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19食品と容器 2015 VOL. 56 NO. 1

▪新春誌上座談会▪和食と日本の食文化  

 1.雑煮以前に菱花びら餅があった 室町時代,足利将軍家では正月に薄くて丸い花びら餅に菱形に切った紅色の餅を重ねた菱花びら餅を焼いて食べていたようだ。菱花びら餅の記述は京都の吉田神社の神職をしていた鈴鹿家の日記に出てくる。「昼過主君(義詮か)ヱ菱花ヒラ出ル三

さ ん ぎ

木(長方形の木片)スルメ煮シメ牛蒡出ル」[貞治3年(1364)1月朔

つい

日たち

]とある。 安土桃山時代に皇室の内

うちくらの

蔵寮りょう

と御み ず し

厨子所しょ

を管掌していた山科言継卿も領地の大宅卿から届けられた花びら餅を雑煮に仕立て,正月を祝ったり,溜醤油焼(雉焼)にして酒

しゅこう

肴にしている。 宮廷では菱花びら餅を鏡飾りとして用いていたが,明治4年からその上に下煮した牛蒡を乗せ,白味噌を塗って折り畳んだ軟らかい包み雑煮を食べ始めたと,川端道喜氏は書いている。

 2.雑煮は京都生まれ,京都育ち 雑煮は室町時代に京都で誕生した。足利将軍家や上級武家の婚儀に際し,お嫁さんのお色直しの時,夫婦が末長く,固く結ばれることを祈って「固めの盃

さかずき

」を交わす酒の肴さかな

として用いた。現在と異なり,両親のみ参列した。 その雑煮の具は安土桃山時代の『小笠原流礼法秘伝書』によると「御まいり肴」と呼び,「干アワビ,干ナマコ,結びのし,結びワラビ,搗グリ,コブ,餅」とある。ダイズと大小ムギ,塩で作った唐

から

味み そ

噌を水で溶き,煮詰めて布袋で漉した澄まし味噌(垂

たれ

味み そ

噌)で煮ている。水溶きした唐味噌を漉した生

なま

垂だれ

に花鰹を加えて煮て漉した煮に

貫ぬき

あった。直接,味噌で味をつけるとお目出度い席を汚す(味噌をつける)といって縁起が悪いから澄ましたのである。 雑煮の具は見ての通り,縁起のよい海山里の幸で構成している。干アワビは不老長寿を意味し,目を明るくする。干ナマコは別名俵子と呼ばれており,豊作と金運に。結びのしや結びワラビは夫婦を結ぶにかける。ワラビは笑う。搗グリは勝つ。丸子餅は円満を表し,餅は望に通じ,望みが叶えられる。これらは開運を願う食べ物ばかりである。

3.公卿や武家も来客の酒肴に用いる この雑煮の文化が公卿に伝わるとその名がよろしくないと言って,烹

ほう

雑ぞう

と名を変えた。貴族がこの烹雑を用いた記録として最も早いのは『山科家礼記』である。先に小笠原流の雑煮の具材を示したが,それより以前にこの日記に初めて具材と味付けが紹介されている。その記述は「飯田・富松よひ(び),餅ニイリコ(干ナマコ)マルアワビ(干アワビ),スルメ,マメ(ゆでダイズ)入テタレ味噌ニテクワス,酒候也…」[明応元年(1492)

奥おく

 村むら

 彪あや

 生お

 伝承料理研究家

雑煮の歴史と文化

山科家の雑煮  再現:奥村彪生

20食品と容器 2015 VOL. 56 NO. 1

▪新春誌上座談会▪和食と日本の食文化

旧暦8月1日]。この山科家の子孫たちも安土桃山時代になると大切な来客に季節を問わず酒肴として用いている。京都は内陸部にあった都ゆえ,海の幸の多くは干物であった。干物だから季節を問わずに使える便利さがあった。 群雄割拠の戦国時代になると,織田信長はお互いの信頼を固めるために徳川家康を安土城に招き,饗宴(式三献形式)の初献の酒肴として雑煮を出している。また豊臣秀吉は朝鮮に出兵する武士達に,肥前(現佐賀県)名護屋で茶会を催し,雑煮を振舞っている。また,自ら前田利家邸を訪れた時は雑煮が最初に出され,酒を献盃されている。信長や秀吉が用いた雑煮の具は小笠原流に準じたものであろう。

