第4期 不況、戦時体制下の地方自治第4期 不況、戦...

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我が国の地方自治の成立・発展 第4期 我が国の地方自治の成立・発展 第4期 第4期 不況、戦時体制下の地方自治 第4期 不況、戦時体制下の地方自治 (1930-1945年) (1930-1945年) 井川 井川 政策研究大学院大学教授 政策研究大学院大学教授 財団法人 自治体国際化協会( 財団法人 自治体国際化協会(CLAIR CLAIR政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター( 政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター(COSLOG COSLOG

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我が国の地方自治の成立・発展 第4期我が国の地方自治の成立・発展 第4期

第4期 不況、戦時体制下の地方自治第4期 不況、戦時体制下の地方自治(1930-1945年)(1930-1945年)

井川 博井川 博

政策研究大学院大学教授政策研究大学院大学教授

財団法人 自治体国際化協会(財団法人 自治体国際化協会(CLAIRCLAIR)

政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター(政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター(COSLOGCOSLOG)

本誌の内容は、著作権法上認められた私的使用または引用等の場合を除き、無断で転載できません。

引用等にあたっては出典を明記してください。

問い合わせ先

財団法人 自治体国際化協会(総務部企画調査課)財団法人 自治体国際化協会(総務部企画調査課)

〒102-0083 東京都千代田区麹町1-7相互半蔵門ビル

TEL: 03-5213-1722 FAX: 03-5213-1741

Email: [email protected]

URL: http://www.clair.or.jp/

政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター政策研究大学院大学 比較地方自治研究センター

〒106-8677 東京都港区六本木7-22-1

TEL: 03-6439-6333 FAX: 03-6439-6334

Email: [email protected]

URL: http://www3.grips.ac.jp/~coslog/

(財)自治体国際化協会及び政策研究大学院大学では、平成 17 年度より「自治制度及び運

用実態情報海外紹介等支援事業」を実施しています。同事業は、現在、海外に対する我が

国の自治制度とその運用の実態に関する情報提供が必ずしも十分でないとの認識の下、我

が国の自治制度とその運用の実態に関する外国語による資料作成を行うとともに、国内外

の地方自治に関する文献・資料の収集などを行うものです。

平成22年度には、前年に引き続き、『自治関係の主要な統計資料の英訳』、『アップ・ツー・

デートな自治関係の動きに関する資料』、『分野別自治制度及びその運用に関する説明資料』

『我が国の地方自治の成立・発展』の作成などを行うとともに、比較地方自治研究センタ

ーに収蔵すべき国内外の地方自治関係文献・資料の調査を行うこととしました。

本事業にご尽力頂いた研究委員会の委員各位、またご意見、ご協力頂いた方々に心より

感謝申し上げます。

平成 23 年 3 月

財団法人自治体国際化協会 理事長 木村 陽子 政策研究大学院大学 学長 八田 達夫

はしがき

本冊子は、平成 17 年度より、政策研究大学院大学比較地方自治研究センターが財団法人

自治体国際化協会と連携して実施している「自治制度及び運用実態情報海外紹介等支援事

業」における平成 22 年度の成果の一つをとりまとめたものです。同事業は、「自治制度及

び運用実態情報海外紹介等支援事業に関する研究委員会」を設置し、それぞれの細事業ご

とに、「主査」、「副査」をおいて実施されています。

同事業のうち、『我が国の地方自治の成立・発展』(全 10 冊)の作成については、我が国

の地方自治の成立、発展の経緯、歴史について研究を進めることは、今後の各国における

地方自治の発展を考える上で参考になる点が多いとの考えのもと、平成 20 年度からその検

討を進めることとしました。以下の委員を中心に検討が進められ、21 年度から 22 年度にか

けて、各委員により冊子として順次とりまとめられる予定になっています。

(主査)井川 博 政策研究大学院大学教授

上子 秋生 立命館大学政策科学部教授

(副査)小西 敦 全国市町村国際文化研修所調査研究部長

小山 永樹 前筑波大学大学院図書館情報メディア研究科准教授

(平成 21 年 3 月まで)

中平 真 金沢大学大学院人間社会環境研究科教授(平成 21 年 5 月から)

松藤 保孝 高崎経済大学地域政策学部教授

本冊子は、『我が国の地方自治の成立・発展』シリーズの Vol.4 として、1930-1945 年(第

4 期)における日本の地方自治の発展の経緯、歴史について執筆したものです。

第 4 期(1930-1945 年)は、不況が深刻化する中で軍部が台頭し、ついには太平洋戦争に

突入する中で、戦争の遂行が最優先の目的となり、戦時体制の整備が進められた時代であ

るといえます。本稿では、こうした時代の流れや国政の動きに触れるとともに、地方自治

制度の変化や地方行財政の運営の歴史について述べています。

貴重なご意見、ご助言をいただいた研究会の委員各位に、心から感謝申し上げます。

平成 23 年 3 月

「自治制度及び運用実態情報海外紹介等支援事業に関する研究委員会」座長

政策研究大学院大学教授 井川 博

1

第 4 期 不況、戦時体制下の地方自治 (1930-1945 年)

