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100年前の清国留学生
ここ30年ほど、来日する外国人留学生数は、ほぼ毎年増え続けている。高等教育機関における留学生の数は、約30年前は1万人ほどだったのが、平成15年には10万人を超え、平成23年度の調査ではおよそ13万8千人となっている。出身国の上位3位は中国・韓国・台湾で約8割、1位の中国だけで6割強を占めている。現在、留学生、とくにアジアからの留学生の姿は珍しいものではなくなっているといえるだろう。 こうした留学生の活況は今にはじまったことではない。100年前の日本も、中国をはじめとするアジア各国から多くの留学生がやってきていた。本稿では清末の中国人日本留学生の足跡を東京を中心にたどってみたい。 中国からの本格的な留学生派遣は日清戦争後にはじまる。日清戦後は変法自強運動の時期であり、主唱者康有為らは政治の改革とともに近代教育導入を推進しようとしていた。康有為らはこうした「興学」の手段のひとつとして、日本留学を重視していたのである(阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版、1990年)。 20世紀に入ったあたりまでの留学生は、多くが官費によるものであり、厳しい選抜を乗り越えた少数精鋭の者によって構成されていた。1896年の第1回留学生はわずか13名であった。それが義和団事件後、急激に増加しはじめる。1902年には500人、03年には1千人、科挙制度廃止後の05年には8千人、ピークの06年には1万人(2万人説もあり)にまで膨れ上がったという(阿部前掲書)。05〜06年に激増している理由としては、科
挙が廃止されたにもかかわらず新しい教育制度がまだできあがっていなかったこと、日露戦争における日本の勝利のインパクトなどが考えられる。留学生の速成教育
増え続ける留学生に対し、官立の学校がすべてを受け入れることはできなかった。狭間直樹によれば「日本の側には、それだけ多数の留学生をうけいれる準備はできていなかった。だから留学生教育をたんに金もうけの好機としかみぬ学校がぞくぞくとつくられ、ひどいのは石鹸製造法を一週間でおしえて“卒業”させてくれるのもあった」(『中国社会主義の黎明』岩波新書、1976年)という。 そうしたなかで留学生教育機関として重要な位置を占めていたのが、東京の私立学校であった。留学生の9割は東京に集中したため、東京の私立学校が中心になったのである。私立大学で留学生教育に当たった代表例が、早稲田大学清国留学生部や明治大学経緯学堂、法政大学清国留学生法政速成科である。 法政大学および法政速成科(千代田区富士見)には、辛亥革命の主導者や、中華民国の中心的存在となった人々が留学生として多く在学していた。たとえば辛亥革命の世論を準備するのに最も大きな影響を与えたパンフレット『猛
もう
回かい
頭とう
』『警けい
世せい
鐘しょう
』の著者陳
ちん
天てん
華か
である。陳は1905年に公布されたいわゆる「清国留学生取締規則」に抗議して入水自殺を遂げている。革命派の宋
そう
教きょう
仁じん
・胡こ
漢かん
民みん
なども在籍していた。卒業生としては、のちに南京政府を樹立し、日本の傀儡政権を担った汪兆銘がいる。 早稲田大学清国留学生部(新宿区西早稲田)は速成教育ではなく本格的教育を主張した点に特徴
滋賀文教短期大学国文学科准教授神谷昌史
清国留学生の足跡─東京─
町私の の世界史紀行
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があり、宋教仁らの人材を輩出している。明治大学経緯学堂(千代田区神田錦町)は警察関係の教育を行った警務速成科の入学者が多かった。 こうした私立大学と並んで当時の中国人留学生教育を代表する機関が、弘文学院である。弘文学院は柔道家であり教育家である嘉納治五郎が開設した学校であった。嘉納は1896年の第1回留学生に対する教育を任されたことをきっかけに留学生教育に邁進し、1899年には亦
えき
楽らく
書院を設立した。留学生の激増によって校舎が手狭となり、1902年に牛込区牛込西五軒町(現・新宿区西五軒町)に移転し、名前も弘文学院と改められた。弘文学院の在学者・卒業生からも多くの人材が輩出している。たとえば黄
こう
興こう
(孫文と並ぶ辛亥革命の立役者)、陳独秀(中国共産党創設者)、楊
よう
昌しょう
済さい
(教育家。毛沢東の恩師・岳父)などであり、魯迅も仙台医学専門学校入学前に弘文学院で日本語を学んでいる。日本生活と「革命」
さて、この弘文学院に学んだひとりに黄こう
尊そん
三さん
がいる。黄は辛亥革命ののち教育者となる人物で、日本留学時には弘文学院を皮切りに、正則英語学校、早稲田大学、明治大学で学んでいる。かれの留学時の日記が『清国人日本留学日記 一九〇五年 -一九一二年』(東方書店、1986年)として刊行されており、留学生の生活や思想感情の揺れ動きなどがつぶさに見てとれる。 気候や食事などが合わず、病気となったことの克明な記録など興味をひく記述は多いが、入学早々の1905年6月に辮
べん
髪ぱつ
を切ったことの記述(「我々はこの日、髪を切り落とした。僕も切り落とした。大変軽快な感じ」)は日常生活の記録を超えた意味がある。留学生が辮髪を切るというのは「進歩主義の象徴であり、時には革命の印でもあった」からである(同書註)。同じ年に来日して第一高等学校に在籍していた景
けい
梅ばい
九きゅう
は日本人学生に「辮髪はみっともないから切ったらよかろう。われわれは豚のシッポといってるんだ」と筆談で言われ、「私の羞恥心をはげしくゆさぶ」られて、すぐに切っている(景梅九『留日回顧──中国アナキストの半生』平凡社、1966年)。 また6月には警官による突然の荷物検査に立腹
し、9月には「留学生取締規則」に対する反対運動につき学友と相談している。こうしたさまざまな経験により、かれらの素朴な愛国心は革命的ナショナリズムへと形象化されていった。そしてかれらは日本留学により、新思潮に触れ、民主主義思想や立憲思想を身につけるようになった。清国政府は国内改革のために留学生を派遣したが、派遣された留学生たちのなかには日本での生活や勉学を通じ、清朝の打倒と共和制の実現を求める者が増えていった。「日本はあたかも中国革命の根拠地の観を呈してきていた」(山室信一『思想課題としてのアジア─基軸・連鎖・投企』岩波書店、2001年)のである。 さきほどから出ている「留学生取締規則」も、革命運動の進展に脅威を覚えた清国政府が日本政府に留学生の取り締まりを迫ったことからつくられたのであった。1905年8月には東京で孫文を中心とする中国同盟会が結成されている。中国同盟会は興中会、華興会、光復会などの革命団体が合同して組織されたものであり、その機関誌『民報』も東京で発行されていた。おもな執筆者は、胡漢民・汪兆銘・宋教仁・陳天華・廖
りょう
仲ちゅう
愷がい
ら留学生であった。『民報』の編集所・発行所は何か所も存在したが、多くは現・新宿区に位置している。中国革命の援助者宮崎滔天の自宅が新宿にあり編集所として使われたことも大きいだろうが、さきほど名前を挙げた留学生教育機関がこの近辺に多く存在していたことも関係していると思われる。 清国政府は速成科への留学生派遣を1906年に停止し、留学生への速成教育は終わりを告げる。それとともに中国人留学生の数は減少していく。私立大学で留学生教育に用いられた校舎は、ほとんどが建て替えられ、現在その姿を目にすることはできない。弘文学院跡には別のビルが建っている。しかし、20世紀の中国のあり方に日本留学生が果たした役割は大きく、その足跡は今も東京のあちこちに残っているのである。
参考文献(本文に挙げたものを除く)さねとうけいしゅう『日中非友好の歴史』朝日新聞社、1973年厳安生『日本留学精神史─近代中国知識人の軌跡』岩波書店、1991年崔淑芬『来日中国著名人の足跡探訪』中国書店、2004年
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シリーズ・危機からの復興
世界大恐慌とニューディール政策:現代マクロ経済学の視点から
首都大学東京教授 脇田 成
1929年の株価大暴落に始まった世界大恐慌
1930年代の世界大恐慌は1929年10月24日の米国ウォール街での株価大暴落から始まった。米国GDPは半減近く、株価は2割に、失業率は25%となった。日本のバブル崩壊や「失われた10年」と比較すると、そのインパクトの大きさがわかる。日本のGDPは物価下落を考慮に入れた実質では微増、失業率は最悪期で6%弱にすぎない。現在のユーロ圏危機と比較しても、ユーロ圏全体ではGDPは微減、失業率は最悪国のスペインがやはり25%程度であり、ドイツなど北欧諸国の失業率は10%を切っているため、ユーロ圏平均は11%程度である。日本の株価は失われた10年以降下落を続けているとはいえ、その惨状を除けば、現在の不況とは比較すべきもない未曾有の大恐慌ということができる。その後のナチスドイツの台頭や日本の軍国主義を誘発し第二次世界大戦を招いたことも考えれば、今なお研究が続々となされることは不思議ではない。 大恐慌は1929年から始まり、不況が続くなか、世界経済は第二次世界大戦に突入したため、紆余曲折がある。さらにTVAによるダム建設などで著名なニューディール政策は、今なお清新なイメージを与える言葉であり、現オバマ大統領の「グリーン・ニューディール」政策という名称にも引き継がれている。しかしニューディール政策は現在の財政支出規模に比べて格段に小さく、ルーズベルト米国大統領が採用した政策の総称であり、ルーズベルト自体が確固たる考え方をもって実行したとも言い難く、「あらゆることを何でも試した」(クリスチナ・ローマー、オバマ政権下の2009年1月から2010年9月まで、大統領経済諮問
委員会委員長。“Five Books Interviews:Christina Romer on Learning from the Great Depression”