 4.正月に雑煮を祝ったのはいつごろか 江戸初期の儒家である貝原益軒によると三ケ日餅を食べるのは,中国で正月に固い飴(膠

からがせい

牙錫)を食べたり,立春の日に春

ちゅん

餅ぴん

(春巻)をすすめる習俗に習ったのではないかとしている(日本歳時記)。 さて,正月の雑煮祝いの記述で最も早いのは,先に紹介した京都吉田神社の日記である。「上刻ウタイ(謡曲)初

はじめのいわい

祝,その後に雑煮御酒被下」[北朝貞治3年(1364)1月2日]とあり,3日,8日にも祝っている。 その後,正月に雑煮を祝う文化は禅林(寺)にも広がり,京都北山にある鹿

ろくおんじ

苑寺(金閣寺)では冷や酒に添える雑煮は「丸小餅,豆腐,サトイモ,

ナズナ,結び昆布」を具にしている[長享2年(1488)正月元旦]。寺ゆえ餅に組む具材は精進である。安土桃山時代になると寺方ネットワークで伝わり,奈良興福寺や大阪石山本願寺,上

こうづけ

野(現群馬県)の永楽寺などの寺院でも祝っている。大阪の石山本願寺(浄土真宗中興の祖といわれる蓮如が開山。その末子の実従の日記)では師走の25日の大掃除のあとでも祝っている。また正月の雑煮には組付と称して数の子や海老,昆布などが添えられている。これがのちに組重に変容する。そして戦国末期には京都の大

おおだな

商(大きな商店)でも祝うようになり,具は金閣寺のものと似ているが,ダイコンが加わり,ナズナは菜の花になっている。寺院や大商では味噌汁だったと考えられる。

 5.江戸初期,雑煮の味付けは垂味噌と味噌仕立て 江戸初期,武

む さ し

蔵国のくに

狭さ や ま

山で書かれた地方料理も加わっている『料理物語』[寛永20年(1643)]に,「雑煮は,中(辛)みそ又すまし(垂味噌)にても仕立候。…」とあり,具は先に挙げたものが列挙されている。このころまだ醤油は普及していない。

6.京都では江戸中期に貧乏人も雑煮を祝う 雑煮は京都で誕生してから庶民にまで普及するのは早い。雑煮は京都生まれの京都育ちといえる。京都の年中行事を書いた『日

次なみ

記き じ

事』に『今け さ

朝良りょう

賤せんぞうにを

食二雑く ら う

煮一』[貞享2年(1685)元旦]とある。このころは昆布だしを用い,白(甘)味噌仕立である。昆布でだしを引く文化は室町時代からあり,白味噌は戦国末期か江戸初期にあったと言われている。京都の市民の雑煮の具が分かるのは江戸後期の商家の記録である。文政7年(1824)の記録では午前4時ごろに起き,「年男(一家の主人か長男)が汲んだ若水とおけら火(大晦に八坂神社でもらう浄

きよ

められた火種)で雑煮を煮る。雑煮,もち,頭いも,こんぶ,大根,小いも,花かつほ鹿苑寺(金閣寺)の雑煮  再現:奥村彪生

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▪雑煮の歴史と文化▪ 

かけ」とある。1700年代初めごろから京都では雑煮祝いが儀礼化している。年の初めの邪気を祓った若返りの水と浄められた火で稲魂が宿る丸小餅と冬野菜を年男がひとつ鍋で煮る。それを年神様と家族が分かち合って食べる直

