一次産品輸出で成長するラテンアメリカ...3...

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3 一次産品輸出で成長するラテンアメリカ 立命館大学 教授 地図にみる現代世界 小池洋一 経済の再生 ラテンアメリカは1980年代に開発政策を内向的な輸入 代替工業化から経済自由化、開放へ転換した。新自由主 義的な改革によってかつての混乱から脱出し、経済の安 定と成長を達成した。失業率は下落し、貧困人口比率は 低下した。対外部門においても、一次産品価格の上昇も あって輸出が大幅に増加し、経常収支は黒字へと転換し た。経済の安定と成長、対外バランスの改善は、この地 域への安定した資金流入を可能にし、外貨準備は大幅に 増加した。他方で、市場原理に基づく開発は、その過程で、 金融危機、社会支出の削減、失業など痛みを伴うもので あった。そこで人々は効率より公平を重視する左派政権 を支持したが、ベネズエラ、ボリビアなど一部の国を除 いて、左派政権は新自由主義的な改革を維持した。財政 規律を重視するとともに経済自由化を継続した。他方で 貧困政策を実施した。 2008年のリーマン・ショックを契機とした世界経済危 機は、ようやく光明がみえたラテンアメリカ経済を暗転 させたが、国内総生産(GDP)、雇用の落ち込みは小さ いものであった。これは国内消費が堅調なことと、政府 が機動的に景気刺激策をとったことに起因している。国 連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(ECLAC)によ ればカリブ海諸国を含むラテンアメリカの経済成長率は 2010年に6%に達した。とくにブラジル7.7%、アルゼ ンチン8.4%、ペルー 8.6%など大国が高い経済成長率を 達成した。かつて数千%にも達したインフレは一桁台 で推移している。失業率も10%を下回る水準に低下し た。2011年の域内の経済成長率は4.2%と推定されてい る。国別に1人あたり国民総所得(GNI)をみると、対 ドル為替レートの上昇という要因もあるが、多くの国が 4000ドルを超え、一部では6000ドルを超えている。もは や低開発地域とはいえない。他方で中米を中心に2000ド ル以下の貧困国も存在する(図1)。 1000km 0 メキシコ 8960 グアテマラ 2650 エルサルバドル 3370 ベリーズ 3740 ホンジュラス 1800 ニカラグア 1000 ドミニカ共和国 4450 パナマ 6570 コロンビア 4990 エクアドル 3970 ペルー 4420 ボリビア 1630 ブラジル 8040 パラグアイ 2250 ウルグアイ 9010 アルゼンチン 7550 コスタリカ 6260 図1 国別1人あたり国民総所得(GNI)−2009年 (出所)世界銀行データバンクから作成。 凡例 2000ドル未満 2001〜4000ドル 4001〜6000ドル 6001〜8000ドル 8001〜10000ドル 10000ドル以上 データなし