(The Browser, interviewed by Eve Gerber, February 17, 2012)和訳版はhttp://econdays.net/)と評価されるものだ。このため、現在でも原因や政策評価について、論争が続いている。本稿では近年の近代経済学的研究の知見を含めながら、いくつかの論争点に分類しながら、考察してゆこう。
ニューディール政策の時期区分
大恐慌期の理解のためには、いくつかの時期区分を行う必要がある。
[1]株価暴落(1929年)直後のフーバー大統領期である第1期では、均衡財政主義にしばられ結果的に増税や金融引き締めという逆行する政策を行い、大恐慌を招いたとされる。
[2]ルーズベルト大統領就任直後の2年(1933–34)である第2期では、
・33年4月金本位制を停止するなど、世界経済の地域「ブロック化」を促したものの、
・銀行危機への対応と需要創出策を採り、物価下落を食い止めるなど、一定の成果を挙げた。
[3]続いて第3期(1935-36)では、ルーズベルトは社会保障制度の確立と労働保護のためのワグナー法を制定した。マクロ経済は1933年を底とし1934年以後は回復傾向になり、ルーズベルト大統領は広範囲の支持を集めたものの、カルテ ル 容 認 を 含 むNIRA( 全 国 産 業 復 興 法 National Industrial Recovery Act)やAAA(農業調整法Agricultural Adjustment Act)など目玉政策のいくつかが最高裁で「公正競争を阻害する」とする違憲判決を出された。
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[4]37年夏には再び景気後退に見舞われる一方、ナチスドイツの台頭のもとで、軍事支出を中心とする大規模な財政支出が景気対策の中心となり、戦時体制に移行していった。
この四つの時期区分が示すことは・当初の急激な悪化をくいとめる「応急措置」に
ついては、フーバー期には失敗したもののルーズベルト期は一定の成果を挙げたが、
・その応急措置への「反発」も強く、最終的には戦争が生じたため、その帰結がわからないことである。
五つの論争点 所得維持政策とケインズ的財政政策
以上の時期区分から、「応急措置」と「反発」に留意して、論争点を整理してみよう。
[1]株価暴落 ↓
[2]銀行危機と金融政策 ↓
[3]財政支出増大と癒着 ↓
[4]金本位制と対外関係 ↓
[5]反動と停滞そしてファシズムと5分することができよう。この論争点を理解するためには、近代経済学上の学派の考え方の違いを頭に入れておくとわかりやすい。近代経済学、なかでもマクロ経済学(GDPや失業率といった集計されたり平均的な経済数字の相互依存関係や変動メカニズムを扱う)には大きく分けて以下の二つの考え方がある。
[a]自由放任を基調とする(新)古典派経済学[b]需要不足の状態を基本とし政府介入を是認す
るケインズ派経済学 前者が米国における共和党的、新自由主義的な考え方につながるのに対し、後者は民主党的な考え方につながる。実際、ルーズベルト大統領の支持者たちは「ニューディール連合」といわれる政治的なグループとなって、米国の主導権を握った。2012年11月の大統領選挙で、現在の不況を巡るロムニー候補(共和党) とオバマ米国大統領(民主党)がくり広げた論争も併せて考えると興味深い。そして大恐慌期の政策も前者が政策効果を否定しがちであるのに対し、後者は大きく評価するとい
う違いがある。大恐慌期の経済政策論争は今なお続いているのである。 さて論争点を順に検討してゆこう。まず冒頭に述べたように、論争点の第1は[論争点1]1920年代の好況や加熱する株式市場
の反動として、大恐慌がとらえられるのか。
といった出発点を巡るポイントである。一般にバブル的な株価上昇や好況の反動として大恐慌をとらえるガルブレイス(The Great Crash 1929)などの著作が知られるのに対し、近年の研究では、それらの効果はさほどでもなく、政府の株価暴落と不況期直後の対応の誤りが大きい、といった意見も強い。実は現在でも金融政策のあり方については、Fed ViewとBIS Viewといわれるように、株価バブルに対して異なる意見がある。前者は株価は外生的に上昇するため金融政策で制御することに反対だが、後者は株価バブルを金融政策遂行において考慮すべきと主張する。[論争点2]銀行危機への対応と金融政策
論争点の第2は株価暴落直後の拙劣な金融政策である。大恐慌は金融政策の失敗がもたらしたという意見はかなりのコンセンサスを得ている。
『選択の自由』というベストセラーで知られるミルトン・フリードマンはアンナ・シュワルツとともに『合衆国の貨幣史1867-1960』という浩瀚な書物を執筆し、・銀行危機によってマネーストック(広義の貨幣
量:以前はマネーサプライとよばれることが多かった)の減少が生じたことを示し、実質金利の上昇などを通じて生産の停滞をもたらしたことを論じた。一方、
・現FRB議長ベン・バーナンキの以前の研究は、金融危機は銀行が破産したり、銀行貸出の利用可能性を低下させることによって直接的な負の効果をもつことを示した。(Bernanke, Ben
“Nonmonetary Effects of the Financial Crisis in the Propagation of the Great Depression”American Economic Review)
つまりフリードマンらは金利が高くなったという「価格面」を検討したが、バーナンキはそもそも貸してもらえないという「数量面」を重視したのである。また1930年代の米国の大恐慌について、バーナンキ議長は1929〜31年にかけての最初の2年間で、ニューヨーク連銀がもっと積極的に金融
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市場に資金を供給していれば恐慌の慢性化は防げたと主張していた(当時の金融政策はワシントンにあるFRBではなく、ニューヨーク連銀が主導)。バーナンキ議長は、失われた10年における日本銀行の対応を批判し、日銀はケチャップを買えばよい、とまで言ったが、これは大恐慌の経験が念頭にある。そのためリーマンショック後の金融危機において、彼はわずか半年で3.25%もFF(フェデラルファンド)レートを引き下げた。以上の点が現代の金融危機においても、銀行救済が重視される理由でもある。今時の世界金融恐慌においてはリーマンショック等の投資銀行破綻から金融面の動揺が続いたが、リーマンブラザース救済に失敗したとはいえ、世界各国の金融当局は、公的資金投入などで銀行等信用システム維持に動いた。 ただし破綻に瀕した金融機関をいつでも救済すればよいか、といえばそうではない。いわゆるモラルハザードの問題があるからである。モラルハザードは本来、制度的な救済メカニズムがある場合、リスク回避行動を怠る場合をさす経済学用語である。危険な融資にのめり込んだ金融機関を信用秩序維持のもと、いつでも救済してしまえば歯止めがなくなってしまう。一方で、わが国の失われた10年において、最初に破綻した金融機関が東京二信組事件(東京協和信用組合、安全信用組合)とよばれる問題では、世論の反対により公的資金投入はしばらくタブー視され、対策は後手後手に回った。その結果三洋証券破綻から、1997年には大きな金融ショックが日本を見舞ったのである。[論争点3]財政政策とモラルハザード
第3の論点として、財政支出増大策である。フーバー政権下では財政政策は活用されなかった。林敏彦(1988)(『大恐慌のアメリカ』岩波新書)が指摘するように、政府の支出増大がマクロ経済にプラスになるという認識をフーバーや当時の経済学者がもたなかったわけではないものの、結果的には政府の財政政策が下支えを行ったわけではない。その背景には、財政拡大は地方政府が行うべきであるという信念をフーバーがもっていたからである。フーバー大統領は1932年には税収減、財政赤字拡大を受けて、歳入法により大増税に乗り出したほどである。大恐慌が深刻になった理由の一つは、この誤った財政引き締めにある。 フーバー大統領が結果的に無策であったのに対
し、1930年代に米国大統領に就任したルーズベルトのニューディール政策は、政府介入が後者のケインズ的な考え方に近いと指摘されている。たしかに・TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共
事業・CCC(民間資源保存局)による大規模雇用などは著名であり、・1935年にはWPA(公共事業促進局)を設立し、
失業者の大量雇用と公共施設建設や公共事業を全米に広げた。ニューディールといえばこれらの政策を思い出すほどである。
しかし実際には、ルーズベルト政権下においても財政拡張は小規模で、GDP比1〜2%にすぎなかった。リーマンショック後の2009年には麻生内閣は総額2兆円の定額給付金を交付し、さらに総額15兆円の補正予算を組んだが、それは日本のGDP500兆円からすると比率は3%である。一方、米国のオバマ政権は直後に約8000億ドルの対策を成立させた。この規模は一人あたりでは約3200ドル(日本円で約30万円)となり、米国GDPの約6%ともなる。巨額といえば、2008年11月に決定された中国の財政政策はさらに巨額であった。60兆円と換算されるが、GDP比12%にも上る。つまり日本はGDP比3%、米国は6%、中国は12%もの巨額の財政支出を行い、その結果、世界経済は破綻から免れたともいえる。しかしながら中国経済の変調など、財政支出の永続的効果には限界があることも忘れてはならない。 ルーズベルト政権はあらゆることを行った、と述べたが、財政支出の増大の発想はケインズ経済学というより、困窮した家計の所得を維持することにあった。フーバー政権期には所得と物価がスパイラル的に下落したが、なかでも農家の苦境は厳しかった。そこで・AAA(農業調整法)による生産調整は著名だが、その背景には第一次世界大戦時に拡大した農業生産は欧州復興とともに過剰生産に陥ったことがある。そのためカルテル的な政策を公認し、いわゆる「豊作貧乏」を避けるために生産調整を行ったのである。 この生産調整と所得維持という観点からすると・NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短
