戦中戦後台湾における教育経験...Ⅰ.総説:台湾の行政制度,教育制度の変遷...

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は じ め に

本稿は,2015年3月20日に台湾・宜蘭市の宜蘭県史館においておこなった李英茂氏へのインタビュー記録をまとめたものである。1929(昭和4)年に生まれた李英茂氏は,日本統治時代に幼稚園,公学校,中学校で教育を受け,中学校在学時に終戦を迎えた。戦後は初等教育機関である国民小学で教師を41年間務め,退職後は宜蘭県史館でボランティアを22年間務めている。ここには,日本統治時代に教育を受け,戦後は教師として教壇に立ち,戦前から現在に至るまで,宜蘭という台湾の一地方都市で人生の歩みを進めてきた人物のライフヒストリーが示されている。戦後70年が経過し,このような戦中から戦後の台湾を生きた人々が,自分のライフヒストリ

ーを自ら口述できる機会がかろうじて残されている現在にあって,出来る限りの記録を残していくことが歴史研究にとって緊急性の高い課題であるという観点から,本稿をまとめた。以下,本稿では,まず李英茂氏のライフヒストリーを理解するための歴史的背景として,戦

前から戦後にかけての台湾における行政制度や教育制度の変遷について概説する。そのうえで,私たちがおこなったインタビューの記録をまとめる。インタビューは著者3名が李英茂氏に対して日本語でおこなった。インタビュー中に出てき

た表現のうち,歴史的表現として修正を要すると思われる箇所もあるが,ある事象をどのように表現するかということも重要と考え,そのままとした。なお,本稿の編集と脚注については著者3名で分担し,「Ⅰ.総論」の執筆を山本,「Ⅲ.お

わりに」の執筆を樋浦,写真の撮影・整理・画質調整を須永が主に担当した。また,当日は李英茂氏の知己の日本人男性が1名,同席していたことを付記しておく。

インタビュー記録

戦中戦後台湾における教育経験―宜蘭・李英茂氏への聞き取り記録から―

〔要 旨〕 本稿は,2015年3月20日に台湾・宜蘭市の宜蘭県史館においておこなった李英茂氏へのインタビュー記録をまとめたものである。1929(昭和4)年に生まれた李英茂氏の人生には,日本統治時代に教育を受け,戦後は教師として教壇に立ち,戦前から現在に至るまで,宜蘭という台湾の一地方都市で人生の歩みを進めてきた人物のライフヒストリーが示されている。本稿では,李英茂氏のライフヒストリーを理解するための歴史的背景として,戦前から戦後にかけての台湾における行政制度や教育制度の変遷について概説したうえで,インタビューの記録をまとめる。最後に,インタビューに示された李英茂氏の経験を歴史的な観点からまとめ,インタビューの台湾研究・植民地研究・歴史研究における意味について指摘する。

〔キーワード〕 植民地教育,学校生活,教員文化,ライフヒストリー,郷土教育

山本和行・樋浦郷子・須永哲思

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Ⅰ.総説:台湾の行政制度,教育制度の変遷

1895年,日本は日清戦争の結果として台湾および澎湖島を獲得した。日本の植民地統治はここから始まるが,近代的な国家制度の形成途上に植民地を領有し,かつ,台湾領有後も続く抗日武装蜂起に対する軍事制圧を並行して展開するなかで,模索と修正,抑圧と懐柔を繰り返しつつ,常に不安定な要素を内包しながら植民地統治は進められた。1895年4月17日に下関条約(馬関条約)締結後,5月24日に近衛師団が台湾北東部の澳底から上陸,6月17日に台北城内で「始政式」が挙行されている。台湾の統治機構として設置された台湾総督府は,台湾全島で展開される抗日武装蜂起への軍事制圧を背景に軍政を敷き,3県1庁(台北県,台湾県,台南県,澎湖島庁)から1県2民政支部1庁(台北県,台湾民政支部,台南民政支部,澎湖庁)の地方行政制度を形成し,台湾統治を開始した。1896年4月から民政に移行するが,地方行政制度は幾度も再編を重ねた。3県1庁(1896年4月~),6県3庁(1897年5月~),3県3庁(1898年6月~),20庁(1901年11月~),12庁(1909年10月~),5州2庁(1920年10月~)を経て,1926年7月の5州3庁(台北州,新竹州,台中州,台南州,高雄州,花蓮港庁,台東庁,澎湖庁)の体制に落ち着く。この間,1915年の噍吧�(タバニー)事件(西来庵事件)に至る20年間,抗日武装蜂起とそれに対する軍事制圧は継続的に展開されていた。したがって,初代総督樺山資紀から第7代総督明石元次郎まで武官総督の時代が続き,1919年10月の田健治郎総督就任を区切りに文官総督へと移行した。なお,先住民の居住地域(主に台湾中央部の山間地域)については,警察行政が所管する

「特別行政区域」として,一般の地方行政制度とは切り離されていた。先住民に対する軍事制圧は上述した1910年代以降も継続的に展開されていたが,1930年10月の霧社事件発生に象徴されるように,軍事制圧を背景とした特別統治の体制は継続されていった。李英茂氏の生活圏である宜蘭は,台湾東北部の蘭陽平野の中心に位置し,特に清朝時代には

穀倉地帯であったために経済活動の中継地として発展し,日本統治時代は西に面する太平山の林業を基盤に発展した地方都市である。1897年4月までは台北県宜蘭支庁,1897年5月から1920年8月までは宜蘭庁,1920年9月以降は台北州宜蘭郡として区分され,1940年10月には宜蘭郡の中心都市であった宜蘭街が宜蘭市へと昇格している。こうした軍事制圧の展開と行政制度の整備に並行する形で,学校教育の実施も模索されてい

く。1896年4月に「台湾総督府直轄諸学校」として国語伝習所が台湾各地(14か所)に設置されたことを皮切りに,1898年までに国語伝習所分教場(48か所)と合わせて,62か所の台湾人子弟向けの教育施設が設置,1898年7月の「台湾公学校令」公布を機に,これらの教育施設を基に公学校が設置された。公学校は「本島人ノ子弟」(「台湾公学校規則」第1条,1898年8月)を対象とする初等教育

機関であり,「内地人ノ学齢児童ヲ教育スル所」(「台湾小学校規則」第1条,1902年4月)である「小学校」が別に設置され,民族別学の教育制度が敷かれた。小学校は「内地」の小学校令などに準拠する形で整備されたが,公学校は別系統とされたため,「本島人」の上級学校への進学は,主に師範教育を担う「国語学校」か,医療従事者を養成する「医学校」,もしくは職業訓練をおこなう「農業試験場」,「糖業講習所」,「工業講習所」などに限られていた。民族別学の教育制度は,1910年代ごろから始まる教育制度再編の動きのなかで見直しが進め

られ,1919年1月の第一次台湾教育令発布を経て,1922年2月の第二次台湾教育令発布に至って,制度上は民族別学に代わって「国語ヲ常用スル」かどうかが別学の基準となった。すなわ

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ち,「国語ヲ常用スル者ノ初等普通教育ハ小学校令ニ依ル」(第2条),「国語ヲ常用セサル者ニ初等普通教育ヲ為ス学校ハ公学校トス」(第3条)とされた。その後,1941年の「国民学校令」発布を受けて,小学校・公学校は国民学校へと改組された。初等教育制度の再編と並行して,中等・高等教育機関の設置も進んだ。公学校から接続する

上級学校として,第一次台湾教育令においては,高等普通学校(4年),女子高等普通学校(3年),師範学校(5年),工業・商業・農林学校(3年),商業・農林専門学校(6年),医学専門学校(8年)の設置を規定し,第二次台湾教育令発布後は,「内地」の制度に準拠する形で,中学校(5年),高等学校(3年),高等女学校(4年)などを設置するとされた。なお,これらの中等教育機関では1925年から軍事教練を実施することとなり,1926年4月から,学校に現役将校を配属するようになっていった。民族別学による教育制度の再編にともなう形で台湾の教育制度整備が進んだとはいえ,1929

年の段階で「臺人中學生卻僅約2,000人,只占臺人總數的0.05%;相對的,僅約20萬的在臺日人中,卻有2,400餘名中學生,占1.2%,臺,日人的中學就學率相差達24倍之多。(台湾人の中学生はわずかに2,000人で,台湾人総数の0.05%を占めるのみであった。それに対して,わずか20万人ほどの在台日本人には,2,400余名の中学生がいた。(これは全体の)1.2%を占め,台湾人と日本人の中学就学率の差は24倍に達していた(1))」と指摘されているように,民族間の教育格差は依然として存在しつづけていた。そのほか,インタビューとのかかわりから,1905年3月に発布された「幼稚園に関する規

程」に基づき設置された幼稚園や,1930年4月に台北州が発布した「国語講習所要項及簡易国語講習所要項」を契機に設置された国語講習所を挙げることができる。幼稚園は規程発布当初からしばらくは「私立学校規則」(1905年11月)に基づいて全国各地

に設置され,その後,1921年5月の「台湾公立幼稚園規則」の発布以降,街庄立の公立幼稚園が設置された。ただし,1932年の段階で台湾全島に公立幼稚園32園,私立幼稚園37園,公立・私立を合わせた在籍児童が「内地人」1,746人,「本島人」2,269人と,教育機会としては限られていた(2)。国語講習所は1910年代ごろから各州・庁単位でおこなわれていた国語普及事業の延長線上に,

全島各地に設置された。上述した台北州の要項によると,国語講習所は「当該市,街,庄民中国語ヲ常用セサル者ニ対シ国語ヲ習得セシメ兼テ公民的教養ヲナス」とし,対象者を「凡ソ満十二年乃至二十五年ヲ以テ標準」と定め,上級学校には接続しない一年制の「国語普及」のための教育機関として開設された。1940年の時点で全島に3,454か所,生徒数214,865人が受講していた(3)。宜蘭では,初等教育機関として,1896年7月に宜蘭国語伝習所が開設され,1898年10月に宜

蘭公学校へと改組された。1936年9月時点の調査で宜蘭郡内に14の公学校(分校1校を含む)が設置されている。この間,1918年には宜蘭公学校から分離する形で,宜蘭女子公学校が開設されたほか,1899年7月に宜蘭小学校が設置されていた。その後,1941年4月の「国民学校令」にともなう改組においては,宜蘭小学校が宜蘭国民学校となり,宜蘭公学校は旭国民学校,宜蘭女子公学校は向陽国民学校と改組されている。また,中等教育機関としては,1926年5月に宜蘭農林学校,1938年4月に蘭陽高等女学校,1942年4月に宜蘭中学校が開設されている。そのほか,1922年12月に私立宜蘭幼稚園,翌年12月には同じ敷地内に私立香蘭幼稚園が開設

され,前者が「内地人」子弟,後者が「本島人」子弟の教育機関として幼児教育がおこなわれ

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ていた。また,宜蘭郡内各所に国語講習所が設置され,1936年12月の時点で50の国語講習所が設置されていた(4)。1945年8月,日本の敗戦を経て,台湾は中華民国・国民党政府の占領統治下に入ることとなった。同年10月に降伏調印式がおこなわれ,台湾総督府による植民地統治の行政機構は,中華民国の台湾省行政長官公署に引き渡された。台湾省行政長官公署は日本統治時代の行政制度を基に新たな統治体制を構築した。地方行政