政策研究大学院大学 教授 井川 博

はじめに

第 4 期(1930 年(昭和 5 年)-1945 年(昭和 20 年))には、不況が深刻化する中で、1932

年に五・一五事件、1936 年には二・二六事件が発生した。軍部が台頭していく中で、1931

には満州事変が、1937 年には日中戦争(日華事変)が起き、ついに 1941 年 12 月、日本は米

英に宣戦することとなり、太平洋戦争に突入した。

1929 年の世界恐慌の発生と緊縮財政の実施により、我が国の経済は大きな打撃を受け、農

村の不況は危機的な状況となった。こうした中で、1932 年から時局匡救事業が実施され、農

村経済更生運動が推進された。また、救護法の施行や健康保険法の改正など社会福祉関係の

立法が進められ、工場法や医師法が改正されるなど労働行政や衛生行政にも進展が見られた。

しかし、この時代の地方自治の 大の特徴は、戦争の遂行が 優先の目的となる中で、全

国民を動員し戦争を効果的に実施するための体制を構築しようとしたことにある。例えば、

1938 年に国家総動員法が成立し戦時体制の整備が進められる中で、部落会、町内会などの末

端行政機関が整備された。また、地方自治体の戦争関連業務が増加し、1943 年には府県制、

市制、町村制の改正のほか、東京都制が実施されるなど、円滑な戦争の遂行を目指して地方

自治の仕組みの変更、整備が進められた。その意味では、1910 年代から 20 年代にかけて発

展してきた日本の地方自治制度も、戦時体制が強まる中で、中央政府の統制が強い仕組みに

変わっていった。さらに、選挙制度においても、議員の任期延長に関する法律が制定される

など、戦時に対応するため処置がとられた。

一方、太平洋戦争が長期化し、戦局が悪化するにつれ、生活必需品が欠乏するなど国民生

活は困窮し、また日本の多くの都市が 1944 年になると米軍の空襲を受け、一般市民の死者、

被害者も多数に上った。

こうした時代の中で、地方歳出の規模(「普通会計」の規模、以下同じ。)は、1930 年度の

17.8 億円から 1945 年度の 50.1 億円へと大きな増加を見せた。しかし、国の歳出が軍事費等

の急増によりさらに大きな伸びを示したため、公的支出に占める地方歳出の割合は大きく減

少した。また、経済不況により農村地域の自治体財政が窮乏する中で、地方財政調整制度の

検討が進められ、1936 年には臨時町村財政補給金制度、翌 1937 年には臨時地方財政補給金

制度、1940 年には地方分与税制度が創設された。地方公営事業については、バス事業の発達、

地下鉄の開通などの進展も見られたが、戦時体制が強化され、戦況が悪化する中で、水道事

業や交通事業など地方公営事業を取り巻く環境は極めて厳しいものとなっていった。

1931 年に国税の改正に伴い地租附加税などの地方税の改正が行われた。また、1936 年には、

国民負担の均衡と税収の増加などを目的とした大蔵、内務両大臣による抜本的な税制改革案

が提案された。こうした中で、1940 年の地方税制度改革により、大規模な地方税目の見直し、

体系化と還付税、配付税からなる地方分与税の創設が行われた。

2

このような時代の流れを踏まえ、本稿の構成は次のようになっている。

まず、第 1 章では、不況の深刻化と軍部の台頭について概観したうえで、時局匡救事業、

農村経済更生運動の実施について述べる。また、社会福祉、労働、衛生関係立法の進展、充

実についても見ていくこととしたい。

第 2 章では、国家総動員法の成立、部落会、町内会の整備など戦時体制に向けた動きにつ

いて見てみたい。また、太平洋戦争下における自治体や末端行政の変化、国民生活の困窮に

ついても述べていきたい。

第3章では、1943年の市制・町村制や東京都制に関する改正などについて述べるとともに、

戦時体制下おける地方選挙制度の変化や 1930 年代に行われた選挙の浄化運動についても触

れることとする。

第 4 章では、不況、軍事体制下の地方財政の特徴、変化を概観したうえで、臨時町村財政

補給金、地方分与税など地方財政調整制度の創設について述べる。また、この時代の地方公

営事業の変遷についても触れてみたい。

第 5 章では、1931 年の地方税制の改正や 1936 年の大蔵、内務両大臣による抜本的な税制

改革案について見ていきたい。また、1940 年の地方税法の制定等による大規模な地方税制の

改革について述べてみたい。

そして、おわりにこの時代の地方自治の特徴等について少し述べてみたい。

1 不況の深刻化と政府の対応

1.1 不況の深刻化と軍部の台頭

(1) 農村不況の深刻化

1927 年に金融恐慌が発生するなど日本経済は厳しい状況にあったが、1929 年 7 月に成立し

た浜口雄幸内閣は、財政緊縮、産業合理化の政策を打ち出し、金解禁の準備を進めた。浜口

内閣は、財政支出の削減、物価の引き下げ、不良企業の整理を行うことにより、経済の競争

力を向上させ、金の解禁を行おうとした。しかし、1929 年 10 月にニューヨーク株式市場の

大暴落を契機として世界恐慌が始まる中で、1930 年 1 月に金の解禁が行われると、巨額の金

が海外に流出するとともに、日本の貿易は輸出、輸入とも大幅に減少した。こうした中で、

物価、賃金が大きく下落し、株式市場が大きな混乱を見せ、多くの中小企業が倒産するなど

極めて厳しい状況となった。大企業でも生産調整が強化され、1930 年の国民所得は、対前年

比で 19.3%の減少を示した(表 1 を参照)。

農村では、米と繭の価格の大暴落により、農家の所得は激減し、さらに厳しい状況が見ら

れた。不況が深刻化する中で失業した労働者が出身地の農村に戻ることも少なくなく、欠食

児童の増加などの問題のほか、子女の身売りといった悲惨な現象まで見られるようになった。

こうした中で、小作争議が頻発し、借金棒引き、食料給付などの激しい要求もなされるよう

になった。

3

表1 人口、国民所得、国の歳出、地方歳出、地方税収、米価、小売物価の推移

(単位:千人(人口)、百万円(国民所得)、万円(国の歳出、地方歳出、地方税収)、円(米価)、

%(増減率))

年(年度) 人口 増減率 国民所得 増減率 国の歳出 増減率 地方歳出 増減率 地方税収 増減率 米価 増減率 小売物価

1989 39,473 - 1,030 - 7,971 - 3,939 - 2,937 - 6.05 - -

1909 48,554 - 3,305 - 53,289 - 27,228 - 16,410 - 13.19 - -

1919 55,033 - 12,834 - 117,233 - 66,258 - 40,398 - 45.89 - -

1929 62,930 - 13,941 - 173,632 - 173,778 - 67,711 - 28.92 - 1.185

1930 63,872 1.5 11,245 △ 19.3 155,786 △ 10.3 177,507 2.1 61,205 △ 9.6 18.36 △ 36.5 1.012

1931 64,870 1.6 10,678 △ 5.0 147,688 △ 5.2 161,776 △ 8.9 53,031 △ 13.4 18.37 0.1 0.885

1932 65,890 1.6 11,591 8.6 195,014 32.0 188,401 16.5 52,173 △ 1.6 21.1 14.9 0.893

1933 66,880 1.5 12,963 11.8 225,466 15.6 260,159 38.1 55,828 7.0 21.36 1.2 0.951

1934 67,690 1.2 13,670 5.5 216,300 △ 4.1 221,444 △ 14.9 59,597 6.8 25.94 21.4 0.971

1935 68,662 1.4 14,952 9.4 220,648 2.0 216,480 △ 2.2 63,438 6.4 29.59 14.1 0.99

1936 69,590 1.4 16,645 11.3 228,218 3.4 275,779 27.4 67,202 5.9 30.44 2.9 1.04

1937 70,040 0.6 19,306 16.0 270,916 18.7 208,931 △ 24.2 65,858 △ 2.0 32.15 5.6 1.138

1938 70,530 0.7 22,605 17.1 328,803 21.4 217,865 4.3 70,373 6.9 34.17 6.3 1.303

1939 70,850 0.5 29,257 29.4 449,383 36.7 242,913 11.5 76,319 8.4 37.13 8.7 1.46

1940 71,400 0.8 31,944 9.2 586,021 30.4 284,857 17.3 78,390 2.7 43.2 16.3 1.696

1941 71,600 0.3 35,468 11.0 813,389 38.8 314,911 10.6 87,920 12.2 43.35 0.3 1.716

1942 72,300 1.0 40,952 15.5 827,648 1.8 348,491 10.7 93,383 6.2 43.26 △ 0.2 1.766

1943 73,300 1.4 55,830 36.3 1,255,181 51.7 442,297 26.9 99,191 6.2 45.02 4.1 1.874

1944 73,800 0.7 75,214 34.7 1,987,195 58.3 386,453 △ 12.6 86,242 △ 13.1 47.27 5.0 2.098

1945 72,200 △ 2.2 - - 2,149,619 8.2 501,374 29.7 98,517 14.2 49.56 4.8 3.084

平均増加率(単純平均)

- 0.9 - 12.8 - 18.7 - 8.3 - 2.7 - 4.3 -

注)1 以下の資料に基づき、著者が作成した。

ⅰ 人口、国民所得、国の歳出、米価、小売物価に関しては、 『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀

