ヘーゲル学派における帰属論 -hugo hälschnerを中心 url doi

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Meiji University Title � -Hugo H�lschner�- Author(s) �,Citation �, 93(2-3): 83-105 URL http://hdl.handle.net/10291/21473 Rights Issue Date 2020-12-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Titleヘーゲル学派における帰属論 -Hugo Hälschnerを中心

として-

Author(s) 川口,浩一

Citation 法律論叢, 93(2-3): 83-105

URL http://hdl.handle.net/10291/21473

Rights

Issue Date 2020-12-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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法律論叢第 93巻第 2・3合併号(2020.12)

【論 説】

ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として

川  口  浩  一

目 次1. はじめに2. 刑法学説史におけるヘーゲル学派研究の意義3. Halschnerの経歴4. Halschnerの帰属論5. 今後の検討課題

1. はじめに

山田道郎先生(以下敬称略)は、1979年に本誌に公表された論文「刑法学説史に

おける帰属概念の意義」(1)においてFeuerbachからヘーゲル学派、Adolf Merkel、Bindingを経て v. Liszt、Belingの自然主義的行為論に至るドイツの 19世紀から20世紀初頭に至るドイツの刑法学説を①帰属能力と行為概念、②帰属能力と行為

能力および③因果関係の問題を機軸に簡潔かつ明解に整理され、ドイツ刑法学説史

研究という暗く、深い「森」(2)に迷い込んでしまった者に一枚の「地図」を与えて

下さったのである。この地図に導かれ、私もこの森の中、特にこの森の中でも最も

暗い部分であるヘーゲル学派の森を彷徨い歩いている者の一人であるが、以下で(1)山田道郎「刑法学説史における帰属概念の意義」法律論叢 52巻 2・3号(1979年)57-127頁。

(2)山田先生は、上記論文の執筆後、研究分野を英米刑事訴訟法、特に証拠法に移され、「証拠の森」の探索を始められ、その集大成として山田道郎『証拠の森:刑事証拠法研究』(成文堂・2004年)を公刊された。

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法律論叢 93巻 2・3合併号

は、この森の重要な住人であるHugo Halschnerの行為論と帰属論に焦点を当て

て考察を加えてみたい。

2. 刑法学説史におけるヘーゲル学派研究の意義

山田の上記研究においては 19世紀のドイツ刑法学の学説史におけるヘーゲル学

派の研究にかなりのスペースが費やされている(3)が、現在の日本刑法学において

は、特に平野龍一の次のような評価の影響を受け、ヘーゲル学派への関心は低いと

言わざるを得ない。すなわち平野は「ドイツにおける旧派は、1840年代にプロイ

センの国家主義を背景としてあらわれたヘーゲル学派によって大きな変更を受け

た」として、フォイエルバッハらの前期旧派とヘーゲル学派以降の後期旧派を区別

し、両者は(決定論に立つ新派とは異なり)共に自由意志を認めるものであるが、

前者のそれは「利害を合理的に配慮し、これに従って行動する能力」であったの

に対し、後者のいう自由意志とは「いわば形而上学的な、原因がないという意味で

の」ものであり、また前者は法と道徳を区別するのに対し、後者は「法と道徳を同

一視する」もので、「後期旧派は、「国家主義・権威主義的傾向の強いものである」

とし、この区別は、わが国においては多くの教科書において採用されるなど定着

したものとなっている(4)。さらに中義勝も、共に絶対的応報刑論を採るKantとHegelの人間観を比較し、Kantにおいては「絶対的価値としての人格、自己目的

としての人間、あくまでも実質的に自由で平等な人間」が予定されているのに対

し、Hegelにおいては「国家的義務の履行を個人の最高価値を発揮するゆえんだと

する人間」であるとする(5)。しかし、このような刑法におけるヘーゲル学派やひ

いてはHegelの刑法論自体の理解は妥当なものであろうか。周知のように哲学に

(3)山田・前掲(注 1)69-97頁(Ludenも含めれば 101頁まで)。(4)平野龍一『刑法総論Ⅰ』(有斐閣・1972年)11頁。この区別を採用するものとして、例えば、山中敬一『刑法総論[第 3版]』(成文堂・2015年)27頁以下(§11「後期旧派の刑法思想」)など。これに対してこの区別に批判的な見解として斎藤誠二「いわゆる『前期旧派』と『後期旧派』をめぐって(刑事法をめぐる現代的課題)」日本大学法学部法学研究所法学紀要 40別巻(1998年)9-28頁

(5)中義勝『刑法における人間』(一粒社・1984年)169頁。なお同「ヘーゲルの刑法論と人間像(1)(2)」関西大学法学論集 30巻 5号 583-603頁、30巻 6号 756-782頁(1981年)も参照。

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

おいては、ここ 30年来、「ヘーゲル哲学のプラグマティズム的側面」に着目した

「アメリカ発の<ヘーゲル・ルネッサンス>が世界を席巻」してきたが、最近では

「ヘーゲル哲学を、現代哲学の観点から一種の形而上学として解釈し再評価する動

向が現れている」とされ(6)、「ヘーゲル復権」(7)が宣言されている。また刑法学に

おいても特に Seelmann(8)、Jakobs(9)、Lesch(10)、Pawlik(11)、Zabel(12)な

どによるHegelの再評価の動きが見られるところである。また 2015年 3月にケ

ルン大学において開催されたシンポジュウムをまとめた『ヘーゲルの遺産? 19

世紀から 21世紀に至る刑法的ヘーゲル学派』(13)が公刊され、19世紀のヘーゲリ

(6)飯泉祐介「復活するヘーゲル形而上学」思想 2019年 1号 43頁。(7)雑誌『思想』2019年 1号は「ヘーゲル復権」特集号となっている。なおHegelの犯罪・刑罰論に関する哲学者による最近の研究として徳増多加志「ヘーゲル『法の哲学』における法と不法の学的扱い方:刑罰の哲学的解明」鎌倉女子大学紀要 27号(2020)21-36頁がある。

(8) Kurt Seelmann, Anerkennungsverlust Und Selbstsubsumtion: Hegels Straftheorien,1995;クルト・ゼールマン(飯島暢[訳])「ヘーゲルの刑罰論とその相互承認の構想」ノモス 23号(2008)43-52頁。

(9) Gunther Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil: Die Grundlagen und die Zurechnungslehre:Lehrbuch, 2. Aufl., Berlin 1991, 1/21 ff.; ders., Staatliche Strafe: Beutung undZweck, Paderborn 2004, S. 24 ff. Vgl. Kurt Seelmann, Gunther Jakobs und Hegel,in: Urs Kindhauser/ Claus Kreß/ Michael Pawlik/ Carl-Friedrich Stuckenberg(Hrsg.) Strafrecht und Gesellschaft: Ein kritischer Kommentar zum Werk vonGunther Jakobs, 2019, S. 85 ff.; Michael Pawlik, Das Strafrecht der Gesellschaft.Sozialphilosophische und sozialtheoretische Grundlagen von Gunther Jakobs’Strafrechtsdenken, a. a. O. S. 217 ff.

(10) Heiko H. Lesch, Der Verbrechensbegriff: Grundlinien einer funktionalen Revision,Koln /Berlin /Bonn /Munchen, 1999, S. 75 ff.

