日本ヘーゲル学会 第20回研究大会プログラムhegel.jp/programs/program_20th.pdf2...

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1 日本ヘーゲル学会 第20回研究大会プログラム 2014 12 20 日(土)・ 21 日(日) 静岡大学(グランシップ) 1 会場: 904 会議室(大) 2 会場: 909 会議室(小) 理事会会場: 909 会議室(土曜 12 00 14 00 会員控室: 909 会議室(土曜 14 00 ~/日曜) 懇親会会場:グランシップ内レストラン「オアシス」 開催校責任者連絡先 静岡大学 山﨑 422-8529 静岡県静岡市駿河区大谷 36 静岡大学人文社会科学部 松田純 研究室 TEL FAX 054-238-4490 E-mail: [email protected]

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日本ヘーゲル学会

第20回研究大会プログラム

2014 年 12 月 20 日(土)・21 日(日)

静岡大学(グランシップ)

第 1 会場: 904 会議室(大)

第 2 会場: 909 会議室(小)

理事会会場: 909 会議室(土曜 12: 00~ 14: 00)

会員控室: 909 会議室(土曜 14: 00~/日曜)

懇親会会場:グランシップ内レストラン「オアシス」

開催校責任者連絡先

静岡大学 山﨑 純

〒 422-8529 静岡県静岡市駿河区大谷 36 静岡大学人文社会科学部

松田純 研究室

TEL& FAX 054-238-4490

E-mail : [email protected]. jp

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【第1日】2014年12月20日(土)

■理事会: 12 時 00 分~ 13 時 30 分

会 場: 909 会議室

■緊急報告「ヘーゲル自筆本の発見について」: 14 時~ 14 時 15 分

会 場: 904 会議室

報告者:寄川条路(明治学院大学)

■シンポジウム: 14 時 15 分~ 17 時 15 分

会 場: 904 会議室

ヘーゲルと新プラトン主義

報告1:伊藤 功(横浜国立大学)「ヘーゲルと一者論」

報告2:山口義久(大阪府立大学)「プロティノス発出論の Dialektik」

報告3:加藤尚武(人間総合科学大学)「同一性の変貌と発展」

司会者:山口誠一(法政大学)

■臨時総会: 17 時 15 分~ 17 時 45 分

会 場: 904 会議室

■懇親会: 18 時 00 分~ 20 時 00 分

会 場:グランシップ内レストラン「オアシス」

会 費:一般 5,000 円、院生 3,000 円

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【第2日】2014年12月21日(日)

■個人研究発表: 10 時 30 分~ 13 時 30 分

会 場: 904 会議室

発表1: 10 時 30 分~ 11 時 15 分

中島 新(一橋大学)「自然哲学における「化学論」の意義――ヘーゲルとシェ

リングの比較を通じて」

司会者:岩佐 茂(一橋大学)

発表2: 11 時 15 分~ 12 時 00 分

真田美沙(一橋大学)「量における質の回復について――ヘーゲル『大論理学』

における定量の「無限性」を中心に」

司会者:竹島尚仁(岡山大学)

(休 憩: 12 時 00 分~ 13 時 00 分)

発表3: 13 時 00 分~ 13 時 45 分

後藤正英(佐賀大学)「ヤコービの哲学小説における相互承認論」

司会者:入江幸男(大阪大学)

■合評会: 14 時 00 分~ 16 時 00 分

会 場: 904 会議室

石崎嘉彦『政治哲学と対話の弁証法――ヘーゲルとレオ・シュトラウス』

(晃洋書房、 2013 年)

質問者:飯島昇蔵(早稲田大学)、杉田孝夫(お茶の水女子大学)、高田純(札幌

大学)

司会者:山内廣隆(広島大学)

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【展示と緊急報告】

日本で発見されたヘーゲルの自筆本について

寄川条路(明治学院大学)

