組織スラックと企業理論 中 川 淳...
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( )47 1組織スラックと企業理論
<論 説>
組織スラックと企業理論
中 川 淳 平
1.はじめに
第二次大戦後、先進諸国の大企業では専門経営者を中心とする経営者企業の
人事施策として、勤労所得以外の報酬としてフリンジベネフィット(付加給付)
が増加した。これは従業員が当該企業に定着し、継続的な貢献活動を通じて企
業の長期的な発展に寄与してもらうことが意図されており、一定の組織スラッ
クが確保されてきた。このことは、顧客にとって魅力ある製品やサービスの開
発、株主にとってキャピタルゲイン(値ざや)の確保が可能である場合にはさ
したる問題とはならなかった。
しかしながら、1970 年代以降、株主の利益を最大化すべく、内部ステイク
ホルダーへの給付は減少し、経営者や従業員の動機づけは、ストックオプショ
ン制度や確定拠出型年金制度の導入といった、資本市場や労働市場のメカニズ
ムを活用した金銭的なインセンティブ施策へと次第に転化したため、組織ス
ラックは減少していったが、企業特殊的なコア・コンピタンスを構築するうえ
で、中核的な能力構築の担い手を長期的に企業内へ引き止める組織スラックの
確保が必要となりつつある。
アメリカの先進的な企業で長期的な人材確保のための人事管理システムが定
着した 1930 年代の状況と、コングロマリット多角化の失敗に伴い経営規範の
( )482 駒大経営研究第44巻第 3・4
変容を迫られたオイルショック前後における理論的なフレームワークの変容を
検証することは、内部ステイクホルダーに対する施策の変化をふまえた企業理
論の再構築にあたり、意義あるものと考えられる。
そこで本稿では、まず財産支配権が所有者から経営者へと移行した 1930 年
代のアメリカ大企業において、人事管理制度が導入されていった経緯を確認し、
1960 年代の企業理論において、昇進や役得の付与といった従業員定着のため
の施策を念頭に理論化がなされていたことをウィリアムソンの初期の研究など
から示していく。そして、コングロマリット経営の失敗が多発した 1970 年代
以降、内部成長よりも収益性向上を目的とする企業理論への転換が目指され、
雇用形態をはじめとする企業制度のあり方が資源分配の効率性に配慮したフ
レームワークに転換した点を指摘する。そして、企業のコア・コンピタンスの
形成にあたり、その中心的な役割を担う従業員の確保が必要であるという、近
年の人事管理論の観点を、企業理論に補足していく必要がある点を指摘する。
従来の研究では、生産コストの相違に着目し、企業内外の知識の蓄積や学習
プロセスを基軸とし、動態的な取引コストを考慮に入れた能力論アプローチに
よってウィリアムソンの取引コスト論を補足する議論が多いが、本稿では、今
後製品設計のモジュラー化が進行し、企業外のケイパビリティを取得する場合
においても、コア従業員の確保は不可欠であるとする見解に立脚し、ピオリら
の内部労働市場論や、コーポレート・ガバナンスと雇用関係との相関性を検証
するジャコービィの議論などを参考に、コア従業員に対する人事施策の必要性
から、一定の組織スラックを維持した企業理論の再構築が必要であることを論
ずる。
2.経営者支配と人事管理制度の導入
2.1 経営者支配と内部労働市場の確立
19 世紀末ごろより、アメリカでは株式会社制度を採用する大規模企業が続々
と誕生し、株主から専門経営者へと企業資産の支配権が移行した。所有権が拡
( )49 3組織スラックと企業理論
散した結果、株主の投資行動は、経営権の支配よりも、株式の売買によってキャ
ピタルゲインの確保が目的となった。
雇用関係については不熟練労働者を中心に労働移動率が上昇傾向にあった
が、第一次世界大戦期のアメリカでは、ヨーロッパからの移民の供給が途絶え、
労働力の不足が恒常化し、雇用主にとって安定的な従業員の確保を余儀なくさ
れると、伝統的な雇用関係の観点を改める必要が生じた。
ジャコービィによる内部労働市場の生成史研究では、人事部の創設により福
利厚生施策や内部昇進制度などを構築し、安定的な雇用関係を形成しようとす
るアメリカ大企業の対応過程が示されている(Jacoby [1985])。職長による伝
統的な労務管理の手法では、従業員が解雇への恐怖感から職務を遂行する駆り
立て方式が用いられており、敵対的な雇用関係とならざるをえない。従業員を
確保するためには、労働市場を企業内部に取り込む必要が生じ、従業員のコミッ
トメントを高めなければ生産性の向上が期待できなくなったのである。
長期的な雇用関係の創出は、雇用者側にとって従業員訓練費用の増大を防
ぎ、労働者側にとっても失業への恐怖が緩和するという双方にとってのメリッ
トをもつため、大企業で人事部門が創設され、多様な福利厚生制度が整備され
ていった。
2.2 企業理論の展開
1940 年代から 60 年代にかけて、アメリカ経済は多くの産業において寡占・
独占競争の状態にあり、新古典派経済学が前提としていた、利潤最大化を目指
す小規模企業間の価格競争から大企業による管理価格体制の下でのマーケッ
ト・シェアをめぐる競争状況へと変化していた。
そこで企業理論において、バーリ=ミーンズの「経営者支配」論を前提とし
