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有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」 – 1 – 名城大学理工学部応用化学科 第6回「不斉炭素を持つ化合物」 有機化合物には、構成原子の種類と数が同じであるのに、異なる化合物であるものが 多数存在する。これらを異性体 isomer と呼ぶ。異性体の中には、原子のつながる順序 がそもそも異なっているもの(構造異性体 constitutional isomer)と、原子のつながる 順序は同じだが、原子の空間配置が異なっているもの(立体異性体 stereoisomer)の二 種類がある。 これまでに学んだ立体異性体には、配座異性体とシス・トランス異性体がある。この うち配座異性体は、通常は互いに極めて速く移り変わって平衡状態になっているため、 同一の化合物とみなすことができる。一方、シス・トランス異性体は、結合を切断しな い限り移り変わることができないので、別の化合物である。 しかし、これらとは異なるタイプの立体異性体も存在する。その中で特に重要なのは、 分子内に不斉中心 asymmetric center を持つ分子について現れる異性体である。今回は、 そのような異性体について学ぶ。 1. 不斉炭素・不斉中心 不斉炭素 asymmetric carbon とは、4つの異なる置換基が結合した四面体型の炭素原 子のことである。たとえば、1個の炭素に4つの異なる原子(青、赤、黄、緑)が結合 した分子を想定してみる。 上の2つの分子は、異なる物体である。これらの間の関係は、みなさんの右手と左手 の間の関係と似ている。右手と左手は極めてよく似ているが、全く同じ形ではない(そ の証拠に、右手用の手袋を左手にはめることはできない)。一方、右手を鏡に映すと、 左手と全く同じ形になる。逆に、左手を鏡に映すと、右手と全く同じ形になる。 左手 右手 左手 鏡に映した 左手 同じ 違う

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  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 1 – 名城大学理工学部応用化学科

    第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    有機化合物には、構成原子の種類と数が同じであるのに、異なる化合物であるものが多数存在する。これらを異性体 isomerと呼ぶ。異性体の中には、原子のつながる順序

    がそもそも異なっているもの(構造異性体 constitutional isomer)と、原子のつながる順序は同じだが、原子の空間配置が異なっているもの(立体異性体 stereoisomer)の二種類がある。

    これまでに学んだ立体異性体には、配座異性体とシス・トランス異性体がある。このうち配座異性体は、通常は互いに極めて速く移り変わって平衡状態になっているため、同一の化合物とみなすことができる。一方、シス・トランス異性体は、結合を切断しな

    い限り移り変わることができないので、別の化合物である。 しかし、これらとは異なるタイプの立体異性体も存在する。その中で特に重要なのは、

    分子内に不斉中心 asymmetric centerを持つ分子について現れる異性体である。今回は、

    そのような異性体について学ぶ。

    1. 不斉炭素・不斉中心

    不斉炭素 asymmetric carbonとは、4つの異なる置換基が結合した四面体型の炭素原子のことである。たとえば、1個の炭素に4つの異なる原子(青、赤、黄、緑)が結合した分子を想定してみる。

    上の2つの分子は、異なる物体である。これらの間の関係は、みなさんの右手と左手の間の関係と似ている。右手と左手は極めてよく似ているが、全く同じ形ではない(そ

    の証拠に、右手用の手袋を左手にはめることはできない)。一方、右手を鏡に映すと、左手と全く同じ形になる。逆に、左手を鏡に映すと、右手と全く同じ形になる。

    黄青

    赤 赤

    左手 右手 左手 鏡に映した左手

    同じ違う

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 2 – 名城大学理工学部応用化学科

    このように、鏡に映すと違う形になる物体のことをキラル chiralであるという。右手、左手はキラルな物体の典型例である。「キラル」という言葉はギリシャ語の「手」χείρ, cheir に由来する。先ほどの分子は、互いに異なる形であるが、左側のものを鏡に映すと右側のものになる。従って、この分子はキラルであると言える。 この分子がキラルである原因は、不斉炭素を1個持つことである。有機化合物の中に

