仏教3 平成3年 ( 年)9月1日 仏教218 53号 第53号 仏教 平成3年( 218年)...

1 53平成302018年) 91西姿姿通信 発行所│有限会社 仏教企画 〒252-0113 神奈川県相模原市緑区谷ケ原2-9-5-5 Tel.042-703-8641 Fax.042-783-0989 発行人│有限会社 仏教企画代表 藤木隆宣 Email │[email protected] 発行日│ 平成30年9月1日 「老い」について 駒澤大学名誉教授 佐々木宏幹 5 3 1

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1  第53号平成30年 (2018年)9月1日 仏 教 企 画 通 信

はじめに

「老い」の話について国語辞

典を繰く

ると、「老いること。

年をとること。また老人。」

とあり、例文として「老いを

送る」(老後の生活をする。余生を

送る)と「老いを養う」(老体を

いたわって静養する。また老人を手

厚く扱う)を挙げている。

さらに「老い屈か

まる」(年を

とって腰がかがむ)、「老い頽く

る」

(年をとって衰弱する。おいぼれる)、

「老い声」(老い衰えた声。盛りを

すぎた声)、「老い心」(老人に特

有のこころ。おいごと)、「老い込

む」(すっかり年をとる。老衰)、

「老い先」(年をとった人のこれか

らの余生)、「老いさぶ」(年寄っ

て老衰の度が進む。おいこむ)、「老

いさらばえる」(年をとってよぼ

よぼになる。甚だしく老衰する)、

「老い舌」(老人の舌。歯が落ちて、

ものを言うときに見えがちになる

舌)、「老い痴し

る」(老いぼれる。

老いほうける)、「老い就づ

く」(老

人になる。年をとってくる。年より

じみる)、「老い耄ぼ

れる」(年老い

て頭や体のはたらきが鈍くなる)な

どがある。

ちなみに『ことわざ故事金

言小事典』には、「老い木は

曲がらぬ」(老木は弾力がなくな

って、曲げようとしてもなかなか曲

がらない。無理に曲げると折れる。

同様に老人になると弾力がなくなり、

はたの者がこれを変えようとしても

だめである。老人の頑固さにあいそ

をつかした諺

ことわざ

)、「老いては子

に従え」(年をとると体が弱り、考

え方も古くなる。まず子供の意見に

従うがよい)、「老いたる馬の道

しるべ」(老馬はよく道を知ってい

る。経験のある者は物事の方針を誤

らない)が出てくる。

右に列挙した「老い」とい

う語の意味を要約すると、

「人は〝老い〞により心身とも

に老衰するが、しかし老人の

経験知(智)は、若い世代にと

って貴重である」ということ

になろうか。

どんなに元気な人も年をと

れば「老いさらばえる」ので

ある。

仏教ではこうした事じ

象しょう

「無常」(万象ことごとく滅してと

どまることなく移り変ること)と

言う。

世間のすべてが無常である

のに、私たちは「常じ

ょう

住じゅう

」(生滅・

変化なく、永久に存在し続けるこ

と)を求め願う。ところが現

実は決してそうはいかないか

ら「苦」(思いどおりにならないこ

と)が生じると仏教は説く。

この世に生まれた者は必ず

年をとり、病をえて死にいた

る。「生老病死」である。

「若き日はや夢と過ぎ 

友ら

はみな世を去りて 

彼か

た方の佳

き地に眠り 

かすかに我を呼

ぶ 

オールド・ブラック・ジ

ョー 

我も行かん年老いたれ

ば 

かすかに我を呼ぶ 

オー

ルド・ブラック・ジョー」(「オ

ールド・ブラック・ジョー」)。「老

い」に東西はない。

高齢化社会

「偶感あれこれ⑧」で私は、

日本老年学会が平成二十九年

に発表した「高齢者の定義」

では、六十五歳から七十四歳

までを「準高齢者」、七十五

歳から八十九歳までを「高齢

者」、九十歳以上を「超高齢

者」と呼ぶことを記した。

この定義を目にして、高齢

者である私は、はたして「超

高齢者」までを生きられるか

どうかとの思いがふと脳裏を

走った。と同時にひょっと思

い浮かんだのが、ベラ・チャ

スラフスカさんのことであっ

た。この二月に韓国の平ピ

ョン

昌チャン

開催された冬季オリンピック

大会とも結びついていたのか

もしれない。

周知のようにチャスラフス

カさんは、旧チェコスロバキ

アの出身で一九六四年(昭和

三十九)の東京五輪の体操競

技で三つの金メダルに輝き、

「五輪の名花」、「東京の恋人」

などともて囃された人である。

今から五十四年前に、両手

を拡げ右脚をほぼ垂直に上げ

た彼女の姿が何とも恰好よく

て、今も私の眼底にある。そ

の彼女が「朝日新聞」に載っ

たのは二〇一六年(平成二十八)

