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12 BULLETIN OF FUKUI PREFECTURAL ARCHIVES No. 12 February 2015 CONTENTS Transcript of Lecture: Persons who Traveled to Echizen and Wakasa in the Edo Period AOYAGI Shuichi …………………… 1 Notes and Suggestions: A System to Accelerate the Use of Archives by Broader Application of Large Copy Sheets INOUE Yukie ……………………… 15 Information, Data and Materials: The Visit of Hōnyo of the Honganji Temple to Echizen in the First Year of the Kansei Era (1789) USAMI Masaki …………………… 27 Suzuki Chikara’s “Diary in the Service of the Fukui Clan” of the Fourth Year of the Kōka Era (1847) YANAGISAWA Fumiko …………… 41 Mentions of the Fukui Region in the Recently Reported Discoveries of Ancient Wooden Tablets (Mokkan) TATENO Kazumi ………………… 57 Fukui Prefectural Archives Fukui, Japan 15. 02. 55030 福井県文書館研究紀要 12 福井県文書館講演 江戸時代の越前・若狭を旅した人々 ………………………… 青柳 周一 …… 1 研究ノート 大型複製シートを活用した利用促進の取組み ……………… 井上由紀恵 …… 15 資料紹介 寛政元年の本願寺法如越前下向 ……………………………… 宇佐美雅樹 …… 27 鈴木主税の弘化四年「御用日記」……………………………… 柳沢芙美子 …… 41 木簡から読む古代のふくい -新たに報告された木簡を中心に- ……………………… 舘野 和己 …… 57 平成27年 2 月 福井県文書館 ISSN 1349-2160

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福井県文書館研究紀要 第12号

福井県文書館

BULLETIN OF FUKUI PREFECTURAL ARCHIVES

No. 12February 2015

CONTENTS

Transcript of Lecture:Persons who Traveled to Echizen and Wakasa in the Edo Period AOYAGI Shuichi…………………… 1

Notes and Suggestions:A System to Accelerate the Use of Archives by Broader Application of Large Copy Sheets INOUE Yukie……………………… 15

Information, Data and Materials:The Visit of Hōnyo of the Honganji Temple to Echizen in the First Year of the Kansei Era (1789) USAMI Masaki …………………… 27

Suzuki Chikara’s “Diary in the Service of the Fukui Clan” of the Fourth Year of the Kōka Era (1847) YANAGISAWA Fumiko…………… 41

Mentions of the Fukui Region in the Recently Reported Discoveries of Ancient Wooden Tablets (Mokkan) TATENO Kazumi ………………… 57

Fukui Prefectural ArchivesFukui, Japan

15. 02. 55030

福井県文書館研究紀要

第 12 号

福井県文書館講演江戸時代の越前・若狭を旅した人々 ………………………… 青柳 周一…… 1

研究ノート大型複製シートを活用した利用促進の取組み ……………… 井上由紀恵…… 15

資料紹介寛政元年の本願寺法如越前下向 ……………………………… 宇佐美雅樹…… 27

鈴木主税の弘化四年「御用日記」 ……………………………… 柳沢芙美子…… 41

木簡から読む古代のふくい  -新たに報告された木簡を中心に- ……………………… 舘野 和己…… 57

平成27年 2 月

福井県文書館

ISSN 1349-2160

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

福井県文書館講演

江戸時代の越前・若狭を旅した人々

青柳 周一*

はじめに

1.越前を旅した人々

( 1 ) 貞享 2 年(1685)貝原益軒『東路記』

( 2 ) 天保 6 年(1835)中井源左衛門光基『四番諸事日下恵』

( 3 ) 天保15年(1844)小津久足『志比日記』

2 .若狭を旅した人々

( 1 ) 元禄 2 年(1689)貝原益軒『己巳紀行』

( 2 ) 文政 3 年(1830)作者未詳『西国巡礼略打道中記』

 はじめに

 ただ今ご紹介にあずかりました青柳と申します。私は江戸時代の旅行について研究しています。

 江戸時代の人々というのは、盛んに旅行に出かけていて、旅先で得た知識や経験を書き残すという

ことをしていました。その記録、いわゆる旅日記は現在まで非常に多く伝わっています。たとえば旧

家の古文書調査に行くとかなりの確率で出てきますし、ちょうど文書館で展示されている福井の人の

伊勢旅行記もそのひとつです(福井県文書館 勝見宗左衛門家文書「参宮のみやけ」(B0037-00297))。

 それではなぜ、江戸時代の人々は旅先で得た知識や経験を記録していたのでしょうか。単なる備忘

録ではありません。そういった目的もなかったではないでしょうが、旅先で得た知識や経験を家族や

地元の人々、さらには自分の子孫に伝えるということ、これが大きな目的だったのです。ですから、

広い範囲への伝達や将来に向けての保存を目的に、写本も多く作成されています。

 現在、我々が旅行に行くとなれば、雑誌やテレビ、インターネットなどで簡単に情報を手に入れる

ことができます。でも江戸時代はそうはいきません。最も頼りになるのは、自分より前に同じ旅行目

的地に行ったことのある人のお話、そしてその人の書き残した記録です。江戸時代に旅行の情報を得

ようとすれば、出版物を入手して読むという手もありました。しかし、当時はかなり高い水準の出版

物がすでに数多く出回っていましたが、現在ほど簡単に入手できるわけではありませんでした。

 このように、江戸時代は旅日記が旅行の情報を得る重要な手段となっていました。ですが、旅日記

が多く残っているといっても、そのほとんどは書いてあることが必要最小限の内容にとどまります。

ですから、調査先で旅日記を見つけて、どんなことが書いてあるだろうと期待して開いてみても、単

*滋賀大学経済学部教授

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に旅先で泊った場所の地名と費用しか書いてないということが多々あります。ただ、中には旅先で得

た知識や経験を具体的に詳しく文章で伝えよう、さらには文学めかした作品をものしてみようとした

人もいました。本日は、そのような詳しく具体的な記述のある旅日記や紀行文の中から、越前と若狭

を訪れた人々のものをとり上げてご紹介します。地域の外からやって来た人は越前・若狭をどう眺め

ていたのか。名所や旧跡、伝説や伝承なども記録されていますので、旅行者はそれらをどのように受

けとっていたのか、そしてどのように伝えたのか、といったことなどもわかってきます。江戸時代の

越前・若狭を、当時の旅行者の目を通して少しのぞいてみましょう。

 今回取り上げる地域は、北は東尋坊から西は岩いわ

神がみ

まで、現在の福井県の全域に及びます(図1)。

ただ、題材が旅日記や紀行文ですので、扱う場所は大きな街道沿いに限られます。具体的には、越前

では北陸街道、若狭では丹後街道、この周辺になります。

 1.越前を旅した人々

 (1)貞享2年(1685)貝原益軒『東あずまじのき

路記』

 まずは越前の方から参ります。最初の旅行者は貝原益軒という人物です。この人の名前を耳にさ

れたことがある方も多いかと思います。福岡藩に仕えていた儒者で、『大和本草』や『養生訓』、『楽

訓』などをはじめとした実用書や啓蒙書をたくさん執筆しています。実は、彼は非常に旅行が好きで、

全国各地を旅してまわっていました。そして紀行文を執筆しています。きちんと自分の足で訪ねて自

図 1  本稿で取り上げる場所とその位置  (『福井県の地名(日本歴史地名大系 18)』平凡社、1981 年より作成)

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

分の目で確かめて書いていたというわけです。それまでの紀行文というのは、和歌を詠みながら、歌

枕を訪ねながら古典文学風の文章で記す、といったものが一般的でした。それに対して、彼の文章は

説明が簡潔で情報量も豊富でしたので、出版されて実用的な旅行案内書として出回りました。いうな

れば旅行ルポライターのはしりです。後でご紹介する小津久ひさ

足たり

などにも影響を与えていて、久足の紀

行文を見てみると、貝原益軒の本を参照せよといったことがしばしば書いてあったりします。

 彼が記した紀行文の中に『東路記』という一冊があります。これは貞享二年、1685年に書かれたも

のです。その中から敦賀を訪ねた時の記述を紹介します(同書からの引用は、板坂耀子・宗政五十緒

校注『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行 西遊記』(岩波書店、1991年)による)。

 〔敦賀と琵琶湖岸の諸浦〕

 これは江戸時代の敦賀のようすです(写真1)。この図は享和三年、1803年に出版された『二に

十じゅう

四よ

輩はい

順拝図会』という本に載っています。この本は

親鸞とその弟子に関わる著名なお寺や旧跡を順番

に参拝にする「二十四輩順拝」を図入りで紹介し

たものです。

 貝原益軒は敦賀のことを次のように記していま

す。(引用史料は適宜読点と濁点を補い、助詞は

ひらがなに改めた。一部ルビも補い、注記は括弧

に入れて施した。以下、全て同じ)

   敦賀、北海の辺にある町なり。奥州、出羽、

山陰道、すべて日本の北の海辺にある諸国よ

り、船のつく湊なり。中について、秋田、坂

田(酒田)、津軽、高田などの船多し。故に

民家多く、とめる(富める)商人多し。米、大豆、材木など多

し。かやうの物を是より京都の方へ人馬にてはこび、近江の貝

津(海津)へ出し、貝津より船につみて大津へつかはす。(中

略)町の東に、気比の明神(気比神宮)有。是、仲哀天皇の御

廟なり。名社なり。社領百石。昔は千石つくと云。

 貝原益軒によるこの説明は、現代の歴史学研究者の敦賀湊に対す

る認識とそれほど変わりません。敦賀が京都・大坂と北陸・東北間

での流通の中継地であることが正確に表されています。さすが貝原

益軒といったところでしょうか。

 これは敦賀と近江の塩津・海津の位置関係を示した図です(図

2)。江戸時代、敦賀には北陸・東北方面から大量の米や大豆が輸

送されていました。北陸・東北方面の諸大名は領内で消費する以外

の米や大豆を京都や大津で売却していて、その中継地が敦賀だった

のです。船で敦賀まで運んできて、敦賀で陸揚げして馬に積み替え

写真 1 「敦賀の湊」    (了貞著・竹原春泉斎画『二十四輩順拝図会』巻 2 、    享和 3 年(1803)成立)(福井県立歴史博物館蔵)

図 2   敦賀と琵琶湖の位置関係(『新修大津市史』3 近世前期(大津市役所、1980 年)より)

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る。そして馬で山を越えて近江国に入り、海津や塩津などの湊に行く。そこで再び船に積み替えて大

津まで運び、大津でまた陸揚げして陸路京都へ向かうというルートです。

 当時、大量の荷物を最も短時間で輸送できる手段は船でした。琵琶湖は近江国を縦断するバイパス

だったといえます。これを利用した物資輸送のルートができ上がっていて、その拠点のひとつが敦賀

だったのです。

 物資輸送ルートの重要拠点であった敦賀は、先ほどの図のように非常に繁栄するのですが、西廻り

航路が整備されていくと次第に入津量が減ってきます。西廻り航路は下関を回って瀬戸内海から大坂

に行くというルートですが、こちらの方がコストを抑えることができたのです。西廻り航路が安定し

始めるのは17世紀の末頃ですから、1685年はちょうどその前後です。貝原益軒が見た敦賀は全盛期の

最期のあたりだったといえるでしょう。

 (2)天保6年(1835)中井源左衛門光基『四番諸事日ひ

下か

恵え

 次の旅行者は近江商人です。中井源左衛門光みつ

基もと

という人物が書いた『四番諸事日下恵』(滋賀大学

経済学部附属史料館所蔵)という旅日記をご紹介します。みなさん中井源左衛門はご存じでしょうか。

近江八幡からさらに内陸に入った蒲生郡日野というところを本拠としていた中井家は、近江商人の中

でも最大級の経営規模を誇った家でした。この中井家の 4 代目当主が源左衛門光基(光茂、正治兵衛、

石翁)です。

 近江商人というのは、近江国の外に出かけて行って、他国稼ぎをします。出かけて行った先は関

東・東北が多く、中井家の場合、その中心となったのは仙台でした。仙台などに店を構えて現地の商

人と取引をします。京都や大坂から古手(古着)や繰綿を持って行って卸売をする。そして生糸や紅

花、青あお

苧そ

といった東北地方の特産物を仕入れて、江戸や上方などで売るという商売です。仙台以外に

も、石巻や相馬、天童などに多くの出店を設けています。そして、そこからさらに枝店ができていっ

て、中井家の商売網が形成されます。ただ、商売の規模が大きくなると、各地の出店の経営監督が肝

心になってきます。当時は電話もメールもありませんから、近江からでは監督しきれませんので、現

地へ実際に行くしかありません。そのため、中井源左衛門はしばしば各地の出店回りに出かけていま

した。

 天保六年、1835年の源左衛門光基による旅の記録が『四番諸事日下恵』です。旅のルートは、日野

を出て中山道、北国街道を通って柳ヶ瀬へ。柳ヶ瀬からはおそらく刀根越を通って敦賀に入ったので

しょう。そして越後まで北上し、そこから本州を横断して太平洋側へ出ます。そして奥州に向かいま

す。この旅の間、越前から越後までは比較的気楽な観光旅行といった雰囲気でした。

 〔常宮神社と気比松原〕

 まずは 5 月 7 日の記事で、敦賀です。

   常宮へ船にて参詣、船路但し二里余、尤酒肴持参、船中にて給たべ

、着岸之上参詣、拝殿にて又々酒

取出し、泉蔵坊(社僧)へ参り昼飯給、壱人前百文之割、外に茶代弐百文差置、夫より引取かけ、

一夜之松原(気比松原)前にて引網為致、則三度為引候処、色々小魚・かれ(かれい)・きす・

小鯛等有之、直々料理、又々酒相初候事、網引代五百文

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

 初めに船で常宮神社に参詣しています。船の上ですでに一杯、そして神社でもまた一杯と、お酒を

飲んでいます。続いて泉蔵坊という社僧の所で昼食をとっています。料金が一人前100文と決まって

いますので、泉蔵坊では参詣者向けにそのようなサービスをしていたのでしょう。茶代200文という

のは現在でいうチップです。

 気比の松原では、松の風景を楽しむ前に地元の漁師に網を引かせています。そして、そこで獲れた

魚でまたお酒を飲んでいます。ここでも地元の漁師が代金を取って旅行者向けのサービスをしていた

ようです。

 〔福井城下~愛宕山見物〕

 続いて福井へと進んで行きます。福井へは 5 月 9 日に到着するのですが、敦賀から福井へ行く途中

に通った府中町(越前市)のようすも記しています。

   福井高島屋へ七ツ時前着泊、今日通行之道々、府中は福井御家老弐万五千石(実際は二万石)之

御在所なれど、家数弐・三千も有之由にて、至極繁昌之土地、鍛冶や抔 夥おびただ

敷しく

、女郎や抔立派之

女郎や数軒有之、中々場所柄也

 福井には七ツ時(午後 4 時頃)に到着したのだが、その前に通過した府中は福井藩国家老本多氏

の城下町で、家数が2000~3000もあろうか(天保九年(1838)段階で2431軒)、非常に繁盛していて、

鍛冶屋がたくさんあった。これは越前打刃物のことです。当時から有名で、鎌や包丁が旅行者用の土

産として販売されていました。このように特産物についてもきちんと触れています。立派な女郎屋も

あったと言っています。

 そして福井城下に入ります。

   又福井御城下も中々繁花之土地にて、家数之弐万も有之由にて賑にぎにぎ

々敷しき

土地(中略)扨さて

福井高島や

へ参着之上、案内者相頼、先づ愛宕山(足羽山)へ参り候処、どこを当て共も無連歩行候間腹

立候侭まま

引取、宿之亭主へ相咄候に付、亭主直々案内同道、愛宕一山所々見物、数多遊参人有之、

賑々敷事、夫より誓願寺へ降り、夕方宿へ引取、此誓願寺と申は役者・芸者等之住居致居候所也

 福井城下もやはり繁盛している。家数は府中よりさらに多く 2 万もあろうか、さすがに賑やかな場

所だと言っています。福井では高島屋という旅籠に泊まっています。そこでガイドを頼んでいるので

すが、当てもなく歩かされただけで面白く

なかったと腹を立てています。それを旅籠

の主人に伝えると自らガイドを買って出て

くれて、その主人に愛宕山に連れて行って

もらっています(写真2)。遊山人が多く

賑やかな中、愛宕山を歩いて、その後は愛

宕山の裏手にあった誓願寺町に寄っていま

す。誓願寺町というのは一風変わった町で、

芸者や役者、娼妓などが集まって住んでい

ました。福井で唯一の遊郭があり、芝居の

興行もここで打たれていました(『福井県 写真 2   「愛宕山眺望図」  (福井市立郷土歴史博物館蔵)

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

史 通史編 4 近世二』1996)。愛宕山、誓願寺と城下の遊び所を回ってきたということでしょう。

 〔当時の愛宕山参詣の様子〕

 文化十二年、1815年に書かれた井上翼章『越前国名蹟考』という本に「足羽参記」という文章があ

ります。これが当時の愛宕山での物見遊山の雰囲気をよくとらえています(杉原丈夫編『新訂越前国

名蹟考』松見文庫、1980年による)。

   まつ(まず)松玄院の桜寿命院の柳をなかめ、足羽御社に渇仰す。(中略)羽明明神に参り、勝

軍地蔵(愛宕大権現)に詣て絵馬をかそへ、煙草を吹、楊弓屋か塩梅よしの田楽に舌鼓をならし、

滅多的のねらひに片目を塞くもおかし。月見山八畳鋪茶臼山の眺望に、近くは官府の甍を仰き、

遠くは三国の孤松を見遣(中略)天魔か池の卯花も頓て時鳥を待比なるへし

 松玄院の桜や寿命院の柳を眺めながら登っていくと足羽神社がある。さらに登っていくと羽明明神、

そして愛宕大権現があり、このあたりには出店も軒を連ねている。ここまでくると眺望がよく、福井

城の天守や遠くは三国の松まで見える。当時の愛宕山は、見てよし。遊んでよし。食べてよしの、旅

行者も多く訪れる名所でした。

 〔九頭竜川~三国・東尋坊〕

 福井を出た後は舟橋村の方に行っています。

この時、中井源左衛門は三国へ向かおうとして

いました。三国へは足羽川からも行けたのです

が、舟橋村へは、舟を鎖で繋いで橋にした九頭

竜川の名物である舟橋を見に行ったのでしょう

(写真3)。旅日記にも詳しく書いてあります。

   舟橋迄陸参り、舟橋一見、扨はや見事之橋

にて、何様北国一番之橋にも可有之か、川

巾弐丁余船四十八艘つなぎ、其上へ巾一間

程に板を渡し候もの也、船は岸より岸へ大

丈夫之鉄之くさり(鎖)にてつなぎ有

 48艘の船を頑丈な鎖で繋いで、その上に板を渡して橋にしてある。北国一番の見事な橋だといって

います。

   扨右橋渡り森田にて小船一艘借切、代七匁、段々川を乗下り候(中略)三国靍田屋へ八ツ時着泊、

但し川之里数七り也、直々案内者相頼、代百文也、唐人坊(東尋坊)へ見物に参る、一里余、道

にて海士三人相頼、代三匁、唐人坊にて魚類為取候処、あわび大小五、さゞい(サザエ)大小九ツ、

雲丹壱ツ、なまこ一ツ取参る、是能々楽也、帰りがけ浜之塩湯にて右為取候あわび為料理酒給

 それから、舟橋を渡った森田というところで舟を借りて、その舟で九頭竜川を下りながら三国に入

ります。三国では靍(鶴)田屋という旅籠に泊まり、ここで有料のガイドを雇って、東尋坊を見物に

行っています。そして東尋坊で出会った海士にあわびやサザエなどを獲って来てもらって、それらを

肴にまたお酒を飲んでいます。海のない近江国から来ていますから、海産物が珍しかったのかもしれ

ません。

写真 3   「舟橋」     (前出『二十四輩順拝図会』)

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

 (3)天保15年(1844)小津久足『志し ひ

比日記』

 次は小津久足という人物です。彼は伊勢国松坂の人で、中井源左衛門と同じく商人でした。江戸に

店を構える大手の干ほし

鰯か

問屋である湯浅屋与右衛門家の 6 代目当主です。干鰯というのは鰯を加工した

肥料です。小津の家は領主である紀州徳川家の御用商人を務めるほどの大商家だったのですが、彼自

身は旅行や文芸を非常に好んでいました。中井源左衛門も旅行を楽しんでいましたが、彼には出店の

監督という目的がありました。いっぽう、小津久足は旅行や文芸そのものが好きだったようで、生涯

で50点あまりの紀行文を残しています。何度も何度も旅をしていないとこれだけのものは書けなかっ

たでしょう。商売の方は大丈夫だったのかと心配になるほどです。彼は滝沢(曲亭)馬琴の友人兼パ

トロンのひとりでもあり、馬琴に自分の書いた紀行文を読ませたりもしています。反対に馬琴の作品

を批評することもあったようです。ちなみに、映画監督の小津安二郎の生家は、この久足の小津家の

分家にあたります。

 ご紹介するのは天保十五年、1844年に書かれた『志比日記』(無窮会専門図書館所蔵・神習文庫)

という紀行文です。この年の 2 月25日に松坂を出て、まず京都へ行きます。そこから近江に入って湖

西地方へ向かいます。そして北国海道(西近江路)から七里半越で越前へ、そこから北陸街道(東近

江路)を通り、さらに目的地の永平寺や吉崎、三国などへと向かっていきます。

 〔湯尾峠の孫嫡子〕

 彼はこの時に湯尾峠を通っていますので、はじめにその部分をご紹介します。小津久足の文章は平

仮名が多用されていて読みにくいので、読みやすいように一部を漢字に直すなど改めました。

   ( 3 月16日)四・五丁も登れば峠にて、湯尾峠ということも太平記に見えたり、茶屋に入て憩う

に、ここの茶屋はいずれも見世に疱瘡神なりとて神棚めくものを作りて、そのほとりに御孫嫡子

の文字を赤く紺地に染めたる暖簾をかけ、守をも出すと言えり、ここなる疱瘡の神のことは世人

もよく知りて名高けれど、わが子にいまだ疱瘡病まぬがなかりせば、なまもの知りの癖にて、怪

しの伝え、取るに足らずとひたむきに言いくらすべきを、初子(文政十一年(1828)出生の長女

か)にいまだ疱瘡病まぬかか(ママ)

れば、心弱くもつと(土産)にとて、守を十二銅にて求めたるは、

写真 4   「湯尾峠」    (前出『二十四輩順拝図会』)

図 3   湯尾峠の四軒茶屋  (杉原丈夫「湯尾峠孫嫡子考」(『福井

県立歴史博物館紀要』第 1 号、福井県立歴史博物館、1985年)より作成)

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

心の病みと我ながらおかし

 太平記にも出てくる湯尾峠。当時、湯尾峠には「おもや」

「さるや」といった屋号の 4 軒の茶屋がありました(写真4・

図3)。その 4 軒の茶屋はどこも疱瘡神を祀る神棚を作って、

その横で孫嫡子と書いたお札を売っている(写真5)。孫嫡子

というのは疱瘡の神様で、疱瘡にかかっても重症にならない

ためのお守りとしてこのお札が売られていたのです。ここでい

う疱瘡とは天然痘のことです。孫嫡子信仰は貞享四年(1687)

の井原西鶴『男色大鑑』や『二十四輩順拝図会』など文芸作

品や出版物で取り上げられ、当時の社会に広まっていました

(『福井県歴史の道調査報告書第 2 集 北陸道Ⅱ・丹後街道

Ⅰ』2002、前出杉原丈夫「湯尾峠孫嫡子考」)。小津久足はこう

した話に懐疑的だったようなのですが、まだ天然痘にかかっ

ていなかった子どもがいたので、迷信と思いつつもやはり心

配だったのでしょう、12銭を払ってお守りを購入しています。

 〔三国の遊女屋と瀧谷寺〕

 彼は三国へも足を延ばしています。中井源左

衛門も三国へ行っていましたが、当時、三国に

は遊郭がありました(写真6・7)。

   (20日)三国の湊の塩見橋(汐見橋)と言

うに船果てたれば、岸に上がり五丁ばかり

行きて、鶴田屋何がしと言う者の家に宿れ

るは申の刻ばかり也(中略)ここの世に名

高きは遊女あるからのことなれば、その様

見まほしくて宿の主に語らえば、たちまち

その由言いやりけん、朱の紋付きたる挑灯

ともせる小女が迎に来たれば、そを伴いて

向かいの方なる松尾屋何がしと言う楼に登

れば、家作りさすがに仮初めならず、田舎

びて田舎めかぬ様あり、燭まばゆきまで掲

げて、家刀自が木綿の衣に前垂と言うもの

かけたるままに慌ただしく出で来たりて、

   その年頃は五十ばかり、かく肥あぶら付き

たるを強いて女々しく繕いて、慣れ慣れし

く打ち語らう詞付きのおかしさ、思わず笑

壺に入ぬ

写真 5   孫嫡子守り札(前出杉原論文より)

写真 6   「三国湊」    (前出『二十四輩順拝図会』)

写真 7  「三国遊女町の図」 (前出『二十四輩順拝図会』)

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

 小津久足も中井源左衛門と同じ鶴田屋に泊まったようです。そこで宿の主人に有名な三国遊女を見

てみたいものだというと、さっそく迎えがきて遊女屋へと案内されています。案内された遊女屋は大

きいところだったようで、都から遠く離れた場所にありながらとても田舎とは思えない立派なものと

評しています。さすが三国と思っていたら、そこで出て来た女将は大変ふくよかなのに細々した仕草

をし、かと思えば馴れ馴れしく話しかけてくる。小津久足にはそのようすや言葉使いが大変おかしか

ったようです。

 翌日には、久足は瀧谷寺へ行っています。

   (21日)瀧谷寺と言うに詣ず、禁殺生の制札たち、摩尼宝山と泊如僧正が書きたる(貞享四年

(1687)、智積院第七世瑞応泊如運敝の筆)を彫りたる額かかりて、所に合わせては大寺なり

(中略)その堂に並びて観音堂もものふりたり、この寺は泊如僧正が額あれば新義(新義真言

宗)ならんと思いて、僧に問えば、さなりと答う、庭に糸桜の大樹三本ばかり有て、春のさまお

もひやらる

 瀧谷寺では、「摩尼宝山」と彫られた立派な額がかかっていました。その額に「泊如」とあったの

で僧に新義真言宗かと問うと、さようと答えが返ってきました。瀧谷寺は京都醍醐寺報恩院末(後に

智積院末)で、越前の新義真言宗寺院の中心的存在でした。さらに庭の「糸桜」にも触れています。

この糸桜というのはしだれ桜で現在は3代目になるそうですが、彼が見たのは初代であり、三国節に

も「西も東も南(皆見)に北(来た)か三国瀧谷糸桜」と出てくる名木です。

 2.若狭を旅した人々

 (1)元禄2年(1689)貝原益軒『己き し

巳紀行』

 〔小浜城下と「八百比丘尼伝説」〕

 次は若狭に参ります。ここでもう一度、貝原益軒が登場します。元禄二年、1689年に書かれた『己

巳紀行』の中の八百比丘尼のお話です(同書からの引用は、前出『新日本古典文学大系98』による)。

   小浜は当国の主、酒井氏の居城也。昔年、京極氏築けり。小浜の町の西南三里計前の、高き所

に社有。熊野山と号す。本社は神明也(神明神社、小浜市青井)。其少西の方に、役小角の像有。

脇社に、白比丘尼又号八百比丘尼十八歳の影有。(中略)八百比丘尼の事、伝にいはく、古へ、此

辺に六人の福徳長者あり。時々参会して、宝物をくらべ争ふ。食膳も亦、珍奇を尽す。在時、海

錯の中に人魚を料理す。五人の者は人魚をしらず。あやしき物とて不食之。其中の一人、人魚の

肉五六片、懐之にして家に帰り、妻子に見せて捨んと思ひ、隠し置けるを、一人の女子、人魚は

薬なる由を聞及び、窃に取て食しける。是より長命にして、八百年、此所に住スとかや。

 はじめに小浜の説明があります。当時、酒井氏がいた小浜城は、かつて京極氏によって築かれたも

のである。小浜の町の西南に神明神社があって、そこから少し西に行くと、有名な修験者役小角の像

が建っている。そして、その脇に八百比丘尼の18歳の時の像が建っている。

 続けて八百比丘尼伝説が紹介されています。むかし 6 人の福徳長者がいて、集まっては宝物を自慢

し合っていた。ある日、長者たちの宴会に人魚の肉が出てきた。 6 人のうち 5 人は人魚を知らなかっ

たので食べなかったが、 1 人は人魚を知っていたので、家族に見せようと数切れを持ち帰った。それ

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

をその家の女の子が食べてしまい、800年生き続けたという話です。

 現在、小浜の空印寺に八百比丘尼が入定を遂げたという洞窟がありますが、女性が人魚の肉を食べ

て800年の長命を保ったという「八百比丘尼伝説」は全国各地に伝わるようです。高橋晴美さんによ

れば、「八百比丘尼伝説」は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に

及び、とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多いそうです。埼玉・岐阜といった海のないところ

も含まれています(高橋「八百比丘尼伝説研究」、『東洋大学短期大学論集 日本文学篇』18、1982)。

伝説自体ははるか中世に遡るもので、それが江戸時代に入って全国に広まっていったのでしょう。

 (2)文政3年(1820)作者未詳『西国巡礼略打道中記』

 これまでの旅日記や紀行文は作者がわかっているのですが、次のものは作者が未詳です(巻末に

「吉田屋正六主」とありますが、作者ではなく所持者と考えています)。文政三年、1820年に書かれ

た『西国巡礼略打道中記』(舞鶴市教育委員会所蔵・糸井文庫)というもので、舞鶴の糸井文庫の中

にあります。現在は上下巻のうち上巻はなく、下巻だけが残っています。最後は大坂に帰り着いてい

るので、作者は大坂に在住していた人物と思われます。西国三十三所巡礼の旅日記なのですが、交通

に関する記述が非常に細かく、旅行案内として用いられることを強く意識して書かれたようです。実

際に貸本として流通していた形跡もあります。

 〔岩神の「おんじく石」〕

 この『西国巡礼略打道中記』は、文章に特徴があります。口語体に近い文体で書かれていて、あた

かも当時実際に話されていた言葉をそのまま記録したようです。この中から大飯郡高浜町岩神の「お

んじく石」を見てみましょう。

   ▲いわがみ(岩神) ●こくぞぼさつ(虚空蔵菩薩)ト申て、大きないわがある、夫を小供がか

なづちでかじりとりにして、此くらい(図あり、省略)ニいたして、子供が大ぜいしてめいめい

に、一もん(文)じや、かわんせかわんせト申てやかましく申、是を見れバ四畳半もあるどう

(堂)の内らに、大きないわがある(中略)そのいしをバかなづちでかぢりとりニいたして、一

文づつでうるなり、是ハづつう(頭痛)のいたすおり、ひでぬくめて(火で温めて)、いたむ所

へあてるなり、又はらいたのせつ(腹痛の節)ハ、ぬくめてきれでつつミて(包みて)あてるト

なをる(治る)ト子供が申候

 岩神という村のお堂に、虚空蔵菩薩といわれる巨大な岩がある。それを子供たちがかなづちで削り

取って売り歩いている。岩の破片を温めて痛むところにあてれば痛みが治まるらしい。つまり石を利

用した温灸療法です。「おんじく」を漢字にすると「温石」になります。

 実は、このお話は延宝年間(1673~80)に書かれた『若狭郡県志』にも出てきます(原文は漢文)。

   温石 岩神村の傍に巨巌有り、岩神と称す。是温石也。之を得んと欲せば、則ち他石を以て代と

為し、此の所に置き、而して巨巌を砕き之を採る

 この頃は、岩を削る前によそから石を持ってきて、代わりに置いていたようです。しかし文政の頃

になるとすぐに岩を削るようになっていて、それが子供たちの小遣い稼ぎになっていたようです。旅

行者が多く行き来する街道筋ならではの動きがみてとれます。

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

 〔熊川番所の女改めと通行の様子〕

 最後は熊川番所です。熊川番所は『西国巡礼略打道中記』に描かれていて、現在復元されている熊

川番所はその図が元になっています(写真8)。熊川番所は小浜から近江国今津へ至る九里半街道に

あった番所のひとつで、小浜藩が交通を管理するために置いていた口止め番所です。九里半街道は、

西国三十三所巡礼では松尾寺(29番)から宝厳寺(竹生嶋、30番)へ向かう道にあたります。

 熊川番所は女性の通行改めが厳しいことで有名でした。貝原益軒も『己巳紀行』に「女をとどむる

関所あり」と書いています。明和四年(1767)『稚狭考』にも、「本国に女の旅行を制禁あり(中略)