    は、炭素以外の原子がキラルである原因になっていることもある。そのような原子のこ

    とを不斉中心 asymmetric center と呼ぶ。ただし、本講義で登場する不斉中心はほとんどすべてが不斉炭素である。 なお、互いに鏡像である分子が異なる形であることを表す用語として、しばしば「重

    ね合わせることができない」(non-superposable)という表現を使うので、覚えておこう。「重ね合わせることができない」というのは、下のような状況を表している。同じ形であれば、分子の向きを適切に合わせれば、ぴったり重ね合わせることができる。

    2. 不斉炭素を1つ持つ分子

    実在する有機化合物で、不斉炭素を持つものについて考察しよう。当面は、不斉炭素の数は1つだけとする。典型的な例は、2-ブロモブタンである。

    臭素原子を黄色で表すことにして、2-ブロモブタンの分子モデルを作ってみよう。

    CH3CH2 CH CH3Br

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 3 – 名城大学理工学部応用化学科

    臭素原子が結合している炭素原子が不斉炭素である。このように、不斉炭素を1つだけ持つ分子は必ずキラルになる。上の二種類の分子は互いに鏡像であり、しかも重ね合わせることができない(モデルで確かめること)。このように、互いに鏡像で、かつ重

    ね合わせることができない2つの分子のことを、互いにエナンチオマー enantiomer であるという。エナンチオマーは立体異性体の一種である。

    注1:「キラル」と「エナンチオマー」の使い分けに注意しよう。「キラル」は形容詞(日本語では形容動詞の語幹)、「エナンチオマー」は名詞である。また、「エナンチオマー」は「互いに鏡像である2つの分子のうちの1つ」を意味するので、「A はエナンチオマーである」という表現は意味をなさない。「Aは Bのエナンチオマーである」または「Aと Bは(互いに)エナンチオマーである」というように使う。一方、「キラル」は単一の分子について成り立つ性質なので、「Aはキラルである」というように使う。「Aは Bのキラルである」という表現は誤りである。

    2-位の水素原子と臭素原子を入れ替えると、下のようになる。この2つの分子は、重

    ね合わせることができる。モデルで確かめること。

    さて、この分子の立体構造を構造式で表すことにしよう。これまでも強調してきたことだが、有機分子の立体構造を自在に論じるためには、紙の上に書かれた構造式を見て立体構造を頭に思い浮かべる訓練をする必要がある。不斉炭素を持つ有機分子の立体構

    造を紙面に表現するのに最も適した方法は、すでに学んだ透視式である。2-ブロモブタンの2種類の立体構造を透視式で表すと、下のようになる。

    これらの構造式を、下のように描くこともある。Br の根元にある水素原子が省略さ

    れている。その水素原子は紙面から手前側に出ていることにも注意する。

    構造式を見て、どの炭素原子が不斉炭素かを判別できるようにしなくてはならない。判断基準は、「4つの異なる置換基が結合しているかどうか」である。くさび形の結合

    で立体が示されているかどうかは問題ではない。例えば、下の分子の中心の炭素原子は、

    CH3CH2 CCH3

    H Br

    CH2CH3CCH3

    HBr

    Br Br

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 4 – 名城大学理工学部応用化学科

    いずれも2つの同じ置換基を持っているので、不斉炭素ではない。従って、これらの分子はキラルではない。キラルでない物体のことを、アキラル achiral であるという。”a”は否定を表す接頭語である。

    一方、下の分子で*のついた炭素原子はいずれも不斉炭素である(理由を考えて、理解すること)。従って、これらの分子はキラルである。

    なお、不斉炭素になりうるのは、正四面体型構造を持つ sp3 炭素のみである。平面構

    造・直線構造を持つ sp2, sp 炭素は、たとえ結合している置換基がすべて異なっていたとしても、不斉炭素にはならない。平面・直線構造であれば、鏡に写したものとは必ず重ね合わせることができるためである。

    3. 不斉炭素の立体配置: R, S 表記

    2-ブロモブタンの二つのエナンチオマーについて論じるとき、いちいち図を示して説明しないといけないのは不便である。このため、二つのエナンチオマーを名前で区別する方法が必要である。それには、不斉炭素の周りの置換基の立体的な位置関係を表記す