ヘーゲルの自筆書き込み本が都内の古書店で発見されました。発見されたのは、

『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』( 1801 年の初版本)です。本の見返し

(遊び)には、『エアランゲン文芸新聞』( 1802 年)に掲載された同作への書評が

書き写されていて、筆跡鑑定の結果、ヘーゲルの自筆本と確認されました。ヘーゲ

ル研究の第一級資料です。

本の見返し(きき紙)には「今泉博士寄贈」とあり、元陸軍獣医学校校長の今泉

六郎がドイツ留学中にベルリンの古書店で入手し、帰国後に神奈川県立小田原中学

校(現・小田原高校)に寄贈したものであることがわかりました。また、本のとび

らには小田原中学校の前身「神奈川県立第二中学校」の印が押されていて、「廃棄

分」と手書きされて処分されていたこともわかりました。

今 回 の 緊 急 報 告 で は 、 自 筆 本 の 実 物 を 展 示 し て 、 転 写 し た テ キ ス ト と

そ の 翻 訳 も お 配 り し て 、 ヘ ー ゲ ル が 自 著 に 書 評 と コ メ ン ト を 書 き 込 ん だ

よ う す を お 話 し し ま す 。

なお、ヘーゲルの自筆本は来年 1 月にドイツのヘーゲル文庫に寄贈することにな

りましたので、今回の展示が自筆本を見ることのできる最後の機会になります。ヘ

ーゲル文庫の地下室にある金庫で永遠の眠りにつくまえに、ヘーゲルの自筆本を手

にとって自分の目で見てください。写真撮影も可能です。

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ヘーゲルと一者論

伊藤 功(横浜国立大学)

ヘーゲルは総じて新プラトン主義を高く評価するが、プロティノスによりもプロクロ

スにより多くの完成度を見る。二人の違いは体系的な思考がどれだけ徹底されているか

という点にある。ヘーゲルによるとプロティノスは一者が「還帰」するものと考えた点

ですぐれてはいるが、その「発出」の捉え方に難がある。彼は一者について具体的な規

定を与えることがなく、そのために一者から多への展開を「流出」という画像的な表象

に頼って語らなければならなかった、というのである。一者がそれ自身の必然性に従っ

て多を自分自身から展開する、そうした「哲学的ないし弁証法的」な説明ができていな

いこと、それがプロティノスの否定的一者論にヘーゲルが比較的低い評価しか与えない

理由である。

いかにして無限なものから有限なものが出てくるのか。こうした発出論の難問はヘー

ゲル自身の抱えるものでもあった。『大論理学』では次のように言われている。「哲学

の本質はしばしば〔……〕次の問題に答えることにあるとされてきた。すなわち、いか..

にして無限なものはそれ自身から出て有限性へとやって来るのか.............................

?――これを概念的...

に理解可能.....

( begreifl ich)にすることはできないと人は考える。〔しかし〕無限なもの

〔……〕はこの〔論理学の〕叙述が進行するなかでさらに...

規定され、自身に即して形式

のあらゆる多様性を尽くして提示されるだろう。それは、もしそう言いたければだが、

無限なものが有限性へとやって来る..........