制度は,日本統治時代の5州3庁制を改編し,1945年12月に8県を設置するとともに,新たに9省轄市と1局を設置した。その後,1950年9月には16県(宜蘭県,台北県,桃園県,新竹県,苗栗県,台中県,南投県,彰化県,雲林県,嘉義県,台南県,高雄県,屏東県,花蓮県,台東県,澎湖県),5省轄市(基隆市,台北市,台中市,台南市,高雄市),1局(陽明山管理局)の体制となり,現在の行政制度へとつながる基礎が形成された。教育制度は,学校施設および教員は日本統治時代の状況を引き継ぎ,学校体系を国民学校

(6年),初級中学(3年),高級中学(3年)に再構成したほか,実業学校を初級職業学校(3年)と高級職業学校(3年)へと再整備した。その後,1968年の義務教育九年制の導入にともない,国民学校を国民小学に,初級中学を国民中学に改組し,現在に至っている。教員については,台湾人教員の多くはそのまま現職にとどまり,日本人教員のポストに大陸から渡ってきた中国人教員が収まったため,職位における民族間格差もほぼそのままの形で継承された。教育制度の移管が日本から中華民国へとスライドする形でおこなわれたということは,すな

わち教授言語が日本語から中国語(北京官話)に移行したということを意味しており,中国語を「国語」として「国語教育」が推し進められていくなかで,台湾人教員の地位は構造的に低いままに押しとどめられていた。こうした民族間格差があらゆる社会制度において適用されていたような状況のなか,1947年

2月に二二八事件が発生した。二二八事件とは,台北の専売局による闇煙草の取締をめぐって起きた発砲事件をきっかけに台湾全土に広がった政治抗争と,それに対する軍事鎮圧のことを指している。事件の直接の犠牲者はおよそ18,000人から28,000人と言われるが,その後,1987年まで続く戒厳令の時代における「白色テロ」(5)も含めると,数万人の台湾の人々が軍事的・政治的抑圧のもとで犠牲になったといわれている。以上の歴史的背景を踏まえれば,李英茂氏は日本統治時代に初等教育を受け,中学校在学時

に日本の敗戦と中華民国・国民党への統治者の変更を経験し,二二八事件を経た戒厳令下の時代に国民小学の教師として教鞭を取っていたことになる。その後,1987年の戒厳令解除直後に退職し,台湾の民主化が進むなかで,宜蘭県史館でのボランティアを始めとする様々な活動に従事していることがわかる。

Ⅱ.李英茂氏へのインタビュー

【語られる台湾の歴史,日本への認識】―李:まずね,歴史的にこれ言いましょう。日本がね,台湾に統治に来た。1895年辺りですか。日清戦争で台湾が日本の植民地として,領土として,日本の統治が始まった。そして,日本の統治に対して,どういう思いとかね,どういう感じがあるかとね。三代に分かれています。おじいさんの時代。お父さんの時代。私の時代。ちょうど日本の統治が始まって,まず日本から近衛師団,北白川宮が兵隊を……。宜蘭と台

北県の境の澳底っていうところに上陸してきました。清の時代は,清の人はね,戦いに敗れた,

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日清戦争に敗れて,結局下関条約で台湾を割譲したということね。あの条約ね,条約にサインしたんでしょう。サインしたら,国と国との条約ならば,もう,台湾は結局,日本に領土を割拠されたわけだからね。こういうことはね,国際的に政府として認めないといけない。ところがね,清の政府というものね。もう4,000年もの歴史で,今までは……。―樋浦:一つの省。―李:皆さんもわかってるけどね。中国は,昔いろいろな時代があった。清の時代,明の時代,秦の始皇帝,漢の時代の,何千年も続いたこの国というものはね,昔はね,大国であった。―樋浦:中華思想という。―李:中華思想。それで自分でもおれたちはね,文明の高い国で,四方を見下ろしてる。君たちはみんな僕たちの属国だ。だから,とてもそういう親分気質があってね,日本だって遣唐使で昔から……。私のおじいさんはね,もう結局は,清がね,負けてもまた。負け惜しみでね。―樋浦:自分は清の人間と思っていらっしゃったの。―李:だからね,その時代は清の時代でしょう。清の政府からの影響を受けて,「おまえは漢民族だ」。今,日本に割拠された,日本に占領されたこの台湾。一種の恥と思ってね。台湾の初期はね,初期はおじいさんたちがね,反抗する。日本から,例えば,兵隊が上陸するでしょう。そして,例えば山の,あの原住民も同じように。でも,漢民族の意識でね,異民族が入るをよしとしないからね,反抗した。これは反抗期に入ってる。反抗期でしょう。だから,もうたくさんの先代の人はたくさんの犠牲になってしまってね。―樋浦:弾圧もありました。―李:おじいさんが漢にはね,帰る間際になってもね,「漢民族だ。抵抗しろ,抵抗しろと。反対しろ」。たくさんの犠牲者が出て。これに一つの反抗期の歴史がございます。これたくさん話すことがございます。お父さんの時代になったらね,日本人が統治に来て,学校を開いて,子どもが学校に入った。

お父さんはね,もうおじいさんとは少し考えが違ってきた。子どもたちがね,学校へ行ったら身ぎれいになって,きれいになって,日本の教育を受けたら楽しそうだ。幸せそうだ。だから,もう反抗を,その反抗を捨てて,一応受け入れられるという,心になって。でも,お父さんは昔どういう教育を受けたかと言うと,お父さんは昔,寺子屋。漢民族のね。漢民族,漢の時代はね,寺子屋しかない。四書五経とかね,読み書きだけでね。そうしたらね,子どもたちの教育はね,寺子屋よりずっと良さそうだ。だって。近代的な教育があって,衛生も良くなって,交通も良くなって,インフラ整備もあって。何だかだんだん,台湾が良くなっていったみたいな。お父さんの時代はね,おじいさんの時代ではなくて,だんだん日本の教育は良さそうだ。日本の政策は良さそうだなって。日本のあれを,統治を少しすんなりと受け入れてくれました。私たちの,お父さんは,後でね,お父さんも日本教育受けてます。公学校でね。公学校卒業したらね。日本人のいる,日本人のおる会社へ入って,日本人の職を。結局,お父さんは後でね,法院(6)に入れたんですよ。法院の書記としてね。日本人と一緒に結局働いた。日本人と一緒に働いて,書記として働いて。―樋浦:ちょうどこのころに李先生がお生まれになった。―李:そう。この年に私が。昭和4年。うちの親父は大正14~15年ころから,15年ごろからもう法院に入って,書記になって。そのときにもらった月給がね,確か40円か45円ぐらいの月給。当時の学校の校長先生よりも良かった。だから,僕たちはね,小さいときに,少し裕福な暮らし。教育も。僕たちが学校に入ったときは,もう自分を日本人だと思ってね。だって,先生が

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日本人でしょう。日本教育を受けるでしょう。おまえたちは日本の国民だ。だからね,教育勅語とかいろいろな日本の教育を僕たちはすんなりと受け入れて。公学校卒業して中学校入ったときは,また中学校の中には,また日本人のクラスメイトが半

分。台湾人は半分(7)。みんな一緒に同じように毎日楽しく勉強したでしょう。だから,僕たちの時代も日本人だと思って。もちろんお父さんからはね,「あんたは昔は漢民族だよ」ってね,そういう観念は受けているけどね。

【家庭内の言葉と,「国語家庭」の門札】―山本:お父さんと話をしていたときは,日本語でしたか,台湾語でしたか。―李:うちでは日本語と台湾語半々。―山本:半々でしたか。―李:半々話していました。そういうわけでね,三代にわたって,少しずつ少しずつ日本教育に関する考え方が違ってきてる。―樋浦:お母さんの言葉はどうでしたか。―李:お母さんはね,教育を受けてません。でも昔ね,皇民化教育っていうのがあって,皇民化教育はおそらく昭和13~14年ごろ,14~15年ごろから皇民化教育とかあって,そのときにね,僕たちにね,日本語を話しなさい,話しなさい。国語家庭というのを政府で奨励して。―樋浦:何か表札みたいなものを見たことがある。―李:表札に国語家庭というのが,奨励されて。家族の中にお父さん,兄弟,親兄弟,みんなもし国語話せることができたら,国語家庭だと門札を張って。あれは一種の誉れでね。国語家庭だと,うーん,誉れよりもね,いろいろいいことがあるんですよ。―山本:いいことがある。―李:例えば。―樋浦:配給とか?―李:配給を増やしたり。そして,私たち子どもが中学校に入るときはね,合格率少し上げてくれると。点数を少し上げてくれると。―樋浦:操行とか修身とか。―李:ええ。なるべくほかの家庭よりかは,なるべく受かるように,そのように。―樋浦:それはお母さんとお話をするときに,自分の気持ちが通じないという葛藤などはないのですか。―李:だから,お母さんもそのためにね,結局,日本語話せないでしょ。ところがね,国語家庭を政府が奨励するでしょう。だから,お母さんも「うーん」って,とうとうね,国語講習所に入った。国語講習所って,学校で夜,夜間に学校の先生がね,講習生のために。―樋浦:公学校の先生ですか。―李:ええ。公学校の先生。特に苦労して,夜もお母さんみたいな日本語話せない人に,簡単な日本語会話を教えるために,お母さんもあそこで何カ月か,話,何とか,「おはよう。こんにちは。いらっしゃいませ」,話せたでしょう。そしてね,市公所が,お役所からね,国語奨励会という人が来て。もちろんお父さん,兄弟姉妹も話せる。お母さんも,ある程度は,基本的なあいさつの言葉はできるから,「まあ,まあ,いいでしょう。じゃあ……」。パスだった。それでうれしがって,国語家庭,受かって。今に門札が来るぞと,来るぞと。でもあれね,もうずっと後のことでね,もう太平洋戦争が起こった後だからね,太平洋戦争が起こったら,も

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う……。国策として一億総動員で,もう国語家庭もいいけど,それよりもっともっとね,労働奉仕とか勤労奉仕とか,いろいろな。そういうことがあるからね,もう国語家庭どころでないんで。とうとう門札はね,来なかった。門札は来なかった。僕たちね,おうちで神棚祀ってますよ。天照大神と,それも。太平洋戦争の末期でね,そういうことがあって。

【自宅の正庁】―李:漢民族だって,漢民族の伝統がございますからね。あれを細々と自分の伝統を守っているというところもあります。それでもいいと思います,僕たちにとってはね。日本の国民であると同時に,昔から,先祖伝来から伝わってきた風俗・習慣・お祭。そういうまつりごとも,一応とどめておきたいということもございます。だからね,僕たちの生活はね,主に表向きでは,日本の制度のままに。日本だって春夏秋冬