    る方法があればよい。このための規則として、「R,S表記」(R, S system) がある。 不斉炭素の周りの置換基の位置関係のことを立体配置 configuration と呼ぶ(「立体配

    座」とは異なるので注意。立体配座は結合の回転に伴う置換基の位置関係のことである)。

    R, S表記は、不斉炭素の立体配置を表すための表記法である。 ある不斉炭素の立体配置が R, S のどちらで表されるかは、以下の手順で決定する。

    1. 不斉炭素に結合している4つの置換基に、以下の優先順位則に従って順位をつける。

    ・不斉炭素に直接結合している原子の原子番号が大きい方が上位とする。 ・原子番号が同じである場合は、その次に結合している原子同士を比較し、原子番

    CH3 CCH3

    H Br

    CH3 CCl

    H Cl

    HOC

    H

    H3C CH3

    CH3CH2CHCH3OH

    *CHCl

    CH3

    CH3CH2

    * O *

    Cl

    spsp2

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    – 5 – 名城大学理工学部応用化学科

    号が大きい方を上位とする。 ・二重結合・三重結合でつながっている原子は、同じ原子が2個・3個つながっているものとして比較する。

    2-ブロモブタンについて検討してみよう。不斉炭素に結合している4つの置換基は、H, Br, CH3, CH2CH3 である。不斉炭素に直接結合している原子はそれぞれ H, Br, C, C なので、Brが最上位、Hが最下位である。

    CH3と CH2CH3はこの時点では「引き分け」なので、次の原子に進む。次に結合し

    ている原子は、CH3について「H, H, H」、CH2CH3については「C, H, H」である。Cが一つあるので、CH2CH3の方が上位となる。

    このとき、原子番号を足し合わせて比較してはいけない。一番大きな原子番号のものから順に比較していく。たとえば、–CH2OHと–CH(CH3)2だと「O, H, H」と「C, C, H」の比較になり、Oが一つある方が上位となる。

    また、CH3よりも CH2CH3の方が上位であることから、「分子量の大きな方が上位である」と思い込んでいる人がよくいるが、これは誤りである。「結合している原子の原子番号を順に比較する」というのが正しい。たとえば、–Cl と –CBr3 だと、Cl の方が

    上位である。直接結合しているのは Cl と C で、Cl > C だからである。 二重結合・三重結合に関する規則は、例えば次のような場合に適用される。

    最下位は Hで確定だが、残りの3つについては、最初の原子が Cで「引き分け」なので、次の原子に進む。–CH2CH3 については「C, H, H」、–CH=CH2については Cが二重結合なので「2つ」と数えて「C, C, H」、–C≡CH については Cを三つと数えて「C,

    CH3CH2 CCH3

    H Br14

    2, 3

    CHH

    HC CH3

    H

    H

    CH3CH2 CC

    H C

    CH

    CH

    H

    H

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 6 – 名城大学理工学部応用化学科

    C, C」となる。従って、順位は –C≡CH > –CH=CH2 > –CH2CH3 となる。 2. 順位が決まったら、最下位の置換基の反対側から分子を見る。言い換えると、最下位の置換基が自分から一番遠くなるように分子を置く。

    3. 残りの3つの置換基を順位に沿ってなぞると、時計回りまたは反時計回りのどちらかを描くことになる。時計回りならば立体配置は R、反時計回りなら Sと定める。

    従って、この物質の正式な系統名は、(S)-2-ブロモブタンとなる。 (R), (S)を定めるのに用いた「置換基の優先順位」を決める規則を順位則と呼ぶ。順

    位則は、不斉炭素の立体配置だけでなく、二重結合まわりの立体異性体(シス・トランス異性体)を区別するのにも用いられる。「アルケン」の項で改めて述べる。

    4. 透視図で書かれた分子を立体的に動かす

    上記の手順で、2.の「最下位の置換基が自分から一番遠くなるように分子を置く」というところが最も難しい。紙に書かれた透視図を元に、立体的に動かしたときの状況を

    想像する能力を磨かなくてはならない。 下の分子について、「紙の上で」立体的に動かす練習をしてみよう。(この分子に特に

    意味はないが、置換基が区別できるようにすべて異なるものにしてある。)