なおらい

会としての政まつり

事ごと

になっている。そのために雑煮箸は両細(菱箸または太箸とも言う)になっており,一方は人,片一方は神様が食べる神人共食用になっている。 頭芋は人の頭になるようにと一家の主人と長男に入れた。現在もそうしている。子芋は子孫繁栄を願う。花鰹をトッピングするのは,雑煮祝は神事であるから,精進(具は野菜で構成されている)でないことを示すためである。  7.地方へ普及するのは元禄以後である 元禄のころになると貨幣経済が発展して金を持った者が社会を動かすようになる。まずは商都大阪に伝わる。しかし,大阪の作家,井原西鶴によると8年間雑煮を祝えなかった話やサトイモやダイコンばかりの餅なし雑煮の話が出てくる。また,江戸後期日本一の豪商になる鴻池家も,創立者の山中鹿之助のころは餅が搗

けず,カブラばかりの雑煮だったと言う。蕪

かぶ

を輪切りにしたものを鏡蕪と呼ぶ。ということは年の暮れの餅が搗けるか搗けないかで,その家の経営状態が分かった。 その鴻池家の正徳年間(1711 ~ 1715)の雑煮は「松

か つ お

鰹,餅,大根,里芋,焼豆腐,結昆布」である。この雑煮に簡単な本膳と二段重の組重(正月組重の初見で元日のみ)が添えられている。この本膳を年迎膳という。 大阪近郊の河内にも元禄のころ伝わっており,石川村の酒屋の正月の記録に出てくる。また,同時代に名古屋にも伝わっており,名古屋城で畳奉行をしていた百石取の朝日文左衛門がある家の婚儀の席で食べたと日記にしたためている。

 8.徳川家の雑煮 先に書いたように,江戸幕府を開いた徳川家康は織田信長の招きで安土城で雑煮を食べている。

しかし,開府当初江戸城で正月に雑煮祝をしたかどうかは分からない。おそらく元禄のころ将軍綱吉の家老であった吉良上

こうづけのすけ

野介義央のころは祝っていただろう。その理由は吉良家が駿府(現静岡県)の高家で,安土桃山のころからあり,今川流を継いだ吉良流作法の家元である。吉良流では雑煮の餅は四寸四方(約12cm角)の角餅(のし餅)で,具はのし鮑,昆布,搗栗,ことのばら(田作り),串鮑,若菜であった。おそらく吉良流にのっとった雑煮を祝っていたのではないか。のし餅は敵をのすに通じ,焼けばふくらんで角が取れ,福がくるにつながる。 それを示す資料があり,天保7年(1836)の『東都歳時記』に,徳川家の雑煮に触れ,「餅,大根,牛蒡,焼豆腐,芋(サトイモ),くしこ(干ナマコ),昆布,(干)鮑」とある。もちろん,この時代の徳川家の雑煮餅は角餅である。そして第11代将軍家斉[文政年間(1823ごろ)]の記録では「御臓煮もち,里芋,長菜(小松菜か),平昆布,花かつほ」と質素になっている。

 9.雑煮文化の全国化は江戸後期の武家から 徳川時代になると各藩の藩主は参勤交代で江戸住まいをする。その時に将軍家の習わしを学び,国元へ持ち帰る。江戸城で正月雑煮祝はいつごろ始まったか分からないが,おそらく元禄のころにはあった。文化12,3年(1815 ~ 16)ごろ,江戸の国学者屋代弘賢等が,各藩の雑煮の具と味付けを調査した時の返書が18通残っている。その質問状には「菘

あおな

(小松菜),いも(里芋),大根,人参,田作(吉良流の影響か)など,其外に何等の物候やらん」とある。その他の記録と合わせると藩主と城下の武家とは内容は異なる。武家でも位によって異なっていた。 味付けは,徳川家では享保のころ(1716 ~ 35)までは垂味噌か煮貫であったであろう。醤油仕立てになるのはそれ以後で,大阪から菱垣廻船や樽廻船で運ばれてくる下り醤油が江戸に入ってから