縮や賃金の確保
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・ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大策
などの労働政策も理解しやすい。労働の過剰供給を避け、所得維持を図ったわけである。[論争点4]通貨制度と世界経済の
リーダーシップ
大恐慌以後、国際通貨制度は金本位制から管理通貨制度へ移行した。この理由は米国で起こった大不況が金本位制のもとで、世界各国に伝播したからである。金本位制では各国は自国通貨と金との交換比率を決定し、そこから金平価も決定される。各国通貨当局は金平価を維持するために、国内の金融政策を使う。 このシステムのもとで、米国で金利が上昇すると、他国から高金利を求めて金が流入するはずである。しかし、これを嫌った各国は金確保に走り、金流出を防止するため、意図的に金利を引き上げて、それが金融引き締めにつながった。金本位制が原因で、米国で生じた貨幣的ショックが世界的な金融引き締めにつながったわけである。結果的に、諸国は金本位制を次々と離脱し、1944年にはブレトンウッズ体制といわれる管理通貨制度が発足した。 このような金本位制の問題は米国の孤立主義的傾向の問題につながる。キンドルバーガー『大不況下の世界 1929-1939』(邦訳は東京大学出版会、1982)は世界恐慌を、英仏から米国に覇権国が交替することに伴う悲劇ととらえ、いわゆる覇権安定論の生みの親とされている。繁栄した米国は、本来・金本位制のもとで金融政策が制限される諸国に
米国は投資すべきであり、そうでないと世界的な需要不足に陥る。さらに米国は
・保護貿易主義を取って世界貿易を縮小させ、・国際連盟には参加しないなど、孤立主義的行動
を取った。 このような国際間の問題はリーマンショック後の金融危機でも指摘された。グローバル・インバランスとよばれるが、中国や日本の貯蓄過剰が米国における金融投資過剰に回ったという問題である。また現在のユーロ圏危機においても、貿易黒字を拡大させてきたドイツはギリシャやスペインを救済すべきであるという意見がみられるが、これらは世界経済の需給バランスを重視する点で、
大恐慌の経験とつながっている。[論争点5]論争の波及と現代経済への含意
1939年につくられた『スミス都へ行く』というフランク・キャプラ監督の著名な映画がある。ワシントンに乗り込んだ新米上院議員のスミス氏が、公共事業(ダム開発)における上院議員の癒着を弾劾するという筋書きである。フランク・キャプラのつくる映画(銀行融資を扱った『素晴らしき哉、人生!』や失業対策を考えた『オペラハット』など)は当時、ニューディール・コメディといわれたものの、この『スミス都へ行く』は実はニューディール政策に批判的な内容となっている。その理由は、政府の直接介入は腐敗を生むからであり、広義のモラルハザードともいえる。そしてそれが「反発」を生むわけである(ただしダム開発に対するスミス氏の提案は自然のなかで少年たちがキャンプするというもので、これはルーズベルトのアイデアにもとづき実際に行われたCCC
(民間国土保全部隊)にヒントを得たものかもしれないことは付け加えておく必要がある)。
おわりに
本稿ではいくつかの論点に分けて、大恐慌期の政策対応を考察してきた。米国においては日本では考えられないほどの、民主党・共和党の対立が激しい。そして民主党系の考え方が、ニューディール政策を拡大解釈し、その影響を過大にとらえがちなのに対し、共和党系の考え方がニューディール政策を過小評価し、大恐慌を金融政策のミスに起因すると限定しがちであるとまとめられるだろう。さらに「応急措置」はある程度の効果は認められるが、その「応急措置」的ケインズ政策は公共事業における汚職や癒着などモラルハザードを生んで、「反発」を招く。また社会保障の充実は、誰を救うかという保険の範囲の確定を求め、排外主義に結びつく。つまり「反発」はより倫理的な方向に生じるため、実は清潔なケインズ主義が全体主義につながる側面すらある。こういったプロセスを考えると、近年の世界同時不況はより怖ろしい事態を招く、という想像も可能かもしれない。実際、佐藤卓己(2006)(『メディア社会』岩波新書)は映画のなかでスミス氏を支持する少年たちがナチス少年隊(ヒトラーユーゲント)に類似していると指摘している。
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人物を通して見る世界史
シュトレーゼマンとその時代〜粘り強い交渉人〜
星野高等学校 松山健介
1.はじめに
シュトレーゼマン。第一次世界大戦後のドイツの首相、外相を務めた人物であり、当時のヨーロッパ情勢を読み解く鍵を握る人物である。シュトレーゼマンは世界恐慌が起こる直前に亡くなっているが、彼がもし生きていたら、ドイツにナチスは台頭せず、第二次世界大戦へ向かう道とは別の可能性があったかもしれないといわれている。彼の首相と外相としての業績を追いながら、当時のヨーロッパ国際情勢について分析していきたい。
2.レンテンマルクの導入
シュトレーゼマンの首相としての在任期間は、1923年8月13日〜11月23日で、在任期間は、わずか103日でしかない。しかし、この短い期間で数々の点でめざましい業績をあげている。 まず、レンテンマルクの導入により、インフレーションを収束させたことがある。インフレーションが起こった背景は、フランス、ベルギーがドイツの賠償金支払いの遅延を理由にドイツ産業の心臓であるルールを占領したことだった。当時の政府は、この占領に抵抗するためルール地方の労働者に「消極的抵抗」を呼びかけたため、工場は操業を停止し、物資不足に陥った。 その結果、ルール占領がはじまった1923年1月、ライ麦パン1個の値段が250マルクだったものが、1923年12月には3990億マルクにまで跳ね上がっている。このような状況下で、シュトレーゼマンは連邦銀行総裁シャハトの協力を得て、レンテンマルクを導入し、1兆マルクを1レンテンマルクとするデノミネーションを行った。土地を担保とするレンテンマルクが導入されたことで、通貨の価
値は安定し、インフレの収束に成功した。このできごとは「レンテンマルクの奇跡」とよばれる。
3.ルール地方の「消極的抵抗」停止の決断
ただ、忘れてはならないのは、レンテンマルクを導入しただけでは、インフレーションは収束しなかったということである。レンテンマルクを導入する前段階として、シュトレーゼマンは、消極的抵抗の停止の決断を下している。この決断は、当然ドイツ国民の反発を招いたが、シュトレーゼマンは各州の政府や党の指導者、職業団体の代表者たちと粘り強く話し合いを続けた。 シュトレーゼマンの決断の背景にあったのは、消極的抵抗を持続することで、政府がルール地方の労働者に対して支払う補償金の額が膨大なものになっていたことや、サボタージュによりドイツ国民全体のモラルが低下していること、消極的抵抗によりフランスとの外交交渉が中絶されてしまっていることがあった。シュトレーゼマンの消極的抵抗停止の決断と粘り強い説得により、ルール地方の工場の操業が再開され、物資不足は解消し、その後のフランス、ベルギーの撤退へとつながっていくのである。
4.軍部との対決
軍部の勢力を抑え込んで、ヴァイマル共和国の民主政を守り抜いたこともシュトレーゼマンの首相としての業績である。当時軍部は、ヴァイマル共和国を転覆し、非常時軍事政権の樹立を画策していた。国防軍統帥部長ゼークトは、数回にわたりシュトレーゼマンに退陣を迫っている。 軍部とシュトレーゼマンの対決の場となったのはザクセンであった。当時ザクセンは共産党の影響下にあり、中央政府からの離反の危険が高まっていた。国防軍はザクセンを完全な軍政下に置くことで、軍事政権の雛型とし、ザクセンを橋頭堡
『明解世界史図説エスカリエ
四訂版』p.171
シュトレーゼマン
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として政治秩序を根幹から変革することを計画していた。 ところが、ザクセンが国防軍によって占領されると、シュトレーゼマンはただちにヴァイマル憲法第48条にもとづく大統領緊急命令を利用し、軍部にではなく内閣にザクセンの秩序再建を全権委任させ、軍部をザクセンから締め出した。シュトレーゼマンは軍部の野望を封じ、ヴァイマル共和国の民主政を解体の危機から救うことに成功したのである。ただし、この後、社会民主党の離反によりシュトレーゼマンは退陣を余儀なくされた。
5.外相時代
シュトレーゼマン内閣は崩壊したが、以後彼は6つもの内閣で連続して外相を務めた。その期間は1923〜29年までで、この間にドイツはロカルノ条約を結んで国際連盟に常任理事国として加盟し、ヨーロッパの国際社会に復帰した。この功績により、シュトレーゼマンは、ノーベル平和賞を受賞している。また、ドーズ案を成立させて、ドイツの経済を劇的に回復させることにも成功した。 シュトレーゼマンの基本的な立場は、履行政策と協調外交であった。履行政策とは、基本的にイギリスやフランスの要求を履行しながら、交渉の糸口をさぐる政策のことである。第一次世界大戦後のドイツの賠償金額は1320億金マルクに決定するが、この賠償支払いを履行しながら、賠償金減額の交渉は行われた。履行政策の立場をとらなければ、イギリス、フランスを話し合いの場に引き出せないことをよくわかっていたのである。 そして協調外交の象徴がロカルノ条約であった。第一次世界大戦を終結させたヴェルサイユ条約は、条約作成過程の討議にドイツが参加していないことが大きな問題として残っていた。ロカルノ条約の意義は、ドイツを交えてヨーロッパの地域的な安全保障体制が確立したことである。とくに、ラインラントの非武装と相互不可侵をドイツが容認したことで、周辺諸国の緊張が緩和し、国際協調のムードが一気に高まった。 ドーズ案の成立についてもシュトレーゼマンの功績は大きい。ドーズ案は、当初ドイツにおいて