(11) Michael Pawlik: Ruckkehr zu Hegel in der neueren Verbrechenslehre? in: MichaelKubiciel/Michael Pawlik/ Kurt Seelmann (Hrsg.), Hegels Erben? StrafrechtlicheHegelianer vom 19. bis zum 21. Jahrhundert, Tubingen 2017, S. 247 ff.

(12) Benno Zabel, Das Recht der Institutionen: Zu einer Kultur der Freiheit jenseitsvon Individualismus und Kollektivismus, in: Seelmann/Zabel (Herg.), Autonomieund Normativitat: Zu Hegels Rechtsphilosophie, Tubingen 2014, S. 153 ff; ders.,The Institutional Turn in Hegel’s Philosophy of Right: Towards a Conception ofFreedom beyond Individualism and Collectivism, Hegel Bulletin 36/1(2015), S. 80-104.

(13) Michael Kubiciel/ Michael Pawlik/ Kurt Seelmann (Hrsg.), Hegels Erben?Strafrechtliche Hegelianer vom 19. bis zum 21. Jahrhundert, Tubingen 2017.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

アーナーとしてBerner(14)、Kostlin(15)、Luden(16)およびHalschner(17)に関

する論文とへーゲリアーナーが当時の刑法学に与えた影響を総括したStubinger

論文(18)が掲載されており、当時の学説の再検討が進んでいる。また現在の刑法理

論においても特にPawlikは、Halschnerの影響を受けた犯罪概念を提唱し(19)、

また最近の著書で上記の英米哲学の動向を踏まえ、Hegelの行為論を再評価した新

たな行為論を提唱している(20)。このような英米哲学やドイツ刑法学における現在

の「ヘーゲル復権」の動向から見ても、上記のようなわが国におけるHegelの刑

法・刑罰理論および刑法学におけるヘーゲル学派に対する否定的な評価について少

なくとも再検証する必要があると思われる。その点で日本においてすでに否定

的評価が定着していた 40年以上前にヘーゲル学派に注目した山田の論文には先見

の明があったといえよう。

なおHalschner説の検討に移る前に、19世紀のドイツ刑法学者のうちヘーゲル

学派に属する者は誰かという問題を扱っておきたい。この点に関して山田は、①Julius Abegg、②Christian Reinhold Kostlin、③Albert Friedrich Bernerお

よび④Hugo Halschnerの 4人をヘーゲル学派に属する者としており、Ludenに

ついては、むしろ「ヘーゲル学派の支配していた時代に異説を唱え、その行為論

(14) Benno Zabel, Wissenschaft im Ubergang: Zur Strafrechtsphilosophie AlbertFriedrich Berners, in: Kubiciel/ Pawlik/ Seelmann (Hrsg.), o. Fn. 13, S. 95-120(邦訳:山本和輝・関西大学法学論集 69巻 2号[2019年]201-235頁).

(15) Michael Kubiciel, Der Zweck im Strafrecht: Die Strafrechtstheorie ChristianReinhold Kostlins, in: Kubiciel/ Pawlik/ Seelmann (Hrsg.), o. Fn. 13, S. 121-137(邦訳:山下裕樹・関西大学法学論集 69巻 5号[2020年]127-146頁).

(16) Carl-Friedrich Stuckenberg, Heinrich Luden, in: Kubiciel/ Pawlik/ Seelmann(Hrsg.), o. Fn. 13, S. 139-162 (邦訳:西村哲也・関西大学法学論集 70巻 4号[2020年]507-536頁).

(17) Gunther Jakobs, Unrecht, Zurechnung, Notstand: Bemerkungen zur Lehre HugoHalschners, in: Kubiciel/ Pawlik/ Seelmann (Hrsg.), o. Fn. 13, S. 163-179.

(18) Stefan Stubinger, Einfluss der Hegelianer auf die Strafrechtswissenschaft ihrerZeit, in: Kubiciel/ Pawlik/ Seelmann (Hrsg.), o. Fn. 13, S. 181-169.

(19) Michael Pawlik, Das Unrecht der Burger: Grundlinien einer allgemeinenVerbrechenslehre, Tubingen 2012, S. 110 ff.

(20) Michael Pawlik, Normbestatigung und Identitatsbalance: Uber die Legitimationstaatlichen Strafens, Baden-Baden 2017, S. 13 ff. und passim. 本書を検討した最近の論文として Jesus Marıa Silva Sanchez, Strafrecht als menschliche Praxis: ZuMichael Pawliks ,,Normbestatigung und Identitatsbalance“, GA 2020, 322-328がある。

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

は、因果的行為論の先駆けとしての意義を持つ」とする(21)。確かに行為論を見れ

ば、Ludenは山田が指摘するように、ヘーゲル学派の主流とはかなり異なった見

解を唱えているようにも見えるが、全体的にはヘーゲル学派の影響も見られ、限

界的ではあるが、ヘーゲル学派に入れることも不可能ではないようにも思える。Struckenbergも、「ヘーゲル学派と呼ぶためには、Hegelの思想の重要な部分とそ

の弁証法的な方法を共有していなければならないとするならば、neinと言わなけれ

ばならないが、いくつかの数少ない点においてでも、Hegelの中心的な立場に近い

ものであれば十分とするならば、jaということができる」としているのである(22)。

なおこれらの論者以外にも 19世紀ドイツのヘーゲル学派に属する学者としてvon Hippel(23)は Jarckeを、Sulz(24)は von Barも、von Liszt(25)に至っては

何とAdolf Merkelをもなおヘーゲル主義の基盤に立つものと理解していた。しか

し von Hippelが指摘する(26)ように、Merkelはむしろヘーゲル学派の中心的な批

判者であり(27)、彼をヘーゲル学派に加えることはできないであろう。その他、一

般には刑法学者ではなく、ヘーゲル学派の哲学者として知られているが、後述のよ

(21)山田・前掲(注 1)97頁。山田は、Halschnerについてもその理論は「ヘーゲルの理論的基礎からかなり遠ざかっている」としつつ、「ヘーゲル学派の行為を守り、それは帰属概念とともに体系上大きな意義を持たされている」(同・91頁)ことからHalschnerをヘーゲル学派の一人とみなしている。なおMichael Ramb, Strafbegrundung in denSystemen der Hegelianer, Berlin 2005, S.13 f.も同じ 4人を取り上げている。

(22) Stuckenberg, o. Fn. 16, S. 162.(23) Robert von Hippel, Deutsches Strafrecht Bd. 1, Hamburg 1925, S. 309 f.はまず初

期のヘーゲリアーナーとしてAbeggと Jarckeを、そして限定的な範囲におけるヘーゲリアーナーとしてLudenを、そして盛期のヘーゲリアーナーとしてKostlinとBernerを、そして衰退期のヘーゲリアーナーとしてHalschnerを挙げている。

(24) Eugen Sulz, Hegels philosophische Begrundung des Strafrechts und deren Ausbauin der Deutschen Strafrechtswissenschalt, Berlin und Leipzig 1910, S. 60 f.は、Abegg (a. a. O., S. 16 ff.)、Kostlin (S. 26 ff.)、Halschner (S. 38 ff.)、Berner (S. 49ff.) とともに von Barをもへーゲリアーナーの一人に数えている。

(25) Franz von Liszt/ Eberhard Schmid, Lehrbuch des deutschen Strafrechts, 25. Aufl.,Berlin und Leipzig 1927, S. 53はKostlin、Halschner、Bernerと並んでA. Merkelを「ヘーゲルの基盤の上に立っていた(standen auf dem Boden Hegels)」とする。