七月二十四日(日)の日刊で

ある。記事の題は「二〇二〇

年五輪〝雲の上から大好きな

日本に手を振りますね〞」で

あった。もう二年も前になる。

そこには、東京五輪時の若

さ溢れる彼女と、七十四歳に

なって顔じゅう皺し

だらけにな

った現在の彼女の写真があっ

た。彼女は全身癌に冒され、

医師から死の覚悟をもてと宣

告されていた。

彼女が朝日の記者と逢った

のは二〇一六年の六月下旬で

あったが、同年八月三十日に

彼女はこの世を去った。

死の約二ヶ月前に撮られた

彼女の姿は、老いてはいたが、

まさか二ヵ月後に天国に逝く

とはとても思えなかった。彼

女が最後に来日したのは二〇

一一年の東日本大震災のとき

で、被災地を訪れて被災者た

ちを励まして帰ったという。

チャスラフスカさんのファン

の一人である私は、彼女があ

と四年存命して、杖を突いて

でもよいから大好きなこの国

に来て欲しかったと思うこと

頻しき

りであった。

「杖を突く」で思い出すのは、

昭和十二〜三年頃に歌われた、

「九く

段だん

の母」(石い

松まつ

秋しゅう

二じ

作詞・能の

代しろ

八はち

郎ろう

作曲)という歌である。

「上野駅から九段まで 

勝手

知らないじれったさ 

杖を頼

りに一日がかり 

伜せがれ

来たぞ

や会いに来た」。日中戦争で

戦死した息子が

二十代から三十

代であるとして、

その母はおそら

く四十代から六

十代であったろ

うか。とすれば

先に述べた「準

高齢者」に当た

るように思う。

当時六十五歳

になった男女は、結婚が早か

ったこともあり、総じて「お

爺ちゃん」であり「お婆ちゃ

ん」であった。

人によって異なるが、今日

五十代、六十代の男女を爺ち

ゃん婆ちゃん扱いしたら、多

分腹を立てられること必ひ

定じょう

であろう。

七十歳、八十歳になっても

企業の第一線でリーダーとし

て活躍している人は少なくな

い。彼らは長い間の経験と知

識または知恵によって、若い

世代では果たせない役割を担

っており、貴重な存在とされ

ている。

しかし「高齢化社会」には

問題もある。

すべての高齢者が第一線で

働ける訳ではない。どんなに

元気な人でも「老・病・死」を

免まぬが

れることはできないから

である。

仏教ではこれを「無常」と

呼んでいることは、すでに触

れた。

前号でも引用したが、作家

の五木寛之氏は「老い」につ

いて大た

要よう

以下のように述べて

いる。

「人間はある一定の年齢を超

えると、生理的にも肉体的に

仏教

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発行日│平成30年9月1日

「老い」について

駒澤大学名誉教授

佐々木宏幹

号53

1

3 2 第53号平成30年 (2018年)9月1日 平成30年 (2018年) 9月1日第53号仏 教 企 画 通 信 仏 教 企 画 通 信

苫小牧駒澤大学

生かされなかった

苫駒大存続の思い

藤木 苫小牧駒澤大学が経営

困難を理由に、学校法人京都

育英館に無償で移管譲渡され

ることになりました。平成三

十年四月一日をもってという

ことですので、このお話が掲

載されるときには既に譲渡は

済んでいるわけです。どうし

てこんなことになったか、今

日はこの問題について、反対

の立場からずっと関わってこ

られた皆さまに、その経緯に

ついてお聞きしようと、北海

道へうかがった次第です。な

んとも残念なことになりまし

たね。

A氏 私らが一番やっぱり残

念でなりません。苫小牧駒澤

大学の創立については私たち

で地鎮式、上棟式をやって、

準備を全部させていただいた、

導師は大学本部の理事長が務

めましたけれども。でも、あ

れだけ立派なものが建ち上が

ったわけで、今でも、やり方

一つによってはいくらでも生

き延びられたと言う人がいる

んですよ。

藤木 やり方によっては継続

できたと、そういう検討が生

かされなかったわけですね。

A氏 本当にね。何年か前の

学長が将来、大学をつぶすと

いう、そういう気持ちですべ

て対応していた。彼が着任し

たときには私たちも食事会を

開いて、これから大学のため

に私らも一生懸命やると、そ

ういうコミュニケーションを

取ったわけです。学校へも何

回も行って、こういうふうに

したほうがいいんじゃないで

すかと提言しても、いやいや、

こういうふうにやる、こうい

うふうにやるって、私らの言

うことは全部はねつける。職

員方がこういうふうにやりた

いと議案を上げると、そうい

うことはしないと、切ってい

った。

藤木 その学長が、ですか。

B氏 そうです。苫小牧駒澤

大学の学長に選任されて、東

京から来たK学長です。苫小

牧駒澤大学を曹洞宗から引き

離そうという考えの息がかか

っているのではないかと思う

のです。初めからつぶすつも

りでいたのではないかと。苫

小牧の大学も要らないし、高

校も要らない、それから岩見

沢も、三つとも要らないと言

った。岩見沢はやっぱり生徒

が集まらなくて廃校になって

しまいましたが、苫小牧の高

校だけは今七百人ぐらいの生

徒がいて、何とか頑張ってい

るところです。

藤木 廃校にしようと仕組ま

れていたというのは。

B氏 十二、三年前になりま

すか、当時の駒大の学長が同

窓会で札幌へ来たんです。懇

親会後の二次会の席で、その

時期は何とか駒澤も立ち上が

ったときなのでいろいろと話

していたら、飲んだ勢いで、

もう駒澤の北海道は全部要ら

ないんだとペロッと口を滑ら

せた。今考えると、既に苫小

牧駒澤大学を、曹洞宗や駒澤

大学本校から離そうと考えて

いたのではないか。

藤木 十二、三年ぐらい前と

いうと、デリバティブで一五

四億円の大きな損失を出した

時ですかね。

A氏 ええ、その頃です。

藤木 そういうところが駒澤

を狙っている部分、あります

ね。本校だって危ない。

B氏 とにかく宗門から離れ

たいと。だから宗門関係の理

事、理事長は要らないという

ような言い方をしていました。

禅仏教の教えが

あって

駒澤大学がある

藤木 そうなると、完全な乗

っ取り計画ですよ。駒澤大学

といのは建学の理念も歴史も

あるわけで、それは曹洞宗が

きちっと守っていかなきゃい

けない。禅仏教という大変な

教えがしっかりあるのに、多

分それを出しきれていないん

でしょうね。だから、そうい

う計画を許してしまう。その

辺はもうちょっと、禅仏教の

地盤を強くしていかなきゃい

けないと思いますね。

C氏 そうです。理事長にな

った人は、その点を十分認識

して強い体制をつくって、曹

洞宗と引き離そうとする勢力

と対峙していかないと。とこ

ろが、今の理事長(前理事長)