た(Berle/ Means [1932])、株式所有の分散化に伴う俸給経営者の裁量権の増
大を根拠に企業資産の最大化を目指すマリスの理論(Marris [1964])、企業の
売上を最大化しようとするボーモルの「売上最大化」仮説(Baumol [1959])、
ウィリアムソンの「経営者の効用最大化」仮説(Williamson [1967])が発表さ
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れた。これらの研究は、市場からの統制の下で利潤最大化を目的とする伝統的
な企業理論とは異なり、調整者としての専門経営者が企業自体の成長を目的と
しつつ、寡占市場において自由裁量に基づく行動メカニズムを提案する点で問
題意識を共有している。
しかしながら、マリスやボーモルのフレームワークは、基本的に企業家(所
有経営者)から専門経営者に行動主体を置き換えたうえで、それぞれ資産、売
上高の最大化を目指す、合理的な行動をとるものと想定していた点で、伝統的
な経済学の手法にかなり依拠していた。他方、ウィリアムソンは、サイモンを
はじめとするカーネギー学派の影響下にあって、組織のメカニズムや従業員の
動機づけといった経営学的な着眼点を持っていた点で大きく異なっていた。こ
こでは、ウィリアムソンの学説のなかで、専門経営者が従業員をどのように組
織に引き付け、企業の成長を目指す理論構築を行っていたのか、その形成過程
を振り返ってみよう。
ウィリアムソンは、『裁量的行動の経済学』(Williamson [1967])において、
経営者の効用最大化を軸とした企業理論を展開している。そこでは、効用関数
の構成要素として、組織スラックの存在が着目されていた。
サイアート=マーチ(Cyert / March [1963])によって、組織が利用できる
資源と維持する資源との差として提起された組織スラック概念について、ウィ
リアムソンは「聡明で活動的な参加者によって吸収される」と、その重要性を
示唆しつつ、「直接には動機づけの問題を取り扱おうとはしていない」と指摘
し、自身の研究視角とは異なる点を指摘した(Williamson [1967]pp.7-8・12 =
訳 9・14 ページ)。
サイアート=マーチは、メンバーの適切な意思決定がなされるための資源配
分メカニズムとして、組織スラックがクッションの役割を果たすことで不確実
性を吸収することができると考えていた。彼らは、その具体例として、株主へ
の配当金・労働者への賃金支給・顧客への商品の低価格設定・経営幹部への必
要以上のサービスなどを挙げているが、ウィリアムソンの場合は、従業員への
動機づけ施策として組織スラックが想定されている。
( )51 5組織スラックと企業理論
組織の各メンバーに差額の支払いを可能にする組織スラックの存在により、
貢献とその報酬が不均衡になることが常態となる。マーチ=サイモンの研究で
は、組織均衡論において、組織存続のためには参加者による組織への貢献(C)
よりも組織から参加者に与える誘因( I )のほうが同じか、やや大きいことが
要件となること(C ≦ I)が主張されたが(March / Simon [1958]chap.4)、よ
り安定した組織運営を行うには、つねに誘因を多めに与えておくことが必要と
なる。
ウィリアムソンは従業員に対する動機づけとして、金銭的動機としての(1)
「俸給」を想定しているが、一般的な企業理論と異なるのは、R.A. ゴードンの
ビジネス・リーダーシップ論(Gordon [1948])やバーナード組織論(Barnard
[1938])などを参考に非金銭的な動機として、(2)「安全性」、(3)「優越性(地
位・権力・名声など)」、(4)「社会的な用役(social service)」、(5)「専門的能力」
などを挙げた点にある1。ここでウィリアムソンは(4)を分析の背景に斥けつつ、
マズローの欲求段階説(Maslow [1954])との関係として(2)を「安全の欲求
や所属の欲求」に、そして(3)を「承認の欲求」、(5)を「自己実現の欲求」
の各段階に対応させ、競争条件における寡占的な要素が強くなるほど、承認欲
求が、そして独占企業や公共事業などにおいては専門性や社会的責任といった
動機づけが必要とされるという。
そして、寡占・独占企業では、資源配分の裁量権をもつ経営者は組織を階層
化させ、スタッフを増やすことで組織の規模を拡大させようとする傾向を持つ
と捉えられている。昇進の機会を獲得できることは、昇給への期待ばかりでな
く、他者からの承認という非金銭的な動機も満たされる点で、従業員を満足さ
せるには十分な動機づけ要因となっていた。経営者にとってみれば、経済学的
な企業理論で想定されるように、所有者である株主の期待に沿うよう、利潤を
最大化するのではなく、彼らが容認しうる範囲内で、生産性の向上や配当の上
1 ゴードンは大企業では利潤を制約条件として他の目標が追求されるため、完全
な利潤最大化は追求されていないことを早くから指摘していた(Gordon [1948]
chap.12)。
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昇とは必ずしも直結しない形で組織の拡大を図る「裁量利潤」(discretionary
profit) に留まるのが一般的であるとされた(Williamson [1967] chap.3)。
