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-1- 天篇 上:学ぶ 天篇 上:学ぶ 目次 第一章:一元流鍼灸術の勉強会について 学習内容 勉強会の実際 メイリングリストという場:2012 このゼミでは何を学ぶことができるか 気づきの種 無知であることを知る 知を探究する覚悟 患者さんの身体を読む 見えること判ることを積み重ねる 拘わってはいけない微細なものとは何か 学びの遅速 わからない時 東洋医学の勉強 学ぶ姿勢:二態 一元流鍼灸術を行う覚悟 第二章:臨床の場は古典発祥の地 言語を超えた理解を! 名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が付いている件 経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前が付いている 質疑 東洋医学の先人たちへの恩返し 人間理解への情熱こそが古典の基本 古典を読み身体を読む心 古典を読むということ 弁証論治を作成するということ 言葉の指す向き 己と他者

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天篇 上:学ぶ

天篇 上:学ぶ 目次■

第一章:一元流鍼灸術の勉強会について■

学習内容

勉強会の実際

メイリングリストという場:2012 年

このゼミでは何を学ぶことができるか

気づきの種

無知であることを知る

知を探究する覚悟

患者さんの身体を読む

見えること判ることを積み重ねる

拘わってはいけない微細なものとは何か

学びの遅速

わからない時

東洋医学の勉強

学ぶ姿勢:二態

一元流鍼灸術を行う覚悟

第二章:臨床の場は古典発祥の地■

言語を超えた理解を!

名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が付いている件

経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前が付いている

質疑

東洋医学の先人たちへの恩返し

人間理解への情熱こそが古典の基本

古典を読み身体を読む心

古典を読むということ 弁証論治を作成するということ

言葉の指す向き

己と他者

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違和感の大切さ

古典を読む ― 般若心経を通じて

古典は指である

第三章:東洋医学と中医学■

日本の東洋医学と、大陸の東洋医学との違い

中医学は東洋医学にはなり得ない

中医学からの離脱のために

中医学は論理的か

弁病について

経絡治療が理論的に破綻している件

第四章:一元流鍼灸術の発展のために■

東洋医学を構築していくための方法論:メモ

これからの東洋医学はいかにあるべきか:メモ

東洋医学の改良のために:メモ

東洋医学は生命の側に立つ医術である

東洋医学の可能性の深さについて

第五章:一元流鍼灸術が描く未来像■

一元流鍼灸術の目指すもの

一元流鍼灸術の使い方1

一元流鍼灸術の使い方2

「患者さんの身体から学ぶ」方法論の確立

失敗の研究

附録一:釈迦の悟りと難経■

附録二:『臨床哲学の知』木村敏著■

附録三:東洋医学の可能性■

コラム 詩人の魂■

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コラム 師言:生きる■

コラム 師言:エゴイズム考■

自他一体が般若波羅蜜多■

超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経■

暝想―簡易座禅の薦め■

病むを知り養生し、愚を知り修行す■

第一章:一元流鍼灸術の勉強会について■

学習内容■

黄帝内経が作成された当時の認識論に立ち返り、存在そのものをいかに観、理解し、表現

していくのかを学びます。

養生といい治療というものは、この人間理解に従うことによって初めて成り立つものであ

ると考えています。

東洋医学界がなぜ清新な人間観を提示できないかというと、人間理解の部分についてはそ

もそも古典に依拠したまま発展させず、症状取り病気治療という観点からしか人間を見よ

うとしてこなかったためです。

このことは言葉を換えると、黄帝内経を作り上げた古人のような強靱な意志と観察力と独

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創性を持った臨床を、現代人はなしえていないとも言えるわけです。

一元流鍼灸術は、古典を現代において、今ここで作ろうとする意志に基づくものであり、

古典に帰り古典を活用する道であるとともに、古典を現在の臨床において乗り越える方法

を提示していこうとしているものです。

勉強会でやっていることは、人間理解の方法を説いている『一元流鍼灸術の門』の講読と、

体表観察の実際的なやり方の実技、それらを統合的に実践・理解する訓練としての弁証論

治の作成です。

その資料集めの技術として、問診法の実技、脉診・腹診・背候診・経穴診を中心とした切

診技術の実技と錬磨を行っています。

勉強会の実際■

一元流鍼灸術の勉強会は二本立てで行われています。参加者が実際に集う一月に一回の勉

強会と、メイルのやりとりを通じて行われるメイリングリストによるものです。

一元流鍼灸術の勉強会では、メイリングリストが非常に大切な役割を果たしています。メ

イリングリストでは上記した弁証論治の実際について対話形式で指導が行われて、治療経

過もアップされています。また、勉強会の感想や疑問などがあげられ、それに対する解説

が行われています。また、代表の雑感などがアップされることもあります。

ですから、一元流鍼灸術の勉強会に積極的に参加するためには、インターネットにつなが

っているパソコン環境が必要となります。一ヶ月に 100 通以上のメイルのやりとりが行わ

れており、時に爆発することもあります。

実際の勉強会になかなか参加できない方でも、メイリングリストでは積極的に参加してい

る方もいます。また、表面的には参加できなくとも、読むことを継続されている方もいま

す。さまざまな形で関わり学ぼうとしている方がいるわけです。そしてどのような形であ

れ我々は歓迎しています。

『一元流鍼灸術の門』は、読むたびに新しい発見がある実践の書であるため、本当の理解

に到るのはなかなか難しいようです。ことに現代の思考法と異なる思考法を学習するわけ

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ですから、現代人である、自身の発想の癖を乗り越えるところが難しいようです。

『一元流鍼灸術の門』は年初の一月から読み始め年末には読み終えます。一年が一サイク

ルになります。

実技は初歩的な指導をスタッフが行い、毎回さらにその自身の実技の腕を深めていけるよ

うに工夫するということになります。触れて行う体表観察が中心で、脉診・腹診・経穴診

・背候診が中心になります。これらは組み合わせて行われ、実際に経穴に触れたときの脉

状の変化、経穴にアプローチした前後の処置経穴および診断経穴の変化についても、それ

ぞれが実際に触れながら学びます。

書物は読むことでセンスがあれば理解できますけれども、実技は一人ではできません。実

技を身につけ磨くためには、実際の一元流鍼灸術の勉強会に参加するしかありません。

ある程度理解が進んできた人は、まず自身の問診を作成し、また勉強会の場で再度問診を

した後、体表観察と組み合わせて一元流のホームページに掲載してあるような弁証論治を

作成していただきます。ここが学ぶことの終着地点でありまた始まりの場処となります。

ここに至って初めて人間理解の方法の全体像を把握することができるわけです。この詳細

の指導はメイリングリストで行われます。

存在に肉薄する古人の方法は、現代思想に比して見劣りがするものではありません。惜し

むらくは、経典に対する信仰心からか、経典をその時代の思想潮流の中で読みこなしきれ

ず、せっかくの宝物を病気治療の方法を探索する道具としてしか利用し得てこなかった、

我々後人の怠慢が、経典の価値を引き下げてしまいました。

臨床の中から古典を読まなければならない。人間理解の中から古典を読み解かなければな

らない。そう一元流鍼灸術は主張しています。

メイリングリストという場: 2012 年■

いい機会ですので、このメイリングリストという場所の使い方についてお話ししておきま

しょう。

今のところ、勉強会の前には勉強会の時にやる内容が、予習と準備のため入ります。

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そして勉強会の後には、その感想などを投稿して意見の交換をすることができます。

また、自身で症例を投稿して弁証論治の練習を行ったりしています。

現状での使い方はこのようなところですが、二番目の勉強会の報告についてもっと力が入

ってもいいのではないか、それこそ勉強になるのに、と私は思っています。

というのも、勉強会で学んだ(と思ったこと)をまとめてアップする習慣を付けると、間

違いがあれば指摘してくれる人がでるでしょう。もっと深化したければこの場でさらに「問

う」こともできます。自分自身が行って直接得ることができることがこれだけあります。

また、そのような情報を共有することによって、地方にいてなかなか参加できなかったり、

出産などでしばらくお休みしている人も、勉強会の様子がよくわかり、時にはその知識を

提供してくれる可能性もあります。みんなで一体になって歩んでいくことができるわけで

す。

また、私にとっても、話している内に言い忘れてしまった欠落した情報を提供している場

合があります。アップされた内容を読みながら手直しすることができる可能性が出てきま

す。さらには話している拍子に出てきたアイデアなどをさらに深化させて文章化していく

可能性も出てきます。直接お会いして言葉を交わしているときに使う脳みそと、一人沈思

黙考してまとめているときに使う脳みそとは少し位置が違い、発想方法も異なります。そ

の分、話しをしている私にとっても意外な言葉が勉強会では出ている可能性があるのです。

勉強会で起こった出来事をまとめてメイリングリストに投稿することによる効用は、ちょ

っと考えてもこのように大きなものがあります。ですから、そのような交流ができる場所

としてこのメイリングリストが育っていけると楽しいなと思っているわけです。

このゼミでは何を学ぶことができるか■

このゼミでは何を学ぶことができるかというと、それは人間を診る技術です。治療の前に

患者さんをよく診てその状態を判断する必要があります。そのあたりのことを東洋医学の

歴史的な人間観を踏まえながら実技とともに勉強していこうとするわけです。

勉強の方法は、テキストの講読と、実際に人に触れてみることで行われます。ゼミの後半

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になると、自分自身を症例として、その弁証論治を自分自身で書いていくことによって、

実際の弁証論治の書き方とともに、患者さんの気持ちも学べます。また、それをメイリン

グリスト上で行いますので、他の人がどのようなところで引っかかり、どうやってそこか

ら抜け出していくのかということを学ぶことができます。

やってみるとわかるのですが、人間を診る弁証論治を作り上げることができるようになる

と、治療法などは工夫次第でいくらでも広がります。何でもいい得意な手段を使えばいい

わけです。

そのあたりのキメができるところまで学んでいただければ嬉しく思います。

気づきの種■

ここで学ぶことは一つの種です。

この種は、気づきによって成長していきます。

この種を成長させるコツは、

固定観念にとらわれずに観、

固定観念にとらわれずに聴くということです。

固定観念にとらわれないということは難しいことです。

固定観念にとらわれないと思うことそのものが固定観念になりえますから。

そのため、固定観念にとらわれないということを別の言葉で、

気づく、と呼びます。

何かに気づくとき、心はジャンプします。

その心のジャンプが、

歓喜とともに、

光明を、

その心に射し込ませます。

そして、それは、その人の世界が一段階広がることにつながります。

このような気づきを重ね重ねていくことによって、

いつの間にか人を診れるようになります。

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気づくということができるということは、

奇跡です。

そして、この奇跡は、

自身が無明の中に存在しているからこそ、

起こりえるものであるということを、

よく理解していただきたいと思います。

無明の中にいるありがたさ、

これが「無知の知」と呼ばれるものの正体です。

無知であることを恥ずることはありません。

それを早く自覚することによって、

早く気づきの種が育ちます。

無知であることを恥ずることはありません。

無知であることを知り続けることで、

人は始めて、

いつまでも気づきの歓喜の光の中に

立つことができるのですから。

皆さんは学ぼうと決意されてここに集まりました。

学ぼうと決意されているということは、

自分が無知であるということを知ることができている、

光明への扉を叩いているということを意味しています。

その初心を忘れずに、

その謙虚さを忘れずに、

患者さんの身体に対し、

古典を読み込み、

臓腑経絡学を点検し

磨き上げていただきたいと思います。

無知であることを知る■

無知の知という言葉は、自分自身のおろかさ無知に対する徹底した自覚を指しています。

自分自身が無知無能暗愚であることをしっかり自覚するところに初めて、学びが入る精神

的なゆとりが生じます。

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東洋医学を行じていく中で、草創の古人とわれわれ現代人とのどこが一番異なるのだろう

