2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸...

37
歴史文化学主専攻プログラム 2018年度 卒業論文概要 【日本史】 佐藤 由紀 八・九世紀の賑給 ......................................................................................... 3 伊東 豊臣期伊達政宗発給文書に関する一考察 ..................................................... 4 小林 智弘 豊臣政権の東国政策...................................................................................... 5 指田 中世東国における地方寺院とその法流......................................................... 6 野島 千晶 佐々成政の越中支配...................................................................................... 7 福島 直弥 越後守護上杉家年寄に関する一考察 ............................................................ 8 古川 佳音 中世後期における起請文の特徴-越後の起請文を例に―............................ 9 市村 茉夕 近世酒田の火災への対応について .............................................................. 11 川上 敦也 新発田藩における神職組織 ......................................................................... 12 田中 優花 近世初期における新潟の支配-地子・諸役免除を中心に― ...................... 14 松永 大祐 近世頚城地方の割地慣行について .............................................................. 15 石竹 栄彦 1930年代新潟県の飛行機献納運動について............................................... 16 佐藤 夏波 戦後における有田八郎に関する一考察....................................................... 17 嶋田 佳奈子 近代のカフェーと女給 ................................................................................ 18 島田 三貴也 農村経済更生運動と報徳思想-新潟県黒埼村を事例に―.......................... 20 塚田 楓菜 新潟県における農民運動と地域社会 .......................................................... 22 外山 麻由子 敗戦直後の女性運動家と家族-田中キン一家を事例に―.......................... 23 髙橋 悠人 戦前新潟における民衆とスポーツ .............................................................. 24 保坂 駿 鉄道敷設に伴う社寺参詣の変化と地域社会 -弥彦神社再建を事例としてー .............................................................. 25 【アジア史】 阿部 直明 清代中後期における清朝の棚民対策 .......................................................... 26 髙濱 伶奈 1930年代朝鮮における女性のスポーツ活動―新聞記事を中心とし た朝鮮女子体育奨励会の事業分析―....................................................... 27

Upload: others

Post on 23-May-2020

11 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

新 潟 大 学 人 文 学 部

歴史文化学主専攻プログラム

2018年度 卒業論文概要

【日本史】

佐藤 由紀 八・九世紀の賑給 ......................................................................................... 3 伊東 玄 豊臣期伊達政宗発給文書に関する一考察 ..................................................... 4 小林 智弘 豊臣政権の東国政策 ...................................................................................... 5 指田 周 中世東国における地方寺院とその法流 ......................................................... 6 野島 千晶 佐々成政の越中支配 ...................................................................................... 7 福島 直弥 越後守護上杉家年寄に関する一考察 ............................................................ 8 古川 佳音 中世後期における起請文の特徴-越後の起請文を例に― ............................ 9 市村 茉夕 近世酒田の火災への対応について .............................................................. 11 川上 敦也 新発田藩における神職組織 ......................................................................... 12 田中 優花 近世初期における新潟の支配-地子・諸役免除を中心に― ...................... 14 松永 大祐 近世頚城地方の割地慣行について .............................................................. 15 石竹 栄彦 1930年代新潟県の飛行機献納運動について ............................................... 16 佐藤 夏波 戦後における有田八郎に関する一考察 ....................................................... 17 嶋田 佳奈子 近代のカフェーと女給 ................................................................................ 18 島田 三貴也 農村経済更生運動と報徳思想-新潟県黒埼村を事例に― .......................... 20 塚田 楓菜 新潟県における農民運動と地域社会 .......................................................... 22 外山 麻由子 敗戦直後の女性運動家と家族-田中キン一家を事例に― .......................... 23 髙橋 悠人 戦前新潟における民衆とスポーツ .............................................................. 24 保坂 駿 鉄道敷設に伴う社寺参詣の変化と地域社会

-弥彦神社再建を事例としてー .............................................................. 25

【アジア史】

阿部 直明 清代中後期における清朝の棚民対策 .......................................................... 26 髙濱 伶奈 1930年代朝鮮における女性のスポーツ活動―新聞記事を中心とし

た朝鮮女子体育奨励会の事業分析― ....................................................... 27

Page 2: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

2

【西洋史】

加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察 ............................................... 28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察 ..................................................................... 30 古木 貴裕 ヴェストファーレン条約における神聖ローマ帝国皇帝の権力................... 31 御幡 知佐 フランス革命初期における政治的表象の変化 ............................................ 33 篠塚 大輝 ホロコースト研究史における転換点 .......................................................... 34 吉田 健 平和実現の方法論 ....................................................................................... 36 石井 美帆 中世イスラーム建築にみる楽園の表象 朝妻 菜月 「死の舞踏」に関する一考察 清水 ちとせ 西洋諸国と清の外交関係 大橋 光太郎 スウェーデン中立政策の揺らぎ

Page 3: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

3

八・九世紀の賑給 佐藤 由紀

本稿の目的は、賑給と義倉、救急料の比較を行い、共通点・相違点を確認したうえで、救済措置としての性格について明らかにすることである。先行研究では、イデオロギー的性格が強いことから人民支配政策として検討されてきたが、慶事・大事以外の災異時にも行われたことから、救済措置としての側面についても検討すべきである。また、義倉・救急料といった救済措置との比較もなされてきたことから、それぞれの位置づけも必要である。 第一章では、八世紀の賑給と義倉について、六国史に見られる支給記事や『律令』等の規定から支給手順や対象を確認し、救済措置としての性格について検討した。賑給と義倉では、支給対象が異なっており、賑給は高年者、社会的・経済的困窮者、障害者といった『律令』に規定されるような特定の保護対象であり、義倉は賑給対象者に対応しない者であった。こういった対象の違いは年齢にも見られ、賑給は二十歳以上八十歳以下を対象とし、義倉は賑給では見られなかった子供を対象に含んでいた。また、支給量について、賑給は高年・鰥寡孤独を優遇すること、中央による一部対象者への支給量の指示が見られた。義倉はある程度地方で決めることができ、支給量の差は困窮度合いに応じて決めることができた。以上のことから、賑給は特定の保護対象に対しての救済であり、被災者等の困窮者への救済は形式的となったこと、義倉は賑給とは異なり救済対象を特定せずに幅広く救済すること、といった位置付けを行った。 第二章では、九世紀の賑給と救急料につい

て、第一章と同様に、実施記事や規定を確認し、救済措置としての性格について検討した。国史に見られる支給実施記事から、九世紀になると、賑給は困窮者救済の性格を強めた。このように救済の性格を強めた賑給と救急料は利用用途が異なっていた。賑給は対象に直接支給されていたが、救急料は文殊会料、橋造作料・修理官舎料などに利用されていた。そのため、従来見られた救急料は賑給に取って代わったとは考えられないとした。また、従来救急料に関すると考えられていた天長十年官符を賑給に関する規定であるとし、賑給と救急料の限度額について見直した。『延喜式』に見られるように、救急料の限度額は賑給のおよそ五分の一であり、支給することができたとしても小規模となった。救急料の賑給への利用は見られたが二例であり、賑給の財源とすることはできなかった。以上より、賑給は八世紀とは異なり、対象を特定せずに救済の性格を強める、大規模な直接的救済措置、救急料は小規模の間接的救済措置と位置付けた。 以上のように、賑給は八世紀段階では困窮

者救済の性格は認められず、義倉がその役割を担っていた。九世紀になると賑給にも救済の要素が見られるようになり、直接的な救済措置となったが、その他にも救急料といった間接的な救済措置も見られるようになった。八世紀には賑給と義倉を行うことにより幅広い対象を救済し、九世紀には賑給と救急料といった異なった手段によって様々な被害に対応したと結論付けた。

Page 4: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

豊臣期伊達政宗発給文書に関する一考察 伊東 玄

本稿の目的は、豊臣期の中でも主として天正年間の伊達政宗発給印判状(厳密にいえば政宗発給ではないものも含まれている可能性もあるが、原則として本稿で使用した表に掲載した文書は「政宗発給」と表現する)に着目し、その特徴について明らかにすることである。本稿では政宗発給直状を、「判物」・「朱印状」・「黒印状」(なお本稿では印判状の検討に際して、書状の類は対象外とした)と三つの視点で捉えて、判物の検討も交えつつ、朱印状に対する黒印状の位置づけを明らかにするとともに、当期の政宗政権の支配体制の在り様についての考察を試みた。 第一章では、判物・朱印状・黒印状のそれ

ぞれの様式に着目し、黒印状が政宗発給文書の中でどのような位置づけであるのかを大まかに明らかにすることを試み、黒印状は判物・朱印状に対して特異的かつ薄礼的な文書形態であることが明らかとなった。 第二章では政宗発給朱印状・黒印状につい

て個別的な検討を行った。第一節では、政宗発給朱印状の中でも、印文「桐盛伝」・「龍納」朱印に着目した。前者は、自筆で書かれている文書が見られることから、少なくとも前者の側面においては、政宗の独裁色が強くまた天正後期における官僚制の整備は未発達であったということを指摘した。また後者における判物から印判状への文書形態の変化は非人格化官僚制化との結びつきは弱く、花押から印判に署判形式を変えること自体に大きな意義があったものとして結論付けた。第二節では、政宗発給黒印状を(一)~(四)の4つのグループに分けて検討した。(一)では、

朱印状に比べて同時発給的傾向が強いことを明らかにした。(二)では、印章「獅子」黒印状に着目しつつ、過所について検討を行った。本検討から、獅子黒印・「福宝」朱印と「龍納」朱印における過所との間には一線を画した使用意識があったものとし、獅子黒印は官僚制的な文書であると結論付けた。(三)には、印章「稲穂鼠」黒印状を分類した。本検討から署名が連署という形式をとっているため、政宗のみが発給しているという状態よりは官僚制的であるが、段銭請取業務が片倉景綱などに委任されていた状態から、政宗による発給と変わったことから半独裁的な官僚制の整備であるとした。(四)では、(一)~(三)で分類しなかった黒印状を分類し、若干の検討を行った。 政宗の印判における「桐盛伝」・「龍納」朱印は自筆のものがある以上、完全に非人格であるとは言えず、また黒印状についても政宗の意向が反映されているものとして考えてよいだろうから完全なる非人格化はなされていないといえる。しかし朱印状との対比では、署名がないものがほとんどであることや、様式上軽薄なものばかりであるということや、獅子や稲穂鼠の黒印状には官僚制的特徴があることもあげた。よって、黒印状は「桐盛伝」・「龍納」朱印に比べれば非人格的官僚制的な文書といえよう。天正期政宗政権は、黒印状の発給の側面から、非人格化官僚制化がある程度垣間見ることができるが、「龍納」・「桐盛伝」の発給が大部分を占めている以上、独裁的な側面の方が大きい支配体制であったものとして考えられよう。