ここで指摘すべきは、ウィリアムソンの議論はボーモルやマリスとは異な
り、参加者間の利害対立の問題を考慮していた点にある。そもそもサイアート
=マーチによって提起された組織スラックの概念では、不確実性の環境下では
参加者間の利害対立が激化することが予想され、組織スラックがコンフリクト
を吸収することを想定していたが、ウィリアムソンの場合には、経済学で当時
主たる問題となっていた社会的選択問題と自身が提案した効用最大化仮説との
関連からその解明を試みていたのである。
これまで企業を一つの質点として分析してきた新古典派価格理論の立場か
ら、アローは効用最大化に基づく個人的な選択と社会的な選択との不整合性を
指摘する「一般(不)可能性定理」(Arrow [1951])の問題を提起しており 2、
集合的な意思決定の問題は、個人的な意思決定とは大きく異なる点に早くから
着目していた。
所有と経営の分離した企業組織においては、この社会的選択問題を検討する
必要が生じてくるが、この問題についてウィリアムソンは、組織の政策形成と
意思決定手続きに関し、メンバー間で合意がとられていることが集団の維持の
前提となるため、個人の選好と集団の選好の不整合性は問題とはならないとみ
なした。この結果、「メンバーの間で同一の選好関数を要求しているのではない」
にもかかわらず、「経営者グループは代替案に対して完全な順序づけをするこ
とができる」ことが指摘されている(Williamson [1967] p.157 =訳 188 ページ)。
この結果、企業の効用関数はスタッフ支出(管理費・販売費)、役得への支
出、裁量利潤の追求によって構成され、経営者は配当施策や販売価格の設定に
おいて株主や消費者の容認可能な範囲内で組織スラックを確保することによっ
2 企業組織への社会的選択問題の適用をアロー自身も後年行っており、彼は企業組
織を「価格システムがうまく働かないような状況の下で集合活動(collective action)の利点を実現するための手段」として理解することを主張した(Arrow [1974] p.33=訳 29 ページ)。
( )53 7組織スラックと企業理論
て、従業員の動機づけを図る。この結果、寡占企業では、利潤最大化から乖離
する「組織スラック」が存在しても、他社からの価格競争の圧力が弱いため、
経営者の裁量によって長期安定的な競争優位性が維持することができた。
総じて言えば当時のウィリアムソンは、株主・顧客などの外部ステイクホル
ダーだけでなく、一般従業員・管理職といった内部ステイクホルダーとの利害
対立を顕在化させなくても、組織スラックの存在があるからこそ、経営者の効
用最大化仮説で企業行動を記述できると考えていたのだろう。
3.企業制度の変容と企業理論への影響
3.1 株主主権論の復権とコーポレート・ガバナンス
1930 年代から 1960 年代にかけて、アメリカでは、寡占状態の下で大企
業による競争が展開され、株主にも大きな利益をもたらした(Roe [1994]
chap.1)。この時代では世論の圧力による政治の対応によって、銀行、保険会社、
ミューチャル・ファンドといった金融機関による企業支配はおこなわれること
がなかった。しかしながら、アメリカ大企業において、1960 年代から流行し
たコングロマリット経営の多くは失敗に帰し、拡大戦略の見直しを迫られるよ
うになると、投資家や消費者から経営者企業の行動に批判が向けられるように
なる。例えば、マーケティング活動にコストを費やす一方で、自動車の安全性
への投資を軽視していた GM の経営体制に反発して同社の株式を取得し、株主
総会で発言権を得ようとするラルフ・ネーダーを中心とする消費者運動はその
代表例であった。
アメリカではオイルショック以降の株式市場低迷によって簿価を下回る株価
をつけた企業が増加しており、低株価企業の買収を希望する企業や投資家に対
し資金を提供する LBO 融資が行われ、M & A 件数を飛躍的に増加させた。こ
うして、分散していた株式所有権は集中化に向かい、年金基金をはじめとする
機関投資家が株式の大量保有を行う、いわゆる「物言う株主」として積極的な
議決権行使を図るようになった。
( )548 駒大経営研究第44巻第 3・4
現在、アメリカ企業の上場株式の約 6 割は機関投資家によって所有されてい
るが、カルパース(CalPERS:カリフォルニア州職員退職年金基金)をはじめ
とする年金基金がその代表的な機関投資家となっており、株主権の行使によっ
て投資先企業に対してコーポレート・ガバナンスの改善を要求してきた。その
主たる内容としては、独立性の高い社外取締役や社外監査役の選任、また取締
役の人数の多い日本企業に対しては、取締役会のスリム化などが挙げられる。
機関投資家の多くは投資対象先を次々に入れ替える浮動株主として行動する傾
向があり、企業の長期的利益よりも保有株式の売却益を狙うために、投資先企
業に対し株価上昇につながる施策を要求している。アメリカ企業の経営者は、
この「物言う株主」に対応する形で、長期的な研究開発投資の回避や従業員の
短期的な業績評価や訓練・育成の削減によって株価下落を防ごうとする。
かつて株主の投資行動は、投資先企業の経営行動が不満であれば株式の売却
によってその不満を表明し、株価の下落によって投資家の不満の表れを間接的