かと思ってみると、これはもう、無知に対する徹底した自覚が我々には足りないというこ

とに尽きると思います。無知を自覚すること。そこに知への渇仰が産まれます。この知へ

の飢えと渇きが、多くの気づきへの道を切り開いてくれます。

私どもは、学問・書籍・試験などを通じて、あまりにも多くのことを記憶してしまいまし

た。この、言葉が充満している世界は、それなりに頼りになるものではあるわけですけれ

ども、実は、実際の世界と肌触れ合うスリル・新鮮さを失わせてもいます。いわば、冒険

を恐れるあまり世界に開く心を失った現代人が、ここに魑魅魍魎のように巣食っていると

いった具合になっているわけです。

この時にあって、すべての虚飾を剥ぎ取りリアリティの中に、無知の闇を恐れず、六感を

研ぎ澄まして、獣のように棲むという覚悟が、われわれには必要です。

知を探究する覚悟■

知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にい

ま問うています。

知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す

行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声

に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味していま

す。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声

を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。

これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自

分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在

の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためには

そのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気

のことをも意味しています。

探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよく

あることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続け

ることもまた覚悟ということになります。

ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止める

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と、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―

すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。

知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、

本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の

汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これ

が汝自身を知れという言葉の真の中身です。

無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、

風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切

なことであると私は思います。

患者さんの身体を読む■

病因病理を考えるということは、そこに存在している患者さんの身体を読むということで

す。古代において、人は小宇宙として捉えられ、天文地理を眺め感じ読み取ることを通じ

て、人身の不可思議を相似的に把握しようとしました。天文地理という大宇宙と人身とい

う小宇宙の双方ともに同じ法則があるに違いないと考えることは、生かされている奇跡を

神の恵みに違いないと感じ取ることのできる人間にとっては当然のことでした。

身体の秘密を知るということはまさに宇宙の神秘を知ることに他ならなかったわけです。

一元流の弁証論治は、この古代人の把握方法を再構成したものです。

1、四診をして情報を集めます。

2、四診の情報を、五臓の弁別として五に分けてみて、その全体像を把握しやすくします。

3、弁別された情報を、病因病理の観点からひとつの生命の流れに寄り添うような形で統

合し、その人の生命の有様を明らかにしていきます。

4、見えてきたものの中心を記述するのが弁証項目で、治療法を記述するのが論治項目と

しています。治療法は個別具体的に繊細になりますので、初期段階でその流れを治療指針

として記載しておきます。患者さんにできることも治療法の一種で養生法でもあります。

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これを生活提言として記載します。

このようにして見、このようにしてその修復方法―治療方法の概略を明らかにしていくわ

けです。

実際の治療経過を通じて本当に患者さんを理解できているのかどうか。それを再検討する

ための材料が、このようにしてできあがるわけです。

見えること判ることを積み重ねる■

勉強会に参加していて、どーも何をやっているのかわからない。

他の人々は見えているらしいんだけれども、自分にはどうしてもよくわからない。わから

ないからますます熱心にそこに注目するんだけれどもやっぱりわからないという悪循環を

おこしている人がいます。

これ、もったいないですね。

見えないこと判らないことは、積み重ねられません。修練を積んでいる人にできることが、

初心者にすぐできるわけもなく、修練を積んでいる人に見えることが、初心者にすぐ見え

るわけはないんですね。

また、その人の体質や人生経験によって見やすいこと見えにくいことがあったりもします。

ですから、判ることを確認していく、見えるものをどう解釈していくのか自分の頭で考え

ていく。そのように心を定めることが大切です。

そのようにすると、見える範囲が少しづつ増え、見え方が少しづつ深くなります。

「人間がそこに生きている」という基本的なことが見えない人はいません。その人間を少

しだけ詳しく見ていく。腹があり背があり、生きてきた歴史がそこに刻まれている。その

あたりから少しづつより詳細に、「確実に」見える範囲だけを集めて、その人をより深く

理解していくわけです。

そこに借り物ではない人間理解の端緒があります。確実なところを集めてそこから理解を

深めていく。そこから借り物ではない臨床への道が開けていきます。

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これがより誠実な治療家になっていくための、第一歩であり、いつでももっとも大切な基

本的な歩み方となります。この誠実さを踏み外さないように、日々の臨床のルーティーン

の中に埋没しないようにしましょう。

拘わってはいけない微細なものとは何か■

拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て判断するというこ

とです。

全体観とは何かというと、一の把握ということです。

存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには小さいなりの「あ

りよう」特徴を持っています。

テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を一括りのものとし

て把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定めることができないと、妄想を構築す

ることとなります。

妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑にはならないわけです

けれども、人を指導したり、治療をしたりする段になると非常な迷惑を与えることとなり

ます。

妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人がほとんどでしょ

う。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみると、それを持たない人はほとんどい

ません。こだわりがある時にはそこに充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。

ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべきでないところには

こだわらないという鑑別が難しいというところにあります。そのため、熱心に生きている

人ほど、目の前にぶら下がっている言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。

これが肯定的なことであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなこ

とにも拘わる人までいるわけです。

「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。

実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。東洋の伝統にお

いてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置きます。自己肯定する時の自己と

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は何かというと、今存在している自分自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情

を基本とします。今存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向

かって成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているものが四書の中

の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」というものがこれで、言葉を換

えると「自分自身と同じように隣人を愛する」ということであり「自分を大切にしながら

公に奉仕する」という精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レ

ベルに従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自身に当てはめ

て語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自分の位置に感謝を捧げそれを喜

ぶ」ということとなります。

言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは「感謝する」とい

うことであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこそが、拘りの中心でなければならな

いということです。それはまた。「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともな

るわけです。

そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけない微細なものです。

ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、遠くの微細な目に見えないもは大切で

はなく、今 目に見えているそれそのものがまずは大切なことなのです。このことを一元

流鍼灸術では、「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。

学びの遅速■

学ぶ速度には、遅速があります。遅い人は風景が良く見えます。速い人は次の世界に早く

たどり着きます。

勉強会としては、遅い人と速い人と両方いると、その幅が広がります。しっかりとゆっく

りと歩いてくれている人は、今、その場所で、誰も気がつかなかった発見をすることがあ

ります。先導者の言うことをはいはいと聞いて素直に歩いていく人よりも、その言葉が身

についている場合があります。

勉強会は、誰もその足を引っ張ることもできませんし、頭をぬきんでることもできません。

参加している人がそのまま勉強会の外的な広がりであり内的な深まりだからです。その総

体がその勉強会の器となるわけです。

そのような勉強会の中で学んでいく上でもっとも大切なことは、自分自身の速度より早く

歩かないこと。一つ一つ納得できるまで、諦めずに考え続けることです。

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わからない時■

問題を解明できないとき、

・古典の字句を解釈してわかったふりをするのではなく、

・患者さんの身体という事実を古人と同じような視点で把握しなおそうとする

・自分自身の狭い視点から少し引いてみて、より大きな観点から把握しなおそうとする

東洋医学の勉強■

東洋医学の勉強を始めていくうえでたぶん一番最初の障壁は経絡経穴を記憶することでは

ないかと思います。ことに経穴は体表の位置を指示する点の名前ですので、記憶しにくく

指し示しにくいものです。一度これをしっかり記憶するようにすると、少しは東洋医学に

足を突っ込んだ感じになります。

一元流鍼灸術のテキストでは今の時点でまとめることのできる東洋医学の人間観の最前線

をみることができます。東洋医学には深い伝統があります。これはまっすぐ前進してきた

ものではなく、松の木の根のように、さまざまな場面で頭を打ちながら右へ左へ匍匐前進

してできあがってきたものです。言葉が重ねられて複雑になっているように見えるそのも

っとも基礎にあるものが、人身は一小天地であり、宇宙と人とが相応関係にあるという概

念です。そして、その宇宙をより詳細にバランスよく理解していくために陰陽五行論があ

ります。

このあたりの詳細は、テキスト『一元流鍼灸術の門』の総論部分に書いてあります。ここ

が基本です。臓腑経絡学は今の時点で咲いている花となります。勉強会では弁証論治を行

ない続けることによって、さらによりよい人間理解を進めることができるように悪戦苦闘

しています。この悪戦苦闘が勉強会の生命であって、現代の臓腑経絡学の構築に役立つも

のであると考えています。

一元流鍼灸術では気功を含めて神秘思想に足を踏み込むことはありません。個人的な趣味

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で行なうことに対してどうこう言うことはないのですが、自己の内部に中心を築き、自己

を安定させるという方向に治療も個人の修養も向けていきますので、あたりまえに今ある

自分を受け入れるというところに身を置き、神秘的な能力を得るというあたりと関係を絶

っています。

一元流では、禅を用いたりもしますけれどもこれは心身の脱落のため、すべてを手放すた

めであり、何かを身につけるためではありません。心も体もお掃除を基本とし、その当た

り前の人間を理解し、治療するための人間理解の方法を提供しているわけです。

勉強会の場は月一回会場を借りて行なわれるオフ会と、この日々のメイリングリストです。

眺めるだけではなく質問することなどを通じて参加することが大切です。ことに基本的な

ところで疑問を持つというのは初心者にしかできないことですので、遠慮なく発言してい

ってください。

学ぶ姿勢:二態■

学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。

一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。

外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。

内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。

この内なる叡智は、仏性とも言います。

東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感動した経

験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味をこれも古人の解釈

などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書いてみたりします。古人が

本当に言いたかったのはこれではないのかとか、このあたりの言葉の解釈は明確にしにく

いので後人に託させていただきますなどと述べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の

言葉を蘇らせようとします。よくある学問の方法です。

これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自らの内な

る叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機として、あるいは

師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出していく作業を行うわけです。

考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる叡智と学

びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まっています。けれどもい

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つの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうにして日常の作業と同じよう

に積み重ねられていきます。

けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる理由はそ

の叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった感動は、外なる叡

智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋学あるいは朱子学としてま

とめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典を、内なる叡智に従って彫刻し直し、

後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整えてくれたわけです。

東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め続けるの

は外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かということは自身の内な

る叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそうな師について学ぶわけです。

いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上げして、治療家になるために再生しよ

うとしているわけです。

けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということがわかりま

す。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目の前に患者さんが

現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する場となります。その時にあ

たって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた者たちは迷い出すしかありません。

何も手を下せない。病名をつけてもらわなければ何も手を下せないのです。

これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していることを、患者

さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器を知り、その自身

の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨くという行為となります。

一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、統合の技術なのです。

一元流鍼灸術を行う覚悟■

一元流鍼灸術を行うためには覚悟が必要だと、Oさんは言われていました。その時は私も

その通り「そうですね」とお返事していましたけれども、その裏にある思いはOさんとは

違う可能性があるので一言しておきます。

Oさんが語った覚悟というのは、最初から最後まで一元流の流れでやりきらないと一元流

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鍼灸術になっていかない、といった切羽詰まったものを感じました。それに対して私が思

う覚悟というのは、やりはじめようとする意志のことを言っているだけです。やり始めよ

うとする気持ちを決めさえすればできる、決めなければ何もできないという程度のことな

のです。

Y先生を見ているとわかると思いますけれども、一元流鍼灸術というのは自由自在なもの

です。型の基本は、患者さんをよく観て理解しようとする意志を持ち続けること、それだ

けです。

患者さんの気の濃淡を調える方法には、鍼灸を使うのも良いし、温めた石を使うのも良い

し、指だけでやっても良いし、アロマや宝石でも良いし、言葉かけだけでやっても良いわ

けです。自身の得意を見つけ出し、それを患者さんをよりよく観よりよく理解しながら、

よりよい方向へ調えていけばいいわけです。

そして次の段階として、気の方向性をつける場合に、できるだけ中心をおろそかにしない

ようにする、気海丹田を充実させることに心を払うということになります。

症状について考えるときには、それが全身の問題なのか部分だけの問題なのかという判断

がもっとも大切です。全身と部分の関係の軽重を測った後に、今回Sさんが言われていた

下肢痛の治療などが乗ってくるわけです。

第二章:臨床の場は古典発祥の地■

鍼灸をやっていく上で古典を学ぶということをどのように位置づけるかということは、「ど

ういう鍼灸をしたいのか」で、答えが出てきます。東洋医学的な観点から身体をどのよう

に把握するのか、ということに関心のない鍼灸師にとっては、古典など必要ありません。

指の感覚を鍛えて後は営業に徹するというのがその目的に沿っているでしょう。

これに対して、あくまで東洋医学的な観点から身体を把握し治療を行いたいという鍼灸師

であれば、ではその東洋医学的な観点とは何か。その立ち位置はいずこにあるのか、と問

い合わせるためだけにでも、古典を読むことは必要になります。

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その際にもし、東洋医学そのものがその当時の人間観を基にした観察によって成立してい