(26) von Hippel, o. Fn. 23, S. 311は、このような位置づけを「理解不能(nicht verstandlich)」であると批判する。

(27)この点については山口邦夫『一九世紀ドイツ刑法学研究』(八千代出版・1979年)171頁以下も参照(MerkelとBindingはヘーゲル学派の帰属論の影響を受けていないとするKarl Larenzの評価を紹介する)。

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法律論叢 93巻 2・3合併号

うにHalschnerにも影響を与えたKarl Ludwig (Charles-Louis) Michelet(28)も

(Hegelに提出した)刑法的故意・過失に関する博士論文(›De doli et culpae in

iure criminali notionibus ‹ 1824)など、刑法関係の業績もあり、少なくともそ

の初期においては、刑法的へーゲリアーナーの 1人に数えることもあながち不当と

はいえないであろう。

なお以下では同時代のHegelおよびヘーゲル学派と関係するドイツの刑法学者

の生没年月日(地)を挙げ、さらにそれを年表にしたものを示しておく。

① Christoph Karl Stubel 1764年 8月 3日(Pausitz)- 1828年 10月 5日

(Dresden)

② Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770年 8月 27日(Stuttgart)- 1831年11月 14日(Berlin)

③ Paul Johann Anselm von Feuerbach 1775年 11月 14日(Hainichen bei

Jena)- 1833年 5月 29日(Frankfurt am Main)

④ Julius Abegg, 1796年 3月 27日(Erlangen)- 1868年 5月 29日(Breslau)

⑤ Carl Ernst Jarcke 1801年 11月 10日(Danzig)- 1852年 12月 27日

(Wien)

⑥ Karl Ludwig (Charles-Louis) Michelet 1801年 12月 4日(Berlin)- 1893

年 12月 15日(Berlin)

⑦ Heinrich Luden 1810年 3月 9日(Jena)- 1880年 12月 24日(Jena)

⑧ Christian Reinhold Kostlin 1813年 1月 29日(Tubingen)- 1856年 9月14日(Tubingen)

⑨ Hugo Halschner 1817年 3月 29日(Hirschberg /Schlesien)- 1889年 3

月 17日(Bonn)

⑩ Albert Friedrich Berner 1818年 11月 30日(Strasburg/Uckermark)-1907年 1月 13日(Berlin)

⑪ Adolf Merkel 1836年 1月 11日(Mainz)- 1896年 3月 30日(Straßburg)

⑫ Carl Ludwig von Bar 1836年 7月 24日(Hannover)- 1913年 8月 20日

(Folkestone/England)

(28)彼の経歴については https://www.duncker-humblot.de/person/carl-ludwig-michelet-7305/?page id=1(最終閲覧日 2020年 9月 30日)参照。

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

⑬ Karl Binding 1841年 6月 4日(Frankfurt am Main)- 1920年 4月 7日

(Freiburg im Breisgau)

⑭ Franz von Liszt 1851年 3月 2日(Wien)- 1919年 6月 21日(Seeheim)

⑮ Ernst Ludwig Beling, 1866年 6月 19日(Glogau [Głogow])- 1932年 5

月 18日(Munchen)

【年表】

この年表によりHalschnerの生きた時期を念頭に置いた上で、次に彼の刑法学

者としての経歴を紹介しておく。

3. Halschnerの経歴

Hugo Philipp Egmont Halschner (Haelschnerと表記される場合もある)(29)は、1817年 3月 29日に Schlesien地方のHirschberg(現在のポーランドのイェレニャ・

グラ [Jelenia Gora])で次男として生まれた。父親は、有能な法律家で同地の司法評議

員(Justizrath)を務めていた。1837-40年にHalschnerはBreslau大学とBerlin

(29)以下の経歴等は次の文献を参照:Johann August Roderich von Stinzing/Ernst Landsberg(Hrsg.), Geschichte der deutschen Rechtswissenschaft, Abteilung 3 Halbband 2,Munchen ; Leipzig 1910、S. 687ff.; Ernst Landsberg, Halschner, Hugo, in: ADB,Bd.49, 1904, S. 731 ff.; Dietrich Oehler, Halschner, Hugo Philipp Egmont, in: NDB,Bd.7, 1966, S. 433f.; Eckhart von Bubnoff, Die Entwicklung des strafrechtlichenHandlungsbegriffes von Feuerbach bis Liszt unter besonderer Berucksichtigungder Hegelschule, 1966, S. 77 ff.; Ramb, o. Fn., S. 200 ff.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

大学で法学を専攻したが、同時にとりわけHegelの影響を受けたBreslau大学の哲学

者 Julius Braniß(1792-1878)、Berlin大学の哲学者Karl Werder(1806-1893)

および法学者でヘーゲリアーナーとして知られる Eduard Gans(1797-1839)の哲学

科の講義も履修した。その後、1842年にHalle大学でラテン語で書かれた博士論文『東

洋の人々の間でも適用されていたであろう万民法について(De jure gentium quale

fuerit apud populos Orientis)』で博士号を取得、Bonn大学の国法学者Clemens

Theodor Perthes(1809-1867)の推薦により、翌 1843年に同論文でBonn大学に

教授資格請求し、1847年にBonn大学員外教授(außerordentlicher Professor)、1850年にRostock大学の招聘を断り、Bonn大学で正教授(Ordinarius)にな

り、その後 1864年のTubingen大学、1872年のHeidelberg大学からの招聘にも

かかわらず、Bonn大学に留まり、1889年 3月 16日にBonnで逝去した。刑法学

に関する著書としては、Geschichte des brandenburg-preußischen Strafrechts,

Bonn 1855; System des preußischen Strafrechts, Bonn 1858 u. 1868, 2 Teile;

Das gemeine deutsche Strafrecht, Bonn 1881-84, 2 Bande; Beitrage zur

Beurteilung des Entwurfs eines Strafgesetzbuchs fur den Norddeutschen

Bund, Bonn 1870等がある。このようにHalschnerの主な著作は、Hegelの

『法哲学』の刊行(1820/21年)から約半世紀後に公刊されており、Halschnerは、

時期的には刑法におけるヘーゲル学派の最も後期(von Hippel(30)によれば衰退

期)に属する学者である。以下では山田の記述を手掛かりに、ヘーゲリアーナーの

帰属論のいわば到達点としてHalschnerの帰属論を検討していくことにする(31)。

(30) von Hippel, o. Fn. 23, S. 311(31) Halschner, System des Preußischen Strafrechtes. Erster oder allgemeiner Theil

des Systems, 1858 (System [『体系』] として引用); ders., Die Lehre vom Unrechtund seinen verschiedenen Formen, GS 21 (1869), S. 11 ff., 81 ff. (Unrecht I [「不法I」]として引用); ders., Nochmals [,] das Unrecht und seine verschiedenen Formen,GS 28 (1876), S.401 ff. (Unrecht II [「不法Ⅱ」] として引用); ders., Das gemeinedeutsche Strafrecht. Erster Band. Die allgemeinen strafrechtlichen Lehren, 1881(Nachdruck 1997) (Dt. Strafrecht [『ドイツ刑法』]として引用).