は完全に副学長に牛耳られて。

藤木 その辺の事情ですが、

以前須川理事長がK副学長の

言いなりになっていると聞き

ました。K氏が来て、これも

駄目だ、あれも駄目だと、理

事長のようにやっていたと。

A氏 ええ、完全に言いなり

になってしまった。

藤木 それは理事長が何かK

も衰えていく。下肢の力が弱

り、転びやすくなる。嚥え

下げ

苦手になり、薬を飲んでも水

を飲んでも喉につまったり気

管に入ったりする。聴力・視

力・持続力・記憶力・集中力

なども半減してしまう。それ

を認めず、「気持ちの持ち方

次第で青春は続く」とか「前

向きに頑張ろう」などとスロ

ーガンを掲げるのは、戦時中

に竹槍でアメリカ軍と戦えと

訓練をさせられたのと変わり

ない」(『孤独のすすめ―人生後半

の生き方』中公新書、二〇一七)。

まったく同感である。

五木氏の見解をもう少し紹

介しよう。

「これから重要になってくる

のは、それぞれの死生観の確

立ではないか。「いかに生き

るべきか」に答えを出すのが

文学や思想ならば、「どのよ

うに逝くか」を突き詰められ

るのは、宗教の力かもしれな

い。「日本人は無宗教だ」と

よく言われる。宗教と聞くと

「ちょっとそれは」と敬遠す

る人は確かに多い。しかし、

死という人生の極限状態に際

して、もっとも深く追求して

きた分野が、宗教であること

は間違いなかろう。

ここでいうのは特定の宗教

グループのことではない。例

えば、いつも日常的に仏壇に

手を合わせ、「自分も、いつ

かご先祖さまと同じ世界に旅

立つのだ」と念じたひと昔前

の老人たちは、現代の私たち

よりも、死の恐怖からずっと

自由だったと説く人もいる」

(前掲書)。氏の言うとおりで

はあるまいか。

ちなみに五木氏の本書は二

〇一七年(平成二十九)七月の

発行であるが、二〇一八年二

月には三十万部突破のベスト

セラー第一位になっている

(「朝日新聞」二月十三日)。

ある意味でこのことは、今

日の「超(後期)高齢者」時代

の位い

そう

相を如実に示している

とも言えるのではなかろうか。

「老い」と私

まことに厚かましい話では

あるが、ここ何年間かに私が

経験している「老い」につい

て記し、若い世代の人びとの

参考に供き

ょう

したい。

私は今年満八十八歳、つま

り米寿を迎えたが、お蔭さま

でまあまあ元気に暮らしてい

る。「まあまあ」と述べたのは、

八十歳になった頃から身体の

あちこちが傷い

んできたからで

ある。

その頃、就寝中に胸む

苦ぐる

しく

なり、脈を取ったら「ドッキ

ン、ドキドキ、ドッキン、ド

キドキ」であった。不整脈と

呼ばれる症状である。「ああ

ついに来たか」と感じた。仰

向けの状態で深呼吸を繰り返

してみたが、一向に治まらな

い。救急車を呼ぼうかと思っ

たが、あの「ピーポー、ピー

ポー」という嫌な音で近くの

人びとに迷惑をかけるのを怖お

れた。朝になり静かに起きて

洗面所に行き、歯を磨きだし

たらあな不思議!、不整脈は

去っていたのである。朝食を

取っても変化なし。

食後に親しい友人である藤

木隆宣師に電話で症状を告げ

たら、同師はすぐ病院で診断

してもらうべだきと言って、

車で迎えにきて下さった。

一週間程度検査入院したが、

結果は「異状ナシ」。ではあ

の「ドキドキ」は何?。医師

曰く、「自律神経失調」では

ないかと。

そうそう、私は随分以前に

も体調を崩し、掛りつけのI

先生に診み

てもらったときも

「神経症」と診断されたこと

がある。

いま「老い」の後期に入っ

た私であるが、どうも幼少か

ら付き纏ま

って離れないのが

「神経症」らしい。幼稚園の

頃から夜眠れず、夜中に歩き

廻ってはお姉さん(女中さん)

を困らせ、祖父に怒鳴られる

ことが多かった。

この習性というか神経症的

な性格は今でも変わらない。

熟睡できないのである。

老人は就寝中に何度も手洗

いにいくというが、私は一回

で済む。しかしその後に熟睡

に至ることはまずない。仕方

ないので枕ま

くら

許もと

に置いてある

雑誌や小説、論文集などを目

にする。しかし中々とろとろ

としてこない。

朝方になってとろとろが来

て夢か現う

つつ

か分からない状態

で顕あ

らわ

れるのが過去の出来事

である。俳は

聖せい

芭ば

蕉しょう

は晩年に

「旅に病んで 

夢は枯か

野の

を駆

けめぐる」の名句を残したが、

私の場合は「夢は彼か

の地を駆

けめぐる」である。

三十代、四十代に、宗教(文

化)人類学を専攻して各地を

訪れた私は、遠い調査地のこ

とを切に想い出すのである。

「老いの夢・想」とでも言えよ

うか。パキスタンの北部辺境

地帯に位置するギルギットや

フンザでは、まるで桃と

源げん

郷きょう

入り込んだような経験をした。

ここはイスラム教国であるが、

人びとの信仰の根っこは、ダ

ヤールという宗教者を信し

奉ぽう

る民族宗教であった。

泊っていたのは普通の民家

のようなホテルであったが、

出遭あ

った人々はみな微笑を絶

やさず挨拶は合掌で「アッサ

ラーム」とコーランの一句を

口にした。たまたまある家族

の幼児が下痢になった。

日本人が来ている、きっと

良薬を持っているだろうと思

ったのか、夜半に「薬を」と

頼んできた。私は下痢止め剤

を手渡した。

翌日早朝、ホテルの庭がガ

ヤガヤと騒がしいので出てみ

ると、何と大勢の人々が大笊ざ

一杯にいろいろな果実を積ん

で持参したのである。「お蔭

で子供は回復した」と言う。

私は心から満足した。

ギルギットはエベレストに

次ぐ高峰ナンガ・パルパット

を仰ぐ高地にある。夏期でも

夜は肌寒くなるが、あの星空

の美しかったこと! 