るということに思い至るならば、読む必要のある古典とは、古代の人間観を記載している

哲学書や宗教書になるでしょう。これはすなわち、諸子百家を学ばなければならないとい

うことになります。

東洋思想が揺らぎながらもゆるぎなく立っていた時代、東洋医学は東洋思想の人間観を土

台にしていました。

その思想の主流としては朱子学、儒教ということになります。宋代にできた儒教である朱

子学は、その当時の古典である春秋戦国時代の書物を体系的にまとめなおしたものですか

ら、東洋医学の古典である黄帝内経の人間観もこれを基にすれば理解しやすいのではない

だろうか、とあたりをつけています。この朱子学の基となった太極図の解釈が、一元流鍼

灸術のテキストの中で述べられているのは、そのためです。

このような人間観を基盤として、身体感覚を磨き、経絡を発想し適用し臓腑と経絡との関

連を考え、天人相応の観点に立って不足を補いながら生きて働いている人体の構造を体系

化したものが、まさに「黄帝内経」です。

この中の臓腑経絡に関する体系化は古代人が纏め上げた東洋医学的人間観の中核となるも

ので、一元流鍼灸術の柱の一つです。

しかし臨床の場は、古典発祥の地そのものです。ですから今、新たに書きとめられる症例

報告は、それ自体が古典となっていきます。古典となすべく臨床を積み重ねていくわけで

す。

古典を臨床の場で読むためには、東洋医学的な人間観が真実か否かその前提を確認しつつ

格闘し検証する作業が必要となります。そして、その結果自らの血肉となった人間観を手

にして再度、患者さんを把握していくわけです。

言語を超えた理解を!■

私どもは何を学ぼうとしているのでしょうか。何を形作ろうとしているのでしょうか。

中医学を学ぼうとしているわけではありません、経絡治療を学ぼうとしているわけではあ

りません、漢方医学を学ぼうとしているわけではありません、東洋医学を学ぼうとしてい

るわけではありません。

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そうではなく、目の前にいる人間をよりよく見てよりよい治療を施すにはどうすればいい

か、ということを学びたいわけです。

ということは、まず第一に、目の前にいる人間をどのように理解すればいいのか悩む必要

があります。それがなければまず初発の心が起こりません。この道を続けていくことがで

きません。もし人間に興味がないのであれば始めからこの道に入らないことです。

次に、どのようにすれば理解できるのだろうかという悩みに入ります。現代では医学とい

うと西洋医学が主流ですので、それを学ぶのも一つの手です。解剖を学び生理を学びます。

その精緻な分析的な手法に感動します。

けれどもそれで人間を捉えることができているのだろうか、本当にそれでいいのだろうか

と悩みます。不自然な感じがするし肉体は救われるのかもしれないけれども心は救えない

かも。病気は診ているかもしれないけれども人間を観てはいないのではないだろうか。そ

もそも人間を観るというのはどういうことだろう。

そこで東洋医学の一元的な人間観に出会うわけです。人と宇宙とを対応させて考えており、

人間は小さな宇宙であるという。陰陽という物差し五行という物差しを使って、その宇宙

をさまざまな角度から観ようとしているらしい。これって美しいかもと。

そこで勉強を始めます。すると、思いのほか大量の知識の集積の前に戸惑います。多くの

言葉を記憶しなければそこに書いてあることを理解することすらできません。まじめな人

はそこで苦労していく決意を固め、いわゆる東洋医学用語を定義しそれを使って表現する

方法を学びます。そして古人の言葉を理解しその解説までつけられるようになります。そ

のような作業を続けて数十年が過ぎたころ運が良ければ再度深い迷いにはまり込むことに

ななります。

言葉は取りあえずわかったような気がするけれども、目の前の人間理解は進んでいるのだ

ろうか。評価し分析することはできるようになっている気がするのだけれども、本当に理

解しているのだろうか。と。

存在そのものへ、存在そのものの理解を、と思う時、実は言葉は邪魔なだけだったりしま

す。言葉を通じて古人と対話し、言葉を通じて他者と対話することはできるわけですけれ

ども、言葉以前に存在している人間そのものは言葉を格拒して〔注:きっぱりと拒絶して〕

そこに存在しているのです。それをどう損壊しないようにありのままに把握していくのか。

それが陰陽五行論の基本的な発想であったはずです。それなのに、いつの間にか陰陽の定

義 五行の定義にはまり込んで、陰陽五行という自在な物差しの使い方がわからなくなっ

てしまっています。定義された言葉がまるで存在そのものと自分の目の間に大きな黒い雲

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となって広がり、存在そのものが見えなくなってしまっているような感じです。

言葉はとても強いものなので、非常に危険です。言葉の危険のもっとも大きなものは、表

現してしまうと理解できたような気がすることです。名前をつけてしまうとそれをわかっ

たような気になってしまう。多くの言葉が積み重なっていると深い理解がそこにあるよう

な気になってしまう。そして言葉という腐葉土の中で一生を終えることとなるわけです。

さて、一元流鍼灸術では、その言葉を使って勉強していくわけです。けれども、スタッフ

がいつも気をつけていることは、言葉におぼれない、言葉に踊らされない、存在そのもの

を理解しようとする姿勢を中心として言葉を理解し発しているということです。ですから

まだ言葉を知らない初学の方々であったとしても、おかしいと思うことは積極的に発言し

ていただくことで、スタッフの理解が進み一元流鍼灸術もさらに進歩していくことができ

ます。

一元流鍼灸術の良さは実にここ、存在に対する謙虚さ、にあるわけです。

名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が■

付いている件

書物になると、何穴は何に効くという書き方しかできません。そしてそれを読んだ人々は、

なるほどツボっていうのはそんなに効くものなのか、と驚いてその何穴がどこにあるのか

探し始めます。

でもその前に気づくべきです。体表に経穴名は書いていないということに。何穴を初めて

使った人は、ただ体表観察をしていただけだということに。そこで経穴を探り当て、その

位置の目標として名前をつけたに過ぎないということに。

ですから大切なことは体表観察です。どのようなものをツボとするのか。そこをまず押さ

えていきましょう。

次に理解すべきことは、経穴に治療効果があるのではないということです。経穴は身体の

一部のごく一点にすぎません。その経穴がどのような作用をその身体に及ぼすのかという

ことには本来、個人差があるべきです。

人間の構造がよく似ているから、その体質やその時の状況を考えもせずに、現れているか

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どうかもわからない何穴が何の病に効くと信じてそのツボを動かすという、その発想その

ものがナンセンスであるということに気がつく必要があります。

そのために個別具体的な人間把握の方法―弁証論治があるわけです。

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理解する、

この弁証論治の方法を提供しています。

経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前■

が付いている

学校や素人は、この経穴がこの疾病に効果があるという言葉を信じて勉強を積んでいきま

す。けれども、実際に患者さんにあたると、経穴を見つけることができません。それは経

穴名が体表に書いてあるわけではないためです。あたりまえのことですが。このあたりの

ことを乗り越えようとして経穴を探す方法が工夫されてきました。けれどもそれは体表を

機械的に計測して当てはめるもので、経穴そのもの(沢田健先生のいわゆる生きて働いて

いる経穴)を見出すための鍛錬ではありません。そのため中医学などでは体表に触れて経

穴を探すこともせず、頭の中で作られた位置に基づいた場処に処置することとなっていま

す。

会話を成立させるためあるいは情報を残すためにはその場処(体表の一点)を指し示す名

前が付いていなければならず、その名前が同じ場所を指していることを前提として(特に

近代は)経穴学が発展してきました。どの経穴はどのような疾病に効果があるといういわ

ゆる特効穴治療などもこの過程で研究され、その記録が積み重ねられてきたものです。

けれどもこのての勉強を積み重ねているうちに忘れてしまうことがあります。それは、体

表を観察することによって初めて、経穴の一点を手に入れることができるという単純な事

実です。「名前がつけられる以前からそこに存在していた経穴表現を見出すこと」ここに

古典を越えて事実そのものに立脚することのできる鍼灸師の特徴があります。体表観察こ

そが今生きている古典である身体を読み取るための武器であるということ、この事実を認

識することから一元流の学は始まっています。

質疑■

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> 勉強会の実習で、いつもペンで印をつける経穴(陥凹・ゆるみ・

> 腫れなど)は、「生きて働いている経穴」ということなのでしょ

> うか?

>

> それはテキストにある「反応の出ている経穴」と同じものでしょ

> うか?

そうです。

> また、印をつけられない経穴は何なのでしょう?

微細な反応なので見えにくい経穴です。

> いま私の手元にある『経穴マップ』という本によれば、WHOの

> 国際標準で全身には361穴の経穴があるとのことであります。

> これは経穴の名前が361あるということで、誰でも常に361

> の経穴があるということではないわけでしょうか?

誰でも常に361の経穴があるということではありません。そのよ

うな標準化というのは無意味だということを言っています。

これはいわば、国家における町の数を数えるようなものです。体調

や状況生活習慣によって反応が出ている経穴の数も状況も変化しま

す。生命を取り扱うということはそのようなことです。国家におい

て町は生命の結節点ですが、時代によって地理によって状況によっ

て数も状況も大きく変化します。それと同じことです。

場を、面としてとらえる。その中の焦点を一点に定められる場合そ

れが経穴となり、そのあたりを指し示している経穴名を使用してそ

の位置を指示する。といった感じで経穴の探索を執り行います。

阿是穴は多くの場合経穴の正位置からの変動という発想で把えます。

そしてその変動には意味があるだろうと思います。足裏や手掌など

は古典で指示されている経穴名が少ないので、その位置が分かりや

すいように新しい名前をつけて呼ぶようにしています。

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東洋医学の先人たちへの恩返し■

古典を読むということは、自分の意見の歴史的な位置づけを得ることができます。これに

よって、自分の意見を学問のレベルに引き上げることができるわけです。

今、臨床の場という古典発祥の地に立つことによって、東洋医学の中核である臓腑経絡学

を磨き上げ書き換えていこうとすることが、東洋医学の先人たちへの一元流鍼灸術による

恩返しとなります。

人間理解への情熱こそが古典の基本■

東洋医学には数千年の積み重ねがあると言われています。数千年の積み重ねといっても、

その間、同じ言葉が繰り返されてきたのであればそれはただ、数千年の停滞でしかないと

いうことが理解されなければなりません。数千年前の思い付きを現代においても踏襲し続

けているとしたらそれは、いかなる宗教いかなる信仰心でしょうか!そして、いかなる怠

慢でしょうか!

とはいえ、東洋医学の基本的な古典はその成立当時にすでに深い臨床の積み重ねがありま

した。生命へのどのようなアプローチがどのような生命状態の変化を及ぼすというだけで

なく、それらの変化を系統立てて纏め上げています。そこにある、人間理解への激しい情

熱と執拗さとをこそ、我々は学び取らなければなりません!