ということである」( GW 21, 139 f.)。

無限なものからの有限なものの発出をプロティノスは概念的に理解可能なものにし

ていないが、プロクロスは違う。そう考えるからヘーゲルはプロクロスを高く評価す

る。では、この評価は何を志向してのものなのだろうか。何を視線の先に置いているか

らこのように評価されるのか。このことを考えるためにはそもそもなぜ新プラトン主義

が評価されるのか、そしてプロクロスについては何が不十分であると指摘されるのかと

いったことをも考えあわせる必要がある。

哲学史講義でヘーゲルは新プラトン主義が「イデア的な知性界」を築き上げたことを

もってギリシア哲学の完成と見る。そして新プラトン主義において自己意識が思惟をつ

うじて自らが絶対的なものであることを知る見地に達したとする。しかしその反面で

Subjektiviä t の欠如が新プラトン主義の欠点であるとして、これを哲学史のステージが

ギリシア哲学からゲルマン哲学へと進まなければならない理由とする。

このような新プラトン主義理解とその位置づけからは何が見えてくるだろうか。最も

単純なものから叙述が始まり、次第に複雑さを増しつつすべてを経巡ったあとで、再び

最も単純なものへと還っていく。しかも俎上にのせられるものはたんに羅列されるので

はなく先のものから後のものが順次導出され、叙述がひとつながりの全体を成す。ヘー

ゲルの著作や講義に見られるこうした構想に新プラトン主義に通じるものを指摘する

ことは容易い。はたして新プラトン主義とヘーゲル哲学との間にはどのような関係があ

るのだろうか。『論理の学』の「論理」などヘーゲル哲学の主要な論点のいくつかにつ

いてこのことを検討してみたい。

6

プロティノス発出論の Dialektik

山口義久(大阪府立大学)

周知のように、ドイツ語の Dialektik は、ギリシア語の διαλεκτική(問答法)を語源

としている。ヘーゲルが自分の考えを Dialektik という言葉で表現した背景には、

διαλεκτική とのつながりあるいは共通性の認識があったのではないかと考えられる。

まず最初に、古代ギリシアにおける διαλεκτική 概念の内容を確認し、そこに含まれ

る意義について考察する。アリストテレスによれば問答法はエレア派のゼノンから始ま

るとされるが、アリストテレスは(プラトン経由で)知ったソクラテスの問答のやり方

を、ゼノンに近いものと考えたのだと推測できる。プラトンは、師のやり方を念頭に置

いて、問答法( διαλεκτική)を哲学の方法として提唱した。プロティノスの διαλεκτική

理解も、プラトンの考えを継承している。

問答あるいは対話をもっと一般的に見た場合でも、対話の効用は明確に認められる。

対話が創造的な意義をもつ場合には、異なった視点との出会いが重要となる。一人で考

える場合にも、一つの視点に固着していては、考えを先に進めることはできない。複数

の視点をもつことによって、はじめて対象を立体的に捉えることができ、その対象を分

析することが可能になる。プラトンが思考とは自己自身との対話であると言うときに、

その背後にあるのは、そのような事情であろう。

ヘーゲルの弁証法がディアレクティケーを語源としていることも、その事情と関係し

ていると思われる。An sich と für sich から、an und für sich へ移行するということは、

対話が意義をもつ場合の進行と同型であるからである。

しかし、そのことは必ずしもプラトンやプロティノスの考える διαλεκτική がヘーゲ

ルの弁証法と直結していることを意味しない。ヘーゲルがプラトン的な意味での(哲学

の方法としての)問答法について語っているのかどうかにかかわらず、少なくとも、そ

の問答法と弁証法が同じでないことは誰の目にも明らかである。

ここでは、ヘーゲルの語る弁証法的な展開に対して、プロティノスの発出論の説明が

持ちうる親近性について考察する。そのような親近性をヘーゲルは、プロクロスとの間

には感じていたが、プロティノスに対しては感じていなかったようである。それはなぜ

かをプロティノスの側から考えてみる。プロクロスの説明の仕方は、ヘーゲルの評価を

得ているので、プロティノスとプロクロスを比較することによって、同様の考え方がプ

ロティノスにもあったかどうかを考察することができると思われる。

プロティノスの発出の説明を簡単に説明すると、まず上位の原理が留まったままで、

そこから溢れ出るものがある。そのものが上位の原理に向き直ることによって、上位の

原理から限定を受け、下位の原理が成立するというものである。これとプロクロスの発

出の説明との違いに目を向け、ヘーゲルとの関係について考える。

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同一性の変貌と発展

加藤尚武(人間総合科学大学)