「ヴェルサイユ条約の再来」と批判され、右派の
反対にあったが、シュトレーゼマンはアメリカ資本投下による経済効果を粘り強く主張し、説得を続け、ついに議会で成立させた。ドーズ案以後のドイツの経済回復は劇的で、1928年までに鉄鉱石・繊維産業以外で第一次世界大戦が起こる前の工業生産を回復させている。
6.シュトレーゼマンの死
シュトレーゼマンの任期における最後の課題が、ヤング案の成立だった。賠償金の大幅な減額をその内容としていたにもかかわらず、右派により国内に大きな反対運動が起こっていた。シュトレーゼマンは体調を崩し、療養中であったが、医師の制止を振り切って静養先からベルリンに戻り、ヤング案反対国民発議運動に反対する決議をあげさせることに成功した。 その直後にあたる1929年10月3日、シュトレーゼマンは脳卒中の発作で永眠した。わずか2日後の10月5日、ニューヨークウォール街で株価が大暴落し、世界恐慌がはじまる。世界恐慌による経済的な混乱は、ヴェルサイユ体制の打破を主張するナチスを台頭させ、シュトレーゼマンの履行政策と協調外交の追求は終止符が打たれることとなるのである。 シュトレーゼマンの死後、ヨーロッパの情勢は時計の針を逆回りさせるように展開していく。言論による粘り強い交渉ではなく、暴力や恫喝によって事態の打開を図る方向へ転換し、第二次世界大戦への道を突き進んでいくことになるのである。
[主要参考文献]牧野雅彦(2012)『ロカルノ条約』中公叢書伊藤政行(2005)「シュトレーゼマン外交初期における戦略思考についての一考察 『消極的抵抗』の放棄を中心として」『政治経済史学』472 日本政治経済史学研究所室潔(2003)「グスタフ・シュトレーゼマン ヨーロッパ統合の先駆け?」『早稲田大学教育学部学術研究 地理学・歴史学・社会科学編』52リタ=タルマン(長谷川公昭訳)(2003)『ヴァイマル共和国』文庫クセジュ有澤廣巳(1994) 『ヴァイマル共和国物語 上巻』 東京大学出版会エーリッヒ・アイク(求仁郷繁訳)(1984)『ヴァイマル共和国史Ⅱ1922〜1926』ぺりかん社エーリッヒ・アイク(求仁郷繁訳)(1986)『ヴァイマル共和国史Ⅲ1926〜1931』ぺりかん社村瀬健太郎 (1963)『ワイマル共和国−ヒトラーを出現させたもの』中公新書
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物を通して見る世界史
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合成染料
神奈川県立横須賀大津高等学校佐藤雅信
一気に「モーヴ狂い」となる。ヴィクトリア女王も万国博覧会など公式の場でモーヴ色のドレスを着用し、露帝ニコライ2世に嫁した女王の孫アレクサンドラは、宮殿に「モーヴの部屋」までつくらせた。赤そして藍 パーキンはその後、茜・赤の合成染料「アリザリン」をつくるが、ドイツのグレーベとリーバーマンに1日遅れて特許を取られた。2人の会社がBASF(バーデン・アニリン・ソーダ・ファブリク)である。合成インディゴの発明者もドイツ人。アドルフ=フォン=バイヤー(1835〜1917)は、尿酸研究からインディゴの完全合成に成功しノーベル化学賞を受けた。グレーベらは彼の弟子であった。この時代、ドイツの化学および化学工業が世界をリードした背景には大学での化学実験教育があり、パーキンもイギリスに招いたドイツ人教官ホフマンの弟子であった。合成染料と医薬品と合成肥料 バイヤーはドイツの化学工業の発展に寄与した偉人である。彼のインディゴ合成技術は染料・医薬・肥料という分野へ広がった。初期の合成染料(タール色素)の殺菌作用が製薬業へ、インディゴ溶剤である尿酸・アンモニア合成は人工肥料へと広がり、BASF、ヘキスト(染料・製薬)、バイエル(製薬
「アスピリン」)、アグファ(メンデルスゾーンの息子が創立、染料・写真・映画)のような化学会社が誕生した。またアンモニア合成に必要な高圧力を、クルップ社の大砲技術が供給し軍事産業とも結びつく。合成染料は化学工業の中核産業だった。染料会社と戦争 第二次世界大戦前のドイツ化学産業を独占したトラスト「IGファルベン(染料工業利益共同体)」は、BASF、バイエル、ヘキスト、アグファなど8社が1925年に合同し、のちナチスの戦争協力企業となった。有毒ガス「ツィクロンB」は子会社デゲッシュ社製で、アウシュヴィッツ近郊の工場でユダヤ人を酷使するなどした。戦後、IGファルベンは戦争犯罪で有罪となり解散、バイエル、ヘキスト、BASF、アグファなどに戻った。イギリスで1926年に設立されたインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)もまた染料会社を中核とした戦争協力企業であった。
青への憧れ 歴史的にみると青(藍色)への思いは興味深いテーマだ。ラピスラズリ(ツタンカーメンのマスク)と「世界商品」を生み出した元明の染付(青花)に用いられたペルシア産コバルト(景徳鎮、有田・伊万里、さらにマイセン)。そして中世後半にインド産のインディゴ染料が登場し、アメリカの綿花と黒人奴隷、蛇除けデニム・ジーンズもこの流れのなかにある。軍服と染料 火器が主力となって封建騎士の甲冑は無用になる。17世紀から(グスタフ=アドルフ軍が始まりという説あり)次第に各国で軍装の統一が進み、19世紀には軍服は「国民国家」の必需品となる。Navy BlueやPrussian Blueは合成インディゴ染料で染められ、そして学生服は軍服をモデルにして(「戦闘服」でなく「礼装服」)生まれる。濃紺の詰襟はプロイセン軍服、セーラー服はイギリス海軍水兵服というのは有名だ。産業革命というニーズ イギリスの産業革命は綿工業から始まり、糸、布、織の機械化のウラにはインドの綿製品への対抗がある。大量生産と均一品質で勝った世界商品がイギリスを「世界の工場」にする。綿工業は製品の漂白に漂白粉、捺染に媒染剤を使用し、酸・アルカリ工業を端緒とする化学工業の発展も促した。安価で軽くて薄いモスリンスカートが流行するが、在来の天然染料ウォード(大青)では追いつかない。パーキンの偶然 化学染料の発明は、紫(1856)、赤(1869)、藍色(1880)の順になる。15歳でロンドン王立化学カレッジに入ったウィリアム=ヘンリー=パーキン(1838〜1907)は、コールタールからマラリア薬キニーネをつくるはずが、たまたまベンゼンを抽出し、すみれ色のアニリンパープル「モーヴ」をつくる。時代のファッションリーダー、ナポレオン3世の皇后ウージェニーがクリノリン・ドレスをこの色に染め、女性たちは
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現在アラブ諸国で生じている政治や社会の変動を、いかに伝えるべきかという問いは、アラブ諸国の情勢に関心をもつ者にとってひじょうに重要である。この問題に一つの回答を示すのが、『中東政治学』(酒井啓子 有斐閣 2012年)である。同書は中東諸国で起こっている現象に対して政治学の枠組みで分析を試みているが、各国の専門家が政治学という枠に沿って解説・分析をすることにより、単なる事実の羅列や印象論的な解説とは明らかに一線を画している。同書は「大学学部上級生から大学院生」を対象とする教科書として編まれたもので、一見難しいが研究の最前線の若手を中心とした執筆者からなる原稿の量・質を鑑みると、同書に収録された知見はより広く共有されるべきだろう。また、指導者側が適切な支援を行うことにより、同書をより一般的な教材として高
校生向けに活用することも十分可能であろう。例えば、ある問題について何らかの結論に至るには、情報・資料を収集し、先行研究での議論を参照したうえで、確実な根拠と証拠を示して自説を述べる必要がある。この点で、同書の各章はそのような手順をさまざまな方法で示してくれる。このような思考・行動様式に触れることは、専門的な研究を志す者でなくとも有意義なことだろう。同書に触れることにより、問題設定や思考の過程を省略し、事実や結論だけを先取りすればよしとするような昨今の報道のあり方や、そうした情報を無批判に受容する態度を見直す契機が得られるだろう。また、3章(サウジアラビア)、8章(イラン)、11章(パレスチナ)は、世界史の学習でも重要項目であるワッハーブ運動、イラン革命、アラブ・イスラエル紛争が、各々の舞台で現在どのような推
移を遂げているか考えるうえで有意義である。 一方、アラブ諸国の情勢について、時宜にかなった平易な解説を求める需要も至極正当である。アサド政権と諸外国から支援を受ける反体制派との戦闘が続くシリアは、とくに政治体制や社会の構成、諸当事者の利害関係が複雑で、これらを的確に整理・解説する必要がある。そうした要素のなかには、帝国主義勢力による勢力圏分割、キリスト教やイスラームの諸宗派のように、世界史で学習する事柄が含まれている。 『シリア アサド政権の40年史』(国枝昌樹 平凡社 2012年)は、現在のシリア情勢を扱う書籍のなかで、数少ない邦字の新書である。同書でとくに注目すべき点は、
「国際社会」や著名な「報道機関」がシリア情勢についての情報を恣意的に取捨選択・解釈し、場合によっては捏造している実態について問題提起している点である。この問題提起は、根拠不明の情報が制御不能な形で拡散する問題として、情報リテラシーについて考える契機となるだろう。
現在、アラブ諸国は歴史的な変革の最中にある。情勢は刻々と変化し、特定の国や事象についての時事解説は、極端な場合数時間で陳腐化してしまう。また、匿名情報やインターネット上の情報は、