行統計局(編))による。

ⅱ 地方歳出、地方税収に関しては、『地方自治百年史 第三巻』(地方自治百年史編集委員会(編))「資料

編」による。

2 人口、国民所得、米価、小売物価については「年」の数値、国の歳出、地方歳出、地方税収については「年

度」の数値である。

3 国の歳出は、中央政府の一般会計の歳出であり、地方歳出は、地方団体の普通会計の歳出である。

4 米価は、石(約 180 リットル)当たりの価格であり、小売物価は、東京小売物価指数(1934~36 年平均=

1)である。

(2) 軍部の台頭

1930 年 2 月の総選挙に浜口首相の民政党は圧勝した。しかし、同年 11 月に浜口首相は東

京駅で狙撃され、翌 1931 年 4 月に首相を辞職し、同年 8 月には死亡した。この間我が国は深

刻な経済情勢にあったが、後継の若槻礼次郎を首班とする内閣も引き続き緊縮政策を採用し、

1931 年 5 月には、官吏の減俸などの措置がとられた。

こうした中で、1931 年 9 月、奉天北方の柳条湖で満州鉄道の爆破事件(満州事変)が発生

し、日本軍と中国軍とが衝突した。満州事変が全満州に拡大する中で、若槻内閣は同年 12

月に総辞職し、政友会の犬養毅を首班とする内閣が成立した。犬養内閣は、金の輸出を再禁

止するなど財政施策の大転換を図った。犬養内閣で蔵相となった高橋是清は、時局匡救事業

を実施し、公債発行による積極的な財政政策を実施した。また、1932 年 3 月には満州国の建

国宣言が発せられ、同年 9 月に日本は満州国を承認した。さらに、日本は 1933 年 3 月に国際

連盟を脱退し、1936 年 11 月には日独防共協定を締結した。1937 年 7 月には、北京南方で日

華事変(盧溝橋事件)が発生し、やがて全面的な日中戦争に突入していった。

こうした時代背景の下、失敗に終わったが 1931 年には2回にわたり陸軍将校らによるクー

4

デターが計画され、1932 年 2 月には井上準之助前蔵相らがテロにより暗殺された。そして、

同年 5 月には五・一五事件が発生し、海軍将校や陸軍士官学校生徒らによって犬養首相が官

邸で射殺された。この事件により、政党政治は終わりを告げた。

その後、海軍出身者を首相とする内閣が 2 代続く中で、1936 年 2 月には、二・二六事件が

発生した。二・二六事件では、1400 名余りの兵士を率いた陸軍の青年将校が、首相官邸など

を襲い、斉藤実内大臣(前首相)、高橋是清蔵相などが殺害された。なお、高橋蔵相は、軍の

予算要求に抵抗し、軍部の反感を買ったとされる。二・二六事件は鎮圧されたが、事件以降、

現役武官から陸海軍大臣を選任するという制度が復活するなど、組閣や国の政策決定に対す

る軍部の影響力は大きなものとなった。

1.2 時局匡救事業の実施

(1) 時局匡救事業の実施

日本の経済は、第 1 次世界大戦後の世界恐慌により慢性的な景気不振にあったが、1927 年

の金融恐慌を経て、1929 年 10 月に世界恐慌が発生すると、株式市場が混乱し、中小企業が

倒産するなど大打撃を受けた。失業者の数が増大し、米と繭の価格が暴落する中で、農家の

収入は激減し、小作争議が頻発した。

こうした深刻な経済情勢に対処するため、1932 年 7 月に成立した斉藤内閣は、同年 8 月に

救農土木事業と農村漁村経済更生計画の大綱を決定した。これに伴い追加された時局 匡救

事業予算は、1億4660万円にも上り、農村振興のための土木事業費がその中心を占めていた。

また、時局匡救計画は、3 カ年の計画とされ、中央の事業費(5.6 億円)、国の低利融資によ

る地方の事業費(3 億円)、不動産担保貸付等の融資(8 億円)を合わせると、その総額は 16

億円にも達した。

このような時局匡救事業が実施される中で、地方団体の土木費は大幅に増加し、その総額

は 1932 年度からの 3 年間で約 10 億円となった。また、内務省、農林省は、1932 年からの 3

年間に、約 2.4 億円にも上る農村関係時局匡救土木事業助成金を地方団体に交付した。

(2) 農村経済更正運動

内務省は、1932 年 8 月に「国民更生運動計画要綱」を地方長官に示し、農村の経済立て直し

などを図るための運動の推進を指示した。また、同年 9 月には、農林省に経済更生部が設置

され、翌 10 月には、農林大臣から地方長官に対して、農山漁村の経済更生計画を樹立する

ための実行方針が示された。

こうした動きに対応して、都道府県でも知事を会長とする経済更生委員会が設置され、更

生計画の実行を指導するとともにその推進に努めた。また、計画推進の対象となる町村では、

町村長を会長とする経済更生委員会が設置され、委員には地域の有力者が任命された。対象

となる町村の数も大幅に増加し、1936 年には全町村の約 60%、6,600 を数えるに至った。

5

1.3 社会法、衛生法の充実

(1) 社会福祉立法の進展

生活困窮者救済の制度を整備すべきとの議論が高まる中で、1929 年 4 月に救護法が公布さ

れた。しかし、その実施は、厳しい財政状況の中で 1932 年 1 月まで遅れることとなった。一

方、児童の保護についても、親子心中や児童虐待が問題となる中で、児童虐待防止法が 1933

年 3 月に、少年救護法が 1933 年 5 月に制定された。また、1937 年 3 月には、母子保護法が

制定された。

また、社会保険の制度整備も進められた。1934 年 3 月に被保険者の範囲の拡大や給付期間

の延長などを内容とする健康保険法が改正され、1939 年には船員保険法が成立した。1938

年 4 月には、農山漁村の住民や中小商工業者を対象とする国民健康保険法が成立し、1939 年

には、都会の給与生活者や商店の使用人などを対象にした職員健康保険法が制定された。年

金制度についても、一般の労働者を対象にした労働者年金保険法が1942年6月に制定された。

労働者年金保険制度は、1944年10月に厚生年金保険とされるなど大幅な改正が行なわれた。

(2) 労働行政の前進

1929 年と 1936 年の 2 回にわたり工場法の改正が行なわれ、その充実が図られた。また、

労働者災害扶助法が 1931 年 4 月に成立するなどにより、労働者の業務上の災害の扶助につい

ても制度の構築が図られた。

(3) 衛生行政の進展

医師法、歯科医師法が 1933 年に改正されるなど、衛生行政においても進展が見られた。ま

た、1937 年には、保健所法が制定され、結核予防や母子衛生対策などを行なう保健所が整備

されることとなった。

こうした中で、1938 年 1 月には、内務省衛生局と内務省の外局である社会局を発展的に解

消・統合し、厚生省が新設された。当初は、衛生行政を中心とする衛生省の設立も検討され

たが、 終的には衛生行政と社会行政を総合的に所管する厚生省が設立されることとなった。

2 戦時体制化の進展と地方自治

2.1 戦時体制化の進展

(1) 国民精神総動員運動の開始

1937 年 7 月の日華事変(盧溝橋事件)の発生から、全面的な日中戦争へと戦火が拡大する

中で、国民生活の戦時体制化を図ることとされ、1937 年 8 月には国民精神総動員実施要綱が

閣議決定された。この要綱によれば、軍需のための統制経済に対応するため、全ての省が体

制を整備するとともに、地方では、地方長官、市町村長を中心にし、各種団体、部落会・町

内会等を総動員して戦時体制の整備を図るというものであった。

6

(2) 国家総動員法の成立

国家総動員法が、1938 年 5 月に施行され、戦時体制は一段と強化されることとなる。同法

では、①国家総動員のため必要があるときに、国民の徴用、労働争議の制限・禁止や物資の

収用、生産・配給・消費処分等に関する規制などを行うことができるほか、②物価の統制命

令や金融機関の資金運用に関する命令を発することができるとされた。

また、1938 年には、重要鉱産物増産法、国民健康保険法などの軍事・経済・社会関係の多

くの法律が制定された。

1939 年 4 月の警防団令の施行により、全国的に警防団が組織され、防空行政の下部組織と

して大きな役割を担うこととなった。また、同年には、賃金統制令、国民徴用令が公布され