二十世紀末の「徳倫理学」は、カトリシズムを離れて純粋に『二コマコス倫理学』の

読解に明け暮れる人生を楽しむ人々の登場を告げている。もともとヘレニズム(プラト

ン、アリストテレス)とヘブライズムの統合は無理だった。無からの創造、霊魂不滅、

肉の復活、最後の審判、三位一体は、ギリシャの自然哲学と存在論に照らせば不合理そ

のものである。この無理すじとの付き合いで人生を終えたくはない、のだろう。

新プラトン主義はその無理すじの大潮流で、アヴィケンナ(イブン=シーナー 980-

1037)、アヴェロイス(イブン=ルシュド 1126-1198)の巧妙な工夫は、結局は影響力

を失って、ヘレニズム抜きの荒っぽい原理主義を現代イスラム世界に残している。

キリスト教文化も結局はヘレニズム抜きの原理主義に帰り着くのだろうか。キルケゴ

ール、ブルトマン、バルト、終末論は、いずれも原始キリスト教への回帰であるとすれ

ば、ここにもヘレニズムとヘブライズムの統合の流れは途絶えている。その統合の伝統

の存在をよりどころにして、キリスト教とイスラム教の和解を未来に望むことは、でき

ないだろう。世界の平和は、世界全体の世俗化によってしか達成できないのではない

か。

プラトン自身に「イデア論批判」の後期があって、アリストテレスの「イデア論批判」

は、それを引き継いでいる。この「イデア論批判」を乗り越えるような哲学・新プラト

ン主義をつくるならば、そこにヘレニズムとヘブライズムの結合の別の可能性が開けて

くる。後期プラトン、アリストテレス、新プラトン主義の混合思想の影響は、啓蒙主義

の時代にまでつづき、へーゲルと同時代の文献学によって、テキストの確定が行われる

ようになっていったが、ヘーゲル自身は文献学の完成の結果を知っていたわけではな

い。

たとえばシェリングの『ティマイオス論』( 1794)には、「ティマイオスがプラトン

の著作ではない」という説への言及がある。文献学がまだ確定していなかった。ヘーゲ

ル固有の思想が確立されるのが『自然法論文』であるとすると、ここには『ティマイオ

ス』の影響が見られる。当時の自然哲学には『ティマイオス』の影響が、さまざまな形

で残っていたのでヘーゲルがそれを受けいれていた可能性は大きい。『体系断片』には、

特定はできないが、ルネサンス以来の新プラトン主義の影響が見られるので、ゆるやか

な意味でのヘーゲル哲学の母体を『ティマイオス』と新プラトン主義の間に見ておくこ

とができる。

ヘーゲルがプロティノスをいつ読んだか。すでにゆるやかな形では新プラトン主義の

影響を受け入れていたのだが、『精神現象学』の執筆の途中でプロティノスを読んで、

「実体主体説」としてその内容を表現したという可能性を考えてみたいと思う。

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自然哲学における「化学論」の意義

――ヘーゲルとシェリングの比較を通じて――

中島 新(一橋大学)