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

4. Halschnerの帰属論

(1)不法(Unrecht)

山田は、von Bubnoff(32)に依拠しHalschnerの見解を、特に後期の『共通ド

イツ刑法』の記述に基づいて、まず帰属(Zurechnung)と責任(Schuld)の区

別の問題から分析を始め、①不法/責任、②形式的帰属/実質的帰属、③帰属能

力/行為能力の区別を前提とした上で、その④行為概念を検討し、①についてはHalschnerが不法と責任の区別を認め、責任なき不法の存在を認めており、④に

おいてはHegelの行為論に基づいた主張がなされていることを確認している(33)。

以下ではこのような山田の分析を、最近の論文の中でHalschner説を批判的に検

討した Jakobsの評価(34)と、両者が共に検討している不法概念と(行為概念をも

含めた)帰属概念に関して比較し、より深い検討を試みる。

まず不法と責任の区別に関係した犯罪的不法の概念(Begriff des verbrecherischen

Unrechts)についてHalschnerは次の 4ヶ所で述べている。まず①『プロイセン

刑法の体系』においては、民事不法(Zivilunrecht)の対象は、被害者の「私的恣意

(Privatwillkur)に服する財産権限(Vermogensberechtigung)」であり、これに

対して犯罪的不法の対象は「法秩序それ自体(die Rechtsordnung selbst)」(35)で

あり、それはさらに「法律の形式において」のみ問題となる違警罪(Polizeidelikte)

の不法と「また定在し、それ自体として法律的に承認され、保護されるべき権利の

形式において」(36)の不法が区別される。

このようにHalschnerは「法秩序自体に対して」向けられたものとして犯罪的不

法を捉えているが、そこでは「法としての法の侵害」というHegelの犯罪概念(37)を

(32) von Bubnoff, o. Fn. 29, S. 78 ff.(33)山田・前掲(注 1)91-96頁。なお帰属の意義については同「帰属の概念:特にルシュカの

見解を中心として」明治大学大学院紀要 15集(1)法学編(1977年)145頁以下も参照。(34) Jakobs, o. Fn. 17, S.163 ff.(35) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 1.(36) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 2 .(37) Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft

im Grundrisse, 1820/21, in: Moldenhauer/Michel (Hrsg.), Werke, Bd. 7, Frankfurta. M. 1970, §§ 95, 97.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

あえて参照しなかった。Jakobsの指摘(38)によれば、HalschnerがHegelによる

(「無邪気な(unbefangen)」(39)不法としての)民事不法と刑事不法の区別の試

み(40)を、「失敗に終わっているのは全く明らかであるように見える」(41)と強く批

判していたことに基づくものである。すなわち、そのような区別によれば、「一方

で全ての悪意(mala fides)と故意(dolus)の場合は民事的不法から排除され、他

方で全ての過失の法侵害(culpose-Rechtsverletzungen)は刑事不法から排除さ

れることになってしまうであろう。」(42)そして、このような帰謬法(argumentum

ad absurdum)によって「民事不法と刑事不法の区別は [...] その法侵害の客体

(Objecte der Rechtsverletzung)および、それと必然的に関連して、その行為の •法 

 •的  

•意  

•味 (rechtliche-Bedeutung der Handlung)においてのみ存在しうる」(43)と

いう結論が導き出されるのである。逆にいえば「無邪気な[犯意のない]」刑事的

不法も存在するということになるのである(44)。

次に②「不法とその諸形式に関する理論(Die Lehre vom Unrecht und seinen

verschiedenen Formen)」においてHalschnerは、とりわけAdolf Merkelの論文

「不法の基本区分とその法律効果(Die Lehre von den Grundeintheilungen des

Unrechts und seiner Rechtsfolgen)」(45)を批判的に検討した。Adolf Merkelは、

周知のように(46)まず初めに全ての不法に共通のものを設定し、民事的不法と犯

(38) Jakobs, o. Fn. 17, S. 164.(39) Hegel (Fn. 5), § 83及びそれに続くA[無邪気な(犯意のない)不法]。Halschnerは、民事不

法を「法に対する個別意思の無意識の対立に(auf einer unbewußten Entgegensetzungdes Einzelwillens gegen das Recht)」基づくものとしていた(Halschner, System[o. Fn. 29], S. 5)。

(40)ヘーゲルの犯罪的不法と民事不法の区別の分離の問題点については、Jakobs, Norm,Person, Gesellschaft, 3. Aufl. 2008, S. 87 f.参照。

(41) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 13(42) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 5.(43) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 5.[強調は引用者](44) Jakobs, o. Fn. 17, S. 178.(45) Die Lehre von den Grundeintheilungen des Unrechts und seiner Rechtsfolgen,

1867 (Nachdruck 1971). なお ,,Kriminalistische Abhandlungen“ の第 1巻である。Jakobs, o. Fn. 17, S. 162 Fn. 165が指摘するようにヘルシュナーはUnrecht I (o. Fn. 29)で誤ってその 2巻: Die Lehre vom strafbaren Betrugeのみを引用している。なおAdolfMerkelについては、川端博訳「ゲルハルト・ドルンザイファー著『アドルフ・メルケルの法理論と刑法解釈学』法律論叢 53巻 5-6号(1981年)147頁以下も参照。

(46)この点に関してはMerger, Die subjektiven Unrechtselemente, GS 89 (1924), S. 207ff., 208 ff.; Lampe, Das personale Unrecht, 1967, S. 13ff.; Pawlik, o. Fn. 19, S. 276

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

罪的不法の区別の問題を逆転させた(47)。Adolf Merkelは、不法を客観的法の

「否定(Verneinung)」(48)として、コミュニケーション的権能(kommunikative

Kompetenz)、すなわち完全な帰属可能性(volle Zurechenbarkeit)と完全な責任

(volle Verschuldung)を前提としたコミュニケーション的行為(kommunikativer

Akt)(49)として理解した。Jakobsによれば、「無邪気な不法について語ることは、

このアプローチにおいてはそれ自体矛盾したものである。」(50)

HalschnerはこのようなAdolf Merkelの不法論を次のように批判する。すなわ

ち「非常に奇異な、通説にも一般的な用語法にも反する結論へと導くこの推論の中

には、何らかの誤りが隠されているに違いないことは、法律家なら誰でも、一見す

るだけでわかることである」(51)。Halschnerは、この誤りの原因は「帰属可能性

(Zurechenbarkeit)を [...] 責任(Verschuldung)と」同置することにあるとす

る(52)。というのも確かに自然力(Naturgewalt)や動物は法の規則に服するもの

ではないが、例えば善意の占有者(bonae fidei possessor)は、「自由な人間の行

為」(53)を通じて占有し、そしてそのような行為には法の規則が妥当するであろう

し、その結果、その占有「行為」(Besitz-,,Handlung“)は不法なものでもありうる

とされる。Halschnerは、そこから「全ての不真実(Unwahrheit)が嘘に基づく

ものに限定されるわけではなく、責任なき不真実(schuldlose Unwahrheit)の可

能性も否定されないように、責任なき不法(schuldloses Unrecht)の可能性も否

定されない」(54)という結論を導き出している。『体系』においてなされた、私的恣

意の侵害対客観的法の侵害という基準による民法的不法と犯罪的不法の区別(55)をHalschnerは「その全ての形式における不法」は「主観的な意思決定と法それ自

体の分裂(Zwiespalt)」(56)に基づくものであるが、民法においては、(いわゆる無

ff.(47) A. Merkel, o. Fn. 45, S. 4 ff., 32 ff., 40. Vgl. Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 16.(48) A. Merkel, o. Fn. 45, S. 42 ff.(49)そのような指摘としてPawlik, o. Fn. , S. 277.(50) Jakobs, o. Fn. 17, S. 165.(51) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 18 f.(52) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 22,すでに S. 19 f.においてもそう述べられている。(53) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 19, 31, 35.(54) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 22; これについて詳細は von Bubnoff, o. Fn. 29,

