博物館紀要概要 2005/多武峰の町石 2005 · 之 坊 祐 英 法 眼 十 月 十 六 日...
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奈良県桜井市の桜井駅(JR・近鉄)から南へ二キロメートルほど
のところに、談山神社の一の鳥居がある。ここから山腹の談山神社
境内地まで約六キロメートルの道のりには、かつて、ほぼ等間隔お
きに五二基の町石が設置されていた。町石とは、社寺の参詣路に一
町ごとに置かれた石製卒塔婆のことをいう。多武峯の町石は承応三
年(一六五四)の建立で、もと五二基あったが、現存するのは三二基。
現存のものにも多く欠損がある。その一覧を表1に示した。談山神
社への参道を歩いて登る人は少なくなったが、町石は今も路傍でひ
っそりと、バスや自家用車で通りすぎる人々を見守っている。
談山神社参道の町石は、いずれも高さ約一五〇センチメートル、
頂部を三角形に作り出した板碑状の薄い石材の表面に、方形の枠を
作ってその中に文字を刻み込んでいる。背面は、一部のものを除い
て加工の痕跡はみられない。表面の銘文の例として、第四十二町石
の釈文を掲げておく(写真1)。
(第四十二町)
「
承応三甲午年
施
(梵字)離垢地位
四十二町
中之坊祐英
十月十六日
主
」
銘文は上から梵字アーク(胎蔵界大日如来)、「離垢地位」などの菩薩
の階級、町数の順に記され、年月日および「中之坊祐英
施主」の
部分は原則と
してすべての
町石で同文と
なっている。
ただし、初町
石と第五十二
町石のみ若干
文面が異なる
ので、それも
多武峯の町石―現況報告―
奈良県指定史跡(昭和三十五年指定)「多武峯町石(三十一基)」
資料紹介
野
尻
忠
写真1 第四十二町石
写真2 初町石(表面)
写真3 第五十二町石(表面)
35 鹿園雜集 7 (2005)
記しておく。(写真2、3)
(初町)
「
多武峯道自是五十二町
承応三甲午年
施
(梵字)信心位
初町
多武峯中之坊祐英法眼
十月十六日
主
」
(第五十二町)
「
承応三甲午年
(梵字)妙覚位
五十二町
中之坊祐英法眼施主
十月十六日
」
仏教では、菩薩がさとりに達するのに五二の段階があるとされ、
談山神社の町石はそれになぞらえて五二基それぞれに菩薩の階が刻
まれている。菩薩の階は『華厳経』をはじめとして、いくつかの経
典に説かれているが、最も形が整っているのは『菩薩瓔珞本業経』
である。それによると、仏道を究めようとする者は、まず十信(十心、
十信心とも)とよばれる十種の心を会得し(一〜十位)、次に十住(十
一〜二十位)、さらに十行(二十一〜三十位)、十廻向(三十一〜四十位)、
十地(四十一〜五十位)と進み、次いで仏と同等の覚りの意である等
覚(五十一位)へ、最後に覚りの境地である妙覚(五十二位)に達する
という。表1に記した菩薩の階のうち、町石が現存し文字を判読で
きるものに関しては町石自体に刻まれた名称を採用し、それ以外に
関しては『菩薩瓔珞本業経』(大正新修大蔵経本)によった。
談山神社の町石は、原則として一面にしか文字が記されないが、
一の鳥居の足下にある初町石および最後の第五十二町石は背面にも
刻まれている(写真4)。両者の背面銘文は同文と推定されるが、摩
耗が進んでいることもあって読み取れない部分が多い。幸い『桜井
市史』(一九七九
年刊行)文化財
編第三章「石造
美術」(九二〇
頁)に釈文が掲
載されているの
で、それを次に
掲げる(現物観察に基づいて一部訂正)。一部に文意の取りにくい部分
があるが、上記のような理由で完全な釈文を作成することは難しく、
それは今後の課題とし、ここでは『桜井市史』のままとしておく。
惟夫表瓔珞七刹之位階造立五十二町石倫婆借阿宝一刀一切石積
生死炬/閻浮胡道積亜也同之三世之諸仏所妙法輪之道場和光感
応之嘉�也/夫�通入斯道詣
者天真合揚誠心�誠之閭衆金絹
寂光浄刹也/円月豈不儲烏合
自利刹他功徳円
祈所〈石也〉
経典に基づく菩薩の階位と五十二町石の関連を述べ、この道を通っ
て参詣すれば仏道の功徳があることを説いている。
また、『桜井市史』には町石すべての存否(一部については状態も)
と所在地が記される(九二二頁)が、表1に示した通り、筆者が今年
度におこなった調査とはいくつかの点で異同があ(注)る。たった二五年
の間にこれほどの変化があるのはゆゆしき事態であるが、逆に考え
てみると、造立から三五〇年を経た現在でも半分以上の三二基が残
っていることが、いかに貴重であるかを強く認識することができる。
写真4 初町石(背面)
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