本発表の目的は、 1800 年前後にドイツで大きく展開した「自然哲学」の潮流におい

て、「化学 Chemie」がどのような評価・位置づけを受けていたかを、主にヘーゲルの

『大論理学』における「化学論」の考察を通じて明らかにすることである。

当時の化学分野はラヴォアジェに代表されるように大きな変動期を迎えており、ドイ

ツの哲学思想分野にも影響を与えている。例えばシェリングは、自我哲学期を経て、自

らの独自思想の展開を試みた際に、「自然哲学」という形で理論形成を行い、その構想

のなかに化学の原理を問うことも含めている。観察・実験という経験的手段によってし

か検証ができない「化学」は、一度はカントによって「厳密な科学ではない」との評価

を下された。しかし実験技術の向上や新理論の提唱といった急速な発展を受けて、シェ

リングやヘーゲルの時代には、化学を「学」として新しく位置づける機会が訪れていた

ことは間違いない。そうした時代の要請を受けて、シェリングがその自然哲学期の著作

において化学を取り上げたことは不思議ではないし、その問題意識はヘーゲルもまた持

っていたと考えられる。

しかし、時代の要請から化学の再考が試みられたこと以上に、シェリングやヘーゲル

が自身の哲学体系の構想においてそうした問題を引き受けている点に注目する必要が

ある。たんに時代の要請に答えるためだけではなく、当時の化学理論の中に、彼らの思

想展開において積極的にとりいれるべき「哲学」上の何らかのモデルを見出したのだと

考えられる。

以上の観点から本発表では、シェリングの化学論を概観したうえで、その影響を踏ま

え、ヘーゲルが自身の思想展開において化学をどのように位置づけていたのかを、『大

論理学』での化学論を中心に検討する。『大論理学』では存在論、本質論、概念論のそ

れぞれに化学分野を扱った箇所が見受けられるが、とりわけ「概念論」の第二篇「客観

性」において、化学論は独立した章として「機械論」と「目的論」の間に位置づけられ

ている。しかし機械論と目的論は自然把握の方法としては対立するものだとされるの

で、『大論理学』が一貫したプロセスの展開を叙述するものであるならば、化学論はそ

の対立する両論の「橋渡しの役割」を担っていると考えられる。本発表ではこの「橋渡

しの役割」としての化学論に着目し、機械論や目的論との関係を含め、ここでの化学論

がどのような議論を展開しているのかを確認する。そのうえで、ヘーゲルが化学として

理解していたものがどのような内実を持つものであるか、そしていかなる点で化学にそ

うした橋渡しの役割を見ていたのかを明らかにする。

9

量における質の回復について

――ヘーゲル『大論理学』における「定量の無限性」を中心に――

真田美沙(一橋大学)