S. 78 ff.(55) Vgl. Jakobs, o. Fn. 17, S. 164: Text zu Fn. 3.(56) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 29, 89; S. 88においては「 

権  •

限  •

者 」の意思決定と

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法律論叢 93巻 2・3合併号

過失責任の場合のように)この分裂に責任がない(unverschuldet)場合において

もまた法が反応しうる場合がありうるのに対し、犯罪的不法においてはその対応は

常に責任(Verschuldung)を前提とする(57)ということを指摘している。

その際、Halschnerは「法的責任(rechtliche Verschuldung)」を「人倫的責任

(sittliche Verschuldung)」と「絶対的に同一のもの(absolut eins und identisch)」

として理解している(58)。すなわち、Jakobsが指摘するように(59)、人倫の領域

への法の完全な発展の位置づけに関してHalschnerはHegelに従っているので

ある。それにもかかわらず攻撃客体(Angriffsobjekte)の区別は、不法種類の

区別の基礎になる。なぜならば、Halschnerが財産侵害に専ら焦点を当ててい

た(60)民法的不法は、「法それ自体、すなわち法秩序に対する、その法秩序がその

定在(Dasein)とその実効性(Wirksamkeit)を権限者の意思においてのみ持っ

ている限りにおいての [...] 否認」(61)を含むものであるが、いずれにせよそれは

「法自体の」定在であるからである。しかしながら権限者は、Halschnerによれ

ば、財産関係においては自己の(権限のある!)恣意(Willkur)においてのみ侵

害されうるのみならず、―その権限者自身によっても処分可能ではない―「法主体

性(Rechtssubjektivitat)」(62)においても侵害されうるのである。この後者の場

合において、客観的意味における法に直接的に違反する犯罪的不法が民法的不法

と競合するとされる。すなわち「しかし不法は、法それ自体、すなわち共通意志

(Gemeinwillen)に対する否認においてのみその積極的な存在を持つものであり、

決して被害者の個人的な意思に対する否認におけるものではないのである。けれ

ども法それ自体は、民法の領域においては、そしてそこにおいてのみ、その定在と

その実効性を •権  

•限  

•者 の意志の中に持つのである。」(63)

③論文「不法とその諸形式再論」においてHalschnerは自説を、その内容を本

されているが、『体系』(o. Fn. 29)の S. 1においては「財産 •

権  •

限 」としていた。(57) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 29.(58) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 34; ders., Unrecht II (o. Fn. 29), S. 402.(59) Jakobs, o. Fn. 17, S. 166.(60) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 86 ff., 101 ff.(61) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 90, 94.(62) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 103.(63) Halschner, Unrecht I (o. Fn. 29), S. 112[強調は原文].

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

質的に変更することなく、その後なされた批判に対して擁護している(64)が、ここ

では、Jakobs(65)が指摘するHalschnerの犯罪と民法上の(有責的な)債務不履

行の区別について触れておく。給付する義務があるのに給付しない者は、不作為

犯においては「積極的な態様で阻害的(storend)、所与の法状態において侵害的

(beschadigend)に」介入する者である(66)が、ある権限者が法的な規範に基づい

て請求するものを給付しない者は、この規範を「間接的に、権限者の意思を媒介し

てのみ」否認する者とされるのである(67)。この見解について Jakobsは「このこ

とは、たとえ単なる契約違反の場合においても、そのまま維持することはできな

い」と批判する。すなわち「たとえその不給付が権限者の意思を通じて媒介され

ていたとしても、その権限者が請求したならば、「約束は守られなければならない

(pacta sunt servanda)」という法原則の •直  

•接  

•的 な否認となるからである。」(68)こ

のような問題点は、当時の解釈論においては、「単なる義務(その内容において恣意

的に生成した契約義務)と―当該社会の構造を規定するがゆえに―保障された義務

の区別」(69)が、まだ十分に知られていなかったという事情に基づくものであろう。

④『共通ドイツ刑法』においては、行為者の将来の危険の徴憑としての責任の解

釈が繰り返されている(70)が、それ以外に民事不法と犯罪的不法の区別については

もはや、「法侵害の客体」には求められなくなった。すなわち、あらゆる有責な不

法は、「法的な規範に対する意志の矛盾(Widerspruch)の中に」に完全に存在し

ており、「それゆえこの区別は、有責な意志決定の差異とそれによって条件づけら

れた不法の外部的現象の差異においてのみその根拠を持つのである。」(71)

そして「不法 II」の記述と同様にHalschnerは、一方で「有責で、否定的な意

志の行動(schuldhaftes negatives Verhalten des Willens)」すなわち「義務と

して求められる慎重さの懈怠(Versaumnis der pflichtmaßig aufzuwendenden

(64) Halschner, Unrecht II (o. Fn. 29), S. 401.(65) Jakobs, o. Fn. 17, S. 166.(66) Halschner, Unrecht II (o. Fn. 29), S. 423.(67) Halschner, Unrecht II (o. Fn. 29), S. 423 f.(68) Jakobs, o. Fn. 17, S. 167[強調は原文].なおHegelについては ders., o. Fn. 17, S. 164:

Text zu Fn. 6参照。(69) Jakobs, System der strafrechtlichen Zurechnung, 2012, S. 27 f., 38, 84.(70) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 28.(71) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 25.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

diligentia)」と「ある給付をもたらさないことにおける故意的な違法性(vorsatzliche

Rechtswidrigkeit)」を区別している。これらの事例においては規範に反する意志

は受動的(passiv)なものであるが、規範を否定するものではない(72)。他方で、

犯罪の事例においてはその意志は「積極的な(activ)行動」(73)によって否認する

ものであり、この行動は「法に伴う強制(ein dem Rechte angethaner Zwang)

として」(74)現れる。ここでは一見、自然主義的な根拠づけがなされているかのよ

うに見えるが、Jakobsが指摘するように「この受動的なものと積極的なものを、

前者を法的に保障されていない権利を侵害するもの、後者を法的に保障された権利

を侵害するものと捉えるならば、この権利の質を不法の『外部的な現象』と表現す

る」のは不当なことであろう。

以上の①から④に至る記述を総括して、Jakobsは「Halschnerの不法に関する

記述は、あまりスムーズなものではない」と批判し、その問題点は、前述のAdolf

Merkelに対するHalschnerの反論に現れているとする。この反論は、たとえば

善意の占有におけるような場合は、自然的なだけの事象とは、占有意志は「自由

な行為」(75)であるという理由で異なるというものであった。しかし最大限の注意

を払っていたにもかかわらず、なお善意の占有者は、およそ「自由(frei)」占有

しているのであろうか?確かに、占有行動は自由であるが、「違法に持ち続ける行

動(rechtswidriges Vorenthaltungsverhalten)」は存在しない。というのもその

行動の違法性は、占有者の視角に入っていないからである。von JheringがAdolf

Merkelに対して、善意の占有者は適法に行為するものではなく不法なものである

と反論した(76)とき、von Jheringは財秩序(Guterzuordnung)のレベルで論証

を行い、その不法の概念に意義を唱えたのである。

これに対してHalschnerが占有において「自由な行為」を強調したとき、回避

不可能に善意の占有者が決して違反することのできない行動規則の領域において

占有者は「自由に」行動していることになるのである。Adolf Merkelは不法概念

(72) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 25.(73) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 26(74) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 27(75) Vgl. Jakobs, o. Fn. 17, S. 168: Text zu Fn. 19.(76) von Jhering, Das Schuldmoment im romischen Privatrecht, 1867, S. 4 ff. なお刑法

