研究ノート 仮想的評価法(cvm)による便益計測...

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138 研究ノート Research Note 研究ノート 仮想的評価法(CVM)による便益計測に おける集計範囲設定の課題と展望 今野 水己  岩瀬 広 社会資本整備の目的の重点が、効率性や防災性等を主眼とした量的充実から、快 適性や自然環境・景観などにも配慮した質的充実に移行しつつある中、こうした目 的に係る事業の便益計測手法として CVM(Contingent Valuation Method; 仮想的 評価法)が注目されている。CVM に関しては、質問方法等が支払意思額に与える 影響等についてはこれまでに多くの研究が蓄積されているものの、便益を計測する 際の集計範囲の設定方法についての研究の蓄積は十分ではない。 そこで本稿では、これまで十分な議論がなされていないにも関わらず、実務的に は大きな影響をもたらし、かつ課題となっている集計範囲の設定に着目し、研究を 行った。 具体的には、既存文献レビューに基づき、これまでの集計範囲設定方法を分類整 理し、それらの課題を明らかにするとともに、昨今の事業評価における新たな動向 を踏まえ、事後評価結果の活用、並びにそのための体制の構築が求められることを 示した。 1.はじめに 2.既存文献における集計範囲設定の取扱い 3.従来の集計範囲設定の考え方とその課題 3.1 WTP 距離減衰方式 3.2 利用率・認知率方式 3.3 WTP 信頼性方式 4.課題への対応 - 事業実施後のデータの活用 - 4.1 課題の整理 4.2 事業実施後のデータの活用の現状 5.事後評価結果を用いた集計範囲設定の考え方 5.1 事例活用方式 5.2 事業実施前後指標関連方式 6.結語 6.1 事業実施後のデータ活用体制の構築 6.2 今後の検討課題 要 約 目 次

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138 研究ノート Research Note

研究ノート

仮想的評価法(CVM)による便益計測における集計範囲設定の課題と展望

今野 水己  岩瀬 広

社会資本整備の目的の重点が、効率性や防災性等を主眼とした量的充実から、快適性や自然環境・景観などにも配慮した質的充実に移行しつつある中、こうした目的に係る事業の便益計測手法として CVM(Contingent Valuation Method; 仮想的評価法)が注目されている。CVM に関しては、質問方法等が支払意思額に与える影響等についてはこれまでに多くの研究が蓄積されているものの、便益を計測する際の集計範囲の設定方法についての研究の蓄積は十分ではない。

そこで本稿では、これまで十分な議論がなされていないにも関わらず、実務的には大きな影響をもたらし、かつ課題となっている集計範囲の設定に着目し、研究を行った。

具体的には、既存文献レビューに基づき、これまでの集計範囲設定方法を分類整理し、それらの課題を明らかにするとともに、昨今の事業評価における新たな動向を踏まえ、事後評価結果の活用、並びにそのための体制の構築が求められることを示した。

1.はじめに2.既存文献における集計範囲設定の取扱い3.従来の集計範囲設定の考え方とその課題 3.1 WTP 距離減衰方式 3.2 利用率・認知率方式 3.3 WTP 信頼性方式4.課題への対応 - 事業実施後のデータの活用 - 4.1 課題の整理 4.2 事業実施後のデータの活用の現状5.事後評価結果を用いた集計範囲設定の考え方 5.1 事例活用方式 5.2 事業実施前後指標関連方式6.結語 6.1 事業実施後のデータ活用体制の構築 6.2 今後の検討課題

要 約

目 次

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139仮想的評価法(CVM)による便益計測における集計範囲設定の課題と展望

Summary

Contents

Research Note

Issues and Prospects of Defining the Extent of Aggregation by CVM (Contingent Valuation Method) Benefit MeasurementMizuki Konno, Hiroshi Iwase

There has been a shift in social infrastructure development from quantitative improvements such as efficiency and disaster prevention to those of a more qualitative nature such as amenities, natural resources and the environment. As a result, CVM (Contingent Valuation Method) has been garnering interest as a method to measure the benefits of qualitative objective-oriented projects.

There has been a great deal of research that analyzes bias problems resulting from questionnaire methodology/techniques, but little research with indices to define the extent of WTP (willingness to pay) aggregation to measure project benefits. This study will focus on the latter which we deem as a significant approach to evaluate a project pragmatically.