本国は出るを禁じて入を禁せられず」とあります。この『道中記』には番所を通行する際の想定問答

が記されているのですが、西国三十三所巡礼の中には女性も多くいましたので、とくに女性がスムー

ズに通過できるようにと考えた内容になっています。

   ▲くま川 ○ちうじき(昼食)、

やどや小休、見れハ此所ハ中 

此出口が、女あらための御ばん

所あり(中略)まづ、で口(出

口)の女あらためのかたち、此

所ハ木戸口が一ツある、此内よ

りさむらいか、又は丁人(町

人)か、百姓か、とんととんと

すだれ(簾)がかけて、内らハ

まつくらがりて、わかり不申候、

是をバしらずにゆくと、此すだ

れの内より、こりやこりやとよ

びとめるト、下ニいよト申

 「中」というのは、『道中記』の作者による熊川の評価です。一般的な宿場町だということです。

熊川番所には木戸口がひとつあって、簾がかかっている。番所の中は暗くて人がいるかどうかわから

ないが、通ろうとすると中から「下にひかえろ」と声がかかります。声がかかっても、暗いので相手

は武士か町人か百姓かわからない。このあと、想定問答が始まります。旅行者は男女二人連れという

ことになっています。

  ▲そのほうハどれへとふる(通る)、此所ハ御ばん所じやが、いづれへとふるトたずぬる

  ▲ハイ、わたくしどもハ西国(西国三十三所巡礼)でござりますト申

  ▲国ハどこじやト申

  ▲ハイ、国は津の国(摂津国)でござりますト申

  ▲どなたの御下じやト申て、なハなんト申トいふ

  ▲ハイ、大坂でござりますト申て、御奉行の名を申なり

  ▲国ハイつぅ立たト申

  ▲ハイ、国ハ何月何日ニ立ちましたトいふ

写真 8   熊川番所(『西国巡礼略打道中記』(舞鶴市教育委員会蔵・糸井文庫))

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 下にひかえると、番所の簾越しに「どこへ行くのだ」と聞かれます。それに対して「西国三十三所

巡礼です」と答えると、続けて生国を聞かれます。作者が大坂の人ですので、ここでは大坂を例に挙

げて「津の国」(摂津国)と答えています。さらに領主の名前を聞いてきますので「大坂です」と答

えて、大坂町奉行の名前を言います。そうすると「何月何日に出発したのだ」と聞かれるので、「何

月何日に出発しました」と答えます。(以下の史料中の「なまりて」などの書き込みは原文ママ)

  ▲どれから札ハうな ま り て

ぅちはじめたトいふ

  ▲ハイ、札ハどれからうちはじめましたトいふ

  ▲なんぅ人にん

のつれじやトいふ

  ▲ハイ、なん人にん

のつれでござりますトいふ

  ▲その女ハトいふ

   女づれと同行なれバ同行何人、又女房なれバ女房ト申なり

  ▲ハイ、これハ同行でござります

  ▲みな同どうこく

国かト申

  ▲ハイ、同国でござりますト申

 次にどこから札を打ち始めたかと聞かれます(「札打ち」=参詣者が寺院の壁や柱に札を打ったり

貼ったりすること。納札とも)。「なまりて」というのは、こんなイントネーションの言葉で聞かれる

から気をつけろということです。巡礼はお参りしたお寺に札を残していきますので、「どこから札を

打ち始めたのか」というのは「どのお寺から回り始めたのか」ということです。お寺の名前を答える

と、何人連れかと聞かれます。「なんぅ人」というのは、これもお国なまりでしょうか。人数を答え

ると、今度はその女性は同行者か妻かと聞かれます。ここでは同行者と答えています。同行の場合は

さらに同国の者かと聞かれますので、同国ですと答えます。

  ▲手がたハもつておるかト申

  ▲ハイ、手がたハ持参いたしておりますト申ト

  ▲是へだせト申

  ▲ハイ、ト申てくわい中(懐中)よりだすト

   すだれの内からておだしてとる(手を出して取る)ト

  ▲あらためているト見へる、しばらくひま(隙)がいりて、夫よりすだれの内よりそとへだして

  ▲これにそうイ(相違)ハあるまい、とふれ(通れ)といわずに

  ▲とうるであろうト申なり

  ▲ハア、ト申て夫より同行みなみな出立いたすなり

 続いて「往来手形は持っているか」と聞かれます。「持っている」と答えると「これへ出せ」と言

われます。それに従って懐中から出すと、簾の中から手が出てきて中で改められます。そのまましば

らく待っていると、簾の中から手形が返されて通行を許可されるのですが、「通れ」といわずに「通

るだろうな」という言い方をされます。こうして、ようやく番所を通過することができます。

 当時、熊川番所を通行する際にはこのような取り調べがありました。こうして熊川を通り、ようや

く若狭から近江に出ることができたようです。ちょうど若狭を出たところで、この講演も終わりたい

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江戸時代の越前・若狭を旅した人々

と思います。

 ご静聴ありがとうございました。

〔付記〕 本稿は2013年(平成25) 7 月13日に、福井県立図書館多目的ホールで行なわれた講演会「江戸時代の越前・若狭を旅した人々」の講演録を加筆・修正したものです。

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

研究ノート

大型複製シートを活用した利用促進の取組み

井上 由紀恵*

1.複製シートとは

2 .複製シートの活用事例

( 1 ) 学校の教材として

( 2 ) 地域回想法の素材として

( 3 ) 祭りや国際交流の場で

3 .複製シートの貸出し手続き

4 .広報

( 1 ) チラシ

( 2 ) 月替展示

( 3 ) ホームページ

 1.複製シートとは

 福井県文書館では、地域に残された資料を多くの方に、より身近に感じてもらい、手軽に利用して

もらうため、近年、普及業務の一環として、大型の複製シートを作成し、貸出しや出前講座による利

用促進に取り組んできた。ここまでの取組みを総括し、紹介するとともに、今後の課題を考えていき

たい。

 複製シートとは、A 1 サイズや B 0 サイズなどの大判の特殊合成紙に、すごろくや絵図・地図など

の大型資料を印刷したものである。複製シート作成のきっかけとなったのは、2009年度(平成21)に

行われた企画展示「すごろく展」であった1)。坂井市の旧家から多数寄託された明治・大正期を中心

としたすごろくを紹介する展示であったが、これらのすごろ

くは大型のものが多く、展示ケースの中に納まりきらないも

のがほとんどで、納まるものでも 1 つの展示ケース内に 1 、

2 点しか展示できなかったため、カラー複製を作ってパネル

展示することになった。さらに期間中、来館者にすごろくで

遊んでもらう体験イベントも企画され、使用に耐えうる丈夫

な複製が必要だということで、特殊合成紙を使って、A 1 サ

イズを中心に約20種類のすごろくを複製化した(写真1)2)。

*福井県文書館主任

写真 1 「少年飛行双六」 シートNo.SH00010坪田仁兵衛家文書(当館寄託)

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 企画展示終了後も、館内のイベントで使用したほか3)、近隣の小学校から出前授業の依頼があった

ことから、複製シートの利用の可能性を感じ、2010年度(平成22)以降、引き続き作製を進めること

にした。その際、すごろく以外の資料の活用も模索され、当館のレファレンスの中で比較的需要の多

い、明治から昭和戦前期の福井県内の地図や絵図を中心に約20点を複製シート化した。以後も、月替

展示等で複製シート化して展示した方が便利な場合などを含めて随時作製を進め4)、15年 1 月末現在

で約90点の資料が複製シート化5)されている(表1)。

シート No 年 代 資料名 サイズ 備考

SH00001 1892年(明治25) 「前北斎富士勝景寿語禄」 A1   すごろく

SH00002 1892年(明治25) 「女礼式十二ケ月寿語録」 A1   すごろく

SH00003 年未詳 「春遊傾城道中寿吾六」 A1   すごろく

SH00004 1904年(明治37) 「新案海戦将棋」 A1   はさみ将棋

SH00005 1848年(嘉永1) 「弘化改正仏法双六」 A1   すごろく

SH00006 1906年(明治39) 「新案競馬遊戯」 A1 B0 すごろく(こども向け)

SH00007 1908年(明治41) 「開国五十年双六」 A1   すごろく(こども向け)

SH00008 1909年(明治42) 「日本十五少年双六」 A1   すごろく(こども向け)

SH00009 1910年(明治43) 「少年歴史地理双六」 A1   すごろく(こども向け)

SH00010 1912年(大正1) 「少年飛行双六」 A1 B0 すごろく(こども向け)

SH00011 1913年(大正2) 「日本名婦双六」 A1   すごろく(こども向け)

SH00012 1913年(大正2) 「飛行自動車双六」 A1   すごろく(こども向け)

SH00013 1926年(昭和1) 「家庭教育世界一周すごろく」 A1 B0 すごろく(こども向け)

SH00014 20世紀前半 「東京名勝双六」 A1   すごろく

SH00015 20世紀前半 「東京繁栄双六」 A1   すごろく

SH00016 1906年(明治39) 「新遊戯「はめ画競争」」 A1   はめ絵(子ども向け)

SH00017 1925年(大正14) 「最新誌上野球競技」 A1   すごろく

SH00018 1913年(大正2) 「少女思ひ出すごろく」 A1 B0 すごろく(こども向け)

SH00019 1902年(明治35) 「実業家出世双六」 A1   すごろく

SH00020 1902年(明治35) 「政治家出世双六」 A1   すごろく

SH00021 1904年(明治37) 「福井県実業家案内すご録」 A1   すごろく(県内)、タペストリーもあり

SH00022 1933年(昭和8) 「福井県地図(10万分 1 )」   B0 地図

SH00023 1952年(昭和27) 「福井県精図(10万分 1 )」   B0 地図

SH00024 1904年(明治37) 「日露戦争早見地図」 A1   地図

SH00025 年未詳 「北国白山天嶺御絵図」 A1   絵図

SH00026 年未詳 「 越中国立山禅定并略御縁起名所附図」 A1 絵図

表 1  複製シート一覧(2015年 1 月末現在)

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

シート No 年 代 資料名 サイズ 備考

SH00028 1904年(明治37) 「日露作戦地一覧図」 A1   地図

SH00029 年未詳 「増補高野山独案内」 A1   絵図

SH00030 年未詳 「 ならめい志よ恵づ(奈良名所絵図)」 A1   絵図

SH00031 年未詳 「北国白山天嶺之図」 A1   絵図

SH00032 1897年(明治30) 「若越両国全図」 A1   地図

SH00033 1933年(昭和8) 「最新福井県地図」 A1   地図

SH00034 1896年(明治29) 「福井県全図」 A1 地図

SH00035 1868年(明治1) 「定(五榜の掲示、第一札)」 A1

高札・翻刻ありSH00036 1868年(明治1) 「定(五榜の掲示、第二札)」 A1

SH00037 1868年(明治1) 「定(五榜の掲示、第三札)」 A1

SH00038 1924年(大正13) 「福井県全図」 A1 地図

SH00039 1853年(嘉永6) 「海陸御固泰平鑑」 A1 幕末の瓦版

SH00040 1882年(明治15) 「福井県管内地図」 A1 地図

SH00041 1940年(昭和15) 「 大日本職業別明細図 第六三三号 福井県(武生町)」 A1 地図

SH00042 1940年(昭和15) 「 大日本職業別明細図 第六四三号 福井県(鯖江町)」 A1 地図

SH00043 1940年(昭和15) 「 大日本職業別明細図 第六二三号 福井県(福井市・芦原温泉)」 A1 地図

SH00044 「慶長御城下絵図」 A1 B0 絵図・タペストリーもあり

SH00045 「天保福井御城下絵図」 A1   絵図・タペストリーもあり

SH00046 1821年(文政4) 「(北之庄城郭図)」 A1 B0 絵図

SH00047 1887年(明治20) 「越前北ノ庄城ノ図」 A1 B0 絵図

SH00048 1929年(昭和4) 「 日本交通分県地図 其三十七 福井県」 A1   地図

SH00049 1933年(昭和8) 「福井県鳥瞰図」 A1   鳥瞰図

SH00050 1933年(昭和8) 「福井市鳥瞰図」 A1   鳥瞰図

SH00051 1933年(昭和8) 「最新番地入福井市街地図」 A1   地図

SH00052 1934年(昭和9) 「県庁及松平邸附近平面図」 B0 地図

SH00053 1933年(昭和8) 「福井市街全図」 A1 地図

SH00054 1850年(嘉永3) 「地球万国山海輿地全図説」 A1 地図

SH00055 1878年(明治11) 「石川県管内図」 A1 地図

SH00056 1917年(大正6) 「福井県管内全図」 A1 地図

SH00057 1873年(明治6) 「明治六年新旧合暦」 A1 暦

SH00058 1872年(明治5) 「(太陽暦頒行ニ付足羽県布達)」 A1   暦関連

SH00059 1820年(文政3) 「寺送り状之事」 A1 寺送り状・翻刻あり

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

シート No 年 代 資料名 サイズ 備考

SH00060 1847年(弘化4) 「村送り一札之事」 A1 村送り状・翻刻あり

SH00061 1903年(明治36) 「 第五回内国勧業博覧会見物案内図」 A1 裏面の会場内外案内図も複

製パネルで貸出し可能

SH00062 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現 ・ 永平寺町)

SH00063 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現 ・ 池田町)

SH00064 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現 ・ 大野市)

SH00065 1878年(明治11) 「地券」 A2 地券(現 ・ 若狭町)

SH00066 1878年(明治11) 「地券」 A2 地券(現 ・ おおい町)

SH00067 1884年(明治17) 「地券」 A2 地券(現 ・ おおい町)

SH00068 年未詳 「爆笑遊び」 A2 福笑い・複製パネル

SH00069 1856年(安政3) 「伊勢参宮名所一覧」 A1 絵図

SH00070 1880年(明治13) 「越前国七郡全図全」 A1 絵図

SH00071 1914年(大正3) 「欧羅巴戦局地図」 A1 地図

SH00072 1926年(昭和1) 「武生町市街図」 A1 地図

SH00073 1926年(昭和1) 「 近畿を中心とせる名勝交通大鳥瞰図」 A1 鳥瞰図

SH00074 1868年(明治1) 「公式便覧」 A1 明治維新時の三職一覧

SH00075 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現・福井市)

SH00076 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現・福井市)

SH00077 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現・永平寺町)

SH00078 1882年(明治15) 「地券」 A2 地券(現・大野市)

SH00079 1878年(明治11) 「地券」 A2 地券(現・若狭町)

SH00080 1879年(明治12) 「地券」 A2 地券(現・若狭町)

SH00081 - 「杉田仙十郎略年譜」 2012年度企画展示タペストリー

SH00082 - 「杉田定一略年譜」 2012年度企画展示タペストリー

SH00083 - 「杉田すず略年譜」 2012年度企画展示タペストリー

SH00084 - 「 1 年 1 枚-ふくい戦後60年-」 2011年度企画展示タペストリー

SH00085 1847年(弘化4) 「御座所御絵図」   B0 絵図

SH00086 1848年(嘉永1) 「御本丸御絵図」   B0 絵図

SH00087 1887年(明治20) 「改正東海道五十三駅道中双六」 A1   すごろく

SH00088 1908年(明治41) 「冒険壮遊双六」 A1   すごろく

SH00089 1914年(大正3) 「太閤出世双六」 A1   すごろく

※各資料の資料番号等、詳細は紙面の都合で省略した。詳しくは当館ホームページの複製シート一覧参照。http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=493

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

 2.複製シートの活用事例

 (1)学校の教材として

 当館では学校との連携事業に力を入れており6)、複製シ

ートも学校での利用が中心となってきた。すごろくが最も

多く、小学校の生活科や総合学習の時間での昔遊び体験や、

地域の高齢者との交流事業7)で使用されている(写真2)。

 また、すごろく以外で授業に活用できるものを、という

観点から2010年度(平成22)以降、教科書や副教材に掲載

されている資料を中心に、五榜の掲示(高札)や地券など

を複製シート化した。こちらも少しずつ利用が増えており、

身近な歴史教材を手軽に扱えるとして好評である8)(表2)。

 (2)地域回想法の素材として

 回想法とは、1963年(昭和38)、アメリカの精神科医ロバート・バトラーによって提唱されたもの

で、高齢者の過去の回想に対して、聞き手が共感的受容的支持的にかかわり、高齢者の人生の再評価

やアイデンティティの強化、QOL(人生の満足度)の向上、対人関係の形成をはかろうとする援助

方法とされている9)。これを身近な地域社会で、地域の社会資源を活用して行うのが「地域回想法」

であり、地域資料が豊富な歴史民俗資料館や博物館などが利用されるようになっている10)。その先駆

写真 2  小学校でのすごろく出前授業

年度 使用資料 詳細 備考

2014 地券 中学校社会科の授業で使用 貸出し

2013 すごろく 小学校 4 年生の授業で昔遊び体験に使用 貸出し

2013 すごろく、地図、暦など 小学校 6 年生の社会の授業で使用し、展示 貸出し

2013 地券 特別支援学校中等部社会科(歴史)の授業で使用 貸出し

2012 地図、五榜の掲示など 高校の歴史の授業で使用 貸出し

2011 すごろく 小学校 1・2 年生活科の学習で昔遊び体験に使用 貸出し

2011 すごろく 小学校 2 年生が公民館で行われる福祉交流会で、高齢者との交流活動に使用 貸出し

2011 海陸御固泰平鑑 小学校 6 年生社会科の授業で使用 貸出し

2011 すごろく 小学校、 6 年生社会科、 2 年生生活科、高学年の特別活動(クラブ活動)で使用 貸出し

2010 すごろく 小学校 2 年生の学級活動で昔遊び体験に使用し、校内展示 出前講座

2010 すごろく 小学校 3 年生と 6 年生の総合的な学習の時間で昔遊び体験に使用 出前講座

2009 すごろく 小学校 3 年生の総合的な学習の時間で昔遊び体験に使用し、校内展示 出前講座

表 2  複製シートの学校での利用一覧

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

けと言えるのが、愛知県の北名古屋市歴史民俗資料館「昭

和日常博物館」で、2002年(平成14)より「博福連携」と

名づけて、資料館の展示を利用した地域回想法に取り組ん

できた11)。現在では全国各地の博物館や資料館、図書館な

どでも取組みが広がっている12)。

 複製シートの中でも特にすごろくや県内の地図・絵図な

どは、地域回想法の材料としての活用が大いに期待でき

る。すごろくは遊びを体験したり、描かれた絵を眺めたり

しながらの回想が可能であるし、地図は昔の地名や道路や

線路など、描かれた情報からの回想が可能である。2009年

度(平成21)以降、年 2 、 3 件ではあるが、近隣の福祉施

設や病院での利用が続いている(写真3 ・ 4)。

 なお、地図の地域回想法への活用にあたっては、古い写

真と組み合わせることで、記憶がよび起こされ、より具体

的な回想が可能になる。当館では、県が広報活動のために

撮影してきた昭和30年代から50年代を中心とした写真(県

広報写真)13)を所蔵しており、2007年度(平成19)から

実施している月替展示「ちょっと昔の福井県」シリーズで、各地域のようすや自然災害・イベントな

どで写されている県民のすがたや、くらしの変化を写した写真をパネル展示している14)。展示で使用

した写真パネルの貸出しも行っており、地図と写真を併せた貸出しも多い。

 当館の地域回想法への活用事例として、2014年度(平成26)に実施した、越前市武生西公民館の出

前講座を紹介したい。

【武生西公民館出前講座「昔のすごろく遊び」】

日時: 2014年10月25日  午前10時~11時30分

会場: 越前市武生西公民館

主催: 当館、越前市武生西公民館、越前市武生西地区自

治振興会15)

内容: すごろく複製シートを用いた昔遊び体験及び、当

該地区を写した昭和30年代の写真パネルや昭和初

期の地図の展示

 依頼に来られた自治振興会の担当者は、地域の歴史に造

詣が深く、当館にも日常的に来館している方で、当初は

「昔の資料を身近に感じてもらうために、すごろくを紹介してもらいたい」という依頼であった。せ

っかくなので、すごろくの昔遊び体験をしてもらい、さらに、会場の空きスペースを利用して写真や

地図の展示をさせてもらうことにした。当日の参加者は15名程度、ほとんどが高齢の女性で、他に

写真 3  社会福祉施設での利用

写真 4  社会福祉施設での利用

写真 5  武生西公民館での昔遊び体験

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

40代の男性 1 名と、就学前の幼児連れの親子一組であった。

自治振興会や公民館職員を含めて参加者ほぼ全員が知り合

い同士ということで、和気あいあいとした雰囲気の中、す

ごろく遊びへの導入もスムーズで、全体的に和やかな雰囲

気で楽しまれていた(写真5)。

 そして、講座の中でとりわけ盛り上がったのは、オプシ

ョンで持って行った写真と地図の展示であった(写真6)。

写真の中に写された場所が特定できないものがあったため、

地元の高齢の方に聞けるのは絶好の機会だと思い「これは

どこですかねぇ、どうしてもわからなくて。」と持ちかけてみたところ、私が予想していた以上に活

発な議論が始まった。写真を眺めて古い記憶を呼びおこしながら意見を出し合い、横に展示されてい

た市内の地図と写真とを見比べ、そのうち公民館の事務室から虫眼鏡を取ってきて細かなところまで

チェックし、最終的に場所を特定し、意気揚々と報告してくれた。もう一点、当館寄託資料の中に昭

和初期の映画館のチラシがあり、場所が特定できなかったため、質問してみたところ、こちらも昔見

た映画の話などを交えながら大いに盛り上がった。こちらの方は結論が出なかったものの、後日、自

治振興会から、手がかりとなる資料を添付した丁寧な手紙が届き、感激した。それ以外にも、写真に

写されている昔の街並みや、三八豪雪に関する思い出を、数人の女性が楽しそうに語り聞かせてくれ

た。

 講座終了の挨拶をした際に見た、参加者の笑顔と生き生きした表情が心に残った。「楽しかった

わ」と笑顔で声をかけてくれた女性もいた。この講座の当初のねらいは、「昔の資料に触れる」とい

うことであったのだが、期せずして、すごろく、地図、写真それぞれの地域回想法への活用の効果を

実感する結果となった。もちろん、共催した公民館や自治振興会の協力があってこその成功であるこ

とは言うまでもない。今後も、他施設の取組みを参考にし、地域と協力しながら、利用を増やしてい

きたい分野である16)。

 (3)祭りや国際交流の場で

 その他、これまでの利用例から 2 例紹介したい。

  1 例目はまちづくりへの活用である。2013年(平成25)10月、福井市内の公民館から、福井城下絵

図の複製シートの貸出し依頼があった。福井城下絵図に描

かれている地区の公民館で、現在区史を編纂中ということ

で、地区の祭りでその PR を兼ねて地域の歴史に興味を持

ってもらうことを目的とした展示であった(写真7)。絵

図や地図、そして写真は、地域の歴史を知る機会にもつな

がるため、まちづくりや、地域のイベントなどでの活用の

可能性は高い。

写真 6  武生西公民館の地図・写真の展示

写真 7  地区の祭りでの絵図の展示

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

  2 例目は国際交流への活用である。2014年(平成26) 2 月、国際交流団体関係者から「外国人向け

の日本語教室ですごろくや福笑いを体験するイベントをしたい」という申し出があった。その方は併

設する県立図書館を利用するために来館したが、たまたま改装工事中で閉館だったため、開館中の当

館にふらりと立ち寄り、展示されていたすごろく複製シートを見て、利用を思いついたとのことであ

った。さらに、その団体から話を聞いたという別の団体からの申し出があり、外国人と日本人との交

流イベントで利用された。

 これは今まで学校での教材や回想法の材料としてしか複製シートの活用を考えてこなかった我々に

とっては目から鱗が落ちる思いであった。今回紹介した事例以外にも活用方法はいろいろあるに違い

ない。新たな活用方法は利用者から開拓されることもあるはずで、そのためにも広報活動の充実の必

要性を痛感した事例であった。

 3.複製シートの貸出し手続き

 複製シートの貸出しに関しては当初、規定がなく、「福井県文書館における展示パネルの管理要

領」に基づき展示パネルの貸出し方法を準用した17)。そのため原本資料の貸出しと同じ手続きが必要

とされ、事前に代表者の印が押印された「文書等貸出し承認申請書」を提出してもらい、館長の承認

を得た上で、承認書を付けて貸し出された。これは、利用者にとっては次の 2 点において煩雑である。

1 つは、一度の来館で借りることができないという点で、貸出しを希望して来館しながらも「もう一

度来るのは無理」と言って帰ってしまった例がある。もう 1 つは代表者印が必要という点で、「手続

きが面倒くさい」と言って尻込みされる例があった。

 こうした煩雑な手続きの改善は以前からの課題であった。2012(平成24) 4 月には「福井県文書館

における展示パネルの管理要領」を改正し、第 6 条に「この要領の規定は、複製シート等について準

用する」という一文を加えて、複製シートの管理方法を明確にしたほか、第 4 条を改正して新たに

「展示パネル等資料貸出し申込書」の様式を設け、従来よりも簡易な申込書にした18)。しかし、併設

する福井県立図書館の団体貸出手続方法に準拠したため19)、代表者印と館長決裁は必要なままになっ

ている。より簡易な手続きで、 1 回の来館でスムーズに貸し出せる制度の整備が今後の課題である。

 4.広報

 (1)チラシ

 2010年度(平成22)より、すごろくの利用を呼びかけるチラシを作成し、館内に配備する他、館主

催の講座などで配布したり、刊行物を送付する際に同封したりしてきた(写真8)。保育園児や小学

生が見学で来館した際には、引率の先生に簡単な説明を添えて渡している。

 2014年度(平成26)に改訂した際に「絵図や地図を紹介するチラシも作ってはどうか。」と上司か

らアドバイスを受け、地域回想法での利用を想定した、写真と地図をメインにしたチラシを作成した

(写真9)。今後、公民館や福祉関係を中心に広く配布していきたいと考えている。

 これ以外にも、当館発行の広報紙「文書館だより」や「文書館ふくい」20)でも利用を呼びかける

記事を随時掲載している。

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

 (2)月替展示

 当館では2012年度(平成24)より、月替展示で「つかっ

て 複製シート」シリーズを実施している。12年度は複製

シートの中心を占めるすごろくと地図のみを紹介した。13

年度は地券や高札など、学校で教材として使える資料を中

心に紹介し、14年度は写真パネルも含めた、学校・公民

館・福祉施設などでのこれまでの活用例や、当館から提

案する利用方法などを総括的に紹介した(写真10・11)21)。

毎年、館内に掲示されたポスターなどを見て展示閲覧に来

館して複製シートの存在を知り、貸出しを希望する例も見

られる。

 (3)ホームページ

 2014年(平成26)2月にホームページが新しくなった際、

新たに「学校で使える資料」22)というページを作っても

らい、その中で、複製シートや展示パネルの貸出について

の広報が可能になった(写真12)。ホームページに掲載さ

れている「複製シート一覧」には、各資料の概要ページに

写真 8  すごろくの利用をよびかけるチラシ 写真 9  地図・写真の利用をよびかけるチラシ

写真10 月替展示「つかって 複製シート3」

写真11 月替展示「つかって 複製シート3」

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

リンクを貼り、資料の詳細を確認することもできるよう

にした。一部ではあるが画像が閲覧できるものもあり23)、

イメージもつかみやすくなっている。

 このほか、公民館や福祉施設の職員からは「利用した

人に聞いた」という声も聞かれ、こうしたネットワーク

ももっと活用しながら広報し、利用を増やしていく必要

があると考えている。

 複製シートの利用の幅は少しずつではあるが広がり始

めている。ただ、残念ながら、複製シートの認知度はまだまだ低いと言わざるを得ない。今後は公民

館などの生涯学習関連施設や、社会福祉関連施設への広報活動を強化しつつ、さらなる普及につとめ

たいと考えている。また、利用者の幅を広げ、活用方法の開拓を進めることと、具体的な活用例をつ

けて PR し、貸出しできるよう、事例集の作成も必要であろう。

 当館が開館して12年が経ち、普及活動も多岐にわたる中で、当館の資料を身近に感じてもらい、手

軽に使ってもらえる複製シートは、非常に有効な手段である。今後も取組みを続けていきたい。

注1 ) 当館の展示は、月替展示と企画展示に分けられる。月替展示は展示期間を 1 ヶ月から 2 ヶ月間とする当館収蔵

の資料や事業の紹介のための展示である。企画展示は、展示期間を 2 ヶ月とし、あわせて大型パネルやパンフレットを作成する、月替展示よりもやや規模の大きい展示である。なお、当館は展示施設ではないため、閲覧室内に展示ケース 2 台を設置し、周囲にパネルを立てる形で展示を実施している。その関係もあって、展示の規模はそれほど大きいものではない。それ以外に、ミニ展示ケース 1 台を用いて、臨時的にミニ展示を開催することもある。各展示の詳細は当館 HP で紹介している。「すごろく展」の詳細は当館 HP http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2009exhb/2009exhb00.html 参照。展示パンフレットは当館 HP http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2009exhb/2009exhbjpeg.html に掲載。

2 )複製シート作成の仕様は以下の通り。  (1)画像データおよび典拠情報データは文書館が提供する。  (2)出力形式

・解像度は、提供画像データのまま変更はしない。・出力サイズは、A 1 判とする。・フルカラー出力で中期間(約 1 年間)以上の耐光性のあるインクを使用し、劣化による色落ち、色褪せな

どが起こらないようにする。・提供画像データの本紙端部分に写真合成による跡が残っている場合には、職員の指示にしたがい適切にト

リミングすること。・出力レイアウト右下に、文書館職員の指示により典拠(資料名・年代・資料群名・レファレンスコード)

情報を記入すること(原則的に右下余白に右よせ、テキストは文書館が提供)。・出力用紙は、ポリプロピレン、厚さ210± 5 ㎛、合成紙とする。

  (3)マットラミネート加工出力後、印刷面の保護、劣化防止のため、UV 加工を施した片面マットラミネート加工を行うこと。ラミネートは透明塩ビマット80㎛、アクリル系強粘着透明糊30㎛ /UV 加工の仕様を利用すること。

3 ) 毎年春休みや夏休みに小学生を対象に行われる「文書館探検隊」では、館内見学の最後に昔遊び体験タイムを設

写真12 当館 HP「学校でつかえる資料」

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大型複製シートを活用した利用促進の取組み

けており、毎回好評である。正月や夏休み期間には、閲覧室内に昔遊び体験コーナーを設けている。2013年度(平成25)からは、県主催の生涯学習の祭典「マナビ・フェスティバル」に参加し、家族向けに昔遊び体験コーナーを設けている。ふだん文書館や併設する県立図書館を利用しない層も参加するため、普及の良い機会となっている。

4 ) 2013年度(平成25)企画展示「新発見!福井城下絵図のヒミツ-浅井家がのこしたもの-」や13年度11・12月月替展示「80年前のふくいのすがた-陸軍大演習の写真と地図から-」では、大型の絵図を複製シート化して展示した。シート化してパネルに貼ったり、閲覧室内の机上に置いたりして展示することで、来館者に間近に自由に見てもらうことができる。特に地図や絵図はじっくり眺めたいという要望も多く、シート化する意義は大きい。

5 )シート NO.SH00027は欠番。なお、この中には、企画展示で作成した大型タペストリーも含まれている。6 ) 当館の学校連携の取組みについては、坪川敏幸・島田芳秀「学校教育との連携について」(『福井県文書館研究紀

要』6、2009年、福井県文書館)、島田芳秀・吉田将之「普及啓発活動の新しい取り組み-学校連携を中心に-」(『福井県文書館研究紀要』 7 、2010年、福井県文書館)、井上由紀恵・吉田将之「授業に使えるふくいの資料」(『福井県文書館研究紀要』 8 、2011年、福井県文書館)、島田芳秀・吉田将之「文書館と高校・大学連携-ふくいヒストリア・学生サポータープログラムの実践から-」(『福井県文書館研究紀要』 9 、2012年、福井県文書館)で報告されている。