Page 5: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

豊臣政権の東国政策 小林 智弘

本稿の目的は織田・豊臣両氏に仕えた富田一白を豊臣政権の東国政策の流れの中に定置し、同人物の検討を通して豊臣政権の東国政策の特質を明らかにすることである。先行研究において富田一白は東国の未服属領主との交渉にあたった人物の一人として数えられ、その重要性が喚起されているが専論はない。また、豊臣氏奉行人の職制について明らかになりつつあるが、検討は「五奉行」となった人物に限定されており、より立体的な構造解明には富田一白等の「五奉行」には列していないものの、同時期に発給された史料に登場する人物の検討が不可欠であるといえる。豊臣政権の東国政策の特質を明らかにするのみならず、統一後の政権機構の構造を理解するためにも富田一白関係文書を検討することは重要である。 第一章では、天正十一年段階の豊臣政権の

東国政策は地域的特性に規定され、交渉回路を持つ家康に要請することで秩序回復が目指された事、天正十四年五月に上洛した上杉景勝に命じられた関東の取次業務は北関東に限定したものだったこと、同年十月の家康の上洛によって東国政策は方針転換され、関東の取次業務を委任された事を確認した。第二章では、富田一白は天正十四年十月の徳川家康の上洛を画期として東国政策の交渉前線に送り込まれたと結論付けた。服属地域拡大の際に、それ以前からやり取りのあった勢力は石田三成が担当し、富田一白は初信となる相馬氏・本庄氏について担当した。徳川家康を主軸とした交渉回路の秀吉への窓口として富田一白を評価した。第三章では、天正十六年段階の富田一白は南奥羽の調停と「惣

無事」体制の構築に向けた諸領主との取次業務を担った事を明らかにした。一白は対象の立場に立って服属交渉に臨み、結実させた。徳川家康は時期毎に眼前の問題に対処し、結果として天正十六年に奥羽への関与がなされた。豊臣政権は基本的に領主同士の自律的な紛争解決を志向し、それが叶わない場合に領主が秀吉への披露を行う富田一白に言上し、一白は家康の政治力を利用する形で解決を図った。 第四章では、天正十七年の沼田問題に対応

した富田一白の関東下向は政権の直接的関与を象徴するものと指摘した。伊達政宗の会津侵攻を契機に交渉窓口と対象大名による個人的なつながりを前提とした交渉を排し、実力を背景にした強行策をとり、その結果富田一白は東国政策の先頭を浅野長吉に譲った。第五章では、富田一白が文禄慶長期も秀吉への起請文の宛所となっている事、秀吉への取成しを頼まれ書状を披露する立場にあること、秀次事件による動揺期には後の五奉行メンバーとの連署にて政権中枢を握っていたことから、奉行人としても重要な位置を占めていたことを指摘した。 本稿ではその重要性が指摘されつつも必

ずしも十分な検討が加えられてこなかった富田一白の政権内における位置づけを明らかにした。先行研究で石田三成や増田長盛と同様に統一期に未服属領主との取次業務に従事した側近層との認識がなされていたが、本稿を通してその立場が石田らとは一線を画した、秀吉に意見しうる存在であったと結論付けた。

Page 6: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

中世東国における地方寺院とその法流 指田 周

本稿の目的は、聖教や血脈等の寺院史料を中心的に用いて東国における東密法流の相承を考察することで地方寺院における法流伝播の一端を明らかにすることである。 中世東国における法流伝播に関しては、櫛

田良洪氏や小此木輝之氏らによって東国において東密の法流が伝えられた具体的な時期、経緯が鎌倉や小俣鶏足寺(現栃木県足利市)を中心に明らかにされた。一方で、東国地方寺院・寺僧の研究においては世良田長楽寺(現群馬県太田市)や真言密教の学僧印融といった存在も注目され、各個に研究が進められてきた。これらの寺院及び寺僧には法流を介した結びつきを指摘することができるが、従来の研究ではこの点についてほとんど見逃されてきたといえる。そこで本稿では、これらの存在に注意を払いつつ、一部法流の具体的内容に踏み込んでその地域的展開を考察した。 第一章では、東国地方寺院における法流伝

播の実態を、主に北関東で展開した東密法流である鶏足寺方に即して検討した。第一節では、鶏足寺方の位置づけを成立の経緯と法流の内容に注目して検討した。鶏足寺方は三宝院意教流の末流として成立し、それ以外に小野・広沢両流に及ぶ法流をも併せ伝えていたのが実態であった。このうち、とくに広沢方の法流について考察することで、京住僧が鶏足寺に下向したことを契機に同寺尊慶らへその教えが伝えられていたことを明らかにした。第二節では、前節を踏まえ鶏足寺方のその後の展開を考察した。その際、広沢方の法流を考える上で重要な祖師の存在に注目し、南北朝期頃より鶏足寺が興隆し祖師と称

される僧が同世代に複数現れ、彼らが鶏足寺にとどまらない地域へ進出したことで祖師を介してそれぞれの地域で展開したことを指摘した。 第二章では、東国地方寺院における法流相

承の実態を示す事例として、世良田長楽寺に伝わった法流を中心に検討した。第一節では、同寺の宗派的性格について確認した上で、塔頭普光庵に伝わった東密法流の検討を行なった。長楽寺は禅密兼修の寺院として成立したが、官刹化に伴い次第に密教的性格は寺内塔頭普光庵へと移り、南北朝期以降は普光庵で台密の灌頂が行われたとされる。これを踏まえ、同寺に東密法流が伝わっていたことを示す史料を考察し、普光庵には了恵・了義を介して東密西院流が伝わっており、その教えが東国諸地方寺院の間を相承されていたことを明らかにした。第二節では、前節で検討が及ばなかった普光庵以降の西院流の地域的展開について、とくに学僧印融の存在に注目して考察し、西院流が印融へと相承されたことで、その教えが活動拠点の榎下観護寺を中心に彼に師事した高野山の僧にも伝わり、さらなる広がりをみせたことを指摘した。 本稿では東国地方寺院を寺僧の法流とい

う視点から検討することで、地方での法流展開の一端及びこれまで個別に研究が行われてきた寺院や寺僧が法流を介して結びついていたことを明らかにした。こうした地域的なつながりは個々の寺院ごとの検討ではみえてこないことであり、その意味で寺僧の法流を追究することは、中世寺院の地域での在り方、とりわけ寺院間の交流を考える上で一つの有効な視点となり得るとした。

Page 7: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

佐々成正の越中支配 野島 千晶

本稿の目的は、佐々成政の発給文書を取り上げ、天正8~15年における佐々成政の越中支配について検討することである。佐々成政発給文書の花押による年代比定において、根拠となる花押の変遷時期が示されていない。花押、印判の変化に発給者の心理、社会的な変化を明らかにできると考えられる。そこで本稿では、成政花押の変遷時期やその原因となった背景に着目し、成政の越中支配について検討していく。成政発給文書の点数自体が多くはないため、隣国の前田利家発給文書を用いて、利家の印判変化時期に着目し、成政発給文書との比較・検討を行っていく。 第一章では、佐々成政発給文書における花

押の変遷について検討した。第一節では、越中時代の成政花押に着目し、花押の変化時期とその契機を検討した。佐々成政の花押については、天正3年からのものを含めると4種類が確認できる。越中領主の時代において、成政は1種類の花押を用いている。織田信長の家中が使用している、縦長で脚部を左右に開いた、ヤグラ型の花押である。成政は自身を取り囲む情勢とその地位の変化によって花押型を変化させていたことが判明した。成政花押変形の契機は順次に、上杉謙信の死去から北陸情勢の膠着、本能寺の変と山崎の戦い後の地域支配と対上杉勢への越中の守備強化であるとみられた。また、秀吉への降伏後、妻子とともに大坂にいた成政は新川郡を代官支配させ、印判を領民等へ命令を下す際に用いていた。第二節では、肥後領主時代の成政花押に着目した。肥後時代の花押は越中時代ヤグラ型のものから大きく変化したこと

がわかった。これは、成政が秀吉の配下についたというだけでなく、肥後へと転封されたことにより成政が織田家臣との共通するヤグラ型の花押から変化したことから信長との関係が薄くなったという心理的変化が表れているのではないかと考えられる。 第二章では、前田利家文書について検討し

た。印判状の変化についてみることにより、利家の印章の変化とその契機、また使用時期外の印章の存在を明らかにした。利家の印章は7種類があり、天正9~15年の間で使用されている印章はそのうち5種類である。5種類の印章の印文は「万善」「利家」の2種類にわけられる。第一節では、印章の変化する契機に着目した。利家の印章が使用され始めた時期については不明だが、織田継嗣問題から発展した秀吉への接近ではなく、柴田勝豊・織田信孝の敗北、賤ヶ岳の戦いを経て柴田方から秀吉方への服属、末森合戦、秀吉の旧姓羽柴氏と筑前守の受領名の譲渡、また左近衛権少将任官が印章変化の契機であったことがそれぞれ明らかとなった。成政同様、自身を取り囲む情勢とその地位の変化によって印章を変化させていたことがわかった。第二節では使用時期外の印章に焦点を当て、利家が使用時期外に用いていた朱印に注目した。同時期に利家は秀吉政権の中枢に入り発言権を大きく有していたが、朱印と黒印という区別については、利家はほとんどしていなかったのではないかと考えられる。また、利家の花押に関して、使用時期によって変形するのではなく、同一の花押が使用されていることを明らかにした。

Page 8: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

8

越後守護上杉家年寄に関する一考察 福島 直弥

本稿の目的は越後守護上杉家の年寄衆を個別的に取り上げ、各々が越後守護上杉家年寄として担当していた職掌などを明らかにしていき、そのことを踏まえ年寄衆内における地位はどのようなものであったのかなど考察を加えていくことで越後守護年寄衆の実態を少しでも明らかにしていくことである。 第一章では上杉房定期に多くの発給文書

が確認でき、政権内部で活躍していた年寄衆の一人である飯沼氏について考察を行った。 第一章第一節では飯沼頼泰・定泰・輔泰に

着目し、この三者が越後守護上杉家年寄として、政権内部においてどのような職掌を担当していたのかを明らかにし、年寄衆としての実態について考察を行った。 第二節では第一節の越後守護上杉家年寄

としての飯沼氏の考察を受けて、年寄奉書の署判者として名が見え、飯沼氏と推定されているが具体的な根拠がなかった沙弥道意・沙弥道存について考察を行った。本節では『蔭涼軒日録』に古臣として名が出てくる五氏(長尾・千坂・石川・斎藤・平子)についての検討、年寄奉書の署判者を四区分に分類しての検討、沙弥道意・沙弥道存の連署者などの検討を行い、これらの検討からこの二氏は飯沼氏ではなく斎藤氏の可能性が高いことを指摘した。 第二章では越後守護上杉家年寄として多