でいろいろあれがあるでしょ。例えば,正月,それか始政記念日とかね,明治節とかね,何とか。台湾神社祭とか,いろいろ日曜祭日がある。表向きはやっぱりそういうあれもあるけど。僕たち家庭では,やっぱりね,台湾人の暮らし守ってます。―樋浦:正庁(8)というものが家になかったですか。―李:ああ。家庭の中?―樋浦:はい。―李:家庭の中,あれ,客間だ。一種のね。家庭へ入っていくとね,おうちの真正面。門から入っていくと,僕たち真正面に,ここが正庁なんですよ。―山本:少し段になっている。―李:正庁というのはね,結局おうちがあって,最初の広間,だから正庁。―樋浦:そこが神棚を置けるような。―李:神棚はございます。神様あるいは,仏様,それはご先祖の位牌もございますね。そして,一年の年中行事は,結局僕たちお正月に拝拝(お参り)する,お供えものもするし。そして,僕たちはね,線香あげたら金銀紙を焼くとかね,紙焼くでしょう。そんなのも守っております。それを結局は日本の政府はね,やっぱり一応は禁止はしてませんね。僕たちの祖先伝来の行事,正庁,行事は,一応は撲滅してません。―山本:例えば,神棚はありますよね。ご先祖様の位牌もありますよね。―李:そう。だから面白いよ。例えば,正庁の中にね,こっち側の壁には天照大神様のもの。神棚もあるんですよ。あれはね,もう戦争末期のこと。戦争末期もこういうこともあった。皇民化時代だからね。面白い,こういう対照的に。―山本:並んでいたんですね。―李:大部分,僕たちがね,台湾人は僕たちの生活をしています。こういうわけで,ちょっと面白いね。また旧暦の正月がある。でもね,日本だって明治維新以前は旧暦だよ。やっぱり旧暦の,皆さんやっぱり旧暦。だから,今旧暦で言うと,盆とかね,正月とかね,お中元とか,あれみんな旧暦の中国の昔ながらの行事の跡がございます。

【2つの「時代」】―李:私は昭和4年生まれ。17歳まで日本教育。17歳はちょうど中学の3年生。だから,今も日本語で読み,書き,歌います。―樋浦:宜蘭中学校は5年制度でしたか?

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―李:ええ。5年制度だけどね。太平洋戦争が始まったら,1年短縮して4年で卒業できると。―樋浦:あと1年残ったところでやめる。―李:そう。私は結局1年残ったところで,日本の中学校を卒業しないで,そのまま中国教育に受け継がれて,中国教育はね,初中,高中とか,そういう。―樋浦:高中になった。宜蘭高中に。―李:ええ。制度があって,初中は3年,高中3年と。初中が終わって,結局高中1年に上がった。学校制度が違うでしょう?皆さんは4月に入学でしょう?だから中学はアメリカの制度になって,1年は2学期しかない。だから,1学期は9月に始

まるんですよ。だから僕はね,初中を出て,中国の高中へ入るでしょう。余計半年間勉強させられた。宙ぶらりんの。青春は戦争と動乱のさなか。―樋浦:動乱というのは国民党がやった?―李:国民党の動乱。だから,今でも考えると感無量なんですよ。2つの違った時代をくぐり抜けてきました。―山本:日本の時代。―李:例えば,日本時代はね,主なのは太平洋戦争。勤労奉仕がありました。飛行場建設がありました。とうとう学徒兵に呼ばれました。学徒兵の私は学校,友は神風特攻。2人友達が神風特攻。―山本:学校の友達は宜蘭中学校のときの友達ですか。―李:宜蘭中学校のとき。もちろん,この特攻隊に行ったのは台湾人じゃなくて日本人。沖縄の人が2人。それから終戦後の時代。終戦後は国民党の政権支配下にあって,その中で動乱というのは,二二八事件がございました。長期戒厳がございました。押さえつけられる。白色テロがございました。もう怖い……。―山本:21歳ですね,二二八事件は。―李:ええ。だから,怖い,怖い。そのあれが今も何だか影を引いて,今もまたね,影を潜めてるようでね。こういう時代がありましたよ。だから今考えると,私今でも憂国です。憂国の志士とは言わない。今,国を憂いています。台湾は民主化いまだ遠し。台湾の宿命と考える人が私の世代にたくさんございます。私たちはね,子孫の将来の生活がとっても気になります。僕たちの子孫は将来幸せになれる

か。時代が違うか。国民党の背後にあるもっともっと大きな勢力に,15億のそういうでっかい国と大きな黒い影が,僕たちの背後にはありますね。将来僕たちの子孫は,そういう人たちに飲み込まれるんじゃないかと。だからね,死んでも死に切れない。そういう憂国の志士がね。こういう毎日を送っているということはね,お若い人たちにわかってもらえないかなという切ない思い。

【幼稚園・公学校・中学校をふりかえってみて】―李:幼稚園は幸せな2年間でございました。大体,園長の70歳のおばあさん先生を,僕たちはおばあ先生と呼んで。毎日,着物と袴を着てね。―樋浦:日本人の。―李:ええ。優しい先生はね,例えばペスタロッチみたいな。ペスタロッチわかる?幼稚園教育の元祖。世界的な元祖。ペスタロッチがわからなければ,良寛さんならわかるでしょう。優しい良寛。子どもと遊んで,子どもと鬼ごっこして,かくれんぼが終わったことも知らない。

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―樋浦:遊んでいるんですね。―李:僕たちのおばあ先生は,良寛さんみたいだ。ペスタロッチみたいだ。だから,幸せな2年。毎日遊戯と,おやつをもらって,おうちへ帰るでしょう。楽しかった。―樋浦:日本の子どももいるんですか。―李:日本の子ども,台湾の子ども,やっぱりね,棟が違う。日本人はそっちの棟。―樋浦:え?―李:そして,台湾人はこっちの棟。―樋浦:別棟で同じ幼稚園。―李:棟と棟には廊下つたいがございまして。僕たちは,こっちの台湾人の棟で勉強する。日本人の子どもたちは日本人の棟で勉強する。日本人の棟と僕たちの棟は,普通は一緒にならない。ところがね,お祭,式があればね,一緒に式典をあげて,赤いまんじゅう,白いまんじゅうをもらって。ああ,うれしいな。そして,台湾神社祭はね,一緒。台湾人,僕たち小さなおみこし,ワッショイワッショイ担いで町練り歩く。そっちもね,小さいみこし,ワッショイ,ワッショイ。―樋浦:宜蘭でもやるのですか。―李:うん。やりますよ,宜蘭の。宜蘭のお役場の前へ行って,ワッショイ,ワッショイすると,お役場の郡守さんが出てニコニコして,「はい,はい」言って見た後はね,どっさりお菓子を一袋,どっさりもらって帰る。だから,幼稚園時代は幸せだ。後で私の書いた言葉がございますが。公学校時代はね,優しい恩師。良かったよ。仰げば尊し。―樋浦:公学校は,何校ありました?―李:5校。公学校。私も地図持ってきました(次頁,図1)。こんな大きなね,これは昭和の何年かの。―樋浦:昭和の地図。―李:これ昭和の地図よ。昭和9年か10年辺り。ほら,公園があって,女子公学校,男子公学校。これは小学校。小学校は日本人の学校。男の公学校(9),私はここ。お隣は女子公学校。公園があって,街役場があって。―樋浦:李先生のおうちは……。―李:銀行があって,ここはメインストリート。駅があって,駅ここから。宜蘭駅下りて。―山本:市場があって。―李:市場あって,昔ね,これ昔の地図。だから後でね,これまた道作って,ずっとここまで出られるように。メインストリートがあってね,公園から出たところは,もうすぐそこに台湾銀行がある。台湾銀行があって,斜め向かいに私のうちがある。―山本:メインストリートの大通り。―李:メインストリート。南の端が台湾銀行。南の端のちょっとこの辺りね,大きな店がたくさん並んでる。私のお父さん,父は法院辞めて,代書。司法代書ね。李文章で。自分のお父さんの。だから,最初これ見たときはうれしかったね。「あ,お父さんの名前の」。名前のない家もあるけど,私の苗字の名前があった。―樋浦:お父さんの名前が書いてある。学校はすぐですね。歩いて何分ぐらい。5分ぐらい?―李:5分ぐらい。4~5分ですぐ着く。学校。幼稚園は公園の中なんだよ。今はもう見る影もないからね。幼稚園があって,ここで楽しい2年間を過ごしてね。

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―樋浦:台湾人の家も日本人の家もあったんですか。それとも,日本人の家のほうが多いとか。―李:混ざってる。このメインストリートは日本人の家が多い。日本人の商店もあるしね。例えば,駅からちょうど降りたところに,栄續堂とか田中呉服店,大きな呉服店があって。田中呉服店のそばに栄續堂と言って。僕らが毎月1日に栄續堂入って,「ごめんなさい」。お小遣いもらって『少年倶楽部』を買う。楽しい『少年倶楽部』。『少年倶楽部』は本が楽しみだけでなくて,『少年倶楽部』買ったらね,付録がたくさんある。カルタのとか,小さいおもちゃみたいな風船とか,付録が3つも4つもあってね,あれが楽しいんだ。

【公学校で改姓名をおこなう】―樋浦:改姓名をしたのですか。―李:改姓名,井上。井上英夫で。私は李英茂でしょう。―樋浦:改姓名は願い出ても,なかなか許可は下りないという話を聞いたことがある。―李:やっぱり願い出てたら許可出ます。改姓名する人としない人がある。しない人のお父さんはちょっと漢民族意識があるからね。僕たちは,僕たちの昔の名前でいいって。―樋浦:井上にしたのはなぜですか。―李:井上ね,結局,先生が改姓名奨励するでしょう。そしたら,うちの親父がね,兄さんに手紙を送った。兄さんそのときはね,日本に留学に行っていてね,それを兄さんからね,お父さんのこういう名前,お母さんこういう名前,弟,妹,こういう名前で。それをお父さんがね,役所に申請したらすぐ下りてきて。すぐ下りてきて,翌日は「先生,私,改姓名しました」先生がニコニコして,「はい。何ですか。」「私,井上英夫です」。すぐ先生「はい。井上英夫。明日からあんたは井上です」。先生はうれしそうな。

【図1】李英茂氏提供地図。左側「台銀支店」のはす向かいに「司法代書李文章」が見える。

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―樋浦:担任の先生は何というお名前でしたか。―李:城所先生(10)。―樋浦:「改姓名しなさい」っておっしゃったのも,城所先生。―李:はい。城所先生。正次。―山本:担任の先生だったんですね。―李:はい。担任の先生。5~6年の先生。―樋浦:「改姓名しました」って言って,とてもうれしそうだったのも,城所先生。―李:うれしそう。はい。城所先生。―樋浦:中学の受験指導とかもなさって。―李:はい。そう,そう。受験指導。