This report will concretely deal with presenting the varied approaches, dealing with the extent of aggregation from the existing literature and underscoring the issues and the need for the application of post-project evaluations that has recently been in operation in our country.

1.Introduction2.How to deal with the scope of aggregation from the existing literature3.Approaches on defining limits and issues of aggregation 3.1 Use of WTP reduction by distance 3.2 Use of utilization / cognitive ratio 3.3 Use of WTP credibility4.Dealing with issues / application of post-project data 4.1 Adjustment of issues 4.2 Current state of post-project data application5.Defining the extent of aggregation using post-project data 5.1 Application Method of post-project data 5.2 Correlation method of pre / post-project indices6.Conclusion 6.1 Formation of post-project data application system 6.2 Further issues to consider

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140 研究ノート Research Note

1.はじめに道路、鉄道、空港、治水設備等の社会資本は、第二次世界大戦以降、量的な充実に力点を

置いて整備が進められてきた。事業評価の方法についても、現在の費用便益分析を中心とした評価体系において、便益計測の対象となる効果項目は、所要時間短縮効果や災害時の期待被害額減少効果などの整備量に応じて発現するものが多い。

その結果、社会資本整備に係る各種審議会答申等においては、生活の利便性や防災性は一定の水準に達しており、今後は、快適性や安心感、自然環境・景観など、多様な価値観に基づく質的な充実に力点を置くべきことが示されている。

このような流れに対応して、CVM(Contingent Valuation Method; 仮想的評価法)等、これまで計測困難とされていた効果を貨幣価値として計測する手法や、MCA(Multi Criteria Analysis; 多基準分析)等、多様な効果を必ずしも貨幣換算せずに代替案の優先度比較を行う手法の検討が始まり、実務での適用も進められている。

CVM については、これまで、調査方法、質問方法等が WTP(Willingness to Pay; 支払意思額)に与える影響(いわゆるバイアスの問題)について多くの分析事例が報告されている(例えば[1][2][3])。

一方、事業の便益を算出するためには、WTP、すなわち 1 世帯または 1 人の効用増に対する便益原単位を求めるだけではなく、それに受益者となる世帯数等を乗じて便益を集計するというステップが必要である。そのためには、どれだけの世帯等を集計の対象とするかを決定する必要がある。この便益の集計対象の設定が便益額に与える影響は、上記のバイアスの問題と同等、またはそれ以上に大きいと考えられる。

WTP が利用者ベースで把握される場合は、需要予測に基づく利用者数を集計対象とすればよいが、CVM が居住世帯ベースで行われる場合は、集計対象とする世帯を事業実施箇所からどの程度の範囲までとするかを決める必要がある。しかしながら、その適切な設定方法についてはこれまで十分な議論がされておらず、実務的には大きな課題となっていると言える。

そこで本稿では、このような居住世帯ベースで実施される CVM におけるこれまでの集計範囲設定の考え方を分類整理し、それらの課題を明らかにするとともに、昨今の事業評価における新たな動向を踏まえ、事後評価結果の活用の必要性を示した。また、どのような調査をすれば便益帰着範囲が明らかになるのか、という課題について、3 つの仮説を提示した。

2.既存文献における集計範囲設定の取扱い

一般的に WTP を集計する際の世帯数は、ある事業が実施される地点を含む一定の地理的範囲内の居住世帯数になると考えられる。この地理的範囲は、原則的には計測対象とする便益の及ぶ範囲(便益帰着範囲)とするのが合理的である。ここで、CVM で計測対象とする効果の便益帰着範囲はどのように把握すればよいのか、という課題に直面する。

CVM は、価格及び市場が実在しないような財・サービスの価値を計測できることに特徴があり、こうした財・サービスは「非市場財」と呼ばれる。非市場財の価値は一般に図 1 のように分類される。

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図 1.非市場財の価値の分類

非市場財の価値 利用価値

直接的利用価値 :実際に利用することにより満足する価値 (また、映像や写真を通じて、景観等を見ることを間接的利用  価値(Indirect Use Value)として分ける場合もある)