におけるイェーリンク説の継受について詳細に検討したものしては Pawlik, o. Fn. 19,S. 267ff.参照。

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

を帰責可能な規範違反に留保し、von Jheringは法においても財秩序が規制され

ていることを想起させたのに対し、Halschnerはあたかも両者において同じもの、

すなわち「自由な行為」が問題になるかのごとく論証したのである。Jakobsによ

れば「このA. Merkel/ Jhering論争によって […]明らかになった不法概念の機

能性(Funktionalitat des Unrechtsbegriffs)をHalschnerは再びごちゃ混ぜに

し」てしまったのである。

同様の問題として、Jakobsは、責任のない不真実性の例(77)を挙げる。最大限

の注意を払ったにもかかわらず、真実でないことを言ってしまったものは、誠実に

(wahrhaftig)話しているが、真実でないこと(Unwahres)を話していることに

なるとされる。Jakobsは、この見解に対して「この真実でないことは、 •話  

•す  

•こ  

•と 

(Sprechen)が『自由な行為』であるがゆえに真実でないわけではなく、言明さ

れた内容が誠実性の機能連関(Funktionszusammenhang)とは異なる他の機能

連関においては、それが『真実でない(unwahr)』と表現されるからでなのであ

る」(78)と批判している。

(2)行為(Handlung)

山田は、von Bubnoff(79)を参照して、Halschnerが『ドイツ刑法』において

帰属理論において行為をいかに説明しているかについて次のように記述してい

る。すなわちそこではまず①行為要素として (a)意思決定、(b)外界において発

生した変化、すなわち結果(Außenerfolg)、(c)それに基づいて結果が答責的原

因(verantwortliche Ursache)としての意思に関係する因果関係であり、自由意

志のすべての活動は行為であるとされる(80)。次に②行為の基本構造についてはHalschnerも行為の計画的(思考的)部分/実現的部分を区別し、両者を行為者

の追求する目的が実現する過程とみる(81)。ここで注目されるのは von Bubnoff

も指摘するように、目的的行為論と同様の「行為概念の目的的性格(der finale

(77) Vgl. Jakobs, o. Fn. 17, S. 168: Text zu Fn. 20.(78) Jakobs, o. Fn. 17, S. 168[強調は原文].(79) von Bubnoff, o. Fn. 29, S. 77-87.(80)山田・前掲(注 1)95頁。なお同・127頁以下では、これは「当時の刑法学者の趨勢に

従って、客観的因果関係を犯罪論体系に取り込」んだものであるとする。(81)山田・前掲(注 1)95頁。

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法律論叢 93巻 2・3合併号

Charakter des Handlungsbegriffs)」(82)が明らかになるのである。そして③行

為と結果においては「行為者の活動において惹起された結果が意欲の内容を形成し、

したがって、それが意図され、結果惹起ないし因果的媒介の方法が行為者の表象に

一致するときに結果は故意に惹起されたものとして帰属される」(83)ことになる。

以下ではそこで論じられていない『ドイツ刑法』以前のHalschnerの議論を、特

にHegelの法哲学の「道徳」において取り扱われていた問題に重点をおいて検討

していこう(84)。Halschnerによれば、犯罪(Verbrechen)は、「その根拠を意志

または自由の中に持つものである。すなわち、それは行為能力の前提の下で可能な

ものであり、行為の形式において現実的なものになる。」(85)そして帰属は、「ある

法的な財の損害がその原因をある人間の意志の中に持つという判断」(86)として理

解される。Halschnerは、①衝動、②恣意そして③積極的な自由という段階づけをもって

論証している(87)。衝動は、それが「自己意識の行為において」世界に「思考する

自我」を対置させ、それを通じて「選択する力」としての恣意が生じることによっ

て「現実の意志」となるのである。しかし、それによって自由の現実性ではなく、

その可能性だけが提供されるに過ぎないとされる。「なぜならば恣意においては、

自由は決定されることの否定としてのみ現れるからである。」(88)意志は、その「人

倫的発展」を通じて初めて「積極的な自由」へと達し、「知性」の陶冶、意識の思

考する秩序、要するに「人倫的理念」(89)の実現となるとされるのである。

犯罪は、Halschnerによれば、自由でない・自然的意志からは生じない。なぜ

なら、それは人倫的に中立的だからである(90)。しかし積極的に自由な意志も犯罪

の根拠とは考えられない。なぜならば、「その行為のあらゆる点において良きもの

であり人倫的なものとして」現れるからである(91)。むしろ犯罪の根拠は、「理性

(82) von Bubnoff, o. Fn. 1, S. 85.(83)山田・前掲(注 1)95頁。(84) Hegel (Fn.5), §§ 105 ff.(85) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 95.(86) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 97.(87) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 99 f.(88) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 99.(89) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 100.(90) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 100.(91) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 100. -同様にKostlin, System des deutschen

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

的目的を設定すること」において成立し、そして、善ではなく悪を選択することに

よって自らそれを否認する恣意である。すなわちそれは選択であり、自然や衝動で

はなく、達成された人倫的発展を否認する選択なのである(92)。「この否認の設定

において自然的意志の無辜と、そして人倫的意志の責任の無さと対置される非人倫

的な悪しき意志の責任が存する。」(93)この悪いという判断の基準は、「単に客観的

にだけではなく、同時に行為者にとって主観的妥当と意味」を持つものでなければ

ならず、そしてそれをこの行為者は「良心」の「人倫的発展」によって持つとされ

るのである(94)。Jakobsは、この意志の段階づけの記述は、Hegelの『法哲学』の第 4-29節の自

由意志の理論に負っているものであるが、その記述においては「量的な差異」が

あることに注目し、その違いは、それが書かれた文脈、すなわちHalschnerが刑

法の教科書において意志の段階づけを行なったということに基づくものであると

して以下のように述べている(95)。Hegelにおいて「道徳的観点は […] 主観的な

意志の法」であり(96)、この意志は、対自的に自由な意志として、また主観性の条

件として、自由の •形  

•式  

•的 な現実性として理解されている(97)のに対し、Halschner

はその意志を •実  

•質  

•的 な現実性として、「人倫的な理念」(98)として扱っている。す

なわち、Hegelにおいては、犯罪の意志的側面は、主観性(99)で十分なのに対し、

「Halschnerにおいては、実質的な自由の人倫的状態に、犯罪においては否認がそ

れに対して表示されていなければならないとしても、達していなければならない

のである。」この差異は、Hegelにおいては、道徳性の段階では良心は形式的なも

のに止まり(100)、真実の(wahrhaft)ものではない(それは国家市民的意識と政

Strafrechts. Erste Abtheilung. Allgemeiner Teil, 1855 (Nachdruck 1978), S. 128(§47 a. E.).