【学校の先生】―李:幼稚園時代,公学校時代は優しい恩師。仰げば尊し。例えば,正直に言えば,日本の統治時代,学校の先生はね,優しい先生もあった。怖い先生もあった。乱暴な先生もございました。でもね,私の知る限り,やっぱりいい先生が,怖い先生よりずっと良かった。ことに私はね,怖い先生に一度も出会ったことない。だから,とても幸せと思いました。―山本:城所先生も優しかったですか。―李:優しかった,優しかった。それから中学時代。中学時代はね,スパルタ教育。軍事訓練。空襲。(『昭和十七年 台湾総督府及所属官署職員録』を見る)僕たちの校長先生,大倉先生,田中先生,高畠,柳沼先生,沖田,松田,田澁教官。これ教官(11)。―山本:教官ですか。―樋浦:配属将校ですか?―李:うん。配属将校。これ村田,ありました。吉田,織田,これ音楽の先生。髙梨先生,落合先生,松井先生,河井先生,これは中学校だよ。城所先生は国民学校の。わかります。―樋浦:顔も覚えていらっしゃいますか?―李:顔,覚えています。田澁先生はね,予備。―樋浦:予備役。―李:どうしてかと言うと,目一つがガラス玉。―山本:義眼だったんですね。―李:ええ。義眼に。―樋浦:それで,現役じゃなくなる。―李:義眼でも視力とてもいいよ。ギロっと。教官は怖いけどね,田澁教官はね,怖いところにやっぱり優しい思いやりが。だから,みんなに慕われてる。村田はね,僕たち宜中,宜蘭中学の教官と農林学校の教官も兼ねております。織田先生は音楽の先生。またとても優しい先生。

【児童文学の翻訳者として】―李:終戦後は教員になりました。41年間,学校のチイチイパッパの先生でね。教育の傍ら,僕たちの教育はね,国民党から強いられた教育は,いやいやながらね,生徒に教えないといけない。今から考えるとね,ほんとに生徒にすまない。生徒にね,なんというかな。そういう事実で

ない,強いられた教育を,歪められた教育を子どもに押しつけなければならないということで,

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今にも胸に痛んでね,良心の呵責というのがある。だから,その傍らに,せめて私はね,生徒の児童文学手ほどきして,児童詩を教えて。そして,文庫ありました。もちろんね,日本のお伽噺と,日本のお話のたくさんの本をね,たくさん翻訳,中文に翻訳してあげましてね。―山本:例えばどんなのって覚えていますか。―李:宇宙船のドクター,宇宙船ドクターと,日本の『妖怪博士』『怪人二十面相』。―山本:少年探偵団。―李:血わき肉踊る。これをね,生徒に翻訳してあげた。それから,『ほら吹き男爵の冒険』と,こんなのね。そして,巨人と。巨人とおもちゃ作りのあれ。『さんご島漂流記』。昔やっぱり日本の戦後の文庫たくさんあるでしょう。戦後の文庫たくさんあって,それみな翻訳してあげたんですよ。―山本:これも全部,注音符号で(12)。―李:そう,そう。注音がありましてね(笑)。僕,これも20~30冊も翻訳した。数年間かかってね。だから,私の生徒は幸せだった。先生が優しいってね。こういうのを翻訳したらね,翻訳代もらうでしょう,出版社から。僕はね,翻訳代もらわない。翻訳代をね,本に替えてくれ。そしたら訳者にはうんと割引されるからね,たくさん本もらって生徒にご褒美としてあげる。「おまえは成績が良かった,じゃ,これ」と。生徒が喜んでました。だから私はね,昔,日本のやさしい先生から薫陶を受けたので,私も先生として生徒に優しくして。だから,生徒は今でもお正月になると電話かけて,「先生お元気ですか。お元気ですか」って。―樋浦:これを見て先生の名前が載ってたら,うれしいですよね。―山本:子どもたちもうれしいですよね。―李:こうして,写してご覧なさい。ほら,ほら(笑)。(図2)―山本:全部,これはすごいです。先生,学校で教えながら。家へ帰ったときとかに。―李:ええ。教えながら書いて。そして,本が出てたらね,生徒にご褒美としてあげる。―山本:うらやましい。―李:だから,私の生徒も幸せだったはずだ。―山本:先生から本もらいましたって,またね。すごい。―李:教師時代は41年間,児童文学,児童詩を教えて,文庫を翻訳して生徒にたくさんの課外の読み物をあげた。そして,ボランティア時代,ここでボランティア,22年間。私の仕事の,主な仕事は,文献の整理および,翻訳。それから古跡および記念碑の案内。

【図2】すべてに「翻訳 李英茂」と記されている児童書。

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【改姓名をして宜蘭中学へ入学】―李:これが中学1年坊主の写真。中学校入学したときね,宜中入学で個人写真。―樋浦:カッコ( )して,井上。―李:井上英夫。ここ,ここ。こういう写真をこうして,たくさんの写真。個人写真があるんで。はい。―樋浦:じゃあ,井上になってから名簿が上になる。―李:あいうえおでしょう。「あ」が先。この人が相沢。相沢,赤谷,有富……高崎正道,はい。神風特攻。亡くなった。―樋浦:亡くなった。―山本:沖縄から来てた。―李:ええ。沖縄。私の同窓。高崎正道。それから,これ。吉野光宣,吉野も特攻,神風特攻。―山本:この方も沖縄から来てたんですか。―李:沖縄。もうあのとき,私たちも学徒兵でしょう。全然消息とかない。終戦後に何年か経って日本のクラスメイトから知らせがあって,電話が来て,「高崎と吉野が亡くなったよ」「どうした」「神風特攻隊だ。吉野,高崎」。僕ね,それ聞いた途端にもう涙が出てんだ。パッと涙が出て,大声で叫んだ。どうして叫んだか。「吉野,もうおまえ恨まないよ。おまえはもうお国のためにもう華々しく散っていったからね,もう憎まないよ」。どうしてそんなこと言うか。中学2年のときね,ある日,便所の掃除で一緒。便所の掃除,

一緒にしてるとき,何かの拍子で吉野とけんかしたんだ。ところが,吉野は僕より背が高く力が強い。僕ね,げんこつで頭なぐられたんだ。そのときは,「吉野,おまえ乱暴だな」って憎んだんでしょう。ところがもう,特攻隊で死んだこと聞いて,「もう許してあげるよ。もう憎まないよ」って。それを僕,誰かに言ったらしい。その日本人ももらい泣き。戦争で何と言いますか,戦争のエピソード。

【短歌創作・児童詩教育】―須永:短歌はいつからされているんですか。―李:そうね,5~6年ぐらい勉強してます。宜蘭中学校のアルバム。ほら,60周年の,卒業してもう60周年で。これが私の書いた児童文学。松尾芭蕉の翻訳。―山本:『奥の細道』。―樋浦:字とか韻とか漢字を考えるんですか。―李:そう,そう。韻とか,やっぱり頭使うよ。―須永:児童詩っていうのは,どういうものなんですか。―李:児童詩は新体詩。決してね,五七五でない。日本だって新体詩がある。日本だって,五七五七七でないのがありましてね。だから,日本だと,私たちの児童詩はね,もう,字の数に捉われなくて,それでも一つの詩に五・六行,七・八行ありましてね。そういうのがあります。―須永:題材は何を歌っても良いのですか。―李:何でもいい。―須永:何でも?―李:はい。内容がない。生徒を励ますでしょう。皆さん日常茶飯事のことでいいから,見たこと聞いたことね,詩にしてごらんなさいって。そしてね,例えば,日本の詩も少し紹介してあげてね。日本の詩じゃないけど,僕たちの詩は,こういうふうに作ってもいいですよと。

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―須永:子どもが書いてきたものを,先生が「もっとこうしたらいいよ」とかはするんですか。―李:添削してあげると。添削して,皆さん,みんなで交換して,私が読み上げると。あるいは,生徒が自分で読み上げると。先生の作った童詩も読んであげると。―須永:作品をたくさん集めて学級文集みたいなものを作ったりはしなかったのですか。―李:学級文集,だけどね,今はもうおそらく残ってないでしょう。もう20~30年前のことで,残念ながら残ってない。―須永:児童詩を興味がある先生で,文集を交換したりということは,されてたんですか。―李:文集を交換して,もうクラスの中だけ。クラスの中での交換。そして,あります。例えば,羅東という町でね,ほかの学校の先生,私みたいな年配の人のね,童詩に興味のある人でみんな集まって研修をする。そういうこともありました。でも,今はやっぱりお国の事情で,もう続かない。―山本:お国の事情で。―李:僕たちがリタイアしてしまうと,もう後が続かない。大体,後の人,日本語がわからないでしょう。童詩だって,どう作ったらいいかわからない。そして,今は学校の教育,昔と全然違う。もう,カリキュラムを消化するだけ。もう,大変だからね,そんな余裕はない。先生方もそういう,何とか,たしなみ,だんだん少なくってきた。―山本:こういう児童文学とか児童詩教えてたのは,どんなときに教えたんですか。―李:そう。僕たちの時代だけ。その後はね,もう惜しいことにね。―樋浦:国語の時間を使ってとか。―李:ええ。国語の時間は,ない。つづり方の時間とかね,話し方の時間にちょっと。でも,たくさん話できない。それと,課外だ。例えば,おうちで書いたのを持ってきてね,授業前にみんなで鑑賞するとか。昼休み……。朝の会とかね,そういう。とにかくね,これは私だけで。あるいは,私みたいなごく少ない人で,細々とやってきたんだ。だから,その細々が今,切れちゃった。私もリタイアしてね。私の後で,後に続く人がね。残念ながら。―須永:さっき教師時代の回想をされていたときに,生徒に押し付けてしまったような側面に良心の呵責があるというような言い方をされていたかと思うのですが。―李:そうなんですよ。例えばね……。―須永:児童詩はやっぱりそれとは少し違ったのでしょうか。子どもが自由に書いてきてもらったものを,やりとりできるから。―李:それはまたとても自由でね。―須永:そういう想いで,児童詩をされていたんですね(13)。―李:せめて,良かったな。とにかく自分の百悪のある中で,一善,ひとつのいいことをした。だって,授業中にね,「皆さん,蒋介石は民族の救世ですよ」。―樋浦:教室の中に写真。―李:あって。そして,そういう公民の時間に,こういうことを。写真でちゃんとこういうのがあってね,「蒋介石は民族の救世だよ」と。写真があって,「蒋介石はこんなに偉大だよ。蒋介石はこんなに尊敬すべき人だよ」って,後で,ほんとに(舌打ち)。心の悩みは。心にはね,いつもさいなまれるけど,しょうがない。もう教員として,そうしないとね。―山本:ほかの先生とも,そういう気持ちの。―李:ほかの先生。あんまり意思疎通しない。―樋浦:先生,教務室の中で先生たちは,国民党。

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―李:が,ほとんど。国民党でなくても,国民党の学校でしょう。だから,国民党の校長先生の言うことを聞かないといけない。―須永:だから,そういうことを思っても,気軽に隣の先生に言うわけにいかない。―李:だから,私は国民党でない。国民党でない人がね,学校の教師になれるなんて,よっぽどね。―樋浦:校長にもなるというのは,すごいことでしょう。―李:ええ。だから,国民党でない教員は,教員まで。校長に昇格することはない。絶対ありません。だから,蒋介石がそんなに悪い人なのに,それを民族だ,民族の救世。そういうことを言ったこと。自分がね,許せないんですよ,ほんとに。そういうことを教えた。その生徒が今大きくなって,蒋介石をどう思ってるかなと思ったら,つらいね。