オプション価値:将来何らかの確率で享受するかもしれない価値

オプション利用価値:現在の個人が将来において享受するかもしれない価値

代位価値:自分は利用しないものの、他の人が利用することによって満足 する価値

遺産価値:子供や孫など将来の世代が価値を享受することに満足する価値

非利用価値 :利用しないものの、満足する価値

存在価値:実際に利用しないし、将来的にも利用する可能性がないものの、存在 すること自体がもつ価値

:利用することにより満足する価値

作成:森杉[4]に三菱総合研究所加筆

このうち、利用価値については、便益帰着範囲は比較的明確であり、利用実態調査、あるいはヘドニック法や旅行費用法等により便益帰着範囲を得ることができる(例えば[5])。しかし非利用価値については、便益帰着範囲は不特定の範囲に及ぶと考えられ、これを一定の範囲として求めることは難しい。このことを、CVM に関する技術的・学術的なマニュアル・手引きと言える文献における記述を概観することにより確認してみる。

まず、K. Arrow et al. [6](いわゆる NOAA ガイドライン)は、環境破壊に対する訴訟の場合、被害を定義するための適切な人口としては、訴訟を行う法的に定義可能なグループの人口(trustees on behalf of a legally definable group)を用いるとしている。しかしながら、ここでは環境破壊に関する訴訟を対象としており、公共事業評価において法的に定義可能なグループを集計範囲としてよいかどうかの判断は容易ではない(例えば県の事業だからといって県全体を集計範囲としてよいか、等)。

R. Mitchell et al. [7]は、個人の WTP を集計する際の課題について論じているが、その範囲設定方法については言及していない。

栗山[8]は、環境価値の推定を行う際の支払意思額や受入補償額に乗じる対象世帯数は、評価対象である自然環境の影響を受ける人々であり、例えば、レクリエーションであれば訪問者、水源保全であれば下流住民であるとしているが、生態系保全であれば不特定多数の一般市民になるとしており、対象世帯数の設定の判断は容易ではないことを示唆している。

鷲田[9]は、生態系等の価値推計の際の集計すべき人口の範囲は大きく広がらざるを得ず、国や自治体などの行政組織の区分が用いられる、としており、どの行政組織までを範囲とすればよいかについての示唆はない。

肥田野[10]は、集計範囲* 1 の設定は非常に重要だと指摘した上で、それは何を評価したいかによって決まり、明確にとることのできるものに限定すべきであり、市町村 / 都道府県な

*1 肥田野は「母集団」という用語を用いているが、「CVMでは、標本調査によって算出された世帯のWTPを、

母集団全体に拡大することが多い。」と後述しており、「母集団」と「集計範囲」は同じものを示すと判断した。

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ど自治体単位が望ましい、としている。しかしながら、どの市町村までとするべきかについては言及していない。

竹内[11]は、特に非利用価値について、誰もが納得することができるような影響の及ぶ範囲を決定するのは、困難な作業であると指摘している。

以上のように、非利用価値の便益帰着範囲を決定することは難しく、集計範囲の設定方法、あるいは設定の妥当性の検証方法に関する実務的に有益な示唆はほとんどないのが現状である。

一方、現在の公共事業の評価に係るマニュアル類* 2 においても、表 1 に示すような形で範囲設定の考え方が示されているが、具体的な範囲設定方法は明確でないものもあり、各事業評価の実務担当者は、既存事例を収集する等の労力をかけて個別に検討する必要があるという状況にある。

表1.現行マニュアル類での集計範囲の取扱い事業(所管部局) 対象効果 集計範囲の取扱い

小規模公園整備事業[12]

(国土交通省都市・地域整備局)

1.一般的なモデルでは計測対象となっていな  いような項目* 3

・遺跡・史跡の保存・保護も視野に入れた特別な公園

・災害時の貯蔵機能が拡充された特別な公園・地域としてのシンボル的な役割を持つ特別な公園

・稀少動物・植物が存在する特別な公園・立地条件から土砂災害防災に特別な効果のある公園

・親水空間のあるような特別な公園2.一般的な公園とは整備レベルが異なり、よ  り効果が大きく出ることが考えられる項目・他の周辺施設との一体整備が計画されており、利用形態が通常と異なるような公園

計測項目の及ぶ範囲を計測者が設定する。例えば、災害時の貯蔵機能のような場合は、その公園を避難地としているような地域。ただ、遺跡・史跡の保護や稀少動植物の保全の場合、その価値の大きさにより、効果の及ぶ範囲が異なることが考えられる。このような場合でも、最大でも所在県までを範囲内とする。

下水道事業[13]

(国土交通省都市・地域整備局) 公共用水域の水質保全効果環境価値を認めるであろう全ての家屋(水質が向上する全体計画区域内の家屋、処理水の放流先より下流かつ当該公共用水域関連世帯、等)。