日本で

は見たことのない星の数に感か

嘆たん

し、天に向かって大の字に

寝転んだまましばらく立ち上

がれなかった。アフガニスタ

ンではカブールの満月。そし

てマレーシアのクアラルンプ

ールの夕焼け。今も脳裏を離

れることがない。

ギルギットは数年前、紛争

に巻き込まれた。あの人なつ

っこい人たちは、どうなった

ろうか。無事を祈るのみであ

る。あ

れから四十余年、私は年

老いた。「星せ

霜そう

移り人は去り

〜」(旧制一高校歌)で、年々親し

い人たちも少なくなってきた。

私の父は三十七で、母は二

十六で仏界の人になった。私

が米寿になってもこうして原

稿を書かせて頂いているのは、

かかって早逝した両親の守護

によると感じている。

「命は光陰に移されて暫くも

停め難し、紅顔いずくへか去

りにし、尋ねんとするに蹤し

ょう

跡せき

なし、熟つ

らつら

観ずる所に往時の

再び逢うべからざる多し〜」

(『修証義』)。

苫 小 牧 駒 澤 大 学 はな ぜ 失 敗 し た か

北海道の三氏に聞く

聞き手 藤木隆宣

5 4 第53号平成30年 (2018年)9月1日 平成30年 (2018年) 9月1日第53号仏 教 企 画 通 信 仏 教 企 画 通 信

苫小牧駒澤大学

氏に委任されたとか。

B氏 K氏がそういう路線を

敷いたんです。私らに言わせ

れば、理事長はそれに丸々乗

ってしまった。大学でもそう

ですし、高校でもそうですが、

入学式や卒業式のときなど、

建学の歴史は梅檀林から始ま

ってと、宗門の学校だという

ことを必ず話すようにしてい

た。ところが、K氏方は宗門

から離れよう、離れようとし

ているわけです。

藤木 なるほど。やっぱり禅

仏教というのがあっての駒澤

大学なんですね。だからこれ

からも、禅仏教のある大学と

してアピールしていくべきだ。

そういう学校にすべきだと、

僕なんか思いますよ。

A氏 本当にそうです。それ

に今、駒大の仏教学部に宗門

関係の子供方が受験しても、

倍率が高くなっていてなかな

か入りきれない。そこに一般

の受験生が入ってきているわ

けですよ。それが苫小牧には

仏教専修科がありますから、

そこを出て、ご本山に行って

修行をするという、そういう

ことができるので宗門人にと

っては好都合の学校だった。

それは、宗務庁もある程度理

解していたはずです。松原前

人事部長も一生懸命頑張って

くれたけれども、最後はさっ

と抜かれるように、文科省へ

設置者変更の申請を出されて

しまったと、そう言っており

ましたが。

藤木 K氏はこちらに来られ

たんですか。

B氏 いや、あんまり来てな

かったです。彼は東京で理事

長を説き伏せて、そして息の

かかったK学長を寄こして、

やることなすこと全部バツバ

ツバツと。生徒集めにも非常

に苦労したわけですが、それ

でも私ら高校のほうで何とか

頑張らなきゃと、五、六十人、

毎年大学へ送ったんですよ。

そうすると学長側では、来て

当たり前だって言う、附属な

んだからと。私らはそうじゃ

ないんだって言うの。大学へ

進学してもらうためには、大

学の職員が高校に来て、連絡

を密にしなければ。

藤木 当然ですよね。

裏で進行していた

京都育英館への譲渡

B氏 何とかお願いしますと、

こうやる。それを私たち同窓

会で三年間やりました。一年

目、二年目は須川理事長も来

たんですよ。私らも高校の教

職員をまとめて一つにして、

何とか高校からもっともっと

生徒を採るために、教職員が

まず和んでもらいたいために、

駒澤大学の同窓会員を集めた

んです。胆い

振ぶり

・日高地区の同

窓会が主催して、会費は全部

同窓会持ちで集まってもらっ

た。百人ぐらいの同窓生が来

ました。

藤木 すごいですね。

A氏 そのときには理事長も

挨拶して、こうやって集まっ

てもらえるのは心強いと、高

校も大学も、教職員みんなこ

ぞって一つになって頑張ろう

と、そう言ったのが一年目で

す。ところが二年目から、何

かおかしい。そのときには、

どんどん譲渡話が進んでいた

んですね。そして、I氏とい

う職員がおりまして。

藤木 それはどっち側の人で

すか、理事長側。

A氏 そうです、向こう側で

す。その前に、K学長が退任

することになって、その後を

私ら地元の人間で、学長だと

か事務長だとか、そういう要

職もすべて地元の人間でスタ

ッフを組んで、人集めもし、

そして自分たちで、どういう

ふうにしたら生き残れるか、

考えながら進めていきたいと

本部にお願いしたら、じゃあ

地元に任せるということにな

った。地元の佐久間氏が学長

になったわけです。ところが、

大学の経営には年間に何億と

いう助成金が必要です。それ

を管理するために、理事長代

行という役職に就いたのがI

氏、今回の無償での移管譲渡

を進めた張本人です。

藤木 これは初めて伺いまし

た。

C氏 苫小牧に隣接する白老

町に北海道栄高校があります

が、今から三年前、ここの運

営を京都育英館が譲り受けた。

だから栄高校は京都育英館が

経営しているので、多分そこ

へI氏が連絡を取ったのでし

ょう。京都育英館の職員が駒

大へ訪ねて来ました。その後、

去年になりますが、父母会で、

どうして京都育英館が来たの

かと質問が出た。

藤木 それは当然ですよね。

C氏 そのときにI氏、何と

言ったと思いますか。たまた

まここを通りかかった京都育

英館の職員が、学校を見せて

くださいと言って入ってきた

のが縁だと。

藤木 そんな馬鹿な。

C氏 馬鹿な話です。私、オ

ブザーバーでその会に出席し

ていたんですけれども、彼の

その答えを聞いて、そんなこ

とあるかって思わず怒鳴って

しまった。あまりにも人を馬

鹿にした話です。必ず裏で連

絡して、そして三年前の十二

月に京都育英館の人が駒澤を

見に来たということでしょう。

私、頭の中で、やばいなと思っ