7 )公民館や児童館の事業でも同じような利用実績がある。8 ) 利用した学校の先生からの感想の一部を紹介すると、「生徒の「地券によって地価が違うのはなぜ?」という質

問をきっかけに、地券に書かれた面積や地目の違いなどに触れながら内容を深めることができ、充実した授業になった。丈夫な素材で使いやすかった。」(地券を利用した特別支援学校教員)、「ペリー来航が一般市民にも広く知れ渡ったことを示す貴重な資料を目の当たりにできてうれしかった。児童は授業の後すぐにシートを囲み、「越前守」やたくさんの「松平」などに驚きの声をあげていた。児童の興味・関心を高めることができた。」(「海陸御固泰平鑑」を利用した小学校教員)など、概ね好評である。

9 )遠藤英俊監修『地域回想法ハンドブック-地域で実践する介護予防プログラム-』(2007年、河出書房新社)。10) 前掲 9 )書には、「博物館や歴史民俗資料館には、地域の歴史や民俗、いにしえを知るための資源、また地域に

暮らす高齢者の生活歴などを理解する資料や情報が蓄積されています」とあり、「これらの施設は、地域をより理解し、またそこに暮らす高齢者の生活歴などを知るための情報源となり、さらに回想法を活用する際、懐かしさや記憶を引き出す有効な資源として利用できます」としている。

11) 北名古屋市歴史民俗資料館では、昭和30年代の資料を中心に展示し、「おでかけ回想法」と称した高齢者の見学受け入れや、回想法キットの貸出しなどに取り組んでいる。北名古屋市歴史民俗資料館 HP http://www.city.kitanagoya.lg.jp/rekimin/index.php。なお、北名古屋市では合併前の旧師勝町時代の2002年(平成14)より、回想法を日本で初めて地域の中に取り入れ「地域回想法」として介護予防、認知症予防や地域づくりを目的に「思い出ふれあい事業」として実施している。北名古屋市歴史民俗資料館と連携しながら、回想法スクールの実施、回想法キットの貸出し、小冊子やビデオの作成など、その事業は多岐にわたる。北名古屋市 HP http://www.city.kitanagoya.lg.jp/fukushi/3000067.php。

12) 前掲 9 )書では、江戸東京博物館(東京都)、亀岡市文化資料館(京都府)、東近江市能登川博物館(滋賀県)、飛騨の山樵館(岐阜県)、日本大正村(岐阜県)など、図書館として斐川町図書館(島根県、現いずも市立ひかわ図書館)などが紹介されている。信江啓子「民俗資料の活きる道-博福連携事業「いきいき講座」の実践」(『博物館研究』第48巻第4号、2013年、日本博物館協会)では、岡山県立博物館の取組みが報告され、その中では三田ふるさと学習館(兵庫県)や熊本市立熊本博物館(熊本県)も紹介されている。小谷超「博物館が行う「地域回想法」~博物館の新たな取り組み~」(2014年、富山県博物館協会 HP http://museums.toyamaken.jp/documents/documents021/)では、氷見市立博物館(富山県)の取組みが報告されている。県内では県立歴史博物館が、常設展「昭和のくらし」で昭和30年代から40年代の生活のようすを再現している他、昭和をテーマにした企画展示を開催している(瓜生由起「「昭和の子どもたち~あのころの学校物語」を振りかえって-「思い出カード」の反響を中心に-」、『Museum Style』Vol.3、2005年、福井県立歴史博物館)。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

    当館でもこれまで展示の際に、来館者の思い出を書いてもらって掲示したり、思い出を語る会を開いたりした取組みがある。特に2008年(平成20) 5 月月替展示「だるま屋少女歌劇-プログラムとブロマイド-」での取組みは『文書館だより』12(2008年、福井県文書館)で報告されている。

13) 県広報写真についての詳細は、拙稿「県広報写真の整理と利用」参照(『福井県文書館研究紀要』 9 、2012年、福井県文書館)。

14) 当館での写真を中心にした展示では、思い出を書いてもらい掲示する取組みを実施している。職員に写真パネルの前で思い出話を語っていく来館者も多い(前掲13)論文参照)。山口市立秋穂図書館では、写真による地域回想法を実践している(原田洋子「図書館を拠点にしたまちづくり-山口市秋穂における古写真による地域回想法の実践に基づく「地域のこし・地域おこし」-」『図書館学』第100号、2012年、西日本図書館学会)。

15) 越前市の自治振興会とは、地域自治を推進するため、地区の市民等により組織された団体である。小学校を中心とした市内17地区を単位とし、地区内の意見や課題を幅広く収集し、地区民の総意を持って事業の検討や地域自治振興(まちづくり)計画の策定を行う他、地域自治振興計画に基づいて事業を実施する主体的な役割を担っている。越前市 HP http://www.city.echizen.lg.jp/office/130/030/chiikijichi1.html。

16) 2012年度(平成24)には、県内の公益社団法人のテレビ CM で、当館の県広報写真放映の申込みがあった。CMのキャッチコピーが「元気だそっさ!福井!」(「元気だそっさ」は福井弁で「元気出そうよ」の意味)で、1968年(昭和43)に開催された福井国体のテーマソングを BGM に、昭和の県内の懐かしい風景が流されるものである。回想法の手法を用いた制作なので、併せて紹介したい。

17) 展示パネルとは、当館で行われる展示のために作成したパネルのことで、2008年(平成20) 4 月より「福井県文書館における展示パネルの管理要領」を施行し、利用促進を図っている。施行当初の「福井県文書館における展示パネルの管理要領」第 4 条では、「貸出しについては、福井県文書館における文書等の貸出し要領(平成19年4 月 1 日施行)第 3 条から第 7 条までを準用する。ただし、これらの条中文書等とあるのは展示パネルと読替える。」と定めている。そのため、原本資料の貸出しと同じ扱いがされ、複製シートについてもこの条項が準用された。

18) 改正された「福井県文書館における展示パネルの管理要領」第4条(貸出し)の条文は以下の通り。  第 4 条  文書館長は、他の公文書館または図書館、博物館、公民館、学校、官公署その他館長が適当と認める団

体から展示パネルの貸出しの申出があったときは、期間を定めて貸出すことができる。     2   前項の規定により展示パネルの貸出しを受けようとする者は、展示パネル等資料貸出し申込書(様式第

2 号)を館長に提出し、その承認を受けなければならない。19) 2012年(平成24) 4 月、当館は県立図書館と統合したため、この時の手続方法改正の検討にあたっては足並みを

そろえた。20) 「文書館だより」は、年 1 回発行で(2011年度(平成23)までは年 2 回)A4カラー刷り 8 ページ。館内・併設

する県立図書館に配備する他、関係機関、県内中・高校、県内公民館、資料所蔵者などに配布。「文書館ふくい」は毎月 1 回発行で A 4 両面刷り(表のみカラー)。館内や県立図書館に配備する他、県内市町図書館や大学図書館、福井市内公民館に配布。県内小中高校・特別支援学校にはメール配布している。なお、配付の際、前述のすごろくや地図・写真の利用チラシを随時添付している。既刊は当館 HP に掲載。http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=148。

21)展示の詳細は当館 HP 参照。http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=149。22)当館 HP http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=493。23) 2014年(平成26) 2 月に検索システムが新しくなり、資料の詳細ページから資料画像を閲覧できるようになった。

現在、寄贈資料を中心に、目録件数約26,000件、カラー画像約24万点の閲覧が可能である。(14年12月末現在)。

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寛政元年の本願寺法如越前下向

資料紹介

寛政元年の本願寺法如越前下向

宇佐美 雅樹*

はじめに

1.「御門跡様御下向 全」(「下向記」)について

2 .「下向記」にみえる法如越前下向

3 . 3 資料からみた下向実現のための交渉

4 .法如越前下向の一考察

おわりに

 はじめに

 江戸時代、法如以前の西本願寺歴代法主(門跡)が大坂・堺・河内の各掛所以外に下向した例は合

計 7 回と少なく、そのうち畿内は 5 回(大和 3 回、和泉 2 回)で、残りの 2 回は慶長 7 年(1602)10

月の准如越前下向と、寛政元年(1789) 6 月から翌閏 6 月にかけての法如越前下向である1)。寛政元

年の法如越前下向は、本願寺法主の下向としては江戸時代初期の准如以来であり、しかも天明の大飢

饉の余波が残るなか実施された、きわめて異例の出来事であった。下向は、連枝・坊官・家司・堂

達・京大坂講中ら500余人が従う大規模なものであったという2)。

 なぜこの年に法如が越前に下向したのかは、必ずしも明らかでない。しかしこの点は、この出来事

の歴史的位置づけに関わることであるので、寛政元年の下向先となる福井御坊が再建されていく経緯

をみておこう。

 越前福井御坊は、明和 8 年(1771) 3 月の福井城下大火で焼失した。その後法如は、同年 8 月には

御坊所再興募縁(募財)の消息を下付している。その後安永 9 年(1780) 9 月、福井御坊の再建がな

り、遷仏が行われた。天明 5 年(1785)には「三領在町同行中」と申合わせ、行き届いていない「御

修復厳飾」つまり御坊の造作・荘厳をさらに整えるため、本願寺学林の能のう

化け

であった功存3)が法如

御書の下付を「大願」「甚重キ御事」として願い(本願寺史料集成『越前国諸記 一』同年 2 月 2 日

付本願寺坊官宛平乗寺功存願書)、同年 6 月に御書が下付されているのである。このような経緯から、

寛政元年の法如下向は、福井御坊再建の経緯と強く関連していると考えられ、寛政元年法如の越前下

向は、第一義的には、越前真宗西派によりみごとに再興された福井御坊を訪れるという意味合いが強

かったと考えられる。

 では次に、法如下向を実現させた要因は何だろうか。前にみたように功存は、御坊の造作・荘厳を

*福井県文書館主任

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

さらに整えるため、越前各地の同行集団(「三領在町同行中」)と申合わせている。また、安永 9 年以

降天明年間にかけて、能化功存は、法如や新御所様(文如)の「御書」を携え、さかんに越前国内

各地を巡在し、冥加金や多額の御用金の「勧進」を行っている(『越前国諸記 一』)4)。このように、

能化功存は、越前各地の講中・同行集団と密接につながり、本山や福井御坊に経済的支援を行ってい

る。また、天明 8 年 6 月、法如は功存に、越前下向の意を最初にかつ直接伝えた(同前)。それは功

存が、前述のように、経済的に負担能力を持つ越前各地の講中・同行集団5)と結びついていたからで

あると考える。このような越前真宗西派の状況が、法如越前下向を実現させた一要因であろう。

 さて越前下向は、前述のような盛儀であったにもかかわらず、管見のところ、越前に残されている

関連資料は必ずしも多くはなく、法如下向を断片的にしか窺い得ないものがほとんどである6)。ただ、

寛政元年の法如越前下向を分析しその歴史的な意義を見出すことは、のちの享和から文化年間に大き

く展開する越前における三業惑乱の研究、ひいては近世越前真宗史研究の上で有益である7)。

 本稿は、法如越前下向の比較的まとまった記録資料として、「御門跡様御下向 全」(福井県文書館

資料群番号 I0135常興寺文書、資料番号 00012)をもとに、寛政元年の法如越前下向を紹介するとと

もに若干の考察を加え、近世越前真宗史研究の基礎作業としたい。なお、法如が越前に下向した寛政

元年 6 月から閏 6 月は、道中の近江や越前で大洪水が起こり8)、法如一行も往路道中の近江で 8 日間

の逗留を余儀なくされたほか、越前でも逗留は21日間に及んだ。本資料は、この長期逗留を招いた洪

水の状況についても大野郡内を中心に詳述しており、江戸期の越前災害史研究の上でも一定の価値が

ある。

 1.「御門跡様御下向 全」(「下向記」)について

 法如越前下向の記録である「御門跡様御下向 全」(以下「下向記」と略記)は、大野市伏石の浄

土真宗本願寺派常興寺9)に所蔵される冊子体の資料である。表紙を含む墨付きは16枚で、一丁目表

(表紙)には外題「御門跡様御下向 全」が書かれている。奥書はなく、資料の成立年は記されてい

ない。

 「下向記」の表紙には、外題とともに常興寺の山号「塩原」が記されており、二丁目表には「御門

跡様御下向略記」と内題が付されている。内題下の「のど」の綴じ

目部分に印(印文不明。「塩原山」か)が押されているが、一丁目

裏(表紙裏)に印影はなく、表紙はのちに補われたものであること

が推察される(写真1)。ただ、寛政元年の大野郡の法中の動向や

同年の洪水における大野郡を中心とした被害状況、池田川(足羽川

上流をさす)での水難事故に関する詳しい記事があることなど内容

面から判断すると、本資料は常興寺住持が記録し、一貫して常興寺

に伝えられたものと考えるのが自然であろう。

 「下向記」には、「跡ヨリ書入ヘシ」( 6 月26日記)、「行列書若御

坊所ニアラハ後日ニ借受書入ヘシ」(閏 6 月14日記)などと、後日

の補記を要する旨の注記が 6 か所あり、一部で記事の月日付が前後 写真 1 「下向記」一丁目~二丁目

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寛政元年の本願寺法如越前下向

しているところもあることから、逐次記録していったものではなく、諸資料を後でまとめ直したこと

が窺える。また、後代の参考とするためか、末寺住持や新発意が支出する両門跡や坊官等への「御年

頭」「御剃刀料」等の諸負担、法会の次第、法会のさいの出仕者や衣体などを詳記するほか、下向ま

での越前側の諸準備、法如越前逗留中の動静、越前真宗西派の寺院(法中)や門徒(同行・講中)の

動向、下向のさいの法会の様子、寛政元年の大雨による洪水の状況など、下向にまつわる諸事象に関

する記録性が高く、豊かな内容をもっている。越前真宗西派の視点から法如下向に関する諸事を記録

していることも特徴である。さらに「下向記」には、「御対面所御書拝聴之図」「御対面ニテ御直命御

暇乞之図」という 2 点の見取図のほか、「福井御坊白書院華会図」というべき 1 点の見取図が収めら

れており、下向時の行事における座配やしつらえを視覚的に伝えるものとなっている。

 一方、閏 6 月14日から同16日までの福井・吉崎間の往来についての記述は、福井逗留中の記述と比

較すると質量ともに乏しく、路次の法如一行の立寄り所・宿所と法如の動静が簡単に記されている。

このことから、「下向記」筆者の関心の対象が福井逗留中に偏っているということができ、このこと

は資料「下向記」の特徴として注意されるべき点である10)。

 2.「下向記」にみえる法如越前下向

 以下、部分的に資料を紹介しつつ、法如の越前下向をみていきたい。

 (1)下向決定まで

 「下向記」は、次にみるように、内題に続いて法如が越前下向を仰出されたことから書き起こし、

福井藩からの下向許可を得るために行われた、「公辺御繕(内繕)」つまり福井藩との折衝、およびそ

の結果について記録している。

(内題) 「御門跡様御下向略記」

一、 天明八年戊申年初秋ノ頃、御門跡様法如当国御下向被仰出候事、

一、 同年霜月実相寺福井御坊境内円覚寺事、当年御本山堂達ニ相成候ヲ以テ、福井公辺御繕被仰出、御坊所マテ御

指下之事、

一、 御能化平乗寺功存、小稲津光福寺簾渓等於御坊所内談之上、和田村勘右衛門并福井五器屋金右衛門・山形屋七

郎右衛門右三人之者共江相頼ミ公辺内繕之事、依之御下向之砌リ於白書院御盃頂戴御名号拝領有之候、天明九

酉六月廿七日拝領也、11)

一、 公辺ヨリ内意ニ加州山中御入湯之御達シ尤之由、左候得者公辺ニ辞退無之趣二被申候、依之実相寺加州大聖寺

迄罷越シ候事、

一、 天明九巳酉春公辺ヨリ又々内意、御入湯与申候而ハ加州山中ニ限ルヘカラス、諸国ニモ有之事ニ候得ハ、吉崎

ト申ハ当国ニ限リ候、依之思召之通リ吉崎御参詣之御達シ御尤ニ候、殊ニ御門跡様御高年之御事ニ候エハ御延

引ノ御断リ難申上候与之内意有之候、

一、 同年二月七日ヨリ寛政ト改元、三月二日公辺ヨリ御下向御請ノ御返答有之、御逗留思召ノ侭ト有之候、

 上記「下向記」の記述から、以下のことが読み取れる。

 天明 8 年初秋、法如が越前下向を仰出された。同年霜月、当年本山堂達であった実相寺が福井藩へ

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

の「御繕い」を行った。その後、能化平乗寺功存と光福寺簾渓12)らは内談し、「和田村勘右衛門并福

井五器屋金右衛門・山形屋七郎右衛門」に「公辺内繕」を依頼した13)。その後、公辺より加州山中入

湯許可の内意があり、実相寺は加州大聖寺へ赴いた。

 同 9 年(寛政元年)春、再び公辺より内意を受けた結果、下向を越前に限ることとなり、法如の吉

崎参詣が認められた。また法如は御高年であるので、日程の御延引の御断り申し上げ難し(つまり下

向の日程を認める)とする内意があった。

 寛政元年 3 月 2 日、公辺より御下向御請の御返答があり、御下向について「御逗留思召ノ侭」と、

越前下向の正式な許可を受けた。

 (2)法中・同行への連絡

 同年 3 月 8 日、福井御坊所から「御門跡様当夏中ニ御下向」のため、 3 月12日・13日両日の内に出

坊すべきことを伝える触状が法中に廻達され14)、出坊したさいに、越前下向は「御門跡様三十年来御

念願」であったが、公辺首尾能くあい調い、 6 月上旬に下向されることになったので、大慶と存ずべ

きことを福井御坊輪番から仰渡された。

 同月13日、南専寺(民部卿賢明)が出坊の節、輪番から「法中示談之上御坊所御繕御普請等御入用

御奉加之儀御為、宜敷御馳走」を依頼される。

 同月15日、浄勝寺が出坊の節、右之趣を依頼されたところ、村々の頭立同行を御坊所へ招くべき由

を浄勝寺が主張したので、大野町在・富田郷村々へ27日・28日の内出坊致すべきよう御触れがあった。

しかるところ、触が廻達されない村もあるなかで 3 月晦日の頃、輪番所から村々同行へ宛てられた書

状が浄勝寺に 2 通届いたが、それは南専寺と浄勝寺の 2 か寺が巡在(触を通達すること)するための

触であった。

 ところが、翌 4 月17日の夜の大野町の大火によりかれこれ延引となり、 2 か寺では御奉加巡在が難

しいことを南専寺が御坊所に伝えた。そこで、無住の応行寺、半焼した教願寺、類焼した光明寺・円

和寺の四か寺を除く大野惣法中12か寺に奉加巡在を依頼し、そのため 5 月12日に浄勝寺において会合

するべき旨の書状が届けられた。そこで大野惣法中は相談の上、巡在の割り当てを決定した(下記)。

坂谷郷 常興寺巡在、 冨田郷并穴馬西之谷山中 南専寺巡在、 御給村・東山村・今井村・五条方村・野中村・

平沢村・開発村・稲郷村 長勝寺・善勝寺巡在、 木本村・三据・猪之嶋村・下ノ口村・森山村・医王寺村 専福

寺巡在、 阿戸祖村・上舌村・下舌村・飯峯村・鍬掛村・右近次郎村・篠倉村・金塚村・野口村・横町・荒井村・

中野両村 浄勝寺巡在、 森政村・北御門村・吉村・菖蒲池村・中村・中之方村・友江村・堂本村・中挟村・横枕

村・新在家村 最勝寺巡在、 中津川村・大田村・大矢戸村・庄林村・下荒井村 誓念寺巡在、 西犬山村・丁三

村 唯教寺巡在 矢村・大門村 正善寺巡在、

 〆十ケ寺 願了寺ハ老僧死去故除ク、真乗寺ハ病気故除ク、

  5 月13日には上ノ庄同行が御給専福寺に招かれ、長勝寺・南専寺から巡在を依頼された。また、 5

月14日には大野下在同行が唯教寺に招かれ、浄勝寺等から巡在を依頼されたが、そのさい村々同行衆

中宛ての御坊輪番書状が示された。書状は、法如が当夏中加越御旧跡御拝礼のため下向すること、御

繕御普請等にひとしお出精するよう奉加を依頼するものの、時節柄諸公辺へ対し斟酌し、事静かに懇

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寛政元年の本願寺法如越前下向

志を運ぶべきことを伝えた。

  6 月 3 日、福井城下の西蓮寺を会所に定め、「国中法中」の寄合が行われた。

 (3)法如一行の京都発輿と近江長沢逗留

 法如下向の日程は、 6 月13日に京都から発輿、同月20日に到着の予定であった。ところが、同月15

日からの大雨で16日に近江長棹(長沢)に着いたものの道などが損じたため、同月23日まで長棹福伝

寺(長沢福田寺)15)に逗留した。

 同月19日、今立郡正立寺・真勝寺が余間中惣代の御機嫌伺いのため長沢に赴き、「水御逗留ノ御見

舞」として余間中が法如へ金五百疋、随伴する河内国顕証寺(法如出身寺院)へ金百疋、三家老(下

間大弐法橋、嶋田讃岐守、嶋田大和守)へ金百疋を進上した。このように余間中が一番にご機嫌伺い

に馳せ参じたことに法如は御満悦の意を示し、余間中惣代らは「御賞美」に預かったところ、嶋田讃

岐守は「後見并ニ講中コソハ早速御機嫌窺ニ可参処、貴寺方早速一番ニ被参候事甚タ神妙」と述べ余

間中を賞した16)。

 同月23日、逗留していた法如一行は近江長沢を発ち、24日には越前今庄の脇本陣に泊まり、25日に

は府中に入り、法如は陽願寺、顕証寺は養徳寺に分宿した。26日には鳥羽万法寺で中飯をとり、荒井

善吉宅で小休した。

 (4)池田川での水難事故

  6 月24日、福井に赴くため羽生街道を往来してい

た大野円和寺住持、上据最勝寺次男義乗、下しも

丁ようろ

村教

覚寺新発意智照の 3 人は、池田川(足羽川)の前場

村(足羽郡前波村)天神淵において水難事故に遭っ

た。炎暑のため義乗が水浴をしていたところ淵に巻

き込まれ、円和寺と智照が救助しようとしたが、 3

人とも水死した。その後 3 人はそれぞれ荼毘に付さ

れることになったが、鯖江藩領大庄屋の木本村弥惣

右衛門は、役人の検死を受けなければ最勝寺義乗の

葬式ができないと主張したため、葬式が大幅に遅れ

た(写真2)。

 (5)福井御坊での動静

  6 月26日 7 つ時、法如一行は福井御坊に到着した。その「御待受」として、越前惣法中は直じき

綴とつ

に輪

袈裟を着し、一行を迎えた。26日、一行は、法如のほか、顕証寺、下間大弐法橋、嶋田讃岐守、嶋田

大和守、堂達 7 か寺、奏者、医官畑柳敬17)、松井中務、御賄方、医師、御絵所であり、福井御坊周辺

の興宗寺、照護寺など末寺や平泉寺玄成院下屋敷などに分宿した。

 同月27日朝、越中勝興寺(越中随一の大坊である古国府勝興寺)が神明町浅谷屋から出宿した。

写真 2 「下向記」六月二十四~二十六日記

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

その後の法会で門跡や顕証寺が不参のさいには、法会の調ちょうしょう

声は越中勝興寺が務めた。また次に示すよ

うに、この日の逮夜前には越前・加賀・能登・越中の「三官」(院家・内陣・余間の寺格を有する寺

院)の「御年頭御礼」が行われた(下記)。

一、 廿七日御逮夜前御年頭御礼一番ニ三官 正受寺、本向寺、能州松波松岡寺、照恩寺、陽願寺、真宗寺、専光寺、

照護寺、本覚寺、平乗寺民部卿、興宗寺、浄因寺、越中富山願生寺、興源寺、円福寺、加州金沢勝縁寺、同勅

使願成寺、越中称念寺治部卿、加州大聖寺ノ専称寺新発知、打越証光寺新発知、正立寺、明善寺、常興寺、光

福寺、了勝寺、勝縁寺、真勝寺、南専寺、受法寺、浄勝寺、浄光寺、教順寺、厳教寺、昌蔵寺、円成寺、正法

寺、受徳寺中将、南専寺民部卿、明善寺治部卿、長慶寺、長勝寺、西蓮寺、浄応寺、了勝寺侍従、光福寺宰相、

常興寺式部卿、勝縁寺治部卿、正立寺刑部卿、瑞応寺、慶崇寺、教覚寺、養徳寺、真勝寺宮内卿、演仙寺、光

明寺、西光寺、教覚寺式部卿、尊光寺、千福寺、昌蔵寺大輔、本専寺、専福寺、善蓮寺、

  平乗寺ハ上京ノ節御年頭相済申候、西光寺ハ大変ノ儀故出勤無之候、興行寺ハ上京ノ節御年頭相済申候、常興寺

ハ病気故晦日御礼、南専寺ハ病気故不参、尊光寺ハ公用故廿九日御礼、越中称念寺ハ京都ニテ御礼相済、

 御年頭献上の額について、住持の場合は両門跡(法如と新門跡文如)へ銀 5 匁ずつ、下間ら三家老

に銀 2 匁ずつ、虎の間役人 2 人に銀 1 匁ずつ、家老取次 1 人に銀 1 匁、虎の間下役人 2 人に銀 5 分ず

つであった。新発意の場合は両門跡へ銀 3 匁ずつで、役人中へは住持分と同様であった。

 同月27日の逮夜法要は、年頭礼の装束(指貫・素そ

絹けん

・五条)で、年頭礼が済んだ法中は素絹・五条

の装束でそれぞれ出勤し、顕証寺の調声で正信偈六首引を勤めた。正信偈のあと門跡は退出した。ま

たこの日、下向実現のための「公辺内繕」を行った 3 名の福井御坊御勘定同行18)(和田村勘右衛門・

福井五器屋金右衛門・山形屋七郎右衛門)は白書院で御盃を頂戴し、「御名号」を拝領した。

 同月28日の晨朝・日中を経て、29日から閏 6 月朔日にかけて福井御坊で法事が執行され、専修寺ら

の法談(法話)が催された19)。法事の荘しょう

厳ごん

として蓮如と前法主湛如(本願寺16世)の御影が掛けられ

た。また、28日より「在家御お

剃かみそり

刀」(門徒の剃髪式)が行われ、一人当たり礼金は 2 両であった。他

に御盃料として福井札で 3 匁 9 分を要した。晦日には、三官と坊

守分の「御剃刀」も行われ、一人当たり礼金 2 両と御冥加として

2 朱(仲間中の定めによる)を要した20)。

 閏 6 月朔日には対面所で御書披露が行われることになり、惣法

中に拝聴が仰せ付けられた。披露前に嶋田讃岐守が書付を以て演

説を行い、専修寺が御書披露を行った。また同月 2 日には上壇床

に本尊を掛け、専修寺の法談のあと「御書」の披露があり、「相

残候法中」と同行が拝聴した(「下向記」所収「御対面所御書拝

聴之図」(写真3)によると、三官以下の法中のほか、本山学林

の所化、同行も御相伴で御書を拝聴)。

 同月 2 日以降、法如は「毎晨朝御不参」となり、顕証寺も

「瘧おこり

」のため同日から不参となった。また、毎朝本山堂達による

法談も行われた。

写真 3 「下向記」御対面所御書拝聴之図

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寛政元年の本願寺法如越前下向

 (6)寛政元年閏6月の洪水

 閏 6 月 3 日に予定された法如の吉崎参詣に先立ち、蓮如御影が前日 2 日に吉崎に到着した。ところ

が 3 日の吉崎参詣は雨天につき延引となり、さらに 5 日より大洪水となり道中の九頭竜川にあった舟

橋は流されてしまい、一行は福井逗留を余儀なくされた。そこで翌日、川南余間中は福井片町夷屋で

誂えた御機嫌伺いのための菓子を法如に献上し、「三十ケ寺」および新発意・坊守・舎弟共娘まで志

次第に冥加金を献上した。

 その後 6 日朝から 8 日 4 つ時まで大洪水となり、「御坊御玄関先マデ込上、御門内膝切リ、町家水

漬数ヲ不知、准テ可知」という状況であった。また、福井から大野郡にかけて水害が多発した(下記)。

 附リ

九頭竜川ノ様子、石徹白川大水、打波川大水、金山村ノ山少々崩レ、クツケ上ニハゝ一丈斗ニ五十間斗ノヱギレト

有リ、水ヲ吹キ出シ田美塚川大水ニテ川筋蓑道村水損堂嶌村、栃ケ嶋村田所ヘ切レ込ミ大損シ水漬家アリ、唐谷川

大水ニテ川筋水損橋悉ク落ル、萩ケ野村田所流レ尾波川大水橋悉ク落ル、猪之口村ヨリ若猪野村三昧下ヘ切レ込ミ

田所損ジ、三谷村山崩レ家埋レ家内六人即死、勝山家中江水押込御堀リ町□切レ町家水漬、浄土寺川大水橋悉ク落

ル、川並水損野津又村山崩レ皿川大水水損夥シ、松ケ崎村前大川付寄リ川除大道田所等欠ル、明金嶌村田所悉クナ

カレ、岩屋川大水ニテ伊地知村田所悉ク砂入、志比ノ庄北嶋村ヘ大川切レ込ミ家三軒流レ、野中村大道ノ処へ川流

レ家三軒斗リ流レ、飯嶌村前サイ川ノ淵ノ処ヘ大川悉ク落込、飯嶌村川北ニ成リ、松岡下比丘尼塚川少々切レ二三

日モ往来留ル、渡リ村家土蔵一村悉ク流ル、

一、 池田川筋東郷駅ノ下毘沙門ニテ切込家三軒斗流レ、

一、 真名川筋嵐嶋山鬼谷ノ奥瀧之谷山先年ヨリ少々ツゝ崩レ候処此度大ヌケ、石砂夥敷ハセ出シ掘金先年ヨリ切込

候処此度又々悉ク切レ込ミ、今井・西山・野中・稲郷悉ク水押込、水下ヘリ川エ落ル、ヘリ川筋水損、

 同月 8 日、法中仲間より西瓜を献上することとなり、長慶寺が調達することになったが、「一向水

漬」の状態であった。それでも探し求めたところ、「タチヤ」(福井城下立屋町)で水漬を免れた畑が

2 枚あり、受法寺が調達した 2 つと合わせ、ようやく計13個の西瓜を求めることができた。

 (7)愛宕山登山一件

 同月 9 日、法如が城下西側の愛宕山に登り、茶屋「市太夫」で食事をするという噂が立った。それ

は前日、洪水のため吉崎参詣が叶わない法如が輪番と実相寺を招き、「気ヲ被転候場所遊参所等ハ無

之候哉」と尋ねたところ、両名は遊参所として城下を一望できる愛宕山がある旨を返答し、「物喰候

処ハ無之哉」と重ねて問うたところ、賤しき茶屋が 5 、 6 軒あると返答したことから、両名は急遽愛

宕山登山を催すよう仰せ付けられたからであった。

 これに対し「後見并肝煎同行」「余間中」「講中」らは、法如が「市太夫」へ赴くことに強く反対し、

「最初御案内申候人甚タ不届ニ候、御輪番重々ノ不調法ニ候」と役方を責め、「市太夫江御下リノ義

御指留可申候由」を申し入れた。その後、同行 2 、30人らが市太夫に赴いたところ、御坊所から諸道

具を指し遣わしてあり、「表ニハ御紋付ノ幕打テ、内ニハ銚子ノ幔幕等張リ茶器等相荘リ、美々敷拵

有之」と、既に法如を迎える準備が整っていた。そこで講中より申し立て、幕等を引かせ、「若是非

御下リ被遊候ハゝ御機嫌ニ相障リ候義ヲ無構、御輿ヲ押カヤシ可申心底」で市太夫に詰めた。結果的

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

に市太夫への御下りは中止となり、照源院(愛宕神社の別当松玄院か)にのみ訪れて帰ることになっ

た。

 (8)福井御坊における「華会」と講中による「餅ノ曲ツキ」

 同月 9 日晨朝後、輪番は了勝寺に、法如が「御鬱労」の様子であり、法如の御気を転じるにはどう

したらよいか相談したところ、了勝寺は生華しか思いつかないことを申し上げた。すると輪番は、明

日10日に白書院において、華会の形式で生華を仰せ付けるので、仲間より相談の上趣向するよう依頼

した。これに対し了勝寺は「格別華仕候者無之、不調法可有之」と述べ難色を示したが、輪番は是非

趣向してほしいと願うので、この日会所の西蓮寺で仲間示談の上、翌10日に生華を献上することとな

った。

 同月10日 9 つ時、御坊白書院において仲間中より生華を献上し、法如は「甚タ御意」に入り、世話

役の了勝寺・長慶寺・西蓮寺は菓子(松風)を拝領した。また、夜には白書院を明け放すので生華の

花形が風にて損じてしまうことを坊官川那辺勘解由が心配し、四季咲きの山吹を差し上げるように申

されたので、 3 か寺は山吹と蘭を活けて献上した(下記は華会関連記事)。

花師 了勝寺、同侍従、同次男大蔵卿、長慶寺、西蓮寺、本専寺、花手伝大泉寺浄土宗ニテ花ノ宗匠、大村氏侍、

又侍一人名失念、御堂前紅屋、室町野村屋、松本立町稲津屋 右花師

出殿之人 光福寺、正立寺 諸色取持 敬覚寺、南専寺民部卿

従御坊所為中食結喰ムスヒメシ・煮染ニシメ・酒肴二種被下候、晩方花下ケ候節輪番拝見、相詰候仲間并講中等拝

見有之、花下ケ候テ後チ御酒肴二種御坊ヨリ被下候、夫ヨリ拝領ノ松風出殿ノ人数江配分致候、

 華会のあったこの日には、「同行ヨリ願ニ依テ」御対面所で御書の披露も行われた。

 翌11日には法縁寺が立花を献上し、12日には白書院縁先で講中が「餅ノ曲ツキ」を披露した。講中

の装束は「板〆ノ紅サラシノジバン(板締めの紅晒の襦袢)、紫絹ノ襷、モミノハチマキ(紅絹の鉢

巻)」というものであり、法如の御意に入った21)。

 (9)吉崎下向・参詣

 閏 6 月13日 4 つ時、後見中は千福寺を呼寄せ、明日14日吉崎御参詣、16日福井還御、17日御発輿と

いう日程が急に決まったことを伝え、今日 7 つ時に三官の「御暇乞ノ御目見」が仰出されたので、こ

のことを仲間中へ申し達するよう伝えた。千福寺は即刻これを会所に伝え、会所より町内の各宿所へ

飛脚を廻した。その後、「御暇乞ノ御目見」は、飛檐中からの願により三官のみ白書院で行うのはや

め、御対面所で「惣法中」として行うこととなった。そのさいの「御直命之趣」は次の通りであった。

今度ハ不思寄逗留ニテ各々心配ニ有フ、夫ニ付弥法義相続セラレ安心ノ義ハ銘々之一大事ニ候エハ、五帖一部ノ消

息・改悔文之趣能々聴聞セラレ、心得違無之様ニ末々マテ教化セラルヘシ、猶委キ義ハ役人共ヨリ申聞ケルデ有フ、

 翌14日の卯の刻半、吉崎参詣に赴く一行の行列は大谷御参詣の如くであった。晨朝後居合わせた法

中が藤屋出店のところで一行を見送った。吉崎に向かう道中の舟橋は洪水で流されてしまっていたた

め、一行は中角舟渡を利用し、森田厳教寺で昼食、金津教順寺に宿泊した。

 翌15日、吉崎に到着し御書披露があり、またこの日、法如は次の歌を詠んだ。

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寛政元年の本願寺法如越前下向

コガレヨル越ノ吉崎浦船ニ 乗リ得テ身ニモアマル嬉シサ22)