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▪新春誌上座談会▪和食と日本の食文化

のことである。1800年代初めは各藩では味噌汁が多く,醤油と味噌汁両方あるとしているのは水戸藩で(銚子や野田の地廻りか),福山藩ではまれに醤油があると報告している。伊達藩主はカツオ節でだしを取り,干アワビや身欠ニシンを具にしていたから仙台味噌の垂味噌ではなかったか。城下の武家は焼ハゼである。日本料理が完成期を迎える文化・文政以後,醤油が全国的に流通する18世紀後半か19世紀初めには江戸風の醤油仕立ての藩が多くなり,大名のいない京都や大阪を中心に白味噌仕立てが残ったと考えられる。そして,福井は赤味噌であった。

 10.江戸の庶民が雑煮祝いをできるのは江戸末期 賃搗餅屋が出現してから 江戸の街は元禄以後百万都市になるが,山手に武家や神職,僧職者など半数が住み,残りの半数の庶民は,山手を造成する時に出た土で江戸湾を埋め立てた下町に住んだ。その庶民の多くは間口九尺,奥行二間の三坪六畳の長屋に住んだ。餅を搗く臼や杵の置く場所もない。武家や社家,寺院,使用人の多い大

おおだな

商では日を定めて正月の餅は搗いたが,長屋住まいのトラさんや八っさんらは賃搗餅を利用した。 賃搗餅屋(引きずりともいう)が江戸に出現するのは宝暦(1751 ~ 64)のころらしい。年の暮の12月15日から大晦日まで賃搗餅屋は早朝から夜更まで移動しながら搗いた。その杵の音は江戸四里四方に響き渡ったという。 信州から江戸に来ていた俳人小林一茶は『八番日記』[文政4年(1821)]に次の句を残している。  賃搗が隣へ来たと云ふ子哉  のし餅の中や一すじ猫の道 賃搗は忙しいから,上方のように1ヶずつ丸めていては時間がかかり,商売あがったり。稼ぎを上げるために一気にのした。少し固くなってから家人が四角に切った。それを酒樽(一斗樽)か餅ぶた(長方形の浅箱)に入れた。江戸の長屋住まいの人達が正月に雑煮を祝えるのは18世紀以後の

ことで,味付けは味噌汁だった。 幕末の思い出を綴った『江戸府内絵本風俗往来』によると「中等以上の暮らしをする武家や大商の家では小松菜,大根,里芋を通常とし,味噌汁を用いる所もあり,餅も焼く,湯煮する」。中等以上の暮らしをする家では醤油仕立てのすましが多かったが,庶民は未だ味噌汁であった。この江戸の庶民の雑煮が後進地の東日本一帯に伝わり,土地土地の産物を用いた。ただし,秋田佐竹藩では安土桃山時代に京都で藩主自ら雑煮を食べた経験があり,江戸初期には正月に雑煮を祝っている。

 11.現在の雑煮文化が確立するのは明治後半 明治のご一新で肉食が大っぴらに行われるようになる。明治44年の『東京年中行事』には,「雑煮は簡略化され,二,三種の具を用い,家々で異なり,鴨,鶏,牛肉など用いる」とある。江戸末期には鴨肉を団子にして用いた例はあるが,鶏肉や牛肉などを雑煮に用いるなどもってのほかだった。 その明治の後半に全国の雑煮を調査したご仁がおり,その結果を『名物諸国料理』(明治39年,奥村彪生蔵)に丁載している。それを資料にして雑煮マップを作製したところ,現在とほとんど変わっていない(第1図)。 その雑煮の型は明治のご一新で各藩で平準化した。武家社会が崩れ,「武家は平民化し,平民は逆に武家の真似をした一種の下克上だ」と私の恩師,篠田統氏(日本の食文化研究の草分け者)が『米の文化史』に書いておられる。そのために雑煮の味付けは味噌汁から醤油すまし仕立てに変えた土地が多くある。現在公表されている雑煮は大名家のものが幾つかあるが,その多くは明治後半にできたものである。