「現地情報」を速やかに伝えるが、それらを無批判に受容することは、膨大な情報に含まれる、悪意や特定の政治的意図によって受け手が扇動・誘導される危険性をはらんでいる。上記2つの問題点への根本的な対処は、確かな分析や判断の軸を確立することと、情報を受け取る際に裏づけや批判的考察を怠らない行動様式を身につけることである。その際には、書籍と報道・ネット情報の中間の頻度で刊行される逐次刊行物が、実際面の補足資料として役立つだろう。たとえば、『中東研究』(㈶中東調査会 年3回発行)が2011年以来アラブ諸国の政変関連の特集を組んでおり、国ごとの分析や情勢解説を読むことができる。
授業で使える世界史Book Review……公益財団法人中東調査会 研究員◦髙岡 豊
中東を繙く!〜最新の二冊〜『中東政治学』・『シリア』
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Ⅰ. アジア世界史学会(AAWH)について
筆者は、2012年4月27-29日に、韓国ソウルの梨花女子大学で開催された「第二回アジア世界史学会大会」に、多くの日本人同僚とともに参加した。その大会の概要と、世界史の研究・教育をめぐる議論、日本側からの貢献について紹介を行いたい。 ア ジ ア 世 界 史 学 会(The Asian Association of World Historians:AAWH)は、2009年5月に設立された世界史・グローバルヒストリーをアジアの視点から考察するための国際学会である。現在、事務局は韓国の梨花女子大学世界史・グローバルヒストリー研究所に置かれ(http://www.theaawh.org/)、3年に一回開催される国際会議と、年二回発行のE-Journal The Asian Review of World Histories(2013年1月刊)を通じて、世界史研究・教育の国際交流学会として活動中である。共通言語は英語で、大会の運営もすべて英語でなされる。 現在、世界の主要な地域で世界史・グローバルヒストリーの研究を目的とする学会が組織され、相互の交流を行っている。最も有名で実績があるのが、アメリカ・ ハ ワ イ 大 学 に 本 部 を 置 くThe World History Association(WHA)で、国際的に高く評価され注目度の高い雑誌The Journal of World History を刊行するとともに、年次大会を3年に一回は海外で開催して
(2012年、中国北京・首都師範大学)国際交流の中核的役割を果たしている。ヨーロッパには、ドイツのライプツィヒ大学に本拠を置くThe European Network in Universal and Global History(ENIUGH)があり、3年に一回の国際会議(2011年、ロンドン大学LSE)と雑誌Compartive を発行している。AAWHは、これらにつぐ三番手として、アジア太平洋地域に重点を置く国際学会として誕生した。 AAWHの第一回設立大会は、2009年5月末に大阪大学中之島センターで開催された。共通テーマは「世界史研究と世界史教育」とし、3名のアジアを代表する世界史研究者による基調報告(木畑洋一氏、小谷汪
之氏、Anthony Reid氏)と、三つの大パネル(世界帝国と超地域ネットワーク;植民地主義とアジアの脱植民地化再考;前近代のグローバルヒストリー再考)、21の小部会、さらに「教育と世界史:国際比較」と題する全体会パネルが組織され、三日間で約20か国、250名の参加者があった。AAWHでは、初回の大会から、東アジアにおける世界史教育の比較研究を重視し、日本・韓国の世界史教育と中国の自由主義的な「上海プラン」との比較検討を行った。
Ⅱ. AAWH第二回ソウル大会の概要
第二回ソウル大会の共通テーマは、「アジアのグローバルな交換ネットワーク」と「アジアにおけるオールタナティヴな近代性」の二つで、いずれもアジアの独自性と特徴を解明しようとするものであった。基調講演では、Tae-jin Yi氏(ソウル国立大学名誉教授)が、環境史研究の立場から、小氷河期(c.1490-1760)の地球的規模での気候変動を、李氏朝鮮時代の古文書記録と結びつけて論じた。Dennis Flynn氏
(米・太平洋大学)は、1590年代の朝鮮出兵前後の東アジア貿易と国際銀流通を、ミクロ経済学の理論を独自に再解釈してグローバル経済史の文脈で説明した。Arif Dirlik氏(米・デューク大学名誉教授)は、「近代性を歴史的に考える」と題する講演で、近代西欧の近代性を相対化し、東アジアを含む複数の「近代」の同時並行的形成・展開の意義を強調した。 以上の基調講演に加えてソウル大会では、40の個別セッションが開催され、参加者総数は3日間で約30か国から300名に達した。個別セッションは、次の三つに大別できる。⑴Big Historyの現在:ビッグ・バン以降の宇宙の進化の過程に人類史を位置づけ、天文学・地質学・気候学・生物学など理系学問との共同・融合を通じて、従来の人間中心の歴史解釈の相対化を目指す新たな研究で、AAWHの評議員の一人David Christian氏が主導する。世界の学界をリードする優れた研究成果が生み出されている。
アジア世界史学会(AAWH)第二回ソウル大会と世界史教育
大阪大学大学院文学研究科・世界史講座 教授 秋田 茂
●研究会報告
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⑵海域アジア史と中央ユーラシア史:大阪大会に引き続いて発表の数が多い研究分野で、前近代を中心に
「広域の地域」(mega-region)としての海域アジア世界と古代の中央ユーラシア世界の発展のダイナミズムを、関係史的な手法を用いて解明する諸研究。交易・貿易のネットワーク形成におけるアジア商人の主体的役割、アジア地域間貿易で取り引きされた商品群(砂糖・シナモン・生糸・絹織物・綿織物・米・陶磁器など)と国際的な銀流通との関連性、モノの移動に伴うヒトの移民の形態などが論じられた。グローバル経済史研究の分野では、新たな研究が次々に登場し注目の的になっているのが近世アジア世界であり、欧米の資料だけでなくアジア現地語史料を駆使した研究で、アジアの研究者(とくに日本)が最も活躍する研究領域である
(詳しくは、世界初の入門書である、桃木至朗編『海域アジア史研究入門』岩波書店、2008年、を参照)。⑶アジアにおける「近代性」の形成・展開:アジア諸地域における「近代性」を歴史的に遡って前近代からの連続性でとらえるとともに、植民地主義下の朝鮮やインドにおける「植民地近代」(colonial modernity)に着目して、近代性の複数発展径路、同時並行的な展開を論じる。今回のソウル大会の主題を反映し、韓国や中国からの参加者の関心が最も高い研究テーマであった。政治思想史、文化史、ポストモダン・コロニアル研究など学際的な研究が必要で、議論を通じてナショナルな見解の相違が最も鮮明になった。
Ⅲ. 世界史教育のセッションについて
以上の研究主体のセッションに加えて、ソウル大会では、日本の高校の先生方も交えて、五つの世界史教育に関する部会が企画された。その中でとくに注目を集めたのが、B1「グローバル化の時代にいかに世界史教育をデザインすべきか」(桃木至朗氏主宰)と、E9「アジア諸国における世界史教育の比較研究」(世界史研究所・南塚信吾氏主宰)である。 前者では、韓国、ベトナムの具体的な世界史教科書の作成の経緯が報告され、とくに韓国・東北アジア歴史財団の金氏による、高校で新設された「東アジア史」科目の新教科書作成の報告は特筆に値する。日韓、日中の二か国間で政治問題化した高校教科書の中身をどのように相対化し、東アジアの国際関係を地域間関係史として描くことができるのか、中国中心史観に陥りがちな「東アジア史」の見直しはできるのか、世界
史の中で「東アジア史」をどのように位置づけるのか等、白熱した議論が展開された。また後者は、日本
(琉球史・北方史を含む)、韓国、中国、インドの大学教養レベルにおける世界史教育の内容が検討の対象となった。韓国では、文化交流や貿易史を事例に関係史が重視される傾向にあるが、将来は「東アジアのアンデンティティ」形成が課題になること、インドでは、イギリス植民地支配を経験したにもかかわらず、近代西洋の勃興を中心に扱う欧米中心史観のカリキュラムが支配的である点が強調された。これ以外に、石橋功・澤野理両氏を中心として組織されたC8「19世紀のアジア史をどう教育するか」という部会も、包括的なアジア諸地域間での近代史の比較で注目を集めた。 以上が、3日間におよぶAAWHソウル大会の概要と主要な論点である。今回の会議には、日本から高校の先生方を含めて50名余が参加し、主催国の韓国につぐ多さで存在感があった。また、大学院博士課程の学生やポスドク研究員など、若い研究者も積極的に報告した点が印象的である。問題点としては、⑴まとまりに欠ける部会があったこと、⑵世界史教育の部会が設定されたが、韓国では大学と高校教師との高大連携が確立されていないため、韓国の高校現場の先生方の参加がほとんどなかったことが挙げられる。 AAWH大会は、韓国の主要紙である『東亜日報』でも大きく報道され、世間の注目を集めたと聞いている。次回の第三回AAWH大会は、2015年5月末に、シンガポールの南洋理工大学を会場として開催される。国際学会としては誕生して間もないAAWHであるが、世界史研究と教育に関するアジアからの情報発信と対話の舞台として、認知度も上がってきた。報告する内容さえしっかりしていれば、英語でのプレゼンは恐れるに足らず。皆さんの一層の御協力と御支援をお願いしたい。
AAWHの会長・趙氏(右から4番目)および理事