にキャッチするという、「ウォールストリート・ルール」によって企業の規律
づけがなされるものと理解されてきたが、株価の長期的な下落傾向と経営者に
よる会社の私物化が顕著となるにつれ、行動パターンが変化したのである。
3.2 企業理論の変容
前章で見たように、1960 年代の企業理論では、経営者企業を念頭に置き、
企業の成長を前提とした理論構築がなされてきた。
しかしながら、1970 年代に入り、事業拡張戦略の限界が指摘され、調整の
失敗に伴う株価低下が顕著となると、大企業における資源配分の効率性を追求
した理論構築が求められるようになる。
ウィリアムソンは『現代企業の組織革新と企業行動』(Williamson [1970])
において、アメリカの経営史家チャンドラーの組織革新の研究(Chandler
[1962]・Chandler/ Redlich [1961])から触発を受け、職能部制組織(U 型企業)
と複数事業部制組織(M 型企業)との比較を通して経済効率性に相違がみられ
るとの視点をとるようになった。そこでは、U 型企業において経営陣の負担を
( )55 9組織スラックと企業理論
軽減すべく、職能部門長に調整を委譲するケースについて言及されている。職
能部門長は戦略的意思決定への援助と日常業務の意思決定の双方に従事するこ
とになるが、チャンドラー=レドリッヒは以下のように指摘する。
「最高委員会は、部門の長、すなわち職能別の専門家から構成されている
ので、究極的な決定は各部門間の交渉と妥協の産物となる傾向がある。[中
略]各委員は、勤務時間の大半を部門間の問題に充てているので、経営
委員会が依拠する情報は職能的業務のトップとしての資格を持つ委員に
よって形成されたために偏向することは避けがたい。」(Chandler/ Redlich
[1961]pp.10-11)
この点に関してウィリアムソンは、戦略的意思決定の策定にあたり、各職能
部長が他の職能部門についての知識を持たないために自らが統括する職能部門
の利害を擁護する「戦略上の責任と業務上の責任との混同」が生じ、経営陣と
管理職との利害対立の問題が発生すると考えた(Williamson[1970]p.49= 訳
62 ページ)。
大企業の成長過程で事業の多角化を推進する際に、M 形態に組織革新をせず
U 形態のまま単純拡張を継続する場合、職能部門長は全社的な目的とは異なる
副次目的を推進するようになる。職能部門内の管轄領域の拡張や、スタッフ数
の増加、あるいはスラックを確保しようとする党派的な利害の働きによって、
いずれの部門も拡大傾向が継続することになる。この結果、U 型企業では管理
職層による効用最大化行動が蔓延し、経営陣のコントロール・ロスが生ずるこ
ととなる。
そこで、ウィリアムソンは M 型企業へと組織革新が行なわれ、資源配分の
効率性を図るものと理解した。事業部制組織に転換すれば、戦略的な意思決定
の策定にあたり、職能ごとの党派的な利害が除去され、事業部内で解決がなさ
れるようになる。そして、各事業部の業績は ROI(投資収益率)などで本社ス
タッフに査定されるため、スタッフを拡大したり、組織スラックを確保しよう
( )5610 駒大経営研究第44巻第 3・4
としたりする傾向は減少し、どの事業部でも利潤追求を優先するようになる。
「M 形態に沿って大企業を組織し、運営することは、それに代わる U 形態
の場合よりも、新古典派の最大化仮説にいっそう近づいた目標追求と最小
費用行動とを選好することになる。」(ibid.,p.134 =訳 164 ページ)
生産物市場や資本市場による外部コントロールが寡占市場の形成によって困
難となり、法人大企業においてステイクホルダー間の利害対立が見てとれる
ようになると、経営者個人の最大化という仮説を改めざるを得なくなったが、
ウィリアムソンは、組織形態の転換という新たな知見を企業理論に導入したこ
とにより、大企業においても資源配分の効率性が追求されうるロジックを提
示した。
しかしながら、同時期においてコングロマリット巨大企業のパフォーマンス
の低下が多く見受けられるようになると、寡占的・独占的な企業体制を問題視
し、内部組織による調整を市場による調整へ転換させようとする論調が、法学
や経済学において高まるようになる。こうした状況にあって、ウィリアムソン
は、経営資源の相互補完性が期待しづらいために、コングロマリット多角化に
対し懸念をもつアンゾフらの議論を考慮しつつも(Ansoff / Weston [1962])、
コングロマリット化によって高収益が期待される事業分野へ資金の柔軟な移動
が可能なミニチュア資本市場として機能することに期待していた(Williamson
[1970]chap.9)。この当時ウィリアムソンはアメリカ法務省で反トラスト局の
特別顧問の任務を担当していたが、そこでの独占禁止政策が内部組織による調
整のメリットへの無知から生ずる立案者の先入見に注意を促す意味合いが強
かった。
ところが、産業政策上の観点とは別に、個別企業の経営状況を勘案すると、
コングロマリット企業の多くが財務規模の拡大を目指すための戦略なき合併に
終始し、個別の事業価値の合計を下回るコングロマリット・ディスカウントに
陥り、株価が下落基調となる企業が後を絶たなかった。
( )57 11組織スラックと企業理論
4.雇用制度の変容と企業理論