くの年寄奉書の署判者として名が確認でき、

その他含め多くの発給文書が残されており、長い間政権の中枢で活躍していた千坂氏に関して千坂定高―実高―能高の千坂氏三代について各個人に着目して政権内部でどのような職掌を担当していたのかを明らかにし、そこから越後守護上杉家年寄としての実態などについて考察を加えていった。 第一節では、年寄奉書の署判者の署判数に

注目し回数ごとにまとめた。その中で千坂氏が最も多くの奉書に署判しており、有力な年寄衆として署判を期待されるほどの存在であったことを指摘した。また定高の年寄として担っていた職掌として、第一章第一節で挙げた職掌の中で使者以外の職掌を担っており、その中でも年寄奉書の署判と訴訟の審理において有力な立場として力を発揮したことを明らかにした。 第二節では定高の後継者である実高・能高

期における越後守護上杉家年寄としての千坂氏に関して考察を加えていった。それらの考察の中で定高期以降においても実高は御評定衆として定高同様に多くの職掌を担当し、有力な年寄として政権を担っていたこと、またその後を継いだ能高も残された文書の少なさから年寄としての活動はあまり明らかには出来ないが、少なくとも年寄奉書の署判、訴訟の審理などに携わっており、このことから千坂氏三代はともに年寄奉書の署判、訴訟の審理などを担っていたことなどを明らかにした。

Page 9: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

9

中世後期における起請文の特徴 ―越後の起請文を例に―

古川 佳音 本稿では、起請文の持つ特徴の一つである神文に着目し、越後の揚北衆の起請文を例に、春日大明神の勧請の有無について検討を行った。その目的は、時期や地域を問わず広く勧請されている春日大明神が、一定の時期に作成された揚北衆の起請文では勧請されておらず、これらがどのような意味を持つのか、なぜ勧請されなかったかを明らかにすることである。 第一章では、「春日」が勧請されている起請文に注目した。第一節では、越後の起請文の全体像の把握を行い、第二節では大永享禄期の起請文の分析を行った。この時期に在地の国人たちと長尾為景との間で内容が似た起請文が複数交換されており、この起請文がその後の越後の起請文の形式を形作っていったことが先行研究同様明らかとなった。第三節では天文期以降の起請文の分析を行った。分析の結果、天文期以降も起請文の作成に際し、神文に「春日」が勧請される状況であったと考えられる。一方で「春日」が勧請されていないものもあったが、作成時期が離れていること、作成者が異なること、作成意図、一通は案文であるといった以上の点から、神文に「春日」がいないことに何か意味があるとは考えられなかった。 第二章では、「春日」が勧請されていない起請文、天文期の起請文の分析を行った。第一節では天文10年ごろの起請文について検討を行った。検討の結果、以下の三点の理由により起請文神文に春日大明神が勧請されなかったと考えられる。一つ目は天文三年以降、

揚北の国人層は上条定憲方についていたこと。二つ目は天文八年の伊達稙宗の越後侵入により、揚北地域が一時的に伊達の影響下におかれたこと。三つ目は起請文が小泉荘内の国人層による問題の解決策として発給・交換されたこと。これらの理由が複合的、または単独に作用した結果が、起請文神文に春日大明神の名前がないという姿で現れたと指摘した。 第二節では天文10年同様、春日大明神が勧請されなかった、天文20年の起請文について検討を行った。分析の結果、起請文が小泉荘内の国人層による問題の解決策として発給・好感されたこと、守護上杉氏の家系が断絶し、国主となった長尾景虎が自らの権力・地位を確立させる時期であったために、揚北衆に対して長尾氏の影響が強くなかったこと、以上の二つが、春日大明神が勧請されなかった理由として考えられると指摘した。 以上の検討を通じ、起請文神文の研究はこれまで多数行われてきたが、単に書かれている神仏を分析することだけでなく、勧進される神仏の神文への出現・消滅といった点や、その時期に注目する必要があることを指摘した。そして、もし起請文に勧請される神仏が権力によって変化するのであれば、起請文から中世の思想や信仰の姿を解明しようとする試みは少し慎重になるべきではないだろうかという疑問も提示することができた。このような主張を確立するには、他の地域でも同様の事例が見られるのか、見られた場合それはどのような性格を持つのかといった

Page 10: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

10

分析も行わなければならないが、この点は今後の課題となった。様々な時代・地域の起請文と比較を行うことで、今回発見された事例

が揚北衆の起請文の持つ特徴であるのか、それとも一般的にみられるものであるのかといった評価も可能になるとみられる。

Page 11: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

11

近世酒田の火災への対応について 市村 茉夕

本稿では酒田町において髪結が火消を担うことになるまでの経緯と髪結火消の活動について酒田の町政を担った町役人三十六人衆が作成した『酒田三十六人御用帳』の史料を中心に用いて検討を行った。髪結火消に関しては主に江戸の事例の研究があるのみで地方の事例を研究したものはほとんど見られず、酒田においては存在したことの紹介のみにとどまっている。 第一章では髪結火消が成立する以前から

火消を担った大工と木挽、丁持について検討した。「酒田三十六人御用帳」で初めに火消組織が登場するのは享保3年(1718)の史料からで御免地の大工と木挽が普請奉行の下で火消を担っていた。享保十九年か二十年には丁持が町火消を命じられ、酒田で最初の定火消も宝暦12年(1762)に丁持から選ばれている。その後丁持は龍吐水を任され町役人付の火消として活動を続けていたが、一方で普請方付火消であった大工と木挽の火消は複数の史料から機能が低下していたことが読み取ることができる。 第二章一節では髪結火消の成立について

検討を行った。髪結の火消は文化10年(1813)に結成された丁持と同様に町役人付の火消として活動を行っていた集団と、本間家付として町役人付と同様に町の火消を担った集団の二つが存在した。町役人付の火消はこの時まで髪結には髪結株がなかったが、髪結を職業とするものが増え稼ぎが少なったため火消を兼任することで新規の参入を防ぐため髪結株を設け、火消の役割を願い出ていた。第二節では髪結火消の活動について検討を

行った。髪結火消の働きに対する褒美の記録が複数残っており、消防訓練においては町役人付の火消として一つの組を編成している。また、町役人との借用金のやりとりについて借用金の返済は髪結株の設定に関わる重要なものとされており、火消としての活動自体だけでなく町用金からの借用金の返済として金を渡すことも髪結株を設ける上で髪結側に必要な負担として考えられていた。 文化十二年の史料の中では破壊消防が主

流であった当時の火消には丁持や髪結は不慣れであるためあくまで火消に借り受けたいのは建築の知識があり道具を自分で持っていた大工と木挽であると述べられていた。火消を担うのが丁持や髪結である必要はないはずであったものの、丁持は港での荷物の運搬に携わる職業で湊町として多くの荷物が行き来する酒田町においては欠かせないものであり、丁持の多くは藩の蔵や幕府の御城米を積んでいた御米置場での仕事に従事していたため藩や幕府の荷物を火災から守るために火消を任されたのは妥当なことである。一方で丁持は荷物の運搬が減る冬場は失業者対策が行われており、立場としては日用稼ぎに従事する町全体の中では下層の立場である日用層であったと考えられ、火消の功績により待遇の改善を勝ち取っているなど火消を担うことで地位の向上を図っていた。髪結も同様に吉田伸之氏が述べていたように日用層の中に含まれるもので、町人が担っていた役の中でも危険を伴う火消を担うことで地位向上を目指したのではないか。

Page 12: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

12

新発田藩における神職組織 川上 敦也

本稿は、新発田藩における神職組織について、その実態や特質を明らかにすることを目的とする。 第一章では、神職組織の成立時期について検討した。まず、諏訪神社の由緒から、諏訪神社は近世期、新発田藩による整備によって確立した神社であることを確認した。また、神職としての活動は近世初期から、触頭としては18世紀初頭から、藩寺社奉行のもとでその活動が見られることを示した。さらに、触頭である諏訪神社についてはその統括する範囲について考察を行った。藩による神職統制についての検討などから、藩内には他に賀茂明神という有力社の存在があり、諏訪神社を触頭とする組織は、賀茂明神を除く藩内の神職を統轄するものとして成立したことが分かった。 第二章では、触頭である諏訪神社のもと、領内神職の組織化がどのような組織化がなされていたか考察した。触の伝達ルートからの検討からは、神職は領内をいくつかに分けて支配する新発田藩の郷村支配体制になぞらえる形で、寺社奉行以下〈触頭―各組神職―組下神職〉といった形での組織がなされ、時期については明確にはしえないものの、〈触頭―各組神職惣代(年番制)―組下神職〉といった体制がとられるようになったことを明らかにした。この組織は領内神職への伝達の他、組ごとに神職の宗旨帳が提出されていることから、領内神職の把握という面でも機能するものであった。また、〈触頭―各組神職惣代(年番制)―組下神職〉という体制のほか、新発田城周辺の三組(新発田組・五十公野組・川北組)においては、三組の神職を「山通」

「川通」と称する二つの単位に分け、藩の神事執行をきっかけとする〈触頭―幣頭(四家)―幣下〉という形をとる組織の存在を指摘した。 第三章では、前章で述べた〈触頭―幣頭(四家)―幣下〉について、その関係の転換をもたらした「宮内村佐々木加賀川通社家一件」(文化8年(1811)5月~文化12年4月)について検討し、三組における神職の組織化とその変遷について具体的な考察を行った。一件は、神事執行について、川通社家(新発田組・川北組)・宮内村佐々木の間で争われたものであり、本一件をめぐる双方の主張の根拠、及び触頭諏訪神社神主渡辺、佐々木家と幣頭である四家を構成する他三家(日下部・安藤・佐藤)、藩寺社奉行の対応、一件のもたらした結果について整理した。このことにより、三組内における触頭以下の神職の編成は、藩の祭礼の執行、また触頭職との結びつきを根拠に格式を主張する四家が、自身を幣頭として幣下神職との関係をもつという自律的な動向によるものであること、この関係の変遷は神職本所である吉田家の権威の受容をきっかけにもたらされたものであることを示した。ただしその後も藩権力や触頭との関係をきっかけとする社格については維持されており、この枠組みの中で吉田家権威が受容され変遷をみたものであるという、当該地域の神職組織における特質を明らかにした。 以上、本稿では新発田藩における諏訪神社を触頭とする神職組織を対象として、その実態や特質について検討を行い、とくに領内の城下周辺三組については具体的な様相を明らかにすることができた。しかし領内の他地域について、とくに上知がなされた地域の変