【病気で教師の道を選ぶ】―山本:先生が学校を卒業されてから,先生になるまでの話を少しおうかがいしたいなと。―李:どうして先生になったかという。ほんとは先生になりたくない。―樋浦:2回兵隊に取られて。―李:取られて,体壊して。しょうがない。恐ろしい病気にかかった。―山本:病気ですか。―李:その病気は,結局ね,アメリカに救われた。ちょうどアメリカでストレプトマイシンという新薬が出たでしょう。ストレプトマイシンと気胸。気胸わかる?胸の中に空気押し込む。大体ね,あらゆる傷はね,肺の傷は一番悪い。例えば,こっちの傷が,動いていないものを薬塗ったらすぐ治るんです。ところが肺は,いつでもこうこうだから,傷なかなか治らないでしょう。それを空気,入れる。収縮あって弱くなる。少なくなって,そのうちに治る。私,1年間もう死ぬのが怖いからね,治る,治ると。注射して,ストレプトマイシン食べて,うちに帰ったら,もう畳の上でもう絶対安静。だから,私の畳ね,後でへこんでね,大の字になった。大の字にへこんで。―山本:寝ていたかたちに。―李:ようやく治った。今はもう大丈夫。私の同じ時代に結核なった人が,たくさんの人亡くなってる。―樋浦:肺病,死の病と言われました。―李:ところが皮肉なことにね,私の兄ね,日本へ留学に行ったでしょう。終戦後,帰ってこないの。私が肺結核になったとき,兄はね,肺結核の外科医やっとったんだ。胸部外科でね,肺結核の手術してる。皮肉でしょう。弟が結核,兄が結核の外科医。―樋浦:どこで留学をなさったんですか。―李:東京の医専の,そうだ。医学士,専門学校。医専出てね,明日は軍医として配属される,その前の日に終戦。命,一命助けて。その後はね,兄嫁のふるさとの青森へ行って,青森で,病院で,もっぱら胸部外科手術をする。手術するときはね,胸を切開してピンポン玉を埋めるそうだ。ピンポン玉で傷をうめたらね,あまり動かないでしょう。だから,すぐ石灰化するからね。治るのは早いそうだ。ピンポン玉は一時とても流行してた(14)。ピンポン玉,効くから結構だ。その後,新薬が出て,もう肺結核はもう怖い病気でなくなったけどね。一番上の長男。兄が長男でしょう。長女,次女,三女。3人とも姉さんでしょう。私はそこ

で生まれた。お父さんがとても喜んだ。兄についで3人女だから,お母さんは,「ああ,もう

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男の子はもう恵まれないでしょう」と,とたんに私が生まれた。私は幸せなんだよ。私,次男坊。日本で言う次男坊は,とてもいいでしょう。頭領でないからね。自由でしょう(笑)。

【学校生活―公学校と中学校―】―樋浦:公学校のときの話をちょっと詳しくおうかがいしていいですか。―李:公学校は1年,2年。1年,2年やっぱり幼稚園の延長みたいなもんでしょう。だからね,割と楽しかった。3年,4年に上がっても,何とかなる。あのときはちょうど支那事変なの。支那事変でも学校ではあまり影響なかったでしょう。4年になったら恩師の歌を受け継いで,4年になったらね,この先生がとても優しかったわ。崎山先生がね,ほんとに優しい先生でした。先生は素晴らしい歌やお伽噺をプレゼントしてくれました。朝の授業にお伽噺を聞かせてくれました。でも,そのお伽噺は,『家なき子』や『母をたずねて三千里』の世界名作なんだ。それを1日5分間の連続ですが,ある日あまりにも面白いので,みんなが「先生もっと話して」とねだったら,とうとう1時間も話されて。先生はまた音楽の素養が高くて,自分の作った歌を僕たちに教えるんですよ。この自分の作

った歌がね,戦後になってもね,大人になっても,日本のあらゆる童謡や歌の本調べたが,この今日の歌はね,どこにもない。だから,間違いなく先生が作った歌であると,私は思ったんですよ。歌を好きになれる。歌を歌えるのも,人生の幸せなんだよ。―樋浦:公学校の中に,奉安殿はありましたか。なかったですか。―李:講堂の中に御真影をまつっているところがあります。ちゃんとカーテンひいて扉あって。式がある日は扉を開けて,カーテン上げて御真影を遥拝できるようにしてます,普通は。―樋浦:御真影はずっとそこにあって,式のときだけ開く。―李:そう。奉安殿はね,中学の規模の大きな学校は別に奉安殿があるらしい。奉安殿があればね,式のときに,講堂があって,奉安殿行って御真影を奉ってから,講堂へ行って,講堂の正面に。してから式を挙げて遥拝する。―樋浦:宜蘭中は小さな中学校だったのですね。―李:宜蘭中は残念ながら戦時中にできた学校なので。―樋浦:新しかった。―李:校舎がない。バラック建て。それもね,小学校の,あの,校庭を借りて。もう戦争当時,中学って,学校どころでない。一億総決起でしょう。一億総動員でしょう。あの12月8日のあの太平洋戦争が始まって,翌朝に,もうね,もう国の津々浦々で,台湾の宜蘭の片田舎でさえも,一切は戦争のために。だから,あらゆる工事とかね,中途半端な工事,みんなもう駄目。もう停止,停止になる。

ちょうどね,宜蘭市ができるというのにね,大通りにアスファルト敷く。アスファルト敷くとこで,途端に太平洋戦争。12月8日,そしたら,12月9日には,もう道端にあるローラー,車,砂利,アスファルトの材料にするやつをもう道端にほっ散らかして,もう仕事中止だ。―山本:作らない。―李:だから,学校建てるところじゃないよ。もう学校は成立したけど,教室がない中,他人の,小学校の教室を借りて,バラック2~3軒建てて,そこで生活始めました。―山本:中学校から家はすぐ近くですよね。―李:すぐ近く。近かった。―山本:遠くから来てる人もたくさん。

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―李:あります。昔はね,中学って珍しいでしょう。県の中で一つしかないからね。だから,遠くから来た人は汽車で来る。汽車通学。北から来た人はね,北方班。北から来た人は北方班。南から来た人は南方班。もっと遠く,ほかの県から来たときは,学寮。学寮に住んでいます。―山本:班というのは。―李:北方で班作るでしょう。やっぱりね,あの先輩の人が,一級上のあれが班長になって隊を組んで一緒に来る。バラバラじゃいけない。―山本:一緒に来るんですね。同じ汽車に乗って。―李:一緒。例えば,北のほうだと,遠いと駅から上がった人。礁渓の駅から上がった,二結の駅から上がった人は,宜蘭駅着いたら,駅でちゃんと隊を組んで,「はい,はい。右へならえ。なおれ。はい」。―樋浦:行進しながら。―李:行進しながら行く。南から来た人は,羅東から,蘇澳から,羅東から来た人が駅に入ったらちゃんとね,指揮する人が,班長さんがね,列並ばして,「はい。前へ進め」。―山本:整列して,それで一緒に。―李:もう軍隊式でしょう。みんな軍隊式。毎日……。脚絆,ゲートルを巻いて。―樋浦:徐州陥落のときは。―李:いや,南京陥落。南京陥落で,もう提灯行列,旗行列。―樋浦:宜蘭市内を?―李:宜蘭市内を。商店街を回って,夜は提灯行列。そしてね,南京陥落はとてもおめでたい。もう,みんな家庭でちゃんと,米,余計に配給される。お赤飯炊けって。お赤飯炊くために,お米が余計もらえる。―樋浦:シンガポール陥落のときは?―李:シンガポール陥落もありました,やっぱり。陥落の行列やりました。―樋浦:紀元二千六百年のときは何が。―李:紀元二千六百年,ちょうど昭和15年。紀元二千六百年,ちょうど宜蘭市の格上げ,市の格上げに。―樋浦:小学校5年生ぐらい。―李:だから,とてもにぎやかだったことを覚えております。「紀元は2600年~」という歌さえありましたからね。はい。

【中学校進学の背景】―樋浦:何で中学校へ行こうと思ったのですか。―李:それはみんなね,小学。例えば,昔は公学校出たら,職にありつけました。給仕ぐらい。お役所の給仕とかね,給仕ぐらい。それとも自分で商売をするとか。それでだんだん。私が中学に入ったのは,兄と親父のおかげなんだ。父はね,法院に入ったからね,待遇がものすごい良かったでしょう。生活が良かった。それで……。余裕があって,台湾人のほかの人より良かったことをね,うちの父は,何とかね,一種の見栄らしい。だから私の兄はね,公学校卒業したら,昔,公学校の地元には,公学校から農林学校というのがある。農林学校入ったらね,将来は林業発展するあれがあるから,ものすごいいいんですよ。卒業したら必ず職がある。―樋浦:宜蘭県は農林業が。―李:農林業。だって太平山,檜の宝庫でしょう。ところがうちの兄ね,農林学校行きたくな

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いって,台北の学校に行きたいって。台北二中。それを親父がね,半分見栄で。―樋浦:当時は宜蘭になかったんですよね,中学は。―李:なかったよ。だから,うちの親父,今になって思うけれど,親父にちょっとすまないかもしれないが。親父は,「ああ,うちの息子,よし台北,勉強にやれ。そしたら,町中の人にもね,うん,あの李の家庭で,台北の中学校に入る人があって,やあ,エリートだ」とか何とかね。―樋浦:それは,そうでしょう。公学校のクラスの中で,台北二中に行くなんていうのは。―李:一人。ほとんどないよ。ほとんどない。私のクラスの中にもない。ほとんどない。みんな卒業したら農林学校。ところが私より7つ上の兄が,そのときにも台北の中学校に入った。台北の中学校に入って卒業しても,まだグズグズして,「私,内地へ行きたい」って,内地に。昔の日本のこと。内地へ行きたいと。うちの母,びっくりして,「あなたには7人,弟妹があるのに,卒業したらやっぱり……」。―樋浦:台北二中の後で,日本の専門学校を受験したということですか?―李:そう,そう。―樋浦:お母さんは反対した。―李:お母さん,反対。ところがね,うちのおじね,お母さんのたった一人の兄。兄はね,昔の国語学校を出て,国語学校で日本の領土,ちょうど初期にね,国語学校入ったら,もうものすごい。国語学校卒業してから,法院で通訳として,法院に上がって,最後は副院長まで昇格したんだ。―樋浦:おじさま?―李:ええ。うちの父はね,運のいいことに,そのおじの妹を嫁にもらった。そしてね,うちのおじは,妹かわいいためにね,妹婿には,「おまえ法院に来い。法院来たらいい仕事があるよ。しかも私と一緒に。私が面倒見る。半分面倒見てあげる」。お父さん法院へ上がった。そのお陰でね,暮らしがずっと良くなって。長男のわがままも,「いいよ,いいよ」って許してあげて。―樋浦:お姉さんたちは女子公学校。―李:うん。女子。―樋浦:その後は,何をされてた,家にいらっしゃったのですか?―李:女子公学校終わったら,もう終わり。昔,おわかり?昔,女の子は生まれたら,養女。昔,貧しいでしょう。家庭が貧しい上にね,子ども,子だくさんだとね,養いきれないんだから。だから,女の子が生まれたら,みんな養女,養女って行かされるんですよ。男だけ残って。男はね,子孫を残すためにね。将来のために李氏を継続させるために,男はもらわれない。男だけ残して。だから,長女,姉が生まれたら養女。次女が生まれても養女。三女が生まれても養女に行こうとしたときに,おばあさんがお母さんにね。お母さん昔,体がひ弱なんです。だからね,子どもを養う。例えば,三番目も養女に出そうとしたら,おばあさんがお母さんにね,「ああ,この子は養女に出さないでおこう」。だって養女に出したらね。私の考え方。望家の人,おじいさん,昔ね,大地主だからね,街にも案外有名な大地主。大地主のお金持ちの,その娘の家の子どもがね,一人目も養女に出す。二人目も養女に出す。三人目も養女に出すっていったら。ちょっと沽券にかかわるよ。おばあさんがね,「この子はもう養女に出さないでおこう。私も半分面倒見てあげるから」って,ようやく三人目の姉が養女に出なかった。名望家で,街ですぐうわさがある。名望家のお金持ちのくせに,養女の,他人にもらわれて

