は、1920年代の日本社会の近代化が始まった時期に建築家の今

    和次郎が行った考現学の手法と考え方を、アクロスの人々が参照していることである。考

    現学は主に人間と環境の相互関係に注目し、目に見えるファッションや居住環境を構成す

    る物品の背後にある、見落とされがちな社会的・文化的コンテクストを読み取ろうとする

    調査・研究だった 。つまり、アクロスの調査においては、今和次郎が重視した地域の固

    有な特徴や人間の都市での生活に関する歴史的・文化的コンテクストに基づく総合的な理

    解が求められたのであり、都市の環境を人間の活動の舞台として捉える視点が確かにあっ

    たのである。そして、だからこそ上記のような人と環境の相互関係を重視する、独特な調

    査と分析が行なわれたと言えよう。後の渋谷の都市景観のコモディフィケーションとスペ

    クタクル社会化の中で、それがどう変化していったのかは、今後重要な研究課題として研

    究を進めていきたい。

    ―107―

  • まとめ

    本論考においては、現代の都市・建築景観におけるイメージの問題が、建築デザインと

    都市デザインの領域においてどのように理解され取り組まれてきたかを、歴史的な背景と

    具体的なデザイン活動や都市事業を取り上げて考察した。そしてそれが単なる解決すべき

    問題としてではなく、現代と将来の創造活動への積極的なきっかけ、新しい視点を拓く糸

    口として取り組まれている事を説明した。この論考において明らかになったことは、1960

    年代までの日本に於けるモダニズム建築運動の影響に対する問題意識や、主に資本主義

    的・政治的視点で計画され生活環境としての視点を欠いてきた都市計画観への問題意識

    が、現在もなお建築家や都市計画者に重要な影響力を持っていることである。そしてそれ

    が、現代の世界的な都市景観問題とされるコモディフィケーションやスペクタクル社会の

    影響に対して、新たな都市や建築の視点を提案する出発点となっており、特に「都市の現

    象」に対する様々な解釈への取り組みと、それにしたがった新しい創造活動が手がかりに

    なっていることがわかった。

    現代の急激に変容する社会の中で新たな都市と建築のあり方を模索するためには、具体

    的に目に見える形態の造形的な論理や、機能や経済的な合理性、規範とされる芸術的価値

    観や倫理的基準を何か普遍的なものととらえて、その不在や変質をただ問題化するのでは

    なく、人々の身体的な経験や記憶、日常生活における習慣や直接的な感受性を、現代の位

    相から考え直そうとする試みが創造活動の中で繰り返し行われてきたことが評価されるべ

    きであろう。また取り上げたいくつかの事例を三つの問題から検証してわかったことは、

    現象や環境と言う概念が、人間と人間、人間と建築や都市の造形や空間、そして人間と様

    々な物品の間で相互的に形成される様々な関係とその場所を意味するものとして理解され

    ていること。そして具体的なイメージを生み出す源として重視され、さらには直接造形化

    することが試みられてきたことである。モダニズム建築運動で盛んに参照された、人間の

    身体的な経験や記憶とイメージの関係についてのピアジェ心理学や、現象概念の構築を試

    みたフッサールの現象学やメルロ・ポンティの理論の枠組みを超えて、イメージそのもの

    の多様な形成が創造活動の中で追求されている。視覚的なものだけでなく言葉のイメー

    ジ、記憶の中にある多様なイメージ、概念的で抽象的なイメージが、具体的な建築の造形

    に実現され、我々が既存のものとしていた社会的・文化的基盤の意味を再考する事を促し

    ている。

    都市と建築、文化的独自性、建築とメディアという三つの問題設定や現象概念への着目

    は、上記のようなことが理解された点では有効であった。そして、二人の建築家の作品の

    分析で明らかになった文化的独自性の直接的なコモディフィケーションがはらむ問題や、

    「消える建築」「環境としての建築」「現象としての建築」、あるいは「新しいリアル」と

    いった概念に見る、都市・建築の造形の社会的役割や、他者とのコミュニケーションの媒

    体としての役割の問題が理解できた。また、渋谷の都市事業における生活現象の多様性の

    ―108―