 12.雑煮の文化圏は4系統 現在,全国で食べられている正月の雑煮を分類すると4系統に分かれる。①�味噌仕立て,丸餅。京都の公卿・町衆風。京都

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▪雑煮の歴史と文化▪

ごぼう、にんじん、だいこん、はららご、かまぼこ、せり

小松菜、里芋、にんじん

こん、にんじん、里芋、ごぼう 、だ

いこん、にんじん、小鳥の丸

川魚、かまぼこの卵とじ

ごぼう、にんじん、干えび

にんじん、油揚、干えび

小松菜、里芋、かまぼこ

油揚、豆腐、里芋、だいこん

清汁、にんじん、ごぼう、かまぼこ、小松菜

里芋、黒砂糖をかける 白味

、だいこん、焼豆腐、頭芋 、

だいこん、里芋、にんじん

を焼く、 、だいこん、里芋、豆腐

、だいこん、ごぼう、里芋、豆腐

は清汁、里芋、だいこん、ぶり 汁、ぶり、はまぐり

、とり肉、頭芋、だいこん

芋、ごぼう、にんじん、水菜

焼豆腐、だいこん、ごぼう、鮭のはららご、里芋、油揚

、だいこん、焼豆腐、里芋、頭芋

・山城伏見の雑煮:京によく似る。

、町方は清汁、小かぶとその菜

周防の雑煮:平たい丸

里芋、こんぶ、みつば

たい、京菜、かまぼこ

く、清汁、だいこん、ごまめ、こんぶ、水菜

伊 賀 の 雑

清汁、豆腐

高松の雑煮:丸、だ

いこん

信州松本の雑煮:切、だいこ

ん、にんじん、ぶり

きな粉、だいこん、ごぼう、油揚、こんにゃく、するめ、鮭はららご、塩鮭の服部

きな粉、だいこん、里芋、かまぼこ、鮭はららご

明治後半の日本雑煮マップ 江戸時代末期の名残が見え隠れする。

           奥村彪生作図

かち栗、かや、かずのこ

若菜、焼たいの切り身

第1図

第2図

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▪新春誌上座談会▪和食と日本の食文化

を中心に大阪,奈良,兵庫,和歌山の北部,香川県(明治39年以後),徳島,福井など。福井や徳島の山間部は赤味噌。他は白味噌である。②�醤油すまし仕立て,角餅。武家(江戸)風。東日本一帯。③�醤油すまし仕立て,丸餅。武家(江戸)風と公卿・町衆(京都)風の折衷型。西日本。④�小豆汁仕立て,丸餅。因幡・出雲地方の都市部。室町時代の京都の古風がこの地に伝わり,残る。室町のころ京都の上流階級では,正月に善哉餅を祝っていたことは関白一条兼良が著した『尺素往来』に見える。 なお北海道(北の食文化・アイヌ食文化圏)は明治以後に移住した人達によって雑煮文化が持ち込まれ,ここは現在では雑多である。沖縄(南の食文化・琉球食文化圏)では雑煮祝いはなかったが,現在,雑煮を作る家が出てきた。雑煮文化は本州,四国,九州を結ぶ中の食文化(日本型食文化圏)であった(第2図)。

 13.丸餅,角餅の分岐点は関ヶ原 私は日本のめん食を調査するために2007 ~ 8年と2年間にわたり47都道府県を行脚した。ついでに雑煮も採録した。丸餅,角餅の分岐ラインはうどんのだしの濃き,淡きの分岐ラインや東西言葉の違いの分岐ラインとほぼ一致する。 分岐点になる丸餅,角餅が混在する岐阜県大垣,関ヶ原から丸餅は,北は福井県,石川県白峰,松