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苦労して,もらわれていく。二人目ももらわれて,ちょっと。―樋浦:じゃあ,李先生の立場になると,宜蘭中学校ができたら,当然受験をしなければいけないという。―李:そう。だからね,兄さんがもう内地まで行ったでしょう。だから,次男でまさか公学校卒業,そのままじゃ。また私も勉強が好きだからね,「中学校へ行きたい」と言ったら,うちのお父さんは,うちの親父は,「まあ,まあ,いいよ,いいよ,受けなさい」って,中学校を受けた。―樋浦:宜蘭中では,同級生たちは進学がどうとかいう話ではないんですか。内地に行きたいとか。―李:ほかの家庭は私は知らない。―樋浦:公学校のときとか,例えば,陸士,海兵に入りたいとか。―李:あります。あれは小学校で行けない。中学校入ってから。中学校入ってから,もう戦争でしょう。戦争だと先生方はね,生徒たちに「おまえら,お国のために軍の学校を志願せよ」と。例えば,少年航空兵,少年戦車隊,何とか何とか。―樋浦:予科練。―李:予科練とかね,それから幹部候補生とかね,勧めるんですよ。そしたら,僕たちやっぱり日本教育受けたらね。やっぱり昔ね,国を愛するからね。「よし国のために行こう,行こう」って,みんな行く。ところが,うちの人は,あるうちの人でね,「ああ,兵隊なると戦争だから,危険だから,危ないから行くな」と,保護者の人がなかなか承知せんのね。やっぱり先生の激励のおかげでね,中にはね,ハンコ盗んでまでもね,ハンコ押して。―樋浦:家の人の反対を押し切って。―李:家の人のハンコ押して。―山本:ハンコを盗んで。―李:先生に出して,「はい」って出した人があるんですよ。それで中学2年辺りから,それよく,ぼつぼつ試験を受けに行く人があって。でも,日本の陸軍でも帝国陸軍あたりね,プライドがあるんですよ。「あんた受けたらみんな100分の100,合格とは限らないよ」と言って。「おまえ近視だ」って,私,近視。「駄目」「おまえ体重が足りない。駄目」おまえ何とかって,たくさん落とされますよ。昔,帝国軍人でね,とてもすごい,昔,日本統治の初期はね,台湾人は軍人になれませんよ。帝国軍人はね,もう世界的な優秀な軍人だから,台湾人なんて軍人なれませんよ。最後に太平洋戦争とか支那事変があって,だんだん戦場が拡大して,日本でもだんだん苦戦でしょう。だから,やむなく,じゃあ,台湾軍を作ろうと。だから,台湾でもね,総督の指揮の下で台湾軍を作ろうって。

【中学時代の勤労動員】―樋浦:勤労動員は飛行場というお話が,さっきありましたけど(15)。―李:そう。―樋浦:ここの公学校があって。(地図を指す)―李:飛行場行きます。―樋浦:ここの飛行場。―李:ええ。毎朝。―樋浦:飛行場で何をなさっていましたか。土地を……。

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―李:土地を埋める。土埋める。―樋浦:砂利を運ぶとか。―李:ええ。砂利を運ぶとか。土をこっちから。田んぼから掘って,飛行場を作るときに土埋める。飛行場,元は田んぼでしょう。水田でしょう。―樋浦:水田を土で埋めて平地にする。―李:埋める。周りから土を埋めて。最後,滑走路は砂利を埋めて,そして,アスファルト敷いて。昔アスファルトではなかった,やっぱりコンクリート。―樋浦:そこの勤労動員は,宜中生と,農林学校。―李:あらゆる近くの県からもね,台北から新竹から,もう泊まり込みでね。人海作戦で。何千というと,万にも上る人たちが毎日ここでね,アリのようにもう,埋めて,埋めて,埋めて。―樋浦:例えば,朝集まって,宮城遥拝してから始めると。―李:そう。そうでしょう。やっぱりね。朝,宮城遥拝するか,しないか,けど。とにかく点呼が終わったらね,何か号令かけて,早速始めます。あれ,もうおそらく飛行機から見たら大変だよ。もう,アリが埋まるようにね,一緒。―樋浦:うまい具合にさぼっている生徒とかいませんでしたか。―李:ない。ありませんね。ありません。愛国心煽られてるからね。やっぱりね,頑張ろう,頑張ろう。勤労奉仕,お国のために頑張ろう。さぼる人があるかもしれないけどね,先生の目も光ってますよ。例えば,モッコ担ぐでしょう。モッコに先生が土を一つ,モッコの中に放り投げる。そしたら,次にまた,先生がね,「いや,もう一つどうか,頑張ろうか」「はい。頑張ります」って,もう一つ。それでも頑張って,頑張って。あるときはね,先生のくれた土が重くてね,モッコの棒が折れた場合もありました。さぼる

人はさぼりたいけどね,おそらくみんなが働いてるから,なかなかそういうことはさぼれないでしょう。さぼれないと思いますね。―樋浦:勤労動員は中学生たちですよね。―李:大人たちもおります。普通の市民。街民もあります。例えば,年齢の差別。個別的なこの家庭には……。―樋浦:青年団も。―李:青年団もあります。普通の青年団もある。中学の生徒もある。大人もある。大人も。―樋浦:婦人会とかはどうですか。お茶を出していましたか。―李:婦人会は,女の人はなかったね。女の人はなかった。―樋浦:お昼ご飯はどうしていたんですか。―李:お昼ご飯,何とか,自分でおにぎり持っていったらしい。自分でおにぎり弁当。弁当持参。弁当わかる?梅干一つ。―樋浦:日の丸。愛国心を表す日の丸。―李:私はね,お母さんがね,そっとね,ご飯の中にね,味噌を入れてね。味噌の,いいな。味噌のおいしかった。味噌を少し埋めて,外にご飯。日の丸一つ。―樋浦:質素じゃないと怒られますもんね。―山本:おかず入れたら怒られる。―李:でも,味噌ぐらいは先生怒らないと思う。けど,自分でね,ちょっと気まずいからね。

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【空襲で退避】―山本:李先生。書かれていた文章の中で,「宜中精神」って言葉使ってらっしゃいましたよね(16)。これは当時皆さんが言っていた言葉ですか。―李:はい。宜中精神。昔は中学入るとね,農林学校でも,地方,どこの学校でも校訓というのがある。―山本:校訓。はい。―李:各学校の特別な。僕の学校はこれが学校のシンボルだろう,これが学校の精神だというのが必ずありました。例えばね,こういう校訓の,必ず講堂とかね,学校の主な場所に看板として残しておくでしょう。それをね,たくさんある。例えば,「忠君愛国」とか,それから「勇猛果敢」とか,それと,とにかく学校には学校のひとつの特色を出そうというあれがあります。中学2年入ったらね,時々空襲があるんですよ。空襲してたらパーっと待避する。その後ね,

空襲が激しくなったんでね,もう学校どころでない。もう学校へ来てから,もうすぐ空襲があるからね,学校の近くの田んぼとか竹やぶにね,待避するんですよ。―樋浦:待避するのは竹やぶとかで。―李:等々。竹やぶとかね。―山本:防空壕とかはありました?―李:防空壕とかね。―樋浦:防空壕は作ったんですか。―李:学校には防空壕を作ってますけどね,生徒みんな入れる,そんなほど。―樋浦:まず御真影でしょう。―山本:スペースがない。―李:必ず拡散して,散り散りバラバラで,各々でね,退避しなきゃいけない。退避したら結局は,先生も一緒。教官も一緒だと。退避したら何もできないの。先生が,時たま何か,2句,3句,何かお話してくれるけれど,ほとんどもう退避はそのまま,そのまま。

【先生宅を訪問】―山本:すみません。公学校の時代の先生とか,中学校の時代の先生とかの家に行ったりしたことありましたか。―李:あります。―山本:それは先生に,例えばご飯に誘われてとか。何か遊びにおいでとか,そういうときに。―李:自分で押しかけて。押しかけて。例えば,公学校の城所先生。城所先生,5年生のときね,学校休んで内地へ帰った。どうして帰った?嫁もらいに帰った。―樋浦:そしたら見に行きたいですよね。―李:嫁もらった際,1週間か2週間か経って,その間に代理の先生があったけど。先生が帰ったとき,わあー,先生何だかね,新婚ほやほやの。おれたちのわんぱくがね,3名か4名,先生のおうちへ行って,先生の奥さんを見てこよう。―樋浦:わんぱくだ。―李:ある日,それは日曜日だったかな,あるいは土曜日の午後だったかな。2,3名で城所先生のおうちへ「先生」ってご奉公に行ったらね,先生が「あ,上がっていらっしゃい」って。そしたらね,奥さんも来られてね。畳上がって,僕たちモジモジでしょう。私よくおしゃべり

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だからね。ほかの生徒が,「おまえが話せ」「おまえが話せ」,ぐずぐずして,そしたら奥さんが台所からね,プディンを作って。寒天で作ったプディン。―山本:寒天で作ったプリン。―李:ああ,おいしかった。甘いの。プディン作って。「どうぞ」と来てくれて。先生も「食べていいよ」。食べたのがプディン。プディン食べて,あんまり話ししなかった。―樋浦:何かドキドキしますよね。―李:ええ。ドキドキドキ。10分間かそこらかなっていうのをモジモジ見て。先生からも何かいくらか聞かれて,あれしたよ。そしたらまた,クラスメイトが「先生,おじゃましました。おじゃましました」って出てきた。それがひとつの思い出。中学はね,中学校の先生は,行きました。もうひとつ,小学校の,公学校のときね。教頭の

先生がね,お正月近くでしょう。だから,放課後にね。放課後か,あるいは日曜日だったと思うけどね。私たち生徒5,6人で,「うちへ手伝いにきてくれないか」って,みんなで教頭先生のおうちへ行ったんですよ,お掃除のお手伝い。―山本:お正月迎えるときの。―李:大掃除。お正月来るでしょう。大掃除の窓を拭いたり,畳拭いたりね。お掃除して,私が一番うちが近かったからね,一番最後に残って。ほかの生徒はみんな帰って,私が一生懸命掃除したら,教頭先生が「ご苦労さん,もういいですよ。李英茂くんにはたくさん手伝ってもらったから,これをご褒美にあげる」って,くれたのが,漢和辞典。―山本:漢和辞典。―李:漢和辞典。先生の使い残りのをいただいて。