Page 13: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

13

化や、他有力社と諏訪神社の関係等について は、今後の検討課題として残された。

Page 14: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

14

近世初期における新潟の支配 田中 優花

本稿の目的は、新潟の三つの港湾都市における地子免除と諸役免除を比較検討することにより、これらの政策と都市発展殿政策との関係性の有無について明らかにすることである。 従来の地子免除の研究では、近世都市の建

設期にあたり、幕藩大名が採った優遇策としての地子免除政策は近世期を通じて特定町人町の特権的地位を維持し、その町人町の発展を支えたという考えや、地子銀免除作という形をとらずとも、徴収した地子銀を直接城下町支配のために投下するという形の優遇策もあったと考える見解もなされている。 このような地子免除政策についての研究

は、主に城下町を対象としており、港湾都市の研究が十分に検討されてこなかったことから、本稿では新潟町・寺泊町・出雲崎町の三つの港湾都市を比較検討した。 第一章では、今回対象とする新潟町・寺泊

町・出雲崎町の三つの地域について、現在位置や当時の支配変遷を自治体史中心に調べていった。 第二章では、新潟町の地子免除は対象者の

範囲は狭く、非常に限定的であったことから都市発展政策とは言い難かったこと、寺泊町の地子免除は人口確保を意図した一面が見られるものの、実施期間が一年と限定的であったため、近世を通じた都市発展政策とは言い難かったこと、出雲崎の地子免除も対象範囲が狭く、実施意図も仁行を集中させることで都市の発展を図るものではなかったこと

が分かり、三つの地域で行われた地子免除は近世期を通じた都市発展政策とは言い難いものであることが分かった。 第三章では、新潟町の諸役免除は町の家数

を増加させる意図が見受けられた都市発展政策であったこと、寺泊町の諸役免除は対象者が限定的であり、都市発展政策とは言い難かったこと、出雲崎町の諸役免除は町人の反対意見が通った結果であり、都市発展政策とは言い難いことが分かった。また、諸役免除の中でも新潟町の沖の口船役の免除、寺泊町の沖の口課税品目が少なかったことは、着船数との関わりがあり、商業発展を意図した都市発展政策であったことが分かった。これらのことから、都市によって実施機関や実施意図、免除の対象範囲については当時の町の背景が各々で異なってくるため、一様に諸役免除が都市発展政策であるということは言い難いであろう。 これらのことから、本稿の目的であった地

子免除や諸役免除が都市発展政策であったかについては、各地域での背景が異なってくるため、地子免除・諸役免除=都市発展政策と一様に考えること自体が困難であると結論付けた。 その中でも、新潟町は近世初期という早い

時期に、支配者が自発的に行った誠意策であったことから、当時の支配者が如何に迅速に新潟町を発展させようとしたか、この政策が新潟町にとって大きな意義があったかが分かった。

Page 15: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

15

頸城平野の近世期割地慣行について 松永 大祐

当論文では、頸城平野における近世期の割地慣行について、上越市公文書センター所蔵の阿部家文書を用いて、旧吉川町伯母ケ沢村の割地慣行について考察を行った。第一章では、阿部家文書に残された割地に関する3点の史料を中心に伯母ケ沢村で行われた割地を具体的に考察した。史料Ⅰ「相定申田地公事替証文之事」(宝暦4年10月)は田地に関する史料で、当年に田地と居屋敷を鬮替えすることと10年毎に割替を実施することが記載されていた。史料Ⅱ「相定申証文之事」(宝暦10年8月)では畑地と野山の鬮替えの実施と割地に伴う土地の使用に関する詳細が記されている。史料Ⅲ「居屋敷畑色高割均覚帳」(宝暦10年8月)は、割地を行った結果を割り替えた土地ごとに整理された帳簿となっていて、この3つの史料を比較、参考にして割地の実態を考察した。実施された年について、史料Ⅰと史料Ⅱ、Ⅲの年代が異なる事や、史料Ⅰの10年後に「地割反別田数番付留帳」が作成されていることから、田地、居屋敷と畑地、野山の鬮割は別の年に実施されたことが分かった。史料Ⅱの本畑、切替畑、野山の鬮替えを行うことの他に書かれた内容も、山畑の使用についての取り決めが多く書かれていた。山林地を利用した切替畑の利用が他の村に比べて多い割合を占めていたこともあり、山間に位置した伯母ケ沢村が山林地の利用が重要な役割を持っていた様子が伺えた。第三章では、伯母ケ沢村において割地がどのような意味をもっていたのか考察した。当論文で扱った三つの史料で特徴的だったのが、名子が割地に関係していることであっ

た。割地は、自然的悪条件や村請制による近世貢租の収奪体制による土地の均整を目的として行われたものであり、本来の割替権者は年貢負担者である本百姓とされてきた。そのため、無高百姓である名子には割地による土地の割替は行われなかった。しかし伯母ケ沢村では、名子には土地を割り替えた様子が伺える。居屋敷、引山、引畑について鬮引きは行っていなく、文書の文章内にも「地均」と記載されているため、割地とは別に土地を割り与えたと考えられる。だが、史料Ⅲも「銘々面割名子共」では村の百姓と名子全員で山地を鬮替えした記録が残されていた。土地は少ないながらも名子が鬮替えを行った例はほとんどなく、伯母ケ沢村特有の例であった。他にも、史料Ⅱの最後に百姓に続いて掛持支配人名子と名子に区別して名前が書かれていた。本百姓より持高が多い掛持支配人名子も存在することから、本百姓と掛持支配人名子、名子の階層分化が村内にあったことが考えられる。史料Ⅲの取り決めでは新棟増加を禁止することも書かれており、伯母ケ沢村は限られた土地の中でも名子を含め自立経営ができるように割地を実施したと考えられる。割地制を近世村落の特質の中に見出し、社会的要因を主原因にし、自然的条件を従原因に考えるべきという先行研究があるが、伯母ケ沢村においては異なる考え方ができる。村請制による社会的要因はもちろんであるが、伯母ケ沢村では土地柄の自然的悪条件への対抗策として割地制が存在し、割地制によって百姓の小農自立の安定を図ったといえるだろう。

Page 16: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

16

1930年代新潟県の飛行機献納運動について 石竹 栄彦

本稿は、新潟県での飛行機献納運動を検討の対象とし、飛行機献納運動について、運動を進める主体ごとの相異、またはその関係性に留意しその実態を解明することを目的とする。 第一章では、飛行機献納運動の全国的な動

向を整理した。宮城県、群馬県の例では、献金額の高さが故に「自発的献金」から「強制寄附」へと変化しその後は運動が順調に進む一方、山梨県のように慰問熱高揚と農村窮乏が時期的に重なることで運動が思うように展開しない事例も存在した。新潟県では、長岡市、県消防組、全国児童軍用飛行機献納をはじめとする独自の運動と、県が主導する愛国飛行機献納運動(愛国運動)の二つの流れに分けることができる。前者は計画から飛行機献納まで短期間で達成している一方、後者は農村不況により順調に運動が展開していかないことが明らかとなった。 第二章では、愛国運動とは別枠の独自に展

開される運動として長岡市、全国児童軍用飛行機献納運動に注目した。長岡市は反町栄一が中心となって、一団体の寄附に依存するのではなく、市内全層から寄附を募ることを想定していた。運動自体は最終的に4万5千円を超える寄附金を募り、長岡の事例は計画から献納までを僅か2ヵ月で達成し、全国的動向と比較してもその早さが特徴的であった。全国児童の飛行機献納に関しては、新潟県及び市教育会が運動の発端となり全国に波及していくこととなるが、全国各地でおこる地方的計画(新潟であれば愛国運動)に対し、全国的計画である同運動を重視していることが

明らかとなった。 第三章では、第一章を踏まえ愛国運動に伴

う割当献金に対し市町村レベルではどのように対応しているのかを新潟市、石山村を例に考察した。新潟市全体では富裕階級による寄附を求めようと所得税に基づいて献金募集を図ったが、富裕階級による寄附が進まない中で、戸数割に基づいた方法と市内を12区に分けて献金を募る方法に変更され、ここから富裕階級だけではなく市内全層から寄附を募るようになったことが明らかとなった。石山村では、在郷軍人分会員や青年団員のみに寄附醵出の負担が集中してことを問題視されており、そこで各大字に戸数割納額に基づいて割当額を決めることで村内全域から寄附を募る方法を採った。結果として全大字で拠出額に約二割の増加がみられ、県下の割当完納状況と比して石山村の特異性が示された。 各章の考察を踏まえ運動主体の関係性を

みていくと、新潟市が長岡市の運動を強く意識して運動を進めていること、全国児童軍用飛行機献納運動では地方的計画と比してその優位性が主張されていることから主体間において、一方が他方を意識することが運動進捗に影響していることを指摘した。この点は従来自発か強制かという観点で論じられてきた飛行機献納運動に新たな視座を提示したと言えるのではないだろうか。今後の展望としては、県市町村や民衆が関わる戦争協力活動について包括的に論じ、1930年代の戦時動員体制の形成過程を明らかにすることを課題としたい。

Page 17: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

17

戦後における有田八郎に関する一考察 佐藤 夏波

本稿の目的は、先行研究では明らかになっていない戦中・戦後の有田八郎の動向について新潟県に関することを中心に明らかにし、有田と同じ外務官僚出身で戦後政治復帰を果たした吉田茂・重光葵との関係に注目しながら有田の動向を論じることである。 第1章では、外務大臣退任から、公職追放

を解除されるまでの時期の有田の動向について明らかにした。前提として1930年代の外務省に存在したグループについて述べたうえで、戦前における有田の外交思想について述べた。有田は戦前・戦中を通して、終戦工作を積極的に行っていたことが明らかとなった。吉田や重光も有田と同様に終戦工作に乗り出していたが、有田は吉田や重光とは異なり、工作に乗り出した要因として戦争に対する自身の責任という点も作用していたことを指摘した。公職追放中における有田の引揚運動について概要を述べたうえで、モンテンルパ戦犯の帰国に有田が大きく寄与したことを明らかにした。また、従来有田が引揚運動に興味を持った理由として、元外相の責任及び息子のソ連抑留が挙げられていたが、有田が戦中に行った敵国在留同胞への支援活動を行っていたことも引揚運動に興味を持った要因であることを指摘した。 第2章では、戦後新潟県における有田の動

向を明らかにした。第1節では、只見川電源開発問題の概要を明らかにしたうえで、有田と同問題との関連を明らかにした。第2節では、佐渡鉱山の縮小問題の解決と有田八郎の関連について佐渡の地方新聞である、『佐渡新報』を用いて明らかにした。鉱山の縮小そ