 同日、一行は金津明善寺に宿泊する予定であったが、吉崎で一夜を過ごし、翌16日早朝明善寺へ入

りそこで朝食を召上った。その後、森田浄因寺で昼食をとり、 7 つ時に福井御坊へ還御となった。

 (10)法如御発輿(福井出立)

 同月17日寅半刻に御発輿と仰出されたものの、 5 つ時ようやく御発輿の運びとなった。今度も御着

の時のように門内で御見立(見送り)をするよう輪番所から通達されたが、以前の御着の節、三官以

下惣坊主まで残らず門内で法如を迎えたさい混乱を招いたことから、今度は混乱なきよう、長慶寺か

ら後見中に既に17日朝申し入れがあった。そこで三官については、御対面所で御暇乞をするよう仰出

された。御発輿がさらに遅れるなか、仲間中は府中まで、近辺の者は歩いて見送ることが決まってい

たため、その支度のため皆々旅宿へ帰り、「遠方或ハ親子有之分或ハ病身福井ニテ御暇之分斗」御対

面所に詰めた(下記および写真4は法如御発輿の様子と「御対面ニテ御直命御暇乞之図」)。

御所様御出立ノ節御堂御拝有テ、御対面所正面ノ

サヤニテ御輿ニ被召候、其節三官ノ分エ御直命有

之候、後ニ是ヲ記ス、証興寺(勝興寺)殿御居間

ニテ御暇乞、御対面所ニテ御見立、御輿ニ被召候

テ御輿ノソバニテ無言ニテ御礼有之候、三官ノ分

御輿カキオロシ候テヨリ中門ギハマテ見送リ、夫

ヨリ白ラスヘマハリ、御門外マテ御輿ニ指添見送

リ、門ギハニテ讃岐守・大和守両人江近( ママ)

ニ中腰ニ

テ暇乞、夫ヨリ脇道江ソレ先ニ立木田マテ罷越、

木田ニテ御暇申上罷帰候、

 法如は御堂に拝礼したのち、御対面所正面

の鞘の間で輿に乗った。そのさい、三官に

「御直命」が下された。越中勝興寺は居間で暇乞いをし、御対面所で法如を見送った。そのさい法如

は輿に勝興寺を召し、輿の傍で無言で御礼があった。三官は、輿が対面所から舁き降ろされてから中

門際まで見送り、さらに白洲へまわり門外まで付き添って見送った。(常興寺は)門際で嶋田讃岐守・

嶋田大和守に中腰で暇乞いをし、それから脇道をそれて先回りをして木田まで行き、そこで御暇を申

し上げて帰った23)。

 以上が「下向記」のあらましであるが、「下向記」の巻末には法如出立のさいの「御直命」と「御

対面ニテ御直命御暇乞之図」が記されている。

御出立ノ御直命 段々法義モ繁昌ニテ喜フ、猶無由断教化セラルヘシ、此度ハ長逗留之内始終被相詰、皆ナ草臥テ

有フ、

 「御対面ニテ御直命御暇乞之図」には、越前三官中のほか、福井肝煎同行も示されている。また、

図には「御直命ノ節各々感涙」とあり、法如のねぎらいの言葉に一同が感涙する場面がしのばれる。

写真 4 「下向記」閏六月十七日記「御対面ニテ御直命御暇乞之図」

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 3.法如越前下向の一考察

 (1) 3資料からみた下向実現のための交渉

 ここでは、法如下向実現のための交渉(公辺内繕)をテーマとし、①越葵文庫「家譜」、②『越前

国諸記 一』(以下『諸記』と略記)、③「下向記」の 3 資料における記録内容の差異について簡単に

考察する。

 藩庁記録である越葵文庫「家譜 松平重富」寛政元年 3 月 4 日条24)によると、法如越前下向は寛

政元年下向以前にも計画があったものの、そのさいは「城下大火之砌」25)であったので、福井藩か

ら下向許可が下りなかったことがわかる。また同資料には、「近来在方打続凶作等ニ而難儀之趣も御

座候付、又候被及御断」とあり、福井藩は当初、寛政元年下向についても許可しなかった。しかし、

越前下向は高齢の法如の「御志願」であり「至而省略ニ而福井町在共ニ不致難儀様」取り計らうので

下向を許可するよう本山が申し入れたので、最終的に許可を出したとある。ここで注意したいのは、

「家譜」では福井藩と本山間の交渉しか窺うことができない点である。

 一方、本願寺の記録である『諸記』によると、法如は下向の前年の天明 8 年 6 月26日に越前下向の

意を能化功存に直接伝えたことがわかる26)。また、その実現のため本山坊官は、同年11月、功存、後

見衆(真宗寺・照護寺)、御坊輪番乗念寺、福井御坊役僧円覚寺が「示談」の上福井藩との交渉(公

辺内繕)を成功させるよう求めた27)。このように、『諸記』からは、福井藩との交渉に関わるべきと

本山で認識され、実際に本山から依頼されていた人びとが具体的に知られる。また翌12月に御坊輪番

乗念寺、福井御坊役僧円覚寺が本願寺坊官に宛てた書状によると、法如の寿像の御下向さえも不許可

となる状況下、法如の下向は「迚も相調申間敷旨ニ而、甚以六ケ敷様子」「昼夜諸役方取組罷有候共、

于今何之御沙汰も無御座」とあり28)、輪番乗念寺、福井御坊役僧円覚寺による藩との交渉は不調であ

った。

 このような厳しい状況が打開され、下向許可が下りた要因を考えるさいに、「下向記」の記述は大

いに参考になる。「下向記」は、「御能化平乗寺功存小稲津光福寺簾渓等」が内談し、福井御坊御勘定

同行である「和田村勘右衛門并福井五器屋金右衛門・山形屋七郎右衛門」に福井藩との交渉(公辺内

繕)を依頼したことを特記している。また「下向記」からは、その後法如の「加州山中御入湯」29)

を名目に交渉して藩に吉崎下向まで認めさせ、さらに法如が「御高年」であることを主張して「(下

向)延引之御断難申上」との内意を藩から得たことが窺える。このような交渉が最終的に実を結び、

寛政元年 3 月藩からの許可が下り、同年 5 月、 3 名宛にこの功績を賞する坊官連署状が発せられた。

さらに「下向記」は、法如下向時に 3 名は御盃を頂戴し、「御名号」を拝領したことも特記している。

 上記の 3 資料はそれぞれ異なる立場の人によって書かれているため、叙述の視点が異なり、記録さ

れた内容に差異が生じるのは当然である。ただ「下向記」は、藩と教団間の交渉というテーマに限っ

ても、功存・簾渓と福井御坊御勘定同行 3 名の関わりや、藩との交渉内容について記録している。同

行を含めた、当該期の越前真宗西派の内部構造を窺うことができ、興味深い。

 次に、福井御坊御勘定同行 3 名について述べる。彼らは、福井御坊所御勘定講30)の御勘定同行と

して御坊所の財政の一端を担う存在であったが、特に福井五器屋金右衛門と山形屋七郎右衛門は、と

もに江戸後期に福井藩調達金の調達や返済を行っていることは注目される31)。つまり、彼らは福井御

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寛政元年の本願寺法如越前下向

坊でも重要な役割を果たす一方、藩財政とも深くつながっていた存在であった。そのため功存・簾渓

らは、いわば藩に顔が利く彼らに、藩との交渉を依頼したといえよう。

 (2)天明・寛政期の越前の講中・同行

 「下向記」には、前述の御勘定同行以外にも、「講中」や「肝煎同行」「同行」が散見される。彼ら

は、御書拝聴や剃髪式など法如下向にともなう諸行事に参加したり、法如の慰みのために「曲ノ餅ツ

キ」を演じたりしていることなどが知られる。ただ「下向記」の史料的性格上、三官の年頭礼や法会

の次第など、法中(寺院や住持)についての記述は詳しいが、講中・同行についての詳細な記述はそ

れほど多くない。そこで、越前の講中の動向をよく伝える『諸記』から、法如下向前後における講中、

特に川北二十五日講の動向を若干紹介したい32)。

 『諸記』によれば、天明 2 年(1782)正月に、川北二十五日講は年頭礼のため初めて同行惣代 1 人

を上京させており、来年春からは「末々迄も相触、志取集上納可仕」ことを約している33)。天明の飢

饉で諸国からの本山への冥加金など上納が激減するなか、天明 4 年 9 月晦日付の本願寺坊官連署書状

は、「福井表并三国辺御門徒之面々(福井同行と川北同行)」が、福井御坊から「御本山参銭筒」を申

受けて冥加を集め、「両門跡様御感心不斜思召」であることを伝えている。なお翌10月朔日付本願寺

坊官連署書状において本山は、福井同行らに加え、川北二十五日講の野中村小島五左衛門・宮領村源

兵衛らに菓子(松風)を贈り、今後の「馳走」を依頼している34)。

 また、越前下向後帰京した法如への謝恩として、寛政元年 7 月、川北二十五日講の宮領村源兵衛や

金津米屋市郎右衛門(福井藩御用商人)が本山に金1000両を献上していることが知られる35)。

 以上のように、御用金を調達しなければならないほど本山の財政が悪化している天明・寛政期に、

川北二十五日講は、本山への経済的支援のため活発に活動している点が注目される。前述したように、

当該期は功存の越前巡在もさかんに行われており、この2点の強い関連が推測される。

 おわりに

 本稿で紹介した「下向記」は、法如越前下向を越前の法中の視点でとらえ、法如越前下向の様相の

新たな一面を知り得るものである。特に、下向時の法如の動静だけでなく、下向前後の越前真宗西派

の法中・講中・同行の動向を、略記はされているものの具体的に知ることができることから、今後、

越前真宗史研究に利用できよう。

 また、「下向記」には、例えば寛政元年(1789)閏 6 月 9 日の「愛宕山登山一件」(本稿 2( 7 )参

照)のように、実際には事件とならず、一見すると些事かと思われる出来事の記録がある。法如の愛

宕山登山のさいに茶屋市太夫へ法如が訪れることについて、後見・法中・肝煎同行・講中らは強く反

対し、もし法如が市太夫を訪れることになれば、「(法如の)御機嫌ニ相障リ候義ヲ無構、御輿ヲ押カ

ヤシ可申心底」で、つまり不退転の覚悟で訪問を阻止しようと講中らは考えた。その講中の「心底」

は、当該期の講中・門徒中のいわば「法主観」と通底しているであろう。近世宗教思想史の面からも

興味深い事例ではないかと思われる36)。

 最後に、寛政元年法如下向と享和・文化年間の越前三業惑乱との関係について簡単に述べておきた

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

い37)。「下向記」が示唆しているように、法如越前下向にともない、村むらへの触廻達、奉加のため

の巡在、各地の講における懇志の取り集め、同行らによる「御書」の聴聞が行われた。そこには多く

の法中や同行中が組織的に関わっていたことは疑いない。この法中・同行のもつ組織性は、のちに越

前三業惑乱が大きく展開する要因となったと考えられる。

 文化 2 年 4 月、能化智洞(功存の後継)が三業帰命説を自ら否定し、回心状を幕府に提出したこと

を受け、これに動揺した越前国惣同行共(越前三業派門徒)は、福井御坊輪番に「法義安心」の説明

を求める伺書を提出した。伺書には、法如越前下向のさい「御書」を実際に「聴聞」し、教化の内容

を領りょう

解げ

したなどとする逸話が 2 人分記されている。またこの 2 か月後、越前国御坊配下惣同行共は福

井藩に口上書を提出し、「別而御当国ハ余国と違」い、かつて蓮如吉崎下向だけでなく、法如越前下

向や能化功存の教化などが行われた地であることを挙げ、越前真宗西派の歴史的な特殊性を主張しつ

つ三業派への執り成しを求めている38)。寛政元年の法如越前下向という出来事は、越前三業惑乱のさ

いには、越前三業派の主張を下支えする歴史・由緒に転化したといえよう。

注1 ) 『真宗史料集成』所収「大谷本願寺通紀」による。法如(本願寺第17世。1707~1789年)は寛保3年(1743)から

寛政元年までの47年間、西本願寺法主であった。越前下向・帰京後わずか 4 か月後の寛政 7 年10月に死去している。

2 ) 本願寺史料集成『越前国諸記 一』(以下『諸記』と略記)収載の首藤善樹氏「解説」(1983年)などによる。なお『諸記』には、福井御坊・末寺・講中と本山間の往返状が留書のかたちで多数収められ、安永期から寛政期の越前真宗史の基本資料であるが、法如越前下向に関連する書状留書なども含まれている。

3 ) 平乗寺功存は明和 6 年(1769)以降本山学林の能化職を務め、法義面で法如の絶対的信任を得て、高齢の法如を法義面で支えた。功存が唱えた三業帰命説が、近世真宗西派最大かつ全国的規模の法論となる三業惑乱を招いたことはよく知られている。また、越前においても多くの門徒を含んだ三業惑乱が大規模に展開するが、功存と門徒集団との関係が注目される。

4 ) 「御書」披露のさいには、「御書」の内容に関する演説や法談を行うのが通例であり、多くの人々が功存の演説や 法談に接したと考えられる。また巡在には、僧分だけでなく、門徒衆も同道した。なお、拙稿『県史資料』第6

号(福井県総務部県史編さん課、1996年)「寛政期越前の真宗西派-石川家文書『地獄物語』の考察-」参照。5 ) 前掲拙稿において、当該期に川北二十五日講が功存に同道して奉加を集めた事例などを紹介した。6 ) 福井県内において、真宗寺院を対象とした悉皆的な調査は行われていないため、今のところ法如下向に関する資

料の残存状況については未詳である。さしあたり、福井県文書館の資料検索システム「デジタルアーカイブ」で、仮に「門跡」を検索語として資料検索を行うと28点の資料が抽出される。このうち、寛政元年の法如下向に関するものは本稿で紹介する「御門跡様御下向 全」のみである。

7 ) 『諸記』首藤善樹氏「解説」は、安永 7(1778)年から寛政 8 年にかけての越前真宗西派の動向について述べられており、本稿もこの「解説」に依るところが大きい。また、澤博勝氏「真宗寺院・道場と越前吉崎」(澤博勝氏『近世の宗教組織と地域社会-教団信仰と民間信仰-』(1999年)第Ⅲ部第二章)も法如の越前下向について言及している。「宗教的社会関係」を重視する方法論を提唱し、「宗教社会史」の構築をめざす氏の所論は大変刺激的で参考になる。澤氏は同書で、法如による越前吉崎下向が行われた寛政年間前後を画期に「本山・全国レベルでの吉崎熱」「蓮如信仰」が高揚し、それを背景に吉崎をめぐり発生した諸問題を検証し、吉崎をめぐる諸関係の構造的変容がもたらされたとする。ただ、一例を挙げるならば、氏自らが同書で吉崎をめぐる構造的変容の要因と位置付ける「蓮如信仰」「本山・全国レベルでの吉崎熱の高揚」などの事象についての検証や論拠が乏しく、ほぼ自明の前提として寛政期前後の「蓮如信仰」「本山・全国レベルでの吉崎熱の高揚」(澤氏前掲書第Ⅲ部

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寛政元年の本願寺法如越前下向

第 2 章二)というキーワードを無批判的に扱われている(当然、その上に立てられた論にも疑問が残る)。しかしそれは、氏みずからが批判されているような、「越前=真宗地帯という枠組みを自明の前提として事象を分析する手法」と同じ誤りではないだろうか。また、それらの事象を検証し実像を明らかにするには、氏の提唱される方法論による「宗教社会史」だけでは全く困難であると考える。

8 ) 越葵文庫「家譜 松平重富」(福井市立郷土歴史博物館寄託)などによる。9 ) 塩原山常興寺は、京都常楽台4代光宗の子光円が加賀国能美郡塩原村に当寺を創建したといい、はじめは東派に

属していたが、天和 3 年(1683)におこった「百か寺騒動」によって西派に改派した。所蔵資料として「本願寺証如書状」のほか、「安心亀鑑御書集」などがある。なお、福井大学図書館(高島文庫)に「百箇寺騒動略記」(常興寺 9 代教乗が文化年間に筆写したもの。大野市史資料編に収載)は当寺旧蔵資料である。福井県文書館デジタルアーカイブの「常興寺」参照。

10) この点について、「下向記」寛政元年閏6月5日記に、「川北仲間ハ吉崎御出向ニ付、(閏六月)二日帰坊」という文言がみえ、法如一行の吉崎下向に先立ち、九頭竜川より北の坂井郡を中心とする「川北仲間」が帰坊していることがわかる。このことは、福井・吉崎間における法如一行の世話方を「川北仲間」が担い、常興寺などの大野惣法中など他地域の法中は法如一行の吉崎下向に直接には関わらなかったことを示している。「下向記」内部の記述の精粗は、このような状況を反映しているものといえよう。

11) 資料中の「天明九酉」(年)は「寛政元酉」(年)の誤記である。12) 光福寺簾渓は功存の高弟で著名な学僧であり、『越前人物志』および『本願寺年表』によれば、天明 4 年(1784)

と寛政 5 年(1793)に本山学林で講義を行っている。13) 『諸記』によれば、和田村勘右衛門ら三名は福井御坊の「御勘定同行」である。なお、同書の寛政元年 5 月27日

付本願寺坊官連署書状から、「五器屋金右衛門」は「杉本金右衛門」であることが知られ、大野郡木本領家村の杉本家(五器屋・五畿屋)と何らかの関係のある人物と推定される。

14) 「下向記」には、この時の御坊所からの触状が異筆で書き留められている。15) 法如息の闡道(法寛)が入寺した院家寺院で、滋賀県米原市長沢に所在する。16) 資料中の「後見」は、は真宗寺・照護寺をさす。「後見」の由来は、江戸初期に准如が越前福井下向のさい、福

井藩主結城秀康に謁見するための登城の御供を務めたことによる。本覚寺とともに「三ケ寺衆」とも称された。『諸記』には、後見について、「(福井御坊)輪番儀者年々ニ交代仕事ニ候得者、公辺等之儀万端御頼被遊候」とあり、後見は年々交代する福井御坊輪番に代わり、公辺(藩)との交渉役を期待されていた存在であった(天明7 年11月10日付真宗寺・照護寺宛嶋田大和守書状留書)。

17) 医官畑柳敬は、「平安人物志」(天明2年版、文政5年版。国際日本文化研究センター所蔵)にその名がみえる。18) 『諸記』により、当該期の和田村勘右衛門・福井五器屋金右衛門・山形屋七郎右衛門の 3 名は、福井御坊の「御

勘定同行」であることがわかる。この 3 名については、本稿 3( 1 )を参照されたい。19) 法談を行った専修寺らは、本山堂達とみられる。法談の内容は記されていない。20) 『真宗史料集成』所収「大谷本願寺通紀」には、この時の「御剃刀」が「薙度式」としてみえ、合わせて「三百

人斗」が受式したこと知られる。21) 現在でも行われている「越前勝山左義長」では、櫓の上で太鼓を打つ成人男子が赤襦袢を着用する。「餅ノ曲ツ

キ」の詳細は不明であるが、この左義長と類似した芸能かもしれない。22) この御詠歌は、「コガレ」が掛詞となっており、船を漕ぐことと、吉崎参詣を待ち焦がれることを掛けているも

のと思われる。23) 当該部分の文意からみて、この部分の記述は「常興寺」が主語と考えるのが自然である。24) 越葵文庫「家譜 松平重富」(福井市立郷土歴史博物館寄託)寛政元年 3 月 4 日条。25) 安永4年(1775) 8 月の、福井城内三の丸櫓・町家717軒などを焼失した福井城下大火をさすものと思われる。26) 『諸記』天明 8 年 8 月11日付平乗寺宛本願寺坊官兵部卿書状留書。27) 『諸記』同年11月18日付平乗寺宛本願寺坊官兵部卿書状留書。28) 『諸記』同年12月21日付本願寺坊官宛福井御坊輪番乗念寺・役僧円覚寺書状留書。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

2 9) 文明 5 年 9 月下旬に、当時吉崎で布教を行っていた本願寺蓮如が、加賀山中に赴き湯治をしつつ門末に消息を遣わした有名な故事がある(「御文章」一帖目第十五通)。法如の加賀山中入湯の案が、藩との交渉を進めるうえである種の方便として設定された可能性はあるが、交渉の過程で提案されていたことは、法如下向の意味を考察するうえで興味深い。

30) 福井御坊御勘定講の運営には、丹生郡野田村丹尾清左衛門という人物が関わっており、『諸記』からは、天明 5年に「国中有徳之肝煎門徒四十人」を御勘定講の取組掛として選んだことがわかる。

31) 内田吉左衛門家文書(学習院大学史料館保管)の資料「勘定差引覚」(資料番号00377)などによれば、両名は近世後期、連名で今立郡の有力商人吉田吉左衛門との間で藩調達金や利金の収受を行っていることがわかる。史料的制約から両人が藩調達金の関連業務を行っていた年代は特定できないものの、当該期にも業務を担っていた可能性が高い。なお天明 7 年12月、山形屋七郎右衛門は「改悔文」の下付を願い出ている(『諸記』同年12月14日付福井御坊輪番覚留書)。

32) 越前の川北二十五日講は、蓮如の忌日二十五日にちなみその講名とした集団で、後の享和 3 年(1803)ごろには坂井郡を中心に九頭竜川以北の50か村程度の村々を地盤としていた(小島家文書など)。安永 8 年(1779)の吉崎を御坊に仕立てようとする吉崎同行の動きや、その後の吉崎を巡る動きなどにも川北二十五日講は関わっており、この講の性格が注目される。近世中後期における吉崎をめぐる動向については、澤博勝氏「真宗寺院・道場と越前吉崎」(澤博勝氏『近世の宗教組織と地域社会-教団信仰と民間信仰-』第Ⅲ部第二章)に詳しい。

33) 同日付の平乗寺(功存)宛本願寺坊官連署書状留書によれば、越前への御用金1000両の調達が功存に依頼されているが、同書状は「先達而も貴寺(功存)之御働ニ而千金被達候衆中」からも取り集め用立てるよう述べている。一方、同日付の本願寺坊官連署書状留書において川北二十五日講に馳走(経済的援助)が依頼されていることからすると、この「衆中」には川北二十五日講が含まれるとみてよい。

34) 『諸記』天明 4 年10月朔日付越前野中村小島五左衛門外二名宛本願寺坊官書状留書。35) 『真宗史料集成』所収「大谷本願寺通紀」。36) 前掲「寛政期越前の真宗西派-石川家文書『地獄物語』の考察-」参照。なお、寛政年ごろの成立とみられる

「地獄物語」は、真宗門徒としての姿や立ち居振る舞い(いわゆる「外儀」)よりも内面の「信」を問題とし、読者に真宗門徒としての「信」を強く促す教訓的な物語であり、真宗思想の面から興味深い。

37) 近年の三業惑乱研究を展望したものとして、上野大輔氏「三業惑乱研究の可能性」(『龍谷大学仏教文化研究所報』第35号所載研究ノート 1 )がある。氏は三業惑乱研究の研究史を整理するとともに、今後の研究展開の見通しについて、三業惑乱の地域的展開に関する研究や思想史的研究の必要性について述べておられ、賛同する。

38) 当然のことではあるが、「越前国惣同行共」や「越前国御坊配下惣同行共」が作成した伺書や口上書の文言を、越前真宗門徒の思想としてそのまま受け取ることはできない。しかし、当該期の越前三業派の論理の一端を窺うことができる資料である。拙稿『県史資料』第 4 号(福井県総務部県史編さん課、1994年)「三業惑乱における越前真宗門徒-その行動と論理-」参照。

〔付記〕 澤博勝氏と私は、越前という同じフィールドで互いに近接した研究分野を扱い、氏からは多くのことをご教示いただいた。越前真宗史の諸課題などについて議論したことも思い出深い。すでに逝去され、本稿に対する批判・反論の機会がない澤氏に、この場を借りて本稿での非礼を深くお詫びするとともに、御冥福をお祈りする。

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

鈴木主税の弘化四年「御用日記」

柳沢 芙美子*

はじめに

1.宮崎長円家文書における鈴木主税関係資料

2 .松平慶永付側向頭取の御用日記と草稿

3 .日記草稿に描かれた慶永のくらし

( 1 ) 慶永代の年始儀礼

( 2 ) 具足着用

( 3 ) 城下巡視・鷹狩り・乗馬

( 4 ) 「御鷹の鶴」拝領

まとめにかえて

 はじめに

 2014年10月、当館に寄贈された「御用日記」1)(写真1)は、幕末

の福井藩主松平慶永(1828~90)の側向頭取であった鈴木主税(1814

~1856)2)が記した1847年(弘化 4 )の御用日記草稿(手控)で、 1

月 1 日から、参勤交代のために江戸へ出立する前日の 3 月18日まで、

2 か月半が記されている(一部欠)。大正期の越前松平家の藩史編纂

事業の過程で筆写されながら、その後原本の所在がわからなくなって

いたものである。

 鈴木主税は、1842年(天保13)に寺社町奉行、その後側向頭取、金

津奉行等を歴任した福井藩士であり、中根靱負・浅井八百里らととも

に10代の藩主慶永の訓育補佐に尽力した人物として知られている。ペ

リー来航後の対応をめぐって、水戸藩の藤田東湖や熊本藩の長岡監物

等と親交したが、56年(安政3)に43歳で江戸において病死している3)。

 日記草稿には、有能で人望が篤かった鈴木主税の筆力と、手控えであるがゆえの自在さがあわさっ

て、20歳の青年藩主慶永と側近たちの日常が豊富なエピソードとともに描かれている。一般の関心も

高い資料であったため、さっそく当館閲覧室での小展示「若き春嶽の毎日-新発見の御用日記から

-」(2014年10月24日~12月24日)において紹介した。

*福井県文書館総括文書専門員

写真 1  鈴木主税 「御用日記」

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 この日記草稿が扱ったのは、90万両の借財をかかえた藩財政再建のために1843年(天保14)から断