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◎新学習指導要領では資料の活用が重視 新学習指導要領の「2内容」では「(4)諸地域世界の結合と変容」で、「オ 資料からよみとく歴史の世界」、「(5)地球世界の到来」で、「オ 資料を活用して探究する地球世界の課題」の項目がたてられ、資料の活用を重視する姿勢が示されている。また、「3 内容の取り扱い」でも資料の活用に配慮することが強調されている。◎国公立大学二次試験では先取り問題が出題 実際の入試問題は、学習指導要領の内容を先取りすることがままあり、国公立大学二次試験では、すでに今後の新傾向となるであろう問題が出題されている。とくに教育関係の大学や学部でこの傾向があり、例えばやはり新学習指導要領で強調されている「世界の中の日本」の視点について、2011年の東京学芸大学で、ペリーが日本を開国させた当初の目的・理由を300字で論述させる問題が出題された。◎図像資料読解問題もすでに出題 また、図像資料の読解についても、2011年の千葉大学で、1861年に刊行されたイタリア統一に関する版画の内容に即しながら、イタリア統一の経緯などを論述させる問題が出題されている。千葉大学同様、2011年の愛知教育大学でも、図像資料の読解を要求する問題が出題された。
2011年度愛知教育大学:第1問 問8
最初の図像は、ウィーン会議の参加者を描いた絵である。帝国書院の平成25年度用『新詳世界史B 』( 以 下、 教 科 書 ) に も 掲 載 さ れ て お り
(p.190)、「ウィーン会議の5大国」とタイトルがつけられ、「宰相ハルデンベルク(普)」「メッテルニヒ」「イギリス外相」「ロシア外相」「外相タレーラン(仏)」と、画像上の人物に白抜き文字が置かれている。この絵からは、ウィーン会議では英露墺普仏の5大国が中心となって領土が規定されたこと、ウィーン体制はこの5大国による五国同盟が勢力均衡の原則のもと維持されていくことを、導きたい。次の風刺画は、画面中央の人物のダンスから、「会議は踊る」と揶揄されたウィーン体制であることを確認できる。そして画面右から二人目の人物が王冠を被り直している描写にも注目したい。ウィーン会議では、自由主義や国民主義ではなく、君主主権の原則のもと、革命以前の秩序の回復をはかる正統主義が原則とされたことを、ここから読み取ることができるだろう。したがって、解答作成にあたっては、5大国の勢力均衡と、革命以前を正統とする正統主義の原則を述べればよいことになる。解答例 メッテルニヒ。フランス革命以前の王朝と秩序を正統とする正統主義と、五大国の協調によって国境維持をはかる勢力均衡が基本方針となった。
新課程への移行にともない、このような図像読解問題は今後出題の増加が予想される。帝国書院の教科書では、従来からB5サイズの利点を活かし、豊富な図版や資料を掲載してきたが、平成25年度用では新学習指導要領の意図に対応すべく、
「Skillを高める」というコーナーが設けられ、文字資料だけでなく、図像資料の読解の方法が紹介されている。教科書p.201の「Skillを高める 資
新傾向! 資料(史料)問題に要注意
河合塾世界史講師 山内秀朗
サクラサク入試分析〜これからの傾向と対策〜
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料からよみとく歴史の世界②」では、「ヒーローはこうしてつくられる~名画は政治の道具だった」として、ナポレオンのアルプス越えを扱った2枚の絵画を対比させ、読み取りのポイントが示されている。さらに、教科書の各図版にはタイトルと説明が付されており、このような図像読解問題に必要な訓練に適しているといえるだろう。◎国公立大学では文字史料読解問題は必須 国公立大学の二次試験では、以前から文字史料の読解を要する問題が出題されていたが、近年その傾向はますます強まっている。2011年の一橋大学大問1では、フス戦争の際にフス派が出した
「プラハ4カ条」の一部が引用され、「フス派が何に対して戦っていたか」をそこから読み取ることが要求されていた。
2011年度一橋大学:第1問
ここでの史料文読解のポイントは、聖職者(すなわちカトリック教会)の罪を糾弾する文書の末尾が、「金銭の徴収」で統一されていることである。教科書には、これについて「アヴィニョン教皇庁は官僚制を整備して中央集権的な教会統治を確立し、ローマ=カトリック圏のすべての司教区の聖職叙任権を一手ににぎり、そこにさまざまな課税を行った。しかし教皇による富の収奪は、各地の聖職者をはじめ国王・諸侯から農民にいたるまで広範な反発を引き起こした」(p.105)との記述がある。ここから、フス派が、教皇庁による支配と富の収奪に対して戦っていたことが、解答で要求されていることがわかる。◎私立大学でも、文字史料読解問題が出題 このような史料読解問題は、国公立大学の二次
試験だけではなく、慶應義塾大学経済学部などにおいても出題されている。
2012年度慶應義塾大学経済学部:第3問 問12
下線部から、この事件が義和団事件であることをまず読み取りたい。そのうえで、「北京の状況」が義和団による北京の公使館地区包囲であったことに言及したい。また、史料文の「他の列強と協力することにある」から、列強の8か国連合軍によって鎮圧されたこと。「解決策を求め」で、解決策として北京議定書で外国軍の北京駐兵が認められたことをポイントとして入れるようにしたい。このように、文字史料の読解では、問題文の要求と史料文の文章が、どのように対応しているかを判断し、史料文の文章を具体化していくことが重要である。
解答例ドイツの山東省進出に「扶清滅洋」を掲げて蜂起し北京の公使館地区を包囲した義和団に清朝が同調し、列強に宣戦するも8か国連合軍に鎮圧された義和団事件である。清朝は北京議定書で外国軍の北京駐兵などを認めた。
教科書「Skillを高める 資料からよみとく歴史の世界① 誰のための革命か~アメリカ独立宣言をよみとく」(p.178)、「Skillを高める 資料からよみとく歴史の世界③ 清朝とイギリスにとってのアヘン戦争」(p.217)では、読み解くべきポイントの問いかけなどもなされており、このような読解問題の対策に有効である。活用されたい。
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20世紀の歴史は発問を一つ工夫するだけでも生徒に考えさせ、自分の生きている時代の足場を確認することのできる題材にあふれている。この作業を避けて教科書の内容を詰め込む授業を展開してしまったら、われわれ世界史教師の職務放棄といえる。そこで、資料を工夫し、有効な発問で授業を構成することによって20世紀の世界史学習を
「覚える作業」から充実した「考える訓練」へと変えていきたいのである。歴史を学ぶうえで歴史的事象の「知識・理解」は必要となる。しかし、一足飛びに知識を得ようとする学習では将来まで定着する知識にはならない。疑問と向き合い、追究する思考のなかで得られた知識こそ、生徒たちが社会で活躍するなかで考え行動するための糧となりうる。 とはいえ、偉そうに述べたところで筆者自身も現場でもがいている未熟な一世界史教師にすぎない。今回与えられた貴重な紙面をお借りして、読者である世界史担当の先生方と課題を共有できればと考えている。今回テーマとして扱う20世紀の文化は、20世紀という時代をあらゆる角度から、あらゆる手法によって映し出す。映像作品も含めて多岐にわたる20世紀の芸術表現は、世界史の授業で政治・経済・社会を学ぶうえでさまざまな視座を与えてくれる。また、芸術家のメッセージは時として政治性を色濃く反映し、戦争への協力も要求された。その一例がプロパガンダである。芸術家が動員され、その技術を生かしたメッセージ性の強い作品が国民に向けて発信されるようになった。 プロパガンダは映画、絵画、音楽といったさまざまな形で、人々の精神面に浸透した20世紀の文化といえる。プロパガンダがどのような背景で、いかに国民に提示されたのかを考えることによって、生徒が疑問を抱き、追究することのできる20
エスカリエ授業実践例
プロパガンダで学ぶ20世紀の世界史学習
山梨県立甲府東高等学校 川﨑大輔
はじめに ―ある一枚の絵画作品から―
この作品は、ロンドンの帝国戦争博物館に展示されているGassedという作品で、作成年は1918年である*1。例えば、この作品を授業のなかで使い発問するとしたら…。どのような発問が効果的だろうか。また、その先にどのような授業展開がありえるだろうか。資料活用の方法一つで、世界史の授業は変わる。貴重な時間を使って世界史を学ぶのだから、生徒たちには授業のなかでじっくり考え、生きた知識として自分のなかに残してほしい。2013年現在、わが国を含め、どこを見てもそれとわかる形で世界情勢は混迷を深めている。このような時代だからこそ、世界史学習が人類共存のあり方を考え、私たちの時代を新たに創造していくための知恵を得る機会であってほしい。とくに20世紀の学習は現在に直結する題材を多く含んでいるだけでなく、生徒にとっての歴史学習を
「覚える作業」から「考える訓練」へと転換するためのチャンスの宝庫である。本稿では、20世紀の歴史学習に文化の視点を加えることによって、生徒に考えさせる授業を模索したい。
20世紀史で「考える授業」を
ところで、高等学校の学習現場で20世紀の世界史はいかに扱われているだろうか。世界史を前近代から学習し、受験生も抱えているような学校では、気がつくと駆け足で羅列的な授業になってしまいがちである。断固として、それは避けたい。
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世紀の世界史学習が可能になる。
プロパガンダを授業に取り入れた実践①
プロパガンダの役割や影響力を最も生徒にわかりやすく伝えることができるのは、ナチスの時代である。筆者はナチスの台頭を授業で扱う際、必ず2枚のポスターを使用する。導入として掲示するのが平成24年度用『明解世界史図説 エスカリエ 四訂版』(以下、『エスカリエ』)p.176にも掲載されている≪ポスターA≫であり、授業のまとめで使用するのが≪ポスターB≫である。授業のはじめに、≪ポスターA≫を黒板に掲示する。生徒に感想を求めると、「怖い」「暗い」「ゾンビ?」などの返答が返ってくる。ヒトラーという文字は生徒もすぐに確認できるのだが、上部のドイツ語とつなげて読むと「われらの最後の望み、ヒトラー」となることを解説する。すると、ナチスの政治的な選挙ポスターであることが見えてくる。そして、「なぜドイツ国民はヒトラーに未来を託し