4.1 取引コスト論と能力論
現代大企業では、経営者の専横的な行動を抑制し、株主の声に耳を傾けるべ
きであるとする外部統制の復権を唱える株主主権論が注目され、少ない投入量
からより多くの産出を追求するという伝統的な企業観に立ち戻りつつある。
企業理論においてもチャンドラーの歴史的研究に即し内部化のメリットを説い
たウィリアムソンの観点は、局所的な知識の存在や行動主体間の学習プロセス
によって経済制度の調整メカニズムを示そうとする能力論アプローチによって
補完されるようになる。
この手法では、企業・中間組織・市場の各制度を代替的なものとしてではな
く補完しあうものと位置づけ、取引主体間の活動の類似性が高く補完性が高い
場合は企業内の調整、類似性は低いが補完性が高い場合は中間組織、類似性も
補完性も低い場合には市場による取引で調整されるものとするリチャードソン
の研究をきっかけとして(Richardson [1972])、特殊な能力(capability)や資
源の移転が困難なことから動態的な取引コストを析出するラングロア=ロバー
トソンの研究(Langlois/ Robertson [1995])などを経て、チャンドラーが提
示した大企業の垂直統合戦略や多角化戦略による資源分配の調整手法である、
「見える手」(visible hand)から、製品設計のモジュラー化に伴い、不確実性
に伴う経営資源の蓄積を確保する必要性が減少する「消え行く手」(vanishing
hand)の調整メカニズムへと変化することを指摘するラングロアの仮説が提
示された(Langlois [2003])。これら能力論のアプローチでは、局所的な知識
の存在や知識の結合の重要性が指摘されてはいるが、売り手企業と買い手企業
がなぜ統合されるよりも良い(あるいは悪い)のか、示すことができないとウィ
リアムソンから指摘されており(Williamson [1999])、かつ知識の蓄積や結合
の担い手である人的資源の調整手法については言及されていない点に注意する
必要がある。
( )5812 駒大経営研究第44巻第 3・4
4.2 内部労働市場論と取引コスト論
能力論アプローチが想定するようにアウトソーシングによって外部の能力を
適宜調達する場合には、人材育成のあり方はどのように変化するだろうか。キャ
リア型のホワイトカラー従業員の動向については、人事管理論分野で興味深い
論争が展開されている。キャペリはアウトソーシングなどによって内部労働市
場が崩壊したために、とりわけホワイトカラー従業員では雇用形態の変容が余
儀なくされることを主張する(Cappelli [1999])。他方ジャコービィは、短期
雇用を前提とする「コンティンジェント・ワーカー」の増大を重視しすぎると、
コア従業員などで長期雇用の形態が今なお維持されている点を見落としてしま
うとキャペリの見解を批判している(Jacoby [1999])3。
株主主権に基づくコーポレート・ガバナンスや製品設計のモジュール化に伴
い、物的資源の外注化が進展した場合、キャペリは雇用関係も労働市場を通じ
た調整が主体となると考えたのに対し、ジャコービィは企業のコア・コンピタ
ンスの形成にあたり、外部から資源の調達が必要とされる場合でも内部の人材
育成は維持すべきであると主張するが、この問題を考察するにあたり、まず内
部労働市場が形成され、長期雇用が必要とされた本来的な要因について検討し
てみたい。
ピオリをはじめとする内部労働市場論では、アメリカ社会における過剰な
労働移動を問題視し、解決策として企業内部での長期的な雇用関係の構築に
よって、労働者を一つの企業に定着させる論理を提示した(Doeringer / Piore
[1971])4。
ウィリアムソンの主著『市場と企業組織』では職業訓練によって従業員の能
力構築がなされる内部労働市場論の特徴を、(1)設備の特殊性、(2)作業工程
3 キャぺリ=ジャコービィ論争の詳細については、伊藤[2004]を参照のこと。
4 なお、ドゥリンジャー=ピオリによる内部労働市場論の研究では、柔軟な雇用関
係を形成する「クラフト型内部労働市場」も別個の形態として概念化されており、ピ
オリの後年の研究では、大量生産システムの限界に対する克服策として、こちらの
調整様式を支持する傾向にある(Piore / Sabel[1984])。
( )59 13組織スラックと企業理論
の特殊性、(3)非公式に生成されるチームへの特化、(4)コミュニケーション
の特殊性、に集約し、その意義を認めている(Williamson [1975] chap.4)。当
該企業での特殊的な能力形成は、競争優位のポジションが確保できるという企
業側のメリットだけではなく、安定的なキャリア形成と生活保障が与えられる
点で、従業員側にとっても大きなメリットがあった。
ウィリアムソンの内部組織論では、内部労働市場論の知見について、転職先
での過大評価が下されることを期待して職を転々とするような人間のフリーラ
イディングから企業を守る効果があると指摘し、一定の評価を下している。し
かしながらウィリアムソンは、ピオリらの立場と異なり、内部労働市場の様式
を効率性の見地から制度選択の比較対象として検討している。課業訓練の実施
は限定合理性をもつ行動主体にとって不確実性を低減させるという利点が存在
するが、他方で訓練を受け、技能が向上した従業員は、特定の作業設備への情