行された藩札整理は一段落していたものの、なお徹底した倹約と簡素化が進められていた時期であっ

た。初入国(1843年)からいまだ日の浅かった福井での日常のなかで、慶永代の新たな儀礼や定例を

模索しようとする藩主慶永と鈴木ら側近の動きをみることができる。

 ここでは、まず 1において、鈴木の「御用日記」草稿がみつかった宮崎長たけまる

円家文書の資料群の概要

とともに、その他の鈴木主税関係資料を概観し、 2で藩庁記録である松平文庫の慶永付側向頭取日記

との比較において、この日記草稿の特徴をみてみたい。その後 3において、年始儀礼、具足着用、城

下巡視・鷹狩り・乗馬、「御鷹の鶴」拝領を取りあげ、この日記草稿がとらえた慶永のくらしをみて

いきたい。

 1.宮崎長円家文書における鈴木主税関係資料

 まず、鈴木主税の「御用日記」(資料番号00001)を含む42点からなる資料群、宮崎長円家文書(資

料群番号 A0180)の概要をみておこう。宮崎家は福井市内で代々医院を開業する医師である。資料

群は収集資料で、箱書きや資料の伝来を解説した手紙等から、ふたつの系統が考えられる。

 その一つは、中根靱負の子孫や鈴木主税の縁戚等旧福井藩士の資料が、仙石亮4)(1854-1941、工学

博士、鉱山技術者、経営者)の手をへて、その後宮崎為蔵氏(長円氏の父)のもとに伝わったもので

ある。「御用日記」のほか、鈴木主税関係資料、春嶽和歌・同漢文等である。由利公正・三条実美・

佐久間象山・緒方洪庵の書状や和歌も、入手先は不明であるが箱書きから仙石亮の手元にあったこと

がわかる資料である。

 もう一つは、戦時下に軍医でもあった宮崎為蔵氏が直接収集した1937年(昭和12)の南京占領の際

の「突入決死隊」関連資料、乃木希典・山県有朋・頭山満らの書等である。

 先に触れたように、この「御用日記」は、松平家の修史事業の一環として1917年(大正 6 ) 5 月

から11月にかけて謄写されており、この段階では、鈴木主税の縁戚にあたる鈴木茂左衛門家5)(当時、

吉田郡上志比村)が所蔵していた。これらの写本は「越前史料」として現在、国文学研究資料館に所

蔵されている。この写本と照合すると、当館原本では 3 月 5 日後半から18日前半までの数丁が失われ

ている。

 また、同時に写された「急御道中御内習仮帳」(資料番号00003)は、1846年(弘化 3 )12月段階で、

田安家の父徳川斉匡や、先々代藩主斉承の正室で徳川家斉の娘である松栄院(浅姫)に万一のことが

あって緊急に上京する際の対応を詳細に取り決めたもので、実際に48年(嘉永元) 6 月の斉匡死去の

際に出府した時の実績が朱筆で書き込まれている。この資料については、表紙と軸装された本文 2 丁

分のみが残っている(00007・00008)。

 ほかに、ペリーがもたらした米国国書への対応について国許での議論をまとめ、家老本多修理とと

もに江戸に上がった鈴木主税の1853年(嘉永 6 、年推定) 8 月 6 日付け桑山十兵衛宛書状(00006)、

ペリー再航の際に戦端が開かれてしまった際の覚悟を語った53年(嘉永 6 )11月13日付けの書状

(00005)がある。

 そして「越前史料」には含まれていないが、「福井侯 越州太守御行実」6)(内題は「福井侯行実」、

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

以下この内題で示す、資料番号00002、写真2)、および鈴木主税の和歌を収めた「小桜軒詠草」

(00009)は、鈴木主税の手元にあった可能性のある資料である。

 前者の「福井侯行実」は、半紙二つ折りを綴った体裁で、「御用日記」草稿とほぼ同じ大きさであ

る。写本であり、写した人物「寉廼屋松蔭」については不明であるが、異筆で書かれた表紙が付され

ている。もとは1847年(弘化 4 )に儒学者塩しおのや

谷宕とう

陰いん

(1809~67)が著わした慶永12歳頃から20歳くら

いまでの逸話集で、これを55年(安政 2 )に写したものである。内容はとくに初入部の際の逸話を多

く収め、45年(弘化 2 )に尾張家を継ぐことになった弟鎰丸に贈った心得書「愚存」等が記されてい

る。

 塩谷は、松崎慊堂に学び水野忠精に仕えた後、1862年(文久 2 )か

ら昌平黌の儒官として修史に携わってアヘン戦争関連の記事を収集、

海防論の著作もある人物であった。塩谷からは、橋本左内が江戸遊学

中に漢学を学んだとされ、とくに56年(安政 3 ) 2 月から 5 月にかけ

ての左内の日記からは、頻繁に塩谷を訪ね会読に参加したり、塩谷自

身が諸藩の先進的な学校制度を調査、編集した「学制彙集」等の書物

を借用したりしていたことがわかる7)。

 この資料は「福井侯行状」「福井侯行状聞書」等の名称で内閣文庫

をはじめとして、各地に写本8)が残されており、松平文庫にも「福井

侯行実」9)として、大聖寺藩士平井五郎右衛門から贈られたものが伝

わっている。

 このことから、慶永初入部のころの名君賢主としてのエピソードが、ほぼ同時代においてすでにあ

る程度流布していたことが推察される。中根靱負も1843年(天保14)頃に「福井鑑と表題して、公の

善政美徳を称揚し奉りし一巻の書、世に流布セり。伝聞の謬りなきにハあらねと、十に八九ハ御真蹟

を記載」10)と述べており、このような逸話集で別の呼称のものも出まわっていたことがわかる。

 中根がいうように、この「福井侯行実」にもある程度脚色があると考えねばならないが、初入国時

の具体的な逸話として、70歳以上の男女が直接目通りしたこと11)、文武修行の詳細な日割12)等側近

しか知りえない内容を含んでおり、あるいは鈴木ら側近たちが文章に優れていると評判であった塩谷

を選んで執筆させたということもありうるかもしれない。

年  代 表 題 等 請求番号

1838(天保 9 ). 9 . 4  ~ 39(天保10).12.29 「少傅日録抄」(在江戸) A0143-01106

40(天保11). 1 . 1  ~ 41(天保12).12.29 同 上   (在江戸) A0143-01107

43(天保14). 6 .11 ~ 44(弘化 1 ). 5 .11 同 上   (初入国、在江戸) A0143-01108

44(弘化 1 ). 5 .11 ~       11. 2 同 上   (在国) A0143-01109

44(弘化 1 ).11. 3  ~ 45(弘化 2 ). 4 . 5 同 上   (在国) A0143-01110

45(弘化 2 ).11. 1  ~ 46(弘化 3 ). 5 .12 同 上   (在江戸、着城まで) A0143-01111

表 1  松平慶永付側向頭取の「少傅日録抄」

注)「松平文庫」706(M24-2)福井県立図書館保管。

写真 2 「福井侯 越州太守御行実」

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 後者の「小桜軒詠草」については、『越前人物志』に引用されているものの原本と考えられるが、

5 首多い15首が収載されている。

 2.松平慶永付側向頭取の御用日記と草稿

 福井藩の藩庁記録である松平文庫には、藩主時代の慶永付側向頭取の業務日記が「少傅日録抄」13)

として残されおり、欠落している期間はあるものの、襲封時の1838年(天保 9 ) 9 月から46年(弘化

3 ) 5 月までの 6 冊(表1)があるが、この日記草稿を推敲・清書した藩庁記録としての業務日記

は現存していない。一方、隠居後の1859年(安政 6 )から68年(慶応 4 )までの10年間については、

「御側向頭取御用日記」16冊がよくまとまって残されている。

 側向頭取は、家老を中心とする御用部屋や右筆部屋等で構成される「表おもて

方かた

」に対して、藩主の日常

生活に奉仕する「中なかおく

奥」の側向役所にあって、側用人や側締役に次ぐ地位にある役職14)で、小姓や

近習番等の監督や手元費用の管理を職務としていた。

 鈴木主税が側向頭取に任ぜられたのは、この日記の 2 年前、1845年(弘化 2 ) 2 月 9 日であった。

慶永が藩主となった1838年(天保 9 )から側向頭取を務めていた熊谷小兵衛15)と前波忠兵衛16)が、

それぞれ43年 4 月と翌44年(弘化元)8月に隠居・転任したあとには(42年3月から44年 5 月まで小宮

山周造17)が見習を務めてはいたが)、浅井八百里(1813~1849)18)がひとりで側向頭取を務めていた。

その後鈴木の着任から浅井が目付へ転任する46年(弘化 3 )7月までの 5 か月間は、浅井と鈴木が同

職にあったことになる。

 鈴木の「御用日記」草稿とそれ以前の「少傅日録抄」とを比較すると、鈴木の草稿は特別な儀礼の

際の記録を除けば、藩主慶永の日常の行動をはるかに詳細に記述している。

 体裁としてはそれまで箇条書きの冒頭に置かれた日付が独立して、天候が加わっている。内容とし

ては起床時刻、診察医師名、慶永の主な行動の詳細とその際の装束、文武修行の内容や相手をした家

来、訪問先やそのルート、面会者、食事の場所、饗応の際の献立や接遇の詳細、飛脚の発着や贈答の

記録、入浴・灸治、夜詰の頭取の退出時刻等が記されている。

 こうした鈴木の草稿の体裁や内容は、むしろ1859年(安政 6 )からの慶永隠居後の「御側向頭取御

用日記」の書き振りに類似しているといっていいだろう。異なるのは、鈴木の草稿が慶永の行動を詳

細に記録しながら、同時に小姓や近習ら側近の業務記録という側面も併せもっており、側近の失敗や

業務の問題点とそれへの対応・調整もあわせて記録されていることである。こうした側面は、慶永隠

居後の「御側向頭取御用日記」では大きく後退し、慶永(春嶽)の行動記録という側面が中心となっ

ている。

 側近の業務記録の具体的な内容は以下のようなものである。

1 月 4 日、菩提寺参詣の際、大月斎庵前から運正寺前までに魚屋が 2 軒あり、道幅も狭く臭気等が

甚だしい。参詣の節には戸を下させるか、覆いをかけさせるか、町奉行の判断で取りはかるよう

に。

1 月 5 日、(御座所庭の西側にある)土居仏殿拝礼の際、御香の火が消える不調法が、先年に引き

続いて発生した。以後は別の香炉に火を入れて持参し、道具役 1 人が仏殿後ろ口に控えるよう奥

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

番へ申し聞かせた。

1月16日、御用達の八百屋伝兵衛から献上された初物の若布について、金額の多い少ないにかかわ

らず、今後新しさを競って差し出すようになってはよくないので、志は深く感じ入るが、受納し

ない19)。

1 月17日、御膳番野村権太夫が、前日早朝の掃除の際に休息所の長蚫御飾りを下げるはずのところ

失念。春嶽の内意をうかがったところ、問題ないとの思召しであった。権太夫が御礼として罷り

出たので、鈴木主税から申上げた。

2 月10日、国表では出殿・帰殿の際の対応を、近習番頭取と小姓頭取とのどちらが対応するか、見

計いで行ってきたが、鈴木主税が整理して、出殿は近習番、帰殿は小姓持切とすることを双方の

頭取に申達。

2 月24日、昨夜の御座の間内の灯明から、油煙がことのほか多く上がった。奥之番が道具役を吟味

すると油屋が油を取り違えて納品したことが判明。奥之番に道具役を急度叱り申付けるよう指示

した。

2 月28日、城下廻りの際に、飯島四郎右衛門門下の弓術(大的)の稽古を御覧になった。朝四時

(午前10時)頃、御目見以下の者がいても罷り出るよう飯島四郎右衛門に手紙で通知。ただし、

内々に鈴木主税から前日に差し支えないかどうか、飯島を取り調べていた。

 3.日記草稿に描かれた慶永のくらし

 この日記草稿は、利用者の関心にしたがって、たとえば年始儀礼や行事、その際の饗応・装束、倹

約策が儀礼や藩主の日常に与えた影響、田安家や江戸屋敷との間の飛脚便の頻度やその内容、城下や

在村からの献上品への対応、長寿者への対応20)等、多様な利用が可能だろう。ここでは月替展示で

も紹介した以下の 3 点について、「少傅日録抄」の記述と比較しながらみていきたい(概要は、表2

参照)。

 (1)慶永代の年始儀礼

 年頭から書き起こされた記録であるため、家臣や隠居・町人・寺社からの年始御礼、諸事初め、菩

提所・庭諸社・仏殿・神明宮等への参詣等、年始の諸行事のようすをよく知ることができる21)。元日

から 2 日にかけての記述で、数か所に「巳春同断」「巳春之通り」とあるのは、1845年(弘化 2 )の

事例を指している。この年は、参勤交代で江戸への出立が 1 月13日となった前年(初入国)に対して、

最初の落ち着いた福井城での年始であったため、この時から始められ定例となった行事もいくつか見

られた。

 たとえば、1845年(弘化 2 )から慶永によって始められたとされる元日の朝拝(吉方・四方)につ

いては、「少傅日録抄」に「方角之儀、今少し吟味スヘキカ」との後筆の朱書があり、方角は翌年に

は、吉方、南西(伊勢・八幡・京都)、東北(日光)、北、南、西の六方に改められた。鈴木・浅井ら

側向頭取が検討しながら、慶永代の年始儀礼を新たに定めていこうとしていたことがうかがえる。

  2 日、読初め・書初めが行われた御座所の御座の間の床には、慶永の父徳川斉匡が描いた孔子像が

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

1 月 1 日4:30 諸式(若水、朝拝) 御座所湯殿・

御座の間7:00 (年始)御礼 本丸御座の間

1 月 2 日

4:30 掃初7:00 鷹据初8:00 (年始)御礼 本丸御座の間

13:30 乗初

本丸玄関~馬場(馬は黒沢にて、帰りは籠)本丸鶴の間内使番所の敷居べりに罷り出た役人に「デタカ」、当番の大番組頭に御名有之

13:30 読初、書初「一元施大化」(高野半右衛門)

御座所御座の間(床の掛物は、田安斉匡筆孔子像)

「メデタイ」初湯

16:30 三献の祝 御座所御座の間

(大奥書初、買物初、縫物初)飛脚出立

1 月 3 日6:00

(年始)御礼(家老子息、大番・新番格子息、与力・小役人、医師から絵師)

本丸(御座の間、大広間、鉄砲の間、時計の間、長炉の間)

謡初

1 月 4 日9:00 年頭惣参詣

御 宮、 孝 顕寺、運正寺、瑞源寺、森厳寺、灰塚

魚屋臭気に付側用人へ申談(戸を下すか、覆いをかけるか)

1 月 5 日10:00 庭御拝

(宗像宮、宗源 殿、 稲 荷社、土居御仏殿等)

土居仏殿の御香の火が消えた件、奥之番へ申聞

1 月 6 日

9:00 (年始)御礼(菩提寺) 本丸年越の祝(昼膳)、七種の初爪

13:30 稽古初(儒学、兵学、鉄砲、槍、打太刀)

御座所御座の間(床は、孔子像)、御座所稽古所

福茶 三宝前(大奥)

1 月 7 日

8:00 若菜の祝(松栄院御使) 本丸御座の間

8:00 (年始)御礼(隠居、諸町人) 本丸御座の間

飛脚着(12月24日発)田安家御製略暦配付

1 月 8 日8:00 (年始)御礼(寺社) 本丸

御台所へ干鱈 2 枚献上(小丹生浦刀禰茂兵衛、旧例ごとく)

酒・吸物くだされる

1 月 9 日素読(御透につき)

10:00 目付御用有之、御用認物

1 月10日9:00 常憲院(徳川綱吉)

忌月に付御宮参詣11:00 家老御用有之

1 月11日 7:00 具足餅祝 本丸御座の間、鉄砲の間、韃靼の間、大広間

表 2  御用日記の概要( 1 月 1 日~ 3 月 5 日・18日)

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

1 月11日

慶永具足着用、しまいにやってきた井原源兵衛・孫司馬之助拝見側用人、用人、本多内蔵助(帰府の挨拶)も拝見

御座所(床は、秀忠御書、具足飾り、井原源兵衛が飾付け)

16:30

福引残りくじ、捨りくじ頂戴(御用達町人、仕立師丸子利右衛門は古格により頂戴)

福引品物飾付け(御座所鉄砲の間)

1 月12日素読

11:00 家老御用有之飛脚着

1 月13日

9:00

天方孫八、雨森儀右衛門、市村勘右衛門、横田作大夫、高村長作、小宮山周蔵、側用人ほか任命

御座所鉄砲の間

12:00 目付御用有之六日振飛脚出立

(年始祝詞)

1 月14日

素読雨森[  ]御機嫌伺、御逢有之

11:00 家老御用有之年越しの祝(昼膳)、大奥御拝、御福茶

1 月15日

朝、小豆粥

9:00年頭拝領物目録、老女中奉文御覧、家老中はじめ祝儀

本丸御座の間

(年始)御礼(中野専照寺、今宿妙観寺、妙海寺、不動院)

本丸

夕方 御用認物

1 月16日

床飾り・掛物、今朝より平常

9:00

16:00

諸稽古はじまり、中庸(松波弥次郎)、鉄砲、素読、槍、打太刀坊主頭、道具役、時計役、評定所において任命八百屋伝兵衛、初ワカメ指出すも受納せず

「覚」の写しあり

1 月17日

素読(高野半右衛門、通鑑綱目 巻42)

9:00 玄成院、大長院、普観寺祈祷

御座所鉄砲の間

11:00 目付御用有之、天方孫八御用有之

13:30 会読(大学 正心 修身伝)、弓御膳番、御休息の御飾り長鮑の片づけを失念、不調法

1 月18日

朝御膳(粥、蕎麦切)素読(高野半右衛門)装束関連覚書(召服規定追加)

13:00 初灸

1 月19日

素読(高野半右衛門)飛脚着( 1 月12日発)

14:00

16:00中庸、柔術、打太刀

1 月20日

素読(高野半右衛門)15:00 剣術、打太刀

小姓相対屋敷替願(思召にあらせられず)

1 月21日素読(高野半右衛門)

10:00 目付御用有之(浅井八百里)

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

1 月21日

御鷹の鴨を浅井を通して用人渋谷権左衛門へ近習番、江戸当番割等伺、伺の通り御鷹の鴨を森六太夫へ

11:00 家老御用有之14:00 中庸(松波弥次郎)15:00 槍、打太刀

御鷹の鴨を鈴木主税へ

1 月22日

素読(高野半右衛門)

10:00 講 談( 前 田 彦 次 郎・明石甚左衛門)

13:30

15:00中庸(松波弥次郎)、弓

狛帯刀男子出生、橘(精)一郎と命名。願によりこの名、嫡子へ

1 月23日素読(高野半右衛門)

10:00

14:30

講談(井原源兵衛)、中庸(松波弥次郎)、居合、打太刀

1 月24日

9:00

10:06台徳院(秀忠)命日に付、運正寺参詣

11:00 家老御用有之

13:00 目付御用有之(浅井八百里)

夕方 御書認飛脚出立

1 月25日9:00

15:00鉄砲、中庸(松波弥次郎)、剣術、打太刀

1 月26日

素読(高野半右衛門)、御筆自詠和歌色紙を家老 3 人へ

11:00 目付御用有之(横田作太夫)

13:30 中庸(松波弥次郎)14:30 槍、打太刀

産穢に付明日から 3 日御免(小姓頭桑山十兵衛)

1 月27日

9:00

10:09

運正寺参詣、思召にて今後今月今日の参詣は熨斗目裃にて

12:30家老御用有之、野廻り御供・講談拝聴(天方孫八倅彝之助)

14:30 弓

晩 御用書付類有之に付会読延引

1 月28日

素読(高野半右衛門)10:00 竹内流秘伝伝授

昼、元日拝領の鏡餅雑煮、蕎麦切百歳寿餅 1 箱献上(小稲津村武右衛門、支配頭より右筆部屋へ指出し、御用人これを披露

13:30 中庸(松波弥次郎)15:00 居合、打太刀

1 月29日

素読(高野半右衛門)先年酒井外記へ下され候筆先修正

14:30

17:00柔術、会読

1 月晦日

9:00

11:06

文恭院(家斉)7 回忌、慈本院において茶湯、装束について覚家斉下付の印籠を御腰物方へ預ける印籠箱へ拝領の経緯を高野半右衛門へ命じて漢文で認めさせる

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

1 月晦日13:30

14:30中庸(松波弥次郎)、剣術

2 月 1 日

9:00

11:00月並御礼 本丸

13:30

14:30中庸(松波弥次郎)、槍術、打太刀

2 月 2 日

熊谷小兵衛御機嫌伺、御逢有之素読(高野半右衛門)

9:30 代拝帰り、御目見飛脚着( 1 月24日発)

10:00 講 談( 前 田 彦 次 郎・明石甚左衛門)

13:30 弓年忌進物(昆布1箱)奥之番(溝口郷右衛門、勝木十蔵)主税より伺の上御供、用人へ申達

17:00 会読

2 月 3 日

素読(高野半右衛門)

10:00講談(井原源兵衛、出勤次第引揚)、神䕃流秘伝伝授

「伝授イタシ大慶ニ存、メデタイ」

11:00 目付御用有之14:00

15:30中庸(松波弥次郎)、居合、打太刀

2 月 4 日

素読(高野半右衛門は不快欠席)

11:00 家老御用有之(参勤交代道中御供人事)多用に付、中庸延引

14:30 柔術、打太刀

2 月 5 日9:00 鉄砲

13:30

14:30中庸(松波弥次郎)、剣術

2 月 6 日

素読(高野半右衛門)

10:00 目付御用有之(土屋十郎右衛門)

12:30

14:30月並養生の御灸

2 月 7 日

素読(高野半右衛門)13:30

15:00弓、乗馬

17:00 会読

2 月 8 日

素読(高野半右衛門)9:00 運正寺代拝、御逢

10:00 初午に付、御庭稲荷御拝

13:00

15:00中庸(松波弥次郎)、居合、打太刀

2 月 9 日

素読(高野半右衛門)

9:00用人(皆川多左衛門、水谷壱岐、井原源兵衛)、人払御用有之

米歳寿餅 1 箱献上(大御 番  休 息 嶋 津 波静)、用人これを披露御目見初午菓子 1 包、煎茶

御目見の際の図あり御意「息才デ目出タイ」茶菓は御座所長炉の間にて

10:00 武田流兵学伝授

御座所御座の間

「大慶ニ存メデタイ」できた巻物の扱いに付覚

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

2 月 9 日

13:30

~15:00

中庸(松波弥次郎)、柔術、打太刀

一橋家から到来の 3種詰茶 1 箱を主税から秋田八郎兵衛、中根靭負、天方孫八へ

2 月10日

素読(高野半右衛門)10:30 家老御用有之

今後、出殿・帰殿の際の対応覚、両頭取へ申達

出殿は近習番、帰殿は小姓

内証御趣意金貸付に付利息等覚御書御認に付、中庸延引

15:00 剣術、打太刀飛脚出立、父へ直書とともに寿餅 1 箱(嶋津波静・小稲津村武右衛門)

2 月11日

9:00

10:00清浄院(綱昌)命日に付運正寺へ参詣

13:30

15:30

中庸(松波弥次郎)、槍、打太刀、乗馬、二の丸庭廻り

馬は、間之山・荒波

熊谷小兵衛御機嫌伺

2 月12日

素読(高野半右衛門)

9:00 普請奉行ほか、任命 御座所鉄砲の間

10:00 講 談( 前 田 彦 次 郎・明石甚左衛門)飛脚着(2月4日晩発)

14:00

17:00弓、会読

2 月13日

素読(高野半右衛門)10:00 講談(井原源兵衛)

奥之番等申渡

11:00 目付御用有之(石原甚十郎)魴鮄(ホウボウ)3 、2つ召上、 1 つ六太夫へ

ホウボウは白浜浦献上

14:00

15:30中庸(松波弥次郎)、居合、打太刀

2 月14日

素読(高野半右衛門)11:00 家老御用有之

15:00

暮時

本多内蔵助、機嫌伺、家老中もともに乗馬拝見帰殿途中、内蔵助らとともに庭廻り

本丸馬場、馬は荒波・間之山馬見所にて煎茶

内蔵助・家老 3 人、夜食下さる拝領の印蔵、天井板拝見、内蔵助へ「博文約礼」の大字、田安御製略暦下さる

御座所御座の間、御床は掛花御意にて内蔵助・家老 3 人とも御同間、献立あり生菓子・濃茶、干菓子・薄茶

2 月15日

9:00

10:09月並御礼 本丸

12:30

17:00城下廻り(遠的場)

茶臼山鉄砲丁場愛宕山(足羽山)遠的場荻野助太郎出迎えに対して「御意名有之」終了後、助太郎へ御意「タイキ」

2 月16日早飛脚着( 9 日発、出水等により逗留・廻り道、奉書・拝領の鶴お渡しにあいなり候旨)

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

2 月16日

9:00 鉄砲

13:00 勝手掛天方孫八御用(人払)

14:30 槍、打太刀

17:00 奉書・鶴、板取宿到着の旨注進浅水宿まで到着

19:00 石場問屋まで到着

24:00前

到着、右筆部屋御坊主受取、二の間中ほどにて縄を切り、油紙を取り、奉書を箱から出し、白台へ載せ等受取儀式、奉書・鶴拝見の詳細覚

御座所御座の間違棚前御意「御奉書・鶴拝見タタス様」御意「アリガタイ」

御礼使者(斎藤数馬)、御目見奉書は、月番用人持ち下る鶴は、御膳番持ち下り台所預けに

御座所鉄砲の間御意「於江戸表、用人共申談相勤候様、道中無事デ」

2 月17日

素読(高野半右衛門)、遺訓拝読

9:00 狛帯刀、御鷹之鶴拝領に付、申渡

12:30 目付御用有之(石原甚十郎)御書御認に付弥次郎延引

15:30 弓魴鮄(ホウボウ)5、2つ召上、 3 つ年寄へ

ホウボウは白浜浦献上

飛脚出立

2 月18日

素読(高野半右衛門)十文字鑓献上(上関村権右衛門、河内守国助作)勝手掛天方孫八御用

(人払)14:00

15:30中庸(松波弥次郎)、居合、打太刀

2 月19日

素読(高野半右衛門)拝領の鶴、庖丁仰せつけらる 舞鶴之手 

 若森才太夫 丸割

 野方鉄次郎 服紗飾り

 吉田伝右衛門 後見

伊藤弥五太夫 本役庖丁後、後見が胴のほか平鉢に盛り、その後丸割役が胴割、後見が鉢に入れる

弘化 2 年 2 月18日、江戸表での事例を参考に御座所鉄砲の間まないたの上へ鶴・庖丁・魚箸料理方は新番格以上残らず見習として出席

昼膳、鶴を御吸物にて御頂戴、もっとも酒は無之

13:30

15:30

中庸(松波弥次郎)、柔術、打太刀、乗馬、二の丸庭廻り

2 月20日

素読(高野半右衛門)飛脚着( 2 月12日晩発)拝領の鶴、松栄院・謹姫(斉承妹、阿部正弘室)・貞照院(在江戸)へ 5 切ずつ進ぜらる

小切れ、くず身は家老・側用人・御用人等へ

13:30

14:30中庸(松波弥次郎)、剣術、打太刀

2 月21日

素読、御相手側向、高野半右衛門は不快欠席

11:00 目付御用有之、内証余銀利息

13:30

14:30中庸(松波弥次郎)、剣術、打太刀

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

2 月22日

熊 谷 小 兵 衛 御 機 嫌伺、御逢有之素読(高野半右衛門)

10:00 講談(前田彦次郎・明石甚左衛門)

13:30

14:30弓、乗馬 馬は、間之山・

黒沢・荒波

会読は認物のため延引

2 月23日

26日菩提寺招待に付御用人へ申通

8:10

17:00

荒川筋、御鷹野で初鷹狩吉野登山、遠眼鏡を背負わせて山上御拝、金100疋内証出 鴎 1 羽 (御脇鷹 御鷹方

 中村金兵衛)

吉田猪谷村間平方で御膳帰殿途中、院内村甚兵衛方で御膳・小休  道順詳細あ

2 月24日

素読(高野半右衛門)

10:00 勝手掛天方孫八御用有之

11:00 家老御用有之昨夜、御間内油の油煙に付(油部屋・油屋納品取違え)、道具役急度叱り御書御認に付、中庸延引

14:30 柔術、打太刀晩 飛脚出立

脇鷹の鴎 1  鈴木主税へ酒 3 升 鷹匠惣中

(時節柄緊縮)

2 月25日

9:00

17:00鉄砲、剣術、打太刀、乗馬、会読

馬は、黒沢・荒波

素読(高野半右衛門)目付御用有之

2 月26日

13:30

19:00

菩提寺を招き、馬事・席画 御馬方乗馬 席画 (絵師奈須玄碩) 金200疋(御内証出)

 奈須玄碩

運正寺 大安寺 孝顕寺 瑞源寺 天竜寺 花蔵寺 東光寺(御断慈本院)控室は御座所御用部屋鉄砲間二の間から御座の間二の間へ、煙草盆・薄茶・生菓子御意「馬事も申付置候間、庭ヲ寛々見物被致様」二の丸御馬所、煙草盆・煎茶、大奥より重詰・酒ふたたび御座の間二の間へ御意「ソマツ之掛合ユルリト」 夜食献立あり

せんだって尾州様より到来の枝柿、当番両部屋・奥台所へ 下さる

2 月27日

9:06

10:06運正寺参詣

13:00 靭負、御間内で秘蔵箱の仕訳昨日残りの席画、側用人・主税・六太夫へ下さる

13:30中庸(弥次郎)、弓(暖気に付御的はじめ)、会読は延引

2 月28日素読(高野半右衛門)

11:00 家老御用有之

月 日 おおよその時 刻 出 来 事 場所等

2 月28日

12:39

16:30

御城下廻り桜馬場へ飯島四郎右衛門・弟子の大的(弓)稽古を御覧馬(黒沢)に常袴のまま乗馬

四郎右衛門父子名有之、

「今日ハ太儀」道筋詳細あり

留守中、靭負、秘蔵箱の仕訳小鮎 9  召し上がり

(鵜匠共より)

2 月29日素読(高野半右衛門)

12:30

15:00中庸(弥次郎)、柔術、打太刀、乗馬

馬は、間ノ山・黒沢

3 月 1 日

9:00 目付御用有之(浅井八百里)

9:00 城築砂取御覧 鉄砲の間

13:30 中庸(弥次郎)、槍、打太刀

3 月 2 日

熊谷小兵衛、機嫌伺、御逢有之素読(高野半右衛門)飛脚着( 2 月24日発)

10:00 講談(前田彦次郎・明石甚左衛門)

13:30 弓本多内蔵助、機嫌伺、二の丸庭廻り

17:00 会読

3 月 3 日

8:00~

10:00上巳の御礼 本丸御座の間

井原源兵衛、流儀の天授巻申上 金100疋 御内証出

弘 化 2 年 3 月5 日三字伝申上候通、御意「其節ハタイギ」「伝授イタシ大慶ニ存、メデタイ」

夕 城築砂取御試、弥次郎書物延引

3 月 4 日

素読(高野半右衛門)

10:00 目付御用有之(横田作太夫)

11:00 家老御用有之思召をもってありあわせの品、御手自下さる 側御用人 

秋田八郎兵衛へ 同 見習 

中根靭負へ ほか

13:00 中根靭負、秘蔵の箱、仕訳発駕前、本類仕訳等のため弥次郎延引

14:30

柔術、打太刀 昨年は、栗・銀杏であったが大風で吹き落されできず、今年は菓子1 包を御相手の面々へ

3 月 5 日 9:00 鉄砲(以下、 3 月18日前半まで欠落)

3 月18日

御機嫌伺(腰物奉行)、修復した腰物御覧御庭御拝(宗像宮)

13:00 家老御用有之参勤交代関連道中で他家の行列と出逢った際の御簾役へ対応申渡(相手の位に対応し籠の戸、御簾の扱いを指示)側用人秋田八郎兵衛、家老代理として御供、川場・歩行の節心得について、主税まで相談。春嶽のお思し召しを伺うと、用事があれば呼ぶので、お呼びがない時は、参上しなくてよい、とのこと。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