のものを食い止めることはできなかったが、町側と会社側の間を取り持ち一定程度の賠償を引き出し、問題を解決した有田の功績は相川町にとって決して小さいものではなかった。第3節では、有田が昭和28(1953)年衆議院議員選挙について考察した。選挙の得票を分析した結果、実兄である山本悌二郎の地盤を部分的ではあるが呼び起こしていたことが明らかとなった。加えて超党派的な立場から立候補し支持を受けていたことが当選の要因になったことも分かった。また、上記の引揚問題への寄与や、佐渡鉱山の縮小問題を解決した功績が得票に結びついたことも明らかになった。 本稿で明らかにしたことから、戦後におけ

る有田は積極的に政治復帰することを企図していたわけではなく、他者から頼まれたり、担がれたりして表へ出て行ったということが分かり、積極的に政治復帰を果たそうとした吉田や重光とは異なることが明らかになった。戦前、有田は外務大臣を務めていたことにより吉田や重光とは異なり戦争責任を感じていた。従って、有田が吉田や重光と大きく異なっていたのは、戦前外務大臣を務めたことによって戦争責任を感じていた点である。また、有田が行った外交に対する自らの評価と地域の人々の評価が正反対であるという点も有田の特徴だと言える。以上の理由から、戦後の有田は同じ外務官僚であった重光や吉田とは異なり、自ら表へ出るというよりは頼まれたり担がれたりして表へ出ていくという道を歩んだと結論付けた。

Page 18: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

近代のカフェーと女給~都市部におけるカフェーと女給、新潟におけるカフェーと女給を参考に~

嶋田 佳那子 本稿では近代におけるカフェーと女給をテーマとし、都市部におけるカフェーと女給、新潟におけるカフェーと女給にそれぞれ焦点を当てた。 第一章の前半では都市部における女給の実態を分析するということで明治期から昭和期前半までの女給を、政府側の資料と考現学的な資料から分析した。第一章の後半では女給の取締と取締に関する反応を分析した。分析する前の前提として全国のカフェー増加率を見た。さらにそこから東京・大阪の取締の流れを追った。東京に関しては昭和4年がカフェー取締の契機となっていることが判明し、大阪でもまた昭和4年に一つの大きな流れがあったことが判明している。第一章では都市部のカフェーを中心として細やかな分析をした。 第二章の前半では新潟におけるカフェーと女給の特徴を見るために、政府側の資料を用いて数値上からその特徴を分析した。カフェーと女給それぞれを見ても新潟は県で見ると関東圏と比べて目立って多いわけでもなく、突出して少ないということも無かったが、都市別に見ると高田はやはりカフェー数からカフェー・女給共に数値の低さが伺えた。第二章の後半のほうでは東北時報を軸として女給に関する記事を収集し、新潟における女給の流れを追ってみた。都市部と異なり、カフェーの姿を見るのは大正期からである。しかし東京のようにインテリ的空間というよりもすでに風俗的側面として問題視されるような要因が含まれていた。カフェーの成

立自体が、こういった点から東京と新潟とでは少々異なっている。さらにその後の流れを見てみると、一時は都市部同様の盛り上がりを見せるが昭和6年頃になるとカフェーへの飽きや不況の記事が目立つようになる。また風紀的な問題が指摘されてから新潟において具体的な取締規則が制定されるまでかなりの期間を要しているようにも思え、都市部と比べるとカフェーへの対応がかなり遅れていることも判明した。 この論文を通して、今まで行われてこなかった研究として数値上のデータから特質を見抜こうとした点が挙げられる。今回のように人口比率まで求めることによってより緻密な特徴というものが各県、各都市部で見られた。さらに地方における女給の実態というものはほとんど触れられたことがなかったため、記事からの収集という形にはなっているがこうして一つの流れを追うことが出来た。 今回の論文ではあくまで新潟のカフェー・女給の特徴を数値上に表したうえで、東北時報の記事を中心にその実態を追っていくことまでしか出来なかったが、新潟における芸妓と女給、また古くからの遊郭と新たな風俗であるカフェーとの折り合いなども課題となってくるだろう。また新潟におけるカフェーの起源に関しても今回は新潟新聞でしか明治期のものを確認しなかったため、他の資料も参照し、より精度を高めることが今後の課題となる。さらに新潟だけではなく、今回調べていて群馬県の女給とカフェーの人口

Page 19: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

19

比率に対する数値の高さも気になった。関東圏内において東京や横浜に次ぐ数値が見ら

れたが、これは何が要因であるのかという点も課題として挙げられる。

Page 20: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

20

農村経済更生運動と報徳思想 ―新潟県旧黒埼村を事例に―

島田 三貴也 本論文は、新潟県旧黒埼村(以下、黒埼村)における農村経済更生運動の実態を明らかにすることを目的とする。昭和恐慌による農村の疲弊を契機として、1930年代に全国的に農村経済更生運動は展開していくが、黒埼村の農村経済更生運動は、報徳思想と密接に結びついている点に特徴があるため、報徳思想との関係を分析することで考察を進める。 第1章では、昭和初期の黒埼村の概況を整理し、黒埼村にどのように報徳思想が導入されたかについてまとめた。当時の黒埼村は、外からの指弾や村内の政争によって財産を失い、さらには世界的不景気の影響によって農村部の負債が膨れ上がり、農村部は窮乏していた。そこで更生運動に動き出し、昭和9(1934)年に県の経済更生指定村になり、翌昭和10(1935)年に更生計画が樹立された。また黒埼村に報徳思想が導入される契機は、宗村卯市が国民生活建直し講習会に出席したことであり、昭和8(1933)年に立仏報徳社が結成され、翌年には全村に報徳社が普及していった。 第2章では、まず黒埼村の更生計画を概観し、黒埼村の経済更生運動の中で報徳社と結びつきが強かった負債整理事業を、大字黒鳥を例に、負債整理組合が報徳社とどのように関連してくるかについてまとめた。黒鳥の負債整理組合では本来負債整理事業に抵抗的姿勢をとるはずの債権者達が自発的に負債を整理する動きが見られた。負債整理組合と報徳社との関連については、負債整理組合に報徳社を強制的に結びつけようとする動き

が見られた。また負債整理事業は、負債整理組合の指導精神に報徳思想を導入することによってその後の事業がスムーズに展開していったことがわかった。さらに黒鳥における負債整理組合設立の背景を概観した結果、字民が負債整理組合を受け入れることができた理由については、従来からの党争が緩和し、字民の中で農村更生の気運が生まれていたという背景があったからということがわかった。また党争緩和については、それまで対立関係にあった政友派と民政派が水利問題を解決するために同調したことで党争が緩和され、農村更生の気運につながっていった。 第3章では、報徳思想の根幹部分といえる「一円融合」について概観し、そこから更生運動とどのように結びつくかという点を考察した。その結果負債整理事業の根本精神である「隣保共助」をより強固なものとするための裏付けのイデオロギーとして「一円融合」が存在し、この関係が更生運動と報徳思想を結びつける要因となった。 第4章では更生運動や報徳思想が黒埼村においてどのような影響を及ぼし、どのように機能していったのかについて考察した。黒埼村では旧来の支配秩序の担い手であった政友会派が、イデオロギーとして報徳思想を利用し、更生運動をリードすることで巻き返しを図り、最終的には村政の支配秩序として再編を果すという動きが見られた。黒埼村における更生運動は、村の有力者である報徳思想の担い手たちが主導した更生運動であり、ま

Page 21: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

21

た報徳思想を用いた更生運動を通じて村政の担い手として再編を果すというもので、こ

れまでの説とは異なる新たな説であるといえるだろう。

Page 22: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

22

新潟県における農民運動と地域社会 塚田 楓菜

本稿の目的は、1920~30年代における農民運動の展開と地域社会の政治的・社会的変化との関連を、当該期における新潟県南蒲原郡を対象地に明らかにすることである。小作争議研究に代表される農民運動と、地域政治の中で地域的公共への「参加」をめぐる地域社会の人々の動向やその内部における対抗との関連とその意義の検討を課題とし、小柳作市をめぐる状況の変化を中心に検討する。 第1章では1927年の県会議員選挙(以下、県議選と略す)に関する動向を中心に、南蒲原郡における小柳と労働農民党(以下、労農党と略す)の位置付けを行った。南蒲原郡では大正10年頃から小作組合が結成され活動が行われている中、中央の組織から稲村隆一や三宅正一が農民運動と政治的組織化に関わるようになる。小柳は労農党から出馬し次点となるが、その選挙では小柳だけでなく農民運動に関わる人々がそれぞれの支持を受け、また労農党、小柳支持の大きさや、得票における組合組織の結成度合や既成政党への支持が影響している可能性を指摘した。 第2章では1927年から1932年頃の社会的変化を、全国農民組合(以下、全農と略す)の組織内部における政党支持問題や農民運動における青年部の活動の活発化という要素から、南蒲原郡における諸勢力の動向を明らかにした。前者に関して全農新潟県連合会や全農南蒲原郡支部では、新労農党支持や組織分裂防止という共通の態度がみられた一方、南蒲原郡における青年部は、労農派青年部と、左派の態度を示す吉田兼治を中心とし

た向上会をはじめ嵐北地区青年部の存在を明らかにした。後者に関して嵐南を主とした帯織・山王の争議における青年部の活動の活発化を指摘した。これらの側面は農民の生活を第一に考える闘争としての農民運動から乖離する状況となっていた。 第3章では1931年の県議選における無産勢力の選挙活動の動向と、小柳の全農除名と政党変更における農民運動に対する認識を明らかにした。南蒲原郡では全国労農大衆党から小柳が出馬し、選挙活動や選挙結果において特に嵐南地方の農民運動の影響があることを指摘した。小柳は全農除名やその後の国民同盟入党の際、全農の農民運動を批判し今後は農民の生活に根ざした運動を行うと表明したが、小柳は組織の中核にいたため、政党支持問題における組織内部の対立の先鋭化や争議の激化等の影響を受けていたと考えられる。 以上から、新潟県南蒲原郡では無産勢力による組織化によって農民運動の活発化を促し、また無産政党として地域的公共への「参加」は成功したといえるが、その無産勢力の組織としての動向と小柳の考える農民運動にはズレが生じていたことが明らかになった。これは、地域における無産勢力による組織化の影響力の大きさと重層性に対する留意を促す一事例といえよう。しかし、主に各勢力の動向の解明にとどまり、それぞれの社会背景や社会構造との関連、その意義の検討は今後の課題としたい。