報を多く保持するようになると、機会主義的な行動がとられやすくなり、モニ
タリングコストの発生要因へと転化する。
特殊的な訓練を受けた従業員は、一般的な訓練しか受けていない従業員に比
して希少な存在であるため、少数主体間の交渉関係とならざるをえず、市場原
理に基づくスポット契約の締結が困難となる。その原因として、ウィリアムソ
ンは「分離不能性が機会主義ならびに情報の偏在の条件と結びつく」からであ
るとしている(ibid.,p.61 =訳 105 ページ)。この分析手法では管理者と従業員
との間の情報量の格差を考慮に入れた組織の調整メカニズムの必要性が強調さ
れている。
ウィリアムソンの議論では企業内部の雇用関係の分析にあたり、物的資産へ
直接的なアクセスを行う従業員が多くの情報を持つことから機会主義的行動の
危険性を考慮している。
対処策として、ウィリアムソンは従業員による「うわべだけの成果しか挙
げないようなやり方」をとる機会主義的な行動の抑制策として、企業側では
「特異な技術や技法を避け、もっと十分に標準化された」職務の設定を行うか
(ibid.,pp.68-69 =訳 116-117 ページ)、あるいは特殊な技能形成にあたり、OJT
( )6014 駒大経営研究第44巻第 3・4
などの特殊な訓練を実施させる必要があると指摘する。下位の職位として新規
従業員を採用し、経験を積むごとに昇進させる方法を採用すれば、高度な技能
を蓄積した従業員を当該企業で適切に評価を行い、昇進によるインセンティブ
を付与することで従業員の定着を図ることが可能となる。
過剰な労働移動に伴う経済的な損失を防ぐための制度構築を推進する必要か
ら、伝統的な労働市場とは異なる別個の調整メカニズムを概念化した点におい
て、内部労働市場論とウィリアムソン理論は共通している。しかしながら、前
者の観点では労働市場では雇用主と対等な立場に置かれることのない労働者を
念頭に置き、他のメンバーとの相互作用により、当該企業にとって特殊的な技
能の向上が図られるという長期雇用がもたらすメリットを指摘していたのに対
して、後者の観点では機会主義的な行動をとることが想定された強い立場の労
働者を念頭に置いている点に違いが見出せる。
ただし、ウィリアムソンも指摘していたように、企業内で高度なスキルを取
得できたとしても、企業特殊的な能力構築の割合が増加すれば、転職先企業で
の適切な評価がなされないため、ホールドアップ問題が発生し 5、交渉力の低
下が懸念される。そこで、機会主義的な従業員は、他社においても応用可能な
希少性の高い専門能力を身につけようとするため、関係特殊的な投資は低水準
に抑えようとするだろう。
しかしながら、企業の能力構築にあたっては、競合他社からの模倣を防ぐた
めに特殊的な技能を獲得することが収益性を高める大きな要因ともなってい
る。
また、有能な人材が希少である可能性が高いと予想される場合や、その企業
5 本来、ホールドアップ問題は、企業間取引において長期的な関係の構築が必要と
なった場合に、将来の事項を契約条項に記載することは不可能であることから不完
備契約とならざるをえず、取引当事者の機会主義を想定すると、関係特殊的な投資
を行ったとしても、「専有可能な準レント」が発生し、相手方にコントロールされる
ならば投資を回避してしまう事態を示していたが(Klein/ Crawford/ Alchian [1978])、
垂直統合によって企業内部の雇用関係に移行しても関係特殊的な投資に関する問題
は解消されないとみる見解が多い。
( )61 15組織スラックと企業理論
にとって必要な人材であるかを識別する力が企業側に欠如している場合には、
むしろ企業側の交渉力が低下する結果となり、必要な人材を市場から迅速に確
保できる保証はなくなる。したがって、企業が長期的な競争優位を確保しよう
とすれば、利己心が強く、協調的ではないが自発的な能力構築を行える人材を
引き止めたり、そうした人材を支援する協調性の高い従業員を育成したりする
必要が生じてくる 6。
対策としては、企業自体のドメイン(生存領域)を明確に提示することによ
り、企業側が今後要求される技能についての示唆を行うことで、自社の内部で
キャリア形成を希望する従業員に対して長期的な見通しを与える必要がある。
この点に関しては、企業のコア・コンピタンスがどこにあるかを確認し、長
期雇用を想定した人事施策を行う必要性をジャコービィが指摘しており、従来
の人的資源管理論の見直しを求めている(Jacoby [2003])。今後企業内部でキャ
リア形成を行う対象としては、研究開発部門や企画部門などといった、問題の
提案や解決について高度な能力が要求される人材についても雇用期間の長期化
を目指す必要が生じてくる。
そこで現代大企業では、個々のメンバーの持つ知識を結集させ、状況の変化
に応じ分権と集権のバランスを図ることのできる組織の調整メカニズムが求め
られている。近年の企業行動をみると、必要な技術や人材を買収や引き抜きに
よって調達する方法により、短期間で企業活動を拡大、再生させるケースも存
在しているが、外部調達ばかりではなく、既存の人材や設備を活用したイノベー
ション活動も不可能ではない。各従業員のコミットメントを回復させるために
必要なことは、雇用関係が存続し、継続的なキャリア形成が可能であるという
信念を持たせることが必要となる。