まつとう

任,加賀を通り,角餅,丸餅が混在する金沢を抜け,能登穴水から富山県魚津を通過して,新潟県佐渡を更に北上して山形県鶴岡,酒田と結ばれる。逆に南下すると滋賀県から三重県名張(飛地として伊勢),和歌山県新宮を西南へ寄ったラインとなる。しかし,彦根市は丸餅だがすまし派が多い。藩主の井伊家は遠州出身だから京都風と折衷したのである。人の移動で食文化も移動する何よりの証だ。

 14.変わり雑煮のいろいろ 雑煮ほど地域の特徴を表した食べ物はない。そ

の中から変わった雑煮の幾つかを挙げる。青森県八戸では鯨の黒皮(塩漬の脂身)が入る。鯨のごとく大きくなることへの願いか。岩手県盛岡のクルミだれ。餅につけて食べる。千葉県海岸通りのハバノリ。幅をきかせるといってこれだけトッピングする家がある。東京都府中市の三日月餅。平たい丸餅を3つに切る。愛知県は餅菜(小松菜に似る)だけ。名を持ち上げるにかける。福井県の蕪雑煮。株を上げるに通じる。京都市山間部の甘

出雲の小豆雑煮  再現:奥村彪生

鹿児島の海老雑炊  再現:奥村彪生

宮城県塩竃の干ホヤ雑煮  再現:奥村彪生

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▪雑煮の歴史と文化▪ 

味噌包み餅の具なしの湯雑煮。神戸市長田では鯨肉。昔捕鯨船に乗っていた人がこの地区に多くいる。奈良県山辺のきなこ雑煮。きなこを稲の花に見立てて餅につけて食べる。福井県小浜では黒砂糖をトッピング。香川県では小豆餡餅の白味噌仕立て。ここは歴史は浅く明治39年(1906)以後である。鳥取県八

や ず

頭は栃餅,鹿児島は頭芋に大豆もやしをかつらにして出世を祈る。

 15.だしにも地方色あり 雑煮の味をうまくするのはだし。だしの文化は中国伝来だが,室町時代に奈良時代からあった昆布(kombu:アイヌ語)や鰹節(麁

あら

鰹か つ お

魚)を使って引く文化が生まれた。味噌や醤油の製法も中国伝来である。雑煮の発生地の京都は昆布。大阪は鰹節を併用。鰹節は東京を中心に関東,北陸,東海地方で主に用いる。煮干は青森,山形,茨城,兵庫,香川,山口,高知,宮崎などに及んでいる。アゴ(飛魚)は北九州,焼ハゼは仙台を中心に,東京の葛飾区でも用いる。宮城県塩竈では焼ハゼの外に焼ドンコ(エゾアイナメ)や干ホヤ,釜石では生ホヤを用いる。焼干アナゴは広島の尾道,因島。アサリ貝は山口県岩国。草フグは秋田県男鹿,福島県岩城,広島県福山。するめは石川県小松,福岡県久留米。干エビは小豆島や鹿児島市。その他鶏がらや豚肉,エソ,ボラ,干椎茸など実に多士済済である。しかし,現在ではだしの素を使用する家庭が増えており,地方色がだんだん薄れている。

 16.タンパク質源にも郷土色 豆腐と油揚げは信越,関西。凍豆腐は東北,信越。鮭は新潟,青森県弘前など。鰤は飛騨,信州,丹後(京都府宮津や舞鶴も含む),但馬,丹波,南紀,中国,山陽,北九州。鯨は,黒皮を用いるのは青森県八戸,赤身は神戸市長田。車エビは東京。イワシすり身は富山。かまぼこは全国的。宮城県塩竈では干ホヤ,広島はカキ貝を用い,山口県岩国ではアサリ。これら貝類はだし兼用である。