  • 意味と、開発行為におけるその経済的利用の矛盾が明らかになった。そして、上記の問題

    設定を都市・建築景観や造形の公共性に関する問題へさらに展開していくべきであること

    がわかった。多様な人々が都市の変容する環境を生活基盤として様々な次元で共有し、新

    たな文化の源を生み出すように、都市・建築の「環境の場」としての積極的で創造的な理

    解の枠組みを、今後も求めていきたい。

    1)International Association for the Study of Traditional Environment学会、2006年12月15

    日から18日にかけてタイのバンコックにおいてタマサット大学と米国のカリフォルニア大

    学バークレイ校の共催で開催された。学会のテーマは“Hyper Traditions”。マイケル・ソ

    ルキンの講演のタイトルは“The Urban Tradition:How I invented Asia、”筆者は論文発

    表のために参加した。

    2)Michael Sorkin,ed.,Variations on a Theme Park,New York,Hill and Wang,1992,pp.

    205-232.

    3)ギー・ドウボール著『スペクタクルの社会についての注解』木下 誠訳、現代思潮新社、

    2000年、18-89ページ。

    4)Kengo Kuma,“Introduction,”in Botond Bognar ed., Kengo Kuma Selected Works,

    Princeton,Princeton Architectural Press,2005,pp.14-17.

    5)原 広司著『空間<機能から様相へ>』岩波書店、1987年。

    6)Kengo Kuma, Ibid.,日向邸は登録文化財。現在熱海市によって文化財保存活動と一般への

    公開がされている。正式名称は「旧日向邸」。「ブルーノ・タウトの『熱海の家』」とも呼ば

    れる。

    7)西沢立衛著「建物の創造的な原則について」『新建築』2006年2月号、57-61ページ。

    8)妹島和世・西沢立衛、GA編『妹島和世+西沢立衛読本-2005』A.D.A. EDITA, Tokyo,

    2005年。

    9)伊東豊雄講演「住宅論-いま住宅とは何か 」、ギャラリー間20周年記念展「日本の現代住

    宅 1985-2005」、2006年2月2日開催。

    10)渋谷の景観について取り上げた論考は多量にあるが、もっとも初期の論考の一つとして重

    要なのは吉見俊哉著『都市のドラマトウルギー:東京・盛り場の社会史』弘文堂、1987年、

    288-308ページ。この著作の中で吉見は今和次郎の銀座における考現学調査についても論

    じている。

    11)林 陸朗他著『渋谷区の歴史』東京ふるさと文庫11、1978年。

    12)石田頼房著『日本近現代1868-2003都市計画の展開』自治体研究社、2004年。

    13)博報堂生活総合研究所 『タウン・ウォッチング-時代の「空気」を街から読む』、PHP研

    究所、1985年。

    14)拙著『建築外の思考-今和次郎論』ドメス出版、2000年。

    主な参考文献

    1.ジャン・ボードリヤール著『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原 史訳、紀伊国屋書

    店、1995年。

    2.M.メルロー・ポンティ著『知覚の現象学』竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年。

    ―109―

  • 3.ドロレス・ハイデン著『場所の力:パブリック・ヒストリーとしての都市景観』後藤春彦・

    篠田裕見・佐藤俊郎訳、学芸出版社、2002年。

    4.エドワード・W・ソジャ著『ポストモダン地理学』加藤政洋他訳、青土社、2003年。

    5.Hilde Heynen, Architecture and Modernity, Cambridge, The MIT press, 1999, pp.

    131-224.

    6.マーシャル・マクルーハン著『メディア論』栗原 浩・河本仲聖訳、みすず書房、1987年。

    ―110―