るとともに、10 月に米穀配給統制法が施行され、戦時体制化は急速に進むこととなった。

1940 年 7 月に第 2 次近衛内閣が成立し、「挙国体制」が提唱される中で、諸政党は次々と

解散し、同年 10 月には、大政翼賛会が結成された。同会の総裁には首相が自ら就任し、各地

方長官(県知事)が地方支部長となり、同会は各地において活発な運動を展開した。

(3) 統制経済の進展

対日経済封鎖の強化により、国家総動員法による、人、物資、物価、資金などの統制だけ

では、戦時経済の遂行が困難となった。そこで、1941 年に国家総動員法が改正され、重要な

産業部門において、統制組合、統制会社などが設けられた。また、戦時経済を遂行するため、

戦時金融公庫等の公庫、住宅営団等の営団、日本発送電等の特殊会社が設立された。

こうように統制が行われる一方、物資の配給制・切符制が導入された。米穀の配給制が 1941

年 4 月に東京、大阪などの六大都市で実施され、12 月にはほぼ全国で実施されることとなっ

た。生鮮食料品や衣料品などの生活必需品についても、順次、配給制、切符制が実施されて

いった。しかし、国民が必要とする量の確保は容易ではなく、特に戦局の悪化に伴いその状

況はますます厳しいものとなった。

2.2 末端行政機構の再編成

(1) 部落会・町内会の沿革

明治維新当時に存在した村は、明治 20 年代に行なわれた市制・町村制の施行に伴う町村合

併により、市町村の内部組織として再編成されていったが、その後も住民生活に密着した地

域の業務や行事を共同して行う住民組織、共同体として存続していた。しかし、内務省は、

近代的な市町村の育成に力を入れ、その内部組織である部落会・町内会に対し、制度的な位

置づけを与えることには消極的であった。

そうした内務省の態度も、1930 年頃から変化がみられ、1932 年に農村経済更正運動が始ま

ると、部落や近隣組織の活動を重視するようになった。都市部においても、町会の役割が重

視されるようになり、1935 年から選挙粛正運動が全国で展開されるようになると、部落会・

町内会はその実施部隊として利用されるようになった。

7

(2) 国策協力組織としての部落会・町内会の整備

このように部落会・町内会は、市町村の末端組織として各種の行政的活動を担当するよう

になったが、戦時体制の整備が進む中で、部落会・町内会の組織と機能を拡大、再編成する

ことが重要な課題と認識されるようになった。

こうした中で、内務省は、地方長官に対し 1939 年9月に訓令を発し、国策の国民への浸透、

国政の円滑な運用などを目標に、部落会・町内会の整備を進めた。内務省は、市町村の事務

を部落会・町内会に委ねる、部落内の農業団体との協調連絡を図るなど、部落会・町内会の

強化に努めた。これらを受けて、各市町村では、部落会・町内会の整備が進められ、例えば

東京市では、1941 年に町会基準が改正され、国策、自治体行政への協力等が町会の実施すべ

き事業に新たに加えられた。

1942 年 8 月には、「部落会町内会等ノ指導方針」が閣議決定され、大政翼賛会が部落会・

町内会等を指導することとされた。その結果、部落会・町内会は、末端の行政機構としての

性格のほか、大政翼賛会の下部組織としての一面を持つようになった。戦時体制化が進む中、

こうして部落会・町内会は、国策の徹底、国民の協力を確保する組織として、その整備が進

められていった。

2.3 戦時体制下の地方自治

(1) 太平洋戦争の開始と終戦

1939 年に第 2 次世界大戦が始まった。ドイツ軍は、同年 9 月にポーラントに侵攻し、1940

年 4 月には西部戦線で勝利を収めた。こうした中で、1940 年 9 月に日独伊三国同盟が締結さ

れ、日本軍は北部仏印に進駐した。また、1941 年 7 月に日本軍が南部仏印に進駐する中で、

アメリカとの関係は決定的に悪化した。1941 年 10 月に東条英機が内閣総理大臣に就任し、

同年 12 月 8 日に日米は開戦し、太平洋戦争が開始された。

日本軍は、緒戦においては勝利を収めていたが、1942 年夏頃からアメリカ軍の反攻が始ま

り、戦況は次第に悪化した。1944 年 7 月にはサイパン島で日本軍が玉砕し、本土各都市への

空襲も激しさを増した。1945 年 5 月にはドイツが無条件降伏し、日本もポツダム宣言を受諾

し、同年 8 月 15 日に終戦を迎えることとなった。

(2) 府県・市町村の戦時業務の拡大

戦局の拡大に伴いあらゆる行政が戦争遂行を 優先に行われるようになった。日中戦争が

開始された 1937 年以降、法律や勅令の制定件数が大幅に増加した。特に、1941 年には、10

年前(1931 年)の 4 倍を超える約 1250 の勅令が制定され、1942 年以降も多くの法律、勅令

が制定された。これらの法律、勅令の多くが、国家総動員法、国民徴用令、価格統制令など

戦時業務に関するものであった。そして、これら戦時業務に多くは、国の出先機関たる知事、

自治体としての府県、市町村によって執行されるべきものであり、戦局が拡大し、多くの戦

8

時に関する法律、勅令が制定される中で、府県、市町村の業務は大きく増加することとなっ

た。

(3) 部落会・町内会の臨戦体制化

1942 年 10 月に配給・消費の合理化を進め、国民生活の安定を確保するため、全国約 67,000

の町内会に消費経済部が設置された。消費経済部は、配給機関との連繋など配給制度の運用

に当たることとされた。また、隣組は、生活必需物資の配給を行うほか、出征兵士の送迎、

公債の割当、勤労動員など日常生活の様々な面において強い力を持つようになった。

部落会・町内会は、1943 年の地方制度改正により、市町村の末端行政機構として制度化さ

れた。『東京百年史』によれば、こうした中で、町会・隣組を通じた住民への伝達、住民意見

の集約が行われ、議会の機能は低下していった。また、市町村は、物資の配給を行う上でも、

地域の安全を確保する上でも、地域住民の力に頼らざるを得ず、町会、隣組の役割は極めて

重要なものとなった、とされる(注 1)。

2.4 国民生活の困窮と悲惨

(1) 生活必需品の欠乏

戦局の悪化に伴い、米などの食料品をはじめ、衣料品が極めて不足してきた。例えば、主

食について大豆等の代用食の混入が 1942 年から始まり、1944 年にはその割合が 14%にも達

した。また、醤油や魚などの副食品の供給量も減少し、1945 年には砂糖がほとんど手に入ら

ない状況となった。こうした中で、1 人当たりのカロリー消費量(内地)は、1944 年には 1931

年から 1940 年までの 86%、翌 1945 年には、66%にまで落ち込んだ。

また、民需用の工業製品についても、原料の輸入依存度が高い綿織物や毛織物などの供給

が激減し、1943 年以降には隣組を通じた配給により肌着などがやっと手に入るという状況と

なった。

生活必需品が欠乏する中で、その価格も大幅に上昇した。例えば、米の公定価格は、1 升

(1.8 リットル)が 0.5 円であった。これに対し米のヤミ価格は、1943 年 12 月に 3 円であっ

たものが、1944 年 9 月には 18 円、1945 年 7 月には 35 円にまで高騰した(注 2)。

(2) 兵役の強化

戦争の拡大により多くの国民が兵士として動員された。その数は、1941 年には 240 万人を

超え、1944 年には 539 万人、1945 年 8 月には 716 万人にも達した。当時の満 17 歳以上 45

歳以下の男子の人口 1740 万人の 40%を超えていた。より多くの兵士を確保するため、徴兵

検査受験者に対する徴兵の数(徴収率)も年々増加し、1933 年に約 20%であったものが、1939

年には約 50%となり、1944 年には 77%にも達した(注 3)。また、1943 年には兵役年齢の上

限が 40 歳から 45 歳に引き上げられ、1944 年には徴兵適齢を 19 歳へと 1 年切り下げた。

さらに、男女を問わず全国民を動員し、軍の作戦行動の補助等に当らせるため、1945 年 4

9

月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」が閣議決定され、同年 6 月には「義勇兵役法」が制定さ