ヘーゲルはその体系のうちに数学を位置付けなかった。だが私たちは初期のシュトゥ

ットガルト時代に書かれた「大きさの表象に関する若干の覚書」のうちに大きさや量に

ついての哲学的な思索を、そして『大論理学』第二版存在論の改訂箇所のなかには、註

釈 2・註釈 3 の長大な追加を見ることができる。ヘーゲルは、数学の領野と接する大き

さ(量)の問題について生涯にわたって取り組んでいたと考えられる。

『大論理学』量論において量は、限界に対して無関心なものとして規定される。そし

て「量」の段階においては、定量がどれだけ増減を行ってもそれによって質の変化は起

こらないのだが、度量論に推移すると量の増減にともなって質の変化が起こる。このよ

うに量と度量の両者は、増減に伴う質の変化の有無という点で区別される。しかし「量」

から「度量」への推移が行われるためには、幾つかの契機が経られなければならない。

このことを明らかにするためには、量論における「定量の無限性」の箇所を中心に見る

必要がある。そこで本発表では、この量における質の回復が具体的にどのようなものと

して考えられているのかを「定量の無限性」を中心に考察する。

量論の「定量の無限性」の前段階においては、量の無関心性ゆえに「量的な無限累進」

が生じる。そこでは、定量は自らの限界を越えていき無限を目指すのだが、無限がすぐ

に定量にすぎないとみなされることで、さらにその先へ進むことを促される。このよう

な過程は「悪無限」と呼ばれるのだが、これは質論におけるのと同様に「否定の否定」

としての「真無限」あるいは「定量の概念の回復」、「質の回復」の契機を経ることに

よって「量的比例」へと推移する。そしてこの推移の段階にあたるのが、「定量の無限

性」という節であり、そこにおいて真無限に到達した後には「量的比例」が展開される。

「定量の無限性」と「量的比例」とは、量に質を回復させるという意味では、量から度

量への推移を行う上での重要な役割を果たしていると考えられる。

「定量の無限性」には長大な三つの註釈が付されているが、そのなかでヘーゲルは高

等解析学における無限(変量関数の無限)を「真無限」とみなす。そしてこうした「真

無限」による質の契機の回復は、冪比例や度量論における絶対的無差別についての基盤

を用意しているのだが、このことはシェリング哲学における問題連関からも捉え返され

る必要がある。

そこで本発表では、ヘーゲル『大論理学』「定量の無限性」における質の回復の問題

が、同時代的な議論としてどのような意義をもつのかということを明らかにしたい。

10

ヤコービの哲学小説における相互承認論

後藤正英(佐賀大学)