6 近年では、従業員の分類法として前者を「A クラス社員」、後者を「B クラス社員」
と名づけ、さらに業績が低く、他の従業員との協調性も低い「C クラス社員」として
区分される。その一例として Huselid/ Beatty/ Becker[2005]を挙げておく。
( )6216 駒大経営研究第44巻第 3・4
4.3 組織能力と無形資産
ブレアを中心としたブルッキングス研究所の諸研究では従業員の育成が組織
能力の構築に寄与する論点を析出している。このプロジェクトでは、企業に備
わる無形資産にまで議論を拡張した考察が行われている 7。無形資産の定義と
しては、ブランドや特許などの他に、従来コストの発生要因と認識されてきた、
アイデアやノウハウを備える人的資源や研究開発(R&D)投資なども含まれて
おり、企業の資産価値のより正確な算出を試みている。
もし企業資産の実態を認識できれば、投資家が根拠なき噂に基づく投資に明
け暮れ、その結果、株価を乱高下させるという事態を極力回避し、自らの判断
に基づく投資を行うことができる。そして経営者は、資産内容に見合った投資
を受けられることで、従業員への教育投資を行い、長期的な組織能力の構築を
推進できる 8。
ブレアの議論では、企業価値の評価にあたり、財産権の変容を認識しようと
する点、そしてステイクホルダー間における信頼関係の醸成という観点をとっ
ている 9。この手法では資産の算定にあたり、研究開発の投資額や従業員の教
育費などが無形資産に計上されるが、単に投資額が多ければ長期的な競争力が
強化されるわけではない。したがって、有効な研究開発の実施や、個々の従業
員が持つ知識を表出させるメカニズムの構築が必要となってくる。コーポレー
7 ブレア=ウォールマンは、無形資産の算出について、経営陣が独自の組織能力を
把握するために、管理ツールとしては有効であることを認めているが、他社との差別
化を確保するため情報の漏洩を懸念し、積極的な情報開示を拒む事態を想定している
(Blair / Wallman [2001] chap.1-2.)。そこで、政府機関によって無形資産へのコント
ロール権を保護すべく、知的財産権の改善を要求している(ibid., chap.3・chap.6)。またブレアたちの議論は、無形資産を知的財産権とみなすことで、デムゼッツ(H. Demsetz)が政府機関を財産権の承認とその保護機関としての役割と主張した所有権
理論の立場の補完的な役割を担っているとも考えられる。
8 ブラック=リンチによれば、人的資本への積極的な投資を行った企業は財務業績
や生産性が高まっていることを示している(Black / Lynch [1996])。
9 この手法では、判例法の展開をふまえつつ、取締役とステイクホルダーとの関係を、
「誠実性」や「信頼」の概念に基づいて分析がなされており、取締役会の役割を、「調
停のヒエラルキー」の頂点として理解する(Blair / Stout [1999])。
( )63 17組織スラックと企業理論
ト・ガバナンスの問題を解決するにあたっては、財産所有者の利害を保護する
だけではなく、企業の内外に存在する有形・無形の資産についての多角的な検
討が必要となることが理解できるだろう。
したがって現代企業においては、株主や債権者の利害ばかりを強調するだけ
でなく、従業員、あるいは顧客といった多様なステイクホルダー間の調整をは
かることが企業の事業活動を継続するうえで必要不可欠となっている。
従来、利己的かつ自発的な能力構築を目指す従業員層を企業内に繋ぎ止める
ための施策としては、ストックオプション制度を導入し、自社株の取得により
株主となって、所属企業への帰属意識を高めようとする動きが多くみられたが、
株式市場以外の金融市場に機関投資家の投資資金が移動するなど、株価形成の
外部的な要因に左右されることから、特殊的な能力構築が株価上昇へと結実せ
ず、従業員のインセンティブとはならない場合も少なくない。
そこで、組織の調整メカニズムの考察にあたっては、経営戦略の策定と人事
管理施策とを関連付け、独自性を持った組織能力の構築についての理論化を行
う必要がある。
たとえば産業間の障壁の低下に伴う新規参入や、顧客の嗜好の変化などを加
味すると、チャンドラー理論で示された、経営者による経営戦略の構築とこれ
に対応した組織構造の形成を指摘するだけでは企業組織の実態の理解は不完全
となる。そこで、人事管理の手法を経営戦略の策定プロセスに組み込み、人的
資源の活用を組織能力の中核に位置づける。そして、慣習や制度の可塑性を考
慮に入れ、他社には存在しない個別的な知識やノウハウの活用にあたり、経営
戦略に対応する従業員の主体的な取り組みを析出する必要がある。
チャンドラーが詳細に示さなかった従業員管理の問題に関しては、ラゾニッ
クが組織能力の構築にあたり、各々の従業員が保有する知識を結集させるため
の長期的なコミットメントの必要性がある点を歴史研究から明らかにしてお
り、チャンドラーの見解を補強することができる(Lazonick [1993] ・ Lazonick
/ Mass [1995])。そしてラゾニックは多角化した現代大企業が革新的な活動を
遂行するために、「戦略的なコントロール」(strategic control)、「組織的な統合」
( )6418 駒大経営研究第44巻第 3・4