れた。

(3) 空爆の激化

1944 年 6 月に北九州への空襲が行われた。それ以降、東京を始め各都市に対して数多くの

空襲が行われルようになった。アメリカによる爆撃は、当初は軍需工場を目標にしたもので

あったが、1945 年に入ると都市を無差別に攻撃するものとなり、日本の主要な都市は、ほと

んど焼き払われた。

1945 年 8 月 6 日、広島に原子爆弾が投下された。また、8 月 9 日には長崎に原子爆弾が投

下され、両市は壊滅的な被害をこうむった。

1949 年の経済安定本部の調査によれは、空爆による死者は全国で約 30 万人、負傷者・行

方不明者は約 37 万人であったとされる(注 4)。

1945 年 4 月にアメリカ軍が沖縄本島中部に上陸し、6 月まで激しい戦いが行われた。この

戦いによる死者は 20 万人と推定され、そのうち半数近くが一般住民であったとされる。

3 地方自治制度、選挙制度の改正

3.1 地方自治制度の改正

(1) 市制、町村制等の改正

1943 年 3 月、府県制、北海道会法ともに、市制、町村制が改正された。市制、町村制を改

正する狙いは、戦局の拡大に伴い広範な業務を市町村が担わざるを得ない中で、市町村行政

の刷新と効率化を進め、国策の推進と国民生活の安定を図ろうというものであった。

この改正は、①法律・勅令以外にも命令による国政事務の委任を可能とする、②市町村長

に市町村内の団体等に必要に応じ指示する権限を与える、③市町村会の権限を整理・合理化

し、市参事会の権限の強化する、④市会の推薦により内務大臣が市長を選任するなど市町村

長の選任方法を改める、⑤部落会・町内会を法的に認め、制度化する、などを内容としてい

た。

府県制の改正では、市制と同様に、国政事務の委任方式の簡素化、府県参事会の権限強化

が図られた。北海道会法も府県制と同様の改正が行なわれている。

また、国の地方行政組織についても、行政を総合的、効率的に行うため、地方官官制が改

正され、1942 年 7 月に地方事務所が設置された。

(2) 東京都制の実施

1943 年 7 月、東京都制が実施された。

東京は、1889 年の市制・町村制施行の際には京都、大阪とともに特例が設けられたが、1898

年になって一般の市制が東京にも施行された。東京の地方自治制度の在り方については、市

制特例の撤廃運動のほか、1896 年の東京都制案など様々な議論が行われ、1922 年には6大都

10

市に対する監督を緩和するため「六大都市行政監督ニ関スル法律」が制定された。

東京都の在り方については、その後も内務省で検討が進められたが、太平洋戦争が開始さ

れる中で、東条内閣は、1942 年 11 月に東京都制要綱が発表した。この要綱の骨子は、①東

京府と東京市を廃止し、新たに東京都を設ける、②都の首長は、官吏たる東京都長官を充て

る、③府県会、府県参事会に準じて、都議会、都参事会を設置する、④都の下級行政機関は、

原則として区とするが、当時の東京市以外の地域の市町村は、従前通り存続する、などであ

った。この要綱に基づき、東京都制案が 1943 年 1 月に帝国議会に提出され、一部修正のうえ

同年 3 月に可決された。東京都制案の目的は、首都たる東京の体制を確立すること、東京府、

東京市の二重行政の弊害を是正すること、首都行政の刷新、能率化を図るなどであると説明

された。1943 年 7 月から新しい都制度は実施されたが、マスコミからは二重行政の解消など

を理由に新都制度に好意的な評価がなされた。

(3) ブロック組織の創設

1943 年 7 月に、地方における行政の総合連絡調整を図るため、地方行政協議会が設置され

た。地方行政協議会は、全国を9ブロックに分け、各協議会所在の都道府県の長官、知事を

会長に、他の知事などを委員に設立された。

また、戦局が一層悪化する中で、1945 年 6 月に地方総監府が設置された。地方総監府は、

全国を 8 ブロックに分けて、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、高松、福岡に置かれ

た。地方総監府は、臨戦体制の整備を目的とし、地方における種々の行政を統括するなどの

権限を有したが、実際には十分な活動ができないまま、日本は 8 月の敗戦を迎えることとな

った。

3.2 地方選挙制度の改正

(1) 選挙制度の改正

1935 年に府県制、市制、町村制の改正により、府県の選挙区、市会議員選挙における立候

補制度等の改正が行われた。

1943 年の市制、町村制の改正では、事務の簡素化の観点から、選挙人名簿、開票、町村会

議員の候補者制度の改正が行われた。また、補欠選挙、再選挙の関する改正のほか、選挙権、

被選挙権に関する改正、市会議員定数の上限を 80 人とするなどの改正も行われた。

1943 年に行われた府県制の改正でも、市制、町村制の改正に対応して、開票、補欠選挙、

選挙権等に関する改正のほか、議員定数の上限を 90 人とするなどの改正が行われた。

戦局が拡大する中、国民間の「不必要なる摩擦、競争」を避けるとの趣旨で、1941 年 2 月

に、「府県会議員、市町村会議員等ノ任期延長ニ関スル法律」が公布された。これにより、地

方議員の任期が、1942 年 3 月から 5 月まで、概ね 1 年間延長された。

また、1943 年 6 月には、「道府県会議員等ノ任期延長ニ関スル法律」が公布され、道府県

会議員の任期については 1944 年 8 月まで、市町村会議員の任期については 1944 年 9 月まで

11

延長することとされた。

(2) 選挙の浄化

東京市では、1920 年代から市政の浄化運動が盛んになってきたが(注 5)、1933 年の市会

議員選挙において、市政の腐敗問題を契機として市政浄化の運動が再び活発となった。また、

1937 年の市会議員選挙では、東京市の革新(市政浄化)を訴える団体が 16 名の候補者を推

薦し、そのうち 10 名が当選した。

こうした中で、選挙浄化の制度の検討も進められるようになり、1930 年に衆議院選挙革正

審議会が設けられた。1932 年には、法制審議会を設置し審議が進められ、選挙の不正行為の

防止等を図るため選挙粛正委員会を設置することなどが答申された。1935 年 5 月には、各道

府県に選挙粛正委員会の設置するため、選挙粛正委員会令が公布された。市町村の粛正委員

会も 30 余りの府県で設置され、全国的に粛正運動が実施されるようになった。

それまでも島根県等において官民共同による選挙粛正運動は行われてきたが、1935 年 6 月

に、多くの民間団体が結集して選挙浄化運動を実施するため、選挙粛正中央連盟が結成され

た。選挙粛正中央連盟では、各府県の選挙粛正委員会と協力し、様々な方法を採用し選挙粛

正のための運動を展開した。選挙粛正中央連盟は、7 年間に及ぶ活動で相当の成果を上げた

が、太平洋戦争が開始され、戦時体制が一層強化される中で、1942 年 7 月に解散した。

4 不況、軍事体制下の地方財政

4.1 不況、軍事体制下の地方財政

(1) 国の財政の拡大

国の財政規模は、日華事変が起きた 1937 年度以降軍事費が急増し、急激な拡大を見せた。

国の一般会計の歳出も、3 頁の表 1 に見るように大幅な増加を示しているが、1937 年度に設

置された臨時軍事費特別会計における支出を加味すれば、国の財政規模の拡大は更に驚異的

なものがある。両者を併せた国の歳出は、1940 年度には、1936 年度の 4.5 倍を超え、1943

年度には 16.7 倍の 380 億円にも達した。こうした中で、国は大幅な増税を行い、租税・印紙

収入は、1943 年度に 86.7 億円と、1936 年度の 7.6 倍になるなど、著しい増加を見せた(注 6)。

しかし、こうした財源の確保も、膨大な歳出の増加には十分なく、大量の国債を発行し、不

足する財源を確保することとなった。その結果、国債残高(一般会計負担)は急増し、1943

年度には、1936 年度の 9.4 倍に、終戦の 1945 年度には、1363 億円と 1936 年度の 18.1 倍に

まで拡大した。

(2) 地方財政の概況――その特徴と変化

地方財政の規模も、国の財政ほどではないが、戦時体制化が進む中で拡大を見せた。地方

財政の規模は、1930 年代には、表 1 に見るように、概ね 20 億円台で推移した。1932 年度ま

では、緊縮財政政策等の影響の下で 16 億円から 19 億円の規模であったが、その後、時局匡

12

救事業の実施を受け大きく増加した。1930 年代後半には、地方歳出の規模は 20 億円台の水

準にあったが、1940 年代に入ると、戦局が拡大し物価が上昇する中で増加し、1945 年度には

50 億円にも達した。

地方団体の歳入構造を表 2 により見ると、地方税が 18%~31%、国庫支出金が 9%~27%、

地方債が 7%~27%の水準にあった。地方税がその構成比を低下させているのに対し、戦時

関係事務の増大に伴い国庫支出金の構成比は増加した。地方債は時局匡救事業が実施された

年度等(1933 年度等)に急増しているが、1940 年度前後からは低下傾向にある。また、後述

するように地方分与税が1940年度に創設された。地方団体の歳入を1920年代と比較すると、

地方税の構成比は低下傾向にある。

表2 地方団体の歳入構成の推移

(単位:万円、%)

年度 歳入規模 地方税 地方分与税 国庫支出金 地方債使用料・

手数料

前年度

繰越金その他

1929 198,378 34.1 - 10.1 15.4 11.9 14.0 14.5

1930 201,949 30.3 - 9.6 23.7 11.5 11.5 13.4

1935 274,885 23.1 - 9.3 26.8 11.4 12.1 17.3

1940 380,110 20.6 9.2 12.0 10.8 11.9 17.6 17.9

1945 536,155 18.4 15.8 26.1 7.7 9.7 5.3 17.0 注) 著者が、『地方自治百年史 第三巻』(地方自治百年史編集委員会(編))「資料編」のデータを用いて作成

した。

表 3 により地方団体の歳出構造を見ると、教育費が 21%~26%、土木費が 12%~17%、産

業経済費が 3%~11%、公債費が 11%~30%となっている。産業経済費の構成比が増大して

いるのに対し、公債費は歳出規模が増大する中でその構成比を減少させている。また、地方

団体の歳出を 1920 年代と比較すると、土木費、衛生費の構成比が減少傾向にあるのに対し、

産業経済費の構成比は増加している。

表3 地方団体の歳出構成の推移

(単位:万円、%)

年度 歳出規模 社会事業費 衛生費 産業経済費 土木費 警察費 教育費 公債費 その他

1929 173,778 1.1 7.0 4.4 15.9 4.9 25.7 15.7 25.3

1930 177,507 2.3 5.9 3.7 14.4 4.6 22.7 24.1 22.3

1935 216,480 2.1 2.9 8.8 16.4 4.8 21.7 29.6 13.7

1940 284,857 2.8 3.8 10.3 14.1 5.6 21.0 17.1 25.3

1945 501,374 2.7 3.8 10.5 12.2 9.3 25.3 11.0 25.2 注) 著者が、『地方自治百年史 第三巻』(地方自治百年史編集委員会(編))「資料編」のデータを用いて作成

した。

13

団体別の財政規模の推移を表 4 により見ると、都道府県が大きく歳出の構成比を増加させ

ている。これに対し、市町村はその構成比を減少させており、特に、町村の構成比は減少が

著しく、1945 年度には 1930 年度の構成比の 60%以下にまで低下している。また、団体別の

財政規模を 1920 年代と比較しても、都道府県の構成比が増加し、市町村の構成比が減少して

いる。

表4 地方団体別の歳出の推移

(単位:万円、%)

道府県 市 町村 水利組合

40,966 54,762 45,191 2,025

28.7 38.3 31.6 1.4

47,824 77,635 49,815 2,233

26.9 43.7 28.1 1.3

85,728 95,969 56,038 -

36.1 40.4 23.6 -

146,144 110,054 56,134 -

46.8 35.2 18 -

296,749 153,359 86,097 -

55.3 28.6 16.1 -

1930

1935

1940

団体別の地方歳出の比率(構成比)年度

地方歳出の国の歳出

に対する比率

1945

93.7

113.9

107.7

53.3

24.9

1925

注) 著者が、『地方財政概要』(内務省地方局(編))及び 『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局