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一次産品輸出で成長するラテンアメリカ

立命館大学 教授

地図にみる現代世界

小 池 洋 一

経済の再生

 ラテンアメリカは1980年代に開発政策を内向的な輸入

代替工業化から経済自由化、開放へ転換した。新自由主

義的な改革によってかつての混乱から脱出し、経済の安

定と成長を達成した。失業率は下落し、貧困人口比率は

低下した。対外部門においても、一次産品価格の上昇も

あって輸出が大幅に増加し、経常収支は黒字へと転換し

た。経済の安定と成長、対外バランスの改善は、この地

域への安定した資金流入を可能にし、外貨準備は大幅に

増加した。他方で、市場原理に基づく開発は、その過程で、

金融危機、社会支出の削減、失業など痛みを伴うもので

あった。そこで人々は効率より公平を重視する左派政権

を支持したが、ベネズエラ、ボリビアなど一部の国を除

いて、左派政権は新自由主義的な改革を維持した。財政

規律を重視するとともに経済自由化を継続した。他方で

貧困政策を実施した。

 2008年のリーマン・ショックを契機とした世界経済危

機は、ようやく光明がみえたラテンアメリカ経済を暗転

させたが、国内総生産(GDP)、雇用の落ち込みは小さ

いものであった。これは国内消費が堅調なことと、政府

が機動的に景気刺激策をとったことに起因している。国

連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(ECLAC)によ

ればカリブ海諸国を含むラテンアメリカの経済成長率は

2010年に6%に達した。とくにブラジル7.7%、アルゼ

ンチン8.4%、ペルー 8.6%など大国が高い経済成長率を

達成した。かつて数千%にも達したインフレは一桁台

で推移している。失業率も10%を下回る水準に低下し

た。2011年の域内の経済成長率は4.2%と推定されてい

る。国別に1人あたり国民総所得(GNI)をみると、対

ドル為替レートの上昇という要因もあるが、多くの国が

4000ドルを超え、一部では6000ドルを超えている。もは

や低開発地域とはいえない。他方で中米を中心に2000ド

ル以下の貧困国も存在する(図1)。

1000km0

メキシコ8960

グアテマラ2650

エルサルバドル3370

ベリーズ3740

ホンジュラス1800

ニカラグア1000

ドミニカ共和国4450

パナマ6570

コロンビア4990エクアドル3970

ペルー4420

ボリビア1630

ブラジル8040

パラグアイ2250

ウルグアイ9010

アルゼンチン7550

コスタリカ6260

図1 国別1人あたり国民総所得(GNI)−2009年 (出所)世界銀行データバンクから作成。

凡例

  2000ドル未満

  2001〜4000ドル

  4001〜6000ドル

  6001〜8000ドル

  8001〜10000ドル

  10000ドル以上

  データなし

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貧困の減少

ラテンアメリカの経済成長を支えているもう一つの背

景は堅調な国内需要である。とくに経済ピラミッドの底

辺にある貧困層(Bottom of Pyramid:BOP)が消費を

活発化させている。その要因の一つは経済成長に伴う所

得の上昇であるが、この地域でとられた貧困政策も大き

な要因である。ラテンアメリカでは、経済自由化が進め

られる一方で、教育政策、貧困政策など社会政策が重視

された。教育を重視したのは、それがソーシャル・イン

クルージョン(社会的包摂)の手段であり、また長期的

な経済成長にとって不可欠であるとの認識に基づくもの

であった。貧困政策としては条件付現金給付(Conditional

Cash Transfer: CCT)が重要である。メキシコに始ま

りブラジルなど多くのラテンアメリカ諸国で採用された

CCTは、子弟の就学、予防接種などを条件に貧困層に

現金を給付するものである。貧困層に限定するのは財政