Page 23: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

23

敗戦直後の女性運動家と家族 ―田中キン一家を事例に―

外山 麻由子 本稿の目的は、新潟県柏崎地域で女性運動家として活動していた田中キン一家を事例に、キンとその家族の関係性について考察することで、女性運動家がどういった背景のもと活動できていたのかという点と、近代における地方の女性運動家の家族の実態がどのようなものであったのかという点について明らかにすることである。 第一章では、キンとその夫である季次郎の経歴と人となりについて明らかにした。キンと季次郎は共に裕福かつ政治を身近に感じられる環境に育ったことがわかり、特にキンに至っては廃娼運動に熱心な父親がいたため、そのことがキンの女性運動家としての活動に少なからず影響した可能性があると指摘した。また対照的な性格の二人であったが、共に地域で認められた人物であったことが明らかになった。 第二章では、キンの活動の詳細について明らかにした。戦前のキンは婦選獲得同盟の刈羽支部長を務める傍ら、同盟の中央部でも活躍していた。戦後は新日本婦人同盟柏崎・刈羽支部を結成するため、戦後間もない時期から熱心に動き、結成後はその支部長となった。婦人参政権確立後は衆議院議員選挙に出馬した候補の選挙応援を行い、キン自身も県会議員選挙に立候補した。キンが「女性の地位向上」という変わらぬ思いをもち、戦前から戦後までの長い間、柏崎地方における婦人運動の中心的人物として活動し続けたことが

明らかになった。 第三章では、季次郎の日記をもとに昭和20(1945)年から昭和22(1947)年までの田中家の動向を整理し、そこからみえるキンと家族の関係性について考察した。この時期キンと同居していた夫の季次郎とキンの息子の嫁であったツヤ子はキンの活動を理解し、彼女を支えていた。またツヤ子が日々忙しく出歩くキンの代わりに家事の大半を担いながら、キンの活動の手伝いも行っていたことがわかり、従来の研究では殆ど焦点があてられてこなかった、女性運動家を支える夫以外の家族の存在の大きさが明らかになった。キンの家族は性別関係なく家事には協力的であり、また活動が忙しいなかでもキン自身に家庭を顧みる一面があったことなどから、キンとその家族は互いを思いやり支えあう関係性であったと結論付けた。またその一方で、日雇い人に家事手伝いやキンの活動の手伝いを頼むこともあったため、家族以外の周囲の人々の力もキンにとって大きな支えになっていたと指摘した。 以上より、田中キンが女性運動家として活動ができた背景には家庭環境と家族が大きく関わっていたことが明らかになった。また女性運動家であるキンがいた家族は、キンの行っていた婦人運動の目的の一つである「家庭における男女平等」がある程度成立していた家族であったことも明らかになった。

Page 24: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

24

戦前新潟における民衆とスポーツ 髙橋 悠人

本論文の目的は、戦前の地方都市における民衆とスポーツの関係性と新潟における特有のスポーツ熱の広まり・定着の過程を明らかにすることである。 第一章では近代スポーツの導入と普及に

ついて、中央における体育の展開と新潟における体育の展開を整理し、①明治期の時点で盛んにスポーツが行われる環境にあった中で、市内三校ボートレース事件などをきっかけに早くから勝利主義でなく精神鍛錬を主とする運動精神による体育の普及が叫ばれていたことで、大正期において自由教育思想に基づく遊戯・競技重視の声が上がってきても体位向上と抱き合わせで精神的側面重視の指導がなされたため、都市部で見られた素行の悪化といったことは表出しなかったこと、②都市部で思想善導の手段として注目され政策レベルでスポーツが奨励されるようになっていく以前から、思想善導を結び付けた体育普及の下地が存在していたことを明らかにした。 第二章では新潟におけるバスケットボー

ルの展開について検討した。①新潟では既に野球とテニスが球技スポーツの花形として人気を博していたが、雪国にとって最適の運動として教師たちの熱心な指導によって導入されていくこととなり、性質上広大な土地を必要とせず、ルールを柔軟に変更できるため女子体育や小学校体育としても奨励され、体操科の正科種目としても採用されたことで、選手だけでなく多くの生徒児童が屋内外で行うことができたことで急速に普及して

いったこと、②簡易用具が登場し安価に道具を準備できたことに加え、県内のレベルが全国トップクラスであり、対校試合、新聞社主催の大会、明治神宮競技大会などの試合が「ビッグイベント化」したことで、人々を熱狂させ全県的な旺盛さが見られたこと、③教育界はじめ新聞社や競技者も精神的側面の自覚に基づき普及してきたバスケットボールはマナーが特によく、高い熱を持ちつつも合理的な普及が進んで籠球王国が築き上げられていったことなどをまとめた。 第三章では体育統制の展開について検討

した。新潟でも訓令に基づく統制が行われたが、日本が戦時色を帯びていく中でもバスケットボール界は黄金期を迎えたほどだったことから、全国トップレベル且つ精神的側面と抱き合わせで普及してきた競技は、運動熱の行き過ぎを戒め合理的振興を図るという中央の意図に初めから適った展開がなされており、統制の訓令が出されても形骸化したことで、ほかの競技が下火になっていく中でも戦時体制下ぎりぎりまで競技文化を残すことができた可能性があったことを述べた。 普及の担い手の違いによりその地域にお

けるスポーツの性格が異なるものとなる可能性があり、行政・教育・民衆の各主体が体育の精神的側面を重視して普及されたことで、合理的ながらも高い熱を以て受け入れられていたことを提示できたことは、わずかながらも戦前における地方都市の体育界の性格を解明しスポーツを歴史的に表象していくことに寄与できたと考える。

Page 25: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

25

鉄道敷設に伴う社寺参詣の変化と地域社会 —弥彦神社再建を事例として—

保坂 駿 本稿では、近代において社寺参詣がどのよ

うに変化していったのかを、弥彦神社を対象として明らかにしていく。 第一章は、弥彦神社遷宮式までの三者の動

向を整理している。第一節では、弥彦神社の再建と高松四郎宮司の意向の関連性について明らかにした。高松は、再建に当たって宗教施設としての荘厳さを保つために風致を整えることを重視した。また、越後鉄道によって県外からの参詣客が増えることに期待していたが、それは高松が参詣客数=神社の実績だと考えていたためであろう。第二節では、越後鉄道株式会社設立から弥彦支線開通までの流れを整理した。越後鉄道本線と違って、弥彦支線は弥彦への参詣客を輸送する目的で敷設された。ただ、弥彦支線開通前も弥彦参詣を促す割引を行っており、越後鉄道が営業を進めていく中で、弥彦参詣の影響力に期待するようになったと考えられる。第三節では、遷宮式までの弥彦村と弥彦神社の関係性について明らかにした。自らの利益を最優先する者もいたが、弥彦村民の多くは弥彦神社への敬神を抱いていた。 第二章は、遷宮式以後の三者の動向につい

て整理している。第一節では、先行研究で挙げられている社寺と弥彦神社の違いについて触れながら、再建記念事業についてまとめた。先行研究にある社寺では、鉄道会社を積極的に利用して参詣者を増やしていたが、弥彦神社では鉄道会社を利用せずに基本的に

単独で社会活動に力を入れていた。これらの事業を通じて県人からの信仰を集め、弥彦神社を維持させようというのが神社側の狙いであった。第二節では、弥彦支線開通後の越後鉄道の事業について整理した。新市街地の整備や弥彦公園の造園がすぐに計画されたが、これは弥彦神社の参詣客を引き留めるためのものであった。他にも参詣者への割引が何度も行われており、弥彦参詣を利用して越後鉄道の事業は進められたと言える。第三節では、遷宮式後の弥彦村での動向や、字民の意識の変化について明らかにしていった。弥彦村では、弥彦神社参詣を利用して宣伝等を行っていた。旅館の整備は充分だったようだが、特産物の産出については村を挙げての課題としている。観光面に力を入れていく中で私益を優先するようになり、弥彦神社への敬神は薄れて、神社と地域社会の関係に軋轢を生んだのである。第四節では、三者の関係性を踏まえた上で弥彦参詣がどのように変化したのかを明らかにしていった。遷宮式以前の弥彦神社は、参詣者の多くが県内の崇敬者であったが、弥彦支線開通により、参詣者の層が広くなり参詣者数が急増した。越後鉄道や弥彦村が弥彦神社を利用して事業展開したことで、弥彦参詣客は不景気の中でも毎年のように増加していた。また、神社参詣のルートに運動場や弥彦公園が加えられ、新たな弥彦参詣の形態が生み出されたのである。

Page 26: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

26

清代中後期における清朝の棚民対策 阿部直明

清代では地丁銀制の導入やサツマイモ・トウモロコシなどの新作物の導入によって人口が飛躍的に増加し、それに伴って中国各地で移民が盛んに行われた。これらの移民先は中国全土に留まらず海外にも及んだが、いずれも移民の流入の過程で現地の先住民(以下「土著」と記す)と軋轢が生じ、多くの問題が起こった。これは中国の山間部に移住した「棚民」に関しても当てはまり、棚民の科挙受験や居住地の治安問題などが起こっている。本稿ではこうした移民の一形態である棚民に着目し、棚民に対して清朝政府が講じた対策を史料から考察し、当時の移民情勢の一端を明らかにしようとするものである。 第一章においては棚民の科挙受験につい

ての問題を特に対立の激しかった江西省の地方志や档案史料などを中心に考察した。科挙受験に際しては合格者の定員数の変遷や科挙試験のボイコットが発生しており、これらについて考察することで当時の対立の詳細やその背景を明らかにすることが出来たと考えられる。また、これらの対立について講じた清朝政府の対策は可能な限り現状に沿うように考慮された調停的性格を持ったものではないかと考察を行った。 第二章においては棚民の居住地における

治安問題について『清実録』の記述を中心にし、講じた対策の考察を行った。問題が生じた地域や状況によって多少の差はあるもの

の、棚民の治安対策は「保甲への編入」「本籍地への帰還指示」「軍隊による治安維持」の三種類を状況に応じて用いていたと言える。 第三章では清朝の棚民対策の全体像につ

いて言及し、第一節では史料における対策が講じられた地域の偏りについて、第二節では対策の根幹について考察を行った。『清実録』をはじめとする史料での棚民に関する記述は中国の南方地域に極めて多い傾向がある。北方地域との差が生じる原因については棚民が流入する山地面積の違いによって生じると考えられ、そのため北方に比べて山地面積が多い南方地域に棚民が集中して記述が偏ったと考察した。また、棚民対策の根幹には治安対策に見られるように既存の制度を活用して流動性の高い棚民を清朝の支配下に組み入れることがあったと考察を行った。 以上のように本稿では清代を通した棚民

に関する史料を精読し、科挙受験や治安問題など棚民に関する問題について考察を行うことで当時の棚民の詳細な状況を明らかにしつつ、清朝政府の棚民対策とはいかなるものであったかを明らかにした。無論、本稿で明らかに出来なかったことも数多くあるが、本稿の試みによって棚民に関してのみならず、清朝政府が移民問題に関していかなる姿勢で臨んでいたかについてその一端を明らかに出来たものと考える。