本発表では、ヤコービの哲学小説『ヴォルデマ-ル』の中で展開される友情論をヤコ

ービの相互承認論の原型として解釈したうえで、その独自性について、ヘーゲルとの対

比の中で考えてみたい。

最初に、この哲学小説を取り上げるにあたって、ヤコービの特異な哲学的表現方法に

ついて考えておく必要がある。ヤコービは、文学と哲学の分断を自明なものとする発想

をもっていなかった。彼は、二つの哲学小説の書き手であり、その理論的著作では中心

的な発想をしばしばメタフォリカルな仕方で表現した(死の跳躍、毛糸編みの靴下な

ど)。さらに、ヤコービの著作の大半は論争的な作品として書かれているが、それは彼

の哲学が本質的に対話的性格をもっていたことに起因する。ヤコービが書簡体や対話形

式の哲学小説を執筆したことや、その著作に対して繰り返し改定を加えることになった

ことも、彼が対話の哲学者であったことと関係している。

さて、ヤコービの哲学小説(特にその初版)は、『スピノザ書簡』に先立って執筆さ

れた作品であるが、この小説には 80 年代以降の理論的著作において開花した発想がす

でに内在している。『ヴォルデマール』は、主人公のヴォルデマールが、女性の友人ヘ

ンリエッテとの間に発生した不信の危機を乗り越えて、それぞれに個別性をもった人格

としての友人関係を構築する過程を描き出している。この物語の主要なテーマの一つ

は、ヘンリエッテという他者をヴォルデマールがどのように受け取り直したのかという

点にあり、ここにはヤコービ流の「相互承認論」の原型を見出すことができる。

ヘーゲルは、テュービンゲン時代に、1770 年代に出版された『ヴォルデマール』の最

初の版を読んでおり、1796 年に登場した最後の改訂版も、おそらくは『精神現象学』を

執筆する前に目にしていた。過去の研究において指摘されてきたように、『ヴォルデマ

ール』の中で描かれる問題群(良心、行為、和解など)は『精神現象学』の筋立ての中

に吸収されている。ヘーゲルはヴォルデマールを典型とするような主観性に固執する

「美しい魂」の持ち主を批判するわけだが、ヤコービ自身も「美しい魂」については両

義的な評価を下している。ヘーゲルは一貫してヤコービ哲学の主観主義には批判的であ

ったわけだが、ヘーゲルとヤコービは、カントと疾風怒濤以後の人倫のあり方を模索し

ている点で共通する問題意識を抱えているところがある。本発表では、 1817 年の「ヤ

コービ批評」まで続くヘーゲルのヤコービ評価の変遷についても視野におさめながら、

『ヴォルデマール』でのヤコービの相互承認論の独自性を浮かび上がらせてみたい。

11

【合評会】石崎嘉彦『政治哲学と対話の弁証法――ヘーゲルとレオ・シュトラウス』

ヘ ー ゲ ルの 弁 証法 を 「 近代的 」 と いう と き、 そ れ には「 古 典 的」 弁 証法 が 対 置され て い る。 そ れに ま たそ

れ が「近代 的」であ るといわ れると き、それ には「科学」や「歴史」と いっ た 観念 が関わ り合う ととも に、そ

れ に 対 する 反 動と し て生 じた 新 た な哲 学 的思 考 がそ こか ら 派 生し た われ ら が時 代を 代 表 する 哲 学と い う意 味

が 含意さ れてい る。まさにそ のゆえ に、 20 世紀 の「全体 主義 」や「孤独 な群衆 」の 世界の 出現さ え、そこに

起 因する とさえ いわれ たりも するの である 。それ ゆえに 今、そ の現代 的意味 が再考 される 必要が 生じて きた。

拙 著 は 、古 典 的弁 証 法に 注目 し た 政治 哲 学者 レ オ・ シュ ト ラ ウス に 触発 さ れ、 それ を 再 考し よ うと す る試 み

で ある。

弁 証 法 の再 考 は、 冷 戦 終結と と も に一 層 その 必 要 性が増 し た と言 っ てよ い 。 という の も 冷戦 と は、 欲 求の

自 由 な 追求 に よる 幸 福の 実現 か そ の人 為 的調 整 と制 御に よ る 幸福 の 実現 か をめ ぐっ て 闘 わさ れ たイ デ オロ ギ

ー 闘 争 に他 な らな か った が、 そ れ の終 結 後の 世 界に 出現 し た のは 、 冷戦 の 当事 者た ち に 共有 さ れて い たテ ク

ノ ロジー とそれ に対向 して出 現して きた新 たな極 が作り 出す、 新たな 対立で あった からで ある。

「 和 解 性」 と 「同 一 性 」原理 に 支 えら れ た啓 蒙 と 近代弁 証 法 の立 場 から す れ ば、冷 戦 の 終結 と とも に 到来

す る は ずで あ った の は、 対立 が 解 消さ れ た明 澄 で 平 安な ポ ス ト歴 史 の世 界 であ った は ず であ る 。と こ ろが 実