ていたら、年の明けた二月か

三月、いきなり私らは呼ばれ

て、理事長方も来ていました

が、こういうふうに京都育英

館に移管譲渡することに決ま

ったと、完全な事後報告です。

市と駒澤大学と

京都育英館、

三者の思惑

B氏 そのとき本校から来た

人の説明を受けたわけですが、

苫小牧市へは話を通してある

のかと聞くと、まだだと言い

ます。まず私らに説明した後、

市に話に行くと。ちょっと待

ってくれって私は言ったんで

す。あんた方ね、市から五十

億も出してもらっているんだ

から、私らに断る前に、まず

市のほうに行って、どうにも

ならんので廃校にしますと言

うのが筋じゃないですか。天

下の大学が何をやっているの

かと、私は言ったんですよ。

そうしたらしばらく黙ってい

ましたが、これからちゃんと

理解してもらうように話して

きますと言って、市のほうに

行くときには、京都育英館の

理事を連れて行った。

藤木 駒澤大学の理事会には、

そういう話を通していますか

ね。

B氏 それはどうでしょう。

藤木 そこはポイントだと思

いますので、ちょっと時系列

として調べてみる必要があり

ますね。それはともかく、そ

んなことがあったんですね。

B氏 これは市にしてみれば、

駒澤と契約して五十億の補助

金を出した。そういう学校で

すから、まず駒澤と話をつけ

て、それから第三者の京都育

英館なら京都育英館、あるい

はほかにも大学を募集すると

か、私、市として当然そうや

ってくれると思ったんですね。

そうしたらそれをしないで、

京都育英館ならそのまま四年

制大学をやってくれるだろう

と、すぐ乗ってしまった。そ

んな感じでしたね。

 

そのときには、いろんな資

料が東京方面から送られてき

ました。「中外」とか「仏教新

聞」とか、京都育英館の理事

の中には、中国共産党員が入

っているというような記事を

いろいろと送ってもらって、

それを市長のところに全部届

けたんですよ。市長さん、気

をつけてください、と。だか

ら市長ももう少し慎重になっ

てくれるかなと思ったら、四

年制大学が継続するというこ

とが、市としては一番の願い

ですから、どんどん話が三者

でも進んでいったというのが

実情です。

藤木 三者というのは、苫小

牧市と駒澤大学と京都育英館

ということですね。

B氏 そうです。

藤木 苫小牧市としてはドラ

イに、引き受け先が見つかっ

て、そこが四年制大学を運営

するならば、どこがやろうが

関係ないという感じですよね。

実際、私は今回の話を聞いて

びっくりしたのは、K学長の

ころから、あるいは十年以上

も前からですか、そもそも駒

澤を北海道からなくすという

プランがあったというお話、

それはちょっと衝撃ですね。

B氏 私らも正直言って驚き

ました。さっきちょっとお話

した札幌での同窓会の二次会

ですが、誰かが岩見沢に生徒

が集まらない、全校で二百人

いるかいないかで大変ですと

いう話をしたら、いや、岩見

沢ばかりではない、苫小牧も

借財が大きいんだ、大学なん

かでも生徒が集まらないから、

北海道の三つの学校はいつ無

くなってもいいんだと、当時

の駒澤大学学長がドーンと言

った。そりゃびっくりしまし

たよ。借財といっても、今の

高校の校舎については年間い

くらかでもちゃんと返してい

たんです、一生懸命。生徒も

七百人集まっているし、本当

に私らは問題ないと思ってい

たわけですよ。

東北福祉大学と

組むことも

できたはず

藤木 この話、もっと裏に何

かあってのそういう動きです

よね。そうとしか思えない。

A氏 初めから撤退ありきの

話で、それに乗ったのが須川

前理事長でしょう。本来、理

事長としてはその動きを知っ

た時点で宗門関係に、内局に

ぶつけるべきだったんです。

宗門が動けばまた違った展開

になったかもしれない。こん

なことにはならなかったと思

うんですね。

藤木 大学の運営というのは

市からの補助金もあり、多額

の資金計画の中で進んでいく

わけで、しかも短期で終わら

せるものではないですね。借

財が問題ということであれば、

初めのお話にあったように、

やり方を変えれば、また真剣

に考えれば、何とかできたは

ずじゃないですか。それをや

らずに、手放すことだけを考

えていた。その間、何もしな

いから借財は増えますよ。そ

ういうときに、京都育英館が

白老の栄学園を買収した。渡

りに船といいますか、われわ

れの餌場に魚が来たぞという

感じじゃなかったですかね。

 

京都育英館の戦略は一貫し

て、すごく分かりやすいもの

です。彼らは日本人の学生を

集めるつもりは最初からない。

全部中国で仕込んで、留学生

を受け入れるという。

C氏 今のところはまだ在校

生もいますから、中国人留学

生の数は少ない。今年あたり、

九人ですか。

藤木 実はわれわれここへ伺

う前に大学へ行って、普通に

OBですというような感じで

話を聞いて来たんですね。そ

うすると、募集が十一月まで

一切できなかったそうです。

やり始めたのが年明けになっ

て、今年は致し方ないと。で

も、来年度以降に関しては、

確実に募集がかけられると言

っておりました。いずれにし

ても、今回の問題は本校の学

長、理事長、理事会を含めて、

そもそも駒澤を北海道に残す

つもりがなかったというとこ

ろが出発点ですね。

A氏 そこからですよ、ええ。

残す気持ちはさらさらなかっ

たですね。本当に残すつもり

があれば、関連校があるんで

す。東北福祉大学が。

藤木 そうなんですよ。

B氏 東北福祉大学の関係者

からも、また大谷学長からも

電話が入りました。いや、新

聞で見てびっくりしたよって

言う。ところが、それより一

週間か十日ぐらい前に、私ら

苫小牧で同窓会をやりました。

その時点で、佐久間学長は本

校から来た連中に、廃校にす

るから理解してくれと、引導

を渡されていたわけですね。

 