そして、その同じ執拗な情熱のみが、古典を乗り越えさせ、より効果的な臨床を築いてい

く原動力となるでしょう。一元流鍼灸術が目指すものは、古典に埋没することではなく、

古典を作り出す能力を獲得することです。言葉にされた古典を読むことだけでなく、その

言葉の先にある生命理解を身につけることです。

古典を読み身体を読む心■

鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめ、それを通じて、その

生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

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この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実とは何かと

いうことを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作

業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来上がっている

わけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の作業の基となっている実

態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する人間そのものに

向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解できるだろうか、どうす

ればその生命状況をよりよい状態へと持っていくことができるだろうかと探求していくわ

けです。

古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代によって地

域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣に人間を見続けた

その積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残されているわけで

す。これはまさにありがたいことであると思います。

深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれどもその書物

の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作るということが、学校

教育に求められることです。外野としての私は、その支援の一つとして、中心概念をここ

「一元流鍼灸術の門」に明確にしているわけです。それが気一元として人間を見るという

ことと、その古代哲学における展開方法としての陰陽と五行の把握方法であるわけです。

古典という地図には読み方があります。身体は時代や地域によって異なります。現代には

現代の古典となるべき地図が、実は必要となります。現代の人間観、宇宙観にしたがいな

がらも、目の前に存在している人間を観ることを徹底することによって、はじめて古典を

綴った古人とつながることができます。そして、現代には現代の古典が再び綴られていく

こととなるでしょう。これこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物とす

る」技となります。

思えば、古典を読むという際の白紙の心と、身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態

です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となります。

古典を読むということ 弁証論治を作成するということ■

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一元流鍼灸術では文字で書かれている古典を読むことも大切にしています。けれどもその

読み方には特徴があります。

以前触れましたが、究極の古典は目の前の患者さんの言葉化される以前の身体です。です

から、古典を読む時に念頭に置かなければならないもっとも大切なことは、目の前の患者

さんの身体をどのように理解するのか、ということです。そのための道具として、先人が

同じように目の前の患者さんの身体を理解しようとして、ひもとき綴ってきた古典を使用

するわけです。

そのような姿勢に立つとき大切なことが、古人の視点に立ち返るということです。この古

人の視点とは何かというと、天人相応に基づく陰陽五行論です。気一元の観点から把握し

なおした陰陽と五行という視点を明らかにしない限り、古人の位置に立ち、古人とともに

古典を形作る共同作業を担うことはできません。

ですから一元流鍼灸術のテキストではまず、「気一元の観点に立った陰陽と五行の把握方

法」について語られています。

何かを解釈する際に基本的に大切なこととして、何を解釈しようとしているのか、その対

象を明らかにする必要があります。ことに「天人相応の関係として捉えうる人間の範囲」

とは何かということを規定しなければ、天人相応の関係を持つとすることが何を意味して

いるのかということや、気一元のものとして捉えるということが何を意味しているのかと

いうことを理解することはできません。

「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すその前に、その場の状態―包括

的な傾向を把握しておく発想が必要です。そのことを「器の状態」としてテキストでは述

べています。生きている器の状態の動き方の傾向を把握しようとするわけです。その変化

の仕方の傾向をどのように把握するのかという一段高い観点がテキストでは述べられてい

ます。それが、器の敏感さ鈍感さ、器の大きさ小ささ、器の脆さ緻密さという三方向から

の観点です。テキストではこれを、人の生成病老死に沿って解説しています。陰陽と五行

で把握するものは実は、そのような傾向を持つ器の「中身」の状態について考えているわ

けです。

生命が日々動いている場の状態を説明する際、その場=器の傾向を把握しておくことは、

生きている生命の弁証論治をしていくうえで欠かすことのできないことです。この基礎の

上に立つことによって初めて弁証論治を考えるという行為が成立するということを、一元

流鍼灸術では明確にしています。

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「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すという行為はこの基礎の上に成

立します。それは現在の気の濃淡の傾向を静的に分析するといった傾向を持ちます。その

中でのバランスの崩れを時間の流れという動きの中から捉えていくわけです。

一元流鍼灸術で現在着々と積み重ねられている、このような基礎に立った弁証論治は、現

在の目の前にある古典である患者さんの身体をいかに理解するのか、理解したかというこ

とを明らかにしているものです。積み重ねられた古典の情報を用いますけれども、実は今

目の前にある患者さんを理解する、理解しようとするその熱が言葉になっているにすぎな

いとも言えます。

ですから、古典が時代とともに発展し変化してきたように、弁証論治も現時点でできあが

った人間観や病理観を固定化し執着するものとしてはいけません。解釈はいつも仮の姿で

す。より真実に向けて、より実際の状態に向けて、弁証論治は深化し発展し続けなければ

ならないものであると覚悟してかかるべきです。

このようにして初めて、次の時代に残すべき古典の原資を提供することができるわけです。

ですから一元流鍼灸術で古典を読む時、この同じ熱で古典が書かれているとして読んでい

ます。そのようにすると、文字に踊らされて綴られているにすぎない部分や、論理的な整

合性を求めてまとめられたにすぎない部分や、とりあえず資料として収録されたにすぎな

い部分などが見えてきます。

古典を大切に思っていますので、その原資料を現代的な視点で解釈しなおしたり改変した

りはしません。より書き手の心の奥に潜む情熱に沿うように読み取っていきます。読み取

る際には私心をなくしてただ読みます。けれども、読み取ったものに対しては厳しい批判

の眼差しを向けます。読み取る際には私心をなくしてただ読み取り、読み取ったものに対

しては厳しい眼差しを向けるというこの姿勢は、実は我々が弁証論治を作成する際に自分

自身に向ける眼差しと同じです。

これはすなわち一元流鍼灸術で古典を読むということなのです。

言葉の指す向き■

言葉、というものは恐ろしいものだと思います。

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読む言葉、語る言葉に、指す言葉。

武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。

他者に対するものではなく、己に対する諫言。

この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となります。

けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。

この二者の差は歴然としているものです。

道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者

を支配しようとするところにあります。

己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるとこ

ろにあります。

己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。

己と他者■

さてそれでは、己と他者とを区別する行為は道を行ずる者の行為であろうか、という疑問

がここに生じます。

道を行ずるということは、自他一体の理の中に自らを投与するということでもあります。

そこに、あえて他者を設けて自らと分け、道を説かずにおくという行為があり得るのでし

ょうか。

ここに実は、自らの分を定めるという意識が働くこととなります。

教育者として自らを定めるのであれば別ですが、道を行ずる者は先ず第一に己を極めるこ

とが義務となります。そしてこの己を極めるという行為は一生継続するものです。その行

為の合間に他者を入れる隙などは実はあり得ませんしあってはならないことだと私は思い

ます。

ところが、学ぶものには語る義務が生ずる、後進を導く責任が生ずる。そこを道を行ずる

ものとしてどのように乗り越えていくかということが、ここで問われていることです。

そしてそれは、他者として彼らに道を語るのではなく、自らの内なる者として、同道の者

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として、己自身に対すると同じように道を究める努力をともにする。このことを提示する。

ということでしか有り得ないと私は考えています。

違和感の大切さ■

違和感は、自身の常識と他者の常識との間の違いによって起こります。

常識というものはそもそもその人生における自身の姿勢を決定付けているもの。いわば、

ものの見方考え方の基本です。

違和感を持つということは、自分自身の常識に不安を持つということです。ここにおいて

初めて、自身の概念の殻を打ち破って、他者との出会いが始まるわけです。自身の常識を

疑うことによってはじめて、新たな世界がその視野に開かれることとなるわけです。

教育というのは、他者による洗脳です。これは言葉を換えると、新たな世界観を提示し修

得させるということになります。

現行の教育機関において、その多くが言葉を使って行われているため、教育の基本として

言葉が優位となりがちです。すなわち言葉を多く持っていることが教育者の能力とされが

ちなわけです。

けれども臨床家になるための教育は、そういうものでは実はありません。事実を観、それ

をどのように表現して他者の発した臨床の言葉とつなげて理解しなおしていくのか。この

ことを通じて、より深い正確な臨床へと自身の行為をつなげていこうとする。この過程を

修得するということがポイントとなります。

古典を読む ― 般若心経を通じて■

古典を読むというときには、実践の中で読むという姿勢が必要であって、言葉に読まれて

はいけません。

般若心経も、言葉で書かれているわけですけれども、言葉の解釈という方向で読み進んで

しまうと、どんどんその本意から離れてしまいます。本当にそこで言いたいことはなんな

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のかというと、悟りをひらけ、自らの仏性に気づけ、そのためには我執というゴミは捨て

ろということなのです。けれども、言葉を解釈していると、「空」なんて分けわかんない

し、漢字の羅列だし難しいということになってしまいます。また賢い人であれば、般若心

経を読むための辞書を作り上げてしまうかもしれません。本当の般若心経の読み方、とい

う題名で、一字一字の定義を行ない、読み方や音韻を正確に定めた上で全体の意味を再構

築していくというような。そのようにすると、学問的な評価の高い言葉の山を作り上げる

こともできるわけです。生涯をかけて。

けれども般若心経の言葉を、禅の体験を通じてさらに集約した人もいます。ビートルズの

言葉にもなった、「BE HERE NOW」「Now&Here」「今ここ」というもの

がそれです。

東洋医学の古典も、このあたりの危うさを秘めているわけです。言葉を積み重ねても言葉

のごみしかでない。体験を通じて言葉を理解する。臨床を通じて古典を読んでいくという

ことが大切なゆえんです。

古典は指である■

真理はここにあると指さす、その指が古典である。

人は、不安の中に生きているので、思わずその指に飛びついて、真理はここにあると語り

継いでしまう。真理はここにあると、指さされているものこそが大切なのに、指に飛びつ

くのである。指は形になっているので飛びつきやすいから。

そして、真理はここにあると指さしている指の指し方に興味を引くものが現れる。彼は語

る、「本当の指さし方はこのように、右から左に大きく流すようにして、ぴたっと位置を

決めて指すものだと。古人もそのように指さすことによってこの真理をつかんだのである」

と。

そのようにして、真理を指さす、指さし方が定められた。その際には大いなる会議までも

たれて、賢者たちが侃々諤々の大議論を行ったということである。

あるものは左から右に指さすべきだといい、そこには陰陽の理があると根拠づけた。

あるものは天地の関係の中から天上をまず指さした後に、大きく振りかぶるようにするこ

と。それこそがここにある真理を指さすべきであると述べた。

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あるものは、真理というのは変化するものであるのだから指さす場合にもその指は止める

べきではなく動き続けているものでなければならないとした。そのようにして真理を踊る

踊りが披露されることとなった。彼は「動きの中にこそ真理がある」と、その指の動きを

定義づけ、無駄のない動きについての研究を続けることとなった。

このようにして、膨大な真理の「指さし方の研究」が何千年にもわたって行われ、古典と

して積み重ねられた。先人の知恵と呼ばれるそれらは、偉大なる古典の集積として崇めら

れた。勉強家の古人の中には、その「指さし方」の書物を副葬品として埋葬させたものま

でいた。

21 世紀の現在、彼の墓が発掘されてその埋葬物が出ることとなった。偉大なる古典の原

典が出現したと大いに「指さし方」の学会を湧かせることとなった。「指さし方」の原典

が判明した!と。

真理はその隣でいつ僕を見てくれるのだろうとじっと待ち続けた。けれども、学会はそれ

どころではなかった。なにせ、世紀の発見がそこにあるのだから、真理なんてかまっては

いられない。

輝ける真理、生命そのものがここにある。それにもかかわらず、生命そのものを見ること

をせず、その真理の横でまるで真理から目をそらすように指さし方の研究に励んでいるの

はなぜなのだろう。

これは、最初に真理はここにあると指さしたものの罪なのだろうか。それとも賢人と呼ば

れた人々の愚かさによるものなのだろうか。

ある人は、仏典が積み上げられなければ釈迦の悟りは伝わらなかったと語った。仏典が伝

わらなければ仏教は伝来していないと信じているらしい。仏典がなければ真理はなかった

のか?それなら釈迦は決して真理に到達することはなかっただろう。なぜなら、釈迦が生

きていた時には仏典など存在していなかったのだから。

真理が見つけられたと伝えられた時、無上の覚りがこの人生の中にあると伝えられた時、

あなたはどうするだろう。その言葉を聞きにいくのか。またその指さし方を眺めにそこに

行くのだろうか。

私は違う。そのような迷妄はもう、まっぴらごめんだ。

私はここにいる。これが真理だ。私は私(の般若波羅密多)を探求しつづける。それ以外

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に真理は存在しない。

第三章:東洋医学と中医学■

東洋医学はその歴史の淵源をたどると、支那大陸に発生した思想風土に立脚していること

が理解できます。

そしてそれは道教の成立よりも古く、漢代の黄老道よりも古い時代のものです。

現代日本に伝来している諸子百家は、春秋戦国時代という、謀略を競う血腥い戦乱の世に

誕生しているわけですけれども、東洋医学の淵源もその時代に存在しています。

もちろん、体系化されていない民間療法的なものはいつの時代のも存在したことでしょう。

それらが体系化され、陰陽五行という当時考えられていた最高の宇宙の秩序に沿って眺め

整理しなおされたのが、戦国時代の末期であろうということです。

それに対して中医学は、現代、それも1950年代にそれまで存在していた東洋医学の文

献の整理を通じて国家政策としてまとめあげられました。そしてそれは、毛沢東思想とい

うマルクス主義の中国版をその仮面の基礎としています。

それまで延々と存在し続けてきた中国の思想史、ことに儒教と道教を毛沢東思想は排撃し

ていますから、中医学は実は根本問題としての人間観において、東洋医学を裏切るものと

なっていると言わざるを得ません。

東洋医学を深めれば深めるほど、実は毛沢東思想とは鋭く対立するものとなります。また、

中国共産党がその共産主義を先鋭化させればさせるほど、東洋医学と乖離していくことと

なります。現代は、その相方があいまいな位置にあり、臨床の名の下で基本的な人間観を

問うことなく対症療法に励んでいる、いわば、医学としての過渡期にあると私は考えてい

ます。

このような中医学を越え、人間学としての東洋医学を再度掌中に新たにものするために私

は、支那の古代思想に立ち返り、さらには、それを受容してきた日本と、その精華である

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江戸の人間学に着目しています。東洋医学をその根本に立ち返って見なおそうとしている