(92) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 101, 280f. しかしS.286においては「それ自体非人倫的所為」は「不自由な」ものとされるが、この不自由さは「自由をもって設定された」ものであり「絶対的ではない」とされる。

(93) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 101, 281.(94) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 102.(95) Jakobs, o. Fn. 17, S.(96) Hegel, o. Fn. 37, § 107.(97) Hegel, o. Fn. 37, §§ 105, 106, 108 Z (S. 141).(98) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 99.(99) Hegel, o. Fn. 37, § 113 A.(100) Hegel, o. Fn. 37, § 137 A.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

治的心情において初めて真実のものとなるのである(101))のに対し、「Halschner

は、良心形成(あるいはむしろその有責的な不形成)を行為者に対する法の妥当

根拠としているのである」(102)。そして Jakobsはこのことを子供の帰属能力の例

によって説明する。Hegelは帰属能力を意図(Absicht)の枠内において取り扱っ

ている。すなわち子供は自分の行いの普遍性に関する洞察能力を欠くとする(103)。

しかし Jakobsによれば、このような結論は説得性を欠くものである。例えば、9

歳の鶏泥棒は、自分の行いの普遍性を知らずに行なっているに違いないといえない

であろう。「人倫的な」、すなわち社会的な成熟の欠如という説得的な理由づけは、Hegelのいう「道徳性」の段階では論拠することはできないであろう(104)。

Halschnerは、Hegelに従わず、子供には「法的良心」が欠けるとした(105)。

彼は、いかにこの良心が領域的には進んだ教育と自己陶冶によって、例えば家庭や

学校においては、刑法的な責任を問うことなしに、問題行動については懲戒権が行

使されることにより、形成されるかを詳細に論じている(106)。このように刑法の

文脈においては「故意」や「意図」の問題をHegelのように主観的な「道徳性」の

問題としてのみ取り扱うのではなく、Halschnerのようにすでに社会的な「人倫」

の問題として捉えるのが妥当なのである。

さらにこのような差異は、行為概念にも影響を与えるものである。山田もそのこ

とを指摘しているように(107)、Halschnerは積極的自由においてアプローチした

ので、帰属能力のない者は行為できないとする(108)のに対し、Hegelにおいては

(『法哲学』の第 120節で示されているように)道徳性での自由の形式的な現実性

の問題とされるので、非常に年少の者でなければ、子供も完全に行為しうることに

(101) Hegel, o. Fn. 37, § 267 f. passim.(102) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 100.(103) Hegel, o. Fn. 37, § 120 A.(104) Jermann (Die Moralitat, in: ders. [Hrsg.], Anspruch und Leistung von Hegels

Rechtsphilosophie, 1987, S. 101 ff., 107)は、帰属 •

無 能力者のみに「思考するものであり意志である名誉」が欠けるとするHegelの定式化([Fn.5], §120 A a.E)を指示している。しかしこの欠陥は認知的な過ちのみならず、道徳性の段階に位置づけられる意志の過ちに基づくのである。

(105) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 104.(106) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 104 f., 287.他のヘーゲリアーナーのこの問題に関

するアプローチについては Jakobs, o. Fn. 17, S. 170 f., Fn. 65参照。(107) Jakobs, o. Fn. 17, S 171.(108) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 120 f.

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

なる(109)。しかしこれは矛盾しているのではなく、語られている文脈が異なるこ

とに基づくのである。

しかし、Jakobsが指摘する(110)ように、Halschnerの理論においては、帰属無

能力者が行為できないのならば、なぜ「その他の」責任のない者、例えば回避不可

能な錯誤者は行為することができるとするのかという問題がある(111)。Halschnerは、明示的に回避不可能な錯誤者は行為すると述べており(112)、

Bindingの反対説(113)を「奇妙な」ものとしている(114)が、この批判を深めては

いない(115)。この点においては、Halschnerは一貫していないと言わざるをえな

いのである。

山田も指摘するように(116)、行為の要素は、Halschnerにおいては(1)外部的

結果、(2)「内部的意思決定」および(3)結果と意志の間の原因と効果の関係であ

る(117)。この「結果と意思決定の媒介」は、密度の異なるものでありうる。すな

わち、完全な一致の場合には、責任もまた「完全な」ものであるが、意志の側面ま

たは結果の側面で不完全な一致となれば、責任は減少する(118)。すなわち、故意、

過失および未遂の問題である。

(3)故意と結果

Halschnerの時代には、周知のように故意(Vorsatz)と意図(Absicht)は区

別されていたが、山田も指摘するように(119)、Halschnerは「意図を […] 結果

(109) Jakobs, o. Fn. 17, S. 171 Fn. 67は、これに反対する von Bubnoff(o. Fn. 29, S. 83)の見解は、道徳性と人倫における自由の異なった段階を考慮していないと批判している。

(110) Jakobs, o. Fn. 17, S. 171.(111) 正当化され、その他許された行為については Jakobs, o. Fn. 69, S. 22 f., 59 f.を参照。(112) Halschner, Unrecht II (o. Fn. 29), S. 403, Fn. *.(113) Binding, Die Normen und ihre Ubertretung. Bd.2. Schuld und Vorsatz. 1. Halfte.

Zurechnungsfahigkeit, Schuld, 2. Aufl. 1914 (Nachdruck 1965), S. 161 ff.; これについてはArmin Kaufmann, Lebendiges und Totes in Bindings Normentheorie,1954, S. 25 ff.

(114) これについては von Bubnoff, o. Fn. 29, S. 78 ff.も参照。(115) 不法については上述 II.A.を参照。なお今日における不法と責任の混合については

Jakobs, o. Fn. 69, S. 55, Fn. 113; Pawlik, o. Fn. 19, S. 259 ff.を参照。(116) 山田・前掲(注 1)94頁。(117) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 121.(118) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 121.(119) 山田・前掲(注 1)95頁。

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法律論叢 93巻 2・3合併号

(Erfolg)に、[…] 故意を活動(Thatigkeit)に」結びつけていた(120)。しかしJakobsは「この区別は、用語的にも実体的にも、[…]不適切なものであった」とし

て、同様の不適切さを示す例として、次のようなHegelの記述を挙げている。す

なわちHegelは、『法哲学』における道徳性の部(第 119節以下)の中頃において

意図を福利(Wohl)と結びつけ、その限りでは説得的なことであるが、目的追求

(Zweckverfolgung)と幸福(Gluckseligkeit)(121)を「あたかも兄弟姉妹のよう

に」同行させた。しかし意図は、Hegelにおいては「行為の普遍的な性質」(122)を

際立たせる任務をも持ち、そのような行為と典型的に結びつく効果の考慮なのであ

る。注目すべきことに、Hegelは、実はその問題性を意識していた。すなわち、付

随的なものではあるが、しかし批判的ではない間接故意(dolus indirectus)への

言及(123)の後で、彼は「意図の法」と並んで「行為の客観性」の法を提示し、しか

もそれを「思考する者(Denkender)」(124)の行為としたのである。

しかしHegelは、この問題が意図だけではなく、既に彼が道徳性の部の最初の

章「故意と責任」において取り扱った故意にもあることを十分考えていなかったとJakobsは指摘する(125)。

Hegelは、行為の必然の結果と偶然の結果を区別し(126)、その際、前者(必然の

結果)を「行為の自己の内在的な形成として […]その性質(Natur)のみを」示す

(120) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 123; ders., Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 278.(121) 権限のある幸福としての福利(Das Wohl als die berechtigte Gluckseligkeit):

Hegel, Enzyklopadie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1830:Dritter Teil Die Philosophie des Geistes, in: Werke (o. Fn.37) Bd. 10, System derPhilosophie. Teil 3, Frankfurt a. M. 1970, § 505 a.E.