本当に、苫小牧駒澤大学が

東北福祉大学と組んで、いろ

んな学部をね。市では介護学

校をやっておりまして、医師

会による運営ですけど。だか

ら、それをうまく苫小牧の駒

澤に持って来たいなという気

持ちはあったわけです。

藤木 ああ、なるほど。いい

ですね。

B氏 ええ。医師会が独自で

やっている介護学校です。そ

れを、駒澤を使って、卒業に

持っていくようにしたかった。

無償譲渡も

仏教書だけは返還

藤木 介護師とか看護師、こ

れは今引く手あまたですから、

そういう学生を育てるという

のは悪くない話ですよ。

C氏 今の国際文化学部とい

うのは早い話、魅力がないん

ですよ。やっぱり手に何か付

くような、そういう学部学科

であれば、もっともっと学生

が来たと思う。これは前身の

苫小牧短期大学があったわけ

で、女子短大の食物栄養科と

英文科でしたが、やっぱり定

員満席だった。生徒が集まっ

て、集まって、しょうがなか

ったという。そういうのも考

え合わせて、いくらでもでき

たんでないかなという。

藤木 できたでしょうね。だ

けれど、それ以前に廃校とい

う道筋がどこかで作られてい

たという。理事というのは一

人や二人じゃありませんから、

宗務庁から派遣した理事もい

るじゃないですか。何をぼけ

っとしていたのかと、僕なん

か思いますよ。

A氏 報告だけ聞いて、質問

もしないで、ああそうか、そ

うかと単純にやっていたんで

しょう。

藤木 それでは理事さんの役

目を果たしませんよね。そう

考えると、北海道にいらっし

7 6 第53号平成30年 (2018年)9月1日 平成30年 (2018年) 9月1日第53号仏 教 企 画 通 信 仏 教 企 画 通 信

大学構内に停められていた“Hokkaido SAKAE High School”のロゴが入った大型バス(平成30年3月14日撮影)

曹洞宗教化研修所、

第一期研修生のころ

藤木 曹洞禅グラフ秋号では、

駒大の四誓寮で山田霊林禅師

との出会いがあったお話をい

ただきました。

佐々木 そうですね。山田禅

師は私に、「佐々木君、あま

りばたばたする必要ないよ」

と仰ってくださいました。曹

洞宗宗学研究所は既にできて

おりましたが、今度、教化研

修所というものができるから、

「君、英語をやっておったん

だから、海外布教師の卵みた

いなものとして、そこに入っ

て三年間勉強しなさい。そう

すればアメリカに行けるよ。」

と言うわけです。

 

それで教化研修所の海外コ

ースに入ってみたら、ちょう

ど駒澤大学に禅を学びに来た、

バンミーター・エイムズとい

うアメリカ人がおられまして

ね、この方はオハイオ州シン

シナティの出身です。当時は

アメリカに禅仏教というもの

が広まっておったころで、エ

イムズ先生も禅を、その本拠

地である駒澤大学で学ぼうと、

そういうことで日本に来られ

た。まだ戦後間もないとき、

研修所といっても設備もなに

もろくなものがなかったけれ

ども、エイムズ先生のお住ま

いは今の宗務庁に近いところ

の立派なマンションでしたね。

 

私は何とか英語が少ししゃ

べれたものですから、通訳み

たいなことをしておって、山

田禅師とエイムズ先生をつな

ぐ役目をしたり、ペラペラな

英語じゃないんですよ。あち

こち行ったり来たりした英語

だったけれど、何とか通じた

ようです。エイムズ先生が、

邦訳だと『禅と日本文化』と

なりますか、『Zゼ

ン(

en

aアンド(と)

nd

Jジ

apanese 

Cカ

ulture』という本を

出したときに、「佐々木とい

う若者に大変お世話になっ

た」という意味のことを序文

に書いてくれた。それは大変

うれしかったですね。

 

そのエイムズ先生にダマリ

ス・エイムズという一人娘が

おって、きれいなお嬢さんで

したが、それが上智大学に入

られたところまでは分かって

いても、どうもその後結婚な

さったのかどうか。私が一人

前になってから探してみても

分からない。あの恩人のお嬢

さんですから、もっとチェッ

クしておけばよかったと今で

も思っています。どこかで調

べれば分かるかもしれません

けれども、まだ日本におられ

るのかどうか。でも、もう七

十は過ぎたはずです。まあ、

そんな想いがありましてね。

 

それで海外コースが終わり、

布教師として渡米の準備がで

きたところで、山田禅師はア

メリカ合衆国の布教総監にな

られた。向こうへ行って落ち

着いたら呼んであげるからと

仰っていました。ところが教

化研修所のほうが一期生、二

期生、三期生とだんだん増え

てきました。何十人になった

から、そこで世話役が必要だ

となる。佐々木君、あんたや

ってくれないかと。

藤木 先生は一期生ですか。

佐々木 そうです。同期生は

みんな年上ばかり、私が一番

下でした。二十四、五にはな

っていましたがね。服部松斉、

峯岸応哉といった、のちに曹

洞宗でも有名になる人が同期

におられたわけです。

文化人類学と出会い、

大学で教えることに

佐々木 アメリカに行かれた

山田禅師ですが、向こうで誰

かお弟子さんができたせいか、

もうこっちへ来いとは言わな

い。私に手紙をよこされて、

文化人類学を学んで、その中

でとくに宗教をやりなさいと。

文化人類学というのはアメリ

カで戦後盛んになった学問で、

日本に輸入されたばかりの本

当に新しい学問でした。私の

ほうでも、布教教化するとい

ったって、外国を知らないと

いけません。外国というもの

を知るための学問というのは、

宗学や仏教学じゃ駄目なので、

どんな学問があるだろうかと

摸索しておったところで、ち

ょうど文化人類学というもの

に行き着いたところでした。

 

当時、大学院で文化人類学

専攻があったのは東京大学と

都立大学(現在の首都大学東京)

の二つだけでした。今はあち

こち広まって、東北大学にも

ありますけれどね。都立大と

いうのは駒澤から歩いて行っ

て、ちょうど目黒の駅から上

がったところにあったんです。

今、八王子に大校舎が建って

いますね。東京都が持ってい

る唯一の大学だから、当時か

らとても待遇はよかった。た

だ、大学院で文化人類学をや

るには英語、ドイツ語、フラ

ンス語三カ国語のうち、二つ

ができないと入れないという

の。

 