    (1) 分子全体を水平軸・垂直軸の周りに回転させる よく使うのは、紙面内の水平軸、垂直軸の周りの 180° 回転である。垂直軸の周りに

    180° 回転させると、下のようになる。

    CH3CH2 CCH3

    H Br14

    32CH2CH3C

    CH3

    HBr

    3 2

    1 4

    CH2CH3CCH3

    HBr

    3 2

    1 4(S)-

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    CH3

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    – 7 – 名城大学理工学部応用化学科

    この回転では、置換基の位置が次のように変わる。(i) 「右」と「左」が入れ替わる。

    (ii) 「手前」と「奥」が入れ替わる。(iii) 「上」と「下」は変わらない。例えば、NH2基は回転前に「右・下・手前」だったものが、回転後は「左・下・奥」になっている。 水平軸の周りに 180° 回転させると、下のようになる。

    この場合は、「上」と「下」、「手前」と「奥」が入れ替わり、「右」と「左」は変わらない。NH2基は「右・上・奥」に移動している。 紙面内で回転させることもある。これは、紙面に直交する軸の周りの 180° 回転に相

    当する。

    この場合は、「上」と「下」、「右」と「左」が入れ替わり、「手前」と「奥」は変わら

    ない。NH2基は「左・上・手前」に移動している。 (2) ある特定の結合を回転させる 「アルカン」の章で学んだとおり、単結合は回転させることができる。最初に述べた

    とおり、単結合周りの回転による配座異性体は同一視されるので、下の2つの分子は同一物質である。

    左の構造から右の構造に移行するには、真ん中の C–C 結合を軸として、分子の右半

    分を 120° 回転させればよい。四面体構造の3つの置換基(COOH, D, NH2)の位置が順に入れ替わっていることがわかる。

    180

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3CCC

    HOOC

    DH2N

    HOH

    CH3

    180

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3CCC

    H3C

    HHO

    DNH2

    COOH

    180

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3CC C

    CH3

    OHH

    H2ND

    HOOC

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3CC C

    D

    COOHNH2

    HOH

    H3C

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 8 – 名城大学理工学部応用化学科

    (3) ある方向に置いた鏡に映す (1)(2) は「回転」なので、移動前と移動後は同一の立体異性体である。一方、キラル

    な物質の立体異性体を考える場合には、鏡に映してエナンチオマーに変換して、構造を比較したい場合がある。そこで、鏡に映すやり方にも慣れておく必要がある。 鏡に映す場合は、「左右反転」「上下反転」「前後(手前と後ろ)反転」の三通りにつ

    いて理解しておけばよい。左右反転の場合は、「左」「右」が入れ替わり、「上」「下」、「手前」「奥」は変化しない。同様に、上下反転の場合は「上」「下」だけ、前後反転の場合は「手前」「奥」だけが入れ替わる。

    5. 光学活性

    ある物質の(R)体と(S)体は、融点・沸点・蒸気圧・密度など多くの物理的性質が同じである。これらが異なる物理的性質を持つことはあるのだろうか。

    1815年、フランスの物理学者 Jean-Baptiste Biotは、ある種の天然有機化合物が偏

    光の向きを回転させる現象を見出した(偏光とは、電磁場がある特定方向にのみ振動している光のことである)。偏光面が回転する現象自体は、この少し前に水晶の結晶に対して見つかっていたが、液体試料でこの現象が観測されたのはこの時が最初だった。

    Biot はこの現象の原因について、液体中の分子の立体構造に非対称性があるためと推測した。後に、Louis Pasteur が初めてエナンチオマーの分離に成功した時、彼は二種類の物質が偏光面を互いに逆の方向に回転させることを確かめた。

    キラルな物質による偏光面の回転は、簡単な実験で確かめることができる。偏光フィルムを2枚用意する。偏光フィルムには向きがあり、向きを 90°ずらして2枚を重ねると光を通さず真っ黒に見える。これは、1枚目のフィルムを通った光が特定方向にのみ