制約があるからであり、条件を課すのは政策の効果を高

めるためである。CCTによってラテンアメリカでは多

くの人々が貧困から脱却した。初等教育も普及した。

 ラテンアメリカは貧富の差が大きい地域であるが、ほ

とんどの国で所得分配が改善した。格差が是正された

要因として、経済成長と雇用の増加、インフレの収束、

CCT、最低賃金引き上げなどの貧困政策が挙げられる。

しかしラテンアメリカでは、減少したとはいえ、今も多

くの人々が貧困、極貧のなかにある。また改善したとは

いえ、所得分配は国際的にみてなお不平等であることも

付け加えておきたい。

経済成長を牽引する一次産品輸出

 ラテンアメリカの経済成長を牽引し貧困を減少させた

のは、農産物、鉱物・エネルギーなど一次産品部門であっ

た。かつて一次産品輸出経済は経済停滞、従属と認識さ

れ、多くのラテンアメリカ諸国が工業化を図った。経済

自由化、開放のなかでラテンアメリカは再び、比較優位

をもつ一次産品による経済成長を目指したのである。し

かし、それはかつてのようなモノカルチャーへの単純な

回帰ではない。コーヒー、バナナなど伝統的一次産品に

加え、大豆、野菜、果物など新しい一次産品が加わった

(表1)。チリはその代表的な国であり、伝統的な輸出産

品である銅に加えて、ぶどう・ワイン、サーモン、パル

プの一大輸出国となった。コロンビア、エクアドルは切

表1 国別の輸出一次産品の変化

国名 伝統的一次産品 非伝統的一次産品

アルゼンチン 小麦、とうもろこし、牛肉、石油 大豆・大豆油・大豆かす、ひまわり油

ボリビア 亜鉛、石油・天然ガス、砂糖 大豆・大豆油・大豆かす

ブラジル コーヒー、砂糖、鉄鉱石 大豆、オレンジジュース、鶏肉、石油

チリ 銅 ぶどう・ワイン、りんご、サーモン、パルプ

コロンビア コーヒー、バナナ、石油 切り花

コスタリカ コーヒー、バナナ 果物

エクアドル コーヒー、バナナ、カカオ、石油 切り花

エルサルバドル コーヒー、砂糖

グアテマラ コーヒー、砂糖、バナナ 果物、パーム油

ホンジュラス コーヒー、バナナ、牛肉 果物、パーム油

メキシコ 石油、コーヒー、水産物 野菜

ニカラグア コーヒー、水産物

パナマ バナナ、砂糖、コーヒー 果物

パラグアイ 綿花 大豆・大豆油・大豆かす

ペルー 銅、鉛、すず、コーヒー、水産物 野菜

ウルグアイ 羊毛、牛肉 米、大豆

ベネズエラ 石油、鉄鉱石、たばこ

(出所)ECLAC データバンクなどから作成。

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り花の世界的な輸出国となった。ブラジル、アルゼンチ

ン、パラグアイ、ボリビアは大豆の重要な輸出国となっ

た。輸送手段に加えてコールドチェーンの発展によって

メキシコを含め、中米は野菜、果物の供給国となった。

石油、天然ガス、鉱物の輸出も増加した。

 こうした一次産品輸出を促進している要因の一つはア

ジアの新興国とくに中国の資源、食料需要の増加である。

中国の高い経済成長率、資源、食料輸入が一次産品価格

を引き上げ、ラテンアメリカ経済を潤しているのである。

アメリカ合衆国の金融緩和、世界的な天候不順、中東政

治の不安定化、投機的資本の流入もまた一次産品価格を

引き上げている要因である。一次産品輸出によってラテ

ンアメリカの貿易収支は大幅に改善し、一次産品輸出主

導の経済成長が実現した。新興国の高い成長率、消費の

高度化など需要側の要因、資源埋蔵量、農業適地の減少

など供給側の要因を考慮すれば、一次産品価格は今後も

上昇基調を維持しよう。ラテンアメリカはリチウムなど

の希少金属、エタノールなどバイオ燃料など新しい資源、

エネルギーでも大きな供給能力をもつ。一次産品輸出は

今後も、ラテンアメリカの経済成長を牽引するセクター

になろう。

一次産品輸出経済の問題点

 しかし一次産品の輸出に依存した経済は多くの問題点

をもつ。第一の問題点は、農産物、鉱物・エネルギーを

            表2 主要農産物の地域別貿易収支*‐2008年      (単位:百万ドル)