たのか」という今回の授業のテーマを引き出し、「考える授業」のスタートである。 まず、ポスターに描かれた人々の表情の意味を考える。既習の賠償問題に起因する経済混乱によってドイツ国民が置かれた苦しい状況と、そこに世界恐慌が襲いかかったことを確認する。これをふまえて、ナチスの議席獲得の経過のグラフを見て考える。平成25年度用『明解 世界史A』p.171
「どうすれば、このように国民の支持を得られるのか?」という疑問を抱かせたうえで、ヒトラーの演説を見せる*2。ドイツ国民の誇りに訴えかけるヒトラーの演説の巧みさと迫力と、この映像そのものがプロパガンダであることを確認する。
次に、政権獲得後も国民に支持され続けた理由を考える。ドイツの失業率の変動についてグラフを参照し、1929年を境に失業率はどうなり、1933年を境に失業率がどうなったかを読み取る(『エスカリエ』p.176)。この作業を通して、ヒトラーの政策が実際に失業者を救うという点で実績をあげていることに注目させる。そのうえで、生徒の思考に深みをもたせるために用意するのが、この時代を生きた人々の証言である。
生徒たちは、史料1を読んでヒトラーの時代が「いちばんよかった」という回想に意外さを感じながらも、史料2を読むことでファシズムの恐ろ
《ポスターA》『最新世界史図説 タペストリー十訂版』p.239
史料1 ナチ時代の回想①
次の文章は、1933年から1939年にかけてのナチス時代を回想した家具職人の言葉です。 当時の生活がいちばんよかった。第一次世界大戦
がおわってからは、ドイツでは、一家族で二人しか
子供がもてなかった。これはよくないことでした。
家族にとって、結婚にとって、国家にとってよくな
いことでした。こんな状態では、ドイツは亡びてし
まったでしょう。私たちは、ヒトラーの語っている
ことは、一種の力強さについてだと確信しました。
彼は強さについて語っていた。1933年以降、子供
たちを大勢もてるようになり、未来が開けました。
貧富の差が縮まりました。どこでもそれがわかりま
した。チャンスが与えられたのです。1935年、お
やじの店をひきついだ私に、政府から二千ドルが融
資されました。前代未聞のことでした!(M・マイヤー『彼らは自由だと思っていた』1983年、未来社)
史料2 ナチ時代の回想②
1936年ごろが転換点だった。一般兵役義務が導
入され、軍需がフル回転した。失業者が街頭から職
場にもどり、炭鉱ではまた残業方がおこなわれるよ
うになった。みんな仕事とパンをふたたび手にいれ
て喜んだ。恐慌時代の耐久生活はおわりを告げた。
人びとは軍備拡大のために仕事をしているのを十分
承知していた。…しかしみんなは、ふたたび仕事を
できるようになっただけでうれしかった。四年、五
年、六年にわたる失業を味わってきたから。たとえ
悪魔のもとでも、個人的に働き始めたであろう。し
かし、多くの人びとは気がついていた。ナチスが戦
争に向かってまっしぐらに進んでいることを。(山本秀行『ナチズムの記憶』1995年、山川出版社)
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しさに気づくことができる。失業し、未来を閉ざされた人々にとって、ヒトラーの語る新しいドイツは確かに希望に満ちていた。そして、授業のまとめで黒板に登場するのが≪ポスターB≫である。このフォルクスワーゲンの広告には、明るい時代を象徴するかのように、車を手に入れ期待をふくらませる男女のようすが描かれている。≪ポスターA≫とのコントラストが「なぜドイツ国民はヒトラーに未来を託したのか」という疑問への答えを語っている。 このように、実際の生きた史資料を活用することによって、ナチスがドイツ国民の夢や希望を養分として巨大に成長したことを理解することができる。生徒は疑問と向き合い、思考することによって知識を獲得することになる。「全権委任法」
「総統」「再軍備宣言」「ラインラント進駐」といった基礎用語も、考える流れに沿って学習することで意味のある知識となって定着することになる。
プロパガンダを授業に取り入れた実践②
次に、アメリカ合衆国と並ぶ超大国として20世紀に君臨したソ連について、プロパガンダを活用した授業づくりの可能性を検討してみたい。そもそも、冷戦終結後に生まれた現在の高校生にとって、ソ連という国は過去の存在である。そこで、ソ連の存在感を生徒に理解してもらうために授業を工夫する必要がある。印象的な題材の一つが宇宙開発技術であろう。宇宙開発においてソ連がアメリカ合衆国をリードしていた事実は、アメリカ合衆国が世界の最先端という時代に育ってきた生徒たちにとって意外な展開のようである。『エスカリエ』p.204には、ソ連発展の象徴としてガガーリン少佐が英雄へとつくりあげられていくようすが掲載されており、ソ連のプロパガンダによる国威発揚の手法がいきいきと伝わってくる。 そこで、冷戦期のソ連の授業を展開するにあたって『エスカリエ』p.204を導入とする授業展開
を提案したい。まず、人類で最初に宇宙に到達し、「地球は青かった」という言葉で有名な人物がどこの国の誰かという問いから授業を始める。ガガーリンの名を知っている生徒がいることもある。
『エスカリエ』p.204の記念切手を参照しながら、ソ連が宇宙開発においてアメリカ合衆国をリードしていた事実が生徒に伝わり、学習への動機づけができる。 そのうえで、『エスカリエ』p.204に掲載されているフルシチョフがアメリカを訪問した際の挑発的な発言について考察させる。この発言には「アメリカ合衆国に追いつき、追い越す」というフルシチョフが掲げた目標がよく滲み出ており、生徒に「なぜ宇宙開発の成功をここまで誇大にアピールする必要があったのだろう」という疑問を抱かせることができる。この疑問を切り口に、ソ連という社会主義国家がアメリカとの冷戦をいかに戦おうとしていたのかを考える授業へと展開することができる。 共産党がすべての権限を掌握し、思想も経済も統制下においているソ連にはマスコミも存在しない。国民には社会主義こそが正しく、発展が約束されていることが強調された。フルシチョフ指導下のソ連は、「スターリン批判」によって粛清の恐怖政治に終止符を打った一方で、政府が社会主義政策によって成果を出さねば国民の信頼をつなぎとめることができなくなった時代であった。それは、プロパガンダによる体制の讃美と正当化につながっていく。ガガーリンの一連の資料がそのことを示している。また、宇宙開発の実績を誇張する一方で、フルシチョフが国民の生活水準においても「アメリカ合衆国に追いつき、追い越す」という目標のために各種のキャンペーンを行ったことに目を向けるとソ連への理解が深まる。処女地開拓キャンペーンやトウモロコシキャンペーンがソ連に混乱を招き、フルシチョフ失脚の要因の一つになった*3。 そこで鍵を握るのは、やはり資本主義と社会主義の相違である。多少の強引さを感じるが、次のような実践もおもしろいと考える。筆者は、自由貿易と経済のグローバル化によって生じる経済格差を生徒に実感してもらうために「貿易ゲーム」*4
にも歴史あり
アウトバーンと国民車ヒトラーは公共事業として
高速道路(アウトバーン)を計
画した。これはヒトラーの宣
伝の一つであった。現在でも
貨物車を除いて無料である。
またフォルクスワーゲン(“国
民車”の意)は,国民の誰だれ
もが
買える安い小型車として,ヒ
トラーの命令で製造された。
物
▲
⑥ 車のポスター
《ポスターB》平成25年度用『明解 世界史A』p.171
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というグループ学習を授業に導入しているが、これを社会主義バージョンで企画すると両者の違いを実感できるよい機会になるかもしれない。この貿易ゲームの概要は、クラスを5〜6名のグループに分け、大きさを指定した○、△、□といった
「製品」を、与えられた道具と紙を使ってつくる。市場(教員またはその役割の生徒)がこれを回収し、代価としてペーパークリップを渡す。これがゲームの基本ルールである。資本主義バージョンでは各グループに初期設定があり、はじめに受け取る道具に格差がある。紙(資源)が多いグループ、用具(技術)が多いグループ、紙(資源)も用具(技術)もろくにそろっていないグループ…というように格差を抱えた状況でスタートする。いちばん多くクリップ(金)を獲得したチームが勝利である。そうすると、生徒たちは無意識のうちに競争原理によって動く。格差に気づき、足りないものを得て有利に立ち回ろうとする。より効率よく、より正確な生産方法でクリップ(金)を大量に獲得できるよう工夫をする。そして、技術や資源の多寡によって格差が生じ、つまらない思いをするグループもでてくる。これが資本主義の光と影である。一方、社会主義バージョンでは生産量や報酬をすべてこちらで指示し、すべてのグループが同じ量のクリップを受け取ることになる。競争の犠牲になるグループもなくなるが、工夫と意欲もなくなる。社会主義バージョンは現在まだ実施していないが、来年度からはじまる新課程での世界史Aの授業に向けて準備中である。 20世紀に巨大化し消滅したソ連という国の歴史は、労働者や農村の実態から離れて理想で物事を進めようとする社会主義国家の欠陥が如実に表れた歴史であった。ソ連という社会主義国家は、最初から最後まで理想と現実の間で揺れ、悲惨な現実を輝かしい理想で覆い隠すことによって歩み続けたといえる。それを生徒に伝えるには、プロパガンダに関する資料を例示し、実際の生活状況を実感させることが有効である。
文化史からアプローチする20世紀史をめざして
20世紀の文化は、映画や楽曲をはじめ題材が豊富かつ多岐にわたっているため、資料として活用
