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蚕録 06-05
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【06-05】榛名型蚕屋敷を求めて彷徨 群馬県では赤城山と並んで、榛名山麓は広大である。したがってこの一帯も
蚕屋敷の多いところではあるが、榛名山麓をどのように限定するかかなり迷った。
そこで地図を広げて、まず北は吾妻川の南から東南のエリアで、しかも三国街道
より西側。そして南側は烏川より北側に、概ね限定することにした。このエリアで、
榛名型と言われている蚕屋敷を求め、これを出来るだけ掲載することにしたかった
からである。しかし実際走ってみると、ほとんどが前橋付近に多い、腰屋根式か
埼玉県北に多い高窓式だった。この土地の風土はどうやら前橋方面に依存して来た
ようで、独自性は持たなかったのかも知れない。幕末の群馬県の支配では沼田藩、
前橋藩、安中藩、高崎藩、伊勢崎藩、七日市藩、吉井藩、小幡藩、館林藩の 9 藩に
別れていたが、このうち榛名山にかかわりの大きかったのは、沼田藩、前橋藩、
高崎藩、安中藩と言うことになろうか。実は片品川の流域は奥深くまで前橋藩が
関わっていた。このため、昭和村から片品川奥地の鈴木邸にいたるまで、蚕屋敷は多いものの、
これといった固定化されたタイプはなく、前橋藩の影響力が、蚕屋敷の形式が一つに
集約されるのを妨げてきたのかも知れない。多くのタイプが混在している。
このため筆者は榛名型蚕屋敷は榛名山の小区域に固まってあるのではないか
と考えて、上記のエリア内を随分と探し回って見た。過日もかれこれ150kmほど走り
回ってみたのだが、それらしきものに出会うことは出来なかった。筆者は榛名型
住宅はまだ見たことがない。ひょっとすると、筆者が勝手に誤解しているのかもしれない。
そこで何度となくインターネットをひっくりかえしてみたが、それらしきものは何処
にもなかった。以来、ネットをスクロールしながら、何日も過ごしていた。もしかすと
榛名型は既に消滅してしまったのかもしれない。そんな危惧を抱きながらも、榛名型養蚕農家を
追い続けた。もう下降線をたどり続けているような産業の蚕屋敷に、スポットライトを
当てる人などいなくなったのだろう。小生と、『日本すきま満遊記』を記していらっしゃる
「深草縁夫(ふかくさへりお)」氏ぐらいなのかもしれない。筆者もしばしば参考にさせて
いただくことも多いが、さすがに、特に榛名型蚕屋敷についての詳述はないようだ。そんな最中、
群馬県農政部蚕糸園芸科の hp の中に、『群馬県蚕糸業の歴史』の項目があり、そこには、
『養蚕と民家構造』と言う見出しがあった。早速ひらいてみると、文中に榛名型の民家構造
が、多少なりとも取上げられていた。そこで筆者は群馬県「農政部蚕糸園芸課」に連絡
して、『榛名型の蚕屋敷は、一体何処にあるのかを』尋ねて見た。すると担当者は
「私はこの方面の専門家ではないので調べておきます。」と答えて、翌日の午後、
早速電話があった。ところが聞いてびっくり!!!!!!!。とんでもない地名が出てき
たのである。それが榛名山から程遠く北へ約 25 キロ。『みなかみ町』の入須川の
流域で、かつて新治(ニイハル)村の村役場があった周辺にもいくつかあります。
入須川を遡って行けば、さらに多くの榛名型が見られるとの答だった。
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一方こちらはそんなことも知らずに、榛名山の東側から北側にかけて、榛名型を捜し求
めた。以下はその記録である。そして是は吾妻川の南岸、もう小野上あたりで見かけた蚕屋敷
である。瓦屋根にもう一つ茅葺き屋根の立派な屋敷が付随しているようである。
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さらに中之条に近くなったときに見つけた2軒の蚕屋敷である。一軒は腰屋根式だが
もう一軒はブリキ屋根の蚕屋敷である。両屋敷では屋根の形状がかなり異なる。
望遠レンズでアップしてみるとこんな形状である。屋根の頂上の棟の部分はまっすぐで、
妻側、平側の屋根には一定間隔で小さな高低差がある。しかし逆方向の様子は観察できなかった。
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さらに右手の方にはもう一軒また形の変わった屋根が見えた。屋根の上には越し屋根に
近い形状のもう一つの屋根が付随していた。見方によっては飾屋根のようにも見える。
こちらは国道 145 号線沿いの蚕屋敷である。前橋あたりの腰屋根と比較すると、ずっと
大きな腰屋根である。気候の関係でこんな形状のものが採用されたのかも知れない。
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こちらも国道145号線の蚕屋敷である。高窓が3つ着いているが窓そのものは余り大きくない。
この辺は冬の寒さは厳しいものの夏の暑さは幾分和らぎ、それに合せた仕様なのだろう。
立派な土蔵が 2 つ着いた豪壮な養蚕農家である。このあたりは以前は麻の栽培が盛んだった
ところで、絹製品の高価なところから、麻から乗り移る形で養蚕業へと移行して行った。
このお宅は秋にここを通ったときにも撮影していた。06-02-24 を併せてご覧戴きたい。
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同じく国道沿いの蚕農家である。間口が 12~3 間ある割には腰窓が小さい。夏の暑さ
よりも、冬の寒さに配慮した設計なのかもしれない。屋根には目一杯の太陽光発電だ。