都市再生総合整備事業・市街地環境整備事業[14]

(国土交通省総合政策局、都市・地域整備局、住宅局)

施設存在便益、市民文化向上便益等 受益者の地域分布を考慮し、適切なエリアでアンケートすること。

河川環境整備事業[15]

(国土交通省河川局)河川環境(水環境、河川形状、生物等の多様性、河川空間等)の価値変化

既存調査事例等をもとに適切な集計範囲を想定し、それを含む市区町村等を単位として調査範囲を設定。集計範囲は調査範囲を限度として、WTPの信頼性に関する要素を検証した上で設定。

港湾整備事業[16]

(国土交通省港湾局) 公害の防止、生態系や自然環境の回復・保全

港湾緑地整備箇所の周辺に居住する住民に対するアンケート調査の実施等により、プロジェクトの認識度、利用意志等を分析し、受益範囲を設定することが望ましい。

海岸事業[17]

(国土交通省河川局・港湾局)災害による精神的被害軽減、海岸利用・海岸環境保全 過去の事例や他事例を参考に設定。

作成:三菱総合研究所

*2 正式なマニュアル以外に、参考となる手引き等も含め、ここではマニュアル類と標記している。

*3 一般的なモデルで計測対象となっている項目とは、効用関数法(プロジェクトの実施により、関係者の

持つ望ましさ(効用)の変化から便益を貨幣価値で評価する方法)により計測されるもので、具体的に

は「実際に公園を利用する、または将来の利用を担保する価値」「都市景観の向上、都市環境を維持・

改善する価値」「震災等災害時に有効に機能する価値」としている。

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3.従来の集計範囲設定の考え方とその課題筆者らは、河川局における範囲設定の検討に携わったが、そこでは理論的に便益帰着範囲

を把握することが困難であることを踏まえ、実務的な観点から範囲設定のあり方について検討しており、現段階で最も踏み込んだ内容になっていると考える。そこで、ここでは河川局において検討された範囲設定方法についての考え方を紹介し、その課題を整理する。

3.1 WTP 距離減衰方式

事業の実施に伴う受益者(ここでは共通して世帯を受益者の単位ととらえる)の満足度の増加は、事業実施箇所から遠ざかるに従って減衰し、最終的にはほぼゼロになると考えられる。そこで、WTP の距離減衰傾向を確認し、WTP がほぼゼロになる範囲までを集計範囲とする方法が考えられる。

しかしながら、実際には図 2 に示すように、WTP はゼロにまで減衰せず、減衰傾向も明確には把握されない。その理由としては、以下が考えられる。

1) 自然環境の保全のような非利用価値的効果に対する満足度の向上は、当該箇所への 訪問機会がない遠方の世帯でも持ちうる。

2) CVM の計測精度の限界から、事業の実施に対してほとんど価値を感じていなくても 何らかの WTP が回答されてしまう。

なお、1 つめの課題への対応として、図 3 に示すように、水質改善施策を対象に、利用価値に係る WTP と非利用価値に係る WTP を分離計測し、前者の減衰傾向を明確にとらえ、WTP=0 となる距離を外挿的に示した事例は存在するが、依然として非利用価値に係るWTP の集計範囲をどうするかという課題は残る。

図2.WTP距離減衰方式のイメージ

集計範囲WTP

事業箇所からの距離

実際は、WTP=0にまで減衰しない

出所:三菱総合研究所

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144 研究ノート Research Note

図3.利用価値に係るWTPと非利用価値に係るWTPの分離計測例[18]

0

100

200

300

400

500

600

700

800

900

100m以下 (N=48)

100m~200m (N=32)

200m~500m (N=96)

500m~1km (N=151)

1km~2km (N=235)

2km~3km (N=225)

3km以上 (N=108)

(円)

利用価値 非利用価値 寄付的行為

出所:財団法人リバーフロント整備センター [18]

3.2 利用率・認知率方式

事業箇所の利用経験や、事業箇所の現状あるいは事業の必要性等に対する認識がある世帯には、事業に対する支払意思額があると考えられるが、事業箇所を訪問したことがなかったり、知らないという世帯の場合、支払意思額はほとんど表明されないと考えられる。

そこで、CVM アンケートにおいて、事業箇所の利用や、事業箇所に対する認知の有無について質問することにより、距離帯別に利用率や認知率を求め、それをもとに集計範囲を設定するという方法が考えられる。河川局で行った事例分析によると、利用率や認知率はWTP に比べて距離減衰傾向が明確なため、これらを集計範囲設定の指標として活用する方法が考えられる。