わけです。

日本の東洋医学と、大陸の東洋医学との違い■

支那大陸における東洋医学と日本における東洋医学とは、原典はほぼ同じであるにもかか

わらず大きく異なります。

その理由は、大陸においては受験儒教に墮した朱子学が学問すなわち人間理解の中心概念

となったのに対して、日本では自己陶冶とリアリズムを探求した禅による自己省察が人間

理解の中心となったことにあります。

この違いは、江戸時代に流行した日本の書籍が医学の全体観を把握できるような小冊子で

あったのに対して、清代に支那大陸において流行したものが、百科全書的な大部のものと

なっているという違いとなり大きな差となって表れています。

全体観を把持する中から「ほんとうにこれはそうなのだろうか」と検討していく日本の東

洋医学に対して、古人の記載を網羅しそれを辞書のように引いて症状に治療をあてはめて

い治療を施していく大陸の東洋医学の差が、ここに生じてきます。

このおおいなる差異は現在でも続いています。

弁証論治を数多くの弁証の型に当てはめることから考えはじめようとする「証候鑑別診断

学」に邁進する中医学と、全体観を重んじ病因病理を個別具体的に考えていこうとする一

元流鍼灸術の違いが、もっとも端的な差となります。

中医学は東洋医学にはなり得ない■

現在私の勉強内容は、一元流鍼灸術のゼミでの一元流鍼灸術の研究の他に、サブコースで

の腹診の研究、個人としての刺絡の研究に入っています。(2010 年当時)

このブログの副題にも書いてありますが、中医学は決して東洋医学を代表するものにはな

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り得ません。なぜかというと、東洋医学的な人間観を中国共産党は持ち得ないためです。

私は二十年以上中医学の勉強をしてきましたが、その初期のころ 60 年代の文献には必ず

初めに毛沢東万歳という文章が掲載されていました。文化大革命のころで、ここで殺害さ

れた学者もたくさんいました。立派な内容の書籍で、この時期に刊行が途絶えたものがあ

ります。

文化大革命は毛沢東が行った中国文明に対する殺戮行為でした。これは現在進行している

チベット文明・ウィグル文明・モンゴル文明に対する抹殺行為と通底するものです。

ここで歴史は断絶し、共産党が許容する中医学がはびこることとなりました。

共産党の人間観は、唯物史観であり個人主義思想です。これは儒教や道教や仏教を核とし

た東洋の一体思想とは異質のものです。

もし東洋医学を理解しようとするのであれば、諸子百家を学び、儒教を学び道教を学ばな

ければなりません。歴史的には仏教もその影響を東洋思想に与えていますので、これも学

ぶ必要があります。

また、日本においては、仏教徒が中心となって医学を導入してきましたので、その人間観

が日本の東洋医学には深く反映されていると見ないわけにはいきません。

日本に入ってくると、仏教も儒教もすこぶる日本的なものとなります。仏教は禅に昇華さ

れ、儒教が武士道に昇華されます。その根底には神道があるということもまた、当然理解

される必要があります。

自らの汚れを祓い清めることによって「存在そのものへ」と肉薄していきそれを理解しよ

うとする神道。このような神道があったために、仏教の本質、儒教の本質が浄化されて日

本に取り入れられることができました。日本の各々の道の懐の深さは、このようにしてで

きあがってきたのです。

中医学からの離脱のために■

では臨床家が古典を研究して書いたものは読む必要がないのでしょうか。黄帝内経とその

研究書、傷寒論とその研究書、難経とその研究書などはどのように読めばよいのでしょう

か。

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中医学にこのような研究書がダイジェストとしてまとめられて呈示されています。また現

存する原書の多くも出版されています。けれども、そこには統一された人間観が実はない

ため、考えれば考えるほど混乱してしまいます。それにもかかわらず、中医学がその言葉

の多彩さによって教育機関に取り入れられたため、矛盾した言葉のままに、試験において

正誤が定まるという事態が生じてしまいました。

古典の解説書を読みこんでいってもっとも喜びの深いことは、この、中医学の常識あるい

は決めつけから脱出できるということでしょう。古典と格闘した人々は皆なそれぞれに悩

み、苦闘し、あるいは自分を信じ励まして、新たな解釈を生み出して臨床に応用していっ

たのだ、ということが理解できるためです。けれどもこれは実は、勉強することそのもの

を目標とはしてこなかった臨床家であれば、直感を働かせてあたりまえにやっていること

だったりもします。まじめに勉強した人ほど、この既成概念の解体作業に苦労します。こ

のような自己解体作業をするときに、多くの古人の格闘が励ましになるわけです。

古典というと、《黄帝内経》《傷寒論》《難経》あたりのことを指すのでしょうが、「古典

を学ぶ」という場合にその範囲となるのは、それらの古典と格闘してきた臨床家や学者た

ちの解釈、試行錯誤の歴史を学ぶということになります。それが中医学を勉強してきた者

にどのような衝撃を与えうるかというと、中医学の教科書的一般常識の転換、発想の自由

度の確立、決め付けからの解放が得られるということになるでしょう。

ただ、これは、人間そのものをきちんと観ていこうとする姿勢の中から、古典と対決して

いた人々の言葉から得られるものであって、これを得るところまで学ぼうとすると、大変

な労力が必要となります。

中国は文の国です。文というのは飾りという意味で、虚飾を内包しています。言葉で飾る

わけですね。実態に即していないことも、言葉で飾ってごまかしてしまう。中医学を深く

学んでいくと、そのような事態に直面することになります。増補を重ねている『証候鑑別

診断学』などはその典型です。これは実は、古典についても言えます。一つの発想を得る

とそれを基にして論理展開させ、世界のすべてを語ってしまおうとする傾向があるわけで

す。

臨床の場というのは実は、古典発祥の地です。それは古代であっても現代であっても同じ

ことです。古代人が、古典を今から書き上げて千年後の人を驚かせようぜ、なんて思って

書いていたわけではないと思います。これは重要なことだから忘れないように書き留めて

おこう、これまで聞いたこともないようなことだけれども、どうもこちらが本当っぽい。

いちおう書き記して後人の参考に供そう。こんな日々の積み重ねが発酵して、陰陽五行論

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と経絡理論とでまとめられ、黄帝内経みたいな理念的な書物になっていったわけです。

じゃぁ、現代人の我々は、どうすればいいのでしょうか?まさに古典発祥の地である臨床

の場に立ち、何を手がかりに患者さんにアプローチしていけばいいのでしょうか?実はそ

のあたりの腹の括り方、まとめ方を書いたものが《一元流鍼灸術の門》です。ここにはい

わば、古典のエッセンスが入っています。そしてそれは、今、古典となっても恥ずかしく

ないものを書いていこうとする者に、発想法と手段とを提供しているものです。

中医学は論理的か■

ある書籍で、中医学は論理的で日本医学は非論理的であるという言葉を読んでびっくりし

ました。日本における経絡治療と呼ばれる鍼灸集団に論理というものが存在しないという

ことには異論はないなのですが、中医学も言葉が多いだけで論理的な整合性はありません。

ここで中医学と呼んでいるのは、現代中医学すなわち上海から外国人教育のために始まっ

た教科書的中医学について論じています。とはいっても天津の中西医合作は、より論理性

が乏しいものです。上海を越えるものはおそらく、北京中医研究院あたりの弁証論治派と

なるのでしょうが、おそらくそれは中医学界ではマイナーな部類に入るでしょう。

なぜ、教科書的な中医学が非論理的であるかというとそれは読めばわかります。と言って

しまえばおしまいなのですが、基本理論である元気論・陰陽論・五行論についての記載は

あるのですが、それが基本理論であるにも関わらず、また、中医学は理論によって構成さ

れている部分が多いにもかかわらず、治療理論にまで反映されていないからです。

すなわち、基礎理論は基礎理論で述べました。古典に記載してあるとおりです。それを前

提としているかどうかは別としてその応用である治病理論も述べました。歴史的にたくさ

んの解釈と治療法がありまんべんなく取り上げておきます。弁証論治に際しては、八綱弁

証・衛気営血弁証・六経弁証・五臟六腑弁証などを適宜組み合わせて使ってください。そ

こには法則はありません。臨床家の勘によります。といった具合なのです。このどこから

論理を導き出すことができるのでしょうか。

医学は患者の性急な要請すなわち「今この痛みかゆみをなんとかして欲しい」という思い

によって堕落しあるいは導かれてきました。けれどもしかし《黄帝内経》はその患者の思

いを乗り越えて初めて成立したものなのではないでしょうか?だからこそ未病を治す、す

なわち患者の全生命状況を把握する中から治療方法を導いていくという観点が成立たので

はないでしょうか。

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後世の臨床家の多くはその全体観を理解できず、そのような広大な構想を持った医学から、

単なる治療技術のみを抽出して伝えてきました。現代でも何の症状に効くツボは何ですか

という発想しかでき得ない「治療家」がたくさんいます。

我々は何を学ぶべきなのでしょうか。それは、どのように人間を把握するのかという方法

論と人間観なのではないでしょうか?

そのような人間観の把握において、中医学はまったく欠格しています。なぜなら、中医学

の指導思想はどうしても毛沢東をつなぎとするマルクス主義的機械論を乗り越えることが

できないからです。中医学の狭さは、この機械論あるいは唯物的な人間観にあるというこ

とを理解し、用心すべきでしょう。中医学はその本来の発生において、古来から連綿と続

いている東洋医学を裏切っているものだからです。

弁病について■

今回の読み合わせは、267 ページの弁病から、291 ページの弁証論治の最後まで行いまし

た。初版の時に書いていた内容と、第二版で書き加えた内容とが少しづつ違っていて、我

ながら興味深く読み進みました。

「弁病」という概念についての問題意識は初版の時からあったため、記載が簡略になって

います。目の前にいる患者さんを一人の人間とみるところから東洋医学は始まるはずなの

に、病気で分類してしまうなんて西洋医学みたいなことをしてもいいのだろうかという疑

問があったわけです。

けれども、弁病そのものは隨の諸病源候論を持ち出すまでもなく、東洋医学の伝統の一角

をなすものです。また、伝統的な治療法を参考にする場合、これは避けて通ることのでき

ないところでもあります。

けれども弁病をするということには大きな欠点があります。それは、人間をみるのではな

く疾病をみている、疾病のカテゴリー分けの中に人間を落とし込んでしまう危険がある、

ということです。

中医学ではこのカテゴリー分けが発達して、証候鑑別診断学となって大きなウェートを占

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めています。そしてこれは、病気をカテゴリーに分けて症状を押さえ込むという意味での