掛けられたが、「少傅日録抄」からこれも1845年に慶永の意志で始められ、恒例となったものであっ

たことがわかる。この日記草稿の47年では 5 枚書いた書初め22)のうち、 1 枚は近例では入れていな

かった落款をこの年には施して歳神棚へ、くわえて印章も押したものを父・母(おれいの方)へ 1 枚

ずつ、 2 枚は残したとある。

  6 日には、儒学・兵学・鉄砲・弓・鑓・剣術等文武の稽古初めが、御座の間の床に斉匡筆のもので

はない、「持伝」の孔子像を掛けて執り行われた。

 実際に諸稽古が開始される 1 月16日以降、素読はほぼ連日行われ、高野半右衛門(真斎)23)が罷

り出て指導している。これとは別に、文武相手役の松波弥次郎による中庸の進講も行われ、 1 月には

8 回、 2 月には12回を数えた。この松波の進講において、いたずらに聴き流して「真剣之討論」を始

めようとしない慶永を諌めた、この年11月の鈴木の建言が知られている24)。

 (2)具足着用

 1月11日、本丸御座の間において甲冑に供えた餅を頂戴する恒例の具足餅祝のあと、御座所御座の

間にもどった慶永は、床に飾ってあった具足を着用した。そこに孫を連れて具足の片付けにやってき

た井原源兵衛25)が居合わせ、その着用姿の拝見を仰せつけられ、また側用人・用人、帰府のために

機嫌伺いにやってきた本多内蔵助もいっしょに拝見したと記されている。

 こうした出来事は、どの程度めずらしいことだったのだろうか。

 「少傅日録抄」をみると、後述するように慶永13歳で執り行われた具足召初めの儀式以降、1841年

(天保12)では具足餅祝の際の着用の記述はない。また42・43年は「少傅日録抄」自体が欠けており、

44年(弘化元)も記述はない。そして風邪のため延期され 1 月15日に行われた45年にも記述はなく、

江戸で正月を過ごした46年(弘化 3 )になって初めて「七半時前、御飾付之緋縅御召具足、於御居間

被為召候」とある。

 日記草稿の翌年、1848年(嘉永元)の具足餅祝の際にも、御座の間に飾った「緋威の御具足」を

夕方着用しており、「両三年前より此日にハ、必御座の間へ御荘り付にて、夕方御召試被遊し御事な

り」26)とされていることからも、20歳前後の46年から48年にかけては毎年、具足餅祝の夕方にその

具足を着用したことがわかる。

 とくに1848年(嘉永元)では、表広間や大奥へも入り、詰め合わせた者たちが拝見している。この

際に着用したとされる緋威の具足は、忠昌が19歳で大坂夏の陣で着用したもので、治好の具足召初め

の儀式でもこの緋威の具足が使われたという由緒をもつものだった。日記草稿の年(47年)に着用し

たものも、この忠昌ゆかりの緋威の具足であったと考えられる。

 慶永の具足召初めの儀式は、1840年(天保11) 9 月27)に行われ、こののち甲冑の着用は「時間を

限り幾十遍と御召試」され、「闇室中之御着具等」少しも支障なくできるようになった28)と中根は回

想している。そして慶永の甲冑着用の素早さについては、前述した逸話集「福井侯行実」おいても次

のように採りあげられていた。

   御平生、御居間に御具足被差置日々御着被遊候、或時軍学者被為召被仰付候者、具足着用、依流

義違ひ可有之候得共、少しにても速成方便利に候間、何も心附候義必無遠慮教示可申旨被仰付、

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

御着用被為在候処御迅速之義、何れも軍学者一言半句無申上方、深奉驚腹候事

 このように甲冑の着用は、青年期の慶永にとってはかなり手慣れたことであり、なおかつ、中根の

回想や当時の逸話集にも記されていることから、その迅速さはある程度評判となるほどのものであっ

たと考えられる。

 (3)城下巡視・鷹狩り・乗馬

 1843年(天保14) 6 月に初入国した慶永が城下や領内を精力的に巡視したことはよく知られている29)。

この年閏 9 月には、頻繁に城下廻りを行い端々まで見覚えたいという慶永の意向で、掃除等によって

「家職之障り」となることを避けるため、「道筋穢候様之ものは取除可申、其余ハ掃除等不参届儀ハ

不苦」30)との触れが出された。翌44年(弘化元) 7 月には、参詣や野廻りも含めて供立ての削減が

定められた。

 この日記草稿では、 2 月に入ると15日(城下廻り、茶臼山鉄砲丁場・愛宕山(足羽山)遠的場御

覧)、23日(荒川筋の鷹野で初鷹狩り)、28日(城下廻り、城下桜馬場で大的(弓)稽古御覧)を行っ

ている。

 いずれもその道筋が詳細に記されており31)、23日の初鷹狩りでは、昼食のあとで惣勢を山の下に残

したまま、側近らとともに院内村から吉野ケ岳に登っている。手水・金盥・水次・床几等とともに遠

眼鏡を持たせているのは、足羽山でもところどころで眺望を楽しんでいる慶永らしい。山上の御宮を

拝し、御内証金から「金百疋」を供した。

 割書の注記から、この登山が鷹狩のついでであったため、小休止をとった百姓宅の掃除や杖の準備

まで、郡奉行ではなく鳥見頭が担当してとり行われたことがわかる。また翌日、鷹匠惣中へ振舞われ

た酒 6 升は、昨秋吉江で行われた初鷹狩りの際と同様であり、緊縮中の折から先々代の例からすれば

かなり少ないものであったが、側用人と相談して対応したとされている。

 「此節花盛り」と記された28日の城下廻りでは、桜馬場で弓の稽古を巡視した後、馬乗袴の用意は

なかったが常袴のままで乗馬したと記されている。桜馬場は、福井城の東南、荒川沿いの土居の内側

にある馬場で、その名のとおり土居に桜が植えられていた。

 乗馬は、慶永10代半ばの文武稽古のなかでも、もっとも頻繁に取り組まれた武芸であった(1842・

43年の日割で隔日)32)。この日記草稿でも 2 月に入ると 8 回実施され、中には機嫌伺いにみえた本多

内蔵助に対するもてなしとして、夕食前に本丸馬場で自らの乗馬姿を家老らとともに拝見させてい

た( 2 月14日)33)。やや後のことではあるが、52年(嘉永 5 )から慶永は城下を乗馬で巡視する「乗のり

切きり

」34)を始めた。これは不時に実施されることもあり、家老をはじめ家中の持ち馬 2 、30騎が隊伍し、

中根は「此後、在国の定式とされたり」と記している。

 なお、この日記草稿には福井城下の正月行事「馬威し」の記述はみられない。「少傅日録抄」で在

国の年をみると、1844年(弘化元) 1 月10日に「佐野内膳屋敷物見へ御立寄被遊、左義長馬御覧被

遊」とあり、慶永の家譜や「慶永佐野家の門楼にて之を観たり」とする『稿本福井市史』の記述と照

応できる。翌45年 1 月14日には、家中の馬に交じって藩の飼馬から栗毛馬 1 匹が「馬威」に貸し出さ

れており、大奥女中たちは広式用人の取り計らいで城下の豪商荒木方で、御附衆は浅井八百里の周旋

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

によって奥医師山田敬作方で見物していた35)。

 (4)「御鷹の鶴」拝領

  2 月には、将軍の鷹が獲った鶴を在国中に拝領する出来事があった。16日暁に到着した早飛脚で老

中奉書と拝領の鶴が引き渡されたことが知らされ、その日の夕方には板取宿到着の注進、受納の儀式

は深夜となった。奉書と鶴が玄関式台から鉄砲の間溜り、そして御座の間に持ち込まれるまでの詳細

が記録されている。鶴は床の横に設えた鳥掛けに掛けられた。その後家老・側用人らが拝見し恐悦を

述べ、さっそく御礼使者に斎藤数馬が任ぜられたことが披露され、慶永は斎藤に対して「於江戸表、

用人共申談相勤候様、道中無事デ」36)と声をかけている。

 そして 3 日後の19日、慶永・家老・側用人・用人・目付らが見守るなかで拝領の鶴を捌く鶴庖丁が

行われた。本役(「舞鶴之手」)の料理方若森才太夫は烏帽子・素袍姿で、補佐役(「丸割」)と思われ

る同じく料理方の野方鉄次郎は熨斗・長袴を着用し、さらに 2 名が附き従った。どのように切り分け

たかについては、詳しく書かれていないが、宮中の作法にならって真魚箸と包丁のみで鶴には手をふ

れず切り分けたと考えられる37)。料理方の装束について、割書で藩の能装束を借用したと注記されて

いるのも面白い。

 松平文庫には、この際、御座所鉄砲の間における慶永や家老や側用人、御膳番、料理人等の配置や

俎板の位置等を記した、右筆部屋作成の「御座所御間所座配図」(1845年)が残されている。

 この鶴庖丁の儀式は、日記草稿によると前年1846年(弘化 3 ) 2 月の江戸表での事例を参考にした

とされており、確かに同年の「少傅日録抄」には、この際のようすが図入りで詳細に記録されている38)。

 慶永家督相続直後、重富の時代1799年(寛政11)以来在府中に拝領していない鶴の下賜を願い出、

最初に鶴を拝領したのが1839年(天保10) 2 月のことであった。46年 2 月の江戸表での記録でもこの

39年の最初の事例が先例として引かれており、この年以来の鶴拝領であったと推測される。鶴庖丁も

「料理方修行之為」仰せ付けられたとされている。俎板と庖丁刀は先年(1843年常盤橋屋敷焼失の際

か)焼失していたため、この時に新調し、本役は39年と同じ森沢五郎左衛門(「千年の手」)であった。

「舞鶴の手」「千年の手」がどのような作法なのか、そもそも福井藩の料理方が鶴庖丁の作法をどこ

から学んだかはよくわかっていない。

 切り分けられた鶴肉は、江戸の松栄院・謹姫(斉承妹、阿部正弘室)・貞照院(斉承母)へ 5 切ず

つ贈られ、家老・側用人・用人・側近一統へも小切れやくず身等が振舞われた。骨と胴の羽は残らず

黒焼きにして「妙薬」とし、首・両翼は、乾燥させて鶴庖丁の稽古に用いるとのことで庖丁人へくだ

されたという。

 まとめにかえて

 以上、鈴木主税の「御用日記」草稿の概要を、この資料を含む資料群である宮崎長円家文書とそこ

に伝わった鈴木主税関係資料の紹介とともに考察してきた。

 日記草稿の性格を明らかにするうえで、慶永藩主時代の側向頭取による業務記録「少傅日録抄」と

の比較が不可欠であったため、必要に応じて引用してきたが、大部な資料であり決して十分な読解と

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

検討ができているわけでない。くわえて斉承・斉善等前代の記録との比較はいまだ今後の課題であり、

また隠居後の「御側向頭取御用日記」と比較した記述の枠組みや内容の変遷についても同様である。

 これまで絵図資料以外の松平文庫のデジタル化はほとんど進んでいなかった。本稿で言及した「少

傅日録抄」「御側向頭取御用日記」等、微細な文字で書かれた大部な資料へのアクセスは容易ではな

く、このため研究が大きく遅れてきたことは否めない。「少傅日録抄」「御側向頭取御用日記」につい

ては、2013年 2 月の情報システムの更新と所蔵者の越前松平家の御理解により当館デジタルアーカイ

ブでの画像データの閲覧が可能となった。松平文庫全体がデジタル化されより一層活用しやすくなる

ことが求められている。

注1 ) 鈴木重栄「弘化四丁未歳正月ヨリ同年三月十八日迄 御用日記」、宮崎長円家文書 A0180-00001、縦247mm・幅

171mm(半紙二つ折り)、48丁。資料目録および画像は、http://www.archives.pref.fukui.jp/archive/detail.do?id=332461&smode=1。

翻刻(ドラフト版)は、http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20141112AM/1847goyonikki-fulltxt.pdf 参照。  なお、春嶽公記念文庫(福井市立郷土歴史博物館蔵)のなかに、同様に日次に記された資料「両少伝日記」が

ある。このうち第 1 巻は鈴木主税によるもので、「着城日ゟ日記」という原題の 5 月12日から23日まで、「日記」と題された(嘉永元年、推定) 7 月 1 日から 3 日まで 2 点から構成されている。

 前半の 5 月のものは、宛名はないが、仮名を比較的多用していることから女性に宛てた書状と考えられ、また、後半のものは末尾から 7 月 6 日付けで「すゝき主税」から大奥老女「磯岡」宛に慶永の近況を伝えた書簡であることがわかる。

 磯岡は、1854年(安政元)春の大奥侍女削減の際に隠居したが、「養寿」という名でその後も大奥に仕え、中根靭負から「女丈夫といふへき男コ魂の気概あり」と評せられた人物(中根雪江『奉答紀事-春嶽松平慶永実記』1980年)で、1888年(明治21)に茂昭が侯爵となった際の祝宴において「勤労ありし旧臣」のひとりとして中根や鈴木らとともに祝辞と酒肴を供せられている(福井県文書館資料叢書8『越前松平家家譜 慶永』 5 、2011年)。

2 ) 鈴木主税(450石)は、諱は重栄、純淵または鑾城と号した(福田源三郎『越前人物志』1910年)。3 ) 『越前人物志』では、鈴木主税の事績として、財政削減のための1854年(安政元)の大奥侍女削減や55年 2 月の

「学校を興し諸士をして就て文武の業を修めしめられしもの専ら重栄の規画」としている。また参勤交代の改革についても「参覲(参勤)は三四年一回室家は其領地に遣り還へし、努めて其冗費を省き以て一意兵備を繕はしむべし等、切論せられしもの亦重栄の画策」としている。

 こうした『越前人物志』の叙述は、戦後に福井県内で執筆された評伝(児童向けを含む)に引用され、脚色されてきたが、典拠となった資料が明らかではないものが少なくない。また越前史料のなかの、松平家編纂「鈴木重栄伝」(東京在住の鈴木重弘氏所蔵、1917年 5 月採訪・謄写)も『越前人物志』記述を平易にしたものである。

 このうち、資料的な裏付けが得られるものをあげれば、1854年春の大奥侍女削減(20名)については、中根雪江がその困難な過程を、正室勇姫の実家である細川家への内談趣意書や細川家老女からの指出書等を通して詳細に記録している(前掲『奉答紀事』、p151-169)。このなかには、直接鈴木主税の名前はみえないが、鈴木の履歴をみると、「同(嘉永)七寅四月十四日、此度思召を以大奥向御人減御趣法替被仰出候間、右御用掛り被仰付、御近習ニ被指置候間、老女并御広敷御用人申談可被取扱候」とあり、侍女削減に鈴木が職務としてかかわっていたことがわかる(福井県文書館資料叢書11『福井藩士履歴』 3 、2015年)。

 いっぽう、学問所開設についても、「安政二卯正月九日学問所御取建ニ付、御自分儀右取調掛り被仰付候」とあり、中根も「学問所御取立の思召被為在ニ付、正月九日鈴木主税ニ取調御用被仰付たり」(前掲『奉答紀事』)としていることから、藩校明道館の創設に鈴木がかかわったことは間違いない。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 この年の 9 月晦日出立して「御内御用」のために江戸に向かっている最中に安政の大地震(10月 2 日)が発生、上京早々にもっとも信頼を寄せていた藤田東湖の死に立ち会うことになったとされる。『昨夢紀事』では10月1日福井を出立し、木曽藪原で大地震の報に接して、昼夜道を急いで11日の暁に常盤橋邸に到着したとされている。「天英雄を奪ふ又倶に国事を議すべき者なし」と語ったという鈴木の絶望は深く、「遂に脳を病み」、翌年 2 月10日に没した(前掲『越前人物志』)。

   また、城下木田の町人が鈴木の寺社町奉行時代の仁政に感謝し、生前において世直神祠を創建したとされている(永井環『世直神祠と鈴木主税先生』1931年)。

4 ) 仙石亮は、福井藩士仙石喜熊(万次郎・喜左衛門、25石 5 人扶持)の子息(前掲『越前福井藩士履歴』 3 )。5 ) 鈴木茂左衛門家は、鈴木宇左衛門家(150石)の先祖鈴木多宮を祖とする家で、天和年間に山王村に土着したと

伝えられている(「諸士先祖之記(抄)」『福井市史』資料編 4 、1988年)。6 ) 1855年(安政 2 ) 3 月に「寉廼屋松蔭」が写したもので、41か条からなっている。この綴りの後半には、細井

平洲の海防論「野芹」も、同じ安政2年3月付けで同じ松蔭によって筆写されている。7 ) 「安政丙辰(三年)日記」『橋本景岳全集』上、1976年。また慶永は、塩谷宕陰(甲蔵)を呼び時事を討論してい

た(1858年(安政 5 ) 3 月 5 日、前掲『奉答紀事』)。8 ) 日本古典籍総合目録データベース、国文学研究資料館。9 ) 「福井侯行実」松平文庫212(M22-28)は、54か条からなっている。10) 前掲『奉答紀事』、p.21。11) 1843年(天保14)「閏九月廿六日御城下廻り御出殿、於東本願寺懸所御城下町人古稀以上之男女三百七十七人御

目通江被為召」とある(福井県文書館資料叢書 5『越前松平家家譜 慶永』 2 、2010年)。12) 文武稽古日の記載は、1843年(天保14)在国時の文武修行日割とほぼ一致する(前掲『奉答記事』p.23)。13) 「少傅日録抄」は、半紙二つ折りを四つ目綴じにしたもので、料紙は鈴木主税の日記草稿とほぼ同じ大きさである。14) 『福井市史』通史編 2 、2008年。15) 松平文庫の履歴資料からは、熊谷小兵衛は半元服の行事「袖留御用掛り」、具足御召初の御用掛りを務めている

が、側向頭取任免は不明(福井県文書館資料叢書10『福井藩士履歴』 2 、2014年)。16) 前波忠兵衛は、「少傅日録抄」では、慶永が前代斉善の養子となった1838年(天保 9 ) 9 月 4 日から熊谷ともに

側向頭取として名がみえるが、履歴資料の「剥札」では、側向頭取であったのが確認できるのは、同年10月29日から44年(弘化元) 8 月28日まで。

17) 福井県文書館資料叢書11『福井藩士履歴』 3 、2015年。18) 浅井八百里は、1843年(天保14) 7 月22日に「読書御相手」に任ぜられ、翌44年 5 月23日「御側向頭取見習」、

8 月24日に前波忠兵衛の跡をついで側向頭取となった。その後46年(弘化 3 ) 7 月、目付に転出した浅井は、下級家臣である「卒」身分の藩士の人材登用を見越して、その人事管理文書である「新番格以下」(松平文庫926)を約 2 か月間で仕上げている(吉田健解説、福井県文書館資料叢書 9『福井藩士履歴』 1 、2013年)。また、古書や記録の調査と古老への聞取りから藩政の先例集「執法全鑑」全28巻を編さんしたとされ、その一部が松平文庫に残されている。

 なお、「少傅日録抄」の朱書の一部には「八百里、私云」とする記載で浅井八百里の考察が書き込まれているものがみられ、興味深い。

19) 八百屋伝兵衛については、前年46年(弘化 3 ) 2 月12日にやはり国産の若布を江戸まで送りつけ、献上したいといってきており、この時は代金を払って買い取っていた(「少傅日録抄」)。

20) 日記草稿では、 1 月28日と 2 月 9 日に、家臣の嶋津波静と小稲津村武右衛門からそれぞれ米寿と百歳の長寿祝いとして、寿餅が献上された。この餅は飛脚で 2 月10日発の飛脚で、父徳川斉匡へ直筆の手紙とともに届けられた。また武右衛門祖父に対しては 2 人扶持が与えられた(「政暇日録」1847年(弘化4) 1 月23日条『松平春嶽全集』 4 、1973年)。

 こうした長寿者への対応は、けっして特別なものではなく、たとえば元御付小人磯野平右衛門が献上した米寿餅を召しあがったあと、残りを御附衆等へ下付し、母おれいの方に送った例(「少傅日録抄」1845年(弘化 2 )

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鈴木主税の弘化四年「御用日記」

2 月 9 日・10日条)、宮塚仁左衛門祖父の百歳寿餅(実は96歳)の献上の例(「政暇日録」1846年(弘化 3 )閏5 月28日条『松平春嶽全集』 3 、1973年)等が散見される。前代藩主の「少傅日録抄」や隠居後の「御側向頭取御用日記」全体を見通したうえで、その変遷が検討されなければならないだろう。

21) 印牧信明は、福井藩の藩主在国中の年中行事のなかで、1844・45年(弘化 1・2 )年始儀礼を丁寧に紹介している(「幕末期における福井藩武家の年中行事」福井市立郷土歴史博物館『研究紀要』 8 、2000年)。

22) 慶永の1847年(弘化 4 )書初め「一元施大化」のうち、 2 枚が「春嶽公記念文庫」(福井市立郷土歴史博物館蔵)に残されていた。ただし 2 枚とも落款はあるが印影はなく、日記草稿の記述とは齟齬がある。

23) 清田丹蔵に代わって高野半右衛門が1844年(弘化元)から読初めに罷り出、書初めも拝見している(「少傅日録抄」)。高野は、39年(天保10) 4 月から儒者見習、46年(弘化3)10月に儒者本役、55年(安政 2 ) 3 月、学問所教授となった(「剥札」)。なお、慶永は38年(天保 9 )11月以降、江戸では幕府奥儒者成島邦之丞(東岳)、桓之助(稼堂)父子に学んでおり、桓之助子息の甲子太郎(後の柳北)が同席することもあった(前掲「政暇日記」、「少傅日録抄」1846年 3 月23日条)。

 この日記草稿でも近親を亡くした成島桓之助に対して「野菜料」を贈っている( 2 月24日)。24) 「鈴木主税建言写」『福井市史』資料遍 4 、1988年。25) 慶永は、近親や古老から聴いた福井藩にまつわる逸話を記した随筆『真雪草子』において、熊谷小兵衛と同様に

「井原老人」からの昔話を数多く載せており、「井原源兵衛ハ八十ニ近き老翁にして義経流の師範なり。毎度余の前ニ出て昔話の中に種々面白き事あり」 と記している。

26) 前掲『奉答紀事』p.84。27) 「少傅日録抄」1840年 9 月25日条。具足は、福井から井原源兵衛が守護して運び、 9 月17日頃から準備が進めら

れており、床の間や台子の飾付、会場となった対面所絵図、各藩士の役付、座配、儀式の流れ等が詳細に記されている。

28) 前掲『奉答紀事』p.14-15。29) 『福井市史』通史編 2 、2008年。30) 1843年(天保14)閏 9 月 8 日条(前掲『越前松平家家譜 慶永』 2 、2010年)。31) こうした詳細な道筋の記載は、隠居後の「御側向頭取御用日記」にも引き継がれている。32) 前掲『奉答紀事』p.23。33) 前年秋にも隠居した家臣8名が乗馬を拝見し、菓子を下付されている(前掲「政暇日記」1846年 9 月17日条)。34) 家譜からは、在国中では1852年(嘉永 5 )10月 3 日の本多内蔵助邸への立寄り、56年(安政 3 ) 9 月 3 日の文

殊山登山が乗切として行われたことがわかる。前掲「山口家譜」には、52年 8 月15日に「殿様御城下御巡覧ニ付、御乗切ニて御出殿、御供凡三十四五有之、其後も追々有之、馬数七八十又ハ五六十計有之」「先代より無之事故留置」とされ、近年みることのなかった壮観な騎馬隊であったことがうかがえる。豪商山口彦三郎の別家山口十蔵(春雄)の家からそのようすを見た橘曙覧が歌に詠んでいる(「文藻雅集 第一篇」松平文庫1568(仮508))。

35) 「少傅日録抄」1845年 1 月14日条による。ただし、それまで風邪と思われる症状で諸行事を延引し、この日に「清快」した慶永の見物については記載はない。なお、馬威しについては、印牧信明が松平家「家譜」『国事叢記』『続片聾記』『福井藩史話』、「山口家譜」『福井市史』資料遍 7 等をもとに丹念にまとめている(印牧信明「福井城下の正月行事『馬威し』について」福井市立郷土歴史博物館『研究紀要』11、2003年)。

36) こうした儀礼の際の藩主慶永の発語は、この日記草稿でも「御意デタカ」「メデタイ」「御意ソマツ之掛合ユルリト」「御意アリガタイ」といった形で複数記載されており、今後の参考のために記録されたものと考えられ、慶永代の「少傅日録抄」にも同様な記載がみられる。将軍が諸大名等と謁見した際の記録「御意之振」を倣っていると推測されるが、福井藩におけるこうした記録の変遷については十分検討できていない(福井市立郷土歴史博物館秋季特別展図録『福井藩と江戸』2008年)。

37) 西村慎太郎『宮中のシェフ、鶴をさばく』2012年。38) 「少傅日録抄」1846年 2 月18日条。

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木簡から読む古代のふくい

木簡から読む古代のふくい-新たに報告された木簡を中心に-

舘野 和己*

はじめに

1.若狭国関係木簡を読む

( 1 ) 飛鳥地域

( 2 ) 藤原宮跡

( 3 ) 平城宮・平城京跡

( 4 ) 八条北遺跡

( 5 ) 宮町遺跡

( 6 ) 長岡宮・長岡京跡

2 .高志国・越前国関係木簡を読む

( 1 ) 藤原京跡

( 2 ) 藤原宮跡

( 3 ) 平城宮・平城京跡

( 4 ) 長岡宮・長岡京跡

3 .新たな知見

( 1 ) 新たに知られた地名

( 2 ) 「消えた」里名

( 3 ) 角鹿の塩

( 4 ) 越前介佐味虫万呂

おわりに

 はじめに

 『福井県史 資料編 1  古代』(一九八七年)(以下、『資料』)が刊行されて既に二八年近く経っ

た。そこでは一四〇点以上の「若狭・越前国関係木簡」を紹介した。さらに『福井県史研究』一〇

(一九九一年)に「若狭・越前国関係木簡補遺」(以下、「補遺」一〇)を執筆し、新出木簡七〇点

を報告した。九三年に刊行された『福井県史 通史編 1  原始・古代』(以下、『通史』)では、そこ

までの成果を取り入れているところである。その後も木簡の出土は続いたため、『福井県史研究』

*奈良女子大学文学部教授、福井県文書館記録資料アドバイザー

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

一二・一六(一九九四・九八年、以下、「補遺」一二・一六)でも、それぞれ田中正人・的矢俊昭氏

によって補遺が報告されている。

 それからも既に十七年の月日が過ぎ、その間に出土した木簡、かつて出土したが新たに報告された

木簡、あるいは釈文が改められた木簡などがかなりの分量に達した。そこでそれらを紹介しつつ、木

簡から読み取れる古代のふくい(若狭・越前)を見ていくことにしたい。木簡の事例は後掲の資料編

に載せ、本文中で用いる略号等はその凡例に記した。紹介にあたっては基本的な読み方も説明して、

木簡の理解に資するようにしたい。なお各木簡についての詳しい情報は、資料編に記した各報告書を

ご覧いただきたい。

 ところで今回報告する木簡は一点を除き、都城遺跡から出土したものである。都城から若狭・越前

などの地方の木簡が出土するのは、貢進された税物に荷札が付けられていたからである。それにはど

この誰が、何という税として何をどれだけ、いつ出したかという内容が記されている。ただし一部を

省略するものが多く、全ての要素を書いているとは限らない。今回紹介するのは、基本的に税の荷札

の木簡である。若狭と越前の順に、それぞれ時代を追って遺跡ごとに分けて説明する。同一遺跡内の

複数の出土地点については、順不同であることをお断りしておく。

 ところで具体的に木簡を見ていく前に、地方行政組織について少し説明しておく。大宝元年

(七〇一)に制定された大宝令によると、地方には国-郡-里という組織が作られたが、そのうち里

は五十の戸こ

という、戸籍に登録されて範囲が決められた家族集団から構成されていた。七世紀中頃の

孝徳天皇の時には、郡の前身としての評が組織された。郡も評も「こおり」と読む。そして評の下に

五十戸という組織が置かれたが、天武十年(六八一)から十二年の間にそれが里と書かれるように変

化したことが、これまでに出土した木簡から知られている1)。

 里はその後、霊亀三(養老元)年(七一七)には郷と名称が変わり、その内部が二ないし三に細分

され、それを里というようになった2)。その制度を郷里制と呼んでいる。しかし天平十二年(七四〇)

からは里が廃止されて、以後は郷のみとなったのである。

 全国にあった郡・郷の名は、十世紀に作成された漢和辞書である『和名類聚抄』(以後、『和名抄』)

によって知ることができる。若狭・越前の郷を調べる時も、これが基本的資料となるのである。

 『和名抄』によると、若狭は遠敷・大飯・三方の三郡からなる。このうち大飯郡は天長二年

(八二五)七月に遠敷郡の西部が分割されて成立した郡である(『日本紀略』同月辛亥条)。今回紹介

する木簡はいずれも延暦年間以前のものなので、大飯郡は現れない。

 一方同じく『和名抄』によると、越前には敦賀・丹生・今立・足羽・大野・坂井の六郡があるが、

これも当初からのものではない。律令制が成立した頃には、加賀・能登国の地域も越前に含まれてい

た。養老二年(七一八)五月に越前国内東端の羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割き取って、能登国

が成立した(『続日本紀』同月乙未条)。その後能登国は天平十三年(七四一)十二月に一旦は越中に

統合されたが(同月丙戌条)、天平宝字元年(七五七)五月に復活したのである(同月乙卯条)。また

弘仁十四年(八二三)三月になると、当時の越前国の東端に位置する江沼・加賀二郡を割いて加賀国

が成立した(『日本紀略』同月丙辰朔条)。さらに同年六月には江沼郡から能美郡が、加賀郡からは石

川郡が分かれ、加賀国は四郡となるとともに、越前でも丹生郡から今立郡が分かれ(『日本紀略』同

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木簡から読む古代のふくい

月丁亥条)、『和名抄』に見られるような六郡になったのである。今回報告する越前木簡は延暦以前な

ので、まだ加賀国と今立郡は成立していない。ただ本稿では、後に能登国と加賀国に属することにな

る諸郡、すなわち福井県に含まれない地域については省略する。

 1.若狭国関係木簡を読む

 (1)飛鳥地域

 まず奈良県明日香村の飛鳥地域から出土した木簡から見ていく。

 a飛鳥京跡とは、同村岡にある史跡・伝でん

飛あ す か

鳥板いたぶきの

蓋宮みやあと

跡周辺の遺跡である。そこでは三時期にわたる

七世紀代の宮跡が確認され、古い時期から舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、そして斉

明天皇の後飛鳥岡本宮(それが一部増築されて天武天皇の飛あすかきよみはらのみや

鳥浄御原宮となる)と考えられている。

 a 1 には最初に野の の さ と

五十戸と書かれている。五十戸なので前述したように、天武十二年以前とみられ

る。ここには国・評名が書かれていないが、奈良時代の若狭国遠敷郡野里(郷)(「補遺」一〇-一四

など)、『和名抄』に見える野里郷の前身とみられる。

  1 は野五十戸に属する秦はたのすぐりくろまろ

勝黒 と秦勝椋くらひと

人の二人が、「并あわ

せて」、つまり合計で二斗になる何かを納

入したことを意味する。何かは書かれていないが、これまでに出土している木簡から判断して、塩と

みられる。律令制下では塩を出す税目として調があり、正せいてい

丁(二一歳以上六〇歳以下の男子)は三斗

出すことになっていた。しかし七世紀においてはそれが二斗であったことが木簡から知られる(『資

料』一・三など)。したがってこれも調塩の荷札とみられる。なお当時の枡は現在より小さく、四五

%前後だったので、一斗は八㍑ほどである。

 なお型式番号031は、上下両端の左右に切り込みのあることを示す。切り込みに紐をかけ、荷に荷

札を縛り付けた。また人名の構造を説明しておくと、秦勝黒 の秦は氏うじ

の名で黒 が個人名である。

秦の下にある勝は姓かばね

といい、氏の職掌などによって異なる姓が与えられ、また天武十三年(六八四)

には八や く さ

色の姓が定められ、氏の序列を表すようにもなった。姓には他に朝あ そ ん

臣・臣おみ

・連むらじ

・公きみ

・首おびと

・忌い み き

などがあり、省略することもできる。

 b~dの飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の東南に位置し、近世の溜め池・飛鳥池のあった地で見つかった遺