際 に わ れわ れ が目 に した 世界 は 、 ただ 単 調に 推 移す るだ け の 虚無 的 世界 と それ に対 向 し て闇 の 世界 が 立っ て

い る よ うな 、 新た な 二項 対立 の 世 界で し かな か った 。そ れ は ヘー ゲ ル的 弁 証法 の破 産 を 物語 っ てい る ので は

な い か 。拙 著 は、 新 たな 弁証 法 的 対立 の 出現 と とも に見 え て くる ヘ ーゲ ル の公 教的 な 弁 証法 的 思考 の 限界 を

超 える道 を、シ ュトラ ウスの 秘教主 義的思 考を手 がかり に探り 出そう とした もので もある 。

ヘ ーゲル の弁証 法的思 考は、シュト ラウス の言う「 近代 性の第 一の波 」とも 呼びう る「現 実主義 的 」「 実証

主 義 的 」科 学 や社 会 理論 への 批 判 とし て 提出 さ れた もの で あ った 。 しか し その 批判 は 、 それ が 超え よ うと し

た も の と同 一 の地 平 から の批 判 で しか な かっ た 。そ して そ の こと の なか に 、ヘ ーゲ ル 的 弁証 法 の近 代 性批 判

の 限 界 があ っ たの で はな いか 。 こ のこ と をシ ュ トラ ウス 的 に 言い 換 えれ ば 、ヘ ーゲ ル は 霊と 無 知を 超 え絶 対

自 由の恐 怖から 解き放 たれた と考え たとき 甲冑 (armor (Rüstung), PAW,18)を 脱いで しまっ た、つ まり政 治的

な も の が解 消 され た と考 えた の で はな い かと い うこ とで あ る 。拙 著 の議 論 が依 拠す る シ ュト ラ ウス 的 政治 哲

学 の対話 的弁証 法は、 この甲 冑を弁 えた弁 証法で あると いうこ とがで きよう 。

シ ュ ト ラウ ス がそ れ と の対決 を 通 じポ ス ト歴 史 の 虚無的 世 界 の革 命 を考 え て みなけ れ ば なら な くな っ たコ

ジ ェ ー ヴの 普 遍同 質 国家 は、 闘 争 と労 働 の限 定 的否 定に よ っ て否 定 し尽 く され た後 に 実 現さ れ るべ き 世界 で

あ っ た が、 そ れは 哲 学的 には 知 恵 の探 求 が知 恵 その もの に 達 した 世 界、 し たが って も は や知 恵 の探 求 を必 要

と し な い世 界 であ っ た。 この 知 恵 の探 求 つま り 哲学 が終 わ り を告 げ る世 界 が、 また ぞ ろ 無知 と 闇の 恐 怖の 世

界 で あ ると す れば 、 それ は依 然 と して 政 治的 な もの の再 生 さ れ る 世 界で あ る。 その 世 界 も、 ヘ ーゲ ル ‐コ ジ

ェ ー ヴ がそ れ を身 に つけ る必 要 を 感じ な かっ た 甲冑 を必 要 と する 世 界な の であ る。 拙 書 は、 ヘ ーゲ ル ‐コ ジ

ェ ー ヴ のこ の よう な 近代 の目 的 の 国に 対 する シ ュト ラウ ス の 批判 が 示唆 す る、 それ を 取 り戻 す こと に よっ て

得 られる、ポスト モダ ン的ロ ゴス発 見の試 みであ る。そ れはま た、「 調和」や「和 解」や「 平和」の 概念によ

っ て 理 解さ れ る共 同 性で はな く 、 非和 解 的対 立 を孕 みな が ら その 中 に統 一 を作 り出 す 共 同性 議 論の 基 礎と な

る 、政治 哲学的 思考を 提示す ること でもあ ると言 えよう 。

こ のよう な論点 は 、 1948 年以 降に公 表され たシュ トラウ スのク セノフ ォン読 解と、そ れへの コジェ ーヴの

注 釈 等 を通 し た論 争 の中 で、 コ ジ ェー ヴ 批判 と いう 形で シ ュ トラ ウ スに よ って 表明 さ れ てい た 。拙 著 は、 こ

の シュト ラウス による ヘーゲ ル‐コ ジェー ヴ批判 の論点 を明ら かにす るとと もに、 それを 踏まえ て、「闘争 」

と 「 労 働」 に よる 自 然の 「手 な づ け」 に よっ て なさ れる 共 同 性実 現 とい う 近代 のプ ロ ジ ェク ト の限 界 を確 認

す る こ とを 第 一の 課 題と する 。 そ して 、 シュ ト ラウ スの 古 典 的政 治 哲学 研 究の 鍵と な っ た「 著 述技 法 」の 何

で あ る かを 明 らか に し、 それ に よ る「 思 想史 」 研究 から 得 ら れる 時 間的 制 約を 超え た 対 話的 弁 証法 の 輪郭 を

描 き 出 すこ と が第 二 の課 題と し た 。そ し てそ の よう な弁 証 法 的対 話 によ る 合理 性概 念 と 、そ れ に基 づ く「 異

種 混合の 知」、あるい は「コ ンスキ エンテ ィア」の 知を、ポスト モダン の世界 に必 要とさ れる知 として 確認す

る ことを 第三の 課題と した。

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■大会会場

静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」

〒 422-8005 静岡県静岡市駿河区池田 79‐ 4

Tel . 054-203-5710

http : / /www.granship.or . jp /

■懇親会場: 2014 年 12 月 20 日(土) 18 時 00 分~ 20 時 00 分

会場:グランシップ内レストラン「オアシス」

会費:一般 5,000 円、院生 3,000 円

■会場へのアクセス

東海道新幹線(ひかり)東京から 1 時間/大阪から 2 時間、静岡駅下車

東海道本線 上り方面に乗換、東静岡駅まで約 3 分

東静岡駅南口からメインエントランスまで徒歩約 3 分

http:/ /www.granship.or.jp/parking/index.html#p003

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