Page 27: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

27

1930年代朝鮮における女性のスポーツ活動―新聞記事を中心とした朝鮮女子体育奨励会の事業分析―

髙濱伶奈 近代朝鮮における女性のスポーツ活動に

関する先行研究では2つの課題が挙げられた。1つは、女学生に焦点を当てた研究ばかりで、一般女性に目を向けた研究が管見の限り見当たらないということである。もう1つは、朝鮮女子体育奨励会の活動内容の詳細が具体的に明らかとはなっていないということである。朝鮮女子体育奨励会とは、1930年代に活動した朝鮮唯一の女性体育団体で、卓球大会と氷上競技大会を主催した。本会の主要会員には梨花関係者・民族指導者が多く、民族主義的体育を奨励した朝鮮男性主導の体育団体「朝鮮体育会」の支部的役割を持っていた。また、本会は一般女性に対しても体育・スポーツ活動を奨励したことが分かっている。以上、2つの課題より、本論文では、朝鮮女子体育奨励会の事業分析を行うことで1930年代朝鮮における(女学生に限定しない)女性のスポーツ活動を明らかにすることを目的とした。研究対象は主に、主に新聞記事の記述とした。なお、本論文では、朝鮮女子体育奨励会の活動時期を歴代の会長3名(就任順に趙東植、金活蘭、独孤璇)の任期で3等分し、それぞれを初期・中期・後期としている。 初期(1930年5月20日~1933年4月26日)に

おいて確認できた事業は「女子体育奨励講演会」のみであった。講演内容の分析の結果、当時の本会が、「2世国民の母・国家の母・民族の母という使命を果たすために女性は健康でなくてはならない」という趣旨で民族主義的体育を奨励していたことが分かった。

中期(1933年4月27日~1936年6月17日)において確認できた事業は「女子体育奨励講演会」「第1回~第4回全朝鮮女子卓球大会」「第1,2回全朝鮮女子氷上競技大会」「体育教員懇談会」であった。中期では会長金活蘭により「一般女性にも体育・スポーツを奨励する」という方針がとられ、特に卓球大会において大きな成果を上げた。卓球大会では参加資格を女学生に制限せず、むしろ女学生以外の積極的参加を求めたのである。その結果、参加主体は学生でありながらも、女学生ではない、家庭婦人・職業婦人の参加をいくらか確認することができた。 後期(1936年6月18日~1938年7月4日)で

確認できた事業は「女子水泳講習会」「第5回全朝鮮女子卓球大会」「第4回全朝鮮女子氷上競技大会」であった。このうち「女子水泳講習会」は本会の事情によって中止となった。この時期は時局柄、中期ほど女性のスポーツ活動は活発ではなかった。1937年日中戦争が勃発し、日本は国家総動員法を制定して朝鮮人を動員し、朝鮮の統治スローガンを「内鮮融和」から「内鮮一体」へと改め、皇民化政策を展開したのである。また、この時局柄が決定打となり本会は解散に追い込まれ、本会の朝鮮女性への体育・スポーツ奨励活動は終了した。 以上、本稿では、朝鮮女子体育奨励会の事

業を主に新聞記事より分析し、当時の女性スポーツの主体であった女学生は勿論のこと女学生以外の一般女性のスポーツ活動の一端も明らかにすることができた。

Page 28: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

28

カラヴァッジョの人物表現に関する一考察 ―自画像を中心に―

加藤 洸 本卒業論文の目的は、バロック期のイタリアを代表する画家カラヴァッジョが描いた数点の自画像には、どういった目的があり、どのような効果を発揮していたのかを総括的に明らかにすることである。特に、それまでの自画像の歴史や類型と比較することで、カラヴァッジョの自画像の特殊性を明らかにすることを目指した。 第1章では、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571—1610)の生涯を概観した。本稿では画家の生涯を三つの期間に分け、第1章第1節から第3節と、第3章第2節から第4節とを同じ年代で区切った。 第2章では、西洋美術史における自画像の歴史と分類を確認した。14世紀以降、宗教画の中に画家や彫刻家の姿が現れるようになったのが、本格的な自画像の歴史の始まりと言える。文化の担い手が教会から都市と宮廷へと移っていったことや、人文主義の勃興で、芸術家は自意識を高め、自画像の作例は急激に増加していく。また、美術史家の三浦篤氏は、自画像を以下の四つに分類している。「列席型」は宗教画のような物語的場面の中に画家が登場するタイプで、自己表明や物語内容の紹介といった役割を持っている。「変装型」は、画家が、物語的な場面の中に主要人物の一人や脇役の一人として、仮装した自らの姿を描きこむタイプである。「研究型」は、その名の通り自分をモデルにして身振りやポーズ、表情などを観察し、研究するための自画像であり、最後の「独立型」は、私たちが一般に想像する「自画像」というものにもっと

も近く、画家単体の肖像画として描かれた作品で、芸術家自身の人間像をよく表現したものを指す。 第3章では、カラヴァッジョが描いた作品の中で、自画像が描かれていると判断できる七つの作品を選定し、分析した。第2節で《病めるバッカス》(1594年頃)と《合奏》(1595年頃)を、第3節で《聖マタイの殉教》(1600年頃)と《キリストの捕縛》(1601年)を、第4節では《ラザロの復活》(1609年)と《聖ウルスラの殉教》(1609年)、《ダヴィデとゴリアテ》(1610年)を取り扱う。《聖マタイの殉教》、《キリストの捕縛》、《聖ウルスラの殉教》に現れる自画像では、画家の強い視線が物語の重要な場面に向けられている。本稿では、この三作品の自画像を新たに「目撃型」と呼称した。他の四作品については従来の「変装型」に分類している。 以上の考察から、カラヴァッジョの自画像には、現実に存在する画家が画面に登場して緊迫の瞬間を目撃する様子を描くことで、鑑賞者が感じる物語の現実味を高める効果があることがわかり、そのような自画像を「目撃型」と呼ぶことで、カラヴァッジョの革新性を表現しようと試みた。対抗宗教改革の中で、美術作品はただキリスト教の教義を説明するだけでは不十分なものになりつつあり、観者に主題の内容を追体験させ、ヴィジョンを見せるなどの霊的体験を起こさせるものが必要とされた。この状況において、カラヴァッジョの「目撃型」自画像は、彼の他の類まれなる表現と合わさることで、キリスト教

Page 29: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

29

信者に作品内の物語を現実のこととして最 大限受容させる効果を有していたと言える。

Page 30: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

30

女性画家による歴史画の考察 栗林 芽生

1770年代にスイス出身のオーストリア人女性画家アンゲリカ・カウフマン(Angelika Kauffmann,1741-1807)がロンドンで制作した絵画作品の一つに、《パリスを戦場へと誘うヘクトール》(以下《パリス》)がある。これは、ギリシア神話の一場面を描いた歴史画であり、画面の左側から順に3人の侍女とヘレネ、パリス、ヘクトールが描かれている。制作当時は《パリス》を含めてその時代の戦争と古代の戦争を重ねた主題の作品が多く、戦場の男性と銃後の女性を描いた表現が多く存在していた。また、教育環境が制限されていたことも影響して歴史画は女性画家から遠ざけられていたが、《パリス》は女性画家カウフマンによる歴史画である。彼女は《パリス》において単に貞節や忍耐の代名詞とされるような女性ではなく、叙事詩によっても解釈や態度に差の見られるヘレネという女性、そして、家庭で働く女性の姿として侍女たちの姿を描いている。銃後の女性に重ねられる存在としてカウフマンが彼女らをどのように表現したのか考察することは、当時女性画家が歴史画の中でどのようなジェンダー的役割を示そうとしたのか知る手がかりになると考えた。そこで、本卒業論文では、カウフマンの経歴及び歴史画という主題と作品におけるジェンダーの役割との関連性について、女性画家の描いた歴史画である《パリス》を通して論じることを目的とした。 まず、第1章では《パリス》を制作していた

時代を中心としたカウフマンの経歴につい

て概観し、制作の背景を考察した。次に、第2章で絵画のジャンルである新古典主義、当時のイギリスの歴史画といった主題、様式の面について述べた。それらを踏まえた上で第3章では《パリス》の絵画表現について、ここでは画面上の人物を二つに分け、それぞれについて考察した。そして第4章では、《パリス》の作品全体を同様の主題で描かれた他作品4点と比較しつつ、歴史画の中で表象されたジェンダーに関する要素について述べた。 以上を通し、《パリス》には戦場の男性と銃

後の女性という対比に加え、家庭の女性と外で働く男性の対比関係も含まれることが明らかになった。そうした対比は当時道徳的な主題として社会から要求されるものであったが、《パリス》においてカウフマンは、公徳の道を夫に奨めて兄弟の間をとりなそうとするヘレネの姿や、家事に勤しむ侍女の姿をより明確に表現していた。また、カウフマンは自らが野心的に画家として活躍していくことを選んだが、その選択は女性にとっていくらか不利な環境であっても自身の実力を積極的に示し続ける姿勢へと繋がっており、男性的な選択であることを自覚したものだった。 このように、絵画に描かれた家庭の役割に

従事する女性、それに対し、社会に出て成功を目指す描き手としての女性という表現と描き手の関係を《パリス》の考察によって指摘し、女性画家による歴史画の一例として論じることができた。

Page 31: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

31

ヴェストファーレン条約における神聖ローマ帝国の皇帝の権力―オスナブリュック条約からの考察―

古木 貴裕 ヴェストファーレン条約とは、17世紀に起こった三十年戦争の講和条約である。この条約に関して、帝国の諸侯に主権を与え、統一された国家という型を失わせた「神聖ローマ帝国の死亡診断書」という伝統的評価がある。しかし神聖ローマ帝国が滅びるのは本条約が締結された1648年から約158年後のことだ。また、この伝統的評価を否定する研究が海外を中心に多く発表されている。日本でも同様の研究は発表されているが、海外に比べて数が少ないうえ、複数の一般書では未だにこの伝統的評価を繰り返している。 帝国の長は皇帝である。しかし私の見る限りではヴェストファーレン条約の研究の中で主な焦点を皇帝に当てている研究は少ない。このような研究状況と先述した国内の研究状況を鑑み、本卒業論文ではオスナブリュック条約の条文と履行状況の検討を通して、当時の皇帝の権力を考察することを目的とした。なお、オスナブリュック条約とは、ヴェストファーレン条約を構成する二つの条約の内の一つであり、その内容はもう片方のミュンスター条約と内容の多くが重複している。 第1章第1節では三十年戦争を4期に分け、それぞれの原因と終結について述べた。そうすることで、三十年戦争の複雑さを説明した。第2節では、まず当時の史料を紹介し、三十年戦争による混乱が様々な社会層に影響を及ぼしたことを述べた。その次に、オスナブリュック条約の中で取り上げられている、二つの具体的な問題を取り上げ、三十年