【公学校での言語環境】―樋浦:公学校に入学したときには,みんなが幼稚園に行っていたわけではないんですよね。―李:そう。―樋浦:そうすると,そのときに日本語がわからない子もいたのではないですか。―李:そう。だから,1年生の先生は苦労しますよ。1年生の先生は,確か私は台湾人の先生だった。でも,台湾人の先生でもなるべく台湾語を話しません。よっぽどじゃないと,例えば,これはどういうふうに言うか。誰も言えないときは,先生は言ったかな。言わなかったかな。―山本:台湾語を?―李:ええ。言わなかったらしい。―樋浦:台湾語を子どもが話したとき,何か罰みたいなものはありました?―李:ええ。罰は,台湾語を話していけない。話したら叱られます。叱る。―樋浦:たたいたりは?―李:たたいたりとか,そんな乱暴な先生あったかな。ないと思いますね。よっぽど悪いことしないと。ちょっとした弾みで台湾語話したのは……ないね。大体,先生が睨みがきく。睨まれたら怖いもんね。睨みがきく。たたかれはしないと思うけどね。たたく乱暴な先生,あるかな。例えば,手の上をパッと。台湾語話したな,パッと。よっぽどでないと。私は印象ない。私,たたかれた覚えがないもん。大体幼稚園で……。―樋浦:李先生はもともと,十分に。―李:カタコト話せるよ。ほかの生徒も大丈夫と思うね。1年生も。子どもだから,すぐにおそらくひと月,ふた月ぐらいで先生から仕込まれるからね。ある程度話せますね。悪気でない

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台湾語なら先生はね。「話していけないよ。いけないよ」。それぐらいでしょうね。

【台湾の郷土教育について】―須永:僕自身は,1945年以降の日本の教科書などを研究しているのですが,教科書の中に,例えば「郷土」がどのように描かれているのかということに着目しています。台湾の郷土教育のことについて,お聞きしてもいいですか(17)。―李:郷土を。僕たちの郷土をね。―須永:例えば,日本の子どもにとって郷土は日本のことになると思うんですけど。台湾の方にとっての郷土がどこかとは,すごく難しい問題だったのではないかと考えています。―李:そうですね。例えば,あなたの言うのは,この教科書は戦前の教科書か,あるいは戦後の教科書。戦後の教科書だと,結局,国民政府が来てからの結局,漢字だらけの教科書,僕たちがね。そして,戦前の教科書は台湾総督府にとって,そういう僕たちの台湾の郷土,やっぱり多少郷土色のある,そういう教科書がある。あなたの知りたいのはどちら?―須永:そういう意味では,比較というか,どちらも。戦前があって,戦後があることだと思うので。どういったものだったのでしょうか。―李:残念ながらね,戦後はね,郷土教育はほとんど……。―樋浦:国民党の時代に。―李:つぶされてね。おまえは中国人だ。中国の歴史を学べ。郷土の歴史はだめ。みんな抑えて。台湾語でさえ話しちゃいけない。戦前は郷土教育はね,多少これはございます。日本の教育はね,日本の教育と大陸,これ中

国の大陸は全然違います。大陸の教育は結局,台湾へ来て,台湾を占領した。台湾は中国の領土だ。そして,台湾に残ってる日本教育を受けた人(に対して)は,快く思わない。おまえら日本思想がある。あるいは,中国の国民政府,中国に盾突いている人もあるかもしれない。それをね,防護意識があってね,対抗意識があって。そしてまたね,日本語話す。日本語書く。もう全然。―樋浦:それだけ敵対していると。―李:こういうわけでね,戦後には全然郷土教育がなかった。そして,戦前はね,ある程度,教科書で見るとね,日本人の,僕たちの教科書の中には,もちろんね,日本のね,例えば,皆さんの文化とかね,あるいは,植民地教育を通して,あとで皇民化教育などありますけどね。やっぱりその中に僕たちの文化・歴史,残してます。例えば,教育指導の,教科書(18)の中にはね,僕たちの水牛という,あれがある。そして,台車という,僕たちのね。―樋浦:面白い。―李:それから,廟の例えば,媽祖様と,そんなのが,所々に入っておりましてね(19)。だから,日本人はやっぱりね,台湾の郷土・文化,一目置いてね,公平に取り入れてくれますからね。そういうわけでね。台湾のお祭も,やっぱりこれはいろいろね,僕たちの風習とかね,はい。―須永:水牛と台車について,もう少しお聞きしてもいいですか。―李:台車,水牛。これはね,教科書の中にあります(次頁,図3)。牧童がね,子どもには牧童が,こどもね,水牛の背中に乗って,そういう写真もありましたし(20)。水牛の,水牛って,ほんと角こうなってるでしょ?こういう角になって,水牛ってこういう牛があって。牛の上にね,鳥がとまってる。「オオチウ」。「オオチウ」という,鳥。鳥がとまってる。それが教

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科書にちゃんと載っておりました。台車は押す。台車はね,相思樹の木があって,昔の台車はね,主に相思樹を山から刈って出て,相思樹ね,炭焼き,炭を焼く(21)。

―須永:教科書以外を使いながら,学校の先生が台湾のことについて話してくださったことはあるのでしょうか。―李:学校の先生はね,教科書の中以外はね,やっぱりあんまり話さないね。―須永:やっぱり,話さない?―李:やっぱりね,日本の教育のこと。例えば,教育勅語とかね。正直,勤勉,時間を守れ,とか,将来偉い人になれ,立派な人になれ,そういう教育を施してくれるからね。教科書にある以外のことは,あまり話しません。あまり話しません。

【宜蘭旭国民学校―『昭和十六年度 修了記念帖』から―】―樋浦:公学校とか小学校に土俵とか銅像はありましたか。―李:土俵?ございません。楠正成の銅像があった。小学校は二宮金次郎。―樋浦:これは何の写真でしたか(次頁,図4,右側イ組写真,中央上の額を指す)

【図3】教科書の中の「水牛」(第三期『公学校用国語読本』巻二,56―57頁)

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―李:宮城(きゅうじょう)。二重橋。―樋浦:宮城。―李:二重橋。(左側ハ組の写真を皆で見る)規律正しく。中央は規律正しく。級訓だ。クラスの。こっちは……無窮の神勅。無窮の神勅。(中央右側の掲示を指す)それから,爾皇孫,就きてとか何とか,皇威とともにあり,か。爾皇孫。皇威とともにあり。それから左側は……君が代。君が代は千代に八千代にさざれ石の……。―樋浦:クラスごとに掛かっているものは,違うのですね?―李:そう。そして,横はやっぱり君が代。―樋浦:君が代は全クラス。(イ組教室に)校訓はない。学級文庫だ。―李:学級の本がある。学級文庫。(イ組左端を指す)―樋浦:楽譜ですね,これ。(イ組黒板を指す)―李:ええ。楽譜。先生は音楽。―山本:音楽の。―李:式のときはね,先生がピアノを伴奏する。音楽の先生。―樋浦:これはオルガン。―李:オルガン。だから,私が言ったでしょ?私は先生の薫陶を受けて,歌が好きなの。先生の薫陶を受けたから。これは世界地図。―樋浦:世界地図。ここは大日本帝国地図?クラスによって違うのですね。―李:そう。クラスによって違う。これは本邦地図。だから,日本の地図。本邦でしょう。―樋浦:これは,度量衡表。(イ組「日の丸」「二重橋」「君が代」額の下の掲示を指す)

【図4】左上が6年ハ組,右下が6年イ組(『昭和十六年度 修了記念帖』)

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―李:1尺は10寸とかね。そんなのを書いてますよ。1尺は10寸とかね。―樋浦:台湾の衛生上水道,下水道。(ハ組黒板中央の文字を読む)―李:わかるでしょう。―樋浦:衛生の設備。および……。―李:そう。衛生の設備。みんな例えば,みんなで手を洗いましょう。身ぎれいにしましょう。そんな衛生の習慣をつけましょう。あれも一種のあれだ。教えだ。―山本:これは,年表ですか。―樋浦:大和時代と書いてある。―李:そう。大和時代。―樋浦:神代?神の代の次が大和時代。ヤマトタケルとかの。―山本:時代から。―樋浦:大東亜戦争,ルソン島へ。―李:進撃とか何とか。―樋浦:何とか前上陸。だからここ毎日,戦争の状況を書いて。(ハ組黒板右端を指す)―李:戦争の情報。―樋浦:授業をここからする。―李:そう,そう。戦争の戦果だな。

Ⅲ.おわりに

紙幅の都合で一部となったが,本インタビューの興味深い点をいくつか指摘し,今後の研究につなげたい。第一に,「白色テロ」「国民党」に関する部分だけ,「怖い怖い」「死んでも死にきれない」「切ない」と,怒りや悲しみが露わになる部分である。個別具体的なできごとの語りは行われず,こうした言葉だけが表れるところから,当時の事態の深刻さと,それがこんにちまで影響し続けている様子がうかがわれる。台湾がくぐり抜けた「植民地後」の歴史が,李英茂氏の日本への肯定的態度をなお際立たせる。第二に,「善良な」教員の「熱意」が,「改姓名」や台湾語使用の抑止を一見穏やかにもたら

しているように見えるところである。例えば「改姓名」に「ニコニコ」する担任や,勤労動員の語りのなかで,教員がモッコに土を入れる役割を担ったとの語りが注目される。その場面には称揚や励まししかない(と記憶される)。しかし植民地支配の構造全体を眺めれば,名前の改変,戦争協力のための労働の強要において,教員の有した植民地権力者としての力を想像せずにおれない。関連して,あくまでも教員への慕わしさの心情を媒介として日本と近代とが同時に受容され

ていた様相が,随所に読み取れる。そのひとつが担任宅訪問の場面である。「畳」に「上がる」という行動,そこで供された「プディン」なる洋風の菓子に,日本文化と日本式の西洋近代とが象徴される。ほかに,「毎日,着物と袴」の「おばあ先生」の記憶の語りも注目される。幼稚園は日本人園児とは別棟だったと語られるものの,民族別学への疑問はない。日本人棟と台湾人棟を往来する「おばあ先生」や,「郡守さん」からもらう「どっさりお菓子」は,台湾人と日本人との隔絶を見えにくくする膜のような役割を担ったのではなかろうか。第三に,詳細な「郷土」関係教材の記憶が語られるところである。李英茂氏は,「オオチ

ウ」という国語の単元について明瞭に語った(このことに関して聞き手が資料を準備したわけではない)。日本内地の国定教科書は当然ながら全国で同じ教材が使用されており,そのため

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に各地方教育会が郷土教材を作成していた。また30年代後半から40年代は,日本内地の「郷土教育運動」は衰退期にあった。朝鮮では国民学校への制度改定とともに朝鮮独自の教材は単元としては国民科国史地理から削除され(22),台湾と異なり「郷土ノ観察」の文言も要目から削除された。これらのことを考えあわせると,台湾総督府編纂教科書にしか掲載されない独自教材に関わる鮮明な語りは,当時の台湾の置かれていた状況の特異さを裏書きするようでもある。第四に,教室内の様子が具体的に写真から明らかになる部分である。「台湾の衛生」につい