    振動する偏光となっており、2枚目のフィルムは 90°ずれているためその方向を遮断するからである。ここで、2枚の偏光フィルムの間に、エナンチオマーの一方だけを含む

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3C

    120

    C CD

    COOHNH2

    HOH

    H3C

    C CCOOH

    NH2D

    HOH

    H3CCC

    HOOC

    H2ND

    OHH

    CH3

    CCH3C

    HOH

    NH2D

    COOHC C

    COOH

    DNH2

    HHO

    H3C

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 9 – 名城大学理工学部応用化学科

    溶液を置くと、溶液を通った光は偏光面が回転するため、2枚目のフィルムを通過できるようになる。

    このように、偏光面を回転させる性質がある物質は、光学活性 optically active と呼ば

    れる。キラルな物質のそれぞれのエナンチオマーは、光学活性である。アキラルな物質は、光学活性ではない。しかしながら、キラルな物質であっても、両方のエナンチオマーの1:1の混合物である場合は、光学活性ではない。このような混合物のことを、ラ

    セミ体 racemate と呼ぶ。 ラセミ体は、特別なものというわけではなく、むしろありふれたものである。例えば、

    先ほどから何度も例に挙げた 2-ブロモブタンを考えてみよう。この物質は、不斉炭素を

    1つ持つため、キラルである。しかし、この物質を、trans-2-ブテンに対する HBr の付加反応(後に学ぶ)で合成すると、得られる生成物はラセミ体になる。

    光学活性でない物質(アキラルであるか、またはラセミ体)同士の反応では、光学活性な生成物が得られることはない。光学活性な生成物を得たい場合には、何らかの形で

    光学活性なものを反応系に加える必要がある。特に、医薬品や農薬などについては、多くの場合キラルな物質の一方のエナンチオマーだけを得る必要があるため、合成には特別な工夫を要する。

    C CH3C

    H CH3

    H+ H Br C C

    H3CH

    CH3

    H

    BrH

    C CH3CH

    CH3

    H

    BrH C C

    H3C

    BrCH3

    H

    H

    H

    (S)- (R)-

    1 : 1

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 10 – 名城大学理工学部応用化学科

    注2:これは単なる経験則ではなく、化学反応を制御している物理法則(力学・電磁気学)が空間反転に対して対称であることから必然的に導かれる。

    逆に、光学活性な物質の反応で、光学活性でない生成物が得られることは頻繁にある。特に、単一のエナンチオマーだった反応物が、反応後に両方のエナンチオマーの混合物

    を与えることを、ラセミ化 racemization と呼ぶ。

    6. 2つ以上の不斉炭素を持つ分子

    次に、2つの不斉炭素を持つ分子について考察しよう。例として、3-クロロ-2-ブタノールを取り上げる。2-, 3-位の炭素原子がどちらも不斉炭素であることを確かめよう。

    この分子には、4つの立体異性体が可能である。2つの不斉炭素の立体配置で言うと、「R, R」「R, S」「S, R」「S, S」の4つである。透視式で書き出すと、次のようになる。

    この場合、RS表示を系統名に加えるためには、「どの炭素原子の立体配置を表しているのか」を位置番号で特定しなくてはならない。たとえば、次のようになる。

    これら4つの立体異性体の関係を調べてみよう。まず、(R, R)体と(S, S)体は互いにエナンチオマーである。つまり、鏡に映すとお互いに相手の分子と同じになる。(R, S)体と(S, R)体も同様である。

    CH CH CH3Cl

    CH3OH

    **

    C(S)(S)

    C(S)(S)

    H3CH

    CH3

    H

    HOCl

    C(R)(R)

    C(R)(R)

    H3CHO

    CH3

    Cl

    HH C

    (R)(R)C

    (S)(S)

    H3CHO

    CH3

    H

    HCl C

    (S)(S)C

    (R)(R)

    H3CH

    CH3

    Cl

    HOH

    C(R)(R)

    C(S)(S)

    H3CHO

    CH3

    H

    HCl (2R,3S)-3- -2-

    C(R)(R)

    C(R)(R)

    H3CHO

    CH3

    Cl

    HH C

    (S)(S)C

    (S)(S)