(編))のデータを用いて作成した。

(3) 緊縮財政政策と時局匡救事業の実施

1929 年 7 月に成立した浜口内閣は、金解禁を実施するため、緊縮財政政策を実施した。国

は、自ら財政の整理、緊縮を進めるとともに、地方団体に対しても、できるだけ 1930 年度当

初予算を減額するなど、緊縮財政を推進する旨の訓令を発した。

1930 年 1 月には金解禁が実行された。国は、1931 年度予算についても緊縮財政政策を継続

することとし、地方財政についても緊縮・抑制を図ることとした。地方団体の歳入が減少す

る中で、小学校の教員の減俸や学級の整理等の問題が生じ、特に農村地域の状況は厳しいも

のがあった。

こうした緊縮政策の実施により、地方歳出(普通会計)の規模は、表1に示すように、1929

年度に 17 億 3800 万円であったものが、1931 年度には 16 億 1800 万円となり、大きく減少し

た。

しかし、不況が深刻化する中で、国民の生活は極めて厳しいものがあった。そこで、政府

は、財政政策を転換し、失業対策、農村対策、中小商工業対策等のため、積極的に事業を展

開した。政府は、1932 年 8 月に約 1.5 億円の時局匡救事業予算を提出し、1933 年度にはさら

14

に新規事業を追加した。1934 年度にも予算が追加され、3 カ年を通じる国の事業費は 5 億円

を超え、地方の事業費は約 3 億円となった。

こうした時局匡救事業の実施の結果、地方歳出(普通会計)の規模は、表1に見るように、

1931 年度の 16 億 1800 万円から、1932 年度には 18 億 8400 万円、1933 年度には 26 億 200 万

円へと大きく増加した。また、その財源調達の多くは、地方債の借入により行われた。その

ため、地方団体の公債費、地方債残高は増加し、大きな負担となった。

(4) 戦時体制下の地方財政

その後、1934 年度から 1940 年度までの地方歳出の規模は、表 1 に見るように 20 億円台で

推移している。戦局の進展する中で、国家財政が拡大、国民の税負担の加重、軍需物資の需

給等を考慮して、地方財政に対しては抑制的な態度が取られており、例えば、1937 年 9 月に

は内務省から地方長官に対し 1938 年度予算の抑制、緊縮の指示がなされている。

1940 年代に入ると、警防、軍事援護、保健衛生、食料増産などの戦時関係業務が、戦時体

制下において拡大し、物価が上昇する中で、地方歳出の規模は大きな増加を示した。1939 年

度に 24 億 2900 円であった地方歳出の規模は、1945 年度には 50 億 1400 万円と 1939 年度の 2

倍を超える水準となった。しかし、地方歳出の増加率は、この間に 4.8 倍であった国の歳出

(一般会計)の増加率と比べれば低い水準にある。

また、この時期の地方団体の財政構造の変化を見ると、歳入では地方団体の戦時関係業務

が増大する中で国庫支出金が増加する一方、歳出では重要物資の増産などの業務が増加する

中で、産業経済費が大きな伸びを示している(表 2、表 3 を参照)。

4.2 地方財政調整制度の創設

(1) 地方財政調整制度の検討

1929 年の世界恐慌は、日本経済に大きな打撃を与えた。また、社会立法の制定や衛生行政

の進展などにより地方団体の業務は拡大した。こうした中で、地方団体は、地方税の増税な

どにより必要な財源の確保に努めたが、その確保には多くの困難が見られた。

また、都市部に税源が集中し、農村地域の不況が極めて深刻な中で、地域間の税源の不均

衡には著しいものがあった。こうした中で、税源に乏しい地域では、財源確保のため地方税

の増税を行った。そのため、例えば青森県の地方税収入の直接国税収入に対する割合(4.78)