治療効果を高めようとしている西洋医学と連携しやすい部分になっています。

けれども一元流鍼灸術では、この疾病のカテゴリー分類の中に人間を入れ込んでいくこと

から徐々に離れ、「弁病」ではなく、人間を観る、そのための弁証論治をする、というと

ころに現在、着地しています。さまざまな疾病を起こしている―あるいは起こす以前の―

人間の生命状況に、より着目しているわけです。

だからといって、病んでいる部分をみることをまったくしなくなっているわけではありま

せん。そのことは、290 ページの「八、弁証論治」の中に「弁証は主訴に対して行います。

ここには、主訴と全身状態の変化とが関連しているか否かという鑑別が非常に重要なもの

となります。」という形で述べられています。これは、実は、疾病治療という観点から私

が書いた、おそらく最後の言葉です。

一元流の弁証論治は、人間理解のために行われるものであって、主訴の理解のためにある

わけではない。主訴は、患者さん本人が気にしているかもしれないけれども、実は、患者

さんの身体をよくする契機となるものであるかもしれず、また問題の中心にあるものでは

ない可能性もあるから、主訴にこだわりすぎてはいけない。という地点に現在では着地し

ており、より全体的な観点から弁証論治を定めることを行っています。

症状をとるのが治療の目標ではなく、生命力を高めることが治療の目標である。そのため

にその患者さんの全体を理解しようとするものが弁証論治の目的であると考えているわけ

です。

経絡治療が理論的に破綻している件■

体表観察をおろそかにし、機械論的人間観しか持ち得ず、基礎理論と臨床各論との間に統

一的視野が構築されていないという理由で中医学を批判しましたけれども、日本独特の鍼

灸術ということでもっとも歴史のある経絡治療について一言。

経絡治療ということで一括りにされるべきではないほどの、理論的な積み重ねと、古典に

対する真摯な取り組みが個々なされていることを、私は理解しています。が、しかし、経

絡治療家のもっとも根源的な問題は、本治法という古典に本づいているとして構築した理

論による治療と、標治法という局所治療あるいは症状取り治療とが断絶しているところに

あります。

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どのように古典を駆使して美しい本治法という理論を作り上げようとも、それに従うだけ

では充分な治療効果をあげられないあるいは治療についての説明をすることができないと

いうことでは、それは欠陥理論であるといわなければなりません。問題なのは、古典の専

門家とも言えるほど理論構築をされている方が平然と、本治法と標治法とを分けてしまう

ことです。けれどもそれは、少なくとも人間の全的に理解に本づく東洋医学の理論ではあ

りません。単なる思いつきを組み合わせてそれに古典の言葉をつぎはぎでつけただけのも

のでしかありません。

なぜ、勉強家の皆様がなぜこのような愚かしいことを平然と続けているのでしょうか。と

ても不思議です。

基本的理論を中途半端にしか理解できていないために、三焦論を基にして陽経ですべての

治療ができるなどと「豪語」する愚かなグループができあがるのです。

学問とは、自己変革のために存在するのであって、弱々しく愚かな自己を護るための言い

わけをかき集めるためにあるわけではありません。

本治法と標治法の乖離について述べましたが、これを解決する概念は一元流においては存

在します。そのことを全体と部分の関係がどうなのか、全身の生命力の状態と訴えている

症状とをどのように位置づけて解釈するのか、ということに求めています。これは、病因

病理を考える中からしか出てこないものです。その意味で、気一元の観点から人間をとら

えた病因病理は非常に重要なわけです。

第四章:一元流鍼灸術の発展のために■

東洋医学を構築していくための方法論:メモ■

◇一の理解

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全体を定め陰陽観五行観を定める。

全体観の中から部分を観る技法を作成する。

一とは何かというと、東洋医学的にいうと、衛気の括りであり、それを保証する腎間の動

気であり、三焦であり、胃の気です。東洋哲学的にいうと、老子のいわゆる道です。また、

西洋哲学的にいうと存在そのものの内なる範囲ということになります。

存在そのもの、これがいかに曖昧で大いなる言葉であるかということを認識できない人物

に、東洋医学を語る資格はありません。

◇六十六難の人間観を基礎とする

人は中心を持った気一元の生命体である。

中心は臍下丹田にあり、三焦と奇経とが全身のルート。

中心である守邪の神を定めることこそ、治療の眼目。

◇人間把握のための弁証論治

存在するものは、時間と空間の結び目。その結び目を観るために、

時間経過と現状の把握が必要となる。

病気は人間生活の主体ではなく、生きていることが人間生活の主体。

生きていることを中心として人間を理解するということが、弁証論治の本願であり、正気

が虚さなければ邪気が入ることはないという言葉の真の意味である。

人間把握をするための弁証論治にとって、病気は一時のあだ花に過ぎない。

◇体表観察

上記三点を基礎として、体表観察を体系づけていく。

ここには、カイロなどの方法論を取り入れてもいいだろう。

◇無理をしない

無理に観、無理に感じとり、無理に概念を作成しない。

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わからないことをわからないとしておかないと、

わかったことの範囲も特定できなくなる。

安定的に見、安定的に考えることができて納得できたものを基本として理論を作っていく。

作られた理論は軽く握り、それを検証するように治療をしていく。

◇大きな視点で物事を把握する

全体観に従い、大きな矛盾を見逃さないことを中心とする。

症状というもの、病気として現れているものはその身体にとっては小さな問題であるとい

うことが、往々にしてある。

◇矛盾を大切にする

◇捨てるべき妄想

弁証論治が決まると治療点が定まるという妄想

証候鑑別診断学が「何か」を語っているという妄想

これからの東洋医学はいかにあるべきか:メモ■

これからの東洋医学は、

1、体表観察学である。

2、観察したものをどのようにまとめるか、その能力が必要。

3、治療部位の特定と効果の予測をする。

4、治療経過の予測ができるようにする>予後の判定。

上記を達成するための条件としては、

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1、自分の四診能力

2、自分の施術能力

3、自分の検算能力

4、観察したものを組み立て、その動きと変化を予測する能力。

が必要である。

というか、どの程度の能力を持っているのか

等身大の自分自身を見極めることが大切。

それにしたがって、足りない部分を補いながら、

確実な治療を行うために、どうすれば能力不足を補足することができるのか考える。

一元流鍼灸術の診方とは、患者さんを一つの生命力の塊としてみる診方であって、それを

前提として、四診合参し治療し予後を予測していく方法論です。

総合的な作業のよい点は、それぞれの把握場所がぼやっとしていても、他の観点からの情

報によって補足されて、なんとか、間違いのない診察を行うことができるようになるとい

うところです。

このあいまいさを大切にしながら、自分の能力を徐々に向上させていくわけです。

東洋医学の改良のために:メモ■

◇前提としているもの

・東洋医学思想の基本である、天人相応理論に本づく陰陽五行論:これはガチ

・アバウトな経絡経穴:これは広がりと緩みを多めにとって見る

・衛気という身体の括りと腎間の動気を中心とした身体論:難経六十六難

これは構造的な人間観と言うべきもので、

内省的な仏教思想に基づいている。

◇理論開発のための技術

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四診を通じて現在の身心を構成している小宇宙(時空)を明らかにするための弁証論治

◇歴史を通じて決定的に欠如している概念

ホルモンバランス:これは東洋医学理論に本づいて論理を構築していく必要がある。

◇展望している未来

体表観察に本づいて、人間の活力を増強させる医療の構築。これは、食養から難病治療に

まで及ぶが、天然自然に拘わり、外気功能力を使用せず、プラシ-ボを使用せずに施術の

手を入れて、できることとできないこととを明確にする。よりよい生へ向けての医学であ

るとともに、安らかな死を受容する医学でありたい。

東洋医学の基礎である、天人相応理論と陰陽五行論とを駆使して現代における人間理解を

深めていく。

そして現代を生きている人間をより正確に表現できるような東洋医学を構築していこうと

するのである。

東洋医学は生命の側に立つ医術である■

東洋医学の治療効果を宣伝したいがあまり、治療技術という側面から東洋医学の秘伝を探

求する傾向があります。他の手技や治療技術あるいは民間療法でも西洋医学でもこの同じ

舞台、治療技術という側面から研究開発が行われています。それと張り合いたい東洋医学

家がいるということなんですね。

けれども未病を治すという言葉があるとおり、東洋医学の本態は生命力を増進させるとい

うところにあるのです。別の言葉を用いると、生命力の発条と病気とを分離せず、生命の

中に病気があり生命の涯(はて)に死があるという考え方を東洋医学は基本的に採ってい

るわけです。

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生きている間は死んではいない、生きている。その生命をいかに生きるかというところが、

今生きている人々の、個々人のお楽しみなわけですね。それに寄り添うようにより活発に

生きることができるように励ましていくということが、東洋医学の本来の役目です。

そのために人間理解があり、そのために生命の中のどの部分がどのように病んでいるのか

という病態把握があるわけです。そしてこの生命を理解する方法論を「弁証論治」と一元

流鍼灸術では呼んでいます。病気はその生命の中の一部にすぎない。生きている生かされ

ているから病があり困窮するところがあるのであって、その逆ではないということが基本

的な発想となります。

東洋医学の病気治しの基本は、病気を治すことにあるのではなくて、生命力を増進させる

ことによって増進された生命力が自然に病気を治していくと考えるところにあります。そ

のために「東洋医学の人間学」を学び構築していこうとしているわけです。

東洋医学の可能性の深さについて■

一元流鍼灸術では、その初発の時点で「医学としての東洋医学」を目指していました。

けれども東洋医学の研究が深まってくると、病人と健康人との区別が明確ではない、食事

と薬膳と漢方薬との区別が明確ではない、遊びと仕事との区別が明確ではない、傷つける

ことと治療との区別が明確ではないということに気づかされてきました。

このあたりのことは、「一元流鍼灸術の門」の「病理」、「鍛錬と疾病」に少し暗示的に書

いてあるわけですが、健康と病気との間に分かれ目などないということ、鍛えるというこ

とと壊すということの間に分かれ目などないということは、詢に深い養生への視座を与え

てくれるものでありまた、気を病まざる患者さんに無限の希望を与える視座でもあります。

行為の中心には人間が厳然と存在しています。それも、個々の、各々の肉体と精神を保持

している人間。その各々の人に、肉体を鍛えることがあり精神を鍛えることがあるわけで

す。

同じ行為であっても、その強さが強すぎると肉体も精神も破壊されます。同じ行為であっ

ても、その強さが弱すぎると肉体にも精神にもたいした影響を受けません。治療にもなら

ず快感だけがある程度存在するという、中途半端な慰安的施術がそこに存在することとな

ります。

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治療的な施術とはどのような場にあるのかというと、そこに存在する一元の場としての人

体をしっかりと把握し、その気の偏在を調えるよう病因病理を探索し弁証論治を行い、そ

の中心的な矛盾を打ち抜く!ように処置を施すところにあります。

このような生きている生命としての人間把握と、その動きに基づいた治療処置とは、西洋

医学などの追随することのでき得ない場なのです。

第五章:一元流鍼灸術が描く未来像■

一元流鍼灸術の目指すもの■

一元流鍼灸術の基本は、気一元の観点で観るというところにあります。

その際の人間理解における背景となる哲学のひとつに、天人合一論があります。これは、

天地を気一元の存在とし、人間を小さな気一元の存在としていわばホログラムのような形

で対応させて未知の身体認識を深めていこうとするものです。

天地を陰陽五行で切り分けて把握しなおそうとするのと同じように、人間も陰陽五行で切

り分けて把握しなおそうとします。これは、気一元の存在を丸ごとひとつありのままにあ

るがままに把握しようとすることを目的として作られた方法論です。このことによく注意

を向けていただきたいと思います。

この観点に立って、さらに詳しく診断をしていくために用いる手段として、体表観察を用

います。体表観察していく各々の空間が、さらに小さな気一元の場です。天地を望み観る

ように身体を望み観、全身を望み観るように各診断部位を望み観る。この気一元(という

どこでもドア)で統一された観点を、今日はぜひ持って帰っていただきたいと思います。

ここを基本として一元流鍼灸術では人間理解を進めていこうとしています。確固たる東洋

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医学的身体観に立って、過去の積み重ねの結果である「今」の人間そのものを理解してい