しかしながら、これについても以下のような課題がある。

1) 実際には利用率や認知率が完全にゼロになる距離帯を見いだすことはできないため、 何らかのしきい値を定める必要があるが、それが明確ではない。

2) 事業実施前の利用率や認知率をもって事業実施後の受益の範囲を設定するのが適切 とは必ずしも言えない。

3.3 WTP 信頼性方式

「3.1 WTP 距離減衰方式」において、「事業の実施にほとんど価値を感じていなくても何らかの WTP が回答されてしまう」という計測精度の課題を取り上げたが、これを逆に利用し、「WTP の信頼性に課題がある(「いい加減な回答」と判断できる)場合は、事業の実施にほとんど価値を感じていないと見なす」という方法が考えられる。

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145仮想的評価法(CVM)による便益計測における集計範囲設定の課題と展望

そこで、WTP の信頼性を確認するような質問を設け、その指標をもとに集計範囲を設定する方法が考えられる。信頼性を確認する方法としては以下のi) ~iv) に示すような方法がある。

i) ある距離帯の世帯(群)が、自らが享受する効用の程度に応じて WTP を適切に回答している場合は、世帯によって様々な WTP が回答されるが、「いい加減な回答」が多い距離帯では、回答が 100 円、500 円等の少額に集中しがちだという傾向がある。そこでWTP の変動係数(分散)が小さい場合は信頼性が低いと判断する。

ii) WTP 推定モデルを構築し、その説明変数として「世帯年収」「回答者性別」「支払賛成理由」等を採用する。事業内容等を勘案して適切な回答がなされている場合は「支払賛成理由」といった賛同理由が WTP の主な説明要因となるが、事業内容等が適切に勘案されていない場合、「世帯年収」や「性別」等の回答者属性のみが説明要因となるという傾向が認められる。これは単に支払可能な額を回答している「いい加減な回答」と考えられるので、信頼性が低いと判断する。

iii) 信頼性を確認する質問、例えば「もし実際に支払うとしたらどのような費目を節約するか」、「WTP の回答は容易だったか」等を設け、その結果から信頼性の低さを判断する。

iv) 事業規模等の異なる複数の調査票を用意して WTP を把握し、事業規模等に WTP が反応していない(事業規模を変えても WTP が変わらない、等)場合は、信頼性が低いと判断する。

いずれの方法においても以下に示すような課題が挙げられる。

1) 信頼性の有無を判断する指標、およびそのしきい値の決め方が明確でない。2) WTP の信頼性が低いからといって受益者でないとは必ずしも言えない。

4.課題への対応 -事業実施後のデータの活用-

4.1 課題の整理

各方式共通の課題以外も含め、総括的な観点から前述の方式の課題を整理すると以下の通りとなる。

1) どのようなしきい値をもって範囲を決めたかという点に恣意性が残る。2) 集計範囲の妥当性について事後的なチェック等による裏付けがなく、説明責任を果

たすのが難しい。

このうち 2)の課題は、「事業実施前の情報のみで便益帰着範囲を説明すること」に起因しており、事業実施後、すなわち整備済みの事業から得られる情報を活用する、という視点が

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不十分であると指摘することができる。そこで、事業実施後のデータを活用して集計範囲を設定するアプローチについて検討してみる。

4.2 事業実施後のデータの活用の現状

まず、事業実施後のデータを活用することについての既存の考え方について概観する。古川[19]、古川ら[20]は、評価を「評価(evaluation)」、「測定(measurement)」、「分析(analysis)」

の 3 つのレジームに分類し、このうち「評価(evaluation)」を個別の行政活動について主に事後的に行うものとしており、これについては、事前の分析(評価)が事後に焦点を移したということであり、評価の結果を将来の意思決定に役立たせるという点は事前の評価と同じだと指摘している。

宮脇[21]は、事後評価と事前評価が連動し、より精度の高い企画・立案、事前評価をもたらす仕組みを構築することが重要であり、事前・事後いずれかだけを重視しても十分ではないことを指摘している。

長谷川ら[22]は、事後評価の意義として、「妥当性の審査」、「住民への広報」、「事業の改善、補助プロジェクトの検討」、「事前評価モデルの改良、精緻化」を挙げている。