(organizational integration)、そして「財務の充当」(financial commitment)と
いう、三つの制度的な要因の組み合わせの重要性を指摘した(Lazonick[2001])。
このうち経営戦略に関しては、企業の内部資源に着目する初期チャンドラーの
観点に近いが、組織構造の形成については、従業員の能力構築に関し、当該企
業との長期的な関わりによってスキルを向上させる観点が付加され、さらに企
業財務の問題では株主主権論などで強調される短期的な支払能力を重視するバ
ランスシートの改善を追求するよりも、投資の回収に時間のかかる人材育成や
研究開発活動を推進するために、長期的な企業金融が必要とされる点を指摘し
ている。このため、イノベーション活動を推進する現代大企業は、新古典派や
契約論の手法で指摘された単なる経済効率的な資源調整メカニズムとしての役
割を越え、社会的な制度としての側面を考慮する必要があるだろう。
この結果、長期継続的な投資を遂行してきた取引当事者が組織から退出する
場合には、有形資産の特殊な利用の仕方や他のメンバーとの関係構築能力の多
くを喪失する結果となり、他の企業と雇用契約を締結する際に交渉力が低下す
る可能性が高い。個々の企業がもつ独自の競争能力については、従業員の長期
的な関わりによって構築されてきたケースが多いために、さらに長期継続的な
雇用関係のなかから従業員の能力を引き出す論理が求められる。
そこで、雇用関係の変質についての理解が不可欠となってくる。近年では、
命令-服従の関係を基礎とする雇用関係の下にありながら、従業員に権限が積
極的に委譲され、自由裁量の余地が拡大しているケースが増加している。この
結果、ホワイトカラー従業員やエンジニアなどでは「請負仕事に近くなる」雇
用関係が生じつつある(森[2003] 13 ページ)10。ここから当事者間の「契約
の自由」の観点に立ち、市場原理に基づく伝統的な雇用関係に戻そうとする動
きも見受けられるが、従業員の自発的な行動は、単なる経済的な要因のみによっ
10 なお、森氏は雇用関係の下で裁量労働制が進展した場合、長時間労働が促進され
るために、一つの企業との間でしか雇用関係を結べないとする「一身専属性の原理」
に基づく雇用関係から離れ、複数の企業との取引を行う、自立的な請負労働へと転
化する可能性を示唆している(森[2003])。
( )65 19組織スラックと企業理論
て引き出すことは難しく、職務内容の充実や他者との関係性のなかから生じて
くる。3M の「15%ルール」やグーグルの「20%ルール」に見られるように、
勤務時間の一部を従業員の自由裁量に委ねることで、個々の従業員の知的好奇
心を向上させつつ、所属企業への帰属意識を高めることで、有能なコア従業員
の確保や引き留めへの施策を講ずる企業も出現しており、自由な研究活動を支
援する施設の充実が図られている11。このように、従業員施策として組織スラッ
ク再評価の兆候が見受けられ、企業理論の再構築にあたり、こうした観点に着
目すべきである。
5.おわりに
以上、本稿においては、ウィリアムソンの企業理論の変遷を中心として、
1960 年代の組織スラック論を前提とした企業理論から、効率的な資源分配が
求められ、企業特殊的な投資活動や雇用関係の問題点が指摘され、市場による
調整へとシフトする企業理論へと転化する過程をふまえつつ、企業特殊的な能
力構築の意義はまだ残され、依然として長期的な雇用関係が継続するため、企
業理論においても一定の組織スラックの確保が必要とされることを論じてき
た。
企業における他社への競争優位性の確保のためのイノベーション活動を推進
する際、組織内部の知識の過不足を確認し、内製するか外注とするかを決定す
るためには、企業特殊的な能力の蓄積を行ったコア従業員の役割が必要とされ
るだろう。企業内部で製品開発活動が必要とされる場合に、株主や債権者との
コンフリクトの解決が求められ、企業外部のサプライヤーから関係特殊的な投
資を要求する不完備契約の締結を目指す場合には、サプライヤーとの適切な交
渉が要求されるが、いずれの場合においても、コア従業員の保有する特殊なス
11 グーグルをはじめとする、知的活動を促進する「組織スラックとしてのオフィス
空間」の必要性を指摘する報告として、百嶋[2011]が参考となる。
( )6620 駒大経営研究第44巻第 3・4
キルが要求され、継続的な組織への参加の動機づけ施策として、組織スラック
の機動的な役割が必要とされる。
もちろん、1970 年代以前のように、公正な資源分配を超過し、情報優位に
立つ内部メンバーが情報劣位な外部ステイクホルダーに対し、機会主義的な活
動を行うことは企業価値の低下をもたらすが、事業活動の「選択と集中」によっ
て、新事業の芽を摘み取り成長の機会を逸する事態、あるいは主力事業の衰退
に伴う急激な業績低下を招くケースも少なくない。
したがって、不確実性への対処にあたり、一定の組織スラックを確保し、コ
ア従業員を中心として長期的かつ企業特殊的な能力構築を推進する意義は依然
として残されており、企業理論においてもステイクホルダー間のコンフリクト
を機動的に解決するうえで組織スラックを考慮に入れた理論構築の必要性は失
われることはないだろう。
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