は、東京府の割合(0.76)の 6 倍を超えるという大きな格差が見られた(注 7)。しかし、こ

うした厳しい増税によっても、農村部の地方団体においては、必要な財源を確保できず、義

務教育の円滑な実施にも苦労するなど、極めて困難な状況が見られた。

内務省は、地方団体間の財源の不均衡を調整し、農村部の地方団体の窮状を救うため、1932

年 8 月に「地方財政調整交付金制度要綱案」を発表した。この要綱案は、①交付金の総額は、

地方税総額の 10%などとする(約 6600 万円)、②配分割合は、道府県 3 分の1、市町村 3 分

の 2 とする、③交付金の 3 分の 1 は人口を基準に交付し、残りの 3 分の 2 は 1 人当たりの税

15

額が平均に満たない地方団体等に交付する、④交付金は税負担の軽減に充てる、などを内容

とするものであった。

内務省の要綱案は、大きな反響を呼び、1933 年 3 月の帝国議会では、地方財政調整交付金

制度の設定に関する請願が採択された。また、1934 年 1 月には、各政党から地方財政調整制

度に関する法案が提出された。1935 年にも、地方財政調整制度に関する法案が政党により提

出されたが、いずれも貴族院で審議未了となり、成立に至らなかった。

(2) 財政補給金制度の創設

その後も地方財政、特に町村財政の窮乏が厳しさを増す中で、1936 年の帝国議会で臨時町

村財政補給金制度に関する予算が成立し、臨時応急的な制度ではあるが、日本で初めての地

方財政調整制度が創設された。また、同年 11 月には、臨時町村財政補給金規則も公布、施行

された。

この制度は、財政が特に窮乏している町村に対して、国より財源を補給するものであり、

1936 年度限りの措置とされた。補給金の総額は 2000 万円であり、原則として町村税の負担

の軽減に充てる。補給金の 85%以上を一般交付金として、町村税の負担が過重あるなどを基

準に配分することとされ、残りは、特別補給金として、人口が少ない、災害が発生したなど

により財源が窮乏している町村に配分することとされた。

政府は、馬場蔵相、潮内相の下で租税制度の抜本的な改革の立案を進め、1936 年 9 月に「税

制改革ノ要領」「地方財政及税制改革案要綱」を公表した。この改革案では、地方財政調整制

度の創設が重要な項目の一つとして取り上げられ、①所得税の一部などを道府県に対し、②

地租、営業収益税、家屋税を市町村に対し、それぞれ地方財政調整金として交付するなど、

大規模な改革案が示された。改革案は、帝国議会に提出されたが、政変等のため実現に至ら

なかった。

こうした中で、1937 年度の応急措置として、臨時地方財政補給金制度が創設された。臨時

地方財政補給金制度では、その交付対象が町村から市、道府県にまで拡大され、また補給金

の額が 1 億円に増額された。道府県に 2750 万円、市町村に 7250 万円の補給金が交付され、

補給金は原則として地方税の軽減に充てることとされた。

道府県には、750 万円が道府県の課税力等を基準に、2000 万円が道府県税の減税に必要な

額を基準に配分された。また、市町村には、3250 万円が市町村の課税力等を基準に、3500

万円が加重となっている町村税(戸数割)の額を基準に配布され、500 万円が特別補給金と

して伊豆七島や特別の事情がある市町村などに配分された。

抜本的な改革が、1937 年 7 月の日華事変(盧溝橋事件)の発生などにより進展を見せない

中で、1938 年度には、臨時地方財政補給金の総額は、1 億 3000 万円に増額された。さらに同

制度は、1939 年度おいても、その総額を 1 億 4800 万円に増額し、継続された。

16

(3) 地方分与税制度の創設

1939 年 10 月に税制調査会は、地方分与税制度の創設を含む地方税制などに関する答申を

行った。これを受けて政府は、帝国議会に税制改正関係法律案を提出した。同法律案は一部

修正のうえ議会を通過し、1940 年 3 月に公布された。

地方分与税法により定められた地方分与税は、一定の税を国税として徴収し、これを地方

団体に分与するものである。地方分与税は、還付税と配付税からなる。還付税は、地租、家

屋税及び営業税を賦課徴収の便宜上国税として徴収し、その全額を徴収地の道府県に還付す

るものであり、各地方団体間の財源を調整する機能はない。これに対し、配付税は、所得税、

法人税、入場税及び遊興飲食税の一定割合を、各地方団体間の財政力の均衡を図るため、そ

の徴収地に関係なく交付するというものである。

1940 年度の還付税は 6500 万円、配付税は 2 億 7700 万円であった。配付税総額の 62%が道

府県配付税であり、そのうちの半分が道府県の課税力を基準に配付され、残りの半分が道府

県の割増人口に按分して配付された。市町村配付税は、配付税総額の 38%であり、大都市配

布税、都市配付税、町村配付税の 3 種に区分され、市町村の課税力のほか財政需要を選定す

るための割増人口などを基準に配付された。

配付税は、財政力の弱い団体に相対的に多く配付され、また、その総額が国税の一定割合

であり、その使途が特定されないなど、現在の地方交付税制度にも通じる本格的な財政調整

制度ということができる。

配付税制度は、その後も続き、1949 年度まで継続された。地方歳入に占める配付税の割合

は、1940 年度の 7.3%(2.8 億円)から 1943 年度の 9.5%(5.7 億円)と増加し、地方財政

における配付税の役割は、極めて重要なものとなった。

4.3 地方公営事業の変遷

(1) 交通事業の発達

東京では、1923 年の関東大震災の発生後、軌道事業に替わってバス事業が大きな発展を遂

げた。東京市によるバス事業の実施のほか、多くの民間事業者がバスの運行事業に参入し、

1938 年末にはその営業路線は 1700km を超えるに至った。また、大阪においても市営バスが

1927 年に開業し、民間バスとの競争の中で厳しい経営状況にあったが、1940 年に民間と統合

し、大阪市内のバスは一元化することとなった。

東京で 1927 年に日本初の地下鉄が民間の経営により開通した。大阪市においても、1927

年に地下鉄事業を開始し、1933 年に日本初の地方団体営による地下鉄が開業した。その後も、

大阪市営地下鉄は、路線の延伸が図られ、1939 年度には 1 日平均 14 万人の乗客を運ぶに至

った。

(2) 戦時体制下の地方公営事業

1938 年の国家総動員法の制定などによる戦時体制の進展は、地方公営事業に対しても大き

17

な影響を与えることとなった。

この時代、水道事業に対する国の補助は徐々に削減されていった。また、軍事費の急増に

伴い増加する国債の円滑な消化を図るため 1937 年には原則として上水道新設のための地方

債発行を認めないこととした。こうした中で、水道の建設は大きく減少するとともに、1940

年以降のインフレの進行により水道の経営環境は極めて厳しいものとなった。

また、交通事業の経営についても、燃料や資材の統制が進み、人員も戦争遂行に優先して

投入される中で次第に厳しさを増し、薪、木炭等の代替燃料や女性運転手などによる運行確

保の努力がなされたが、休止に追い込まれる路線も続出した。

こうした中で、1911 年に市制の改正で設けられ、現在の公営企業管理者制度の前身ともい

える市参与の制度も、1943 年の市制の改正で廃止された。

5 地方税制度の改正

5.1 1931 年の地方税制改正

(1) 地租、営業収益税(国税)の改正

世界恐慌により大きな打撃を受けた農民や中小商工業者を救済するため、国税である地租

及び営業収益税の軽減が実施された。

地租については、1883 年の改正以降、全面的な改正は実施されてこなかった。宅地の価格

については、1910 年に賃貸価格を基礎とした修正が行われたが、実際の土地による収益との

間で大きな乖離を生じていた。そこで、政府は、1926 年から 1927 年にかけて行なった全国

調査に基づき、新たに地租の基礎となる賃貸価格を算出することとした。その結果、税率は

一律に 3.8%と定められ、地租の制度は、従来と比べ土地の収益の実態を踏まえたものとな

った。

また、中小企業者の負担の軽減を図るため、営業収益税の減税が行われた。土地負担との

均衡をも考慮し、法人の税率を 3.6%から 3.4%に引き下げ、個人の税率を 2.8%から 2.2%

及び 2.6%に引き下げた。

(2) 国税改正に伴う地方税制の改正

上述の国税の改正に伴い、地租附加税、特別地税、営業収益税附加税などの改正が行われ

た。

地租附加税について、従来の税収を確保するため、その制限率を府県 100 分の 82、市町村

100 分の 66 とする、などの改正が行われた。これらの改正により、東京府の税収が増加する

一方、地方の団体の税収が減少するなど、各地方団体間に大きな変動を生むこととなった。

また、府県税である特別地税については、地租と同様、課税標準を賃貸価格とし、制限率

を 100 分の 3.1 とするなどの改正が行われた。

営業収益税附加税については、従前の附加税額を維持し、府県営業税の軽減による減収の

一部を補填するため、その制限率を府県 100 分の 46.5、市町村 100 分の 66 とした。

18

府県営業税については、営業収益税と同様の減税を行い、市町村の営業税附加税について

は、その制限率を 100 分の 90 とした。

5.2 馬場・潮税制改革案の提示

(1) 馬場・潮税制改革案

前述したように、1936 年 9 月に「税制改革ノ要領」「地方財政及税制改革要綱」が公表さ

れた。この馬場蔵相、潮内相による税制改革案は、①国民租税負担の均衡を図る、②租税収

入を増加し、財政基盤を確立する、③弾力性のある税制を樹立する、ことを目標にした画期

的なものであった。

この改革案では、①国税収入の平年度約3億円の増加、②地方税における平年度約2億 9000

万円の減税、③地方財政調整交付金の創設による地方の歳入欠陥の補填が予定された。地方

税については、①所得税の附加税を一定限度に制限する、②家屋税を国税に移管する、③地

租附加税を減税する、④営業税及び営業附加税を減税する、⑤戸数割は廃止する、などの改

革案が示された。また、地方財政調整制度の創設する、市町村立小学校の教員の給与費を道

府県の負担とするとの改革案も示された。

(2) 改革案に対する意見

馬場・潮改革案に対しては、賛否両方の意見が見られた。立案者は改革案について、①地

方税の住民負担を軽減し、②国税は人税本位、地方税は物税本位とし、③収益税である地租、

営業収益税等を形式的には国税としながら、実質的には地方財政調整制度によって、地方団

体の財源としたものである、と述べている。こうした住民の負担軽減、地方財政の確立など

を目標にした改革案を支持する意見がある一方で、改革案が中央集権的であり、地方団体の

自主性を阻害するとの批判も見られた。例えば、戸数割の廃止や家屋税の国税移管などに対

して、全国市議会議長からは、自治権擁護の観点から反対であるとの意見が表明され、全国

市長会の決議では、地方団体の財源を奪い、自治の発展を阻害する虞があると述べている。

この改革案は、日中戦争の開始や内閣の交代などにより実施には至らず、抜本的な地方税

制の改革は 1940 年 3 月まで待つこととなった。1940 年 3 月の地方税制の改正は、馬場・潮

改革案との差もみられたが、改革の基本的な方向性は同じであるとされている。

5.3 抜本的な地方税制改革

(1) 抜本的な税制改革の方針

税制調査会は、1939 年 5 月に抜本的な税制改正の根本方針を決定し、同年 10 月に地方税

制改正に関する要綱について答申を行った。

政府は、この答申に基づき、1939 年 12 月に地方税制改正の方針、要綱等を閣議決定した。

これにより、国税附加税、道府県独立税、道府県附加税、市町村独立税の種類、税目の廃止、

税率(賦課率)などが明らかにされ、新たな地方税の体系が示された。例えば、①国税附加

19

税の種類については、地租附加税、家屋税附加税、営業税附加税等とする、②道府県独立税

については、雑種税の一部を市町村に移譲する、特別地税を廃止する、などの方針が示され

た。

(2) 地方税法等の制定

政府は、上述の地方税制改革の方針に基づき、1940 年 2 月に地方税関係法案を第 75 回帝

国議会に提出した。同法案は若干の修正を受けたものの、ほぼ原案通り同年 3 月に成立した。

地方税関係法の成立により、これまで並存していた地方税に関する多くの法令が統合され

た。地方税法が地方税に関する基本法として制定されるとともに、地方分与税法が制定され

た。なお、地方分与税は、国が特定の租税を形式的には国税として課税するが、実質的には

(間接課税形態による)地方税と考えることができる。

新たな地方税制では、道府県税普通税の国税附加税として、地租附加税、家屋税附加税、

営業税附加税などが認められ、道府県独立税として、不動産取得税、段別税、自動車税、芸

妓税などが定められた。また、都市計画税などが、道府県税の目的税として定められた。

一方、市町村の普通税には、地租附加税、営業税附加税等の国税附加税、不動産取得税附

加税等の道府県附加税のほか、市町村独立税として市町村民税、自転車税、荷車税などが認

められた。また、市町村税の目的税として、都市計画税などが定められた。

新たな地方税制度下における 1943 年度の道府県税、市町村税の収入額は、表 5 の通りであ

る。

20

表 5 地方団体別の地方税(1936 年度、1943 年度)

(単位:万円、%)

税額 構成比 税額 構成比

 道 府 県  26,451 39.9  道 府 県  33,992 35.1

  国税附加税 14,118 53.4   国税附加税 26,019 76.5

   地租附加税 6,897 26.1    地租附加税 2,962 8.7

所得税附加税 4,665 17.6 家屋税附加税 4,850 14.3

営業税収益税附加税 2,487 9.4 営業税附加税 18,112 53.3

その他 69 0.3 その他 95 0.3

独立税 11,383 43.0 独立税 6,312 18.6

家屋税 4,186 15.8 不動産取得税 4,428 13.0

雑種税 6,279 23.7 その他 1,884 5.5

その他 918 3.5

950 3.6 1,661 4.9

17,909 27.0 38,950 40.2

  国税附加税 5,400 30.2   国税附加税 25,040 64.3

地租附加税 1,649 9.2 地租附加税 2,655 6.8

所得税附加税 1,540 8.6 家屋税附加税 5,035 12.9

営業収益税附加税 2,161 12.1 営業税附加税 17,344 44.5

その他 50 0.3 その他 6 0.0

  道府県税附加税 8,159 45.6   道府県税附加税 2,808 7.2

家屋税附加税 4,997 27.9 不動産取得税附加税 2,009 5.2

雑種税附加税 2,799 15.6 その他 799 2.1

その他 363 2.0 5,179 13.3

0.0 市民税 4,198 10.8

2,992 16.7 その他 981 2.5

   都市計画特別税 1,358 7.6    都市計画税等 5,923 15.2

21,909 33.1 23,885 24.7

   国税附加税 4,137 18.9    国税附加税 15,826 66.3

地租附加税 2,893 13.2 地租附加税 4,912 20.6

所得税附加税 68 0.3 家屋税附加税 2,999 12.6

営業収益税附加税 986 4.5 営業税附加税 7,838 32.8

その他 190 0.9 その他 77 0.3

  道府県税附加税 5,686 26.0   道府県税附加税 2,519 10.5

家屋税附加税 1,679 7.7 不動産取得税附加税 1,475 6.2

雑種税附加税 3,181 14.5 その他 1,044 4.4

その他 826 3.8 5,264 22.0

0.0 町村民税 3,305 13.8

12,084 55.2 その他 1,959 8.2

   都市計画特別税 2 0.0    水利地益税等 276 1.2

 合  計 66,269 100 .0 96 ,827 100 .0

23,655 35.7 66,885 69.1

13,845 20.9 5,327 5.5

28,769 43.4 24,615 25.4

    道府県税附加税

特別税(戸数割等・独立税)