次に制度的な観点から事業実施後のデータの活用の可能性について見てみる。我が国では、2002 年 4 月 1 日より政策評価法が施行され、各行政機関は、事前・事後に

おける政策の評価の客観的かつ厳格な実施を推進し、その結果の政策への適切な反映を図ること、また政策の評価に関する情報を公表し、効果的かつ効率的な行政の推進に資するとともに、政府の有するその諸活動について国民に説明する責務が全うされることとされた。

国土交通省においては、1998 年度から新規事業採択時評価、並びに再評価を実施してきたが、2003 年度からは事後評価を本格実施することとなり、同年 4 月 1 日に「国土交通省所管公共事業の事後評価実施要領」が策定された。この中で事後評価は、事業完了後の事業の効果、環境への影響等の確認を行い、必要に応じて適切な改善措置を検討するとともに、事後評価の結果を同種事業の計画・調査のあり方や事業評価手法の見直し等に反映することを企図する、としている。

以上のように、事後における評価の結果を事前の評価に生かす、というプロセスが重要であることは多くの研究者によって指摘されており、また、制度としても事後評価の結果をデータとして蓄積する枠組みはすでに整っていると言うことができる。

このように考えると、CVM における集計範囲についても、事後評価の結果を生かして適切な範囲を設定する、というアプローチが重要だと考えられる。

このようなアプローチを活用した集計範囲設定方法として、以下のような方式が考えられる。

5.事後評価結果を用いた集計範囲設定の考え方

5.1 事例活用方式事例活用方式とは、事後評価等によって既存の整備事例における便益帰着範囲を明らかに

し、それを蓄積することにより新規事業採択時、あるいは再評価時の事業の集計範囲を設定

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する方式である。この方式は、「過去の類似事例では、これぐらいの範囲の人々が事業の効果を認識し、ま

た満足している」ということを直接提示するものであり、説明のしやすさという観点からは有効な方式と考えられる。

現在は事例の蓄積が十分でなく、また、事例を蓄積する仕組み自体が評価プロセスに組み込まれているとは言えないため、実務者にとっては、この方式をとりたくてもできないのが実情である。したがって、事業内容や事業箇所等の各種属性と、便益帰着範囲との関係を分析、あるいは参照できる仕組みの整備、また事例の充実が望まれる。

その際、集計範囲自体の移転可能性(他事例の便益帰着範囲をいかに当該事例に適用させるか)については検討が必要と思われる。例えば、単なる距離的な範囲を移転するだけでなく、自然環境や社会環境の状況、行政界や類似施設との関係などにも配慮する必要があろう。

5.2 事業実施前後指標関連方式

事業実施前後指標関連方式とは、事後評価的に明らかになった便益帰着範囲と、事前のアンケート調査で得られる距離帯別の各種指標(利用率、認知率、WTP 等)との関係を把握し、その関係をもとに、事前のアンケート調査結果のみから集計範囲を設定する方式である。

例えば「過去の類似事例分析から、事前の利用率が 3 割程度ある地域であれば、事後的に事業の効果を認識し、一定の満足度を表明するということが分かっている。そこで、その範囲をアンケートにより把握し、集計範囲とした。」という形で集計範囲を説明する。

説明としては「5.1 事例活用方式」の方が理解されやすいと思われるが、類似事例の集積が十分でない段階においては有効な方法と考えられる。

6.結語

6.1 事業実施後のデータ活用体制の構築以上のように、事後評価結果を用いた集計範囲設定は、実務的な説明責任の観点からは有

効な方法であることが期待される。この方法を活用するためには、範囲設定に資する便益帰着範囲を明らかにするようなデータを収集し、それを事前の評価に生かすことができるような形で蓄積することが求められる。

しかしながら、現在実施されている事後評価については、評価の際にどのようなデータを取得すべきか、という点が必ずしも明らかではなく、そのようなデータを戦略的に蓄積するという体制も十分ではない。また、新規事業採択時や再評価時と比べて、評価にかけられる費用も十分に確保されないことが懸念される。

従って、今後ますます活用の機会が多くなると考えられる CVM による便益計測の適切性をより高めるためには、CVM の適用対象となるような事業の事後評価において、便益帰着範囲に係るデータを、一定のコストをかけてでも戦略的に収集するとともに、それをデータベースとして蓄積するという体制を構築し、それを事業評価者がいつでも参照でき、事前の評価に生かすことができるという仕組みを導入することが求められる。