私は英文科を出ているから、

英語は何とか読めたり書けた

りしておったんですね。それ

で都立大へ行って、人類学な

るものの試験を受けました。

何か、ルース・ベネディクト

が日本の文化について書いた

ものを訳や

せという問題が出た

ので、それは私に訳せたわけ

ですよ。入ってみると、ほと

んどが国立大学を出た連中で、

駒澤からは私一人です。その

後も駒澤から、都立大の人類

学に入った人はいませんから。

だから幸せというか、僥ぎ

ょう

倖こう

はあったんですよ。

 

それで、三年かけて修士論

文を書き、博士課程に入って

また三、四年おってという。

そのときについた先生が、ま

た宗教学では有名な古ふ

野の

清きよ

人と

という人です。学士院賞を受

賞して学士院会員の先生が、

九州大学から都立大に移って

来られた。ちょうど私がドク

ターコース(大学院博士課程)に

なったとき古野教授に師事して、ま

た可か

愛わい

がってくれましてね。

九く

品ほん

仏ぶつ

(東京都世田谷区・浄じ

ょう

真しん

寺じ

の通称であり、駅名・周辺地域名)

にお宅があって、「佐々木君、

今日、九州の美う

味ま

いものが入

ったから食べにいらっしゃ

い」というようなことをしょ

っちゅう言われた。息子さん

が一人おられましたが、今ど

こかの大学の先生をしている

はずです。

 

ドクターコースを出たとき

に、古野先生は「君、駒澤で

学部の英語の非常勤講師なん

かしてないで、人類学をやっ

たんだから、人類学を教えな

さい」と言われる。駒澤に人

類学の科目はありませんと答

えると、「じゃ僕が学長に頼

んであげるよ」と。それで、

古野先生が駒澤へ話し合いに

来られたときの学長が山田霊

林先生だった。山田先生のほ

うから、「佐々木君が大変お

世話になりまして、ありがと

うございます。分かりました、

文化人類学という科目を作り

ましょう」と約束してくださ

ったわけです。

 

今、駒澤では人類学という

学科はないけれども、科目と

してずっと残っていますね。

仏教学部でも文化人類学を勉

強できるようになっている。

そんな話がありまして、それ

から人類学というのは日本だ

けの研究では駄目ですから、

インド、ネパール、東南アジ

アにはよく出かけました。イ

ンドの調査では仏跡を参拝す

ることができて、霊り

ょう

鷲じゅ

山せん

にも

二度行っております。そこに

石の座席みたいなものがあっ

て、お釈迦さまが腰をかけて

お説法をなさったという。あ

あ、ここで釈尊が説法なさっ

たのかと、涙が出るような思

いをしたこともありますね。

ゃる皆さんもそうだし、市も

ある意味、裏切られたという

感じでしょうね。

C氏 そうです。だから市の

ほうも、私らはもう少し駒澤

を押してくれるかという期待

もあったんですが、京都育英

館が四年制大学できちっと生

徒集めをするという契約書を

出したら、やっぱりそっちの

ほうへ乗ったわけです。駒澤

高校出身の市議会議員も私ら

と連絡を密にして、市議会で

も随分突っ込んでくれたけれ

ども、とにかく四年制大学は

継続すると、新たに京都育英

館がやっていくということに

なると、そっちのほうに安定

性がある。別に市としても異

存はないと、それですんなり

通ってしまった。

藤木 そうなると、今のお話

をずっと聞いておりますと、

駒澤大学の理事会の情けなさ

が浮き彫りになりますね。駒

澤大学の中の、そういう一部

の動きをつぶして、やっぱり

本来あるべき姿の駒澤という

部分を出せなかったわけです

ね。

A氏 本当にそうです。出せ

なかった。

藤木 それぐらいにK氏あた

りの勢力のほうが強くなって

いた。

B氏 今回の問題を考えると、

実は何人も絡んでないと思う

んです。K氏と前理事長と、

それからI氏、この三人です、

極端に言いますとね。逆に考

えれば、そう多数の人間が絡

んでいたらこの話はこわれた

かもしれない。あれだけの土

地、建物を一切合切無償譲渡

ですから。

藤木 あり得ない話ですよ。

C氏 建物の中の備品から何

から、ただ仏教書だけは返還

になるという話を聞きました。

藤木 彼らにとって必要ない

ですから。

京都育英館には

いいことずくめの

譲渡話

藤木 京都育英館は日本に留

学生を送り込む仕組みを持っ

ていて、実績があるんですね。

その上、今の大学の仕組みか

ら言うと、留学生の受け入れ

に対し、文科省から補助金が

出ます。授業料の半分以上を

日本の税金で賄える。という

ことは育英館にしてみたら、

中国の学生を日本のお金で学

問させるわけですから、こん

ないいことないじゃないです

か。

 