こうとしているわけです。

ここを基礎として、精神と身体を統合した総合的な人間観に基づいた大いなる人間学とし

ての医学を構築していきたいと考えているわけです。

一元流鍼灸術の使い方1■

一元流鍼灸術のテキストを何回か読んでみると、これが単純なことしかいっていないのが

理解されてくると思います。通奏低音のように語り続けられているそれは、気一元の観点

から見ていくんだよ。それが基本。それが基本。というものです。

基本があれば応用もあるわけです。ただ、応用を言葉で書いてしまうと、基本が入ってい

ない人はその応用の側面のみを追及して結局小手先の技術論に終始することとなり、東洋

医学の大道を見失ってしまうので、これまで書いてきませんでした。

基本の型があり、基本の型を少しづつ崩していって自分自身の型を作っていくということ

が安定的な着実な研究方法です。けれども臨床というものは不思議なもので、独断と思い

込みである程度成果を得られたりするんですね。そしてそういう人ほど天狗になる。謙虚

さを失ない、歴史に学ぶことをやめてしまう。もったいないことです。

基本的な型は現在入手できる「一元流鍼灸術の門」に書かれています。一元流鍼灸術は、

東洋医学の根本を問いただす中から生まれています。それは、古代の人間理解の方法論を

現代に蘇らせようとしているものであるともいえます。(そういう意味では、中医学とは

その目標と方法論とがまったく異なるわけです。)

生きている人間を目の前にしてどのようにアプローチしていくのか。そこには実は、古代

も現代もありません。ただ、現代人は知識が多く、それが邪魔をして、裸の人間が裸の人

間に対して出会うということそのものの奇跡、神秘をないがしろにしてしまう傾向があり

ます。小手先の技術に陥っていくわけですね。

そこで、古代の人間がどのように患者さんにアプローチしてきたのかということを現代に

復活させようということを、一元流鍼灸術では考えているわけです。

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一元流鍼灸術の使い方2■

古代の人間がどのように患者さんにアプローチしてきたのかというと、体表観察を重視し、

決め付けずに淡々と観るということに集約されます。今生きている人間そのものの全体性

を大切にするため、問診が詳細になりますし、患者さんが生きてきたこれまでの歴史をど

のように把握しなおしていくのかということが重視されます。これが、時系列を大切にし、

今そこにある身体を拝見していくという姿勢の基となります。

第一に見違えないこと、確実な状態把握を行うことを基本としていますので、病因病理と

しても間違いのない大きな枠組みで把握するという姿勢が中心となります。弁証論治にお

いて、大きく臓腑の傾きのみ示している理由はここにあります。そして治法も大きな枠組

みを外れない大概が示されることとなります。

ここまでが基礎の基礎、臨床に向かう前提となる部分です。これをないがしろにしない。

土台を土台としてしっかりと築いていく。それが一元流鍼灸術の中核となっています。

それでは、実際に処置を行うにはどうするべきなのでしょうか。土台が基礎となりますの

でその土台の上にどのような華を咲かせるのか、そこが個々の治療家の技量ということに

なるわけです。

より臨床に密着するために第一に大切なことは、自身のアプローチの特徴を知るというこ

とです。治療家の技量はさまざまでして、実際に患者さんの身心にアプローチする際、そ

の場の雰囲気や治療家の姿勢や患者さんとの関係の持ち方など、さまざまな要素が関わっ

ています。また、治療家によっては外気功の鍛錬をしてみたり、心理学的な知識を応用し

てみたりと様々な技術を所持し、全人格的な対応を患者さんに対して行うこととなります。

病因病理を考え、弁証論治を行うという基礎の上に、その様々な自身のアプローチを組み

立てていくわけです。早く良い治療効果をあげようとするとき、まず最初に大切なことは

組み立てた基礎の上に自然で無理のないアプローチをするということです。ここまでが治

療における基本です。

さらに効果をあげようとするとき、弁証論治の指示に従って様々な工夫を行うということ

になります。それは、正経の概念から離れて奇経を用いる。より強い傾きを患者さんにも

たらすために、処置部位を限定し強い刺激を与える。一時的に灸などを使い補気して患者

さんの全体の気を増し、気を動きやすくした上で処置部位を工夫する。外邪と闘争してい

る場合、生命力がその外邪との闘争に費やされてしまいますので、それを排除することを

先に行うと、理気であっても全身の生命力は補気されるということになり、気が動きやす

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く導きやすくなる。

といったように、気の離合集散、升降出入を見極めながら、弁証論治で把握した患者さん

の身体の調整を行なっていくわけです。

一言で言えば、気一元の身体を見極めて、弁証論治に従いながら、さらにその焦点を明確

にしていくことが、治療における応用の中心課題となるわけです。このあたりの方法論は

古典における薬物の処方などで様々な工夫がされており、とくに傷寒論の方法論は参考に

なるものです。

「患者さんの身体から学ぶ」方法論の確立■

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレント

ゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや

体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にしてい

きます。一元流でこの四診を基にし、生育歴(時間)と体表観察(空間)とがクロスする

現在の人間の状態を把握します。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすれば人間理解の中でその患者さ

んに発生している疾病に肉薄していけるか。そのことを通じて、その患者さんの疾病を解

決する方法を探るために行われます。

一元流鍼灸術の特徴は、生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているのである

ということを基本に据え続けるというところにあります。

東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じ

て臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡という発想に基づいた

この人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の追随を許さないところであると思います。

「患者さんの身体から学ぶ」この営為は、東洋医学の伝統となっています。そもそも、東

洋医学の骨格である臓腑経絡学が構成されていった過程そのものがこの「患者さんの身体

から学ぶ」という営為の積み重ねた末の果実なのですから。

ただ、この果実には実は一つの思想的な観点があります。生命そのものを観、それを解説

するための観点。それが生命を丸ごと一つとして把え、それを陰陽という側面、五行とい

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う側面から整理しなおし再度注意深く観ることを行う、ということです。

この、実在から観念へ、観念から実在へと自在に運動しながら、真の状態を把握し解説し

ようとすることが、後世の医家がその臨床において苦闘しながら行ってきたことです。

一元流鍼灸術では、その位置に自身を置くこと、古典の研究家であるだけでなく、自身が

後学のために古典を書き残せる者となることを求めているわけです。

古典を学び、それを磨いて後学に手渡すことを、法燈を繋ぐと言います。

この美しい生命の学が、さらなる輝きを21世紀の世界で獲得するために、今日の臨床を

丁寧に誠実に行なっていきましょう。

失敗の研究■

弁証論治を起てて、さぁ治療するぞというとき、ふたたび迷うことがあります。

それは、弁証論治そのものは自信を持って起てられたんだけれども、果たしてその方針で

主訴の解決に至るのだろうかという疑問です。

実は、歴代の医家の症例集などを読む理由の多くは、このあたりの頭の柔軟性を広げると

いうところにあります。

実際に患者さんに出会うと、目の前の患者さんが困難に直面している局所に着目してしま

い、それを何とかしたいという欲が出てくるわけです。そこで、弁証論治と実際の治療と

の乖離が生まれてきます。弁証論治は起てたのだけれども雑駁な治療をしてしまい、何を

やったのか実際のところはわからないという事態に陥るわけです。

これが臨床家の一番の問題となります。治ったけれどもその理由がわからない。治せなか

ったけれどもその理由がわからない。これではいつまでたっても臨床が深まることはあり

ません。

病因病理を考えて弁証論治を起てるときに多くの場合、全身状況の変化を追うということ

に主眼がおかれてきます。そのため、実際に患者さんが困苦している部位と全身とがリン

クしているのか否かというあたりに確信がもてなかったりするという事態が起こります。

また、リンクしていると思えても、実際そうなのかどうか。果たしてそれで治療として成

り立つのだろうかという不安がよぎります。

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そのような時の心構えとして、

1、問題点を整理しなおす

2、臨床は失敗例の積み重ねであると腹を括る(これでだめなら次の手をといつも考えて

おく)

3、治療処置を後で振り返って反省できるようなものに止める

4、ひとつひとつ自分が何をやっているのか確認しながら手を進める

ということが必要となります。上手に失敗することができると、問題の所在が明確になり

ます。弁証論治に問題があればそれを書き改めます。処置方法に問題があればそれを工夫

します。治療頻度の問題であればそれを改めます。上手に失敗することができるとそこに、

さまざまな工夫の花を咲かせる事ができるわけです。

下手に成功すると、安心してしまい、次もこの手でいこうなどと思い、臨床が甘くなりま

す。反省もしにくくなり、成功例の積み重ねのみを自慢する、宗教家のような臨床家に成

り下がってしまうわけです。

大切なことは、上手に失敗し続けること。その積み重ねが自分自身の本当の力量を高めて

いくということを知ることなのです。

附録一:釈迦の悟りと難経■

忘年会で私は、お釈迦様の悟りの話をしました。お釈迦様の修業の時代、道を求め続けて

自身の心身を鍛え上げ、ついにはその身を飢えた虎の親子に捧げたりもしたのに、お釈迦

様はほんとうの悟りに至ることはできませんでした。それはどうしてなのでしょうか。ほ

んとうの悟りというのはどこかにあるものなのでしょうか。お釈迦様は(その当時はゴー

タマシッダルタというただの泥に汚れた修行者でしかありませんでしたが)修行の果てに

とうとう川の畔で倒れて死を待つような状態となってしまいました。そのとき、近所の一

人の少女が、その姿を見つけ、温かい山羊の乳を与えてくれました。そこで彼の中に何が

起こったのでしょう。それは、生命の歓喜が全身に走ったということです。その後、菩提

樹の下で暝想し、その生命の歓喜の根源を味わい続けました。

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求めていた苦行の時代には得ることができず、一杯のミルクで豁然と開いた悟りとは何だ

ったのでしょうか。それは、自身の内側に生命があり、いつもその生命を喜んでいるとい

うことです。ひとりひとりの中に生命があり、生命があるということこそが感動の源なわ

けです。そしてその生命の中心は、臍下丹田にあります。それは人身の中心なのですが、

そこに浸ると、宇宙を覆う光の織物の中の縦糸と横糸の交差する結び目が、私自身である

ということが理解できます。この膨大な生命の宇宙の光り輝く織物の中の一つの結び目で

ある自分自身を感じることができるわけです。

そこに意識を置くということ、それが今、ここにあるということです。これを実際的に感

じ取るために、禅の修行があったのであろうと思います。この内側に潜心するために、考

えることを止め、探すことを止め、ただ今ある自分に帰るわけです。

この臍下丹田を中心とした人間観が、難経が劈(ひら)いた東洋医学の宝です。このこと

を、私はこれからもしっかり把持し、理解を深めていきたいと思います。

附録二:『臨床哲学の知』木村敏著■

精神病理学の泰斗、木村敏氏は、その『臨床哲学の知』の中で以下のように述べています。

症状と病気のこの関係は、精神科でも同じです。患者さんは症状を出すことで一種の自己

治癒のようなことをしているところがありますし、医師はそこを見極めなければならない

わけですけれども、いまは、精神病になるのは脳が生化学的な変化を起こして例えばドー

パミンなどという物質を出し過ぎるからであって、それが幻覚や妄想を引き起こすんだと

いった考えにとらわれている。精神医学も症状を消すことしか考えない。脳機能の研究自

体は大切なのですが、それがもっと深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解

明を妨げているとしたら、これは大問題でしょう。

家族や周囲の社会に迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけているわ

けではない。だから、症状を除去することが周囲からの期待に応えることになる。症状が

消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけを見るというのと、患者自身のこ

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とより周囲の社会の安全を考えるというのとは、実は同じことの両面なんですね。

わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取ったら、その

患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られるということは、患

者さんにとっては自己防衛手段を奪われるということと同じですから、あとは自殺するし

か仕方がなかったということなのだろうと思います。まだ若いころの出来事ですが、その

ときにこれはいけないと思いました。

症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以来、いま

もずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り立たないし、妄想

や幻想がひどいと患者さんの社会人としての評価にかかわりますから、薬はそれなりにや

はり使いますけれども、それで症状をきれいに取ってしまおうなどということはまったく

考えません。風邪と同じで、症状は出す必要がなくなれば自然になくなります。症状が出

るのは、生きる力、病気と闘う力があることの証拠なのですね。

しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というものは、まったくそうではなくなってしま

いました。症状をとること以外は何も考えなくなってしまっています。いまの状態が続け

ば、精神病理学という学問は、日本の医学界からいずれ消滅するかもしれませんし、こと

によると実質的にもう消滅しているのかもしれない。病理学というのは、これは身体の病

理学でも同じだと思いますが、病気そのものの成り立ちを研究する学問であって、症状の

ことは、病気の本質と関係があるかぎりでしか問題にすべきではないのです。脳の変化を

除去して妄想をとればそこでお終い、精神医学が行うのはそこまでということになってい

けば、精神病理学なんて学問は必要がなくなる一方でしょう。

」〈『臨床哲学の知―臨床としての精神病理学のために』洋泉社刊 2008 年 53p〉

この言葉は、エビデンスを安易に語る傾向がある鍼灸界においても、噛みしめるべき言葉

でしょう。

古典において提出されているものは、単なる治療技術なのではなく人間観である。その人

間観を読み解くことなくして東洋医学を学んだとは言えない。行じているとは言えない。

そのように私は考えています。

そしてその人間観をさらなる深みへ向けて探求する技術として鍼灸術があるとも考えてい

ます。

いわば、臨床鍼灸を哲学の次元にまで高めていくということが、これからの鍼灸師の目的

となるべきだろうと思うわけです。

このような目標のための枕として、木村敏氏の重い言葉をまず噛みしめたいと思います。

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附録三:東洋医学の可能性■

― 統合治療の一角として

東洋医学は本来統合医療であって、その裾野の底辺は生活指導すなわち生活習慣の教育に

あり、徐々にレベルを上げていって、食事の指導、心の指導となり、最後に富士山の十合

目あたりで初めて治療行為が出てくるものです。治療行為が東洋医学のごく一部に過ぎな

いということはたいへん大切なことです。このため東洋医学の本質は未病を治することに

あると言われているわけです。

東洋医学では総合的な視点で人間の生活を把えようとします。また、人間への理解をさら

に深め、心身の構造についてもひとつの見解をもつに至っています。それは、単に目に見

える骨格や血脉だけでのことではありません。全身の内外を結ぶ生命力の流れとしての経

脉を据え、流れの行き着く先―溜まり場として絡脉が奇経を据え、生命力の出入する門戸

として経穴を置いています。さらにその上、魂神意智魄精志という五神が五気を結聚させ

て五臓を造り、その力がを身体の基本とするという神秘的思想をも包含しているのです。

東洋医学はこのような、ゆるやかで広がりのある生命構造の概念を持っているわけです。

東洋医学では心身は一元のものであると捉えられています。精神的な問題が身体に影響を

及ぼし、身体の問題が精神に影響を及ぼすというように、相互に密接な関係を持つものと

して捉えられています。

そしてこの生命の状態―心身の揺らぎは四診によって非侵襲的に把握されます。ここには

繊細な技術と論理的な思想が必要となります。東洋医学ではこの揺らぎを調えることがで

きます。これが未病の状態の生命力を調えるとともに、すでに症状が出ている場合でもそ

れを調え治療する技術となっています。

東洋医学の身体観に基づいた四診を、現代の批判的精神によって磨いていくこと。これが

一元流鍼灸術に課せられている課題であると考えています。このような形でいわゆる統合

医療の中核を担う思想体系として、東洋医学は再生さるていくことができるでしょう。

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コラム 詩人の魂■

大学時代の友に聞いた「おまえは何故詩を書くのを止めたんだ。おもしろかったのに」と。

友は答えた。「おれは書き物に興味がある訳じゃないんだ。俺が本当に興味があったのは

詩人の魂なんだよ。詩が湧き出てくるその泉の根源に触れたかったんだ。書かれた言葉や

作られた造形の美しさには興味がない。そこにある、触れれば命が輝きでて止まない、そ

のみずみずしい心に触れたかった。だから俺は詩を書いていた。」

私は聞いた「じゃ、何故止めたの?」

「だって、書くということは作るということに近くて、その感じる根源から少し離れるん

だよな。俺はそこに至った。そして俺はその根源の場所にいたいだけなんだ。だからもう

言葉はいらない。それについて語り出すことがそもそも、その場所から少し離れることだ

から。もう書く必要はないんだ。」

「おまえはそれを手に入れてその場所にいるってことか?詩人の魂、詩が湧き出て言葉に

なる以前の場所、そこにおまえはいるということなのか」

「そうだ。誰に対して説明する必要などない。存在とともに踊る歓喜の中心に俺はいる。」

私は証明してくれと、論証してくれと懇願したが彼は頑として受け入れなかった。ただ一

言「求め続けろよお前も」といい、手を振って去っていった。

なぜ、証明もなしに彼は根源に触れていると言えるのだろう。傲慢なのではないだろうか。

なぜ、言葉で表現することを拒んだのだろう。表現したものしか聞き取ることはできない

のに。

けれども確かに思う。彼こそが本当の詩人なのだと。無言の詩人なのだと。詩人の魂その

ものなのだと。

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コラム 師言:生きる■

先生は言われました

生きることは祈ることです。

祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。

祈りを通じてすべてを捨てきったところに祝福があります。

この祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。

生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。

生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。

ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。

そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。

はなはだ孤独な美の美たる場所、

光り輝く生命の、歓喜の中心に。

コラム 師言:エゴイズム考■

エゴイズムを悪く言ってはいけません。

エゴから人は始まるのです。

自分を愛する勇気、そこから意識としての生命が誕生します。

エゴのない人はまだ生まれていないか自死している人です。

エゴからはじまり、人は、エゴを深く探求して自らを深化し拡大させていきます。

そのことが精神の成長なのです。その成長を妨げてはいけません。

それを通じて人は、自分が世界の中で孤立して存在しているのではないということを知り、

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人と人とが結びつくことによって世界が構成されているということを知ります。

エゴの深化は窮まることがありません。

ある民族はエゴを深化させることで自他の区別を設定し、その範囲内に自分たちの存続を

かけ、その民族性を設定しました。

ある民族はエゴを深化させて底が割れ、エゴがある間は成長過程であり、エゴの枠組みが

壊れた時、死がそこにあることを知りました。

そこが世界の淵であると感じたわけです。

またある民族はエゴの混沌の先に生死の超越があり、

生死を超越することで宇宙がまことに光り輝く一体の

生命そのものであることを知りました。

歓喜の踊りはそこで踊られ、生命の祭が始まりました。

美しい美しい民族の物語が語り継がれることになりました。

エゴがある人は大切な成長過程にあります。

自分の中にあるエゴを育てて大きな大きな樹にしなさい。

誰でもその下で憩うことができるような大きな大きな人になりなさい。

師はそう言われて去っていきました。

私は魂に刻むべくその言をここに残しておこうと思います。

讃仰 一言真人 やんぬるかな 役の行者 小角

伴 尚志 拝

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自他一体が般若波羅蜜多■

これは、自身と同じように隣人を愛せよという聖書の言葉と同じ。

自身と同じようにしか隣人を愛することはできないとも言える。

自身に冷たければ隣人にも冷たい。

自身に差別をすれば隣人にも差別をしているのである。

隣人を軽蔑しているものは自身を軽蔑しているものである。

軽蔑が悪いわけではない

差別をすることが悪いわけではない

冷たくすることが悪いわけではない

自身の内であるそれに対して

軽蔑し冷たくし差別をしているのである

自分自身の内側の陰翳として捉えなければならない

そして、その陰翳というものは実は、

自分自身を彫塑していく上での手法

建物で言えば光と影の作成方法のようなものである。

小乗即大乗

小乗自若愚妹心 大乗自若驕慢心

小乗求自己 大乗表自己

自己即仏 般若波羅蜜多

自己即他 般若波羅蜜多

自他即通 真如一体

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超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経■

私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行(ぎょう)じた

時、

五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であるということをはっきりと覚ることが

でき、

すべての苦しみや災厄から解き放たれることができました。

舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(くう)でないも

のはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空であり、空はすなわち色なの

です。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)もまた同じことです。

舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこともそもそもな

く、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそもなく、増えることも減るこ

ともそもそもありません。ですから空の中に色はそもそもなく、受想行識もそもそもない

のです。眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜっ)心(しん)意(い)もそもそもなく、色

(しき)声(しょう)香(こう)味(み)触(そく)法(ほう)もそもそもありません。

見ることができる世界というものもそもそもなく、意識することができる世界というもの

もそもそもありません。

無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそもそもありま

せん。また、老いや死というものもそもそもないのですから、老いや死がなくなるという

こともそもそもありません。苦(く)集(しゅう)滅(めつ)道(どう)〔注:仏教の根

本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、「集」は苦の原因である迷いの心の

集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそ

もそもないのです。

知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものもそもそもあり

ません。ですからこれによって得るところのものというものもそもそもないのです。

私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本体〕はこの

般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。心にこだわりがなくな

ることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢想から遠く離れることができます。

ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断を超えたこの世界の実相そのもの:相対界ではな

い絶対界〕を自由に探求することができるようになります。

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私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自身の本体〕は

この般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいを得る

こと〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命そのものと一体となり、その光を帯びること〕

ができます。

ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大いなる明呪、こ

こに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦しみを取り除くことができ

ます。本当です、嘘ではありません。

それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。今その呪を

唱えます。

ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:すべてを

手放しなさい〕

はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手放して 存在そのものでいなさい〕

般若波羅蜜多とは■

時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であり、人生の中

でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般若波羅蜜多を体験し、自覚

し、意識し続けそれを表現するように努力すること。そこに人生の本懐がある。

般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。生を支えて

いるエネルギーであり、生命の喜びそのものでもある。驚くべきことに人々はそれが自分

自身―自分の本体であることを知らない。

苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋である。けれどもそれは本体ではな

い。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだから。

般若波羅蜜多に気がつくということは、このことに気がつくということである。

一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし続けている。

気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。

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深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に落ちていこう。

生のなんと栄光に満ちたものであることか!

生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!

お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土とし、

お互いのなかの神性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!

暝想―簡易座禅の薦め■

今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?

今というのはまったけき存在なのですけれども、

今をつかみとることは人にできることではありません。

こことはどこなのでしょうか。

時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。

けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、

まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。

今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。

これは驚くべきことなのですが、事実です。

妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。

いつも相対的な自己しか見ることができません。

「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。

どうしてなのでしょう。そういう性なのでしょうか・・・

このような自己を手放して

今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。

この「今ここ」に落ちていくために、

私は暝想―座禅を薦めています。

それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。

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「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。

その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。

人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。

自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。

今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。

これが、

切診の練習でも、

弁証論治を作るときでも、

治療のときでも、

養生のときにも、

もっとも大切となることです。

その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。

止観 ― 妄想することを止めること ―

そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、

この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、

私は暝想―座禅を薦めています。

暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、

ご希望があれば私におっしゃってください。

差し上げます。

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病むを知り養生し、愚を知り修行す■

養生するということは、自分が病んでいることを知っているということです。

自分が病んでいることを知っているので、その病から立ち直りたいと思うわけです。

修行するということは自分が愚か者であることを知っているということです。

自分が愚かであることを知っているので、その愚から立ち直りたいと思うわけです。

「健康」というのは、病んでいる自分を映す「鏡」のようなものです。

「健康」な状態に向かって養生を重ねていくわけです。

「悟り」というのは、愚かな自分を映す「鏡」のようなものです。

「悟り」の状態に向かって修行を重ねていくわけです。

お釈迦様が悟りを開いたのは実は、

自らが鏡になることを選択したということです。

そうすることによって、

実は迷い実は病んでいる人々を、

真実の世界―生命の世界に導こうとしたわけです。

健康な状態があるから病であることがわかるわけです。

健康になろうとしているということは今、病んでいるということです。

悟りの状態があるから愚者であるということがわかるわけです。

悟ろうとしているということは今、愚者であるということです。

これらの言葉から理解されなければならないことは実は、

病者であることを自覚することが、健康への萌芽があり

愚者であることを自覚することが、悟りへの萌芽がある、

ということです。

養生とはとりもなおさず病者であることを自覚することであり、

修行とはとりもなおさず愚者であることを自覚することです。

生きるということは病み続けているということであり

悟るということは愚かであり続けているということであり

病者愚者に徹することが実は、

健康へ悟りへの近道であると言えます。

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自分は健康である、自分は悟りを開いているという言葉はとりもなおさず、

傲慢で鼻持ちならない言葉であり、

真の病者―真の愚者の言葉であるともまた言える理由がここにあります。

この迷路をくぐり抜けて一気に悟りのただ中に立って世の鏡となった仏陀の

捨て身の救世心―慈悲心は、この深さで理解される必要があります。