鶏肉は東北,関東,東海,九州などである。北海道では豚肉を用いる家がある。長崎は中国の卓

しっぽく

袱料理(中国風の料理)の影響を受け,鰤の他に鶏団子や干なまこが加わる。 野菜は大根,人参は全国的だが,里芋は関東,近畿,中国,四国,九州に多く見られる。ごぼうは東北に多く,関東や信越,北陸,中国,九州の一部に見られる。蕪は福井の他に山口でもよく使う。そして青味は,せりは東北,信越,小松菜は関東,東海。水菜(またはみぶ菜)は京阪中心に関西や中国地方の一部。ほうれん草は中国地方や四国の一部である。岩のり(十

うっぷるい

六島海苔)は鳥取の弓浜や大山。その他三つ葉や高菜など冬野菜が中心になっている。

 17.なぜ雑煮の具に地方色があるのか 日本列島はユーラシア大陸の東端に位置する亜寒帯から亜熱帯までに属する島国である。北から寒流が南下し,南から暖流が北上し,日本列島を包む。その上,地形が変化に富む。そのために,地域で気候風土が異なるために,産物は異なる。その産物を利用して雑煮を作るとなるとおのずと地域色が出る。その上,家柄や職業ならびに収入によって中身は異なる。そのことは正月に用いる魚(正月魚)にもいえる。例えば,45年前,私が飛騨高山で聞き書をしたころ,金持は塩鰤(飛騨鰤),中流は塩鮭か塩鱒,下流は塩鯖で,それ以下は塩いかであった。それすら買えない家があり,仕方なく油揚を使ったという。  18.正月迎えは生命の更新,精神の若返りの儀礼 先に京都における正月の雑煮祝いは儀礼化していると書いた。皇室の図書陵に勤務していた茶の研究家であった林左馬衛氏宅では,古風にのっとり,大晦日の夕食(神迎膳)が済んでから左馬衛氏ご自身が身を清め,装束を正して神社に詣でて隠こも

ったという。西日本では江戸時代から土地によって日を決めて神宮(伊勢)や金毘羅宮に詣で,

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▪新春誌上座談会▪和食と日本の食文化

元旦の朝までに帰ることもしている。ひと時隠るということは擬死を意味する。除夜の鐘を境にして生き返る。これを日本民俗学では擬死再生という。 明治以前は月の満ち欠けを基準にした暦であった。太陽が沈むと一日の始まり,ために神迎膳をする家が現在も東北に多く残る。また正月を迎える時節は春近しであった。春になると草木の新芽がいっせいに萌える。草木の生命の更新である。人も同じように生命(精神)の更新をはかって来る年も家内安全,商売繁盛,豊農,豊漁を願って新年を迎えた。

 19.雑煮は家族,親族の結束をはかる食べ物だった 元旦早朝に起床し,1年最初の若水を汲み,浄められた火を用いてひとつ鍋で煮る雑煮は,聖なる水と浄めの火の力の合力によって煮られた,人間に活力を与える聖なる食べ物だったのである。それを分かち合って食べることにより,家族ならびに親族の結束をはかるための装置として正月の

祝膳の主役として定着した。まさに一味同心[後白河法皇起請文(文治3年5月1日)その2カ月後に源頼朝が使っている]を計る食べ物であった。

 20.雑煮は文化財的食べごとの遺産である その雑煮を煮る浄火を汚さないために,中国の寒はん

食し

[冬至から百五日目の清明(春分のころ)に春の新しい火を迎えるための作り置きの食べ物]の思想の影響を受け,三箇日分の煮染を大晦日に作り,重詰にした,と考えられる。 重詰料理は時代と共に内容は変わり,今やフレンチやイタリアン,中国風の料理が詰められている。それに対し,雑煮は主人型か嫁型かといった力関係でその家の雑煮は変わるものの,代々あまり変わることなく継承されている。ある若い夫婦の家では元旦は主人,2日は嫁,3日は創作雑煮とバラエティー型にしている。だが,現在は雑煮を煮るのはほとんど主婦である。雑煮は昔ほどの厳かさは失われたが,まさに文化財的食べごとといえる。缶詰にして永久保存したいものである。

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