(122) Hegel, o. Fn. 37, § 120.(123) Hegel, o. Fn. 37, § 119 A (a.E.);これについてはKarl Ludwig Michelet, Das System

der philosophischen Moral mit Rucksicht auf die juridische Imputation [,] dieGeschichte der Moral und das christliche Moralprinzip, 1828 (Nachdruck 1968),S.87f., 89ff.; Pawlik, o. Fn. 19, S.396 mit Fn. 816; Lesch, o. Fn. 10, S. 148 f.;Stuckenberg, Vorstudien zu Vorsatz und Irrtum im Volkerstrafrecht. Versucheiner Elementarlehre fur eine ubernationale Vorsatzdogmatik, 2007, S. 572 ff.

(124) Hegel, o. Fn. 37, § 120.(125) Jakobs, o. Fn. 17, S. 172.(126) 「必然的」と「偶然的」は、可能な帰結の領域においては一致しない。想定されている

のは、行為の性質から説明されうる、すなわち典型的な帰結と、「行為の性質には何の関係も持たない」(Hegel [Fn. 5], § 118 A)、その外部から帰結する非典型的な帰結の差異である。

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

ものであり、「それ自身に他ならない」ものであるとした。すなわち「それゆえに、

行為もこれらの結果を否認したり、軽視したりすることはできない」(127)ことにな

るのである。Jakobsが指摘するように、そこでは心理学化された主観主義とは全

く異なり、必然的な結果による負責は発生しなかった結果による減免と結びつき、

未遂はより軽く処罰されうることになるのである(128)。このような問題意識は、

他の刑法上のヘーゲリアーナーと同様に(129)、Halschnerの考察においてはわず

かにしか見られず、その結論にも全く反映されていない。例えば、HalschnerもFeuerbach以来否定されるべきものとみなされてきた間接故意(dolus indirectus)

を参照している(130)が、当時の初期自然主義的潮流の中で、残念なことに、これ

を行為の個人的な意味とその社会的意味を架橋する試みとして理解することは全

くなかったのである。

(4)過失

すでにMicheletは、過失(「見逃し(Versehen)」)をHegelの帰属論へと、と

りわけ「慎重義務(obligatio ad diligentiam)」の導入によって、統合しようと試

みた(131)。Kostlinも彼に従った(132)。このような流れの中で過失行為に関して、

最も成功し、「まさにHegelの精神に由来する理由づけを示した」のがHalschner

であると Jakobsは評価する(133)。すなわち、Halschnerは「行為者が、その行為

者に故意と意図として […]その自由な原因を行為者自身が認識したことのみ」が

帰属されるならば、「この権利に他面では、意図の実現においても現実に自由な態

様で行動する行為者の義務が対応する」(134)とした。ここにおいてHalschnerは、

(127) Hegel (Fn. 5), § 118 A;これについては Jakobs, o. Fn. 17, S. 172 f., Fn. 81で非常に詳細に検討されている。Vgl. Britta Caspers, ,,Schuld“ im Kontext der HandlungslehreHegels, Hamburg 2012, S. 19, 183 ff., 439 ff.; Lesch, o. Fn. 10, S. 75 ff., 99 ff.;Pawlik, o. Fn. 19, S. 382 ff.

(128) Hegel (Fn. 5), § 118 A.[訳は上妻精・佐藤康邦・山田忠彰『ヘーゲル・法の哲学・上巻』(岩波書店・2000年)190頁による。]

(129) これについてはStuckenberg, o. Fn. 123, S. 573 f.等を参照(130) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 132 f.(131) Michelet (Fn. 78), S. 62.(132) Kostlin, Neue Revision (Fn. 65), S.227ff., 229 (§98f.).(133) Jakobs, o. Fn. 17, S. 173 f.(134) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 148.

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法律論叢 93巻 2・3合併号

行為者を、その行為者について「あてもなく(ins Blaue drauf-los)」行為したと

か、考えなしに行為した(135)ということのできない「思考する者」として取り扱っ

ている。慎重義務を通じてその思考の瑕疵は間接的な意志の瑕疵になり、それゆえ

過失によって惹起された結果は、帰属されうるのである。現代の理論に即していえ

ば、行為するものはその活動に対し、社会生活上の安全義務(136)を負うのである。

さらにHalschnerが、過失行為者の過ちは自己の行いの結果への洞察を持たなかっ

たことではなく(そのような洞察があれば故意行為になるであろう)、洞察が可能

であったにもかかわらず行為し、結果を回避しなかったことになるとした(137)こ

とを Jakobsは、「非常に鋭い」(138)ものであると高く評価しているのである。

(5)不作為

不作為犯は、Halschnerの『体系』にとって何の役割も果たさず、『ドイツ刑法』

においては、因果関係の枠内で扱われた(行為衝動の行為による抑圧による不作為

犯)(139)。後者において、Halschnerは「行為という上位概念の下に積極的な行為

と不作為(消極的行為)を包括している」が、むしろ「不作為犯という現象に対し

ては、彼の行為概念からは、否定されなければならない」と von Bubnoffは批判

し(140)、Jakobsも「それに何も付け加えるものはない」(141)としてこの批判に賛

同している。

5. 今後の検討課題

以上でHalschnerの帰属論を概観したが、Halschnerは、Hegel説の単なるエピ

ゴーネンではなく、成功した部分と失敗した部分があるが、Hegel説を参照しつつ

もそれを刑法の文脈において批判的に発展させようとした「善きヘーゲリアーナー」

(135) Jakobs, Drei Bemerkungen zum gesellschaftsfunktionalen Schuldbegriff, in:Festschrift fur Kristian Kuhl, 2014, S. 279ff., 287ff.

(136) Jakobs, o. Fn. 135, S.288; Pawlik, o. Fn. 19, S. 302 ff., 341 ff.(137) Halschner, System (o. Fn. 29), S. 157.(138) Jakobs, o. Fn. 17, S. 174.(139) Halschner, Dt. Strafrecht (o. Fn. 29), S. 234 ff.(140) von Bubnoff, o. Fn. 29, S. 86 f.(141) Jakobs, o. Fn. 17, S. 174.

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ヘーゲル学派における帰属論:Hugo Halschnerを中心として(川口)

であったことが、また過失犯などその理論の一部は、現代の理論に通じる意義を

持つことが確認できたことは収穫であった。また不法論に関するMerkel/Jhering

論争(142)との関係などもなお検討を要する興味深いテーマであるといえよう。今

後は、他のヘーゲリアーナー達との比較を通じて、ヘーゲル学派の刑法学説史にお

ける意義を再評価するとともに、ヘーゲル学派の森を出て、山田論文でも取り扱わ

れている(143) Adolf MerkelからBindingを経て von Liszt、Belingの自然主義的

犯罪論に至る険しい道のりを辿って行きたい。

(明治大学法学部教授)

(142) これを検討した最近の日本の論文として岩本尚禧『民事詐欺の違法性と責任』(日本経済評論社・2019年)91頁以下がある。

(143) 山田・前掲(注 1)101頁以下(A. Merkei)、107頁以下(Binding)、114頁以下(vonLiszt)、118頁以下(Beling)。

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