地域名 農産物合計 穀物 油種作物 コーヒー 砂糖 肉 果物・野菜

アフリカ −28,144 −19,551 −7,332 987 −1,947 −2,077 3,491

北米 47,026 33,703 21,965 −4,121 −1,309 8,630 −5,929

ラテンアメリカ 76,254 −5,491 29,860 9,057 6,834 14,181 18,659

 中米 −4,730 −5,525 −4,553 2,435 934 −2,330 7,579

 カリブ −5,686 −2,100 −1,008 2 337 −814 −392

 南米 86,670 2,133 35,422 6,620 5,563 17,326 11,471

アジア −121,725 −30,499 −33,443 1,177 −3,084 −18,508 4,666

ヨーロッパ −44,562 6,511 −27,999 −6,931 −2,354 −6,308 −30,479

オセアニア 26,233 3,777 −191 −91 96 8,158 613

(注)*純貿易(輸出マイナス輸入)。

(出所)FAO STAT Tradeから作成。

1000km

メキシコ

グアテマラ

エルサルバドル

ベリーズ

ホンジュラス

コスタリカ

ドミニカ共和国

パナマ

コロンビア

エクアドル

ペルー

ボリビア

ブラジル

パラグアイ

ウルグアイ

アルゼンチン

キューバ

ハイチ

ジャマイカニカラグア ベネズエラ

チリ

0

図2 国内食料供給に占める食料純輸出割合*

−2005〜2007年(注)*カロリーベースの食料消費に対する純輸出(輸出マ

イナス輸入)の割合(%)。(出所)FAO, Food Security Statistics.

凡例

    50%以上

    25〜50%

    0〜25%

    0〜−25%

    −25〜−50%

    −50%未満

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問わず、需要、価格の変動が大きいことである。突然の

価格の下落は輸出収入を減少させ経済を破綻へと導く。

とくに少数の商品輸出に依存する小国がそうである。

 第二の問題点は、多くの国が一次産品を輸出する一方

で穀物など食料を輸入していることである。一次産品価

格が下落すると食料が輸入できない事態に陥る。農産物

の貿易バランスを地域別にみると、ラテンアメリカは輸

出が輸入を大きく上回る農産物の純輸出地域である。し

かし、より詳細にみると、ラテンアメリカは油糧作物(お

もに大豆)、コーヒー、砂糖といった嗜好品、果物、野

菜では純輸出地域であるが、小麦、とうもろこし、米な

どの穀物では純輸入地域である(表2)。表には示して

いないが、穀物の純輸出国はアルゼンチン、ウルグアイ

のみである。次に国別にカロリーベースの食料自給率を

みると、ブラジル、アルゼンチンなどでは食料供給が需

要を大きく超えているが、中米、カリブの小国などで食

料供給が需要を大きく下回る国が多い(図2)。

 大豆などの商品作物を輸出する一方で穀物を輸入する

という農業の構造は経済自由化以後強まった。メキシコ

はNAFTA(北米自由貿易地域)発足後、主食のとうも

ろこしをアメリカ合衆国からの輸入に依存することに

なった。ハイチは金融支援の条件としてアメリカ合衆国

によって米の輸入を強制された。その結果、2008年に世

界を襲った穀物価格高騰では、人々が生活苦、飢餓に直

面した。ほかの国々でも穀物価格高騰が貧困層に大きな

打撃を与えた。

 一次産品輸出経済がもつ第三の問題点は製造業部門の

衰退である。一次産品輸出に伴う大量の外貨の流入は為

替レートを引き上げ、国内製造業は輸入品の氾濫で大き

な打撃を受け、雇用が失われる。大量の外貨流入が財政

を潤すため、政府は公共投資を増やし減税するなどのば

ら撒き政治の誘惑に駆られる。こうした一次産品部門の

活況に伴う製造業の衰退と雇用の減少、財政規律の喪失

は、1960年代に天然ガス輸出によってオランダで生じた

同様の経済現象から、「オランダ病」として議論されて

いるものである。

 一次産品輸出経済のもつ第四の問題点は環境破壊であ

る。農産物、水産物など一次産品の生産、輸出は熱帯林、

マングローブ林の破壊を引き起こし、大量の農薬、化学

肥料の使用は土壌を劣化し、水の枯渇、汚濁をもたらし

ている。鉱物、エネルギーの生産は資源枯渇のスピード

を速めている。環境破壊、資源枯渇が進めば、一次産品

の輸出に依存した経済発展は困難となる。一次産品輸出

経済は必ずしも持続可能ではない。

アルゼンチンアルゼンチン

チチリリ

ブラジルブラジル

コロンビアコロンビア

エクアドルエクアドル

ベネズエラベネズエラ

パナマパナマ

コスタリカコスタリカ

キューバキューバ

メキシコメキシコ

参考資料

『世界の諸地域NOW 2011』p.148 ラテンアメリカの農業