跡である。遺構は南北に分かれ、南地区は七世紀後半頃の国家的工房、北地区は七世紀後半から八世

紀初頭頃の飛鳥寺とその禅院に関わる施設である。

 b 1 の丁亥年は持統元年(六八七)である。ここでは国名・評名・五十戸の名が揃って書かれて

いる。ただし国名は「若佐」とだけあり、「国」を書かない。古い時期の荷札によく見られる特徴で

ある。また「若佐」と書くのは七世紀の藤原宮跡出土木簡に目立ち(『資料』二・五・七など)、「若

狭」より古い表記である。小お に う

丹評は正確には小丹生評であり、後の遠敷郡のことである。木き づ べ

津部五十

戸は、これまでは木ツ里(『資料』七)・木津郷(同二五など)として知られており、木津部表記は

初例である。和銅六年(七一三)に諸国の郡・里の名は良い漢字二文字で表記するように定められ

た(『続日本紀』同年五月甲子条、『延喜式』民部上郡里名条)。小丹生が遠敷となったのも、木津部

が木津となったのも同じ理由であろう。『和名抄』には大飯郡に木津郷の名が見えるが、それは前述

のように天長二年(八二五)に遠敷郡から大飯郡が分かれたためである。この木簡もa 1 と同じく、

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

秦はたひとのこかね

人小金が塩を二斗出したことを示すものであろう。

 c 1 は上部に切り込みがあるが下が折れていて、わずかに地名が知られるだけである。039は材の

一端の左右に切り込みがあるが、他端は折れていて原形の失われたものを表す。三分五十戸という名

はこれまで知られていないものであった。この木簡については次の(2)b 1 と一緒に説明する必要

があるので、後に譲ることにする。

 d 1 もほとんど読めないが、木津(部)里の人が仍利を六斤出したことを示す。物品名「仍利」は

「乃利」のことだろうか。「仍利」は「〇仍利」のように上にまだ字がある可能性もあり、「の海 苔

り」あ

るいは「ふ布 海 苔

のり」ではなかろうか。隠お き

岐の例だが知ち ぶ り

夫利評(後の知夫郡)大結五十戸からの「乃利六

斤」の荷札がある(『集成』一七一)。

 e飛鳥寺の北西にある石神遺跡では、斉明天皇の時代の饗宴施設、天武朝の官衙施設などの遺構が

見つかっている。 1 は竹田部五戸から六斗入りの俵を出すことを示すが、国・評・里名を書かない異

例のものである。竹田部に関する地名として、三方評竹田部里(『資料』一二~一四)・三方郡竹田

(部)里(同四五・四六)などがある。律令制下では五十戸からなる里内に、五保と呼ばれる五戸ず

つの組織が作られ、相互扶助・監視の役割を担った。竹田部五戸というのは、竹田(部)里内の五戸

であろうか。あるいは「五十戸」を書き誤ったのかもしれない。税物である俵六斗はその分量からす

ると、庸として出した米の可能性があるが、貢進者の名も見えない。ただし竹田部五戸が三方評竹田

部里に属する五戸である確証はない。なお型式番号の033は、長方形の材の一端の左右に切り込みを

入れ、他端を尖らせたものを表す。

 (2)藤原宮跡

 藤原宮は持統八年(六九四)から和銅三年(七一〇)までの都であるが、その造営工事は天武朝ま

で溯る。a 1 は『資料』九で報告したが一部釈文が改められ、小丹(生)評に従車里という里名が知

られるようになった。「従」字は木簡では「人」を二つ左右に並べた字体に作る。それは「従」の本

字である。旧字体「從」の旁つくり

の上部には「人」が二つ並ぶ。従車里に音が近いものとしては、『和名

抄』によると越前国敦賀郡と丹生郡に従者郷(「補遺」一〇-四五)がある。それは「之し と む べ

度无倍」と

読まれる。「従車」は「従者」の同音異字表記であろうか。

 しかしこれまで若狭では従者里(郷)郷の荷札は出土していないし、『和名抄』にもない。確かに

字形としては「従」だが、「以」の書き誤りという可能性はないだろうか。「以」なら「ロ」と「人」

を左右に並べる、似た異体字もある。もしこれが成り立つなら「以車」で「くるまもち」と読み、こ

れまでに知られている遠敷郡車持郷(「補遺」一〇-三〇、後述の(3)b 1 など)にあたることにな

る。

 裏面の「移部止己麻」は人名である。「部」はおおざと部分のみ書かれ、「ア」のような字体となっ

ている。「移」は古くは「ヤ」と読まれたから、ヤベと読み山部のことである可能性が指摘されてい

る(『集成』)。そうすれば人名は「ヤ(マ)ベノトコマ」となろう。「麻」は「マロ」のつもりかもし

れない。物品名の「尓侶皮」は「ニロハ」とか「ニロの皮」と読めるが、「ニロハ」では意味不明で

あり、あるいは後者でニレ(楡)の皮のことかもしれない。御野(=美濃)国からの楡皮の荷札木簡

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木簡から読む古代のふくい

の例がある(『藤原宮』一-一六一)。樹皮の粉末は薬として用いられた。型式番号の011は長方形の

材を示す。

 さてb 1 だが、己亥年は文武三年(六九九)であり、019は一端は方形、他端は折れていて原形が

失われたものを表す。これは三分里の三み や け の お び と た ま ろ

家首田末呂による貢進を示す荷札である。

 実はかつて『資料』五で報告した際は、「三さ ぶ

分里」が「三みや

家け

里」と読まれていた。これによって小

丹生評には三家里があり、現在の若狭町三宅に比定できると考えた。そしてそれをヤマト王権のミヤ

ケ(屯倉)の名残の地名と理解したところである(『通史』第四章第一節)。しかし三家里ではなく三

分里だったのであり、そこにミヤケがあったとの想定は幻に終わった3)。 

 三分里であれば『和名抄』に見え、多数の木簡にも現れる遠敷郡佐分・佐文郷(里)のことであろ

う4)。三家人の存在を示す多数の木簡が出土し(『資料』三七・五〇・六二など)、また三宅という氏

の人もいるから(『平城宮』二-二五九一)、本木簡に三家首が見えるのもふさわしい。それはおおい

町の佐分利川周辺に比定できる。佐分・佐文郷(里)がかつては三分五十戸と表記されたことを、先

の( 1 )c 1 木簡は示している。

 c 1 の丁酉年は文武元年(六九七)。野里は( 1 )a 1 で述べたように後の遠敷郡野郷(里)であ

るので、野里の上は「小丹(生)評」である。人名は氏の若わかやまとべ

倭部だけ読める。

 なお( 1 )b 1 、( 2 )b 1 、c 1 などから知られるように、七世紀においては年紀を書く場合は、

冒頭に置くことになっていた。

 (3)平城宮・平城京跡

 平城京は和銅三年(七一〇)に元明天皇が藤原京から遷してきた都である。聖武天皇の時代、天平

十二年(七四〇)から十七年までにかけて、恭仁京・難波京・紫香楽宮(甲賀宮とも)と次々に遷都

が行われた時期を除き、延暦三年(七八四)に桓武天皇が長岡京へ遷すまで都城として存続した。

 a~cの平城宮東院庭園地区は、平城宮が東へ張出した部分の南半部にあたる。奈良時代当初は首

皇子(後の聖武天皇)の宮である東宮が置かれ、称徳天皇の時代には楊梅宮が造営された。ただし

a・bはその南を限る築地塀の外側の宮外を、塀に沿って東西に流れる二条条間路の北側の側溝から、

そしてcは東院庭園地区東側の南北築地塀の外側、宮外を塀に沿って流れる東二坊坊間路の東側溝か

ら出土したものである。

 a 1 の遠敷郡野郷については( 1 )a 1 でも見た。本木簡は郷里制下の荷札である。野郷には『延

喜式』兵部省に見える濃のいのうまや

飯駅が置かれ、若狭町上野木・中野木・下野木付近を中心とした地域にあっ

たとみられるが(『通史』第四章第一節)、「乃井村」と書かれた墨書土器がそれより西の小浜市木崎

から出土しており、その付近まで範囲に入れて再検討する必要もあろう5)。

 ( 1 )b 1 の解説で和銅六年(七一三)に地名表記が二文字になったと書いた。本木簡は養老六年

(七二二)の郷里制下のものにもかかわらず、野郷というように一文字表記がなされている。実際に

はこのように、規定を守らない表記もしばしば見受けられるのである。また野郷の中に置かれた里と

して、これまで野里(『資料』四九)が知られており、ここに嶋田里が新たにわかったが、残念なが

らその比定地は不詳である。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 この木簡は左側面が二次的調整を施されて本来の幅を保っていないため、あまり文字が読めない。

また裏面に日付が来る。八世紀、大宝令が施行されて以後は、日付は最後に書かれるように変化した

のである。

 b 1 の遠敷郡車持郷も既に「補遺」一〇-三〇、「補遺」一六-一〇・一一などで報告されている。

遺存地名から高浜町上車持・下車持周辺に比定できる。c 1 遠敷郡佐分郷は先にも見た。

 dは平城宮に遷都当初に置かれた第一次大極殿の西辺にある溝から出土した木簡である。d 1 の余

戸里は、大東急記念文庫本『和名抄』に余戸郷の名が見えるが、木簡では初めて存在が確認できた。

里だから養老元年(七一七)以前である。d 2 の忌浪はその上に某郷が来るから、郷里制下の里名で

ある。すると「補遺」一六-一七で報告された三方郡乃止郷忌浪里の木簡が注目されてくる。もちろ

んd 2 はごく一部しか残存していないから断言はしにくいが、塩の荷札であることも若狭からの木簡

にふさわしい。

 eは第一次大極殿院西辺、佐紀池南辺にあたる地で、池の堤の一部である可能性のある整地土の下

層から出土したものである。 1 の遠敷郡の「佐分郷式多里」は「補遺」一〇-三では読めなかった

ものである。同郷里は『資料』五〇に既に見える。a 1 と同様に養老六年、郷里制下のものである。

五〇の税貢進者は三みやけびとのまきた

家人牧田だったが、ここも三家人乙おと

末ま ろ

呂であり、三家人姓者は佐分郷に多く分布

する。

 塩の単位は、通常用いられる「斗」ではなく「後」である。これまでも類例があり、その量は同

じく五後である(「補遺」一〇-三)。また天平七年(七三五)「左京職解」(『大日本古文書(編年文

書)』巻一-六四一頁)では、「塩一尻」というように「尻」を用いている。平城宮跡出土木簡でも

「伊与国越智郡□奴美村塩一尻」(『城』一九-二六)という、「尻」例が知られる。また「・備前国

邑久郡方上郷寒川里/・白猪部色不知□二尻」(『城』一六-一〇)も「尻」だが、同郡からは調塩

を出していることが他の木簡からわかるので、これも塩の荷札と考えてよかろう。「後」も「尻」も

「シリ」とか「シロ」と読めるから、これらは同じ単位の異字表記であろう。ただしそれがどのよう

なものかはわからない。

 e 2 三方郡の弥み み

美里は既に知られている里名で、『和名抄』は弥美郷とする。木簡では弥美もある

が(『資料』五二・五三など)、耳・美々などとも表記される(同一〇・一一・一七など)。型式番号

081は、折損・腐食などによって原形の判明しないものを現す。

 次にf 1 はe 1 と同じく遠敷郡佐分郷のものだが郷里制ではないから、天平十二年(七四〇)以降

のものである。塩ではなく海め

藻(ワカメ)六斤の荷札である。若狭における「海藻六斤」には、同じ

遠敷郡の青郷から中男作物として出している例がある(「補遺」一〇-二二・四一)。しかしそれらは

「青郷小野里」「青郷」という行政組織が貢進単位になっているのに対し、f 1 は個人が出している

点で大きく異なる。そもそも中男作物とは養老元年(七一七)十一月に、正丁の調ちょうのそわりつもの

副物(調への付加

税)と中男(十七~二十歳の男子)の調を廃止して、その代わりに中男を駆使して政府が必要とする

物資を調達した税である(『続日本紀』同月戊午条)。行政組織が貢進した形になっている青郷からの

荷札は、中男作物にふさわしい書式である。つまり中男個人が出すのでなく、国郡司が青郷の中男た

ちを使役して調達したのである。

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木簡から読む古代のふくい

 それに対しf 1 は個人が出しているから、それとは異なるようにも見えるがどうだろうか。若狭以

外を見ると、個人名で中男作物を出している木簡が、駿河・上野・丹後・因幡にある。そのうち因

幡では、「因幡国法美郡廣湍郷清水里丸部百嶋中男作物海藻御贄陸斤 天平八年七月」(『城』三一-

四〇)のように、丸わにべの

部百ももしま

嶋がやはり海藻六斤を出している。これは実際には中男集団を使役して海藻

を調達したのではなく、個人が出したことを意味するのであろう。こうした例によると、f 1 も三□

公常石(おそらく三みや

家けの

公きみ

常と き わ

石)が中男作物分として出したことを示すのだろう。

 f 2 の遠敷郡野郷についてはa 1 を参照。委部はなんと読むのであろうか。いくつか可能性が考え

られる。一つは「委」は「倭」の省画としても用いられるから、倭やまとべ

部のこととみるわけである。ただ

し若倭部はあるが、倭部はこれまで知られていない。したがって若倭部の「若」を書き落としたとい

う可能性である。これまで遠敷郡では野里(( 2 )c 1 )と玉杵里(『資料』四)に若倭部が存在して

いたことが確認できる。二つ目は委し と り

文部べ

の「文」を書き落としたとみるものである。委文部は倭文部

とも書く。但し委(倭)文部はこれまで若狭では確認できていない。どちらが適切か、いずれも問題

が残るが、若狭に例があるということからすれば、前者の方にやや分があろうか。椋人は「くらひ

と」と読む。

 gは式部省という文官の人事を掌る役所のあった所の溝から出土したもので、奈良時代後半の時期

に属する。ここからは式部省が担当した官人の考課・成じょうせん

選関係の木簡が多く出土する。考課とは毎年

行われる官人の勤務評定のことであり、成選とは数年間の考課の結果に基づいて位階を上げることを

いう。考課・成選木簡は、本来長さ三〇㌢前後、幅二、三㌢程度で、厚さも同程度という大型のもの

で、上端近くの側面には孔が貫通している。そこに紐を通して関係木簡を綴じて、事務処理にあたっ

たのである6)。一例をあげる。

 去上従八位下村合氷守公麻呂 年五十四 河内国志紀郡「上日二百十船稲」

        292×30×10 015(『城』四〇-二一、#『平城宮』四-三七九五)

 上端左寄りにやや小さい字で書かれた「去上」は、去年の考課の結果が「上」であったことを示す。

その下が考課の対象者の位階・名前、そして割書で年齢と本籍地の国郡名が書かれる。その下の書き

込みは異筆で、船ふねのいね

稲という人が、村むらあいのひもりのきみまろ

合氷守公麻呂の一年間の上日(勤務日数)が二一〇日であるとい

うことを書き加えており、今年の考課の資料になる。

 考課・成選木簡は事務処理に用いて不用になると、表面が削られて再利用されることになる。その

際に削屑が大量に出る結果、出土した木簡の大半は削屑である。091は削屑にあてられた型式番号で

ある。g 1・2 とも削屑で、いずれも人名の下の割書部分にあたる。これらから若狭国三方郡の人が、

官人として平城宮に勤務していたことがわかる。

 h 1 は特に説明の必要はない。i 1 は既報告木簡の訂正であり、人名「竹た け だ べ の お び と お と ち し

田部首乙知志」の「知」

が訂正個所である。

 jは左京二条二坊の十坪と十一坪の間を東西に走る二条条間路の北側溝から出土したものである。

その北側には、平城宮の東隣に位置する法華寺の西南隅に造営された阿弥陀浄土院がある。j 1 から

は遠敷郡車持郷長部里の名が新たに知られた。車持郷内の里としては、これまでに車持里が知られて

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

いた(「補遺」一六訂正、#「補遺」一二追記)。

 型式番号065は用途不明の木製品に墨書があることを意味する。本木簡は荷札の上部左右をやや細

く加工しているが、その目的が不明なため065となるわけである。

 kは左京二条二坊五坪の南を走る二条大路の北側路肩に掘られた濠状遺構から出土した木簡である。

南路肩にも濠状遺構があり、両者合わせて七四〇〇〇点余りの木簡が出土した。それらの木簡群を二

条大路木簡と呼んでいるが、その時期は天平七、八年(七三五、六)のものが多く、全体として天平

年間前半に属する。内容から五坪には藤原麻呂が住んでいたこと、二条大路を挟んだ南側の左京三条

二坊一・二・七・八坪には、後で述べる長屋王邸の跡地に光明皇后の宮が営まれていたことが判明し

た。

 k 1 は通常の木簡と異なり、縦長の材を横にして木目と直行する方向に文字を書く。各行の間には

界線となる刻線が施されている。若狭という文字が二ヵ所に見えるが、意味は不明である。削屑だが

大きく、木目方向で長さ二七八㍉ほどある。

 (4)八条北遺跡

 奈良盆地を南北に走る計画道路である下ツ道の西側にあたる場所で、南東-北西方向に流れる奈良

時代の溝から出土した。国名表記「若佐」は( 1 )b 1 で述べたように、七世紀の藤原宮跡出土木簡

に見られ、和銅六年(七一三)に漢字表記を好字に統一する以前の表記である。しかし奈良時代にも、

遷都当初に左京三条二坊一・二・七・八坪に営まれた長屋王邸内の溝状土坑から、約三五〇〇〇点ま

とまって出土した長屋王家木簡(「補遺」一二-一)や、( 3 )kで述べた二条大路木簡の中にも見ら

れる(同一〇-一九、同一六-七・八)。興味深いのは七世紀のものも含めて、それらがいずれも遠

敷郡(小丹生評)のものであり、三方郡が一点もないことである。「佐」は遠敷郡佐分郷(里)であ

ろう。「若佐」表記には同郷(里)からのものが多い。

 (5)宮町遺跡

 宮町遺跡とは、天平十七年(七四五)に一時的に都となった紫香楽宮(当時は甲賀宮といった)の

ことである。天平十二年九月、大宰府で藤原広嗣の乱が起こっている最中に関東への行幸に出かけた

聖武天皇は、その年十二月に恭仁京に都を遷し、その後天平十六年二月に難波宮を皇都としたが、実

際はその直前には紫香楽宮に遷っており、そのまま翌年正月には紫香楽宮が都になっていた。五月に

は五年ぶりに平城京に戻ったため、紫香楽宮に都が置かれた期間は短い。しかし天平十四年八月には

離宮である紫香楽宮を造り(同月癸未条)、十五年十月には盧舎那仏の造立をそこで開始しているよ

うに(同月乙酉条)、しばしば聖武は紫香楽へ行幸していた。そして天平十六年十一月以降は、紫香

楽宮を甲賀宮と呼ぶようになっており、紫香楽宮の皇都としての名称は甲賀宮であった7)。

 a 1 は説明の要はない。b 1 ~ 3 はいずれも削屑で、かつ同一部材から生じたものとみられており、

繋げれば若狭国三方郡となるが、「郡」字が二つあるので内容の全体像は不詳である。

 c 1 の遠敷郡玉置郷(里)の荷札は、多数報告されている(『資料』四・一八・二二など)。人名は

「私」で始まるが、玉置ではき

私 さいのおみ

臣(同四二)の例がある。

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木簡から読む古代のふくい

 c 2 は( 3 )e 2 と同じく三方郡弥美里であるが、宮町遺跡の時期は既に里ではなく郷に変わって

いた。誤って古い制度による表記を用いたものであろう。

 (6)長岡宮・長岡京跡

 長岡京は桓武天皇が延暦三年(七八四)に平城京から遷し、延暦十三年に平安京に遷るまでの都城

である。

 a 1 の小丹里は遠敷郡遠敷里であろう。ただし延暦八年(七八九)なので、( 5 )c 2 と同じく里

ではなく郷とすべきである。「小丹里」は、これまでも「小丹生郷」(『資料』五五)や「少丹生里」

(同三八)などに類例がある古様の表記である。

 「小丹里人」を括弧で括っているのは、他と筆が異なることを意味する。この木簡は飯を陸(=

六)升請求するものだが、「各弐升」と下にあるので、六升は一人二升ずつで三人分ということにな

る。

 その三人が小丹里の人であると、後から注記したのであろう。同郷の三人が同じ場所で働き、かつ

食料を支給されていることになる。『木研』二三の報告によると、出土地点の近くには、太政官厨家

や造長岡宮使など、太政官や造営関係官司の官衙町があったと考えられている。そうすると三人は雇

われて長岡京の造営現場で働いた人たちか、各郷(里)から二人ずつ徴発され、都の諸官司で下働き

をする仕しちょう

丁である可能性があろう。雇役の民や仕丁には、庸米から食料が支給されるからである(賦

役令計帳条)。

 2.高志国・越前国関係木簡を読む

 (1)藤原京跡

 aは藤原宮の朱雀門から南東へ約三〇〇㍍、朱雀大路に接する坪で見つかった池状遺構だが、観

賞用の池ではなく窪地のようになっているものである。その時期は藤原宮前半期に属し、大宝二年

(七〇二)末ないし三年初頭に埋め立てられた。

 a 1 は「高こ し

志国」と書かれた削屑である。もともと越前・越中・越後三国の地域は越国という一つ

の国であった。その国名は『日本書紀』天智七年(六六八)七月条中の「越国、燃ゆる土と燃ゆる水

を献ず」などに見える。『古事記』崇神・垂仁段などでは「高志国」と見え、仲哀段では後の越前を

「高志前国」と表記する。そして天智七年が越国と見える最後で、持統六年(六九二)九月癸丑条に

は「越前国司、白蛾を献ず」とあり、それ以前に越が三国に分かれたことがうかがえる。三国分立以

前の越国については、木簡からも知られるようになった。a 1 はまさにその例であるが、他に次のよ

うな例がある。

 ・高志国利浪評

 ・ツ非野五十戸造鳥             114×(18)×6 081(『集成』一四一)

 ・高志□新川評

 ・石□五十戸大□□目           〔背ヵ〕 〔家ヵ〕         135×24×6 032(『飛鳥藤原京』一-一三七)

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

 一点目は七世紀後半の宮廷庭園である飛鳥京跡苑池遺構(明日香村)から出土したものである。利と

浪なみ

評は後の越中国砺波郡にあたる。ただし『和名抄』にはツつ ひ の

非野五十戸にあたる郷名はない。二点目

は飛鳥池遺跡出土木簡である。新川評も後の越中国の新川郡にあたり、『和名抄』には石いわ

背せ

五十戸に

該当する石勢郷がある。

 これらによって、後に越中国になる地域が高志国に含まれていたことが明確になった。したがって

a 1 高志国が越前の地に該当するかどうかは不詳である。また『日本書紀』が越国と表記しているの

に対し、『古事記』が木簡から知られたのと同じ高志国表記を採用していることは、両者の史書とし

ての性質の相違を考える上で興味深い8)。

 (2)藤原宮跡

 これ以後は、越前国関係木簡になる。藤原宮跡で木簡が出土したaは、朝堂院回廊の東南隅部分で、

その東外側を北流する溝である。五〇〇〇点以上の木簡が出土したが、大半は削屑でごく一部に天武

朝のものを含むが、大宝年間のものが主体をなしている。a 1 は、文字が書かれた後に切られて板状

になったものである。

 「高志前」は後には越前と表記される国名であり、「高志国」が前・中・後に分かれた後のもので

あることを示す。同様の表記は前述のように『古事記』仲哀段にも見える。

 (3)平城宮・平城京跡

 a 1 はほとんど読めない。

 b 1 の返かえるのうまや

駅は、越前国敦賀郡にあった鹿蒜駅(『延喜式』兵部省・『和名抄』高山寺本)のことであ

る。『資料』九四・「補遺」一六-二三にも例がある。貢進者は駅子という返駅に付属する人である、

大おおみわ

神仲面を戸主とする戸の大神安麻呂である。『資料』九四の貢進者は大おおみわ

神部べの

宿すく

奈な

の戸の大神部発太

であり、大神、大神部が同駅にいたことがわかる。本木簡には残念ながら、税目や物品名は書かれて

いない。型式番号032は、長方形の材の一端の左右に切り込みを入れた形を表す。通常はb 1 のよう

に、上端の左右に切り込みを入れている。

 cは式部省の井戸であり、そこから出土した木簡の年紀は天平元年(七二九)から三年に限られる。

先に若狭国木簡の( 3 )gで説明した考課・成選関係木簡の削屑である。 1・2 とも人名の下に書か

れた割書の左行の、本籍の国郡名を記したところであろう。

 dは左京三条二坊一・二・七・八坪を占める邸宅跡の中で、八坪に掘られた溝から約三五〇〇〇点

出土したものである。内容からそこが長屋王邸であったことが判明して、木簡群は長屋王家木簡と呼

称されている。それは七一〇年代に属するものである。

 d 1 の丹生郡鴨里は『和名抄』には賀茂郷として現れる。「補遺」一〇-五〇で報告した時には里

名が読めなかったが、その後の再検討で読めるようになったものである。051は長方形の材の一端を

尖らせたものである。本木簡は下を尖らせ、上部は将棋の駒のようにゆるい山形になっている。 2 は

国郡里名はないが、 1 と同じ鴨里でかつ物品名と分量も同じなので、丹生郡鴨里のものと判断できよ

う。いずれも個人名・税目を書かずに、栗を一斗出している。税目は不明。

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木簡から読む古代のふくい

  3 は最初報告された時は「角□塩」となっていたものが、「角鹿塩」の可能性が高いと判断された

ものである9)。断片であるから全体の様子はわからないが、何かが四籠と角つぬ

鹿が

の塩三〇籠とがあるこ

とを示す。角鹿は敦賀である。単に塩というのではなく、角鹿という地名を冠した一種のブランドで

ある。これについては第 3 章で述べることにする。

 eはdの長屋王邸に南接する地である。蛇行溝は王邸の方から流れてきており、そこからは長屋

王家木簡と内容的に共通する木簡が出土している。e 1 は『資料』八四で報告したがその後、表の

「里」の次の文字が読めたものである。阿須波里は『和名抄』の足羽郡足羽郷にあたる可能性が高い。

長屋王家木簡中の「・足羽郡足  /・一石北宮」(「補遺」一〇-五一)も、同じ足羽里から北宮へ

の荷札で、「一石」は米であろう。したがって両者は同類の木簡である。e 1 の「白」も白米の可能

性が高い。

 全体としては、阿須波里から貢進された白米が北宮の御物の俵であるという意味であろう。北宮は

長屋王家木簡に十九例ある。少し紹介する。

  北宮御塩綾郡矢田部法志三斗       136×17×4 031(『城』二三-一四)

 ・北宮交易美嚢郡吉川里

 ・□一俵

 〔槲ヵ〕                 140×20×5 032(『城』二三-一四)

 これらは北宮が前者は讃岐国綾あや

(阿野)郡からの塩、後者は交易(購入)して入手した槲かしわ

(柏)の

貢進先であることを示す。e 1 も白米の貢進先である。そうした荷札が長屋王邸に関係する溝から出

土しているのは、北宮が王の関係者であることを示唆する。そこでそれは長屋王妃の吉備内親王(元

明天皇の娘)、あるいはその居所たる宮のことであるとの説もあるが10)、王の父である高市皇子(天

武天皇の皇子)(の宮)であると考えた方がよい11)。彼の宮は香具山の宮(『万葉集』巻二-一九九)

と呼ばれるように香具山付近にあり、藤原宮の北方にあったことから北宮と呼ばれた。高市は持統十

年(六九六)七月に死去しているが、その北宮と家政機関が死後も存続し、長子である長屋王がそれ

を管理していたと考えられるわけである。e 1 からは、高市と足羽郡足羽里とが何らかの関係にあっ

たことが想定できることからすると、そこに高市の食じき

封ふ

(封ふ こ

戸とも)があったのであろう。食封とは

それに指定された戸の出す租の半分と調・庸の全額が、封主の収入になったものである。これは租の

稲を白米に搗いて、長屋王邸に進上した時の荷札であろう。

 fのSD五三〇〇は若狭国の( 3 )kで説明した。木簡の時期は天平年間前半である。 1 は荷札で

はなく国司の名を書き連ねたものである。表の下の「山」は山やましろ

背のことであろう。ここに佐味虫万呂

が越前介であったことがわかったが、これはこれまで知られなかった事実である。この木簡について

は、第 3 章で考察を加える。

 さて最後にgは、西大寺の食堂院と推定される場所の井戸から出土した木簡である。西大寺は天平

宝字八年(七六四)九月の恵え

美みの

押おしかつ

勝(藤原仲麻呂)の乱の際に、孝謙太上天皇が発願して創建された

寺である。井戸は奈良時代後半に造られたものであり、木簡の年紀は延暦年間に限られる。井戸が不

用になった段階で木簡を含むゴミを投棄して井戸を埋めたのであり、八世紀末に廃絶したとみられる。

 g 1 ~11は西大寺領赤江南庄・北庄からの地じ し

子米の荷札である。いずれも元は051という長方形の

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

材の下端を尖らせた形をしているが、折れていて下端を確認できない019、下端は尖っているが上部

が折れているため、その形状が確認できない059などもある。これらについてはかつて考察を加えた

ことがあるので12)、詳しくはそれを参照していただきたい。

 同庄の位置について若干紹介すると、赤江庄は宝亀十一年(七八〇)十二月作成の『西大寺資財流

記帳』(『寧楽遺文』下)によれば、越前国坂井郡にあった。木簡からはそれが南北に分かれていたこ

とが知られる。そして条里制区画による同郡西南五条一息長田里の三五・三六「坪」が、「赤江田」

と呼ばれていたことがわかる(天平神護二年(七六六)十月二十一日「越前国司并東大寺田使等解

案」(『大日本古文書』家わけ十八(東大寺文書)巻二-一七六頁)。それは九頭竜川のすぐ北側、現

在の福井市上野本町付近にあたる。また『福井県史 資料編16下 条里復原図』を見ると、坂井市丸

岡町高柳に小字赤江橋、同町吉政には小字赤井橋という字名がある。これら二つの小字は隣接してお

り、先の「赤江田」とは二㌔ほどしか隔たっていない。これらを赤江庄に関係するものと捉え、庄域

は両者にかけて広がっていたと考えたい。そして荘園経営を効率的に行うために、その拠点である荘

家が荘内に二ヵ所に置かれ、それぞれ南庄・北庄と呼ぶようになったのである。

 大豆の荷札であるg12~16についても、そこで説明した。通常の荷札のように国郡郷名を書いてい

ない。そして「少」の次に戸主名を書いているので、「少」は郷名を省略したものとみられる。平城

宮跡出土の「越前国坂井郡大豆一半」(『平城宮』二-二七四一)という051型式木簡の例や、上に述

べた西大寺と越前との密接な関係から、それは越前国足羽郡少名郷である可能性が指摘されている13)。

略式の書き方は、少名郷と西大寺が密接な関係を結んでいたことを物語り、おそらくそこに封戸が置

かれていたのだろう。

 最後にg17・18だが、このうち17については注12)の拙稿で触れたが、18は紹介していなかった。

これらは足羽郡野田郷の人が出した荷札である。17には白米と品名が書かれる。18も右で説明した赤

江庄からの地子米の荷札と同じ051型式なので、やはり白米の荷札であろう。18の冒頭は足羽郡では

なく「羽郡」とするが、その上部に欠損はなく、「足」を省略したものとみられる。『西大寺資財流記

帳』によれば西大寺は同郡には荘園を持っていない。したがってこれらは荘園からの米ではない。そ

うであるなら白米は税として政府に納入された年料舂米が、その後何らかの理由で西大寺に送られた

ものとみるか、封戸からの租稲を白米にして貢進したかの、いずれかであろう。ちなみに延暦五年

(七八六)には、都は既に平城京から長岡京に遷っている。

 (4)長岡宮・長岡京跡

 aは長岡宮内の東辺官衙と東宮坊に隣接する、宮外の東一坊大路の西側溝から出土したものである。

1 は酒井郷からの白米の荷札である。酒井郷は『和名抄』によると越前国今立郡酒井郷にのみある。

今立郡は丹生郡から分立した郡であるから、木簡の時代には丹生郡酒井郷であった。越前からの白米

木簡には051型式が特徴的にみられる。これも国郡名を省略しているから通常の税ではなかろう。出

土したのは宮外の道路側溝なので、近隣にあった施設か人物の封戸であろうか。

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木簡から読む古代のふくい

 3.新たな知見

 これまで『資料』や「補遺」で報告されていない木簡や、釈文の訂正された木簡を見てきた。そこ

からはいくつかの新知見、あるいは既に木簡の事例報告はしたが、十分に論じられていないことがあ

るので、それらについて述べることにする。

 (1)新たに知られた地名

 まずは第 1 章で紹介した若狭国の地名から見ていく。里(郷)名自体については、これまで知ら

れている範疇に含まれるものがほとんどである。今回新たに知られた里名としては、小丹評従車里

(( 2 )a 1 )と遠敷郡余戸里(( 3 )d 1 )があるにすぎない。前者は、新たな地名とみる以外に、

あるいは「以車里」と読んで( 3 )b 1 に見える車持郷に相当する可能性はないかと、指摘したとこ

ろである。そうであるなら新出地名ではなくなる。後者は『和名抄』(大東急記念文庫本)に名の見

える郷が、木簡によって確認できたものである。

 それに対し養老元年(七一七)から天平十一年(七三九)の間の行政組織である郷里制下の里の新

知見としては、次のようなものがある。遠敷郡野郷では野里(『資料』四九)が知られていたが、嶋

田里(( 3 )a 1 )がこれに加わった。また車持郷では車持里(「補遺」一二追記)に加え、長部里

(( 3 )j 1 )が新たに知られた。

 これらの里名は郷内の小地域の名であるから、郷域復元の手がかりになる。その具体的事例として、

『通史』第四章第一節で遠敷郡青郷の復元を行ったところである。上述したように、野郷はこれまで

若狭町上野木・中野木・下野木付近ないしそれより西の小浜市木崎付近を中心とするものとみられて

きた。野里は野郷の中心を占める里であろうから、右の比定地辺りにあったとみてよい。それに対し

新たに知られた嶋田里の故地は不詳である。一方車持郷は遺存地名からして、高浜町上車持・下車持

付近を中心とする地域で、車持里は車持郷の中心となる里であり、やはりその辺りとみられる。こち

らも長部里の比定地は不詳である。

 今後これらの新たに知られた郷里制下の里名の比定地について考察を加えることが、ふくいの地域

史にとっても重要な課題である。

 次に第 2 章で報告した越前国の地名については、まず注目されるのは、越前・越中・越後三国分立

以前の国名である高志国が知られたことである。しかもそれが、越前・越中・越後と同じ文字を使

った『日本書紀』の越国ではなく、『古事記』の用いる表記と合致したことは、先にも述べたように、

『古事記』が『日本書紀』よりも古い、七世紀後半~八世紀初頭頃に実際に行われていた国名表記を

反映していることを明らかにしたのであり、『古事記』の性格を探る上で重要な事実ともなる14)。

 (2)「消えた」里名

 次に第 1 章の( 2 )藤原宮跡出土のb 1 木簡では先に指摘したように、小丹(生)評三家里(『資

料』五)という里名は、三分里の誤りと判明した結果、抹消しなければならない。三家はミヤケと読

む。そこでこの地名は注目されていた。『通史』では狩野久氏の優れた見解15)に基づき、「かつてヤ

マト王権のミヤケ(屯倉)が置かれ、若狭の塩の収取をめざしたとみられている」と述べたところで

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

ある(三三二頁)。また私自身の論文の中でも、「この三家里は上中町三宅に比定できるが、そこは

若狭国造の本拠地に近く、その支配のためのミヤケの名残と考えられよう」(八五頁)というように、

国造支配のため置かれるミヤケの名残を示すものとして、積極的に評価してきた16)。

 しかしこの論は成立しないものとなった。三分里は既に知られている佐分(文)里の異字表記であ

るから、当該木簡の三家首も佐分(文)里に属することになる。三家首は三家人を管轄する伴造であ

ろう。そこでもう一度、ミヤケを再評価する必要がある。

 ミヤケはヤマト王権が支配を実現するために、列島各地に置いた政治的・軍事的拠点であり、国

造・伴造の本拠地や重要な地点に置かれた、ヤマト王権の権力を象徴する建物ヤケ(家・宅)である。

そこはヤマト王権から使者が赴き、国造や伴造らに命令を伝える場となった。そのため尊敬を込めて

ミヤケ(御宅・御家)と呼ばれたのである17)。屯倉という表記は『日本書紀』にしか見えないもので

ある。そこで若狭を見ると、三家人・三宅人・三家首・三宅の見える木簡は二二点あるが、そのうち

十五例が佐分(文)里(郷)に集中する。したがってミヤケ・ミヤケビトという氏の人々はそこに本

拠があったとみるべきであろう。そしてそれがかつてのヤマト王権の支配拠点であるミヤケに由来す

るなら、佐分(文)は若狭国造の本拠地ではないから、国造の支配以外の別の目的を考えなければな

らない。結局比定地こそ違ったが、狩野氏が指摘したように塩、あるいは海産物を確保するためのミ

ヤケであった可能性が高いだろう。

 (3)角鹿の塩

 長屋王家木簡の中には角鹿の塩(二( 3 )d 3 )の存在を示す木簡があった。これは角鹿で生産さ

れた塩である。角鹿の塩というとすぐに思い出されるのが、『日本書紀』武烈即位前紀に見える次の

ような話である。仁賢天皇の太子であった小お

泊はつ

瀬せの

稚わか

鷦さ

鷯ざき

(後の武烈天皇)が結婚しようとしていた大

連の物もののべの

部麁あ ら か い

鹿火の娘の影媛を、大臣の平へぐりの

群真ま

鳥とり

の子の鮪しび

が姦した。そのことを知った太子が大伴金村

と策を練り、金村が兵を率いて真鳥の宅を囲み火を放ったところ、死を悟った真鳥は全国の塩を呪っ

た。ところが角鹿の海の塩だけは呪いをかけるのを忘れたため、角鹿の塩が天皇の食物となり、それ

以外の海の塩は天皇が忌むところとなった、というものである。しかしかつては敦賀における塩の生

産が、史料からも製塩遺跡からも捉えられなかった一方、若狭では製塩業が盛んであったことが知ら

れるために、若狭の塩を敦賀経由で天皇の元へ運んだために、それが角鹿の塩と呼ばれたのではない

かと考えられた18)。しかしここに角鹿の塩が実態として姿を現したのである。

 実は『通史』以後、いくつかの敦賀郡の調塩木簡が報告されている。少しあげてみる。

① 江祥里戸主角鹿直綱手

     戸口海直宿奈□□調三斗          〔万呂ヵ〕        209×31×5 033(「補遺」一二-六)