することで「考える世界史」の実践がしやすい。20世紀最大のテーマである戦争についても、芸術作品からアプローチすることで理解に深みをもたせることができよう。本稿の冒頭で紹介した作品もその一つである。また、パブロ=ピカソの「ゲルニカ」(『エスカリエ』p.202)はスペイン内戦の授業で資料として提示する先生方が多いのではないだろうか。「ゲルニカ」はキュビズムの芸術的な価値だけでなく、政治的なメッセージとしてピカソの想いを思考することにつながる。戦争をする指導者たちの主張と、その犠牲となる市民の立場を双方向から考えるうえで効果的な材料となる。21世紀を担っていく生徒たちが身につけるべき力の一つは、「相手の立場に立って考える想像力」である。
注* 1 Gassed John S. Sargent Aug 1918 Imperial War Museum, London 作
者のサージェントは、第一次世界大戦のメモリアルホールに展示するためにアメリカとの協力をテーマとした作品を描くよう依頼されていた。しかし適当な題材を見つけることができず、西部戦線で目にしたガス攻撃による負傷兵という題材を選んだ。この作品からもわかるように、画家たちにとっても20世紀は
「戦争の世紀」であった。* 2 ヒトラーの演説映像はNHKスペシャル「映像の世紀 第4集ヒトラーの野
望」を使用すると編集が10分程度で解説もわかりやすく、使いやすい。*3 松戸清裕『歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年 * 4 貿易ゲームは開発教育協会がワークショップの教材として紹介している実
践である。
『明解世界史図説 エスカリエ 四訂版』p.204
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中国では、万暦7〜10年ごろにかけ、イエズス会の宣教師がマカオに来華して以来、彼らを通してあらゆる西洋的な文化が伝えられた。中国の特産品ともいえる陶磁器についても、西洋風の絵画の描写法を用いて絵つけが行われるようになった。それらのなかには、オランダおよびイギリスの東インド会社が中心となり、欧州向けの輸出品として受注生産されたものもあるといわれている。ここに取りあげる「琺瑯彩西洋人物図瓶」(永青文庫蔵。以下、本作)も、そうした作品の一つと考えられている。 本作は、二つの瓶を横並びに繋ぎ合わせたような、「双連瓶」という形につくりあげられている。また器の胴の両面には、トロイア戦争にまつわる物語の一場面が描かれている。一面は「パリスの審判」、もう一面は「ヘレネーの誘拐(略奪)」である。底裏には「乾隆年製」という銘があり、乾隆帝の治世の間(1735〜95)に製作されたことがわかる。西田宏子氏によれば、本作のように、ギリシア神話に題材をとった絵柄の作品は、1740〜60年の間ごろにさかんに製作されたという。本作の題名にもなっている「琺瑯彩」とは、粉彩ともよばれ、ヨーロッパの七宝細工の絵つけ法を応用し、白磁を上絵つけする技法の名称である。乾隆帝の父雍正帝、そして乾隆帝自身の治世の間に、宮中に併設された工房で製作された粉彩のことを総称して、「古
こ
月げつ
軒けん
」とよぶことがあるが、本作は日本に現存する古月軒の傑作とみなされている。○ここに注目 本作は、笠形の蓋、口縁部・裾・胴のあたりまで、複雑な形の草花文様を丹念に描きこんでいる。使用されている色彩は胭
えん
脂じ
紅こう
といい、金を呈てい
色しょく
剤ざい
として使用する、ひじょうに高価な顔料である。 本作の絵柄の描写において最も注目されるのは、
モチーフの輪郭線を目立たせず、極端な陰影をつけるなど、これまでの中国絵画の人物表現には見られない描法が駆使されている点である。まずは「パリスの審判」(表面写真左)に注目してみよう。画面の左側には、杖を片手に持った牧童らしい出で立ちで、女神にりんごを手渡そうとしているパリスの姿が描かれる。また、パリスの対面には、左から順に、甲冑を身にまとうアテナ、美の女神アフロディテ、そして結婚を司る女神ヘラが描かれる。衣の襞や人物の顔、身体には、はっきりと陰影がつけられ、絵つけ師がモチーフの質感表現に力を注いでいたことがうかがえる。奇妙なことに、ギリシア神話のなかでは、パリスが渡したりんごの色は黄金色であったはずであるが、ここでは赤く彩られている。 一方、「ヘレネーの誘拐」(表面写真右)では、パリスに手を引かれ、今にも連れ去られようとしているヘレネーが、彼女の侍女らとともに描かれる。ヘレネーの顔貌は、眼の周囲や口角の陰影表現がかなり強調されて描かれ、見る者にいささか奇妙な印象すら与えるほどである。こうした誇張的な陰影表現は、日本近世の南蛮絵画や洋風画などに共通して見られるものであり、東洋における異国趣味絵画の特徴ともいえるものかもしれない。 本作のようなギリシア神話を題材にした作品は、西洋渡りの銅版画など、絵柄の手本となるべき原画があり、それに従って絵つけ師が絵つけするという製作工程をとっていたと考えられる。たとえば、本作の「ヘレネーの誘拐」についていえば、画面構成や人物の仕草などを見るに、ボローニャ派の画家グイド=レーニあたりの作品を模した銅版画の存在などを想定できるかもしれない。しかし絵つけ師は、トロイア戦争の物語それ自体を知らなかったのであろう。黄金のりんごを赤く塗ってしまっているところなどは、原典を知らぬ中国人画師によるものと考えられる。本作は、乾隆帝時代官窯における欧州向け輸出品として作品の絵つけを行っていた画師たちの知識の実態を知るうえでも、貴重な作品といえる。
陶磁器、とくに磁器は現在の日本人の食生活に欠かせない存在となっており、それだけに逆に磁器に対する歴史意識は低いともいえる。日常的に生徒が接している生活用品にも、その生産に関わった先人の苦労や格闘があったことを理解させ、その源泉となった中国陶磁の奥深さや時代性・世界性を感得させたい。まず、土器と陶器・磁器の現物を実際に教室にもち込んで感触を楽しんでもらう。そのあと、磁器の中国起源と中国陶磁の歴史をたどり、その“海の道”を中心とした交易が世界史に果たした意義を認識させるとともに、流行陶磁の時代性を、次のような表を生徒に示して説明する。
唐 唐三彩 :唐文化の国際性・時代性を示す。陶器
宋 青磁・白磁:宋文化の内向き・地道さを示す。磁器
元 染付(青花白磁):モンゴル帝国の東西交流の副産物 …青の原料(コバルト)はイル=ハン国から。磁器
明 赤絵(五彩):中国社会の成熟を反映。磁器
ここから、17世紀前半の明末清初の動乱による中国磁器の質の低下や生産力減退に触れ、朝鮮侵略の副産物としての、朝鮮陶工による日本での陶磁生産につなぐ。さらに有田焼が果たした役割をオランダ東インド会社の活動と絡めて論じていきたい。その間の中国情勢の安定化を理解するなかで、清朝による磁器輸出の本格化を指摘していく。ここでようやく、本作の登場である。清朝磁器の最高水準を示すといわれる粉彩の代表作の一つとされる「西洋人物図瓶」を表裏セット写真(本写真資料)で生徒に提示する。写真を生徒にまわしながら、これがどういう背景のもとに、どういう技術で制作され、どういう扱いをされたのか考えさせる。具体的には、一目見てどのような印象を受けたのか、メモ用紙を全員に配布して回収し、共通して挙げられた感想に対し、こちらのコメン
トを加えて授業の進行としたい。例えば次のような感想が出てくる。①「形は面白いが、何のためにつくったのかよくわからない」、②「ヨーロッパの男女像で何を示そうとしているのか」、③「なぜ、中国の磁器にこのような図柄が入っているのか」、④「色彩が多彩で、描写にも遠近法や陰影法の影響が感じられる」。 上記4つの感想に対しては、以下のような説明を試みたい。 ①形の複雑さ:清朝が1680年代に景徳鎮の官窯を再開して以後、中国磁器を輸入しようとする英・蘭の東インド会社はヨーロッパの王侯貴族向けに注文生産をするようになった。一方で北京紫禁城宮中からのかなり無理な要望にも応えるべく、景徳鎮の陶工たちは整形の技術を高めていったと考えられている。②③図柄の内容:18世紀、再び中国から欧州向けに磁器輸出が本格化するなか、図柄に関してもギリシア神話やキリスト教の聖書などに由来するものが、注文生産という形で生産されるようになった。ただ、輸出用であったのか、古月軒磁器として西欧趣味の強かった乾隆宮中における飾り壺として機能していたのかは資料不足もあり、十分判断できない。④色合いの多彩さと描写の巧みさ:明末以来、布教を最終目的としたイエズス会宣教師の多数の来訪は清朝の文化に新しい要素を加えた。なかでも、1715年に北京に到着し、康煕末年から雍正・乾隆年間にかけて画家として活躍したイタリア人宣教師カスティリオーネ(中国名は郎世寧)の存在意義は大きい。実は、彼は来朝してしばらくの数年間は琺瑯器の絵つけにおもに従事しており、彼の絵つけ作業が琺瑯彩磁器絵つけの基礎になったと考えている研究者は少なくない。今回の抑え気味の遠近法や陰影法も彼の開発した中洋折衷の技法ともいわれている。 モノを語る歴史の授業はできるだけ、そのモノを実寸で示したい。実物がなければ拡大写真あるいは実物大写真でもよい。中国磁器の場合はなおさらである。モノ自体は語らないが、そのモノに関わった人間の動きを追いかけていくと、ときにさまざまな歴史の断面を垣間見ることができる。
*表面は作品を原寸大で示した写真です。ただし、写真の大きさは一般に公開されている高さの寸法をもとに弊社で算出したものであり、実物を計測したものではありません。若干の誤差がございますことをお含みおきください。「琺
ほ う
瑯ろ う
彩さ い
西洋人物図瓶」 高さ21.1cm永青文庫蔵
●世界史そのまんま美術館 世界史のしおり 2012年度3学期号付録
解説東洋と西洋の出会いから生まれた古月軒異色の傑作
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程梅田真代
授業活用例
中国陶磁史のなかの清朝磁器―「琺瑯彩西洋人物図瓶」を めぐって―
福岡県立東筑高等学校今林常美