   うち国税附加税

独立税

     道府県税附加税

     特別税(独立税)

 市 市

 町 村 町 村

  うち国税附加税

独立税

    独立税等

1943年度項目 項目

都市計画特別税等 都市計画税等

 合  計

1936年度

特別税(戸数割等・独立税)

注) 1 著者が、『地方財政概要』(内務省地方局(編))のデータを用いて作成した。

2 斜体で示された構成比は、「合計」における構成比を示している。その他の構成比は、「道府県」、「市」、

「町村」における各税の構成比をそれぞれ示している。

21

おわりに

おわりに、この時代の地方自治の特徴等について少し述べてみたい。

第一に、この時代の地方自治の 大の特徴は、戦争の遂行、勝利を 優先に、地方自治の

仕組みが整備され、その運営がなされたことである。例えば、①新たに制定された数多くの

法律・勅令による府県・市町村の戦時業務の増加、②戦時体制強化のために行われた部落会・

町内会の機能の整備・強化、③1943 年の市制・町村制の改正や東京都制の実施、④ブロック

組織の創設や地方議員の任期の延長などに、この時代の戦時体制の強化を目指した地方自治

の特徴を見ることができる。

第二に、このため、国と地方団体の歳出構造(規模)にも大きな変化が見られた。地方団

体(普通会計)の歳出規模は、1920 年代の半ばに国(一般会計)の歳出規模を上回ることに

なったが、戦時体制の整備が進められる中で、1937 年度からは再び国の歳出規模が地方団体

を上回るようになり、1945 年度には国が地方団体の 4 倍を超える水準にまで達した。また、

1930 年代になると戦時業務の増加等により道府県の歳出が拡大し、1943 年度以降は道府県の

歳出が市町村の歳出を超えるようになった(注 8)。一方、1930 年代後半から国庫支出金の構

成比も増加傾向となり、1945 年度には地方税収入を上回るまでになった。

第三に、我が国の経済が低迷する中で、1930 年代前半においては積極的に景気対策(時局

匡救事業)が行われた。また、1932 年の救護法の施行や 1938 年の国民健康保険法の制定な

ど社会福祉立法の進展も見られた。さらに、窮乏が著しい農村地域の地方財源を確保するた

め、地方団体に対する財政補給金制度が作られ、1940 年度には地方分与税制度が創設された。

このように住民の生活の向上、窮乏からの救済を目指して種々の制度が整備され、政策が実

施された。しかし、1937 年に日華事変が発生し、戦争の遂行を 優先にした体制整備を進む

中で、住民の生活、福祉という視点は忘れられ、太平洋戦争の勃発する中で、多くの国民が

悲惨な状況に苦しみ、困窮した生活を送ることとなった。

こうしたこの時代の我が国の経験には、地方自治に限らず、今後に生かすべき多くの教訓

があるように思われる。

【注】

1 東京都百年史編集委員会(編)『東京百年史 第五巻』(東京都、1972 年 11 月)22 頁を参

照。

2 地方自治百年史編集委員会(編)『地方自治百年史 第一巻』(地方自治法施行四十周年・

自治制公布百年記念会、1992 年 3 月)743 頁を参照。

3 前掲・地方自治百年史(第一巻)744、745 頁を参照。

4 大霞会『内務省史 第三巻』((財)地方財務協会、1971 年 6 月)520 頁を参照。

5 井川博『第3期 旧地方自治制度の発展(1909-1929年)』((財)自治体国際化協会(CLAIR)、

政策研究院大学・比較地方自治研究センター(COSLOG)、2010 年 3 月)12 頁を参照。

6 日本銀行統計局(編)『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局、1966 年 7 月)

22

132、133 頁、 統計委員会事務局・総理府統計局(編)『日本統計年鑑(昭和 24 年)』(日

本統計協会、1949 年 10 月)848~851 頁を参照。

7 藤田武夫『日本地方財政發展史』(河出書房、1949 年 12 月)551 頁を参照。

8 国(一般会計)と地方団体(普通会計)の歳出規模を比較すると、明治時代から国が地方

団体を上回っており、例えば 1910 年度には前者が後者の約 2 倍の規模となっていた。しか

し、地方自治の発展、地方団体の事務の増加に伴い、1920 年代の半ばに両者は逆転し、地

方団体の歳出が国の歳出を上回るようになった。また、道府県の歳出規模は、1920 年代に

は市町村の歳出規模の半分に満たなかった。前掲・井川 4、17、18 頁を参照。

【参考文献】

1 大霞会『内務省史 第二巻』((財)地方財務協会、1970 年 11 月)

2 大霞会『内務省史 第三巻』((財)地方財務協会、1971 年 6 月)

3 東京都百年史編集委員会(編)『東京百年史 第五巻』(東京都、1972 年 11 月)

4 統計委員会事務局・総理府統計局(編)『日本統計年鑑(昭和 24 年)』(日本統計協会、1949

年 10 月)

5 地方自治百年史編集委員会(編)『地方自治百年史 第一巻』(地方自治法施行四十周年・

自治制公布百年記念会、1992 年 3 月)

6 地方自治百年史編集委員会(編)『地方自治百年史 第三巻』(地方自治法施行四十周年・

自治制公布百年記念会、1993 年 8 月)

7 内閣統計局(編)『日本帝国統計年鑑』(各年)

8 内務省地方局(編)『地方財政概要』(各年度)

9 日本銀行統計局(編)『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局、1966 年 7 月)

10 藤田武夫『日本地方財政發展史』(河出書房、1949 年 12 月)

23

年表 第 4 期(1930-1945 年):不況、戦時体制下の地方自治

時代の動き・国政の動き 地方自治の動き(地方行政・地方税財政)

1930年 金解禁、恐慌の深刻化(時)

1931年 満州事変(柳条溝事件)(9 月)(時) 1931年 地方税制の改正(財)

労働者災害扶助法の制定(国)

1932年 満州国の建国宣言(3 月)(時) 1932年 地方財政調整交付金制度要綱案の発表(8 月)

(財)

五・一五事件(5 月)(時)

救護法の施行(国)

時局匡救事業、農業経済更正運動の実施(国)

1933年 児童虐待防止法、少年救護法の制定(国)

医師法、歯科医師法の改正(国)

1934年 健康保険法の改正(国)

1935年 選挙粛正中央連盟の結成(6 月)

府県制、市制、町村制、北海道会法の改正(行)

選挙粛正委員会令の公布(行)

1936年 二・二六事件(2 月)(時) 1936年 馬場・潮改革案の発表(9 月)(財)

工場法の改正(国) 臨時町村財政補給金制度の創設(財)

1937年 日華事変(蘆溝橋事件)(7 月)(時) 1937年 臨時地方財政補給金制度の創設(財)

保健所法、母子保護法の制定(国)

1938年 厚生省の設置(1 月)(国)

国家総動員法の施行(5 月)(国)

重要鉱産物増産法、国民健康保険法の制定(国)

1939年 第 2 次世界大戦起こる(9 月)(時) 1939年 部落会・町内会の整備に関する内務省訓令(9

月)(行)

米穀配給統制法の施行(10 月)(国)

船員保険法、職員健康保険法の制定(国)

警防団令、賃金統制令、国民徴用令の公布(国)

1940年 日独伊三国同盟締結(9 月)(時) 1940年 地方税法の制定、地方分与税制度の創設(財)

大政翼賛会の発足(10 月)(時)

1941年 太平洋戦争起こる(米・英に宣戦)(12 月)(時) 1941年 府県会議員、市町村会議員等ノ任期延長ニ関ス

法律の公布(行)

1942年 ミッドウェー海戦(6 月)(時) 1942年 地方事務所の設置(地方官官制の改正)(7 月)

(行)

労働者年金保険法の制定(国) 部落会町内会等ノ指導方針(閣議決定)(8 月)

(行)

1943年 東京都制の実施(7 月)(行)

地方行政協議会の設置(7 月)(行)

府県制、市制、町村制、北海道会法の改正(行)

道府県会議員等ノ任期延長ニ関スル法律の公布

(行)

1944年 B29 東京初空襲(11 月)(時)

1945年 ポツダム宣言受諾、終戦(8 月)(時) 1945年 地方総監府の設置(6 月)(行)

注:「(時)」は「時代の動き」に関する事項を、「(国)」は「国政の動き」に関する事項を、「(行)」は「地方行政」に

関する事項を、「(財)」は「地方財政」に関する事項を、それぞれ示している。