戦争の混乱が主に経済の衰退、宗派問題、継承問題にあったことを述べた。第3節では、オスナブリュック条約に大きく関わるスウェーデンの介入について取り上げ、スウェーデン軍の侵略が神聖ローマ帝国の領土とその所属関係を、皇帝とその臣下の関係を乱したことを述べた。 第2章第1節では、オスナブリュック条約の前文と第1条と第2条の内容から、ヴェストファーレン条約の目的が、三十年戦争によって生じた混乱や惨事を「忘却」、つまり忘れ、「恩赦」によって従来持っていた権利を回復させることにあったとことを読み取った。また、第3条以降の構造から、三十年戦争および本条約が将来の禍根とならないよう、可能な限り最終的な決着をつけようとする姿勢を読み取った。そして第2節から第6節では、オスナブリュック条約を5種類に分け、「ある義務が皇帝に課されているのなら、皇帝はそれを実行するための権力を持っている」という演繹的思考のもと、条文から皇帝の権力を考察した。 第3章では、第2章で取り上げた諸条項の履行状況の調査結果を述べた。その中には条約の規定に従って履行されたもののほかにも、履行されなかったものがあったことが分かった。 まとめでは第2章と第3章の内容を比較し、皇帝の実際の権力を明らかにしようとした。ヴェストファーレン条約の履行は多くが規定通りに履行され、その際皇帝の権力が機能したことが分かった。その権力は帝国国制

Page 32: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

32

上重要な役割を果たし、また、帝国の一体性を保証した。しかし、領土の継承のような、帝国に属する者に大きな利益をもたらしう

る問題では、皇帝の権力は十分に機能せず、当事者の実力が大きく影響したということを指摘できた。

Page 33: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

33

フランス革命初期における政治的表象の変化 ―「国民」の代表とパリの民衆が描いたルイ16世―

御幡 知佐 政治文化の立場をとった先行研究ではフ

ランス革命において国王の政治的身体は解体されたという点で共通した見解が見られ、ルイ16世(1754-1793;在位1774-1793)はフランス史における王権の衰退を象徴する君主ではなかったとする評価は疑問に思われる。そこで本卒業論文では、革命が共和政へと転換する過程において政治的身体が失われたことを明確化することを目指し、国王の政治的表象の変化について考察した。 第1章では国王の身体について先行研究を

概観し、アンシャン・レジームの国が物質的で可死的な自然的身体と、不可死で国家と権力の永続性を象徴する政治的身体の二つの身体をもつと指摘した。この政治的身体は非物質的であるため自然的身体と結びつき、聖性が強調されて政治的表象を形づくった。 第2章では「国民」の代表で革命の指導的

立場を担った議会における政治的表象の変化を考察した。1789年の法令や1791年憲法から、国王は「フランスの自由の再興者」であり市民社会を創出する立憲君主とされ、政治的身体は解体されたといえない。ヴァレンヌ事件を受けて革命派が分裂し、国王の政治的表象は91年憲法に肯定または否定するかたちでとらえた。第二の革命において議会は王政の廃止をためらったが、国民公会での裁判において国王は共和政と両立し得ない存在とされ、新しい体制は国家を体現する国王という政治的表象の克服を目標としたため、処刑によって国王の政治的身体を殺害した。

第3章ではパリ民衆による政治的表象の変化について考察した。1789年から1791年において国王は民衆の期待を集める親愛の対象であり良き父として表象された。しかしヴァレンヌ事件の前に疑惑が向けられ、事件後には国民への裏切りを「告発された王」として表象された。国王の政治的表象は革命に非協力的な姿勢を示すものとなったため、人々を革命の進行に駆り立てた。民衆によるティルリー宮殿への侵入によって国王は「酔っぱらいの王」となり、第二の革命後にはヴァレンヌ事件後の「動物化された王」を用いて王政の廃止が表象された。1792年以降の変化はサン=キュロットが革命に積極的に加わり、革命の路線が共和政へ転換することに影響を及ぼしたことを指摘した。 革命の開始時において国王の政治的表象

は「フランスの自由の再興者」で革命に協力的な「良き父としての王」であった。しかし議会において革命の路線が立憲王政から共和政へ転換し91年体制が破綻するなかで、国王の政治的表象は共和国と相容れないものとされ、処刑において自然的身体のみならず政治的身体を殺害した。一方、パリの民衆は国王にたいする疑惑や非難をもとに国王の政治的表象を侮辱化する過程において、国王の政治的身体を解体した。以上のように議会とパリ民衆において異なる方法で政治的表象が否定されていくことで、国王の政治的身体は喪失したといえる。

Page 34: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

34

ホロコースト研究の転換点 ~D・J・ゴールドハーゲンの研究についての一考察~

篠塚 大輝 「ゴールドハーゲン論争」は、アメリカの歴史家ダニエル・J・ゴールドハーゲン(Daniel Jonah Goldhagen)が1996年に刊行した著作『普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人たち――』がもたらした、ドイツ国内外で巻き起こった大論争であり、彼の従来のホロコーストにおける定説を覆すテーゼは多くの歴史家を憤慨させたほか、メディアの影響を通じ一般の人びとをも巻き込むこととなった。いわば、ホロコースト研究史における転換点の一つといえるだろう。本稿ではそんなゴールドハーゲンの主張、また論争について概観しつつ、概して歴史家たちに批判的な評価を受けているゴールドハーゲンの論議について、C.ブラウニングとの比較を用いてその妥当性を再考することを試みる。 第一章では、ゴールドハーゲンの主張、また論争当時の評価について述べる。彼が加害者の主な動機とするのは、ドイツ人の「抹殺的反ユダヤ主義」であり、それはナチス時代以前からドイツ社会に根付いていた、と主張したが、それをホロコーストの十分な理由とした点には、歴史家たちの批判が集中した。また、「ドイツ人たち」という集合的な表現、恣意的な史料の扱い方、多くの二次史料に基づくという理由での信頼性の欠如などが指摘された。それでも、基本的に批判的な立場をとったイェッケルやモムゼンなどに対し、ヴェーラーなど本書を評価の対象とする歴史家も存在した。 第二章では、ゴールドハーゲン論争の経緯

とその特徴について述べる。ゴールドハーゲンの著作はアメリカでの刊行後、ドイツにもその概要が伝えられたことで、翻訳版刊行以前より数多くの議論を生んだ。翻訳版は飛躍的な売れ行きを見せ、ゴールドハーゲン自身がドイツを訪れ多くの公開討論会などが設けられる。本論争には「新たな歴史家論争」を期待するメディアの演出があり、ゴールドハーゲンもこれを利用した節があった。また、ゴールドハーゲンへの評価には歴史家と一般読者層との乖離が見て取れ、それに関する事例として「国防軍論争」やヴィクトール・クレンペラーの日記が挙げられる。 第三章では、ブラウニングとの比較を通してゴールドハーゲンの論議の再考を試みた。両者は同じ対象について同じ史料を用い研究を行っていたが、ブラウニングは加害者の動機に対し権威やイデオロギーに理由を求めており結論はまったく異なるものであった。本章ではゴールドハーゲンによるブラウニング批判、シンポジウムにおけるブラウニングによる反論を用いながら、ゴールドハーゲンの妥当性についての考察を行なったが、両者ともに史料の解釈、動機付けの理論において問題のある部分が存在しており、そこには証言という論拠を用いる際の方法論的な問題が見て取れ、どちらかが正しいとする断定は避けざるを得ない。おわりには、ゴールドハーゲンの研究は一概にそれを否定するべきものではなく、評価すべき視点はみられるが、認められない理論上の瑕疵や方法論的な誤りもみられ、それらを見極めたさらなる

Page 35: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

35

検討が必要である、と結論付けた。

Page 36: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

36

平和実現の方法―ヨハン・ガルトゥングの「ガルトゥング平和学」を通して―

吉田 健 今日の日本においては、ある意味「平和」

な社会が実現し、戦争などの「暴力」とは縁遠いという認識が多数の国民の間で共有されている。しかし、この地球上には未解決の紛争が確かに存在し、さらには貧困や男女差別などの表立ってこなかった種類の「暴力」も顕在化してきている。そして、従来型の学問ではそれらの「暴力」に対処しきれず、行き詰まりの様相を呈している。そこで、本稿では「第二次世界大戦を契機に形成された新しい学問である平和学―その中でも、ヨハン・ガルトゥングによって創始されたガルトゥング平和学―の理論と実践は、現在の平和の膠着状態を解消するのに有効な手段たりえるのか」という問題を設定した。この問題を解くにあたり、まずはガルトゥング平和学の理論の体系的理解を図り、その後に、その理論を基礎として「パレスチナ問題」を題材に実際に紛争転換を試みた。 第1章では、ヨハン・ガルトゥングの略歴

と平和学の成立背景、平和学の学問的な位置づけ、平和学と健康学の相似、そして平和学のアプローチとして DPT 理論を紹介した。 第2章では、序論として、平和研究におい

て「暴力」を定義づけることの重要性を示した後、ガルトゥング平和学における暴力の定義と暴力の六類型、そして暴力の三形態(直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力)について概観した。 第3章では、ガルトゥング平和学における

平和の定義と平和の三形態(直接的平和・構造的平和・文化的平和)について概観した。

この作業を通して、前章で検討した暴力概念を拡大するすることで、平和概念を導出することができることを指摘した。 第4章では、序論として紛争概念について

整理し、ガルトゥング平和学の特徴的な方法である「トランセンド法」について説明した後、本稿において具体的な紛争の事例として取り上げる「パレスチナ問題」について概観した。そして、最終節において、これまで積み上げてきたガルトゥング平和学の理論を土台に、パレスチナ問題を実際に紛争転換した。 本稿における考察を通して、暴力を過去・

現在・未来の三つのフェーズで見たときに、ガルトゥング平和学の理論と実践は現実的かつ機能的な「平和実現の方法論」として、そのすべての段階において有効に活用することができる、ということが判明した。詳述すると、「過去と現在の紛争」を転換するためには、ガルトゥング平和学の基礎知識をベースにし、トランセンド法と DPT 理論を組み合わせて紛争転換を試みる、という方法が効果的である。 「未来の紛争」を予防するためには、平和

原体としての平和の文化を形成し、世論や社会の風潮を平和志向にする、という方法が効果的である。この方法は一見遠回りに見えるし、事実すぐにその効果が表れるものでもない。しかし、文化は人間のものの見方や考え方に大きな影響を与える。目に見える結果はすぐに出なくとも、平和の文化は漸次的に人々の思考の枠組みを変え、暴力と平和に関

Page 37: 2005年度卒業論文発表会レジュメ h02b269a 御舩悠...2 【西洋史】 加藤 洸 カラヴァッジョの人物表現に関する一考察.....28 栗林 芽生 女性画家による歴史画の考察.....30

2018年度卒業論文概要

新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム

37

するパラダイムシフトを起こすことにつながるのである