さらに言うと、今度、東京

二十三区における大学の受験

者数の制限をする、要するに、

東京にはこれ以上増やさず、

地方大学への間口を広げるこ

とにお金を使おうということ

です。だから世田谷区の駒澤

大学には補助金が来ないけれ

ども、苫小牧に駒澤があれば、

こっちにはお金が来たはずで

す。本当にタイミングが悪い

ときの譲渡話で、育英館にし

てみれば、いろんな追い風を

受けている、いいことずくめ

ですよね。学校法人はすとん

とただで手に入るし、中国の

学生を送り込めるし、国の補

助金も入るという。

B氏 早い話が、今はちょっ

とした運営資金さえ用意でき

れば、あとの学校経営はなん

とかできるんですよ。

藤木 北海道での学校運営に

関しても、彼らは栄でやって

いるから実証済みです。

C氏 北海道栄もいずれ一、

二年後に大学の中に持ってく

ると思うんですよ。今の栄高

校の生徒を駒澤大学の建物へ

持って来て、北海道栄高校と

する。じゃあ白老の高校はど

うするか。地元はそれをしな

いでくれと言うけれども、校

舎の耐震をきちっとして、全

部寮にして中国人みんな連れ

て来て、そこに住まわせる。

ですから、地元には活気が出

ると、そんなふうに説明して

いる。そして、そこから通わ

せると。

藤木 三月十四日に苫小牧駒

澤大学に行きました時に、北

海道栄高校と書かれた大きな

五十人乗りのバスが、駒澤の

キャンパスの入口に止まって

いました。

B氏 もうありましたか。

藤木 ええ、私も見てびっく

りした。

A氏 今年の三月三十一日ま

ではまだ駒澤大学のものです

けれども、もう少し細かく言

うと、今の一年生が今年、二

年生になります。四月一日か

ら、この二年生が卒業するま

では、名称は苫小牧駒澤大学、

ただし経営権は京都育英館と

いうことです。ところが、職

員が同窓会の事務局をやって

いるので、この間ちょっと寄

って彼と話したら、すでに栄

の校長が理事なんですね。で、

今その人が全部仕切っている

という。今年になってから、

学校の週一回の会議に必ず出

てくるそうです。おかしいん

でないか、三月三十一日まで

は栄のものじゃない、そう言

ったんですが。京都育英館の

人が入るいわれはないと思う。

藤木 それを許すというか、

会議に出る理由というのは何

でしょうかね。

A氏 分からないです、私も。

そして教職員に、辞めたい人、

残りたい人と、全部希望をと

っている。ほとんどが残るよ

うですが、二人かそこらは東

京のほうの大学に引き取られ

るという。あと、駒澤一辺倒

できたから私は辞めますとい

う人も、また定年に近い人が

ばたんと辞めてしまったと、

そういう話も聞いています。

藤木 おっしゃるように、四

月一日からということであれ

ば分かりますけど、それ以前

に仕切るということはね。

A氏 大事な会議に必ず顔を

出しているという、そのこと

自体解せません。

何としても

苫小牧高校は

守りたい

B氏 今度、駒澤大学の学長

が変わりましたね。

藤木 そうです。長谷部学長

になりました。

B氏 長谷部学長はこの問題

に批判的だと聞いております

が。

藤木 でしょうね。善なる人

ですね、理性がある。

B氏 それで学長の意向がだ

いぶ強く出て、窓際族に追い

やられていた人間も学長のそ

ばに戻りだしたとか。

藤木 それは健全でいいと思

いますね。

A氏 やっぱり宗門あっての

駒澤大学だという、そういう

認識をもった人がきちっとそ

ばに付きだしたというような

話も聞いています。

藤木 僕は長谷部学長という

人はよく知りませんけれども、

ご存知の佐々木宏幹先生のお

弟子さんになるようです。

A氏 佐々木宏幹先生の。

藤木 そうです。学長になっ

たばかりで忙しいだろうから

と、佐々木先生は遠慮なさっ

て長谷部学長に会ってないよ

うですが、もう先生、遠慮な

さらずに、先生の思っている

駒澤像なり、長谷部先生とお

話しなさった方がいいですよ

と、僕はそう申し上げている

んですけど。

A氏 そうですか。学長もよ

くなって理事長も変わって、

だいぶ対応もよくなりました。

私らにすれば遅いですけどね。

まだ苫小牧高校があるわけで、

これを守っていかなきゃなら

ないという思いは強く持って

いるんです。

駒澤大学で

文化人類学の講義が

できるまで

聞き手

▲ 藤木隆宣

8平成30年 (2018年) 9月1日第53号 仏 教 企 画 通 信

週刊ポスト 7月30日発売号より

苫小牧駒澤大学が京都育英

館に移管して5か月になる。

今号ではその経緯を取材した

ので掲載した。十二年位前か

ら動きがあったと言うから驚

きだ。この間大学の理事、監

事の方々は気が付かなかった

のだろうか。須川さんが八年

間理事長に在職していた間に

移管の手続きが内々に進行し

たようだ。聞くところによる

と須川さんは今でもいいこと

をやったと思っておられるよ

うだ。確かに苫小牧駒澤大学

への補助金が無くなったが。

しかし、大学運営の改善策が

ことごとく否定されたとも聞

く。須川さんはこの事はご存

じでしたか。移管先が東北福

祉大学ならわかるが京都育英

館では納得がいかない。誰も

が裏では大きなものが動いて

いると考えても不思議ではな

い。デリバティブで百五十四

億円の大赤字を出したのは京

都育英館に移管手続きを画策

する側には好都合になった。

このような大きな代償を払っ

た駒澤大学経営陣はこの経験

をどのように生かすのかだが、

残念ながら何も変わっていな

い。ガバナンスの強化が一向

になされていないからである。

ガバナンス問題は駒大だけで

はないが。W

edge August

2018号にオハイオ州の

州立大学の理事をされている

藤田浩之氏がアメリカの大学

経営の中身を紹介されている。

オハイオ州立大学は学生、教

員、スタッフを合わせると十

一万人のマンモス校で、理事

は十九人。その構成は様々で、

例えば、人材開発、褒賞委員

会、ガバナンス委員会などで

ある。宗門は愛知学院大学、

東北福祉大学を傘下に持つが、

多々良学園、苫小牧駒澤大学

を手放した今、例えば藤田浩

之氏を招いて勉強すべきだ。

でないと十年後にはまた大き

な危機が来ること必至だ。相

手も動いている。そして受験

生も大学の本質を見極めてく

るからだ。

『修証義』 解説 丸山劫外著 1,400円 ★

『うたい継ごうよ、子守唄』 長田暁二・西舘好子共著 1,200円 ★

『まんが問答一期一話』 文 平和宏昭 まんが 垣内敬遠 1,200円 ★

『道元禅より見たる般若心経解説』 長井龍遺著 2,200円

『葬送のしおり』 長井龍遺著 30円

修証義読本 『生老病死』 須田道輝著 500円 ★

『曹洞宗檀信徒経典』 須田道輝解説 300円 ★

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発行日

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所在地 寺院名(個人名) 金額福島県 普光寺 10,000

合 計 10,000

所在地 寺院名(個人名) 金額北海道 皓聖寺 10,000

神奈川県 青木義次(57) 7,000兵庫県 観瀧山 岡本寺 10,000東京都 砂金智佐 (93) 3,000静岡県 大雲院 5,000

神奈川県 青木義次(58) 7,000兵庫県 永澤寺 渡邊義弘 20,000東京都 砂金智佐 (94) 3,000

神奈川県 青木義次(59) 7,000神奈川県 翁長陽子 10,000栃木県 満福寺 10,000東京都 砂金智佐 (95) 3,000

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