②・津守郷戸主物部広田戸口同

     入鹿調塩□□        〔一ヵ〕 ・   □□八年十月     〔天平ヵ〕           (181)×28×7 033(「補遺」一六-二二)

 ①はd 3 と同じく長屋王家木簡、②は二条大路木簡の中に含まれる、平城京左京三条二坊八坪の北

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木簡から読む古代のふくい

側を東西に走る二条大路の南路肩に掘られた濠状遺構SD五一〇〇からの出土である。

 ①に名の見える角つぬがのあたいつなて

鹿直綱手は、天平二年(七三〇)度「越前国大税帳」(『大日本古文書(編年文

書)』一-四二八頁)などに、敦賀郡の郡司の次官である少領として見える人物である。したがって

江祥里は同郡の里であり、『和名抄』の与祥郷のこととわかる。ここでは国郡名が省略され里名か

ら始まり、その下が割書になるが、それと全く同じ書式で②は書かれている。したがって津守郷も、

『和名抄』に見える敦賀郡津守郷にあたると判断できる。

 他にも敦賀郡にあった松原駅(「補遺」一六-二一)からの調塩の荷札があるし、物品名を書いて

いなかったり読めなかったりするが、返駅(=鹿蒜駅)からの荷札も分量が三斗だから調塩とみてよ

い(『資料』九四・「補遺」一六-二三)。

 このように越前では敦賀郡からは調塩を貢進していることがわかったが、他郡の調木簡を見ると大

野郡の銭(『資料』八一)、丹生郡の波奈佐久(同八二)くらいしか例がない。また文書では天平十二

年「越前国江沼郡山背郷計帳」(『大日本古文書(編年文書)』巻二-二七三頁))から調あしぎぬ

絁が知られる

が、塩を出していることを物語る荷札や史料はない。すなわち現在までの成果によると、越前では敦

賀郡のみが調として塩を出していることになり、かつ同郡の調としては塩の事例しかないのである。

 同郡では返駅のような山深い所の人も含め、郡全域から塩を貢進している。これは国中の人が調塩

を出している若狭と全く同じ傾向である。若狭と敦賀の親近性を示していると言えよう。このことが

わかる以前から、先の角鹿の塩の理解などから、敦賀と若狭は元来同一の地域であったのが、何らか

の事情で敦賀は越前に所属するようになったと、狩野久氏は指摘され、私もその驥尾に付して同様に

考えてきた19)。

 そして調塩木簡の存在から、その想定はいっそう裏付けを与えられたと言えるのではなかろう

か。両者の関係を考える時、敦賀にある気比神社の存在は注目される。『古事記』仲哀段には、太子

品ほむだわけのみこと

陀和気命(後の応神天皇)が角鹿で、そこの神から御み け

食の魚として浦を埋め尽くすほどのイルカを

給わったので、神を御み け つ

食津大神と名づけた、それが今の気比大神であるとの伝承が見える。同神は

『日本書紀』では笥飯(大)神(応神即位前紀・持統六年九月戊午条など)と書かれるように、文字

どおり食膳の神であった。ところが『国こくぞう

造本ほん

紀ぎ

』が記すように、若狭国造には朝廷の食膳を掌った膳かしわで

氏がなったこと、木簡からは塩や海産物の贄などを若狭が出していることから、天皇に食膳を供する

という役割は、敦賀よりも若狭に著しい。

 こうしたねじれを解決するには、かつて敦賀と若狭は一体の地域で角鹿と呼ばれており、塩とさま

ざまな魚介類を朝廷に貢進していたが、後に若狭地域が特に天皇へ海産物の食膳を贄として貢進する

国と位置づけられた結果、そこから切り離されてわずか二郡で立国されるようになったのではないか

という見通しを述べたことがある20)。これに従えば、武烈即位前紀の角鹿の塩は、若狭も一体であっ

た時期の角鹿からのものであり、長屋王家木簡の中のそれ(二( 3 )d 3 )は、越前国敦賀郡で作ら

れた塩であろう。同じ名称でも、その内容は少し異なっていたわけである。しかし奈良時代になって

も、長屋王邸という当代一級の皇族の家において地名を冠されて呼ばれるように、それは質の良い塩

であったのであろう。

 若狭と敦賀の関係は、古代ふくいの実態を解明する上で、重要な課題である。上記の私の見通しで

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

全てが解けるのか、今後も検討を深めていかねばならない21)。

 (4)越前介佐味虫万呂

 越前国関係木簡の( 3 )f 1 は断片だが、そこには越前介佐味虫万呂の名が見えた。しかしそれが

いつのものかは木簡に書かれていない。彼に関する記事は、『続日本紀』に散見する。いずれも虫麻

呂と表記するが、神亀二年(七二五)十一月には中務少丞の任にあって従六位上から従五位下に昇り、

天平元年(七二九)二月のいわゆる長屋王の変の際は、衛門佐として軍を率いて長屋王宅を包囲して

いる。同十五年五月には従五位上になり、同十七年九月に越前守に任じられた。その後同十九年九月

には治部大輔に移り、二十年二月に正五位下、天平宝字元年(七五七)五月に従四位下になり、同三

年七月には備前守のまま中宮大夫を兼任することになった。そしてその三ヵ月後の十月に死去してい

る。『続日本紀』から知られるこの経歴中には、越前守はあるが越前介は見えない。それでは一体f1

はいつ頃のものであろうか。そのためには反対側の面を検討する必要がある。

 それは和泉国関係のものである。同国は霊亀二年(七一六)四月に河内国から大鳥・和泉・日根三

郡を割いて和泉監げん

を置いたのに始まる。和泉監というのは、そこにあった珍ち

努ぬの

宮みや

を管轄するための特

殊行政区であった。天平十二年(七四〇)八月には一旦河内に併合されて姿を消したが、天平宝字元

年(七五七)五月になって再び分立されることになった。その時には和泉監ではなく和泉国と呼ばれ

た。

 そこで監司・国司の中から「御□□万呂」に該当する人を探すと、天平十年四月五日「和泉監正税

帳」(『大日本古文書(編年文書)』巻二-七五頁)に「天平八年正正六位上勲十二等御みつかいのむらじおとまろ

使連乙麻呂」

の名が見える。「天平八年」の次に「正」の字が二つあるが、後者は「正六位上」という位階の一部

であり、前者の正かみ

は和泉監の長官のことである。つまり天平八年の和泉監の長官という意味である。

この人物なら「和泉正御使乙万呂」と書けば、木簡の記載に適合する。ちなみに「同正税帳」には

「天平九年正従六位上勲十二等黄文連伊加麻呂」という彼の後任の正の名も見え、彼はまた「同正税

帳」に「従六位上正勲十二等黄文連伊加萬呂」(九七頁)と加署している。したがって御使連乙麻呂

が正であるのは、天平八年頃のこととなる。

 ところで同所から出土した木簡の中には、内容が類似する次の木簡もある。

 〔河ヵ〕 〔広ヵ〕 ・□内介大蔵□足 □

 ・常陸守坂本宇豆□         (75)×(8)×2 081(『平城京』三-四七五九)

 ここに見える国司のうち河内介すけ

の大蔵広足は他に所見がないが、常陸守の坂本氏については、『続

日本紀』天平九年正月丙申条に常陸守従五位上勲六等坂本朝臣宇う ず ま さ

頭麻佐の名が見える。この人物こそ

木簡に見える「常陸守坂本宇豆□」であろう。そうするとこれも天平八・九年頃の内容を記したこと

になる。

 そもそもSD五三〇〇から出土した木簡の年紀は、神亀二年(七二五)から天平八年にわたり、天

平七・八年のものが主体を占め、天平九年頃に埋まったとみられている。これらの木簡の内容はそれ

にふさわしい。したがって佐味虫万呂が越前介であったのも、天平八年頃のことであろう。彼は介を

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木簡から読む古代のふくい

勤めた後、後に再び越前に守として赴任したのである。

 なおf 1 及び右にあげた河内介・常陸守木簡の他に、美濃守と書いた木簡もある(『平城京』三-

四七六一)。それら三点の材は似ているという(『平城京』三-四七五九の解説)。f 1 と右にあげた

木簡では、表に和泉・山背・河内という畿内諸国、裏に越前・常陸という畿外諸国を記しているから、

もともと一点一点の木簡に別々に書かれていたのではなく、大きな木簡の表裏に書き連ねてあったの

を、割いたのであろう。そして国司の守がいたり介であったり統一されていないし、各国一人しか名

をあげていないから、国司一覧とみることはできない。二条大路木簡が光明皇后宮と藤原麻呂邸に関

わるものであることからすると、いずれかの組織に仕えていた人の中で国司になっていた人たちの名

を書き連ねたものではなかろうか。

 おわりに

 以上、これまで報告されていなかったり、釈文が訂正されたりした若狭・越前国関係木簡を紹介す

るとともに、それらに若干の考察を加えたところである。八〇年代後半に計約一一万点出土した長屋

王家木簡・二条大路木簡以来、それに比肩するような木簡の出土はまだ報告されていない。かなりの

出土があるとは仄聞するが、報告書の作成には到っていない。したがって今回紹介したものは、大き

く言えばこれまでに知られていた木簡の枠内に収まるものであり、全くの新知見はそれほどないと言

わざるを得ない。

 しかし若狭・越前は他の国と比較してみれば、多くの木簡が出土している方であり、木簡の出土は

偶然に頼らざるを得ないことに鑑みれば、恵まれているのである。むしろこれまで知られている木簡

を再検討すること、とりわけふくいの現地に即して読み直すことこそ、今後求められるのではなかろ

うか。そうした研究の一助に本稿がなれば幸いである。

注1 ) 鬼頭清明『律令国家と農民』塙書房(一九七九年)第一部第三章、舘野和己「律令制の成立と木簡」『木簡研究』

二〇(一九九八年)など。2 )鎌田元一「郷里制の施行と霊亀元年式」及び「郷里制の施行 補論」『律令公民制の研究』塙書房(二〇〇一年)。3 ) 釈文の訂正については、舘野和己「福井の地域史と木簡」『福井県文書館だより』一一(二〇〇八年三月)で報

告した。4 ) 『和名抄』の写本としては高山寺と大東急記念文庫に残るものが知られる。そのうち高山寺本には佐文とあり、

大東急記念文庫本では佐分とする。木簡にも両様の表記が見える。5 ) 杉山大晋「若狭国遠敷郡における官衙・集落遺跡」『条里制・古代都市研究』二四(二〇〇八年)。6 )奈良(国立)文化財研究所『平城宮木簡(解説)』四~六(一九八六~二〇〇四)参照。7 ) 橋本義則「紫香楽宮の宮号について」『平成五年度遺跡発掘事前総合調査事業にかかわる紫香楽宮関連遺跡発掘

調査報告』(一九九四年)。8 ) 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」奈良女子大学古代学学術研究センター『古代学』四

(二〇一二年)。9 ) この釈文の訂正についても、舘野和己注 3 )前掲論文で報告した。そこではまた、角鹿塩をめぐって第 3 章で

論じることについても、簡単に言及した。10)岸俊男「『嶋』雑考」『日本古代文物の研究』塙書房(一九八八年、初出は一九七九年)。

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福井県文書館研究紀要12 2015. 2

1 1)奈良国立文化財研究所『平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』(一九九五年)。12)舘野和己「西大寺領越前国赤江庄の復元」『福井県文書館研究紀要』七(二〇一〇年)。13) 渡辺晃宏「二〇〇六年出土の木簡 奈良・西大寺食堂院跡」木簡学会編『木簡研究』二九(二〇〇七年)、奈良

文化財研究所『西大寺食堂院・右京北辺発掘調査報告』(二〇〇七年)。14)舘野和己注 8 )前掲論文。15)狩野久「御食国と膳氏」『日本古代の国家と都城』東京大学出版会(一九九〇年、初出は一九七〇年)。16) 舘野和己「ミヤケと国造」吉村武彦編『古代を考える 継体・欽明朝と仏教伝来』吉川弘文館(一九九九年)。

同趣旨のことは「若狭の調と贄」小林昌二編『古代王権と交流 3  越と古代の北陸』名著出版(一九九六年)、「若狭・越前の塩と贄」小林昌二・小嶋芳孝編『日本海域歴史体系 1  古代編Ⅰ』清文堂(二〇〇五年)でも述べた。

17) 舘野和己「屯倉制の成立」『日本史研究』一九〇(一九七八年)、同「ミヤケ制再論」『奈良古代史論集二』真陽社(一九九一年)。

18)同志社大学文学部文化学科編『若狭大飯』(一九六六年)。19)狩野久注15)前掲論文、舘野和己注16)前掲「若狭の調と贄」。20)舘野和己注18)前掲「若狭の調と贄」及び「若狭・越前の塩と贄」。21) 鈴木景二氏は、二〇一二年一一月二四日に美浜町で行われた歴史フォーラムで、若狭と角鹿は一体ではなく別々

の地域であり、両者からの塩や食物の貢進は、「大和政権直轄の御食国タイプ」の若狭と、服属した国造による「服属儀礼に由来する食物貢納のタイプ」の越前という、異なった形の貢納であったと理解すべきであるとの報告をされている(鈴木景二「『角鹿(敦賀)の塩』再考」『美浜町歴史シンポジウム記録集 7  若狭国と三方郡のはじまり』美浜町教育委員会(二〇一三年))。

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木簡から読む古代のふくい 資料編

- 75(12) -

 

16 

少□□部廣□大□

97

×16

×5 

051 『城』三八

-一八

 

17・越前国足羽郡野田郷戸主□

  

・□□白米五斗延暦五年十一月

(109

)×20

×3 019 『城』三九

二四

 

18・羽郡野田郷戸主

私人戸口生江伊加万呂

  

・延暦五年十月廿七日

142

×18

×3 

051 『城』三八

一八

 

(4) 

長岡宮・長岡京跡(京都府向日市)

  a長岡宮跡東辺官衙・春宮坊跡 

東一坊大路西側溝SD三二九〇一

              

白米

 

1 

酒井郷戸主大屋子真麻呂

194

×31

×5 

051 『木研』二一

三五

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- 76(11) -

 

7・□万呂黒米五斗西大寺

  

・赤江北庄延暦十一年地子

147

×16

×6 

051 『城』三八

一八

 

8・西大寺赤江北庄延暦十一年地子

  

・秦浄人黒米五斗

116

×11

×4 051 『城』三九

二五

 

9・西大□

  

・延暦□

(44

)×17

×5 

019 『城』三八

一八

 

10・□庄白米五斗

  

・□六月五日吉万呂

  

〔年カ〕

(96

)×15

×4 

059 『城』三九

二五

   

〔庄カ〕

 

11 ・□□黒米五

  

・□暦十一年十二月八□

  

〔延カ〕

(82

)×15

×3 

081 『城』三九

二五

 

12  

少戸主波太部直万呂大豆五斗

162

×13

×5 

051 『城』三八

一八

 

13  

少戸主波太部直万呂戸□田料大豆五斗

(218

)×22×4 

039 『城』三九

三二

 

14  

少波太部直万呂

154

×12

×4 

051 『城』三八

一八

 

15  

少戸主□□□□紀須大豆五斗

(195

)×16

×3 

033 『城』三八

一八

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- 77(10) -

  g平城京右京一条三坊八坪(西大寺旧境内食堂院跡推定地) 

井戸SE九五〇

 

1・西大赤江南庄黒米五斗吉万呂

  

・延暦十一年六月十五日吉万呂

156

×21

×4 

051 『城』三八

一八

 

2・西大赤江南庄黒米五斗

  

・延暦十一年十二月十一日吉万呂

151

×19

×3 

051 『城』三九

二五

  

〔西大赤江カ〕

 

3・□□□□南庄黒米五斗

  

・延暦□□十二月廿日□□□□

    

〔十年カ〕   

 

〔万呂カ〕

175

×16

×4 

051 『城』三八

一八

 

4・西大赤江南庄黒米

  

・■

  

〔延カ〕

126

×16

×5 

051 『城』三九

二五

   

〔江南庄カ〕

 

5・

□□□

  

・延暦十□

     

〔一カ〕

(51)×19

×5 

059 『城』三九

二五

 

6・穴太加比万呂黒米五斗

  

・□□□赤江北庄延暦十一年地子

  

〔西大寺カ〕

108

×14

×2 

051 『城』三八

一八

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- 78( 9) -

  

〔越カ〕

 

2 

□前国□

091 『平城宮』六

-一〇五四二

  

d平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸 

SD四七五〇(長屋王家木簡)

     

〔鴨カ〕

 

1 

丹生郡□里栗一斗

140

×15

×2 

051 『平城京』一

四三七(#「補遺」一〇

五〇)

 

2 

鴨里栗一斗□

138

×22

×3 

033 『平城京』二

二一九六

      

〔又 

鹿 

卅籠カ〕

 

3 

□□四籠□角□塩□□

(240)×(13

)×(3

) 081 『城』四〇

二一(#『平城京』一

二〇四)

  e平城京左京三条二坊六坪 

蛇行溝SD一五二五

      

〔白カ〕

 

1・阿須波里□

  

・北宮御物俵□

(87

)×23

×4 

039 『平城京』一

一四(#『資料』八四)

  

f平城京左京二条二坊五坪

二条大路濠状遺構(北)SD五三〇〇(二条大路木簡)

  

〔和泉 

御  

万呂カ〕

 

1・□□□□□□□□ 

山□

  

・□□□□□□□□

  

〔越前介佐味虫万呂カ〕

(75

)×(5

)×1 

081 『平城京』三

四七六〇

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- 79( 8) -

二 

高志国・越前国関係木簡

 

(1) 

藤原京跡(奈良県橿原市)

  a藤原京左京七条一坊西南坪 

池状遺構SX五〇一

 

1 

高志国

091 『飛鳥藤原京』二

二三三一

 

(2) 

藤原宮跡(奈良県橿原市)

  a朝堂院回廊東南隅 

南北溝SD九八一五

1・□

  

□道□□□

  

  

□高志前

 

・□   

      

(72

)×(72

)×5 

065 『飛』一八

一八

 

(3) 

平城宮・平城京跡(奈良県奈良市)

  a平城宮第一次大極殿院西辺 

南北溝SD三八二五A

 

1・越前国□□郡□□ 

□□□

  

・□

228×20×4 

033 『平城宮』七

一二七五三

  

b平城宮第一次大極殿院西辺 

整地土下層

                

〔麻呂カ〕

 

1 

□□□返駅子大神仲面戸口同安□□

273

×27

×5 

032 『平城宮』七

一二六四四

  c平城宮東南隅部式部省跡 

井戸SE一四六九〇

  

〔越カ〕

 

1 

□前国丹

091 『平城宮』六

一〇五四〇

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- 80( 7) -

 

(5) 

宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町宮町 

紫香楽宮・甲賀宮跡)

  a大溝SD二〇一〇一

    

〔郡カ〕

 

1 

遠敷□

091 『木研』二一

一二二

  

b西大溝SD二二一一三

 

1 

若  

2 

方郡  

3 

郡   

(以上三点、同一部材) 091 『

木研』二二

一一一

  c西大溝SD二二一一三

            

 

1・

国遠敷郡玉置郷 

御調塩 

               

〔斗カ〕

  

・   

天平十五年九月廿九日

(147

)×22

×3 

019 『木研』二四

六〇

 

2・

郡弥美里

    

〔塩カ〕

  

・□調□三斗 (115

)×27

×3 

059 『木研』二四

六〇

 

(6) 

長岡宮・長岡京跡(京都府向日市)

  a長岡京左京三条二坊一町 

三条条間北小路北側溝SD四二五〇一

 

1・「小丹里人」

        

請飯陸升各弐升

  

・ 

延暦八年七月廿四日勾廣床

(205

)×43

×5 

081 『木研』二三

二八

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- 81( 6) -

  

h平城宮東南隅 

東一坊大路西側溝SD四九五一

       

〔郡カ〕

 

1 

若狭国三方□□

(85

)×(12

)×6 

081 『城』三四

一五

  

i平城宮内裏北方官衙地区 

土坑SK八二〇

            

丸部里竹田部首乙

 

1 

若狭国三方郡竹田郷

調

(141)×22

×2 

051 『城』三七

二九(#「補遺」一六訂正・#『資料』五四)

  j平城京左京二条二坊十・十一坪 

二条条間路北側溝SD七〇九〇A

                

〔千カ〕

 

1 

若狭国遠敷郡車持郷長部里□□□□

         

      

□□

                

〔六カ〕

199

×24

×4 

065 『城』三四

二五

  

k平城京左京二条二坊五坪

二条大路濠状遺構(北)SD五三〇〇(二条大路木簡)

1  

□  

 

□  

 

 

□  

   

□     

          

□ 

若  

 

□ 

□   

 

□  

狭 

□       

給  

  

 

          

□ 

狭  

   

□      

□ 

       

 

 

    

□ 091 『

平城京』三

五四二七

 

(4) 

八条北遺跡(奈良県大和郡山市八条町) 

溝SD一

            

 

1 

若佐国

 

佐□□□

(136

)×31

×7 039 『

木研』三二

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- 82( 5) -

  e平城宮第一次大極殿院西辺 

整地土下層

       

 

〔佐分郷  

里カ〕

 

1 

若狭国□□郡

□□□式多□三家人乙末呂

     

〔遠敷カ〕 □塩五後 

養老六年

       

 

〔調カ〕

221

×31

×6 

031 『平城宮』七

一二六四二(#「補遺」一〇

三)

       

〔里カ〕

 

2 

三方郡弥美□□□□□

(113

)×(6

)×3 

081 『平城宮』七

一二六四三

  

f平城宮東方官衙地区 

土坑SK一九一八九

         

佐分郷戸主三家人大人戸

 

1・若狭国遠敷郡三□公常石海藻六斤

  

・□荒嶋

169

×31

×7 

031 『城』三九

一四

        

委部椋人御

 

2・遠敷郡野郷調塩一斗

  

・ 

神護景雲三年九月

192

×35

×4 

033 『城』四二

一〇

  g平城宮東南隅式部省 

東西溝SD四一〇〇

 

1 

□若□国三□郡人

    

〔狭  

方カ〕

091 『平城宮』五

六七三八

  

〔年五十カ〕

 

2 

□□□

   

若狭国□

     

〔三カ〕

091 『平城宮』五

六七三九

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- 83( 4) -

 

(3) 

平城宮・平城京跡(奈良県奈良市)

  a平城宮東院庭園地区 

二条条間路北側溝SD五二〇〇A

         

〔郷嶋田里カ〕

 

1・若狭国遠敷郡野□□□□

    

〔六 

八カ〕

  

・養老□ 

□月

174

×(14

)×3 

031 

『城』三四

-二二(#「補遺」一六

三)

  

b平城宮東院庭園地区 

二条条間路北側溝SD五二〇〇Bb

          

〔郷カ〕

 

1 

□□遠敷郡車持□

    

〔国カ〕

(98

)×(12

)×6 

039 『城』三五

一一

  c平城宮東院庭園地区 

東二坊坊間路東側溝SD一七七七九 

        

〔佐分カ〕

 

1 

若狭国遠敷郡□□郷

         

 

(200

)×26

×3 019 

『城』三四

二三(#「補遺」一六

九)

  

d平城宮第一次大極殿院西辺 

南北溝SD三八二五C

         

余戸里宍人□臣足

 

1 

若狭国遠敷郡 

御調塩

160

×35

×4 

031 『平城宮』七

一二七九四

      

〔忌浪カ〕

 

2・

□  

□□□

   

〔郷カ〕

 

  

・□   

塩三斗

(134

)×24

×4 

039 『平城宮』七

一二七九五

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- 84( 3) -

  

d飛鳥池遺跡南地区 

水溜SX一二二八

  

〔木津カ〕       

〔斤カ〕

 

1 

□□ 

□部

仍利六□

204

×32

×6 

031 『飛鳥藤原京』一

一三六

  e石神遺跡 

南北溝SD四〇九〇

 

1 

竹田部五戸俵六斗

131

×22

×6 

033 『集成』二九四

 

(2) 

藤原宮跡(奈良県橿原市)

  a北面中門地区 

北外堀SD一四五

      

〔車カ〕

 

1・小丹評従□里人

  

・移部止己麻尓侶皮

         

一斗半 147

×30

×3 

011 『集成』一二九(#『資料』九)

  

b北面地区 

北外堀SD一四五

          

〔生カ〕

 

1・己亥年若佐国小丹□

  

・三分里三家首田末□

          

〔呂カ〕

(106

)×25

×5 

019 『集成』一二二(#『資料』五)

  c東方官衙北地区 

土坑SK八五四五

              

〔野カ〕

 

1 

丁酉年□月

 

 

評□里

           

若□□ 

           

〔倭部カ〕

(179

)×31

×4 

031 『集成』一二〇

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- 85( 2) -

    

「補

遺」=『福井県史研究』一〇・一二・一六で報告した若狭・越前国関係木簡補遺(号数と木

簡番号を記す)

    

『集成』=奈良文化財研究所『評制下荷札木簡集成』(木簡番号を記す)

    

『藤原宮』=同『藤原宮木簡』(号数と木簡番号を記す)

    

『飛鳥藤原京』=同『飛鳥藤原京木簡』(号数と木簡番号を記す)

    

『飛』=同『飛鳥藤原宮発掘調査出土木簡概報』(号数と掲載頁を記す)

    

『平城宮』=同『平城宮木簡』(号数と木簡番号を記す)

    

『平城京』=同『平城京木簡』(号数と木簡番号を記す)

    

『城』=同『平城宮発掘調査出土木簡概報』(号数と掲載頁を記す)

    

『木研』=木簡学会『木簡研究』(号数と掲載頁を記す)

一 

若狭国関係木簡

 

(1) 

飛鳥地域(奈良県明日香村)

  a飛鳥京跡 

東西溝SD九二〇五

 

1 

野五十戸秦勝黒

       

又椋人二人并二斗

152

×28×5 

031 『集成』一一九(#「補遺」一六

二)

  

b飛鳥池遺跡南地区 

水溜SX一二二〇

 

1 

丁亥年若佐小丹評木津部五十戸

           

秦人小金二斗

197

×30

×3 

031 『飛鳥藤原京』一

一八(『集成』一二四)

  c飛鳥池遺跡南地区 

水溜SX一二二二

    

〔五十戸カ〕

 

1 

三分□□□ 

(98

)×16

×4 

039 『飛鳥藤原京』一

一〇五(『集成』一二三)

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- 86( 1) -

資料編

   

凡 

一、 『福井県史 

資料編1 

古代』収録の「若狭・越前国関係木簡」及び『福井県史研究』

一〇・一二・一六で報告した「若狭・越前国関係木簡補遺」(それぞれ、舘野和己・田中正人・的矢

俊昭執筆)以後に出土あるいは報告された若狭・越前国関係木簡、及び先の報告の釈文が後に訂正

されたものを収録した。ただし越前関係でも後に能登・加賀両国に含まれる地域の木簡は採録して

いない。またこれまで報告した木簡の中には、出典が概報、論文や研究会資料などであり、その後

報告書が刊行されているものもあるが、釈文に変更がない場合は取り上げなかった。

一、

木簡釈文の表記方法については、奈良文化財研究所方式と木簡学会方式とがある。これまでの報告

では、上下端が原形をとどめていることを示す「・」や、切り込みを示す<、折れているがさらに

文字が続くことが予想される場合の×などの記号を用いる木簡学会方式を採用したが、ここではそ

れらを用いない奈良文化財研究所方式で表記する。

  

 

ただし同方式でも、欠損文字のうち字数の確認できるものを示す□□、字数の数えられないもの

を示す

、記載内容から上または下にさらに文字があることを推定できることを示す

それに欠損文字に加えた注で、疑問が残るものを示す〔ヵ〕は用いている。

一、

釈文下の上段の数字は、木簡の長さ・幅・厚さを示す(単位は㍉)。欠損や二次的整形を受けてい

る場合は、現存部分の法量を括弧付きで示した。下段の数字は、木簡の現状の形態を示す型式番号

である。その意味は適宜文中で述べる。

一、

木簡の集成にあたっては、独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所がホームページで公開し

ている木簡データベースを利用した。またそこには木簡に関する諸情報を記載しているので、参照

していただきたい。

一、

資料編の中で用いた記号は以下の通りである。

    

#=記号を付けた既報告の釈文を訂正したもの

一、

出典の略号は次の通りである。

    

『資料』=『福井県史 

資料編1 

古代』(若狭・越前国関係木簡)(木簡番号を記す)

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平成27年 2 月25日 発行

編集発行 福 井 県 文 書 館 〒918-8113 福井県福井市下馬町51-11 Tel.0776(33)8890

印  刷 創文堂印刷株式会社 〒918-8231 福井県福井市問屋町1-7 Tel.0776(22)1313

福井県文書館研究紀要 第12号