て説明される黒板,「学級文庫」の上に置かれている模型飛行機など,植民地の学校が,こどもに対していかなる役割を担ったのかを,間接的な形ながら私たちに訴えかける。今後も音声・映像・文字による当時の語りの保存に努めながら,このモノグラフを歴史的文

脈のなかでどのように位置づけ,理解するのか,さらに議論と考察を深めたいと考えている(23)。最後に,ボランティアの仕事や通院の合間に,日本語で3時間以上ものインタビューに応じ,

記録の掲載を快諾してくださった李英茂氏と,場所を提供していただいた宜蘭県史館に感謝の意を示したい。なお,本研究は JSPS科研費26780466,26590197の助成を受けた研究成果の一部として公表

するものである。

(1) 呉文星『日治時期臺灣的社會領導階層』(台北,五南,2008年),89頁。(2) 台湾教育会編『台湾教育沿革誌』(台湾教育会,1939年),533頁。(3) 台湾総督府文教局『台湾総督府学事第三十六年報』(1937年),36頁。(4) 宜蘭郡教育会『宜蘭郡教育要覧』(1937年),13―16頁。(5) 「共産分子の殲滅」という名目で1987年の戒厳令解除まで展開された政治弾圧のことを指す。

こうした動きが「白色テロ」と称されることについて,周婉窈は,「赤色が共産主義を表すのに対し,白色は共産党と対峙する陣営を表している。この二つの陣営の信奉者たちが権力闘争を行う時,往々にしてテロリズムに訴えたがために,「白色テロ」と「赤色テロ」という対称が生まれた」と説明している。周婉窈著,濱島敦俊監訳『図説台湾の歴史』(平凡社,2007年),185頁。

(6) 法院とは,「台湾総督府法院ハ台湾総督ノ管理ニ属シ民事刑事ノ裁判ヲ為スコトヲ掌ル」(「台湾総督府法院条例」第1条,1896年5月)という役割の下に設置された司法機関である。こうした公的機関への台湾人の任用について,岡本真希子は,「台湾の植民地官僚の構成は,正規の官僚は内地人がほぼ占有し続けていた。戦時下に至ってようやく台湾人職員の組み込みが進んではいくものの,それは雇・傭などの末端部分のみにとどめられている」と指摘している。岡本真希子『植民地官僚の政治史―朝鮮・台湾総督府と帝国日本―』(三元社,2008年),57頁。

(7) 台湾総督府文教局編『昭和十八年度台湾学事一覧』(1944年)によれば,1943年当時の宜蘭中学校の生徒数は,「内地人」生徒78名,「本島人」生徒148名となっている(32頁)。

(8) 正庁とは,伝統的な台湾家屋の中心に備えられる祭壇である。植民地期の台湾では,とくに1930年代から神宮大麻(伊勢神宮のふだ)の強制的な頒布が実施されるようになっていた。その頒布数の増大とともに,もともと日本の家屋のように神棚の設けのない家にとっての,神宮大麻の設置場所が問題となった。蔡錦堂の研究によれば,全国神職会の支部であり台湾内の神社に勤める神職と総督府官吏で組織される台湾神職会は,当初は台湾伝統の祖霊などと,神宮

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大麻を正庁で並置することに対して寛容であった。しかし30年代半ば以降は「正庁改善運動」というかたちで,台湾各所で従来祀られてきた祖先神などが一斉に燃やされる,日本の神道で祖先をまつるための「祖霊社」(仏教の仏壇に該当する設備)の設置を要求するなど,エスカレートしていった。しかし,こうした過酷な要求への対応には地域ごとに相当の温度差があったようである(蔡錦堂『日本帝国主義下台湾の宗教政策』,同成社,1994年,第6章)。インタビューでは1930年代後半から40年代の李家の正庁が語られており,さまざまなものが「並置」された状態だったこと,従来の祭祀も継続されていたことがうかがわれる。

(9) 宜蘭公学校(のち宜蘭旭国民学校と改称)は,1896年に設置された国語伝習所から一切を引き継いで1898年に開校した。李英茂氏が4学年に在学中であった1938年に開校40周年を迎えた。38年現在,1-6学年に計1,685名,高等科に計269名の児童が在籍していた。『創立四拾周年記念誌』,宜蘭公学校,1939年,53頁〔阿部洋(代表)編『日本教育政策史料集(台湾篇)』(第58巻,龍渓書舎,2012年)に収載〕。

(10) 同上『創立四拾周年記念誌』によれば,「城所正次先生」は1936年3月31日に着任している。(11) 『昭和十七年十一月一日現在 台湾総督府及所属官署職員録』(台湾総督府)によると,台北

州立宜蘭中学校には五島陽空校長以下,大倉栄太郎,田中忠一,高畠又市,柳沼重德,沖田伊三男,松田昇,田澁和,村田武男,吉田次郎,織田永生,髙梨榮作,落合彦二,那須精明,河井為海の名が掲載されており,田澁と村田には陸軍少尉の記載がある。事務職員や校医も含んでいるものと推定される。台湾総督府編纂『昭和十七年十一月一日現在 台湾総督府及所属官署職員録』台湾時報発行所,1943年,440―441頁。

(12) 注音符号は1913年に国民党政府が中国語の音声統一(国音)を目的に招集した「読音統一会」によって定められた。現在,台湾では,1935年に教育部が中国大陸での政権時期に公布した「國字旁注之注音符號印刷體式表」に基づき,教育部国語推行委員会『國語注音符號手冊』に掲載された37の字母(勹夂冂匸など)の組合せによる発音表記を使用している。台湾の小学校では,まず注音符号の読み方から国語の授業が始まる。李英茂氏が自らのことを「チイチイパッパの先生」と呼んでいることからは,注音符号の授業風景を想起させる。

(13) この時念頭にあったのは,1920~1930年代の日本における,自由詩・生活詩と生活綴方をめぐる動向との類似性についてであった。例えば大田堯は,「戦前の綴方教師たち」が1930年代以降の「政治的な自由,教育の自由がおかされている状況」の中で「すべての教科が国定教科書一本でおさえられているという中でのわずかな空間,綴方の時間,教科書のない自由な時間を利用して,心ある教師たちが子どもたちを励まして,生活の中でつかみとったことを文章に綴らせる」ことを「絶妙な知恵」として高く評価し,その「手がかり」になったのは「自由詩,散文などという枠のはずれたもの」を通してであった,と指摘している。大田堯『教育とは何かを問いつづけて』(岩波書店,1983年),102頁。

(14) 結核外科の方法のひとつとして,1940年代後半に「合成樹脂球」を使った「合成樹脂(球)充填術」という方法が多く用いられたといわれている。藤倉一郎・藤倉知子「結核外科における肋膜外合成樹脂充填術」(日本医史学会『日本医史学雑誌』第40巻第2号,1994年6月),参照。

(15) 蘇美如『宜蘭市志 歴史建築編』(宜蘭市公所,2006年)によると,当時,宜蘭には「北飛行場」と「南飛行場」という2か所の飛行場があり,「北飛行場」は1943年に軍用飛行場へと転用され,「南飛行場」は特攻隊の発着場となっていた。

(16) 井上英夫「宜中精神」,『國立宜蘭高級中學創校60周年紀念専刊』(國立宜蘭高級中學,2000年),152頁。ここで李英茂氏自身が自らの文章を「井上英夫」名で公表している点は,「おわりに」で指摘したような「改姓名」への捉え方の表れとして位置づけることもできるだろう。

46 天理大学学報 第67巻第2号

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(17) 台湾の郷土教育については,林初梅『「郷土」としての台湾―郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容―』(東信堂,2009年)で,中学校教科書『認識台湾』の編纂に象徴される1990年代の郷土教育の隆盛を中心に,日本統治時代や1950年代の国民党政権下の郷土教育について論じられている。なお,本書中,日本統治時代の郷土教育と1990年代の郷土教育との「連続性」について論じる箇所で,李英茂氏が翻訳監修した『羅東郷土資料』(1999年)が言及され,李英茂氏の序文の一部が引用されている。同書,75頁。

(18) 李英茂氏は1929年生まれ,公学校在籍期間は1935~1941年で,以下で言及している教科書は,台湾総督府『公学校用国語読本』の第三期(全12巻,使用期間:1923~1941年)と思われる。日本統治下の国語読本については,全五期分が呉文星らによって『日治時期台湾公学校与国民学校 国語読本』(南天書局[台北],2003年)としてその復刻版が刊行されている。また,この教科書を対象とした研究には,例えば陳虹彣「日本統治下台湾人用国語教科書と国定教科書の比較研究(その3)―第三期読本を中心に―」(『平安女学院大学研究年報』第14号,2014年6月)などがある。

(19) 上述した第三期『公学校用国語読本』には,例えば「廟」については『巻五』第15課「おまつり」(55―56頁),「媽祖」については『巻九』第4課「昔の旅」(10頁)に,それぞれ記述がある。

(20) 第三期『公学校用国語読本』の『巻五』第14課「夏の夕方」(50頁)に,「向ふのやぶかげからは,水牛が子供をのせてかへつて来ます」という文章が水牛の背に乗る子どもの挿絵とともに掲載されている。

(21) 第三期『公学校用国語読本』において,「台車」は管見の限り見当たらなかったが,「牛車」は『巻五』第7課(22―24頁)の項目名として挿絵つきで記述があるほか,別の箇所にもたびたび登場する。「炭焼き」「相思樹」は,『巻五』第22課「炭焼き」(77―79頁)に挿絵付きで詩が掲載されているほか,『巻十二』第9課「台湾の木材」(37頁)で「相思樹・龍眼樹は薪炭材として島内各地に産出す」と記述がある。

(22) ただし一切の朝鮮関係の記述が削除されたわけではなく,あくまで日本との関係において部分的に叙述されるようになった。したがって,国定教科書ではなく朝鮮総督府による教科書編纂の事業は継続した。

(23) 小山静子は,自叙伝を用いた研究において,主観のなかで記憶の選択がなされることについて積極的な意味づけを行う。これは口述研究においても同様であろう。何歳の時に何を(無意識裡に選択して)語るのか,ということは,すぐれてその時代や社会の状況を反映させる。本稿全体も,現代の李英茂氏と台湾を取り巻く状況が反映されているものと確信する。また,佐藤由美は,こどもの「周辺文化」をキー概念として絵本・紙芝居など具体的な記憶から,学校外を含む子どもの「学びや遊び」のすがたを抉り出そうとする。佐藤研究では台湾のみならず朝鮮半島の元児童へのインタビューも重ねられている。これらの先行研究に学びつつ,今後も研究を進めたい。小山静子編『「育つ」・「学ぶ」の社会史―「自叙伝」から』(藤原書店,2008年),序章。佐藤由美編『日本統治下台湾・朝鮮と周辺文化の研究 課題番号23330229』(平成23年度~平成25年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書,2014年3月),序説。

戦中戦後台湾における教育経験 47

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