せっかくの蚕農家だったが土蔵の壁はすでにすっかり落ちてしまっている。少しばかり
寂しさが残る蚕屋敷だったが、これが現在の養蚕業の姿なのだろう。誠に残念である。
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県道 35 号線にそって北上すると早速現れたのがこの蚕屋敷だった。高窓は前後左右の
割合に対して、高さが低く面積が比較的大きい。このあたりではよく見かけるタイプである。
こちらの写真は榛名型とはおよそ無関係の吉岡町から野田宿付近で撮影したものであるが、
ここにいたるまで数ヶ月に渡って、よくもまぁ榛名型養蚕住宅の追求をして来たものだ。けして無駄と
言うわけではなかったが、なぜ榛名型が『みなかみ』なのか、これは解明しなければならない。
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郷原から榛名湖まで走ったが蚕屋敷はおろか榛名型の蚕屋敷など 1 軒も見ることは出来なかった。
少なくとも榛名山北麓には、榛名型なる蚕屋敷は存在しない。これが結論だった。
榛名富士を鑑賞してから榛名神社方面に降りることにした。さらに下れば榛名山の南側
山麓に出られる。何かヒントはつかめるかもしれない。もはや最後の望みだった。
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榛名神社は綏靖(スイゼイ)天皇の時代に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の御子、可美真手命
(ウマシマデノミコト)父子が、山中に神籬【ヒモロギ=古くは神祭りをするにあたり、神霊
を招くための憑坐(ヨリマシ)、依代(ヨリシロ)とした所】を作り、その清浄、神聖な場
を立てて、天神地祇(テンジンチギ=よろず神 )々を祀ったのが始まりといわれ、用明天皇元年
(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられている。主祭神は火産霊神(ヒノカガビコノカミ
=火の神)と埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ=土の神)である。水分神(ミクマリノカミ)・
高靇神(オカミノカミ)・闇靇神(クラオカミノカミ)・大山祇神(オオヤマヅミノカミ)・
大物主神(オオモノヌシノカミ)・木花開耶姫神(コノハナサクヤヒメノカミ)を合わせ祀る。
また古く から神仏習合が定着し、山中には9世紀頃の僧坊とされる巌山遺跡がある。
しかしこうしてじっくりとこの鳥居を見つめていると、以前どこかで見たことのある
蚕屋敷の装飾屋根の棟木(ムネギ)のソリと、鳥居の笠木(カサギ)のソリがかなりよく
似ているような気がしてきた。もしかして榛名型の蚕屋敷とはこの榛名神社の持つ様々
なご利益を、蚕屋敷の中に取り込んで、養蚕業の繁栄を祈願するものだったのではなかろ
うか。蚕屋敷の棟木に笠木の魂を詰め込んで、これを蚕屋敷の屋根に載せることにより、
榛名神社のよろずの神のご利益をそのまま養蚕に生かしてゆこうという住民の『無意識』の
願望だったのではないかと思えてきたのである。当時の科学の粋を尽くして養蚕業の改革に
取り組んだ田島弥兵や高山長五郎に対して、やや遅れて養蚕業に乗り出したこの地方
には、田島や高山のような天才科学者は出なかった。その部分を神がかりで、補填しようと
考えたとしても、当時の科学水準から見れば十分に納得できる。県社たる榛名神社には
それなりの威厳もそれなりのパワーもあった。信仰心の強かった時代、榛名神社の笠木には
心に迫るインパクトがあったろうし、何よりもこうすることで養蚕業にのめりこむことが
できた。これによって、各農家は心の安らぎを得ることができたのではないだろうか。
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鳥居の各部分の名称:上野・浅草 神棚神具販売 神棚専門店すみ平様 hpより
引用させて頂ました。
大鳥居をくぐるといよいよ神聖な榛名神社の境内である。ここから奥は深い。
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東室田を過ぎて、安中町に近づく頃、もうすっかりと夕暮れが迫っていた。たそがれに
夕日が美しく町中に生えて、今日一日の終わりを告げている。古びた高窓式蚕屋敷の
陰影がことの他美しく、これが群馬の心の礎ではないかと思えた。歴史の変遷に流さ
れて、日本の夜明けであった明治を支え続けた蚕は、以来 150 年、今では過去の遺産
に変わろうとしている。だがこうやって何軒もの蚕屋敷が、いまだに明治を語り継ぎ、
その遺構の数々は今も健在で、日本の繁栄の基礎を築いてきたことを訴えている。そして
その光は絶えることなく群馬の人々の心の底に連綿と輝き続けている。今目前にする、
この光景こそは間違いなく群馬県人の人格を照らし続けている。翻って、己の人生を振り
返れば、遠くなった明治を引き寄せ、古くなった蚕屋敷に新しい伊吹を入れ込むことが、
年老いた筆者に出来るささやかな奉仕ではないかと考えるようになっていた。
榛名型の蚕屋敷は見つからなかったが、また来週の楽しみが出来た。榛名山南北縦断
の一日は終わったが、榛名山周辺に今も残る壮大な自然と其処に息づく榛名の風土には
直接触れることが出来たような気がした。この次は箕郷方面、伊香保方面の榛名山に挑戦
してみようと思う。また何か異なった榛名山に出会えるかもしれない。まだまだいくつ
もの蚕屋敷が静かな山会いを期待しながら、明日が来るのを待っていることだろう。そして
どれもこれも読者諸兄の皆様にご紹介しなければならないと考えている。 【続く】