    H3CH

    CH3

    H

    HOCl

    C C

    H3C

    H

    CH3

    H

    HOCl

    C(R)(R)

    C(S)(S)

    H3CHO

    CH3

    H

    HCl C

    (S)(S)C

    (R)(R)

    H3CH

    CH3

    Cl

    HOH

    C CH3C

    HCH3

    Cl

    HO

    H

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 11 – 名城大学理工学部応用化学科

    それでは、(R, R)体と(R, S)体はどうだろうか。これらは、鏡に映しても互いに移り変わることはない。従って、これらは互いにエナンチオマーではない。また、3-位の炭素の立体配置が異なるので、同じ分子でもない。このように、互いにエナンチオマーで

    なく配座異性体でもない立体異性体のことを、ジアステレオマー diastereomer と呼ぶ。ジアステレオマーの定義はたいへん広く、シス・トランス異性体もジアステレオマーの一種と言える。

    2つの不斉炭素を持つ分子の場合、不斉炭素が存在するにも関わらずアキラルになることがある。たとえば、2,3-ジブロモブタンを考えてみる。

    先ほどと同じように、4種類の組み合わせを書き出してみよう。

    (R, R)体と(S, S)体は、先ほどと同じように互いにエナンチオマーである。

    ところが、(R, S)体と(S, R)体は、よく見ると同じものであることがわかる。

    C(R)(R)

    C(R)(R)

    H3CHO

    CH3

    Cl

    HH C

    (R)(R)C

    (S)(S)

    H3CHO

    CH3

    H

    HCl

    C(S)(S)

    C(R)(R)

    H3CH

    CH3

    Cl

    HOHC

    (S)(S)C

    (S)(S)

    H3CH

    CH3

    H

    HOCl

    CH CH CH3Br

    CH3Br

    **

    C(S)(S)

    C(S)(S)

    H3CH

    CH3

    H

    BrBr

    C(R)(R)

    C(R)(R)

    H3CBr

    CH3

    Br

    HH C

    (R)(R)C

    (S)(S)

    H3CBr

    CH3

    H

    HBr C

    (S)(S)C

    (R)(R)

    H3CH

    CH3

    Br

    BrH

    C(R)(R)

    C(R)(R)

    H3CBr

    CH3

    Br

    HH C

    (S)(S)C

    (S)(S)

    H3CH

    CH3

    H

    BrBr

    C C

    H3C

    H

    CH3

    H

    BrBr

  • 有機化学Ⅰ 講義資料 第6回「不斉炭素を持つ化合物」

    – 12 – 名城大学理工学部応用化学科

    つまり、(R, S)体は、自分自身の鏡像と重ね合わせることができるので、アキラルである。このように、不斉炭素を持つにも関わらずアキラルである物質のことを、メソ化

    合物 meso compound と呼ぶ。 (R, S)体がキラルでないことは、下の図からもわかる。2つのメチル基が同じ側にあ

    る重なり型の立体配座を考えると、分子自体が対称面を持つことがわかる。不斉炭素を

    持っていても、自分自身が対称面または対称中心を持つ分子は、アキラルであり、従ってメソ化合物である。

    7. 今回のキーワード

    ・構造異性体、立体異性体、配座異性体、シス・トランス異性体 ・不斉炭素

    ・立体配置(立体配座との違い) ・エナンチオマー ・キラル、アキラル

    ・立体配置の R, S表記 ・順位則 ・透視図を立体的に動かす

    ・偏光 ・光学活性 ・ラセミ体、ラセミ化

    ・2個の不斉炭素を持つ化合物、ジアステレオマー ・メソ化合物 【教科書の問題(第4章)】

    15, 38, 67, 73, 76, 77

    C(R)(R)

    C(S)(S)

    H3CBr

    CH3

    H

    HBr C

    (S)(S)C

    (R)(R)

    H3CH

    CH3

    Br

    BrHC

    (R)(R)C(S)(S)

    CH3H

    H3C

    Br

    BrH

    C(R)(R)

    C(S)(S)

    H3CBr

    CH3

    H

    HBr C C

    H3CBrH

    CH3

    HBr