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6.2 今後の検討課題本稿では、CVM の集計範囲設定にあたって、事後評価において便益帰着範囲を明らかに

するデータを収集・蓄積する仕組みを導入することが、事前段階(新規事業採択時評価、再評価)の適切な範囲設定のために重要であることを指摘した。

それではどのようなデータを収集すれば便益帰着範囲が明らかになるのか、という課題が生じる。方法はいろいろ考えられるが、ここでは以下の 3 つを例示した。今後、これらについてさらに検討を深めていきたい。

(1)受益者であるかどうかを直接尋ねる方法非市場財の非利用価値(自然環境の存在価値等)を向上させる事業については、前述の通

り、受益者は原則的に不特定の範囲に拡大する。しかしながら、これを根拠に常に全国世帯を受益者とする、といった取り扱いは、実務的には適切と言えないであろう。何らかの方法で「効果を認識している」「事業の実施により満足感が向上している」世帯を限定することが望ましい。その際、どのような指標、またしきい値を用いて受益者を特定するか、一定の定義付けを行うことが求められる。

一つの方法として、WTP が表明選好データである以上、範囲設定も表明選好データに寄らざるを得ないと考え、受益者であるかどうかを事後的なアンケートにより把握する方法が考えられる。この場合、どのような質問をするか、また、どのようなしきい値を設定するかという課題について検討する必要がある。

(2)顕示選好データを活用する方法可能な限り表明選好データではなく顕示選好データを用いるべき、との考え方に立てば、

事業対象箇所訪問者の実態調査を行い、旅行費用法のように訪問にかかる一般化費用をもとに需要曲線を定式化し、そこから消費者余剰の変化をゼロとみなせる一般化費用の範囲を見いだす、といった方法が考えられる。この場合、非利用価値の集計範囲をこれによって設定できるか、吟味する必要がある。

(3)商圏の考え方の援用事後評価とは別のアイディアとして、人々がそれぞれの非市場財(例えば河川環境)に対

して、どの影響範囲に含まれるかを設定する、という方法が考えられる。各地域を商圏・都市圏に分割するいうイメージである。もちろん人々の効用は、様々な非市場財(商圏で言えば商業地)の影響を受けるが、最も大きな影響を受ける非市場財を特定し、その他からの影響は基本的に無視する、という考え方をするのである。類似する財が周辺にあれば集計範囲は小さく、逆であれば集計範囲は大きくなるので、実感に近い範囲設定が可能となる可能性がある。

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149仮想的評価法(CVM)による便益計測における集計範囲設定の課題と展望

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[3] 岩瀬広,林山泰久 : CVM による幹線交通網整備がもたらすリダンダンシーの経済的評価-支払形態バイアスの検討「土木計画学研究・論文集」No.15(1998).

[4] 森杉壽芳 :『社会資本整備の便益評価 一般均衡理論によるアプローチ』,勁草書房(1997).[5] 伊藤史子 :『利便性の評価』「住環境 評価方法と理論」,東京大学出版会(2001).[6] Kenneth Arrow, Robert Solow, Paul R. Portney, Edward E. Leamer, Roy Radner, Howard

Schuman:“Report of the NOAA Panel on Contingent Valuation”(1993).[7] Robert Cameron Mitchell, Richard T. Carson:“Using Surveys to Value Public Goods, The

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整備事業の新規採択時評価マニュアル案』(2002).[15] 河川に係る環境整備の経済評価研究会 :『河川に係る環境整備の経済評価の手引き(試案)[別

冊]』(2000).[16] 国土交通省港湾局:『港湾整備事業の費用対効果分析マニュアル』(2004).[17] 農林水産省農村振興局,水産庁,国土交通省河川局,港湾局:『海岸事業の費用便益分析指針(改

訂版)』(2004).[18] 財団法人リバーフロント整備センター:『綾瀬川における河川環境経済に関する検討調査』

(1999).[19] 古川俊一:公共部門における評価の理論・類型・制度、『公共政策研究』Vol.2(2001).[20] 古川俊一,北大路信郷:『新版 公共部門評価の理論と実際 政府から非営利組織まで』,日本加

除出版株式会社(2001).[21] 宮脇淳:『公共経営論 Public Management』,PHP 研究所(2003).[22] 長谷川俊英,石川良文:『公共事業の事後評価手法とその課題』「土木計画学研究・講演集」

Vol.25(2002).